第六章 学園に上がるのは崩壊の狼煙
1
指紋、静脈、指先の微振動パターン、これら三つを入り口に取り付けてある機械に承認させドアを開く。
朝一番で来ただけあって一五九支部にはまだ誰もいなかった。
「みんな、おはよ」
虚空に向かってポツリと呟くのは一厘鈴音。
どこか不安定なその表情は、必死に冷静さを保とうとして出るほころびがある。
一厘がわざわざこんな時間からここに来たのは、支部の誰にも悟られず白高城の元へ、そして『アヴェンジャー』のアジトと思われる場所へと行く準備をするためだった。
「手錠は、どこに閉まってあるんだっけ……」
もし仲間がいる場合、一人での行動を絶対に止めてくる。
一厘は白高城のことは全て自分の手でケリを付けたかった。誰にも邪魔されず、二人だけで彼女と話したかったのだ。
ロッカーの上に置かれている段ボール箱に手を伸ばすと、そこには風紀委員で支給されている手錠がゴロゴロと詰め合わされていた。
それら全てを持ってきたリュックサックに詰めこむ。
「あは……なんで私、こんなコトしてんだろ?」
一厘は今の自分のし行動に対して矛盾を感じ、自嘲気味に笑った。
白高城が『アヴェンジャー』じゃないと信じてる。
――――なのに何故こうして捉えるための準備をしている?
最悪の場合でも話し合うことで分かり合えると思ってる。
――――なのに何故浮かび上がるビジョンは戦うことだけなのか?
「私は……」
もしかしたら、自分は心のなかで諦めてしまってるのかもしれない。
白高城はもう手遅れなとこまで堕ちていて、自分はそれを引きずり上げることはできないと自覚しているのかもしれない。
一厘はブンブンと頭を振った。そんなはずはない、と悪循環に陥る思考を止めるために。
気を落ち着ける為に支部内に設置されたコーヒーメーカーで一杯のコーヒーを淹れる。
ポタ、ポタ、ポタと一滴ずつ溢れる茶色い水滴の音が淡々と聞こえ、水蒸気がユラユラと揺れながら空気中に溶けこんでいった。
『じゃーん!! こんなん買って来ましたーー!! ぶっちゃけ風紀委員たるもの常に頭を冴えて置かないといけないっすからね! ま、ガキンチョの一厘にはまだ早いからお前は無理して飲まなくてもいいぞ! わははははは』
そういえばこのコーヒーメーカーは妙に大人ぶった鉄枷が買ってきたものだったか、と一厘は懐かしむように思い出す。
あの日、ムキになって負けじとコーヒーを飲んだら苦くて、後悔したこともあった。
『そういうときは、これ。ブロッコリーソーダまんじゅう。これを食べると甘みで苦味が相殺されていいよ』
その時、一厘にいかにも怪しげなまんじゅうを差し出してきてくれたのは春咲だった。
味はそこまで悪くはなかっが、口にへばりつくせいで色々と苦戦したものだ。
一厘は冷蔵庫から牛乳を取り出し、コーヒーをそれで割る。
黒い液体に白い液体が混じり合い、鮮やかな茶色へと変わる。
それを一口口に含めば、温かく柔らかな味が口内に広がり、自然と彼女に笑みを作らせる。
沈黙だけがはびこる支部内。
それでも一厘は独りではない。
この支部にある物のひとつひとつに、仲間との思い出がぎっしりと詰まっているのだから。
『ほら、ここの支部の腕章だ。前のやつはボロボロだったろ? これを期に新しく変えちまいな』
一厘は右肩に取り付けてある腕章をさする。
それはこの支部に来てしばらくした後に、破輩から手渡された物だった。
あの時は本当に嬉しかった。
よそ者である自分が、正式にこの支部の一員として認められたような気がして。
「みんな……大好きだよ」
飲み終えたコーヒーを置くと、一厘は支部内から出た。
もしかしたら、自分は『アヴェンジャー』の所へ向かったが最後、もう二度とここへは戻ってこれないかもしれない。
だから、ここで一応最後の別れを告げておくように、
「……さよなら」
天気は快晴。風すら吹かない今日の天気は皮肉にも穏やかであった。
周りには日光を浴びて顔を出すアサガオ、それに雀の鳴き声が聞こえてくる。
一厘は必要な物全てを詰め込んだリュックサックを背負うと、歩き出した。
場所はもちろん、白高城のいる所しか無い。
2
《日中は風もなく学園都市では穏やかな一日になりそうです。夜からはところにより……》
テレビから天気予報を読み上げるアナウンサーの声が聞こえてくる。
赤いハチマキを付け直しヘアッセットをする鉄枷。
彼はカラ元気を振る舞うように少し声のトーンを上げて隣にいた佐野に話しかけた。
「は~~ぶっちゃけ、お前と一緒になるとは今日は心穏やかじゃない一日になりそうにないぜ、佐野」
「まったくもって同感です。なんで私が鉄枷ごときと一緒に待たなくてはいけないんでしょうか」
鉄枷はヘアセットを終えると、朝食の代わりに買ってきたパンを気だるそうに頬張りながら、コロコロとテレビのチャンネルを変える。
この時間帯にやってるのは天気予報やニュース、それと胡散臭い商品を売りさばくテレホンショッピングばかりだ。
「あれ……おい、佐野。お前俺のコーヒーメーカー使ったか?」
そんな中、鉄枷は机の端で電源が入ったままのコーヒーメーカーが起動していることに気づいた。
昨日出るときには確かに電源は落としていった。
なのに、今ついてるということは鉄枷以外の誰かが起動させたとしか考えられない。
「私は使ってませんよ。そんなことより鉄枷。貴方がいくら手錠マニアだからといって支部の手錠全て持っていくのは止めろと言ったでしょうが」
佐野が発見したのは予備の手錠が保管されているはずの箱。
しかし今その箱のなかには一つも手錠は入ってなかった。
「あ? 今回は俺じゃねえぞ」
お互いの予想外の答えに二人はしばらく沈黙し続ける。
もしそれが本当だとしたら、鉄枷達の前に誰かがこの支部に来て、コーヒーを飲んでから手錠を全てかっさらっていったということになる。
「ちょっと、待って下さい」
佐野は入り口に設置されてある機械にパソコンからアクセスし、今日の出入りの履歴を調べる。
本来なら一番乗りであるはずの自分と鉄枷の名が最初に表示させられるはずだが――――
「どうしたんだ。なんかわかったのか?」
鉄枷も佐野の隣に割り込んできて、パソコンの画面に目をやる。
「!!」
鉄枷と佐野は二人揃って声が出なかった。
そこには自分たちよりも三十分近く先に来ていて、その数分後にすぐに支部から出ていったと記録されている、一厘の名があったのだから。
「ぶっちゃけどういうことだ? 何で、あいつこんな早くに来て、またどっか行っちまったんだ?」
「それだけではありません。何故一厘さんがここにある手錠を持っていったのか。そこの点が大事です」
考えて答えが出るはずもない。
仕方なく、鉄枷は一厘の携帯へと掛けてみることにした。
「くっそ……これ絶対につながらないパターンじゃ……」
鉄枷に前回の嫌な経験が通り過ぎる。
コールの音は何回も続き、耳の中がその音一色に染まっていった。
鉄枷は何か嫌な予感がして、電話を降ろすことができなかった。
ここで諦めてしまったらなにか大事なものに気づかないまま、通りすぎてしまうような気がしたのだ。
『はい……』
電話の向こうの相手の声が聞こえてきた。
何かいつもの一厘の声と違うような気がしたり、寝起きの様な声にも聞こえたが、鉄枷はなりふり構わず、いきなり質問を投げかける。
「おい、ぶっちゃけ一厘か!? ぶっちゃけ今どこにいる!? そんなことより何で、お前手錠持っていった!? ぶっちゃけ暇な時間にあれを磨くのが俺の趣味だっつーのに!!!!」
聞きたいことは山ほどある、そしてすごく焦りを感じてる。
『……るさい』
電話相手が何やらボソッと呟いた。
「……ん?」
『朝っぱらから、ぶっちゃけぶっちゃけうるさいっての!! 人がせっかくの休日だから今までぐっすり眠ってんのに!!』
電話越しでも伝わってくる甲高い声。あまりのトーンの高さに鉄枷は耳を押さえた。
耳鳴りのする耳を押さえながら感じたのは二つの違和感。
まずは返ってきた声がまったく一厘のものとは別物であったこと。
そして二つ目がついさっきここに来たはずの一厘の言葉が『今までぐっすり寝ていた』とのこと。
この二点から考えると、この電話の相手は一厘ではない。
「あんた……ぶっちゃけ誰だ?」
鉄枷は念のために掛けた電話番号を確認してみる。
その番号はやはり一厘のもので、それ以外の者のではなかった。
なら何故一厘以外の者が電話に出たのだろうか?
