第七章 波乱起こる戦場



  1


圧倒的戦力の差。
それが今破輩の目の前に広がってる光景だった。
数十人の『アヴェンジャー』は今まさに破輩との間合いを見計らい、いつでも攻撃を仕掛けられるような状態にある。

対する破輩はかなりの窮地に追い詰められていた。
まず、現在の自分の体調。
それは不眠不休で働いてきたせいで肉体的にも精神的にも戦う前からボロボロだった。
そしてもう一つがこの無風状態。風が吹かないなら能力も使えない。
能力が使えないということは、体術一つでこの大勢と渡り合わなければない。

「うらぁぁぁぁああああ!!」

『アヴェンジャー』の男達は一斉に飛びかかってきた。
能力を使うものもいれば、素手で殴りかかってくるものも居る。

破輩はすんでの所でそれらをかわし、バックステップで距離を離す。こんな状態で真正面からやりあっても勝ち目は万に一つもないから。

「くそ……くそ!」

屈辱的だった。
黒丹羽をまんまと罠に引っ掛けたと思ったが、罠にかかっていたのは自分だったということが。
黒丹羽に“醜さを偽る偽善者”などと言われたことが。

地面の砂を踏みしめて破輩はまた一歩下がる。
これだけの数を捌くのは不可能。それなら一時的にここから逃げて―――

ドッ!!

そんな事を考えている途中で、破輩は背後から殴りつけられた。
どうやら気が付かないうちに男の一人に後ろに回りこまれていたようだ。

「があッ……」

バランスを崩し、地面へと倒れこむ。
起き上がろうとするよりも先に男の足が破輩の腹部に突き刺さった。
蹴りあげられ、破輩は地面を転がる。
まるでサッカーを楽しむかのように男達の蹴りが何度も破輩を襲った。

「テメエはいつも学校ででかい顔しててウザかったんだよ!」

「俺らを馬鹿にした罪はここで償ってもらうぜ!」

笑いながら、自分を蹴りつける男達。その中には破輩の知ってる顔もあった。
今なら黒丹羽の言う人間の『醜さ』というものも少しだけわかる気がした。
学校では自分を慕っていた者も裏では自分を毛嫌いし、このように武力を行使してくる。
これが黒丹羽の言っていた『醜くさ』なのだ。

「お前ら……やめ……ろ」

破輩の声は『アヴェンジャー』には届かない。
何度も蹴りつけられ、段々と意識が遠ざかっていく。
こんな所で倒れるわけにはいかないというのに、身体がもうピクリとも動かない。
全身を貫く痛みより、この情けない醜態に破輩は胸が痛くなった。

これがこの学園の闇とでも言うのか、誰も信じることのできない、裏では悪態をつき合う、そんなどこにも居場所がないこの世界が。
破輩の耳に入ってくるのは自分の身体が軋み続ける音と、『アヴェンジャー』の者の罵声だけ。
しかし、そんなときにそれとはまったく違った音が聞こえた。

それは足音。
誰かを思い、ここに必死に駆けつけてくるような足音だった。
気がつくと男達の蹴りは止まっていた。
破輩は身体を起こし男達全員が向いてる一点に目を向ける。

「なにやってんだテメエら……!」

そこには一人の少年がいた。
学校指定の制服を着崩し、頭は鳥の巣状態のお世辞にも柄がいいとは言えない男。
その表情は険しく、男達全員を目で殺すように睨みつけている。

「越前……!」

その男の名は越前豪運。
破輩と幼い頃からの馴染みであった。
越前はもう一度状況を確認するため周囲を一回見回す。

そして、一呼吸おくと、

「これ以上その女に手を出すんじゃねえ! じゃねえと……お前らの明日は保証できねえぞ!!!!」

咆哮に近い叫びをあげた。その叫びは空気を震わすかのごとく、グラウンド中に鳴り響く。

破輩は知っていた。
この男の能力は戦闘向きではないことを。今この状況においてこの男はなんら無能力者と変わらないことを。
そんな者がここに一人で来た所で、この圧倒的不利な状況を覆せるわけでもないことを。

なのに何故この男はここに来た。
何故そんなにも怒りをあらわにしている。

「馬鹿……逃げろ。越前、お前が来たとこで……」

「俺は逃げねえ。ようやくお前の力になれる時が来たんだ。
それにお前をこんな目に合わせた連中らを許しちゃおけねえ!」

破輩は今まで誰かを助けることはあっても、こんな風に助けられることは風紀委員になってから一度もなかった。
それが嬉しいのかどうかはわからない。
しかしこの男はあの時の約束を果たしてくれようとしているんだ、という事は分かった。

