「起きて」
彼女の、か細い声が僕の意識を眠りから覚醒させた。
ああ、もう時間なのか。
「起きて。あなたは、私なんかの為に死んじゃ駄目なの」
その自己犠牲的な考えは、君には似合わない。
君の様な可愛い子は、男だったら誰でも命を賭して助けたくなるだろう。
「んぐっ……君は、僕の死体を狙ってるんじゃなかったか?」
やっと、重たい上半身を持ち上げられた。
彼女の感情の読み取れない、だけど神が愛を込めて作ったであろう小顔が目に入ってくる。
「でも、あなたはまだ死んではいけないの」
……こんな事を言われ続け、三年になる。
「そろそろ、このまま永眠させてもらいたいよ」
頭を布団に叩きつける様に、再び横になる。
すると、彼女が少し焦った風に僕の顔を覗き込んで来た。
「そんな事、言っちゃ駄目。言葉には、言霊が宿るから。本当になってしまう」
少し分かり難い言葉を翻訳すると、言霊は魔力とイコールで結ばれる。
彼女は、遠い東国、日本の生まれだ。
「君に心配をされるなら、言ってみたくもなるよ」
我ながら、ジゴロな事を言う。
それでも、彼女は特に気にした素振りを見せない。
「私は、言霊までは消せない。だから、もう言わないで」
言い終わると、小さな拳を僕に突き出してきた。
そして、小指だけをぴょこりと覗かせる。
「約束。指切り、して」
彼女は、基本的にはとんでもなく純粋だ。
子供っぽい契約の方法を持ち出し、それを本気で信じる。
これで、たまに毒を吐いたりしなければ最高なのだが……
「指切りげんまん」
僕も小指を差し出し、彼女の小指と絡ませる。
彼女の身体は、まるで体温が無い様に冷たい。でも、それは気持ち悪かったり、恐ろしかったりする類の冷たさとは本質的に違う。
「嘘吐いたら……」
針、千本……
「泥水を千杯飲ます。指切った」
お願い、やめてくれますか?
「天華……それ、本気?」
こっくりと頷く。
無表情の頷きは、中々にクるものが多い。
「だって、針を千本なんて用意出来ない。でも、泥水なら簡単……」
どうでも良い部分でリアリティに溢れている。
これは、本当に次は泥水を用意されてしまいそうだ。もう、迂闊な事は言えない。
「……天華、もしかして。怒ってる?」
彼女とは、三年来の付き合いになる。
しかし、まだ彼女の感情をはっきりと感じる事は出来ない。
本来、女性に今の感情を口に出させるのは好感度を大きく下げかねない行為だ。
でも、天華――以津真 天華は、その感覚が多くの人間の女性と異なっている。
「ううん。でも、ちょっと身体が熱い」
さっき触れた分では、かなり冷たかったのだが……
一応、再び上半身をもたげ、彼女の前髪を少しかき上げ、額に手の平を付けて見た。
「どう?熱い?」
指よりは、まだ体温を感じられる。しかし、人間のそれより大分低い。
三十度も無いだろう。彼女は、それが平熱だが。
「いや、大丈夫だよ。…………気温が高い訳でも無いね。身体の調子は大丈夫?」
彼女は、無表情に自分の身体をぺたぺたと触り、そのまま大胆にも自分の服の胸元を、大きくはだけさせた。
どうやら、頭や四肢ではなく、体が熱いらしい。
そして、しばらくした後に結論を出した。
「この感じ、熱いじゃなくて篤い」
音だけだとわからない。
「あっ、たけかんむりに、うま」
――流石に、彼女と長く一緒に居ると漢字も覚える。
ああ、気持ちや思いが深い……
「それ、どういう意味?」
やはり、よくわからない。
特に、日本語は独特のニュアンスや特例があり過ぎる。
「えっと……篤いの」
あっ、のところにアクセントが付いた。
でも、それで分かる筈が無い。
「その……実際に熱いんじゃなくて、感覚的に篤いの。火照るって言えば、良い?」
何となくわかった気がする。まだ、大分抽象的だが。
「何でか、わかる?」
彼女は、また頭を悩ませてしまった。
でも、頭の回転が速いのも彼女だ。
すぐに結論は出される……酷く口下手だが。
「私、鳥だから」
ナイス迷解答。
「……鳥だから、篤い?」
そろそろ、このまま横になりたくなってきた。
でも、それでは泥水を飲まされそうだ。
「えっと……ヴァンは、恥ずかしいって思った事ない?」
……そう言えば、久し振りに彼女の口から僕の名前を聞いた。
そう、僕はヴァン……ヴァンゲリスという名前だった。
「そりゃ、あるよ……ああ、今天華が感じてるのは、恥ずかしいから体が火照る、そんな感じなの?」
何故、鳥だからという言葉が挟まったのかはわからないが、兎に角それで間違いは無いだろう。
「うん。そんな感じ」
しかし、そうなるとまた新しい疑問が出てくる。
「なんで、恥ずかしいの?」
僕と彼女は、しつこい様だが三年来の付き合い。
毎日、寝食……浴までも共にして来た。
彼女は、裸を見られたりする事に一切の抵抗が無い。
そればかりか、どうやら性行為にすら抵抗が無いらしい。
……流石に、三年の内に手を出す事はしなかったが。
「………………発情期」
躊躇いがちに一言。
至極、動物――鳥っぽい言葉だ。
「えっ、ええ?」
戸惑いが隠し切れない。
突然、そんな事を言われれば仕方が無いだろう。
「普通の鳥は、一年に数ヶ月ある。でも、妖鳥は寿命が長いから数年に数日程度……今が、その時だと思う」
待て待て待て、超展開過ぎる。
何これ、何て官能小説?