そんな疑問が頭の中で渦を巻く。
『私はその一厘のルームメイトよ。一厘が携帯忘れていったらしいから、仕方なく私が出たってわけ。
ホントは無視しようと思ったけど三分近くも鳴り続けたらさすがにうるさいし、その執念だと切ってもまた掛けてきそうだったしね』
あくび混じりの少女は懇切丁寧に事の次第を説明してくれた。
確かにその言葉の通りなら先ほどの違和感も消える。
「なんだ……そういうことかよ」
結局、一厘の口から真相を聞くことはできなかった。
彼女が何を思い、何を感じ、今何をしているのかもわからない。
そんな事が一層焦燥感を加速させ、鉄枷はじれったさに歯噛みした。
『その様子だと、彼女、何かしたらしいわね』
そんな鉄枷を察してか、少女は何か物知り顔で話しかけてくる。
「何かした……と言うよりかは、今から何かしそうなんだよ。あいつ……一厘はなんかそれらしいこと言ってたか?」
「……今日の朝、あの子が起きてるのに気づいて少し声をかけてみたけど、無視して出て行っちゃった。
その時の表情、なんかすごい思いつめてるみたいだった……」
少女の言葉で、鉄枷はやはりただごとではないことに気づく。
鉄枷は他にも色々と問うてみたが、それ以上変わったことは無いようで、なにも手がかりを得ることはできなかった。
「くそっ……あのバカ一厘。また面倒事を俺たちにぶっちゃけず、自分の中に貯めこみやがって!」
「なんか穏やかじゃないわね。何なら“私達”も彼女探すの手伝おうか? 無駄に鼻の利く“変人”もこちらには居るし」
変人という言葉にどこか思い当たるフシを感じながら、鉄枷ははっきりと断った。
ここの支部、及びにこの学園の問題を周囲の者に頼る訳にはいかない。
これは破輩の下した決定事項でもあり、鉄枷自身、風紀委員のプライドをかけて守り通したい事だったから。
「いんや、ぶっちゃけそれには及ばねえ。こっちのことはこっちで何とかするからよ!」
「そう? なら健闘を祈るわ。じゃあね」
あっさりとした返事が帰ってきたかと思うと、そこで電話が切れた。
残された電子音なんて聞かずに、鉄枷は慌ただしく荷物をまとめ始める。
「どこへ行く気ですか?」
そんな時、佐野が鉄枷を呼び止めた。彼は自分の愛用のメガネを拭きながら、じっと俯いている。
鉄枷は焦っているのか、目を血走らせながら振り返って言った。
「そりゃあ、一厘を見つけ出すに決まってんだろ! このままほっといたら、あいつ!」
「落ち着いて下さい、鉄枷」
「この状況で落ち着いてられっか!! 昨日だって……厳原先輩がやられたんだぞ!?」
今まで平静を装っていた鉄枷の仮面がピシピシと音を立てて崩れ去る。
その下にあった真の表情は、厳原という頼れる先輩が潰されたことによる、怒りと悲しみ。
昨日の夜、破輩から風紀委員全体に連絡が来た。
その内容は厳原記立が虫の息で発見されたという知らせ。
病院にすぐさま運ばれた厳原は全身複雑骨折、及びに大量出血により、生と死の境を行き来する極めて危険な状況だった。
同じく、重体の風輪学園の少年がその場にいた事から、『アヴェンジャー』を止めようとして返り討ちにあったというのが破輩の出した推測。
だから、鉄枷はこれ以上ないほどに仲間の行動に敏感になっていた。
昨日の会議まで元気だった先輩が、自分に優しく注意してくれた先輩がこうも簡単に自分の前から消えていってしまったのだから。
これ以上誰も傷ついてほしくない。これ以上仲間を失いたくない。これ以上誰かの悲しむ顔は見たくない。
今の鉄枷の心からの願望はたったのこれだけだった。
「それはわかりますが、貴方は破輩先輩の言ったことを忘れたんですか?」
「……っ!!」
昨日の破輩からきた連絡は、指示があるまで支部に待機してろとのこと。
彼女にも何か考えがあるというのに、それを踏みにじっていいものではない。
「それに、どこにいるかもわからない一厘さんをどうやって見つけると言うんです? 何の手がかりもないこの状況で一人の人間を見つけ出そうなんて、何年かかろうが不可能ですよ」
追い打ちをかけるように、佐野は今の厳しい現状を伝える。
鉄枷は何も答えることができなかった。
何もできない自分の無力さに悔み、怒りに震えることしか今の鉄枷には出来なかった。
「くっそ……じゃあどうしろってんだよ!! このまま何もできずに、ただ指を加えて待っとけっていうのか!」
「はぁ……やはり所詮は鉄枷。もっと柔軟に考えることはできないんですか?」
佐野は呆れながら、鉄枷の前に携帯の画面を向ける。
そこに写されていたのは、第五学区のマップとその上で点滅するポインターだった。
「なんだよ……これ」
「前回の事をまったく活かせてませんね。一厘さんの持っていった手錠、つまりはここで支給されている手錠には小型の発信機が内蔵されてるんですよ」
「!!」
前回アヴェンジャーに手錠が奪われた時、それを使い場所を調べあげたことを思い出す。
つまり、今回の場合も一厘が手錠を持っているのなら、同じように場所を調べあげる事が可能というわけだ。
「前回のシステムを改良し、今回は携帯でも手錠の位置を確認できるようにしました。これでどうですか?」
「けど……破輩先輩の命令はどうすんだよ……」
「辛い時は仲間を頼れ、それが貴方のキャッチフレーズなんでしょう? それならば、ここは仲間である湖后腹君と春咲さんに任せましょう」
佐野はニッコリと笑って、拭いていたメガネをかけ直す。
「佐野、テメエはどうすんだ?」
「鉄枷だけでは心もとないんで、私もついていきます。それに……彼女には渡したいものもありますしね」
この支部で一番馬の合わなかった二人の男の意見がここに来て合致した。
二人は急いで準備をすると、そのまま支部を後にする。
互いに思いを巡らしながら、それぞれの決意を持って。
3
破輩は風輪学園の敷地内をゆったりとした速度で歩いていた。
否、もはやゆったりとした速度でなければ歩くことすらままならないといった方が正しい。
過度に渡るデスクワークにより、心身ともに疲労していて、更には昨日から今日にかけてずっと厳原につきっきりだった。
いつ倒れてもおかしくない。
自分の身体が一歩前に出るだけで体中が悲鳴を上げ、気を抜けば意識を持っていかれそうになる。
「悪いな……待たせちまって……」
破輩はこの時間に第二グラウンドで待ち合わせをしていた。
話を聞きたいため、そして、破輩が考えている一番『アヴェンジャー』との繋がりが濃いと思われる人物と。
だからこんなところで弱音を吐くわけにはいかなかった。
これで、全てに終止符がうたれるかもしれないのだから。
「いえ――――」
ボロボロの破輩にさえ、待ち合わせていた人物は何の関心も示さず、ただ微笑する。
一筋の光も感じさせない瞳が破輩を捉え、その人物はゆっくりとこう言った。
「特に気にしてませんよ――――破輩先輩。」
お互いの間に静かな時が流れた。
風ひとつ吹かないその空間は、永遠のものと感じさせるほど長く、そして驚くほど短い。
「そうか――――」
その答えに安堵したのか、それとも他の意図があってか、破輩も微笑する。
「なら良かったよ――――黒丹羽千責」
風紀委員のリーダーと、アヴェンジャーのリーダー。対極に位置する者が相まみえる。
二人がお互いを認識すると、さっきまでの穏やかな空気がガラリと変わり、ビリビリと張りつめた空気が流れた。
「それで、“聞きたいこと”って何なんですか?」