「本当、馬鹿だお前は……」

破輩の意識はそこで途絶えた。
最後に思ったことは、自分を助けてようとしてくれた男への――――


 2


「はぁ~~テンション上がんねぇYO……」
 風輪学園に続くある一画で神奈音響率いる神奈一派は風紀委員の一人を待ち構えていた。
 配置図によればもうすぐここをある人物が通るのでそこを狙って強襲を仕掛けるのだ。
 中等部で、更に無能力者で構成された神奈一派に割り当てられたそのターゲットは159支部の中で最もレベルの低い少女――春咲桜。
 この決定を下したのはこの組織でトップに立つ黒丹羽千責。彼の命令は絶対であり神奈達に拒否権はない。だが、それでも神奈達はその命令には賛成しかねていた。
 これだけの大人数でたかがレベル2の一人の少女を襲う。
 多数対一。そこに反論はないし今までの集金でも何度も行なってきたことだ。だが、その集金では男のみをターゲットとしていたせいか、相手が女だというのがどうしても感情に突っかかってくる。これが不良まで堕ちた彼に残された僅かな矜持というものなのだろうか。

「ま、黒丹羽の野郎にキャパちゃんは壊されちまったし。仕方ねえよな。俺たち無能力者は数で圧倒するしか、小細工を駆使しなきゃ……能力者には勝てねえんだしYO」

まだ『アヴェンジャー』が結成される前、神奈一派が単体で風紀委員の目の止まらない所で活動をしていた頃の話だ。
彼らは学園外で強い能力者を付け狙うスキルアウトまがいのことを繰り返していた。レベル4の順位付けという圧倒的な格差を見せつけられる学園での鬱憤のはけ口をそこで探していたのだ。

そんな時に彼らは一人の能力者と出会った。そして全滅させられた。
たった二つの文で表せてしまう事実だがこの間に彼に起きた衝撃は大きい。キャパシティダウンという反則を使っても勝てなかった、それよか相手は能力などはオマケとしか認識しておらず独自の体術のみで殲滅したのである。

神奈は悔しかったのかもしれない。自分たちが弱いのは能力の有無には関係ないという事実をその能力者によって突きつけられたのが。自分たちがこうなったのは能力がないせいだ、という言い訳ができなくなってしまうのが。

それ以来神奈はその能力者を躍起になって探した。そいつを倒せば自分たちが無力なのは、やはり能力がないせいだということに“できるから”。自分たちは本当は弱くないんだ、という事に“できるから”。
だが、その途中でまた神奈は現実を叩きつけられる。

『お前も、こんな機械で自身を過信するクチか?』

黒丹羽千責。
彼が自分たちを『アヴェンジャー』に勧誘する際に放った言葉だ。
彼は既にキャパシティダウンの存在を知っていた。その欠点も、そしてそれを失った無能力者は文字通り無能に成り下がってしまうことも。

簡単な話だ。黒丹羽は神奈と面談する前に既にキャパシティダウンを破壊していたのだ。中学生の管理なんてずさんなものだ。その間に保管されているキャパシティダウンを破壊をするのはレベル4ならたやすいことだった。

キャパシティダウンという後ろ盾を失って初めてわかる自分の無力さ。神奈は黒丹羽の横暴とも言える提案に従うしか出来ない存在へといつの間にか成り下がっていた。

そんな過程を経て今神奈は『アヴェンジャー』としてこの場に立っている。本来なら自分と同じ立場の者を守らなければならないのに、その正反対の愚行を繰り返えさなければならない『アヴェンジャー』に。
強者に従い、弱者を討つ、そんな中途半端な立ち位置で、神奈はつぶやく。

「ターゲットがB地点に到着。お前ら準備はいいか」

双眼鏡で望みこむ先には春咲桜。
準備は整った。あとは襲撃するのみ。

神奈は重い腰を上げ、腹を据える。
キャパシティダウンを失った自分たちはひたすら無力な存在だ。
だが、ここで能力者の少女一人に逃げ出してしまえばそれは無力を通り越して“臆病”になってしまう。
神奈は自身が無力であることを認めたが、臆病なんてことは認めることを出来ない。たとえ、その結果が数という暴力で一人の少女を嬲るという事になっても。


◇ ◇ ◇


春咲は風輪学園から離れた一角で逃走劇を繰り広げていた。
追うものは神奈一派と呼ばれる『アヴェンジャー』のグループ。支部に行く途中にこうして強襲された。

「ヘイヘイ! いつまで逃げてんだYO! お前は丈夫! だから俺達と勝負!」

中等部の人間を引き連れて春咲を追いかけて来るのはB系ファッションのヒップホップな少年。
それが神奈音響であることは言うまでもない。

「くっ……しつこい」

春咲は近くの公園に逃げ込む。そのあいだにバックから戦えるためだけの武器を取り出そうとした。
しかし、そんなヒマを与えずに追いついた神奈は春咲を蹴り飛ばしバックを奪い取る。