『奥様は発情期』なんて本が無かったっけ?無かったな、うん。
「…………嘘でしょ?」
彼女は、毒は吐けど嘘を吐いた事は無い。
でも、四年目に差し掛かった今宵、初めての嘘が来てもおかしくはない。
そうだ、そうなのだ。
「嘘じゃない」
小さく言った彼女は、太ももを小さく擦り合わせた。
やめて、そういうそれっぽい仕草。
「今までも、何回か人間の男性に静めてもらった。人間と、妖鳥じゃ勾配出来ないから……大丈夫」
大丈夫じゃない、すごく大丈夫じゃない。
「なんで、躊躇うの?私が、人間の男性に好かれる姿をしているのはわかってるの」
いや、そういう大丈夫じゃなくないんじゃない。
寧ろ、全然OKで……いや、良くない。
「……格好付けるみたいだけど、僕は君との関係を汚したくない」
言って、酷く顔が赤くなったのに気付く。
「大丈夫、汚れない。私は、この時期の記憶がおぼろげにしか残らないから」
……その方が、余計気まずいって理解出来てます?
「…………ごめんなさい。じゃあ、近くの町の人に頼んで来る」
……絶対にノゥ!
やめて、立ち上がって本当に行こうとしないで。
「待って、それは余計に不味いから……そういう事、わかってる?」
首を傾げ、本気でわかっていない仕草。
「……それは、人間で言う娼婦のする事。汚れきった人間のする事だ。僕は、君をそんなのと一緒にさせる訳にはいかない」
いまいち、僕もその世界は知らないが……
「じゃあ、どうするの?何とかしないと、体が火照ってどうにかなってしまいそう」
平然と言われると、余計に背徳感が……云々。
「……どうしても駄目なら、僕が…………」
針を刺したい。
僕自身に、千本ぐらい。
「そう。なら、良かった」
彼女はそのまま、狭い一人用ベッドに両膝を乗せて座った。日本で言う正座。
「私も、ヴァンが相手なら嬉しい」
……また、あなたはそういう事を言ってくれますか。
典型染みているのに、いざ彼女の口から聞くとなると……
破壊力が抜群に高い。
「……せめて、君のベッドでにしよう」
僕の拘り。それは、彼女は必ずダブルベッドで寝かせている事だ。
体は人間の僕よりずっと小さいが、一枚だけある翼と、尾羽は人間以上にかさを取ってしまう。
だから、たっぷりとしたダブルベッドで寝かせてあげている。
「わかった」
直ぐに立ち上がり、右隣にあるダブルベッドに彼女は腰を下ろした。
こんな辺境の町にあるが、中々良い宿屋だ。
三人も泊まれる部屋があるなんて――ダブルベッドを利用する必要があるが。
「ヴァンは、初めて?」
ぶっ、思わず吹き出す。
本当、抵抗が無いのは罪だ。
「…………恥ずかしながら」
大丈夫、まだ二十二――もう、二十二?
「ヴァンは、若いから。恥ずかしくないよ」
……微妙に憐れむ様な、蔑む様な視線…………僕の被害妄想か?
