傍若無人
「ういー、あいすぅー」
「ダメよ、お姉ちゃん。さっき食べたでしょ。
まだ14時なのに、もう三本目じゃない。お腹壊しちゃうよ?」
姉を溺愛している憂であるが、常に姉の要求に従うわけではない。
それもそのはず、唯は所謂知的障害者であり自制などできない。
常に要求に従っていれば、唯の健康はあっという間に害されてしまう。
「うー、ゆい、お腹壊さないぃ」
「そんな事言って、昨日お腹下しちゃったでしょ?」
「だいじょぶー、あいすあいすー」
なおも要求を繰り返す唯に対し、憂はきっぱりと拒絶の意を伝える。
「だーめ。後はお風呂上りです」
それだけ言うと、憂は洗濯物を取り込みに向かう。
その後ろを
「あいすー、あいすー、あいすー」
と呟きながら唯は付いていく。
だが憂は無視して洗濯物を取り込む。
「うー、うー」
不満そうな唸り声を上げるが、それでも憂は無視を続けている。
「ういーばかー、けちんぼー」
罵声を浴びせても、返事は無い。
唯はついに痺れを切らして、憂の元を離れた。
憂が冷凍庫にアイスを仕舞っている事を、唯は知っていた。
尤も彼女なりの認識に従えば、
『憂が何処にアイスを隠しているか覚えている』
という事になろう。
唯はキッチンに入ると、冷凍庫の扉を開けた。
ひんやりとした冷気が頬を冷やし、心地好い気分に浸りながらアイスを探す。
その際に食材が床に落ちたが、お構い無しである。
「だー!」
お目当ての物を見つけた唯は、喜びの叫びを発する。
その時、後ろから尖った声が唯の耳に届いた。
「何がだー!なの?お姉ちゃん」
振り向くと、憂が不機嫌そうな面持ちで睨んでいる。
唯が突然自分の元を離れたので、訝って後を追ったのだろう。
「うー、うー」
唸り声で憂を威嚇するが、そんな事で怯む彼女では無い。
あっさりとアイスを取り上げられてしまった。
「もう、ダメなの。お風呂上りにあげるから、今は我慢して?ね?」
「いーまー!今食べるのー!」
憂の口から、意図せずして溜息が漏れた。
経験上、ここでアイスを与えても唯はまた後でアイスをねだる。
唯相手の約束など然したる効力が無いことなど、分かりきっていた。
「だめっ」
両手を胸の前で交差させ、やや強めの語調で告げた。
「もーいーもん!」
唯はそう叫ぶと、不機嫌そうな唸り声を上げながらキッチンを後にした。
憂の溜息が唯の耳に届くが、その溜息に込められた苦労を彼女が悟る事は無い。
唯は不機嫌そうな面持ちのまま、玄関を開けて外に出た。
親の管理下にあった頃は、一人で外出する事すら許されていなかった。
だが親が海外赴任をするようになり憂が唯の管理者となってからは、
同伴者を経ずして外出する事を許されていた。
尤も憂が積極的に解放したのではなく、
唯が駄々をこねて外に出たがるので仕方なく黙認しているといった状況だった。
親が海外への転勤を行った時期は、唯が高校に入学した時期と被る。
尤も唯に対しては親は旅行している、という事にしておいた。
仕事などと言い出すと、
「うー!ゆいも一緒に仕事するー!」
などと我侭を言って聞かないからだ。
事実父親の仕事場に着いて行きそうになった事すらある。
さて、外出した唯であるが、取立て目的があるわけでもない。
彼女は好奇心旺盛である為、
特に目的を設けずに外出しても退屈しない遊びを発見する事ができる。
「あう?」
この時も何かを発見したらしく、唯は興味津々な瞳を前方に向けた。
そこには幼稚園から小学校低学年といった風情の姉妹が二人、
アイスを舐めながら歩いてくる。
(うー、ゆいもアイス食べたいのー)
己の欲求に忠実な唯は、アイス目掛けて走り出した。
「だー、だー、あーいーすー!」
「え?」
「ちょっ?」
驚いたのは二人の姉妹である。
自分たち目掛けて走ってくる少女の姿を目に捉えると、
絶句して二人固まった。
「あいすちょーだい!」
恐怖で固まっている二人の前に立つと、
唯はアイスをねだった。
「いや、これ私達のだから……」
姉と思しき少女が躊躇いがちに拒絶の意を表するが、
唯は構わずに強請る。
「だめー!ずるいー!ゆいもたべるー!」
言うや否や右手を伸ばし、唯は姉の手からアイスを取り上げた。
「あっ」
抗議の声が姉の口から漏れるが、
唯は一向に気にせずに今度は妹のアイスにも左手を伸ばした。