「飛び道具はナンセンス! そんなお前に超ショックっす!」

それ受け取った部下は春咲の『劣化転送』の範囲外まで遠ざかる。これで完璧に丸腰となった春咲はまた神奈一派を振りきって距離をとった。

「ホントは女を多勢で甚振るのは趣味じゃないんだがYo これも仕方な~~い! 不甲斐な~~い!」

「……」

現在の場所は公園の中心。
ここならばたとえ武器がなくとも、春咲の能力により武器になり得るものはいくらでもあった。

そう、例えば小石。

「こっちに来ないで。じゃないと、あなた達の体内にこれをぶち込むよ」

足元に転がってる小石を『劣化転送』により手元に出現、脅すように神奈へと向ける。
しかしそれを目の当たりにしても神奈の様子は変わらない。

「おいおいおい。たかがレベル2がそんなもんを振るっていいのかYo!」
「どういうこと?」
「精密性にかけて、レベル2の物体転移は不安定! そんなんで動きまわる俺たちの身体にぶち込んだらどうなるか分かってんのか? 下手して重要な臓器の中にでもぶち込んだら俺たちは間違いなく死ぬぜ?」
「!!」

そう、それは転移によるリスク。
仮に春咲が転移後の座標を完璧に指定できたとしても、転移への若干のタイムラグの間に神奈たちが動いたとしたら狙いがズレて、脳なり心臓なりに転移させてしまうかもしれない。もしそうなったら彼らは……

考えただけでもゾッとする。
自分が人を手に掛けることが。何食わぬ顔で人を殺していける自分を想像してしまったことが。

「HEYHEY! どうよ俺の肉を斬らせて骨を断つ戦術! 完璧! 鉄壁! 積極的! ついでにお前は絶壁!」

絶壁というのが何を指しているのか分からないが春咲はその言葉に少しイラッと来る。しかし今はそれどころではない。なんとかここから逃げ出さなくてはいけなかった。
たとえ、彼らを殺さないという自信があったとしても、この人数を捌くのはキツイのだ。

春咲は身体に活を入れ、思いっきり走りだす。以前まではこんな体力はなかったのだが、あの経験がここにきて活きたようだ。

「ちょ! どこ行っちゃってんの? Comeback! あーちくしょう面倒だYo!」


とにかく走った。
神奈音響のグループは数十人ほど。つまり狭い通路を進む場合には誰が先行するかでもめたりもする。
だからそこで距離を離す。

「他のみんなは……今どうしてるのかな」

狭い通路をジグザクに進み、振り切ったと思われるところまで着くと、仲間たちに思考を回す。
すると、噂をすればといったように――

「キャッ!?」

ドン! という衝撃とともに春咲は尻餅をついた。どうやら前方不注意により、誰かとぶつかってしまったようだ。
しかし、よくよく考えてみると、今さっきまでは前方に人影なんて存在しなかった。
そう、それはまるで急に自分の目の前に現れたかのように……

「イタタ……って春咲先輩!?」

春先とぶつかった少女が腰を上げる。
色素の薄い黒髪。そしてそれをシュシュでくくってツーサイドアップにしてるその少女は同じ学園の第七位。

「あなた……」

そう、瞬間移動により春咲の前へと現れた御嶽獄離だった。
そして、彼女の背中には小学生と見間違えるほど小柄な少年がおぶわれている。
その少年は第九位の山武智了。

「何やってるの……? その様子だとただごとではなさそうだけど……」

春咲は目を細めて、おぶわれている山武へと視線を移す。
山武は顔面蒼白で苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。それを背負う御嶽の表情もまたどこか落ち着きのない様子。

「実は破輩先輩に呼び出されて、第二グラウンドに向かう途中。『アヴェンジャー』の襲撃にあったんです。私はなんとかなったんですだけど山武先輩が……」

「それで山武君を庇いながらここまで逃げてきたというわけね」

とりあえず春咲はここに留まる事は危険であることを説明し、この場を離れることにした。

自体はかなり深刻だ。
今は一刻も早く破輩の手助けに行かなければならないというのに、風紀委員もレベル4もこうして身動きの取れない状態にある。

「それで、他のレベル4は……?」

「わかりません。連絡しても繋がらないので恐らく私達と同じかと」

舌打ちをしながら春咲はさらに走るペースを早める。
とりあえずここら一帯には身を隠せそうな場所は多くあるので一度そこに避難し、様子をみて再び動き出せばいい。

ついたのは廃れた屋内型アミューズメントパーク、『オズの魔法使い』という場所。
人の気配はなく、ここからなら周囲を一望することも出来る。

中に入ると、春咲と御嶽は入口のすぐ近くに設置されたあるベンチに座り込んだ。
お互い長距離に渡り走り回ったせいか、息は切れ切れで、疲労の色が窺える。

「本当に……よく運動させてくれるね……こっちは……病み上がりなのに……」

室内はほのかにカビ臭く、鼻をツンとつく臭いが充満している。
電気は通っていないのか、辺りは数センチ先までの距離しか把握できないほど暗い。

そんな中、室内の端に設置されている自動販売機だけが未だに起動していた。
ブーーという電子音と、青白い蛍光灯の光が妙にマッチングしてさながらホラー映画のワンシーンのようにも見えなくはない。