先手を切ったのは黒丹羽だった。
その質問は『アヴェンジャー』としてではなく協力中のレベル4としての発言。
破輩も飽くまで“協力中のレベル4”としての黒丹羽に返答する。
「これを見てくれ」
破輩は黒丹羽へと一枚の紙を手渡した。
その紙は昨日の会議で使ったレベル4の靴裏の写真。
裏に黒丹羽の名前が書かれているので、どうやらこの靴の写真は黒丹羽のモノのようだ。
「これがどうかしたんですか? 昨日言っていた傷はどこにも見当たりませんよ?」
「いや、目を向けて欲しいのはそこじゃない」
破輩はブレる視界で黒丹羽をしっかりと捉え直し、こう言う。
「私が言いたいのは“他の奴らと比べて、お前の靴だけ新しすぎるということ”だ」
破輩が昨日の会議では気づかなかったこと。
それは他のレベル4のものと比べると、黒丹羽の靴だけ使い古された様な様子がまったくもって窺えなかったという事だった。
購入して二ヶ月も経ってなさそうで、靴裏の擦り切れ具合はほぼ無いといってもいい。
「ああ、これですか。そういえばつい最近買い換えましてね……」
その指摘に同様した様子もなく、黒丹羽は写真を見つめながら言った。
「ああ、それはわかってる。だから、わざわざここの学園の靴を販売している店まで問い合わせたよ」
破輩はポッケからくちゃくちゃに丸めた紙を二枚取り出す。
そのうちの一枚は何かの名簿のようで、ひたすらに人物の名前が羅列されていた。
「これが今学期からの風輪指定の靴の購入者リスト。ここに載ってんのは、ほとんどが新入生だったよ。
在校生で購入したのは黒丹羽、お前しかいなかった」
「へえ、よくそこまで調べましたね? けど元の靴がなければ、僕が証拠隠滅のために靴を買い直したということも立証できませんよ?」
「その点も問題ない」
破輩はもう一つの紙を取り出す。そこにあったのは、またもや靴の裏の写真。
中腹に――――“例の傷跡”がついてある靴の写真だった。
「生産社会って言われてる現代だけど、ここ最近はリサイクルにも積極的に取り組んでるらしいな、学園都市《ここ》は」
破輩の思わせぶりな発言にも黒丹羽の表情に変化は確認できない。
破輩はその人間味のなさに少々の不気味さを感じ取りながら続けた。
「在校生が靴を買い換える場合は、今まで履いてた靴をその店に渡さなければならない。つまりお前が隠したはずの証拠もまだ店に保管されていた……というわけだ」
黒丹羽が証拠隠滅のために店へ出した靴。
本来ならばその靴は数が集まり次第、即効でリサイクル工場へと送られるはずだった。
しかし今回はその集まりが悪く、今日になってもその靴がこの学区から消えることはなかったのだ。
「私も運がいい。ダメ元でその店の店員に靴の写真を撮って送ってくれと頼んだんだが、頼んだ相手がまだ新入りみたいで普段は断るようなことをあっさりと承諾してくれた」
まあ、そんなことは置いといて、と破輩は呼吸を整え、
「単刀直入に聞く。黒丹羽千責、お前は『アヴェンジャー』の一員なのか?」
靴の傷跡からして黒丹羽が『アヴェンジャー』であることは明白だった。
しかし破輩は否定して欲しくて、そんなことを尋ねてみる。
例え半月ちょいだろうと、共に動いてくれた仲間だった。
巡回中に黒丹羽と会話した時、破輩は少しながらもこの少年に関心を持っていたのだ。
気さくで、気がきいて、優しい、何故こんなにも優れている人物が風紀委員に入らないのかと疑うほどに。
黒丹羽はそこで初めて表情に変化を見せる。
それは口の端を釣り上げて笑う微笑み、……否、もはや人を見下す嘲笑と言っていいほどに悪意に満ちた笑みだった。
「ええ――――そうですよ」
切れかかっていた破輩と黒丹羽の関係はそこでバッサリと裁たれた。
この言葉は今からお互いを敵同士と見なす合図のようなもの。
「そうか……」
しかし、いきなり戦闘には突入しない。
こみ上げる怒りを押さえ、冷静になろうと努める。
この男にはまだ聞かないといけないことが山ほどあるのだ。
「お前はなんでそんなことを……」
「まったく、この後に及んでまだ質問かよ」
黒丹羽の言葉遣いは丁重なものから粗暴なものへと変わる。
呆れたように快晴の空を見上げると、彼は一つだけ言葉を口にする。
「復讐者《アヴェンジャー》」
その言葉にどう反応していいかわからない破輩に侮蔑の視線を送りながら付け加えて、
「この名の通り、俺の行動原理はただ一つ。復讐だよ」
4
黒丹羽が『アヴェンジャー』の名を手に入れた後にすぐ行ったことは、二年前のクラスメイトへの報復。
自分を化け物と蔑み、何度も何度も嫌がらせをしてきた者たちへの正当なる復讐だった。
双里によって操られてたとか、その時の記憶がないなんて関係ない。
たとえそれが自己満足だとしても、そうしなければ心の怒りを溜め込んだまま自分は死んでしまいそうな気がした。
クラスメイトの男達は一人残らず叩き潰した。
記憶操作系の能力者に後始末を任せ、次は女の方へと狙いを向ける。
だが結果として女への報復は成就することはなかった。
黒丹羽の女へと向ける刃は、女である双里を殺した時、女である黄ヶ崎に拒絶された時に完膚なきまでに破壊されてしまったのだ。
目の前で女が泣けば、その時の記憶がフラッシュバックで蘇り、黒丹羽を苦しませる。
自分が殺人者であることが再確認される。
だから、黒丹羽は女への暴力は嫌っていた。
『アヴェンジャー』の活動での対象は男だけにしろ、なんてことを取り決めたりして『フェミニストな悪党』なんて言われ馬鹿にもされた。
だがそれでいい。
馬鹿にされるくらいで済むならそれでもいいと考えていた。
黒丹羽の報復対象は女を除けば全ていなくなった。
だが、そこになんの達成感も感じず、怒りが消えたわけでもない。
やはり黒丹羽の報復の対象なんて元クラスメイトなんてちっぽけな範囲で収まるはずがなかったということだ。
憎い。
居場所なんてないこの世界で、仮初の、形だけの居場所に安住する者が。
自分達の内面は目も当てられないほど醜いというのに、それも自覚せずのうのうと暮らしている大馬鹿どもが。
だから、『アヴェンジャー』の活動に終わりはなかった。
学園都市《ここ》がどれだけひどい場所か刻み付けるために、自分達がどれだけ醜いものかを知らしめるために。
「お前……なんで!」
「おっと。何があったかなんて聞くなよ? よくあるだろ。物語の終盤で自分の過去をつらつらと語りだしちゃう間抜けた悪党。あれって何がしたいんだろうな? お涙頂戴ってか? 同情して欲しいってか? 笑わせんじゃねえよ」
黒丹羽は、破輩の追求の言葉を押し留めさせた。
この女に自分の過去を語る必要なんて無いし、わかってもらおうなんて思っていない。
そもそも自分の過去を話してどうなる。
それで何もかもが帳消しになるわけでも、自分への認識も変わるわけでもない。
黒丹羽はそんなことを語るのはただの自己満足と知っていたから、今更になって語ることなんてなかった。
「じゃあ、これだけ聞く……!」
破輩は歯ぎしりをして、黒丹羽へと視線を向け直す。
「厳原を……厳原記立をあんな目に遭わせたのは、お前か……? 黒丹羽」
黒丹羽は聞き覚えのある名前にピクリと反応した。
厳原記立と言えば今までの巡回で、たまに同じ所を見回ったことのある者。
そして昨夜、一善が潰したと言っていた四人目のレベル4。
