You're my destiny

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 それは、ある暖かい春の夜のこと。  いつものようにいぬ美と、人けのない公園で散歩をしていた響の耳に、女性の小さな叫び声が聞こえた。 「きゃあ、と、とらたん、だめよ、待ってっ」 「ん?なんだ?」  どこかで聞いたことのある声の方を見やると、道の端の植え込みがガサガサと音を立てている。ぎょっとして硬直した直後、茂みから黒い塊が飛び出してきた。 「おわ!?」  慌てて飛びすさると、その影は響の足元を縫うように走り、いぬ美に突進する。茶色の毛むくじゃらの塊……犬だ、と判った。  響はこういう場面を以前にも見たことがある。近所の野良犬がいぬ美にケンカをしかけたのだ。今回もそれだと思い、とっさにいぬ美を制しようと引き綱を引いた。視界の端に飼い主らしき人影を捉え、相手にも迷惑をかけてはいけないと鋭く声を発する。 「いぬ美っ、待て――」 「あら?響ちゃん?」 「――へ?」  ところがその相手が、自分の名を呼んだ。思わずそちらを見ると、そこには、よく見知ったロングヘアの女性が立ち尽くしていた。 「ええっ?あずさ?」  服装や手に持った道具などを見ると、どうやらここにいる理由は自分と同じようであるが……。 「なにしてるんだあずさ、こんなトコで」  質問というより確認のため聞いてみた。あずさは困ったような顔で肩をすくめる。 「ちょっと犬の散歩をしていたの。だけれど、急にこの子が走り出して……きゃっ」  視線を犬の方に向け、突然顔を覆う。どうしたのかと響も飼い犬を振り向き……その光景に仰天した。 「……うわああ?いいい、いぬ美ーっ?」 「と、とらたんっ、だめよ、離れなさい、こら、もうっ」  まことに幸運なことに、二頭は喧嘩をしていなかった。  なにしろ二頭の犬は敵意ではなく……愛を交わしあっていたのである。 「こらいぬ美、ダメだ、その、あの、えと、離れろ!ストップ、ストップっ!」 「とらたんっ!やめなさい、おいたはだめよっ」  巨大ないぬ美と、とらたんと呼ばれた小型犬。自然界ではなかなか見られそうにないカップリングであるが、腰を低く構えるいぬ美にちょこんと乗っかり、爪先立ちで腰を振るとらたんの様子は、秘め事と言うよりは微笑ましいという表現の方が似合いだった。飼い主にとってはそれどころではないが。 「あ……あのぉ、響ちゃん」 「は、はいっ」 「ごめんなさいね、うちの子が。手術しているから大丈夫だと思うけれど」 「え、ああ、そっか。つか、これどう見てもいぬ美の方が積極的……だよね、は、はは」  二頭の体格差を見てもポジションを考えても、雌の側にその気がなければ雄犬は振り払われておしまいだろう。ときおり肩越しに相手を窺ういぬ美も、ファーメイドのヒップポシェットよろしくその腰にしがみつくとらたんも、互いを気遣っているからこそのマウンティングであるのは間違いない。 「……いぬ美ってさ、こういうの全然なかったからコイビト作らないのかと思ったぞ。なんか、なんていうか、よかった」 「とらたんもね、家犬だからお友達が少ないの。わたしもうれしいわ」  どうやら「これ」は単なるじゃれ合いということで終わりそうだ。響はほっとした。時間も遅く人のいない公園、相手も知り合いだ。  とは言え、さすがに二頭のありさまは正視するには恥ずかしすぎた。引き綱を離すわけにもいかず、あずさと二人で赤い顔を見合わせた。 「……こ、こういうのってどのくらい時間かかるの、かな?」 「えー……わたしも、よくわからないわぁ」  ハァハァと息を荒くして取っ組み合いを続ける犬たちを前に二人でなにもできないまま、しどろもどろに会話する。響の家には動物がたくさんいるがどれも一匹ずつで、こういう場面には巡り会うことがない。あずさはとらたんの引きずってきたロープを改めて手に巻きつけ、響もいぬ美を逃がさないように手に力を込める。互いに『現場』には目を向けないように、しどろもどろで世間話を始めてみた。 「あずさも犬と暮らしてたのか、知らなかったぞ」 「あ、普段はいないのよ。実家の犬なの」 「へえ」 「母がね、同窓会の温泉旅行で。