池沼の保健所
「はい、どうも、申し訳ございません。」
受話器を置くと、憂は大きなため息をついた。
しかしそのため息は、いつもあの姉がやらかす数多の事件によるものではなく、一仕事終えた後の達成感によるものだった。
軽音部の先輩達は、唯の池沼行動に呆れを通り越した感情を抱き続けていたが、同時に健常者である妹の憂の精神状態も切迫した状況にあることを知っていた。
憂は高校生であるがまだ幼いし、実際、唯の面倒を見るには彼女は余りに頼りなく、またそれを憂自身も、心の内では悟っていた。
そのストレスが、憂を追い込み、不登校、寝たきりにしてしまうまでに、そう時間はかからなかった。
いや、そうならない今までが異常だった、と言うべきか。
「んめぇぇぇ~…ぶごっ」
獸のような声を無意味に上げる唯。
喉から断続的に声をひりだすその様は、人間とは思えない。
更にその姿は、黄ばんだTシャツに涎や鼻水を垂らし、その口を閉じることなく、別々の方向を向いた目で、そのぶくぶくと太った汚ならしい贅肉の上に腰かけていた。
「…」
憂はその様子を改めて見つめた。
小学校のトイレのように、中央に排水口らしい穴が空いている、四畳半ほどの空間。
今唯がいるのは、軽音部の先輩達が探した「池沼の保健所」だった。
勿論、殺してしまえば人道に反するので、面倒は見ているのだ。憂がやってきたように。
「あ~!あいす!あいす!」
憂を視界に入れた途端、唯はすっとんきょうな程大きな声を出した。
それはガラス越しの位置からでも、大きく響いている。
そしてまた、時を同じくして、
ブブブー…
憂は一瞬、顔をひきつらせた。脳裏に糞まみれのオムツ、臭い、周囲の視線が浮かぶ…が、今は施設が、なんとかしてくれるのに気づく。
すぐさま、部屋に水が流れてきた。この部屋全体が、唯の排泄物を流すトイレの構造になっているのだ。
「あ~ぅ!ひめたあい!」
冷たいと呂律の回らない声を出すが、決して立ち上がろうとはしない。
不快感に立ち向かう程の意欲もないのだ。
それに改めて、憂は呆れ果てる。
糞の塊が、部屋を流れ、排水口へと落ちる。
それを見て、パンパンと手を叩き騒ぐ唯。
「なにか、声をかけてみてください。」
職員らしき男が優しく声をかける。
職員は憂について、経緯をを知っているからだ。
この職員こそが、憂の救いの手となった人物だった。
「お姉ちゃん?」
憂はとりあえず、目の前のブタのような姿に声をかけた。
「ぁ~う!あ~す!あいす!はげんだつ!くーれ!」
口呼吸の度に、それしか声を出さない唯。
「お姉ちゃん!」
憂はもう少し、大きな声を出す。
しかし相変わらず唯は、アイス、アイス、と繰り返すだけだ。
「唯さんの記憶力は、良くて5日間です。」
後ろで職員が声をかけた。
憂が唯を施設に預けてから二週間。もはや、唯は憂を妹として、知っている人間として、認識すらしていない。
憂の中にもはや、唯への思い入れは、完全に無くなっていた。
「…憂さんのご要望通り、アイスは健康を害しない範疇で与えています。だから、誰かを見るとアイスを望むんです。」
憂は
「そうなんですか…ありがとう、ございます」
と、静かに言う。
ここで改めて憂は気づいた。
この施設に唯を向かわせる時に、持たせたカスタネットやギー太。あれらはどこにあるのか。
職員に恐る恐るその事を訪ねると、彼は少し俯き気味に言った。
「唯さんの記憶力は五日間、何故それが判明したか…。唯さんは初め、ギターやカスタネットで遊んでいました。しかしある日、アイスを手にした職員が…大変申し上げにくいのですが、よろしいですか?」
「え、何かあったんですか?」
憂は職員の改まった態度に少し驚く。
「たまたまなんですが、此処にアイスの為の冷蔵庫を置いた所、唯さんはそれに気づいてギターやカスタネットでガラスを破壊しようとしたんです。なので、今はそれらを取り上げています。」
「ああ、なるほど…。」
唯はあんなに欲しがっていたギターや思い出深いカスタネットを、目先のアイスの為にガラスに投げつけたというのだ。
「申し訳ありません。」
「いえ。」
憂には職員を責める気持ちは全く無かった。自分であれば逆に、唯の事を袋叩きにしていただろうから。
実際、この施設で唯に対する虐待が行われても、憂にそれを責める気はもはやないのだ。
「あいすくーれ!あいす!あーいーす!」
濡れた床を叩きながら、目の前の肉塊は叫ぶ。
そこへ、横の扉が開き、一人のマスクをした職員が近づき、何かの塊を渡そうとする。
唯はその前に、驚くほど速い動きでその塊をぶんどった。
「うわっ!」
職員が驚いた声を出すが、此方に気づくと、
「ど、どうも。」
と、ガラス越しに挨拶をする。
憂は首だけ下げながら、唯が塊を貪る様子を眺めた。
「棒を抜いたアイスです。棒は、投げたり飲み込んだりで危険なので。」
「お世話をおかけします。」
唯はバー状のそれを、奪った時とは真逆に、異様にゆっくりと噛む。
ただのアイスの筈だが、咀嚼音がはっきりと聞こえ、クッチャクッチャと下品な音が響いた。
「…そろそろ、出ます。」
憂はその様子に半ば飽きたような感情を抱いた。かつてなら気が気でなかったが、今はもはや唯に対する愛情の欠片もなくなっているのだ。
「じゃあ、バイバイ、お姉ちゃん。」
憂は手を振り、部屋を出ようとした。
と、突然、唯が何かを此方に投げつけてきたではないか。
ガラスに粘着音を立てて、咀嚼されたアイスがへばりついていた。
「最近、アイスをガラスに投げて遊ぶのが好きみたいです。」
職員が言ったが、憂はそれを見ることはしなかった。
最終更新:2016年12月23日 14:31