「あいつはな……誰よりも優しかったんだよ。周りからは“委員長”なんて呼ばれて慕われていて、後輩の面倒見はいいし、誰にでも別け隔てなく接してくれる聖女みたいな女だったんだ。……私なんかより、ずっとあいつのほうがリーダーに向いていた……」
黒丹羽は何を思ってか自分のポッケに入ってる携帯に目をやる。
破輩の今にも泣き出しそうに震える声が黒丹羽にはとてつもなく耳障りだった。
「なんで……なんでそんな奴が、あんな目に遭わなきゃいけないんだよ!! そのせいであいつは今も生と死の間を彷徨ってる。……もし厳原が死ぬようなことがあったら、私はお前を殺してやる!!」
破輩の言葉に冷静さは微塵も残されていない。
今まで、どんなことがあろうと全てを指揮する者として常に冷静であろうと努めてきた。
無能だと罵られようが、役立たずと馬鹿にされようが、信じていたレベル4に裏切られようが。
だが、自分の一番の心の支えがこうして目の前から消えてしまった。
それが破輩には耐え切れなかったのだ。
「……くっだらねえ。茶番はいいかげんにしろよ。あんた」
黒丹羽は心底冷めた様子で頭を掻きむしる。
そう、茶番。
「あんた、本当はその厳原なんてヤツのことはどうでもいいんだろ? 本当は“仲間を思って苦しんでる自分”を演じることに自酔してるだけだ」
人間なんてそんなモノだった。
許せないだとか、かわいそうなんて感情は全て上辺だけ。
その奥にあるのは奮起する勇ましい自分、同情する優しい自分に酔っている人間の醜さだけなのだ。
「あの厳原って奴もそうだ。仲間思いだった? 優しかった? 別け隔てなく接してくれた? そんな物全て『優しい自分』演じることに酔ってただけだろ。そうすることで周りからの評価の上昇を期待してただけの醜い利己的動物……」
「黙れっ!!」
破輩の怒気を孕んだ叫びがグラウンド中に響き渡った。
それでも黒丹羽は口を動かし続ける。
「はっ、良い感じにぶっ飛んできたねえ、破輩先輩。じゃあそんな貴方に免じてその問いに答えるとしようか」
黒丹羽は可笑しそうに口元を釣り上げて、
「答えはイエス。アンタの言う通り厳原記立を半殺しにしたのは俺だよ。
ああいう偽善者って本当にムカつくからさぁ、一辺死んでみないと治らないと思ってね。
見ろよ俺の手、あんなにボコボコにしたのに全然傷がつかなかった。やっぱ男よりも女のほうが肉質が柔らかくてサンドバッグにするにはもってこいだ」
見せつけるように右手を何度もグーパー繰り返す黒丹羽。
もし、今の破輩がいつものように冷静だとしたらこの嘘は簡単に見抜けていただろう。
「……く、」
だが、今はそんなところに頭は回らない。
自分や厳原を否定したこの男を、厳原をあんな目に遭わせたこの男を、これ以上知りたいだなんて思はなかったから。
「黒丹羽アァァァァァァァァァ!!!!!!」
怒りが頂点に達した破輩は能力を発動させる。
次の瞬間には竜巻のような巨大な風の渦が発生し、黒丹羽を一瞬で飲み込む
はずだった。
「!?」
なのに能力が発動しない。
正確には演算は働いているが周囲の風が働いていなかった。
「やだなぁ。ちゃんと天気予報は見ましょうよ破輩先輩。」
無様な光景を目の当たりにして黒丹羽はニッコリと微笑んだ。
そう、今日の天気は快晴。
しかも風のない穏やかな一日というのが樹形図の設計者が導き出した答えだったのだ。
破輩の能力は周囲の風の強さによって威力が比例する。
その為、もし辺りに風がほとんど吹いてなければ、破輩はそよ風程度しか生み出すことはできないのだ。
「ま、この無風状態はそれだけが原因じゃない。この学園の周囲に気流の流れ操作する機器を等間隔で設置してある。つまりこの学園内は人工的に創りだされた無風状態にあるってわけ」
黒丹羽はパチンと指を鳴らした。
すると周囲から『アヴェンジャー』と思われる集団が待っていたかのようにぞろぞろと出てくる。
「この……下衆が!!」
破輩がありったけの憎しみを込めて黒丹羽を睨みつける。
それを見て『アヴェンジャー』の男達は笑い、黒丹羽も見下すかのような視線で返した。
「あんたみたいな“醜さを偽る偽善者”よりはまだ“自分の醜さを認める下衆”のほうがマシだよ」
それだけ言うと、黒丹羽は破輩に背を向けてグラウンドから立ち去ろうとする。
追おうとする破輩だが、『アヴェンジャー』の男達が遮るように前に立ちふさがった。
「待て黒丹羽!! テメエ逃げる気か!!」
息を荒げながら破輩は黒丹羽を逃さんとばかりに吠える。
「いや、待っているよ。あんたらがどう足掻くか一番良く見えるところでね」
振り向かず黒丹羽は返した。
もはや能力が使い物にならない時点で、破輩なんて恐るるに足りない。そう言わんばかりに。
「ああ、それと。俺が正体をバラした時、あんた残りの風紀委員とレベル4に連絡してたみたいだけど、残念ながらそいつらはここには来ないぜ?」
破輩は今までの行動を全て見透かされていることに気づき、驚愕した。
実を言うと黒丹羽をここに呼び出す前から、残りのレベル4にいつでもここに来れるよう、準備を頼んでいた。
そして黒丹羽が正体をバラしたと同時に、ポッケにある携帯でその旨が予め書かれていたメールを一斉送信したのだ。
もし黒丹羽相手に苦戦することになっても最終的には数で圧倒できると考えていたから。
「だって、あいつらはあいつらで今ごろ、アヴェンジャーによる襲撃を受けている頃だからな」
しかし黒丹羽はそこまでも見抜き、レベル4がどこから来るのかを把握して、待ち伏せできるよう『アヴェンジャー』の配置図を作成しておいたのだ。
しかもその目的はレベル4の殲滅ではない。ただ単に時間稼ぎをしろとのこと。
この時点で破輩さえ人質に取れば、連鎖的に他の者の動きを封じることに繋がる。
つまり、今ここにいる数十人が破輩を潰すのが先か、レベル4達がここに駆けつけてくるのが先かということ。
「じゃ、死なない程度に頑張ることだな」
そう言葉を残し、今度こそ黒丹羽は破輩の視界から消えていく。
代わりに、襲い掛かってくる数十名の男達が視界を埋め尽くした。
「黒丹羽アァァァァァァ!!」
破輩の絶叫が耳に通ることもなく、その少年はどこかに消えていった。
自分の策を全て見透かされ、対策された。この時点でもう詰んでいたのかもしれない。
5
一厘は元研究所の入り口まで足を運んでいだ。
周囲には人影を感じさせず、沈黙という不気味さが空気を包んでいる。
(監視カメラは……起動してないようね)
辺りに視線を配りながら一厘は差し足で建物の奥へと進む。
足音を立てずにゆっくりと、そして確実に。
「おいおいおい!! 何で俺がここで見張りなんてやらされんだよ!!」
突如聞こえてきた男の叫びに一厘は背筋を震わす。
どうやら向かい側の室内に『アヴェンジャー』の者たちが何人かいるようだった。
「まあまあ、大狗部さん。木原さんがあいつらの首引っさげて帰ってくるまでの辛抱ですよ。それに敵襲なんてありえないから、ここでぐーたらできる分マシじゃないですか」
「ちっ……こんな退屈な時間なんていらねえよ。せめて女がいりゃあ話は別だが、どっかにいねえかなぁ。調教しがいのある女」
ゾクリと、背中にナメクジが這うかのような感覚が一厘を襲う。
まるで大狗部という男に自分の存在がバレているかのような気がして、足が震える。
もしここでバレたら自分は……
(……やっぱ、怖い)
「それなら、今ここに白高城って女がきてんじゃないっすか。どうです? 今から二階に行ってヤッちまいませんか?」
(!!)