父はこういう世話、あまり得意ではないから、わたしも久しぶりに会いたいって言ったら連れてきてくれて」  東京経由の旅行だったため、母親が一泊する間あずさが犬を預かったのだと言う。 「そっか、じゃあ今夜だけあずさの家にいるのか、この子」 「そうなの。わたしも明日はゆっくりだから、受け渡しがうまく行きそうでよかったわ」 「あずさ、預かる時迷わなかったの?」 「もう、響ちゃんたら。わたしだっていつでもどこでも迷ってるわけじゃないわよ?」 「あ、そか、ごめん」 「……待合室を通り過ぎるときに、とらたんが気づいてくれたから」 「って、迷ってるじゃないかぁ」  足元でとらたんのキュウンという声が聞こえ、二頭が体勢を変えた。 「あら、デートが終わったかしら」 「そ、そうみたいだね」  ようやく見ることの出来る状況となり、響はいぬ美を撫でてやった。いぬ美はとらたんの体を、いとおしげに舐めている。 「ゴメンなあずさ、迷惑かけちゃって」 「いいえ、こちらこそ。それより響ちゃん」 「うん?」 「この後予定、あるかしら。もしよかったら……」  うちに来ない?と彼女が最後まで言い終える前に、響は首をタテに振っていた。 ****  巨大な犬をあずさのマンションへ運び入れるのは冷や汗ものだったが、彼女は響の言うことをしっかり聞き、一声も発することなくエレベーターに乗り込んでくれた。他の住人に会わずに済んだのは偶然というより奇跡だと響は思わず天を仰いだ。 「女らしい部屋だなー、あずさんちって」 「ちゃんとしてないと母からお小言が来るのよ、この年になるとね」 「うちなんかジャングルみたいだぞ」 「うちの母に見せるといいわ、その日のうちに見違えるから」 「ホント?」 「あら、響ちゃんが片付けさせられるのよ?」 「うへ」  他愛ない話に応じながら紅茶を入れてくれる。家で紅茶など、響はペットボトル以外から飲んだことがなかった。 「どうぞ」 「ありがと。ねえあずさ、あずさとゆっくりするのって久しぶりだね」 「そうね、響ちゃん忙しいから」 「あずさだってぜんぜん事務所来ないじゃないか」  響が事務所に来た頃、あずさはしばらく彼女の教育係のようになっていた。先にデビューしていたことやタレントの中で年長者だったことから自然とそうなったのであるが、互いに東京で一人暮らしであったことで、響はあずさに親近感を増すようになっていた。  しばらく世間話を続けたあと、響は聞いてみた。 「あずさは一人暮らし、さびしくないか?」 「うーん」  あずさは少し考えたあと、こう言った。 「楽しいことの方が多いもの。だから、寂しくないわ」 「ふーん」 「響ちゃんは寂しい?」 「んー、自分もいぬ美たちいるし、楽しいかな。でもさ、夜寝る時とか、ときどき『ああ、一人なんだなあ』って思ったりして」  響の家には夜行性の動物も多く、夜中でも静寂は訪れない。ただ、それがかえって、風の音や木々のざわめきが漏れ聞こえる実家の夜を思い出させることがある。 「だから、あずさみたいに一人でいる人を見ると、さびしくないのかなって思うんだ」 「……わ、わたしだって好きで一人でいるんじゃありませんっ」 「え?あ!わわ、そういうわけじゃないんだ、ゴメン」 「それは確かに20歳にもなってアイドル始めるとかいろんな人に正気の沙汰じゃないって言われたし、お母さんも運命の人探すならこんなことするよりお見合い写真見たほうが早いわよって言ってたしお父さんだって披露宴やるなら俺が子会社に移る前にしろってせっつくし、ぶつぶつ」 「あずさぁ、ゴメンてばー」  事務所ではあまりしない話題だったが、どうやらあずさの痛いところを突いてしまったようだ。響は彼女のテンションを戻すのに苦労させられてしまった。 「くすんくすん、響ちゃんのいじわるー」 「もう勘弁してよー」 「……うふふ、それもそうね」 「えっ」 「響ちゃんがへっこんでるの、珍しいからちょっとからかっちゃった」  知らないうちに彼女の機嫌は直っていた。慌てふためく響が面白く、つい余計にショックを受けたふりをしていたのだと言う。途中からかつがれていたということになるが、それを聞いても響は怒る気にはなれなかった。 「ええ?なんだよー、あずさの方がいじわるだ!」 