OUTside (vol.4)
放課後、ホームルームを終えた律は教室を出ようとした所で、担任の山中に呼び止められた。
「りっちゃん、ちょっとお話あるんだけど。
放課後、第二音楽室に来てもらっていいかしら?」
「参ったなぁ、この後約束あるんだよねー」
「そんなに時間は取らせないけど。
何時から?それまでには終わるようにするわ」
時間までは約束していなかったが、早く行くに越した事は無いだろう。
そう思って山中の話を断ろうとした律だったが、すぐに考え直した。
(あ、よーく考えたらさわちゃんに部活をお休みにするって事、伝えて無かったっけ。
ムギにもさわちゃんへの連絡までは頼んで無かったし、流石に顧問に話通さなかったのは不味いよなー)
ここは従っておいた方がいい、律はそう判断した。
「時間までは決めて無いよ。でもまぁ、遊びの用事だから遅くならなければ問題ないよ」
「有難うね、りっちゃん。先に行ってて。職員室に日誌置いてから向かうから」
「あいよ」
相談もせずに部活を休みにした事について、山中が怒っているようには見えなかった。
それでも律は叱責を覚悟して、第二音楽室で待った。
(紅茶でも淹れとくか?)
機嫌を取って叱責を緩めようなどとは考えておらず、罪悪感の現れである。
(もしかしたら昨日さわちゃん部室来て、それで誰も居なくて吃驚したかもしんないしなー)
律が席から立ちかけた時、扉が開いて山中が入ってきた。
律が第二音楽室に着いてから、5分も経っていない。
「早かったねー。今紅茶淹れようとしてた所なんだけど」
「ありがとう、でも遠慮するわ。この後予定あるんでしょう?時間のロスは少ない方がいいだろうから」
山中は言うなり律の正面の席に座った。
律も浮かしていた腰を再び椅子に沈める。
「部活、大変でしょう?無理してない?」
山中の声には、労うような調子が込められている。
「いや、特にしてないよ。こっちこそ悪かった、昨日勝手に部活休んで。さわちゃんにはまだ話通してなかったんだけど、今週いっぱいは部活お休みにする事にしたんだ。
先走って相談も承認も得ずに決めたのも謝るよ」
「あ、いや。それはいいんだけれどね。次から事前に連絡してくれれば。
それに、色々あった後でそのまま部活っていうのも難しいだろうし。
今回は急って事もあるから、私に話を通さなかった件に付いては不問にするわ」
律は山中の物言いに違和感を覚えた。
(色々あった後で?
まるで日曜日の悶着を知っているみたいな口振りだな)
しかも山中の口調は、まるで教師への連絡の有無を問題にしていない。
「ん、てっきり私は部活を勝手に休止にした件で、
お小言頂戴かと思ってたんだけど……」
「いえ、違うわ。唯ちゃんの事よ。いえ、部活の事。
日曜日大変だったみたいね」
やはり山中は日曜日の悶着を知っていたのだ。
律の疑念は、どのルートで知ったのかという事に移った。
「まーね、誰から訊いた?」
「梓ちゃんと澪ちゃん。梓ちゃんから今朝、澪ちゃんからは今日のお昼休み」
(澪、ね。あの後さわちゃんの所に行ったのか)
昼休み、律の席を離れて教室を出て行った澪の姿が脳裏に浮かんだ。
「ま、ちょっとあの二人とは揉めちゃってさ」
「うん、そうみたいね。
でもあの二人からは、以前から相談を受けてはいたの。
りっちゃんや唯ちゃんの事、
寛容な目で見て欲しいって二人には頼んでたんだけど。
でもやっぱり教師として、ね?