「……駄目です。レベル4にも風紀委員の人たちにもやっぱり連絡がつきません」

携帯を閉じ、焦りが混じった表情で御嶽が報告する。

「そっか……ま、少し休憩しよっか」

対する春咲はなんの躊躇いもなく、一台だけ起動してある自販機へ近づく。あれだけ走ったのだから水分補給は必須ということだ。

「『ブロッコリーコーラ』はないか……仕方ない『ガラナ青汁』にしよ」

三人分のガラナ青汁を買って、春咲は御嶽の元に戻る。

「はい。私のおごりだから飲んでいいよ。山武君はその様子だと飲めるかわからないけど一応渡しといて」

御嶽の向けて伸ばした手にはジュースが握られている。
しかしそれを御嶽は受け取ろうとはしなかった。
それよか何を思っているのか春咲に敵意のような視線までを向けている。

「なんで、春咲先輩はこの状況でそんなにもマイペースなんですか! 仲間のこと心配じゃないんですか!?」

その理由はこの状況にあまり動揺しない春咲への不信感からくるものだった。
いきなりの襲撃で半分混乱気味の御嶽にはなぜ春咲がそこまで落ち着いてられるかわからない。
現に仲間が危ないし、自分だってまだ完璧に安全が保証されたわけではない、それなのに何でこの少女はこうも冷静になれるのか。

「――てるから」

暗闇の中、春咲がポツリと呟いた。

「信じてるから。私は支部の皆を、そして自分も」

「……どういうことですか?」

「私はね、つい最近まで誰も信じることができなかった……自分さえもね。だから何もかも不安で仕方なかったんだ。これから先の事、周りからの目、そして風紀委員としての生活に」

だけどね、と続けて。

「その後色々あって私は知ることができた。仲間の大事さや自分の価値に。それで決めたの、これから先どんなことがあっても私は“私”を信じる。“仲間”を信じる……って」

春咲はそう告げて、誰かに連絡をとり始めた。
風紀委員やレベル4は先程掛けても出なかったのだから、春咲が連絡をとっているのは別の人物だろう。

(信頼の上での行動……か)

納得したような納得してない様な、何とも言えない様子で、御嶽は考えこむ。
春咲が立っている場所は自分より一段上なのかもしれない。まだ自分では理解できないことを理解できる大人な人間なのかもしれない。
だから御嶽は“仲間と自分を信じる春咲”を“信じる”ことにした。
そうすることで、御嶽もまた同じ段階へと進めるような気がしたから。




「ヘイヘイヘイヘイ!! じゃあこんな状況に陥っても自分を信じれんのかYO!」

暗かった室内のライトが全てつき、明かりのもとに三人はその姿を明かされる。
入り口からは神奈音響のグループと、御嶽達を襲った木原一派のグループが押し寄せてきた。

「くっ……!!」

「春咲先輩! 奥に!」

二人は奥へと向かおうとするが、既に後方にも回りこまれていて、八方塞がりの状態。

「乱暴なことはしたくねえ! 俺って紳士? そんな俺に興味深々?」

大人しくすれば痛い目には合わないで済むと男たちは言った。
しかし春咲も御嶽もここで大人しく降伏する気なんてさらさら無い。ここまで来たら戦い抜くだけだ。

「空間移動系の能力者二人を相手に回すっていうのはどういうことか判りますか? 本気を出せばあんたらを壁にめり込ませることだって出来るんだから!」

「へえ……怖い怖い。じゃあやっぱ“あれ”使うか!」

神奈の指示に従って『アヴェンジャー』の者達は黒光りするあるものを取り出す。

「……ッ!!」

息が詰まる。
男たちの手に握られていたのはなんと機関銃。なぜそんなものを学生が所有しているのか、という疑問よりも先にこの状況の最悪さが改めて実感する。
 
「たす……けて」

神奈の襲撃に一人逃げ遅れた山武が、耳に機関銃を突きつけられた状態でホールドされているのだ。
「この……卑怯者……!」

「卑怯者? 安心しろYo! これはただのモデルガン。つってもガスガンだから耳に撃たれたら鼓膜はぶち破れるだろうけどYo!」

神奈は山武を人質に取り、春咲達に能力を使用しないことを命ずる。
そしてそれに従ったことを確認するとゆっくりと近づき。

「これで最後! 今の気分は最高! じゃあさくっ潰すぜDo You Understand?」

ドッ!! という風を斬る音が耳をかすめ、神奈音響の蹴りが春咲の全身を貫いた。

「うっ……がああああああああ!!」

口では軽いことを言いながら、やるときはやる、それが神奈音響であり『アヴェンジャー』。

「いっけね! たかがレベル2なんて倒してもつまんねえだけだ! やるんだったら――」

神奈はニタリと笑って手に持っていた木製のバットを取り出し、御嶽を殴りつけた。

「うぅぅぅ……あああああああ!!」
少女の悲痛な絶叫が室内に響く。
それをうっとり聴き惚れる神奈は、もう一発もう一発と何度でも殴りつける。そして顔についた返り血をを舌でなめ取り、