その言葉で一厘は更に血の気が引いていく。
やはりここに白高城がいるという信じがたい事実と、白高城が今まさにこの男達に襲われるかもしれないとう事実が一厘の思考を掻き乱す。
「いや……あの女は木原さんと同列の人間だ、下手に手を出して後悔はしたくねえ」
幸いなことに、大狗部にその意志はないらしい。
とりあえずこれで最悪の展開だけは回避できた。
一厘はその者達にバレないよう、こっそりと二階へ続く階段を上る。
(あいつらの言うことが正しいなら……白高城ちゃんは二階に……)
二階に上がった後も、見えるのは果てしなく続く廊下ばかり。
ただでさえ広いというのに、目印になりそうなものが全くない、ただただ同じ光景が続く空間は、無限の広ささえも感じさせる。
コツン、と足音を鳴らし一歩を踏み出した。
無機質な床をローファーが踏む音だけが響く。
一厘はひと通りの部屋を慎重に確認していくと、次の棟に繋がる外部テラスに出た。
緑色の床に、両端に設置された銀色の柵。
吹き抜けということもあって、日光が直に照らし、眩しいばかりである。
そんな所に一人の少女がいた。
この街の景色を眺めるように柵に寄りかかって頬杖をついてる一人の少女が。
日光を反射するように輝く茶髪の髪、両目にある泣きぼくろ。
一厘の過去の記憶が溢れかえる。
色褪せない過去の記憶の中の少女と今目の前に居る少女。
その二人は間違いなく同一人物だった。
「白高城ちゃん!!」
本当はこんな形での再会なんて望んでなかった。本当ならこんなところで会いたくなんてなかった。
けれど嬉しい。
支部を変えてまで会いに来たというのに今まで一度も会うことができなかったのだから、この再開を喜ばずにはいられない。
「……!」
白高城が驚きの表情で一厘の方を向く。
彼女もまさかこんなところで会うことなんて思いもよらなかったらしく、その目の焦点は定まっていない。
「嘘だよね……? 白高城ちゃんが『アヴェンジャー』なんて……そうだよ、ね?」
よろよろとした足つきで、けれども確実に一歩ずつ白高城の方へと進んでいく。
「……」
白高城は黙ったまま首を横にふった。
それは『アヴェンジャー』でないことの否定と同時に『アヴェンジャー』であることの肯定。
「じゃ、じゃあ……あれでしょ……木原とかいう奴に脅されて、それで、こんなこと無理矢理やらされてるんでしょ……?」
一厘の声がさらに震える。
その様子は真実を尋ねるのではなく、もはや『うん』の一言だけを求めてた。
「……」
白高城はまた首を横にふった。
それが意味することは白高城は誰に強制されたわけでもなく、自らの意志で『アヴェンジャー』に入ったということ。
「――――で」
一厘は俯き、涙を腕で拭った。
「――――なんでよ! なんで白高城ちゃん……『アヴェンジャー』なんかに……!」
「なんでって? あなたには関係ないことでしょう? “風紀委員一五九支部の一厘さん”?」
ようやく口を開いた白高城が発した言葉は、嫌に他人行儀なものだった。
一厘を見つめる目は冷たく、まるで赤の他人として扱っているかのよう。
「もしかして、私のこと忘れちゃったの? ねえ、そんなことないでしょ?」
「それが出来ればどんなに楽だったことかしらね。私はあなたのことなんて忘れたかった。私にとって貴方は過去のトラウマでしかないのよ」
「そんな……」
一厘の脳裏に百城の言っていた言葉がよぎる。
『白高城も元々は常盤台に入る予定だったが、結局は入れなかったんだ。
お前と常盤台に入るという約束を守れなかったって嘆いていた人間が、その約束を破ってしまった相手に会いたいと思うか? 俺だったら会いたくなんてないし、むしろ過去のトラウマを掘り返されるかの様な感じで何しにきやがったコノヤロウって激怒したくなるな』
結局はあの少年の言う通りだったと言うことなのか。
自分が思い描いていた白高城は所詮独りよがりな妄想でしか無かったというのか。
「ホント、心底憎たらしい女ね、貴方。あーー、同じ空気を吸ってっるだけでもうざったい。さっさと消えてくれる?」
白高城は目付きをキツくして、手に持っていたリモコンのようなもの押す。
すると、けたたましいサイレンが建物全体に鳴り響いた。
「えーー、こちら白高城天理。二階のテラスに侵入者がいるわ。今すぐ来なさいバカ共」
「なに、を……してるの?」
「決まってんじゃない。『アヴェンジャー』として、ノコノコとやってきた馬鹿な風紀委員を潰すのよ」
ものの数秒で白高城に呼ばれた男達がテラスにやってきた。
ハァハァと息を荒くして、まるで狼の群れの中に飛び込んだ羊を見るかのように一厘を囲む。
「じゃ、そのお馬鹿な子は好きにしていいよ。私は中丸ちゃんから連絡来たから学校の方行くわね」
「待っ……」
一厘が言い終える前に、男たちが一斉に飛びかかってくる。
360度囲まれているこの状況。
念動力の使い手だというのに自身を宙に浮かすこともできない一厘はここから逃れる方法なんてなかった。
「へへっ、珍しく大狗部がいねえじゃねえか。せっかくこんな上物が縄にかかったってのによ!」
「あいつ、今監禁してる16位が女であることに気づいたら血相変えて襲いに行ったぞ? どんだけ飢えてんだっつーの!」
苦しい。
まるで満員電車に乗ったかのように周りの人間からもみくちゃにされ、身動きひとつ取れない。
服に、髪に、肌に男達の手が触れる。
なんの抵抗もできないままブラウスが引きちぎられていく音が耳に入ってくる。
(私は……)
茫然自失となりながら、一厘は思考を巡らす。
目の前には、病的なまでに静かな空間が広がっていった。
男達の荒い息遣いも、罵声も、服が破かれてく音だって聞こえてこない。
(結局、私は……)
ただ一厘は空だけを見つめていた。
こんなにも空は蒼いというのに、自分の心は曇りのようにどす黒い靄に包まれている。
カラスに貪られる死体の心境とはまさにこのようなものなのだろうか。
(私は……『正しかった』のかな?)
再びあの時の問いが繰り返される。
一厘は、ただもう一度白高城に会いたかった。その思いに嘘偽りはないし、悪意だってなかった。
しかし結果として、彼女を苦しませている自分がいた。彼女に恨まれてる自分がいた。
白高城にとって、自分は目障りな存在でしかなかったのだ。
本当は、自分のやってきたこと全ては彼女にはマイナスにしか働いてなかった。
だとしたら自分がここにいる意味はなんだ?
会いたい者に会えない自分は、『間違い』ばかりの自分は、風輪学園にも一五九支部に関わる必要なんて無いんじゃないだろうか。
「――んて」
一厘は唇を震えさせた。
覚めてほしくなかった夢から覚めた子供の様に、瞳には大粒の涙を溜め、顔をクシャクシャにしている。
「――私なんて」
四肢全てを男たちに抑えつけられているのでまともに身動きの一つも取れない。
それでも、憎たらしいほど蒼い空に食いかかるようにして顔を上げ、首を伸ばす。
「私なんて誰にも必要となんてされていなかったのよ!!」
絶叫にも似た一厘の心の叫びが爆発する。
いきなり訳の分からない言葉を発する一厘を見て、周りの男達の笑い声はさらに大きくなる。
「ははっ、恐怖で頭が先にイッちまったってか? お嬢ちゃんのメンタルってすっごい脆いんだねえ」
「大丈夫だよ~~。ちゃ~~んと俺達が必要としてあげるからさ~~」
悔しい。
今の自分の声が、叫びが誰にも届かないことが。
こんな下衆どもに辱められる愚かな自分が。
もはや涙は枯れてしまった。
ただ虚ろな目だけがこの状況を他人ごとのように観察している。
全てを投げ出したくなった。
愚かすぎる自分も、これから先のことも、何もかも全てを。
そうすればきっと楽になれる。思考さえなくなればこんなにも嫌な思いをすることもなくなるのだから。
現実逃避をするように、一厘はゆっくりと目を閉じ始めた。
身体の支配権を放棄し、全てを時の流れに委ねる。
運が良ければ、今日中には開放してもらえるだろう、そんなことを呆然と考えながら。
「残念ですが……貴方達よりも先に“私達”のほうが必要としてます」
バシュウゥゥゥン!!