「私も、数えるぐらい……男性とは」
…………聞いてはいけない一言を聞いてしまった気がする。
だから、聞かなかった事にする。
「でも、私が上の方が良いよね」
…………改めて、なんて事を今からするのだろうと思う。
「……お任せします」
終始引き腰。
そんな僕を余所に、彼女はさっさと仕度を終えてしまい、後は僕を待つだけとなってしまった。
「…………早くして」
幾度となく僕の前に曝け出された彼女の裸。
相手がどう思うかは別問題に、男として直視は出来ない……のだが、これからは嫌でも見ないといけない。
怖い物を見る様にちらっとだけ様子を窺うと、純白の彼女の肌が、微かに紅潮している気がした。
――彼女が魅力的なのは、その謎めいた性格や端整な顔立ちだけではなく、体の各パーツにもあった。
女性なら、誰もが羨む程にスレンダーなのに、ある程度の水準まで出る所は出ている。
それに加え、灯りの照り返しを受け、身体が発光している様にまで見える白い肌。
何度も彼女の身体に触れた事はあるが、この世のものとは思えない程に柔らかく、すべらかな肌触りは何時でも思い出す事が出来る。
そして、思い出せないのはこの後の記憶。
もうきっと、僕の方で記憶の扉を閉ざしてしまったのだろう。
彼女との、初夜の記憶を。
私は、少々楽観し過ぎていた。
いざ、男性――彼の裸を前にすると、何ともいえない感情に心が支配された。
彼も、同じ感情なのだろうか。
「…………初めよ」
声が震えていた気がする。
彼は声も無く頷き、私の横に身体を倒した。
私は、思わず彼に背中を向け、少し距離も離してしまった。
「……天華」
いざとなったら、勇気が出ない。
彼の数十倍も生きてるのに、私は彼よりずっと意気地なしだ。
「…………ごめんなさい。私から、無理言ってるのに」
再び、体を回転させて彼の顔を見る。
どうやら、私と同じ心持ちの様だった。
――或いは、お互いが全く相手の事を知らなかったとしたら、幾分かはやりやすかったのかもしれない。
だけど、私達はあまりにも互いの事を知り過ぎていた。
様々な思い出が頭の中を駆け巡る。走馬灯の様だ。
「天華っ……!?」
だから、何も考えない事にした。
ただ、無心のままに、私は彼の唇に自分のそれを重ねる。
そして、そんな形だけの口付けでは無い。
唇で繋がったまま、彼の口の中に舌を伸ばした。
妖怪のそれよりも、大分高い体温が感じられる。
彼の舌は、想像以上に柔らかかった。
唇が、男性でも柔らかい事は知っていた。
でも、舌にまで触れた事は一度も無かった。
――互いの口は相手の口で塞がれてしまい、声は出せない。
心だけのやり取り。私は、彼の口内を緩やかに舐めた。彼の存在を、舌先だけで確かめるように。
随分な時間、そうして繋がっていた。
十分も、一時間もそうしていた様に感じた。
だから、静かに離れた時、私は口から体温が全て奪われてしまった風に思った。
――そんな筈も無いのに。
彼の口と私の口は、離れてしまった後も、細い架け橋で繋がっていた。
私は、それをも舐め切ってしまいたい衝動に駆られた。
そうしないと、奪われた体温が帰って来ない気がしたから。
でも、すぐにそんな考えも廃れてしまった。
それよりも、幸せな事が出来てしまったから。
彼の腕が、私の腋の下を通り、背中に回される。
そのまま、私の体は彼にぴったりと密着した。
胸が、彼の体に押し付けられ、潰されるのがわかる。
見た目は細く、頼りがいの無さそうに見えるのに、しっかりとした感触のある彼の体。
私は、そんな彼に何度も抱かれて来た。
でも、お互いに裸だったのは初めてだ。
「ヴァン………………」
言葉は続かない。
でも、それで良かった。
「天華」
彼が私の名を呼び、私の体は彼に更に強く抱きしめられた。
でも、決して痛くは無い。
彼が、私にそんな事をする筈が無かった。
――今度は全身で、彼の体温を感じられる。
温かかった。
この世で、これ程優しく、温かいものは存在し得ない。
そう断言出来る。
彼ほど、私の事を想い、愛して、優しくしてくれる人間が、生き物が、存在が、他にいてなるものか。
父にも、仕えるべき神にも湧いた事の無い感情。それが恋慕である事には、今まで気付けなかった。
でも、今はっきりと理解出来た。
彼の体に触れて、私の心が満たされて行く。
今まで、一度も満たされなかった私の心が、優しく解きほぐされて行く。
私には、彼しかいない。
彼以外に、自分を任せられる相手なんていない。
確信出来た。
たった一度、唇を交わし、何の隔たりも無く、抱き合っただけなのに。
そんな単純な行為だけで、私の心には、一片の曇りも無くなっていた。
「ヴァン、大好き」
その後の記憶は、お互いに無かった。
でも、その意味はわかる。
私達にそれ以降の記憶なんて、必要ないから。
ただ、互いの愛を確かめ合えただけで、十分だったから。
そして、私はその時から、冥官の座を退いた。
勿論、今まで通り以津真天として、人に死を与える事はする。
しかし、冥官を辞すると、それまでに出来なかった、たった一つの事が出来るようになる。
――ヴァンも、罪人だ。
彼は、傭兵として、殺し屋として、何十、何百という死体の山を築き上げてきたから。
もう、何時でも冥官に殺されても良い状態だった。
冥官は、他の冥官の仕事の邪魔を出来ない。
だから、もし他の冥官が彼を殺しに来た時、私まで冥官だと彼を守れない。
それだけの理由だ。
ただ、誤算があったとすれば、一つだ。
私も、冥官に追われる身と成った。
そもそも私は、同族を殺し、その罪を贖う為に冥官になった。
もう、その罪は浄化されたとはされたが、新たな罪が出来てしまった。
「同族に刃を向ける為に冥官を辞した」
私は、再び裏切り者と成り果ててしまった。
彼が聞いたら、怒ってしまうだろう。
だから、何も言わない事にする。
最終更新:2009年07月08日 22:05