「やっぱ、大物《レベル4》を先に料理するべきだよなあ!!」

とっておきの下衆な顔でそう言い放つのであった。

「はぁ……はぁ……はぁ」
全身を殴打され、御嶽の身体からは血が溢れでてくる。
それでも彼女は信じていた。
逆転のチャンスはまだあると。春咲を見て確信していた。

「あなた達なんかに……」

春咲は『劣化転送』の範囲内に山武を抑えてる男たちが入るようこっそりとほふく前進で近づく。そして範囲内に入ったと同時に『劣化転送』を発動させた。

「なっ! あれ!?」

すると今まで山武に突きつけられていたモデルガンは男たちの手元から消え、春咲の頭上へと現れた。
春咲は頭上に現れた二丁のそれを小さな両手でつかみ、

「負けて……」

目の前の男たちに狙いを絞る。
そして、強く引き金を引くと――――

「たまるかアァァァッ!!」

ドドドドドドドドォォォォォッ!! と、硝煙を撒き散らし、嵐のごとくBB弾が発射される。
その速度はあまりに早く、男たちに避ける暇を与えない。

「うぎゃあああああああ!!」

男たちは足元に集中放火される激痛に耐え切れず山武を開放してしまう。

「もらった!」

その隙を逃さず転移してきた御嶽が山武を回収した。

再び一箇所に集まった春咲達を見て、神奈はそれがまるで無駄なことかのように笑う。

「残念、無念、斬り捨て御免! そんなもん何の意味も持たないYo! 今更そのポンコツを助けた所でこの圧倒的不利な状況をひっくり返せるとでもーー?」

「いや――。意味はあった……」

「あんっ?」

神奈が疑問に口を歪めた――その瞬間。

ドォォォォォォォォォン!!!

入口の方で激しい轟音が聞こえてきた。
それはそこで見張りをしていた者が吹っ飛ばされてきた音。

「――ハッ」
侵入者は一人。
まるで獅子のたてがみのごとく、光を浴びて棚引く鮮やかな黄色の髪。
それを抑えるカチューシャが存在感を一層引き立てている。

瞳には確かな闘志が宿っていた。
眉間には幾重にもシワがよっていた。
口は犬歯をむき出しにして歯ぎしりをしていた。

「久しぶりに『喧嘩王』の血が騒いできたぜ……俺はこんなことをするテメエらを一人残らず、ぶっ飛ばしたい!!」

襲いかかってきた二人の男を突き飛ばし、その少年は進撃を続ける。

「やっと……来てくれた。遅いよ、もう」

春咲はストンと腰をおろし、愚痴をこぼす。言葉とは裏腹にどこか嬉しそうに笑みを浮かべながら。
そう、神奈がここに乗り込んでくる前に春咲がメールを送っていた相手は今この場に到着した少年、土原来だった。

「ワリイな春咲。でも安心しな、これ以上お前を傷つけさせやしねえ」

「うん。私も来てくれるって“信じてた”」

「なんだこいつ……!? かまわねえ、撃ち殺……ッ!」

気づくと、ガスガンの発射口には不自然な形で様々な物体がめり込んでいる。土原の襲来に気を取られていた瞬間に、春咲と御嶽によって転移させれた物体がその機能を破壊していたのだ。

「――ッら!! うらうらうらーーーッッ!!」

喧嘩王の戦いが始まった。
土原は能力者たちの猛攻を紙一重で回避し、一撃で意識を沈めさせていく。そして動けない山武を狙う輩にもその隙をあたえず、神業の域に達した拳で一瞬にして昏倒させた。

一方で神奈は次々と倒されていく仲間を見て、焦りを抱く。

「おいおいおいおい! こりゃあまじでヤバイ!! どうする!?」

素に戻って、何か手段がないか探す。
手持ちの武器はナイフと木製のバット一本だが、それであの怒れる獅子を止めることはできない。
ならば、と考えたのが脱走。ここまで自分たちはやったのだ。だからここで逃げようが臆病とは言わない。それは戦略的撤退なのだ。

「逃げるが勝ちってね、あばYo!」

「残念だが、逃しはしないよ」

「へい……?」

間抜けた言葉が漏れた瞬間、神奈の視界が180度回転した。
つまりは、身体が真っ逆さまに落ちて行っているということ。思いっきり頭を床にたたきつけた神奈は何が起きたのかわからないまま、その一回の衝撃で意識を失う。

「あ、この程度で仕返しが終わってしまうとは……貧弱すぎです」

倒れた神奈の近くに佇むのは御嶽。神奈が脱走するのを見越して予め出口にて待機していたのである。

「やるねお嬢さん! 俺も負けちゃいられねえ!」

それから御嶽と土原の快進撃が始まった。
約二十人以上いた『アヴェンジャー』の者たちはわずか十分足らずで戦闘不能にされ、最後にこの場に立っていたのは土原、御嶽、春咲の三名だけ。