「だ、ダメだよっ」
妹は抵抗するが、唯は
「うー!こらー!離すのー!ゆいが食べるー!」
と喚き散らしながらアイスを引っ張った。
妹が棒の部分を持っているので、唯が掴む場所はアイス本体となる。
手が汚れる上に、手が触れた部分を食べる羽目になってしまうのだが、
唯にはそれを気にするだけの繊細な心など持ち合わせていなかった。
一方、妹の方はそれを気にするだけのデリケートさは持ち合わせているらしい。
唯の手によってアイスが汚されると、諦めたように手を離した。
「えぐっ、お姉ちゃん。アイス取られちゃったよぉ……」
泣きじゃくる妹。
そんな哀れな姿は無視して、唯は満足そうに左手のアイスをしゃぶった。
「か、返してよ!」
泣きたいのは姉も同じであろうが、
妹の泣きさざめく姿に心打たれたのか、毅然とした態度で唯に迫った。
「でもお姉ちゃん……。その人の唾液で汚れちゃってるよ?」
「右手のアイスはまだ綺麗だよ。そっち取り返すね」
「うー!だめーっ!これゆいのー!」
咆哮で威嚇するが、姉は構わずに掴みかかっていった。
だが、いくら相手が知能に問題があるとはいっても、
高校三年生と10歳に満たない童女とでは体格の差は如何とも埋め難い。
「うー!じゃまーっ」
唯の渾身の体当たりを食らって、姉は地面に倒れた。
それでも涙を堪えて立ち上がり、唯に向かってくる。
唯は右の張り手を繰り出して応戦する。
見事にその張り手は姉の胸部を捉え、再び地面へと姉を張り倒した。
だが、唯の手に持ったアイスは地面に落ちてしまった。
アイスを持った手で張り手を繰り出したのだから、当然の結果とも言える。
地面に落ちたアイス。
それを見た三人の少女の反応はそれぞれ違った。
姉妹は結局アイスを諦めざるを得ない状況下に泣いていた。
一方の唯は、
「うーっ」
と慌てたように叫ぶと、素早い動作でアイスを拾った。
落としたアイスを拾われないか、そう危惧しての行動であろう。
衛生面に対する思慮など微塵も無い唯は、
何らの抵抗もなく二つのアイスを交互にしゃぶりながらその場を後にした。
後ろから姉妹の泣き声が響くが、唯は全く気にしなかった。
それよりも、アイスを二つ手に入れた喜びの方が大きいのだろう。
「だー、だー」
と上機嫌な声を上げながら、意気揚々と徘徊を続けた。
アイスが溶けて手を汚しても、勿論気にも留めなかった。
次に唯が訪れたのは公園である。
公園といっても、遊具は無いに等しい。
ベンチが幾つかと、砂場が一つある程度の公園だ。
その砂場には、幼稚園児に見える児童が数人遊んでいる。
今時珍しい風景である、などと呑気な事は言っていられない。
何故ならば、唯の好奇の目が彼等に注がれているのだから。
親も周囲には居ない為、唯の存在は危険極まり無いシチュエーションである。
「ゆいもあそぶー!」
咆哮にも似た宣言と共に、唯は砂場に向かって勢いよく走り出した。
困惑したのは砂場で遊んでいた男児達である。
自分達を目掛けて少女が突進してくるのだ、驚くのも無理はない。
そんな男児達の困惑など無視して、砂場に到着した唯は話しかけた。
「なかまにいれてー」
「え……いいけど……」
彼等は声に戸惑いを含めつつも、応諾の返事を寄越してきた。
「やたー!」
唯は大喜びで、砂の造形を作り出す。
だが上手くいかない。
隣で作る男児達の造形の方が、遥かに上手に見えた。
「あうー」
唯は落胆しつつも、再び別の砂を使って造形に精を出し始めた。
ちなみに彼女が作ろうとしているのは豚の顔である。
知能に障害を抱える者が芸術方面に才能を発揮する事、
所謂サヴァン症候群の存在が報告されてはいるものの、
この場合の彼女にとっては無縁である。
実際、鼻すら満足に似せる事ができなかった。
(どーぐつかってないからだもん)
その言い訳で自己を納得させると、近くにあったシャベルやヘラを手に取った。
「あ、それ僕の……」
「うー!うー!」
男児の抗議を唸り声で以って威嚇して制すると、
まるで自分の所有物のように使い始めた。
「貸さないわけじゃないけど……一言欲しいよ……」
その男児にしても、決して意地悪したかったわけでは無いのだろう。
単純に「貸して」という頼み文句を前置して欲しかっただけなのだろう。