一瞬、何かが光った。
カメラのフラッシュ後の様に光が網膜に焼き付いて目がチカチカする。
「ギャアアアア!! いてえエエェェ!!」
突然囲んでいた男の一人が悲鳴をあげて、床にゴロゴロと転がった。
一厘はゆっくり視線を移してみると、その男の背中には服を貫通し小さな円形の火傷ができているのが窺えた。
まるで巨大な虫眼鏡で人の背中を焼いたかのようなその傷跡。
こんな芸当ができるのは一厘が知る内に二人しかいない。
一人はこんな風に自分を助けてはくれないだろう。
彼はピンチの時に駆けつけてくれるなんていうヒーロー気質の人間とはかけ離れているのだ。
『自業自得。そんくらいの状況自力で抜け出してごらんよ?』みたいなこと言って、このまま放置が無難な所。
だとしたらもう一人しかいない。
「佐野……先輩?」
電磁波を操ることにより、日光を一点にと集中させる、それが『ゴーストアイ』、佐野馬波の得意分野だった。
男達が障害となって、すぐ近くにいるであろう佐野の姿は見えないが、返答は確かにあった。
「ええ、そうです。大丈夫ですか? 一厘さん」
いつものように優しく話しかけてきてくれる頼れる先輩。
もう二度と会えないような気がしていたから、何故か安心よりも驚きのほうが大きい。
「なんだ? テメエは? あぁ?」
突然の乱入者に酷く困惑する男達は一斉に佐野の方へと顔を向ける。
そのせいか一厘を押さえつける力が一瞬弱まった。
「佐野先輩!!」
その隙を見計らって一厘は飛び出した。
服のあちこちが切り裂かれたせいで、動くたび風が入り込んできてスースーする。
しかしそんなことにも意を介さず一厘は佐野の元へと駆けていった。
「やれやれ、随分とお粗末な格好ですね」
男達の輪から抜け出した先には、やはり佐野がいた。
いつもと何ら変わらない様子でメガネを拭いている佐野馬波が。
「佐野先輩! 佐野先輩……佐野先輩!」
胸に飛び込んできた一厘を佐野は優しく受け止めてくれた。
まるで怯えきった子猫をなだめるかのようにして佐野は頭をなでる。
「ごめんなさい。私……私……!」
「今は何も言わなくていいです。お説教はまた今度にしましょう」
佐野は何があったかを聞かないでくれた。
それは、彼の優しさなのだろうか、それともこうなることがわかっていたからだろうか。
無言で差し出されたハンカチを取り、一厘は涙で濡れた顔を拭く。
「とりあえず、服を着てください。一応、支部にあった服を持って来ましたから」
佐野は、目のやりどころがないといった様子で、顔も傾けながらそう促した。
「へ……?」
ようやく少し冷静さを取り戻した一厘は自分の今の姿を確認する。
常盤台の制服は見る陰もなくボロボロになっていた。
サマーセーターは既に脱がされており、ブラウスはボタンが全て外されて、下着が丸見えの状態だった。
もっと酷いのはプリーツスカート。
刃物で何度も切り刻まれたかのようで、もはやスカートとしての役割は果たしておらず、短冊のようなビラビラが腰の周りについてるだけの状態になっていた。
「キャアァァァァァァ!!!!」
一厘は赤面しながら佐野が持ってきたという服に手を掛ける。
こんなことまで想定していた佐野にありがたみを感じる一方で、あまりの準備の良さに少し怖くなる一厘。
だが今はそんなことは言ってられない。
このみっともない格好から早く抜け出すためになんでもいいから服を着なければならなかった。
服の入った紙袋から服を取り出す。
そこには緑を基調としたセーラー服。つまるところ風輪学園の制服が入っていた。
「これって……」
「破輩先輩が小さくなって着れないと言っていたものです。それぐらいしか服は置いてなかったんで」
一厘は前回もこの服を着たことがある。
最初に破輩が貸してくれたのは、一厘が校内の巡回が他校の制服だと目立ってやりづらいとぼやいた時だった。
そんな記憶を懐かしみ、制服を着始める。
下着を見られた時点で羞恥心なんて吹っ飛んでおり、異性の前で着替えることに今はなんの躊躇いもない。
上を着た後は、スカートを掴んで一気に腰まで持ち上げる。
そして、何も残されてないはずの服が入っていた紙袋に目をやると――
「佐野先輩……このリボン」
そこにはオレンジ色のリボンがあった。
しかもどこか見覚えのある、いや忘れるはずがない。
「ええ、それは白高城さんのですよ。どういった事情でここにあるのかという説明は面倒なんで省きますが」
そう、小学校の時、記念で交換したはずのリボンだった。
一厘はズキリと胸が傷んだ。
これがここにあるということは、彼女はもうこれを必要としてないということ。
やはり自分なんて必要とされてない。そんな冷たい事実を突きつけられたような気がしたのだ。
「彼女は、貴方を待っています」
そんな考えを打ち払うように佐野が呟いた。
「どういうこと……ですか?」
「彼女は、風紀委員としての貴方に自分の間違いを是正されたいんですよ。自分一人の力じゃ間違いに向き合えませんからね」
だから――――と佐野は呟いて。
「行って下さい。貴方がここで立ち止まっていたら、白高城さんは二度と救えません。貴方の手で彼女を救い上げてください」
男達は今か今かと佐野を潰すタイミングを見計らっている。
もし一厘がここから抜けだしてしまったら、佐野はこの大多数を一人で相手取らなければならなくなるはずだ。
「先輩は私のことを必要としてないの……? ここにいても脚を引っ張るだけだからって、私を追いやろうとしてるの?」
それにも関わらず佐野は自分から一人になることを望んでいる。
それは、自分が要らないからだと、一厘はどうしても思えてしまった。
「馬鹿ですね、貴方は」
「え……?」
「確かに、この状況だと一人よりも二人のほうが随分とやりやすくなります。けれど、私達以上に貴方を必要としてるんですよ、白高城さんは」
ようやくその言葉で佐野が何を言いたいのかを理解できた気がする。
それに気がついた一厘は、勝手に卑下していた自分が急に恥ずかしくなってしまった。
この人は自分を必要としてくれている、けれどそれ以上に必要としてる存在を知ってるから、あえて譲っているだけなのだと。
「わかりました……佐野先輩くれぐれも無茶はしないでくださいね」
一厘はテラスの端に設置されている非常階段から下の階へと降りていった。
一人の男が追いかけていこうとしたが、佐野の妨害によってそれは止められる。
一厘はまだ半信半疑だった。
あれだけの事を平然と言える彼女が、本当に自分を必要となんてしているのか。
自分を鬱陶しいと罵倒した彼女が、本当に自分なんかに救いを求めているのか。
それでも一厘は信じようと思った。
自分を助けて、逃がしてくれた先輩を。
まだどこかに救いを求めているであろう白高城を。
一厘が無事逃げ出すのを確認すると、佐野はため息混じりに一息ついた。
現在この場には騒音を駆けつけてやってきた男達も追加され、さっきの倍以上の人数がいる。
「やれやれ、この状況で無茶するなというほうが無茶ですね」
それを見渡しながらボヤく佐野に一人が刃物を持って突進してくる。
「ですから―――」
佐野はそれをひょいとかわし、腹部に肘打ちをいれて男を昏倒させた。
「思う存分無茶をさせてもらいます。なので加減はできないのであしからず」
佐野はメガネを取り外し、胸ポケットへとしまう。
メガネをかけていると物がよく見えすぎて無意識の内に相手に気を配ってしまう。
しかしこのボヤケた視界ならば相手のどこに当たろうが、相手がどこを怪我しようが、気にせず戦いに望めるのだ。
風紀委員として、
『ゴーストアイ』として、
一人の人間として、
佐野馬波の戦いが始まろうとしていた。
6
「ひっ……やめて、やめてよ」
「おとなしくしてろよ。テメエの使い道なんてこれぐらいしかねえんだから」
時を同じくして、とある個室では薙波が一人の男に必用に迫られていた。
まるで醜い野獣がかろうじて人間の形を留めてるかのような外観のその男は、太い両腕で薙波の手首を掴み、押さえつける。
首筋に大狗部の舌が這った。
立ち込める汗のニオイと、唾液のニオイが入り混じり、とてつもない悪臭へと変わる。
しかしこの状況では鼻を押さえることもできない。
読心能力で読み取った所で、所詮この男は性欲のままに動く動物、口では言い表せないほどの醜い単語と思考ばかりが頭に入ってくるだけだ。
「誰か……!」
涙混じりの声で薙波は助けを懇願する。
しかし、その言葉とは裏腹に何か諦めている自分がいた。
こんな時都合よく現れてくれるヒーローなんているはずがない。
それに自分を助けたいと思う者だって。
自分はこんなナリの人間だ。
既に女は捨て、誰も魅力的になんて思ってなんてくれない。
もし自分に擦り寄ってくるものと言ったら、体だけが目当ての快楽に溺れた動物か、自分の能力を利用としようとしてくる悪知恵しか働かない人間だけだ。
自分は誰かが助けたいって思ってくれるほどできた人間ではない。
そんなことはわかってる。
「――つかせ……!」
なのに、唯一心当たりある人間の言葉を呟いてしまった。
体や能力が目当てではない、ただ純粋に自分を求めてくれていたはずの人間。
「おいおいおいおい、 なんだ? 彼氏の名かぁ? これからがお楽しみだっつ―のに冷めさせんなや」
「彼氏じゃないわ……」
ドッ!!!