「弱すぎ……こんなんなら田舎の不良どもの方が強かったぜ」

終わった戦場の跡を見渡して、どこか不完全燃焼の土原は興が削がれたようにため息をつく。

「御嶽さん、動けますか?」

「大丈夫ですよ春咲先輩。……体の節々が痛みますが、動けないほどではありません」

ボロボロの御嶽を気遣い、春咲は自前の救急キットを取り出す。
とりあえず目立つ傷だけでも処理しようとしての行動だった。

「んで、これからどうすんだ? 学園の方がヤバイんだろ、さっさと向かった方がいいんじゃねえか」

「そうだね……」

御嶽の傷の処理を終えて春咲は立ち上がり、

「でも、その前に気になることがあるからそれを先に確認しに行こうと思うの」

  3


「……まさか、あなたと共闘することになるとはね“番外さん”?」

大勢の『アヴェンジャー』に取り囲まれ、小日向は息を切らしながら今背中を預けている者へと語りかけた。

「だから、“番外”じゃねえ。“晩葉”だ、晩葉!!」

その者は晩葉旭。
小日向がレベル4の中で一番気に食わなかった人物であり、晩葉にとっての小日向もまた同じものだった。
二人は仲が悪いなんてレベルではない。顔を見たらいきなり戦闘に入るような関係。そんな二人がこうして共闘しているのも奇跡に近い現象だった。

「ウィィィィ!! 見せつけてくれるねえ!! けどそろそろここらで退場願おうか!」

二人を取り囲む者たちを指揮するのは坂東将生。
彼は部下にそれぞれ指示を出す。それは小日向の挙動予測を封じるため、それぞれが別の行動をとれということ。
小日向の能力は生体電気の流れを読み取って相手の行動パターンを予測する能力だが、それに対処できる数には限界があり、さらにこれだけ大多数の行動を読み取れたとしても身体が反応について行かないだろう。
だから大人数で一気に襲い掛かることで小日向を手っ取り早く潰そうという案である。

しかしこれには一つの問題があった。
それは晩葉旭の存在。
彼が小日向に助太刀することにより、この作戦は半分以上その意味を失ってしまう。
だから坂東は、

「よお風紀委員の犬。お前、俺を一人で倒すとか言ってた割には仕掛けてこねえんだな。やっぱビビリか?」

「んだとコラァ!! ああ今から行ってやるよ!! サシで勝負だ!」

自らが囮になり、小日向から晩葉を引き離した。これによって上記のことは万事うまくいく。
あとはこのレベル4をどう坂東だけで倒すかということだけだ。

晩葉がススの着いたグローブを付け、坂東目掛けておもいっきり振るう。
その拳は振り払っている途中で炭素の同素体、ダイヤモンドへと変質した。

「おおぉぉぉぉぉぉ!!!」

確かにこれで殴られたらひとたまりもなく、ノックアウトは確定。
しかし、能力ではなく晩葉自身に大きな欠点があった。
それは動きが直線的であるということ。素人の振るう拳なんてある程度喧嘩慣れしていたら用意に回避できるものだった。

「ダメだねぇ。そんなんで俺に勝てると思ってるのぉ? 犬」

坂東はそれを最低限の動きでかわし、勢いを殺せず突っ込んでくる晩葉の顔の前に拳を置いた。

「ブッ!!」

その拳に自ら突っ込んでいってしまい、晩葉は顔面に一発もらう。
だが晩葉は鼻から垂れてきた血を拭いもせず、もう一度坂東を殴りつけようとした。

結果は同じ。
いともたやすく回避され、今度は腹を殴打される。
と言っても、先ほどと同じで腹の前に置かれた拳に自分から突っ込んでしまっただけなのだが。

「はぁ……予想以上につまんねえな、まだ俺は自分から殴りにも言ってないぞ?」

「黙りやがれ! 勝負はまだこれからだ!!」

戦闘テクニックの差は歴然。
これから何度も拳を振るっても、先ほどと同じ展開になるのは目に見えていた。
だが、晩葉の意志が折れた訳ではない。この程度で砕けるほどダイヤモンドよりも堅い意志は軟ではない。

「頑張るねえ。けど、わざわざ風紀委員の為にそこまですることねえんじゃねえの?」

「どういうことだよ……それは」

「言葉のまんま。別にここの風紀委員が潰れようがお前が困るわけではないだろ? 逆にいなくなればお前も馬鹿騒ぎが出来るようになるからそっちのほうが好都合じゃん」

ケッと口から血痰を吐き出した。
晩葉はいかにも興味無さそうな様子で、坂東に返す。

「弱いものいじめが馬鹿騒ぎだぁぁぁ!? ふざけんじゃねえよ!! 俺は、お前らほど成り下がったわけじゃねえ!!」

「ふぅ。所詮風紀委員の犬は何時まで経っても犬ってことか」

「俺は犬じゃねえ! テメエで考え! テメエで感じ! テメエで動く! こんな犬っころがいたら連れてこいやぁ!あぁんッ!?」

以前まではただ坂東と張り合うためだけに否定してきた。
だが今は違う。
今、晩葉は明確な意志を持ち、犬であることを否定している。風紀委員に媚びるわけではなく、ただ純粋に力を貸したかったがために今こうして動いている。
それを貫き通す様に晩葉は拳を前につきだした。