「それじゃおわびに、とっておきのもの出しちゃおっかな」  せめて一矢報いようと口ではふてくされた風を装ったところ、あずさがキッチンへ姿を消した。しばらくすると、手に持ってきたのは小さな紙箱である。 「ん、なに?それ」 「うふふふ、いいもの」  箱の横には聞いたことのある店名が印刷されている。少し以前、あずさがグルメ番組で訪れた高級洋菓子店だ。  少しもったいぶってゆっくりと蓋を開くと、指の間から甘い香りが広がった。 「母がお駄賃にって買ってきてくれたの。わたしが前にテレビで紹介したの、観ていてくれたみたいで」 「ふわ、おいしそう!自分も観たぞ、食べてるあずさ、すっごく幸せそうだった!」 「自分ではなかなか買いに行けなかったから、今日はずっとこのことばかり考えてたの。響ちゃんが来てくれてよかった」 「なんで?あずさが食べちゃえばよかったんじゃ?」 「一人で食べても楽しくないもの。響ちゃんと二人で味わったら、きっと美味しさも二倍になると思うわよ」 「えへへ、そう言ってくれるんなら嬉しいな。じゃ、遠慮なく頂きますっ」 「ところで響ちゃん、こんな時間だけれど、大丈夫かしら?」 「……コレ目の前に出してからその質問はどうかと思うぞ、あずさ」  二杯目の紅茶と、ひとつずつ二種類のケーキ。ちょっとふざけて『あーん』としてみたら、あずさは笑いながらタルトを口に運んでくれた。 「んふ、おいし」 「響ちゃん響ちゃん」 「なに?」 「わたしには?」  ますます楽しそうにまあるく口を開くあずさに、苦笑しながら手元のガトーショコラをフォークに刺して差し出した。  ティーカップとケーキ皿を二人で洗い、リビングに戻って響は気づいた。ドアの脇で控えていたいぬ美が、胸元にとらたんを抱え込んで眠ってしまっている。 「ありゃ、図々しいなあもう、こらいぬ美──」 「あ、待って響ちゃん」 「──え」  後から来たあずさに止められて振り返る。あずさはそっと首を横に振り、人差し指を口元に持って行く。寝かせておいてあげよう、という合図。 「でも」 「ご近所さん同士じゃない。一晩くらいお預かりするわ」 「あずさがメーワクだろ?」 「平気よ、いぬ美ちゃんもおとなしくしてるいし。せっかく運命のひとと出会えたんだから、一緒にいさせてあげましょう?」  運命のひと、とあずさは言った。いつだったか、響も聞いたことがある。あずさは、運命の人と出会うためにアイドルを目指したのだそうだ。 「運命のひとか……っつか、イヌだけどな」 「あら、そうだったわね」 「あずさは、いぬ美ととらたんが運命の相手同士だって思うのか?」 「どうかしら。わたしにはわからないけれど」  響が聞いてみると、あずさは困ったように笑った。 「わからないけれど、でも、さっきは二匹とも『そうだ』って思ったに違いないわ」 「まあ、あのはしゃぎっぷりは、たしかに」 「とらたんは明日には帰ってしまうし、それならせめて今夜は、二匹を一緒に居させてあげたいな、って、そう思ったの」  ほとんど見ていられなかったが、普段はあそこまで熱を持たないいぬ美の行動。いま寄り添って眠る二頭の様子。自分にはまだ経験のない感情であるが、誰かと好き同士になれたら、きっと1秒たりとも離れたくないと思うだろう。 「……そっか。そうだな」 「だから、心配しないで。わたしは午後まで家にいるし、いぬ美ちゃんはそれまでに引き取りに来てくれればいいから」 「それじゃ、お願いする。自分も明日はゆっくりなんだ」 「とらたんと一緒でよければごはんも余分にあるから、響ちゃんも心配しないでね」 「ん……と」  と、そこまで会話して、響はふと考えた。  運命の人。 「ねえ、あずさ?」 「なあに?響ちゃん」 「……あの……自分も」 「はい?」 「自分も、あずさんち……泊まっていいか?」  困った顔をするかも、と思ったが、そんなことはなかった。さっき響がしたようにあずさは、響の言葉を最後まで待たずに大きくうなずいてみせた。 ****  一人ずつバスルームを使い、パジャマ代わりにあずさのTシャツを借りた。時間は遅かったが翌朝に余裕のあるもの同士、とりとめのない話をした。 「あずさは、運命の人って一人しかいないって思う?」 