だがそのような心理面に関する配慮を彼女に要求するのは、些か無理があった。
唯は道具を使って必死に豚の顔を作ろうと試みるが、上手くいかない。
彼女にとって自分の思い通りに事が運ばない事は、
常人のそれ以上に過大なストレスとなる。
「むふー、むふー」
鼻息を荒げて不機嫌を露わにするが、それでストレスを発散しきれるはずもない。
彼女は自己の情動を制御する能力にも欠落があるのだ。
「おねーちゃん、何作ってるの?」
堪りかねた男児の一人が、鼻息荒ぶる唯に声をかけた。
「豚さん!ぶーぶー!豚さんのお顔!」
「ああ、豚の顔ね。僕達も作ってみようか」
「いーね」
「うん」
唯に尋ねた男児の提案に、異口同音に賛同の意を示す他の男児達。
かくして砂場には、砂によって造形された豚の顔が並ぶ事となった。
唯にとって最初は上機嫌であったが、
豚の顔が完成していくにつれ不機嫌になっていった。
何故ならば、彼等の作る豚の顔は、唯が作ったそれよりも幾段も上手だったからだ。
少なくとも鼻に関しては、豚を想起させる造形になっていた。
先ほどまでのストレスに嫉みによるストレスが加わり、
あっさりと唯は暴発した。
「ふむー!ゆいよりうまい、ゆるさない!むー!」
怒号を上げると、男児達の作った造形を足で踏みつけ壊してしまった。
折角作ったものを壊され、男児達は堪らず泣き出したが、
唯は一向に気にする事無く破壊活動を続け、
遂には豚の顔以外の砂造形をすら全て瓦解させてしまった。
彼等の苦心は文字通りただの砂と化した。
「ぶー!」
唯は最後に一際大きな唸り声を上げると、
男児達の泣き声響く公園を後にした。
憂の下に苦情が届く事は稀だった。
唯の生活圏では、唯による被害が多数出てはいるものの、
憂が未だ高校生であり唯自身が知的障害者である為に遠慮してしまうのだ。
唯の両親が偶に日本を訪れた時に、
近所に住む人は唯の奇行について苦情を申し出るが、
逐一を報告していては際限が無い。
そこで代表的なものだけ述べて、
「その他にも色々と迷惑を蒙っています」
と付け加える。
だが、それが良くなかった。
漠然とした情報を告げられる為、両親は真偽を確かめる為に憂に問う。
だが憂はそれらの苦情を狡猾に障害者差別意識に基づく偏見に結びつけ、
唯を庇っている。
近所の人間が直に目撃した、というケースが少ない為、
両親も憂の言う事の方を信じる。
憂にしても、両親を騙す事には意味があった。
もし唯が尋常ならざる被害を齎している事を知れば、
唯を施設に預け入れてしまうかもしれない。
憂は手を焼き苦労しつつも、それでも姉である唯の事が好きだった。
世話する事に生き甲斐まで見出している。
また、唯の知能に問題がある点をいい事に、性的な悪戯をした事すらある。
両親に唯の悪辣さを信じさせるわけにいかなかったのだ。
そういった事情があるから、唯の傍若無人は止まらず、
常に周囲に害悪を撒き散らし続ける。
事実、今日の悪行についても、制裁を受ける事は無かった。
憂の下に報告すら届いていないからだ。
確かに保護者が直接見たわけでも無いのに、
唯を加害者にして苦情を言う事は躊躇われる。
保護者達も子供から被害報告を受けた際、
『平沢家の唯ちゃんだ』
と思ったはずであるが、その名前が子供達の口から出てこない以上、
彼女の責にする事はできない。
仮に苦情を言っても、憂に
「証拠も無いのにお姉ちゃんのせいにしないで下さい。
もし他の人による行為だったら、どう責任取る心算なんですか?」
などと逆に詰られて終わるだろう。
保護者達にできる事など、
親の居る前以外では外で遊ばないように、
と我が子に言いつける事くらいしかできない。
唯の外における活動時間も活動場所も不定期な為、
交代でパトロールする事すらできない。
小さな子を抱える保護者達も、深い溜息を吐いた。
そのような地域の苦しみなどなんら知る事なく、
唯は昨日も今日もそして明日からも、
眼前の刹那的な欲望を満たす為に傍若無人に振舞うのだろう。
「あー!ゆいもやるー!」
その宣戦布告を添えて。
<終わり>
(2010.09.05)
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最終更新:2019年01月13日 16:37