薙波は膝で大狗部の股間を蹴りあげた。
突然の不意打ちに大狗部は悶絶し、その隙を狙って薙波は束縛から逃れる。
「ただ、私が知っている一番の大馬鹿野郎よ!!」
地に倒れ伏す大狗部を見て誇らしげに薙波は語る。
自分はヒロインなんて柄ではない、だからピンチに助けに来るヒーローなんていない。
けれど例えヒロインでなくてもピンチに立ち向かうことは出来る。
この状態で自分を助けられるのは自分しかいないのだから。
「この……くそアマ……タップリとその体で後悔を味あわせてやる」
まぶたの肉が垂れ、細くなってる瞳を最大限に釣り上げて大狗部が立ち上がる。
そうしてる間にも薙波は出口に向かって走っていた。
あの男はそれほど俊敏な動きはできない。なら逃げ足には自信のある薙波は、ここから出れれば振りきれると思っていた。
金属で出来ている重々しい扉のドアノブを回す。
ガチャン!
しかし返ってきた音は、そんな淡い期待を拒絶するかのような鍵の掛かっている音。
そう、ここに閉じ込めるため外側から鍵がかかっているのをすっかり忘れていた。
「さて、心残りは済んだか?」
鼻息を立てて、後ろから大狗部が声をかけてくる。
薙波は必死に近くにあった物を片っ端から投げつけた。
だが、大狗部は涼しい顔をしてそれら全てをうぬが体で受け止める。
「効かねえぞ、そんなちっぽけな悪あがきはよぉぉおおおお!!!」
その巨体を揺らし、突進してきた。
お世辞にもいい体型とは言えない体だというのに、そこから発せられる速度は尋常ではない。
薙波の両端には壁が、後ろには鋼鉄の扉が。
そして前からは大狗部が突進してきている。
完璧に逃げ場のないこの状況に絶望して薙波は反射的に屈んだ。
結局自分は守られることも自分を守ることもできなかった。
そんな現実に歯噛みしながら――――
「――――じゃあ、こんな“悪あがき”ならぶっちゃけ効くってかよ?」
ズドン!!!
突如として出現した拳が突進してきた大狗部の顔面にクリーンヒットする。
もちろんその拳は薙波の物ではない。
「あ、が……」
後方にふっとばされながら大狗部は自分を殴った者の正体を探る。
「よう、待たせたな。お姫様」
そこには鋼鉄製であるはずの扉を貫通して一つの腕が突き出していた。
要するに扉の向こうにいる人間が、扉越しに大狗部を殴りつけたということ。
「あんた……」
薙波はしゃがみこんだままその腕を見た。
その腕は今まさに鋼鉄の扉を粘土細工のようにグチャグチャと曲げ、穴を広げていってる。
ちょうど人間一人が通れるくらいのポッカリとした穴が空くと、そこから一人の少年が入ってきた。
白と緑のストライプ柄の腕章を右腕につけ、額には赤いハチマキが巻かれてある。
腰にはジャラジャラと幾つもの手錠を引っさげており、動く度に金属の擦れる音が聞こえてきた。
「風紀委員《ジャッジメント》だ!! 強姦未遂、及びに監禁罪において、大狗部汰含! 今からテメエを拘束する!」
「なんで……?」
薙波は自分の能力を使うことも忘れ、ただ思った言葉を口にした。
目の前に居る少年はまさしく風紀委員一五九支部の鉄枷束縛。
彼が何故ここにいるのかではなく、何故自分なんかを助けたのか、薙波にはそちらのほうが気になった。
「へっ……ホントは馬鹿な後輩を助けに来たんだがな。なんの偶然か、入り口でのした奴からお前がここで囚われてるって聞いて、急いで駆けつけたってわけだ。あいつの方は佐野に任せたし問題はねえだろ」
カラン、と乾いた金属の音が聞こえたかと思うと、鉄枷の手には長い鉄の棒が握られていた。
それを両腕で何回か回転させ、棒術の様に巧みに扱う。
「そうじゃなくて……なんで私なんかを助けに来たかってことよ! あんたは私と付き合う気だって無いし、必要ともしていない。それなのになんで!?」
鉄枷が協力を要請してきた時に薙波は尋ねた。
“本当に自分を必要としてるのなら、こんな自分とも付き合えるか?”と。
あの時の鉄枷の答えは“いやだ”だった。
「ああ。俺は付き合いたくなんてない」
そしてその答えは今も変わらない。
鉄枷はなんの悪びれもなくキッパリと言い放った。
「痛かったぞ~~……この糞野郎が!!」
大狗部が再び起き上がり鉄枷めがけて突進してくる。
両者の体格差は歴然。このまま行けば轢き潰されること確定だが、あくまで冷静に鉄枷はこの状況を見据えている。
だってな、と鉄枷が呟く声が聞こえた。
「ぶっちゃけ付き合うってのは自分の価値を証明するためのもんじゃねえ。 お互いが純粋に惹かれ合って初めて成立するもんだろ!!」
バシュウゥゥゥンッ!! と金属が音を立て変形する。
鉄枷はそれを鞭のようにしならせ、大狗部の両足を狙って振り払った。
それが直撃し、バランスを崩した大狗部はそこで転倒し地震のような地響きが周囲に伝わる。
その隙に鉄枷は薙波と目が合うようにしゃがみ込み、両肩に手を掛けた。
「本当にお前が俺と付き合いたいってなら、まずは俺を好きになれ、そして俺を好きにさせろ」
「あ……」
薙波は何も声が出なかった。
この男の返事はあの時と何も変わらない。
しかし、それが自分を必要としていないという事には直接結びついて来ないことを知った。
誰かを必要することと誰かを好きになること、これらはイコールでは結べない。
そんなことを鉄枷は教えてくれたのだ。
「この事件が終わっても、もしかしたらお前に力を借りる時が来るかもしれねえ。その時は会いに行くから、ちゃんと学校きとけよ?」
この男は最初から自分を必要としてくれた。
それがバカみたいに直球すぎて、薙波は疑ってしまっていた。
薙波は視線を逸らさず鉄枷の方を向いたまま、コクンと頷く。
ここまで思いつめていた自分が馬鹿のようだった。
手を伸ばせばすぐそこにいる、今までいるなんて思わなかった“薙波藍守”を必要としてくれている人間が。
「さあて、まだ立つか? やろうってんならいくらでも相手になるぜ、どっからでもかかってこいよ」
鉄枷は大狗部を立つように挑発し、威嚇するように鉄の棒を振り回す。
「この……優男が……!! 殺す!!」
二度も醜態を晒す事になり、大狗部は憤怒の炎を燃え上がらせていた。
バン! と近くにあった花瓶を粉々に砕き、その破片を鉄枷へと投げつける。
鉄枷はその破片を一切取りこぼすことなく、全てを鉄の棒で弾き返す。
その精密さはさながら職人芸のようである。
「おらおら! 破片に集中しすぎて、懐ががら空きだぞぉ!!」
しかしそこには欠点もある。
例えば大狗部の言うように、一点ばかりに気を取られすぎて他の部位の防御が疎かになること。
大狗部は鉄枷が破片を処理してる隙を付け狙って懐へと潜り込んだ。
そこから繰り出される拳は、貧弱な棒では防ぎきる事ができない。
「くっ……!」
鉄枷はとっさの判断で鉄を変形させ、小型の盾にする。
ズンッ!! という鈍い音が響き、大狗部の拳が丁度盾へと命中する。
しかし、その盾では衝撃までは殺せなかった。
許容限界を超えた衝撃が鉄枷の方へと伝わり、後方へと吹っ飛ばされる。
そのまま壁に衝突し、鉄枷の全身に痛みがひしひしと伝わってきた。
ふらつく頭を押さえながらその盾を確認してみると、そこには丁度こぶし大の陥没ができていた。
「ぶっちゃけ……なんつー馬鹿力だよ。アンタ」
軋む体を無理やり起こし、鉄枷は立ち上がる。
守るべきもの、守りたいもの、それがすぐ近くにあるから。
「ちっ……下手な防御しなけりゃアバラの何本かは潰すこともできたんだが……まあいい」
大狗部はその巨体を生かして、全体重を込めた一撃を放つ。
それを屈んでかわした鉄枷のすぐ上で、木製の壁がメリメリと音を立てて崩れ去っていく。
鉄枷の目の前にあるのは無防備にも晒された大狗部のでかい腹だった。
鉄の盾を擬似的なメリケンサックに変形させ、右手にはめる。
これで腹を殴りつければ、多少は効果は期待できるだろう。
「……っらあァァァ!!」
その一撃は直撃した。
確かな手応えも感じ、反作用でこちらにも衝撃が伝わってきている。
だが、
「効かねえ」
その一撃を食らってなおケロリとしている大狗部は、鉄枷の伸ばしきった右腕を掴んできた。
何十キロあるかも分からない握力に鉄枷の二の腕が悲鳴を上げる。
「っつ……! なん……で」
「俺の能力は衝撃抹殺《インパクトキリング》、テメエのにちゃちい拳が生み出す衝撃なんて、俺には届かねえんだよ!」
鉄枷は右腕を掴まれたまま、身動きが取れない状態にある。
左手や足で攻撃を与えても、大狗部の言う通りまったく響いていなかった。
「ここでくたばりやがれ。風紀委員!!」
無慈悲にも大狗部の拳が鉄枷に振り払われようとしていた。
聞き手ではない左手ではガードすることもままならない。
万事休すか、そう諦めかけた時。
「そいつに……手を出すなあァァァ!!」
ドンッ!!