「どうかしらねえ」  そんな話のきっかけは、ずっとつけっ放しにしていたテレビから流れてきた深夜のリバイバル映画だった。既婚者の主人公が浮気相手に本気になり、君こそ運命の人だ、と叫んで番組はCMに変わった。 「運命の人って、いつ現れるかわからないわけじゃない。そのときにもう結婚してたら、困っちゃうよね」 「うーん……でも」 「でも?」 「運命の人なら、そんなことないんじゃないかしら」 「えっ?」  響が聞き返すと、あずさは少し考えながら、こう続けた。 「わたしも今はいないから想像で言うだけだけれど、運命っていうのは、『もうこれしかない』っていう感じになるから運命なんじゃないかって思うの。たとえば、恋人がいないからこそ出会えるとか、結婚していた人なら離婚や、死別したあとで巡り会うのだったり」 「ふーん」 「いぬ美ちゃんも、これまで恋人、いなかったのよね?とらたんもそうだったわ」 「あ、そか、うん」 「今の映画みたいに、事情はどうあれ結婚していた人の前に現れるくらいなら……それでもなお、きっとみんなを幸せにしてくれるって、わたしは思うわ」 「どうやってさ」 「うーん……奥さんの方にも『運命の人』が現れるとか、どうかしら」 「都合よすぎだよー、あずさ」 「でもね、そんなのこそ運命だって思わない?」  響を見つめる瞳はにこやかで、それでいて強い確信を秘めていた。なにか冗談を言っているのではなく、あずさは運命をそう受け止めているのだと判った。 「みんなを幸せに、かー。そんなにうまいこと行くもんかな」 「恋人や結婚に限らなくて、みんな幸せになりたくて生きているわけでしょう?なら、運命の人がそれをねじ曲げるはず、ないと思うわ」 「それはそうかもだけど」 「わたしはみんなとは少し違う目的でアイドルになったけれど、こうしてずっと活動してきて、アイドルになれてよかったって感じているわ。ファンのみんなも私の歌で元気になってくれたり、 わたしのステージで生きがいを持ってくれたりしている。死ぬまで、なんておこがましいことは言わないにしても、ファンのみんなのためにも、わたし自身のためにも、なるべくアイドルを続けていきたいって今は思っているのよ。だから今、わたしに運命の人が現れるとしたら、その人は『アイドルなんかやめてくれ』とは言わないと思うの」 「自分のコイビトがファンの男の子に手を振ったり、水着写真集出したりしてもヘーキだってこと?」 「たとえばそういう事情をわかってくれる相手だったり。そうね、例えば、その……ぷ、プロデューサーさん、やってる人、とか」 「ああ、業界人か、そんならそうかも」 「だからね、響ちゃん」  言葉に熱が入ったのか、少し顔を赤らめながらあずさは、なお頭をひねる響にこう言った。 「そんなふうにうまくいくから、運命なんじゃないかしら」  ぐうの音も出ない響にあずさは、もう遅いし寝ようと誘い、話を終わらせた。  あずさのクイーンサイズのベッドは寝床というよりまるで布とクッションの海で、二人どころかいぬ美たちさえ一緒に眠れそうだった。そうそうに安らかな寝息を立て始めたあずさのすぐ隣で、響はしかし寝付けずにいた。  ……運命の人。  あずさはそれを信じているようだし、さっきの映画の主人公も――言わば、あずさの予想通り――妻の方にも恋人が現れて双方大団円を迎えた。本当に『運命の人』は、周囲をすべて幸せにするパワーを持っているのだろうか。  しばらく考えていて響は、だんだんばかばかしくなってきた。運命の人かどうかなんて、周囲にはわからないではないか。映画のように目と目が合った瞬間背景がホワイトアウトし、壮大なテーマソングをバックに映像がスローモーションになるわけではない。漫画のように左右ぶち抜きの大きなコマで描かれるわけでもないし、小説のようにモノローグが『──ひと目で、わかった。』などと記されるわけでもないのだ。  ただ、その本人同士は、きっとそうなるのだろう。だからこそ映画の主人公はそれを感じたし、いぬ美も駆けてくるとらたんにそれを確信したのだ。結局のところ、それは自分で感じなければわからないものなのだろう。 「……ひょっとして、あの人も……」  隣の寝息を妨げぬようにごく小さな声で、そっとつぶやいてみる。言葉にしてみても、やはりピンとこない。実際に会わなければ感じないのだろうか。  