「テメエこそ『アヴェンジャー』の犬なんじゃねえのか! これまでの行動に! 今の行動に!  テメエの意志があんのかよ!!」

「く……」

晩葉はあの時や今の坂東の表情を見て思っていた。
この男はどこかノリ気ではない。本当はこんなコトしたくないのではないか、と。

「テメエみたいに上や周りに流され、しっぽ振って付いて行くような犬に……俺は負けねえェェェ!!」

ダンッ!! 足元の土を蹴り払って一気に坂東の元へと突進していく。
動きは先ほどと同じであまりに直線的。

「馬鹿野郎! 何度やったって……」

ゴッ!! 

と、鈍い音が骨を伝わり、耳へと響く。
視界が一瞬ぶれたかと思うと、赤い血しぶきが見えた。

「!!??」

じわじわと拡大する痛みに坂東は鼻を押さえる。触れた手はあっという間に自分の血で染まり、肌の色さえ覆い隠していった。

坂東は確かに晩葉の拳を見切っていた。
なのに晩葉は突如拳の方向を修正して、自分の鼻へと命中させたのだ。
そう、今のナックルはこれまでとは違ったパターンの攻撃方法だった。

「残念、今までお前に避けさせていたのはさァァァ!! テメエに俺の攻撃の回避パターンを染み付けるためだったんだよォォォ!!」

晩葉はダイヤモンドの拳を今度は腹部に狙って直進させた。坂東はそれに対し“反射的に”身体をそらす。
しかし、またもや見切った坂東の行動を見切り、晩葉は腹に直撃させた。

「ガアァァァッ!!」

肋《あばら》が軋む。
内蔵が蛇のようにうねる。

坂東は吐血を抑えきれず、胃の内容物とともに血を吐き出した。

(なるほど……ワンパターンな行動を逆に利用したってわけか……)

晩葉は自分に何度も何度も決まったパターンの攻撃を仕掛けてきた。
坂東はそれを回避していく内にどうやればそれを回避できるかを考えず、身体の反応に付いて行くだけで回避できるようになった。
しかしこれが最大の落とし穴。
決まりきった攻撃が何度も何度も続けば次もまたそれが来ると思い、身体が反射的に反応してしまう。
しかしその攻撃の中に通常とは違ったパターンの攻撃を織り交ぜ、間違った回避をした身体に確実にダメージを与えてくるのだ。
いわばこれは途中に引っ掛けのある計算ドリル。
1+1が延々と繰り返される中、たまにだけ現れる1-1のようなものだった。
その1-1を意識していくのと、しないのでは反応速度を大きく変わっていく。例え一定のパターンを回避していってもいつかは違うパターンの攻撃を食らうことになる。
逆にいつ違う攻撃が来るか怯えて一つ一つ見極めて回避していったとしても、反応が遅れたら即攻撃がヒットする。

前門の虎、後門の狼とはまさにこのことか。

坂東は晩葉に単純にパワーで劣る。勝つためには何かしらの罠を仕掛けるか、数で押すかの二択だが、罠に自分からかかってくれる可能性は低いし、部下たちは小日向の相手をしていてこちらに割く事はできない。
となると、やはり残された手はあの時と同じ――――撤退か。

逃げるが勝ち。
まさに今の坂東の気持ちを代言してくれる一言だった。

(けどよ……)

坂東は血を拭って晩葉の様子を窺う。その表情は確かに誰かの命がなければ動けない犬ではなく、自分の意志で動く強い一人の人間のものだった。

「そんなギラギラした目で睨まれちゃあ、無碍にはあしらえねえよな!!」

坂東は拳を握り直す。
まったくもってこの男の言う通りだった。
自分は黒丹羽が勝手に決めた『アヴェンジャー』なんて言うものに従って、やりたくもない集金なんかをしていた。
そこに意志なんて存在しない、あったのは矛盾している自分のやるせなさだけ。
だが今はこうして晩葉と拳を交える理由が、意志が確かにある。
それは自分達の部下をこの場から引き離すため。
こんな『アヴェンジャー』や風紀委員の下らない抗争なんかからせめて部下だけでも抜け出させてやることだった。

「へっ! テメエもようやく自分の意志で喧嘩できるようになったか!! いいね……お互い“犬”から抜けだした者同士、ここいらでケリをつけようぜェェェ!!!」

先手を切ったのは坂東の蹴りだった。
足が長い分、リーチの利はこちらにある。
晩葉はそれを避けるため一歩下がった。

「ビンゴ!!」

坂東は晩葉が踏んだ地面に向けて微弱な電磁波を飛ばす。
その地面には、殺傷性はないが派手に爆発する地雷を予め設置しておいたのだ。坂東の能力は基本的には電子機器をハックし破壊することに特化しているが、電気信号の送信により簡単な遠隔操作も可能だった。