何時までも片側の肩ばかり持つわけにもいかないし、
元来澪ちゃんや梓ちゃんの方に分がある話でもあるから」
山中の口振りから察するに、
以前から唯や律の事で二人は山中に相談を持ちかけていたらしい。
山中は律や唯を庇ってくれていたようだが、
内心では澪や梓に共感していたという事も察せられた。
「……あの二人から何を訊いているかは知らないけど、
でもあの二人は私と敵対した側だからね。
あの二人の言う事が全て正しいとか誤解はしないで欲しいな。
快く思ってない人間の事を教師に話すっていうんだ、
そこに自分達に分があるよう虚飾を混ぜたとしても不思議は無いよ」
虚言を用いて殊更に律に対する悪印象を山中に植え付けた、
とまでは思っていないにせよ、
自分達に有利な事実のみを抽出して話したという疑惑は抱いている。
「敵対、ね。
少なくとも澪ちゃんは、りっちゃんに敵愾心抱いていないようだけれど。
まぁいいわ、確かにあの二人の言い分だけ聞いて、
りっちゃんの言い分を聞かないのはフェアじゃない。
だから、りっちゃんの言い分だって尊重する心算よ。
でもね、梓ちゃんや澪ちゃんの気持ちも分かってあげて欲しいの」
「二人の気持ち?」
「そう。梓ちゃんは訝ってるみたい。
果たしてりっちゃんが軽音部の事を考えているのか、って。
来年の部活は梓ちゃんが一人になるのに、部員勧誘とか殆どしてないでしょ?
それで梓ちゃんは苛立っているし、澪ちゃんもその点を気にしてるみたい」
「……一応、考えて無いワケじゃないよ」
語勢が弱々しくなったのは、実際には殆ど考えていなかったからだ。
新入生勧誘の時期こそ部員勧誘に力を入れていたものの、
時期が過ぎれば等閑になっていた。
だが、梓が律に対して反抗的な理由を知る機会にはなった。
(来年の部員が集まらないから、それで私にキレてたワケか。
でもさ、口でそう言えば良かったのに)
律は反省しつつも、梓に対する憤懣の念は消えなかった。
「そう。でもね、行動に移さないと梓ちゃん達には分からないから。
りっちゃんが考えていても、梓ちゃんにはそうは映らなかったってわけね」
「まぁ、私の反省事項でもあるね」
「うん。それとね、今回の部活休止、私に話を通していない点は不問にするって言ったけど……。
でもりっちゃん一人で決めたのなら、問題あるわ。澪ちゃんや梓ちゃんの意見は訊かないと」
「一昨日喧嘩して、向こうも顔出しづらいと思ったから。
敢えて訊くまでもないかなー、っと」
「二人ともね、もう軽音部はこれで終わりなんじゃないかって、それを心配してるのよ。
気まずくなった後で、一週間も部活休止にしたんじゃそう思うわよね。喧嘩した後だからこそ、訊くべきだったわ」
(実際、もうこれで終わりでもいいって思ってるけどな)
既に『全員仲のいいHTT』という目標は瓦解している。
部活を続ける価値を見出せなかった。
「軽音部解散を心配してるって事は、澪や梓は軽音部を存続させようって思ってるんだな」
独り言のように呟いて、山中の反応を伺った。
「りっちゃんは思ってないの?」
「どうも、ね。澪や梓の……特に澪の唯に対する態度を見てると、ね。
一昨日の日曜、澪が何したか知ってるか?
随分と唯を甚振ってくれたよ。憂ちゃんにも牙は及んでいたかな」
「具体的には知らないわ。でもね、お互い様、って面もあるんじゃないかしら。
少なくとも澪ちゃんは、一方的に誰かを虐めるなんてしない子よ。
それは私なんかより、
付き合いの長いりっちゃんの方が分かってる事でしょ?」
「分かってる心算だった。でも実際は違った。
いや、確かに憂ちゃんだって澪に色々言ってたさ。
でもそれだって澪が唯を蔑みさえしなければ、
憂ちゃんだってあんな態度を取らないはずなんだ」
「澪ちゃんは、りっちゃんを守りたかったのよ」
「澪はそういう言い訳を展開しただろうさ。
自分にとって不利な事を教師に言う訳無いしな。
でもどのシチュエーションも私にとってそれ程脅威って程でも無かった。
危険というには軽微に過ぎる状況が去った後でさえ、
澪は唯に色々言ってたんだぜ?守るっていう言い訳は通用しないよ」
「そういう事じゃなくってね……。
そんな、目の前の危険だけじゃなくってね……」
山中は視線を漂わせて、言葉を続けるべきか否か迷っているようだった。