もそりと体を回転させ、枕代わりのクッションを抱いて腹這いになる。 「いぬ美ー。お前、とらたんを一目見て、そうだって思ったのかぁ……?」  この位置からはリビングの巨体は見えないが、きっと今も2匹なかよく寄り添っているであろう姿を想像しているうちに、彼女のまぶたは次第に重くなっていった。  響は夢で、母親に会った。  二人は故郷の自宅で、なにか楽しい話をしているようだった。音声がないので内容はわからないが、響が喋り笑ってみせると、母親もにこにこと微笑みながら応える。もともと陽気な母だが、このように女らしく笑う顔を、響は見たことがない。  彼女の母は南国育ちということもあったのだろう、言ってみれば豪気な女傑で、女らしさとは無縁の人柄だった。兄が大黒柱となってからはずいぶん変わったが、それでもあずさのように『うふふ』などとは笑わない。  その母が、穏やかに笑っているのだ。  響は夢の中で、母の楽しげな雰囲気に心当たりがあるのに気づいた。  しかし、それがいつ、どこでのことなのかを思い出す頃には、響自身もそのまま深い眠りの底へと降りていってしまっていた。 ****  翌朝、響は早朝から目を覚ました。もともと寝覚めはいい方だが、オフや仕事が遅い日は自宅でならけっこうな時間まで布団の中で過ごしている。この日は非常に幸せそうな寝息をたてているあずさを起こさないようにベッドを抜け出し、それに気づいたいぬ美が吠えそうになるのを素早く制し、二頭の犬に餌をやり、続いて冷蔵庫を物色して自分たちの朝食を作った。フレンチトーストができあがる頃にはその香りであずさが起きて来て、二人で紅茶とサラダを用意した。 「ほんとにもう帰っちゃうの?ゆっくりしていけばいいのに」  食事を終えていとまを告げると、あずさは残念そうに引き止めた。 「ごめんねあずさ。ウチで待ってるんだよね、朝の散歩の順番を楽しみにしてるのが」 「そうだったわね、響ちゃんちにはお友達がたくさんいるものね。急に泊めちゃったりしてごめんなさいね」 「ううん、すっごく楽しかったぞ!それに、あずさのおかげで思い出したこともあったんだ」  二人で話しながら、二頭の犬を連れてマンションの玄関まで降りる。あずさが謝ると彼女は両手をぶんぶんと振って言った。実際響にとっては、こういう成り行きでもなければなかなか友人宅へ泊まるなどということもないのだ。 「思い出したこと?」 「あ、うん、こっちの話。じゃ、帰るね」 「ええ、また事務所で」 「……それから、あずさ」  響は歩きだそうとして、足を止めて言った。  とらたんの顔をなめているいぬ美にリードを引き留められたのだ。 「とらたんがまた遊びに来ることがあったら、いぬ美、連れてきてもいいかな?」 「もちろん。真っ先に響ちゃんに知らせるわね」  会話の内容がわかったのか、名残惜しげながらも歩き出すいぬ美を伴って、響はあずさと別れた。 「さてと」  角を曲がってあずさのマンションが見えなくなった頃、響はポケットを探り、携帯電話を取り出した。ボタンを確認もせず操作し、電話をかける。  ……運命の人。 「あ、もしもし?自分。響さー」  それは、相手も周囲の人も、みんなを幸せにするという。そんなうまい話があるのだろうか。 「うん、うん、元気でやってる。そっちは?」  あずさは言った。『そんなふうにうまくいくから、運命なんじゃないかしら』、と。「そっか、よかった。……あのね母さん、自分、来月あたり顔見せに帰れそう なんだけど」  ならばその運命は話もせずに切って捨ててしまうものではなく……せめてそれがどういうものか、見定めてみてもいいのではないか。 「うん、二、三日かな。だからね」  ──『今度帰ることがあったらね、響に紹介したい人……いるんだけどね』  母の穏やかな、初めて聞くはにかんだ笑い声は、その時のものだった。 「その時に、こないだ話してた人……会ってみたいな、自分」  先日、ぶっきらぼうに電話を切った時のような不機嫌な声ではなく……。  今回は、響は心から期待と祝福をこめて、そう母に告げることができた。 おわり

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