横から薙波がボディタックルを与え、大狗部の巨体をわずかながらぐらつかせた。
その隙を鉄枷は見逃さない。
右手を振り払い、大狗部からの束縛からなんとか逃れる。
(はぁ……はぁ……ぶっちゃけ死ぬかと思ったぜ)
再び距離を取る鉄枷は、そこで疑問を覚えた。
確かに、この男の能力は衝撃を緩和させる能力のようだ。
しかし、ならばどうして薙波が突っ込んできた時もそれを使わなかったのか。そうすればぐらつくこともなかったし、こうして自分に逃げられることもなかっただろう。
それに鉄枷が最初に与えたドア越しの一撃はちゃんと大狗部にダメージを与えていた。それは何故か?
(もしかしたら――――)
「この野郎……! 今度こそ逃さねえぞ!」
目を充血させ、大狗部が鉄枷に近づいてくる。
「ちっ……これは会心の出来栄えだったからバラしたくはなかったんだが……」
鉄枷は腰にかけてある手錠に触れ、すべてを変形させた。
そして出来上がった一本の金属バットを大狗部目掛けて投げつける。
しかしその投擲はまったく効き目がなかった。
ボスッ、としょぼい音を立て金属バットは大狗部の体に弾かれ後ろへと飛んでった。
やはり衝撃が吸収されてしまいダメージにすらなっていないのだ。
そして唯一の武器であるそれを投げてしまったので今更回収することもできない。
何か考えるように佇む鉄枷の首を、大狗部が握り締める。
「グヘヘ。これで今度こそ終いだ。あの世でじっくりと後悔しやがれ」
鉄枷の体がゆっくりと持ち上がる。足はもう地についていない。
「ぐっ……あ……が」
呼吸困難に陥る鉄枷は顔をしかめて苦痛の色をあらわにさせる。
大狗部は勝利を確信して、さらに首を握る手を強めた。
「だ……。や……れ、な」
だが、苦悶の表情以外に何か別の表情が見え隠れしている。
何か策を敷いてるのか、それともただのブラフか。
「今だ……やれ……薙波」
ドゴォ!!
それは前者のようだった。
その言葉と同時に、大狗部の後頭部に電撃のような痛みが走り、言葉を上げる暇さえなく、その場に倒れこんで意識を失う。
「はあ……はあ……やった……の?」
倒れた大狗部のすぐ後ろに立っていたのは、金属バットを両腕に握り締めている薙波。
そう、先ほど鉄枷が金属バットを投げつけたのは攻撃のためではなく、大狗部の後方にいた薙波に自然な形で手渡すためだった。
「やっぱり……こいつの能力は意識的にしか発動できないってわけか。だから不意打ちには対応できない。俺の初撃が通ったのもそれで説明がつく」
ゲホゲホと咳き込みながら鉄枷は立ち上がった。
首にはくっきりと大狗部の手の跡が残されており、あと数秒遅かったら完璧に意識が飛んでいただろう。
「ありがとな薙波。お陰で助かったぜ」
「ふふん。これで私のこと好きになった?」
「いんや。その程度で俺を惚れさせようとはぶっちゃけ片腹痛いぜ。もっとグッとくる何かが欲しいな!」
冗談を言い合う二人。
その光景はホントのカップルのように仲睦まじい。
その後、鉄枷は能力を行使して特注の手錠を創りだすと、大狗部をそれで固定した。
なんでも、こういう輩はすぐに悪さを起こすとのことで、両手に三つ、両足に二つの厳重な体制でその場に転がしておかないと安心できないらしい。
「もしもし、佐野か」
あと気になる点があるとすれば一厘の方へと向かった佐野のこと。
鉄枷は電話を掛けると、今回はすんなりと繋がった。
『なんですか』
掛けてきたのが鉄枷ということもあってか、声の調子は相変わらず厭味ったらしい。
でもそれが、どうやら不良どもにやられたということはないという証明にもなり、鉄枷はいくらかほっとする。
「こっちはなんとか片付いたぜ。そっちはどうなった?」
『はぁ……散々でしたよ。数十人の能力者を一気に相手取るのは。お陰で片付いたには片付きましたが、身体の自由は効きそうにない』
「おい! それ大丈夫かよ! 今からそっちに……」
『結構です』
鉄枷の申し出に佐野はキッパリと断りを入れた。
こんな時まで犬猿の仲を気にして、この男はまだ意地を張ってるというのだろうか。
『変な誤解はしないでくださいよ? さっきも言いましたがもう片付いんたです。後の処理は警備員がなんとかしてくれるでしょう』
「じゃあ、これから俺はどうすればいい?」
『貴方は風輪学園へと向かって下さい。まだ破輩先輩達はあそこで戦っているかもしれませんから』
「……お前は、どうすんだ?」
『流石に、ここから全員がいなくなるわけにはいきません。その内来る警備員には私が残って説明します』
鉄枷はそれに了解をし、電話を切った。
隣には事の行方を不安げに見守る薙波がいる。
「俺はまた今から学園の方へと行かなきゃいけねえ。お前は寮に帰って……」
「いや。私もついていく。」
またもやあっさりと断られた。
なぜ自分の提案はこうも簡単に一蹴されてしまうのだろうかと鉄枷は考えこみながら、
「はぁ……どうせダメって言ってもついてくんだろ。仕方ねえ、そのかわり絶対に俺から離れんなよ」
「うん。頼りにしてる」
そう言って薙波が差し出したのは右手。つまり、手をつないで連れて行けということである。
鉄枷はその手を躊躇なく、めんどくさそうな素振りも見せずに掴んだ。
「じゃ行くぞ」
それは彼なりの薙波への答えだったのかもしれない。
早足で研究所を後にする鉄枷と、それについていく薙波。
佐野はそんな光景をテラスから覗いていた。
メガネを外しているのと、左目に血が入り込んでいるせいで、よくは見えなかったが、それでも自分の同僚ぐらいは見分けがつく。
「少し、血を流しすぎましたか……」
柵にもたれかかりながら髪をかき分けるとベッタリと手のひらに血が付着した。
フラフラの視界で辺りを見回してみれば、周りには傷を負って倒れこんでいる何十人もの『アヴェンジャー』の者たちがいる。
しかし佐野の身体にはそれ以上の打撲や裂傷があり、それらはどれも軽いものではない。
「せめて第四位に恥じないくらいの働きぶりは見せましたし、これなら破輩先輩にどやされることも無いでしょう」
何に安堵しているのか、佐野は微かに笑みをこぼして、
「後は頼みましたよ。風紀委員として、学園を守って下さい」
言いながらゆっくりと瞳を閉じた。
手に掴んでいた携帯は床に落ち、乾いた音を立てながら地面を滑る。
静寂が再び支配した。
託した者と、託された者。残った者と、出ていった者。
互いが交差するこの空間で、佐野は最後に笑みを見せて眠りについた。
少女の夢を守れたこと、風紀委員として最低限の仕事をこなせたこと。
そして――――こうして仲間に託せる事実に感謝しながら。
最終更新:2012年06月30日 09:23