「何?言いたい事があるなら言ってくれていいよ」
律が促して、漸く山中は言葉を続けた。
「澪ちゃんはりっちゃんに、深みに嵌って欲しく無いんだと思うの」
「深み?」
「そう、唯ちゃん達と交流を深めていく事によって、
りっちゃんが唯ちゃん達のトラブルに巻き込まれてしまう事を恐れている。
りっちゃん、知的障害の問題は深いわ。
家族でしか分からない苦しみや嘆きがある、
それを部外者のりっちゃんが共有してしまった時、
りっちゃんまでもがそのトラブルに巻き込まれてしまう。
それは危険よ」
大袈裟だ、そう律は思った。
「またスケールの大きな話だね。
唯に巻き込まれてトラブった事なんか、ただの一度も無いよ」
「そう?一昨日の件は、まさしくそれだと思うけど。
それにもし……唯ちゃんが相応しい学校に転校せずに桜高に留まっていたとして、
その際にりっちゃんが唯ちゃんと仲良くし続けていたら、
きっとりっちゃんはクラスで孤立していたと思うわ。
実際に、唯ちゃんは二ヶ月足らずの短い間に幾度もトラブルを起こした」
「実際の話をするなら、唯は転校している。
唯が転校せずに云々はIFの話であって、意味は無いよ。
日曜の件だってムギ以外の皆が諍いあっていたのに、
その原因を唯だけに押し付けるのは酷だよ」
「そうかもしれない。でも、それだけじゃない。
唯ちゃんに深く付き合った結果、部活にも唯ちゃんの影が入り込んで、
澪ちゃんや梓ちゃんは不快な思いをしたわ。もしかしたらムギちゃんも。
彼女達は真面目に部活をやりたがっている。
唯ちゃんを交えるのは本意で無いはずよ。
梓ちゃんがりっちゃんを快く思っていないのは、
新入生の件に限らずその事が原因でもあるの」
「だからと言って、唯を蔑ろにするワケにもいかないよ。
名簿上はともかく、私の中では唯だって部員だ」
「その思いは結局、軽音部で共有されなかった。
だからこそ、部活に亀裂が走ったのよ」
山中の言う通りだった。
唯を交えたい律と、弾きたい澪や梓。
その対立構図は以前からあり、度々口論に発展してはいた。
それが一昨日、いよいよ爆発した。
そして今、律は問われているのだ。
唯を取るのか、軽音部を取るのか。
「でもその問題ももう解決だよ。
部活が解散すれば、梓にも澪にも迷惑はかからない。
私が唯とどう付き合おうと、それは関係の無い話になる」
律は唯を取る心算でいた。
賢しい澪や梓よりも、素直な唯に対する好感の方が強い。
一昨日の澪や梓の態度に対する憤慨も響いている。
「それこそが、澪ちゃんの恐れていた事だと思うわ。
そうやって部活解散すれば、りっちゃんはまた一つ孤立する。
そして、また一つ唯ちゃん達との関係が深くなる。
そろそろ引き返せない深みに突入するわよ?分かってる?
唯ちゃん達のインサイドに入り込んで傷つくのはりっちゃんなのよ?」
「傷つかないよ、私は」
「既に傷ついていると思うけど。
それにね、澪ちゃんや梓ちゃん、ムギちゃんも傷つくわ。
りっちゃん一人だけの問題じゃないの。
さっきも言ったように、澪ちゃんも梓ちゃんも部活存続を望んでいる。
なのに解散してしまったら?そこに傷を残すわ」
そして紬も、部活存続を望んでいた。
即ち、律以外の全員が望んでいる。
「なら……部活続けながら唯とも交流していけば……」
「さっきも言ったように、それは彼女達の本意じゃない。
梓ちゃんの反発は続くし、
思うように部活ができないストレスも与え続ける事になるわ」
「思うように部活ができないって、要は自分の望むようにやりたいってだけじゃん」
「彼女達の望みは、全力で部活に取り組みたいという事。
それは部活のあるべき姿だし、決して我侭じゃない」
確かに山中の言うとおりだ。
理は梓や澪にある。律は反駁できずに唇を噛み締めた。
「二人とも本気で部活を続けたいみたいね。
りっちゃんと話をするに当たって、
二人から相談を受けた事をりっちゃんに公表するしか無かった。
部員数が多ければ匿名でも良かったんだけど、少ないとそれはできない。
でも二人とも、名前を出していいと言っていたわ。
それだけ本気って事よ」
「……なら、私抜きで部活やってればいい。
私だけ抜けて、他の部員でも探せばいい」
「それでりっちゃんはいいの?
