「お父さん。ただいまー」
戸口から、底抜けに明るい少女の声が聞こえた。
不幸にも帰って来てしまったのか。
いや、彼女には必ずこの現実と向き直らなければならない。
それでも、今日だけは寄り道をして帰って来て欲しかった。
素直で、真面目な娘だと聞いていたのだが。
「あれ、お兄さんだ……お父さんっ!?」
長身の男の姿を認めた娘は、最初疑問を口にした。
そして、その向こう側に物と化した父の姿を認め、驚愕と同時に男への恐怖を募らせた。
父の死体に縋り付こうと動き出した足を急停止させたのは、そのためだろう。
さて、上手い口上を考える時間がなかった。
だから、真実を伝えるしかない。
「もう、大丈夫だ。君は、我々が保護する。十四年間も助けられなくてすまなかった」
こんな事を急に言っても、混乱させるだけだ。
事実、少女は酷く焦った様な顔を見せ、その後はどんな表情をすれば良いのかもわからず、ただ思った事を口に出そうと口を動かし、だけども上手く発声出来ずにいた。
痛々しい。
やはり、義理の……しかも父親の仇である「父親」を失った衝撃は大きいか。
いや、無理もない。
まだ、親に依存して生きている年頃なのだから。
「な、何が大丈夫なんですか?殺人者にあたしは保護されるのですか?なんでお父さんを殺した事を謝らないんですか?なんで、あなたは此処にいるんですか!?」
五歳児でも言えそうな単調な質問。
恐慌状態ならば、無理もない。
それだけの事をしてしまった。
「無理かもしれないが、落ち着いて聞いて欲しい。まず、君が父親だと思っていたこの男だが、率直に言えば君の実父ではない。更に、君の実父を殺した張本人だ」
「な、何を言っているんですか?お父さんはあたしの事を本当に大事に育ててくれたんですよ?それが本当の父親じゃない?馬鹿な事を言わないでください、赤の他人のあなたに何がわかるんですか?」
かなりの早口に加え、内容としては明らかに挑発的。
成る程、やはりこの頭の回転速度はそうか。
「君の父親が、一度でも彼の仕事ぶりを君に見せた事があるか?無いだろう。奴は、奴隷商だった。そして、今まで貴族に援助を受け、商品を育てていた」
それが君だ。という言葉を言う必要性はないだろう。
彼女は、馬鹿ではない。
寧ろ、限りなく聡いのだ。
「あ、あたしが商品だって言うのですか?ば、馬鹿にするのもいい加減にしてください。お父さんは間違いなく、私の父親だったのですよ?奴隷を飼育する様に辛く当たった試しなんてありませんし、寧ろ過保護なぐらい………あっ」
頭が回り過ぎるのは、辛い事だ。
自分で、終着駅に着いてしまった。
「ガラス屋は、商品をぞんざいに扱わない。欠けたり、割れたりした商品を客には出せないからだ」
「…………あたしは、割れ物の様に育てられたって言うんですか……?」
もう、彼女の熱は大分冷めていた。
その事が、より一層傷ましかった。
「君は、自分の背に翼がある事に違和感を持った事が無いか?いや、君ならもう気付いている筈だ。自分が人間でない事に」
今は、力なく垂れ下がっている黒い翼。
そして、ロングスカートの中には尾羽もある事だろう。
彼女は、人間では無い。
「鳥妖……鴉ですか?それとも、死鳥?」
死鳥と言うのは、人間が言う以津真天の事だ。
「後者。正しい名を、以津真天と言う。私もそうだ」
いつまで……口の中で聞きなれない言葉を反芻しているのがわかる。
イギリスで育ってしまった以上、起源が日本であるその言葉は発音も難しいだろう。
「君、自分の名前はわかるか?」
恐らく、得られる回答は偽名だろう。
日本の名が、今も使われているとは考えがたい。
「リズ……エリザベスです」
イギリス女王の名か。
成る程、売れる名前だ。
中々に商才のある男だったらしい。
「もうわかっているかもしれないが、それは偽名だ。本当の名前は、天華……以津真の天華と言う」
また彼女が口の中で繰り返しているのを見た辺りで、過失に気付いた。
このままでは、ずるずる会話が続いてしまう。
まずは、男の死体から彼女を遠ざけるのが優先すべき事項だ。
「天華。いや、まだ慣れないな。とりあえずリズと呼ぼう。家を出よう。君は、死臭には慣れていないだろう」
言って、半ば抱える様にして連れ出す。
線は恐ろしく細く、確かに割れ物の様だ。
しかし、体はもう身長を除けば、ほとんど成人女性のものと同じぐらいには成熟している。
この辺りも鳥妖、以津真天である証拠だろう。
とりあえず、家を出て人気の少ない路地裏まで天華の腕を引いて行った(他人に聞かれても理解出来ないだろうが、万が一漏れると首が飛びかねない)。
そして、その中である音を聞いた。
物理的な音ではなく、天華の心が立てた音だろう。
以津真天は、ある程度の読心の術も先天性的に持っている。
様々な感情が擦れ合い、金属音にも似た雑音を立てる。
それから、最後に一度だけがたりと何かが崩れる音がした。
それは今までの父親への幻想か、下手をすれば彼女の精神そのものか。
「大丈夫か。リズ」
「……テンカで大丈夫です。もう、踏ん切りは付きました」
前者だった様だ。
しかし、後者であっても彼女を責める事はしなかっただろう。
寧ろ、そっちの方が自然であるかもしれない。
気丈さが、本当に痛々しい。
「これからの事を言っておこう。このまま人間の傍に居れば、また君が危険に曝されかねない。事実、男の友人だと言う者も何人か来ていた事だろう。奴らに見つかると厄介だ。勝手な話だが、我々の住む所に来て欲しい。いや、来てもらわないといけない。従ってくれるだろうか」
「はい。拒否権は、無いのでしょう?それに、あたしも本当のお母さんの顔を見てみたいです」
多少、心に余裕が生まれたのか。
随分と天華の声は軽い。
空元気である事は間違いないが。
「そうか。なら、私の……胸で良いか?自分で身を預けて良いと思う場所に捕まってくれ。飛んで行く」
「あたしは、別にそんなのを気にしませんよ」
天華は躊躇いもせず、胸に捕まった。
柔らかい双丘が押し付けられる。
……一応、冷静な男で通っているのだが、意識せざるを得ない。
それでも、少女の力だけでは頼りないので、腰に腕を回してしっかりと抱き締める様にする。
……不味い、齢十四の少女の体がこんなにも官能的だとは想像していなかった。
だが、力を弱める訳には…………
「あ、ごめんなさい。あたしは良くても、お兄さんは駄目でした?」
そんな気配を感じ取ったのか、半ば茶化す様に言われた。
「問題無い。行くぞ」
…………何となく、この娘にはこれ以降もこんな扱いをされる気がした。
後に彼女の世話係となる男。乃神笠狗の話である。
最終更新:2009年07月12日 23:42