このままどんどん孤立して、深みに嵌っていっていいの?
それでも澪ちゃんは何処までもりっちゃんを助けようと足掻くだろうけれど」
「大きなお世話だよ。澪だって私に構わなければいい」
だが、軽音部の発足時に澪を強引に勧誘したのは自分では無かったか。
律の胸中には発言とは裏腹に、その思いが去来していた。
「ねぇ、澪ちゃんは寂しかったんじゃないかしら。
りっちゃんが幼馴染の自分を離れて、唯ちゃんばかりにかまけるから。
澪ちゃんの気持ちも汲んであげて?
寂しいだけじゃない、幼馴染で親友でもあるりっちゃんが、
深みに嵌って傷ついていく様を見たくないのよ」
今思えば、澪が平沢家訪問に付いて来たのも律が心配だからでは無いのか。
あの時は、自由参加にも関わらず澪が参加を表明した理由が分からなかった。
そして一昨日、
澪が唯の真似をした事も律に構ってもらいたかったからでは無いのか。
唯のような人間が好きならば、模倣すれば構ってもらえると。
自分を穢して羞恥に塗れる事すら厭わない程に、
律を取り戻したかったのだとしたら。
実際に唯を馬鹿にする意図など無かったのではないのか。
(憂ちゃんに対して敵対的な態度を取り続けたのも、
私を引きずり込む元凶に見えたからか……)
澪の意図が分かりかけた今となっても、なお律は惑っていた。
唯を捨てる事に強い抵抗があった。
「じゃあ……唯はどうなるんだよ。
私が部活や澪を取って唯達と縁を切ったとして、
唯はどうなるんだよ……」
震える声で、言葉を吐き出す。
「家族が居るじゃない」
「それは友達じゃない……唯は孤独なままだ……」
唯の孤独を思えば、心が痛んだ。
「それも、家族が……憂ちゃんが代替してくれるんじゃないかしら。
りっちゃんが自分を犠牲にしてまで、努める事じゃないわ」
「さっきから聞いていれば、さわちゃんは澪や梓、
それに私の事ばかりじゃないか。
梓ちゃんは不満に思ってる、澪ちゃんが寂しがっている、
りっちゃんが深みに嵌っちゃう……そんな話ばかりじゃないか。
そんな話を繰り返す中で、唯の心配なんてしてないじゃないか。
澪や梓や私さえ良ければ、唯はどうなってもいいってのかっ?」
話しているうちに感情が昂ぶっていき、
最後の方には昂ぶる感情のまま叫ぶように言葉を放っていた。
「そこまでは思って無いわ。
でも、教師として貴女達の心配をするのが優先事項だから……。
唯ちゃんは部外者で、りっちゃん達が教え子だから。
それに一人の人間としても、唯ちゃんの件に深く入り込む事はできない。
私達はね、知的障害の世界では完全にアウトサイドの人間なのよ。
なのに生半可な覚悟でインサイドに入り込めないわ。
入り込んだ人間だけが傷つくんじゃない、
周囲の人間も傷つけていくわ。
そしてインサイドそのものにも災禍として作用しかねないの」
律が生半可な覚悟でインサイドに入り込んだ結果、澪は傷ついた。
インサイドである憂や唯も一昨日、
──律を心配して着いて来た──
澪によって傷ついた。
言葉を失った律に対し、山中は更に言葉を続けていた。
「私達ができる事と言えば、
知的障害者施策に税金が使われる事を快く受け入れる事くらいよ。
要は、行政や立法を通じて支援する事しかできないわ。
その領域を飛び越えて直接入り込もうとすれば、
深みに嵌ってトラブルに巻き込まれかねない。
……って、ゴメンね、ちょっと話し過ぎたわね。
この後、りっちゃんには予定があるのにね。そろそろ終わりにするわ。
でも最後に、これだけは言わせて?」
律は山中を見つめる。
これ以上何を言う心算なのか、それが気になった。
「澪ちゃんは、きっと最後までりっちゃんの味方をしてくれるわ。
でも唯ちゃんや憂ちゃんはアウトサイドであるりっちゃんの味方をするか、それは分からない。
それなのに澪ちゃんの側を離れる事は、リスキーよ。
誰が一番りっちゃんを想ってくれているのか、それだけは忘れないでね」
山中の言葉は、惑っている律の心に直撃した。
澪は実際、昨日も今朝も遅刻してまで律を待ち続けた。
今日も拒絶されてもめげる事無く、律にアプローチを続けてきた。
そうまでして想ってくれている人を切ると言う事、その重大性が改めて律の心を揺らしたのだ。
山中は立ち上がると、
「気をつけて帰ってね」
とだけ言い残して第二音楽室を去った。
律も呆けたように立ち上がると、山中に続いて第二音楽室を出た。
目の前の景色が揺らぐ。
山中の話は律の心に深刻な衝撃を齎したが、
それでも尚逡巡していた。
唯の家に向かうべきか、それとももう唯とは縁を切るか。
通い慣れた道を歩きながら、律は惑い続けた。
気付けば、交差点のすぐ近くまで来ていた。
ここまでの道順、どう歩いたのか律は憶えていない。
(このまま真っ直ぐ歩けば唯の家の方向。
左に曲がれば……自分の家の方向だ)
インサイドに通じる道とアウトサイドに脱する道、
どちらに行くか律は決断を下した。
足を向けた先は──真っ直ぐに──唯の家の方向だった。
(唯や憂ちゃんを裏切りたくないよ……。
そりゃ、迷いもあるし、澪や梓……ムギにも悪いと思うけど。
ごめんな、ムギ、梓……そして澪)
最後の最後でインサイドを選択したが、それは際どい選択だった。
山中の話は律を惑わせるには充分だったが、後一押しが足りなかった。
それさえあれば、きっと律が足を向ける方角は違っていただろう。
(もし、後一押し何かがあれば、私はきっと唯を切っていたんだろうな……。
きっと私は、それに耐えられなかっただろうから。
その一押しが無かったお陰で、唯、お前を裏切らずに済みそうだよ……)
安堵の息を漏らしながら交差点に差し掛かり、
抜けようとしたところで
「律」
後ろから抱きすくめられた。
声を上げて助けを求めようとは考えなかった。
その声にも温もりにも、覚えがあったから。
(澪……)
「行かせないからな。絶対に、行かせないからな」
最後の一押しが、放たれた瞬間だった。
律は自分の決心が崩れていくのを感じた。
「澪……どうしてここに?」
「お前が今日唯の家に行くって言うから、分岐点である此処で待ってたんだ。
もし唯の家に向かうようなら、力尽くでも阻止しようって、そう思って」
律を抱く腕に、力が篭った。
「そう……か」
「帰ろう。そして、明日からでもすぐに部活再開しよう。
来年一人残される梓の為に部員勧誘活動も活発にやろう。
そして、皆の仲が良いHTTにしよう。
きっと梓も分かってくれる。
私だって、梓が律を敬うように幾らでも協力するからさ。
また、私達四人で頑張ろうよ」
「そう、だな。それもいいかもな。
いや、それがいいんだろうな」
力の抜けた声で律は呟いた。
体からも力は抜けており、澪が抱いていないと今にも倒れてしまいそうだった。
「分かってくれたか、律っ。
なぁ、帰り私の家に寄ってかないか?
色々と話がしたいんだ、前みたいに。
日曜日から数えてまだ二日目なのに、律と随分話してないような気がしてさ」
「ああ、いいぜ。寄ってくよ。日曜日は……済まなかったな」
「いや、私の方こそ感情的になり過ぎていたかもな。
でも、律がこちら側に帰ってきてくれるなら、もう済んだ事だよ。
じゃ、早速帰ろう」
澪が急かしてきたが、まだ律にはやる事が一つ残っていた。
「その前に一ついいか?
憂ちゃんに断りのメール入れとかないと。
遊びに行くって言っちゃってあるからさ。
今日は行けないって、伝えないと」
「今日は、じゃなくって、今日も、だろ?」
澪に訂正されて、律は苦笑した。
「そうだな、もう行けないって、謝らないとな」
頬を涙が伝ったが、すぐに澪がハンカチで拭いてくれた。
澪の温もりを感じながら、律は憂に最後のメールを送った。
(ごめんな、憂ちゃん……唯。私は、こちら側の人間なんだ。そっちに行くには、捨てられないものが多すぎるんだ……)
憂は律から届いたメールを読むと、落胆の溜息を漏らした。
「あう?うい、どしたの?」
傍でトイレの練習に励んでいた唯が問いかけてくる。少しだけ迷った末、
「律さん、今日来れないんだって」
それだけ伝えた。
実際には、今日に限った話では無かった。
もう来ない、そういった内容がメールには打たれていた。
だがそれを唯に告げる事は、流石に躊躇われた。
唯の数少ない──
否、唯一と言ってもよい友達だったから。
「あう?りった来ない?
ゆい、ぶぶぶー下手だからりった来ない?」
唯は泣きそうだった。
澪や梓が怒って帰ったのは、未だに自分の排泄が下手だからだと思っているのだ。
律が今日来ない事も、自分の排泄が影響していると思っているらしい。
「違うよ、用事があるんだって」
「あーう、ゆいわるくない?」
「そう……お姉ちゃんは悪く……無いよ」
その言葉を口にしながら、憂は溢れそうになる涙を必死に堪えた。
(そうだよ、お姉ちゃん悪くなんて無いよ……。
偶々知的障害者として生まれてきちゃっただけで、それはお姉ちゃんが悪い訳じゃ無いのに……
なのに……なのにっ、なのに何で、お姉ちゃんから一人、また一人と友達が減っていくのっ。
将来に対する希望だって抱けないのに、友達まで居ないなんて……)
唯が不憫で仕方が無かった。
その唯は特別自分を哀れむでも無く、常に目の前の事に一喜一憂していた。
自分を哀れむだけの知性すらも、唯には与えられていない。
それが唯一の救いなのか、それすら残酷な事なのか、憂には判じかねた。
今も唯は、一心不乱にトイレの練習をしている。
「お姉ちゃん、今日はもう止めよう?」
どうせ、誰かに見せる機会は金輪際無くなったのだ。
それなのに臀部を拭く練習に励む唯を、これ以上見ていたくなかった。
「あうー、もっと拭き拭きするのーっ。
ゆいじょーずになる。りった、ゆいほめる。
むぎちゃも、ゆいほめる。
あずなんもみおたも、ゆいとなかよくしてくれる」
唯は自分が排泄が上手になりさえすれば、
皆と仲良くできると思っているらしい。
だが澪も室内で排泄をしたのに、受け入れられている。
唯との差異は、排泄の巧拙では無いのだ。排尿か排便かの違いでも無い。
唯の努力ではどうしようもない、先天的な知的障害のみが原因なのだ。
その残酷な事実に拉がれた憂は、次第に涙を堪えられなくなってきていた。
闇雲に臀部を拭き続けた結果、唯の肛門は赤みが差してきていた。
それでもなお、唯は止めない。拭く事を、止めようとはしない。
それが唯一、皆から受け入れられる条件であると信じているかのように。
「お姉ちゃんっ」
憂はそれ以上見ていられず、唯を抱きしめて行為を止めた。
「お姉ちゃん、もういい、もういいからっ」
──もう律達が来る事は無いから──
喉まで出かかった残酷な事実は、結局押し留められた。
代わりに、双眸から留める事の出来なかった涙が零れてきた。
「あーう?うい、泣いてる?
うい、いー子、いー子」
唯に頭頂部を撫でられながら、憂は唯の胸で泣き続けた。
「お姉ちゃんっ、ありがとう……ありがとう……」
(お姉ちゃんっ、ごめんね……ごめんね……)
慰めてくれる唯に礼を述べつつも、
胸中では事実を告げていない後ろめたさ故に謝り続けていた。
メールを送信した後の律は、喪失感に苛まれて身体から力が抜けきっていた。
だが、それでも問題は無かった。
澪が導いてくれているから。
(明日からは、私も頑張らないとな。部活再開して梓にも謝って、部員勧誘にも力を入れて……。
そして、軽音部の皆で仲良くやっていこう)
その場所に辿り着ける道へは、澪と共に歩む。
つい先程アウトサイドへの抜け道を示してくれた澪と共に。
今も脱力している律の手を取って、澪の家へと導いてくれていた。
「ほら、律。
お前の居場所は──
──こっちだ」
<FIN>
(2011.01.15)
カウンター
今日: -
昨日: -
合計: -
最終更新:2016年07月03日 17:10