ズドォオ!! 
煙幕のように土埃が上がり、晩葉の身体はそれに飲み込まれて見えなくなっていく。

今のうちに部下の方へと駆け付け、こんなことから逃げ出そう。
そして『アヴェンジャー』なんてものとも手を切り、昔みたいにすこし悪さをするだけの“バカども”に戻ろう。
もう少し、もう少し進めば部下たちが居る。
まだ小日向と戦っているか、それとも決着をつけた頃だろうか。
どちらにせよ、部下たちは自分を待っている。自分の指示を待っているはずだ。

「はあ、だから私は読心能力者じゃないというのに……」

そこに少女がいた。
戦闘不能に追い込んだ人間を山のように積み重ね、その上でしゃがんでいる一人の少女が。

「はは……悪い冗談だよな、こりゃ」

その少女は小日向黄昏。

「いいえ、冗談じゃないですよ? 私はいつでも本気です」

そしてその下で山積みになっているのは坂東の部下たちだった。
一体何があったというのだ。
小日向の能力は相手の動きを先読み出来るだけの能力のはずだ。しかもこれだけの思考を読み取るのは演算に負荷がかかり、まともに機能するはずがない。

「どうして……だ?」

「言いたいことは大体わかります。簡単に言えば貴方は二つ勘違いしていたんですよ」

積み重ねられた部下の山から、少女はタンと、軽やかに着地する。
釣り上がった瞳が更に角度を急にさせ、坂東を見つめた。

「一つは、私を読心能力と同じ対処法で済ませようとしたこと」

坂東の前に立ちはだかる小日向は得意げな笑みを浮かべ、淡々とした口調で説明した。
読心能力は相手の思考を丸々読み取るので、動き以外に他の思考も流れこんでくる。
その為、多人数になればその思考がさらに氾濫し、掌握するのが困難になる。これが対多人数戦闘における、読心能力者の弱点とも言えた。
しかし小日向の能力は似て非なるもの。
小日向の能力は生体電気の流れから判断し、相手の次の行動“だけ”を読み取る。そこには思考など無駄な物は省かれており、多人数と渡り合った時にも演算に負荷がかかることもない。

「けど……例え次の行動が読めたって……これだけの人数がいたんだ。それをすべて捌くなんて……」

「無理……だとでも? 舐めないで欲しいですね。これでも私、体術には自身がありましてよ? 少なくとも貴方達ゴロツキが束になっても倒されないほどには」

焦りに表情を歪ませる坂東。
この時点で、何もかもが無駄だった。
所詮、低能力者共が働かす小細工程度で強能力者《レベル4》を出し抜ける程、世界は甘くはない。

「ああ、それと二つ目ですが――――」

ズンッ!! という強い衝撃が坂東の頭を揺らす。
悲鳴も上げることもできず坂東は地面に崩れ落ちた。
そして気が失う前に聞こえてきた声は――――

「この俺、晩葉旭からそう簡単に逃げ出せると思ってたことだ!!」

いつの間にか後ろまで来ていた晩葉のモノだった。


  4



一厘は風輪学園へ向けて全力疾走していた。破輩の制服は身体にちょうどよくフィットしていてそんあ無茶な動きにもついていけている。
今は一秒でも早く、一歩でも先に進まなければならない。ミスを犯した自分に『行け』といってくれた佐野のためにも、助けを求めている白高城のためにも、そして自分自身のために。

「待ってて……今度こそ、今度こそ必ず。私は……」

スカートでも全力疾走する天然さは相変わらず、だが今の一厘には果たさねければいけない約束がある。だからこそ周りの目なんて気にしてられない。
風をきる音がビュウビュウと耳に入ってくる。呼吸が乱れ、息を吸うことが困難になって苦しい。
それでも一厘は走るのをやめなかった。
そこに引き返せないものが、譲れないものがあるから、ここで止まる訳にはいかない。止まったら、自分の思いも彼女の本当の思いもこのまま消えて行くような気がしたから。

「あと……何キロ……?」

走りながら携帯を取り出して現在位置を確かめる。
ここから風輪学園までの距離はまだ1キロメートル以上あり、このペースで走り続けても十分以上は掛かりそうだった。

まだまだ縮まない距離に心の中で舌打ちをしながら、一厘は足に込める力を一層強くする。
せめていつも降りているバス停まで付けば、後は目と鼻の先なのだが、それすら見えてこないことからすると、もっと走り続ける必要があった。

そんな時、通りかかったら道の途中で見慣れた校章が掲げられている看板があった。
風が渦を巻き、輪の形を成しているマーク。そう、それは風輪学園の校章だ。

それがなぜこんなところに?
敷地内にはまだ入っていないはずだったが。
疑問に足を止めると、そこに書かれている看板の文字に目を通す。

「右折百メートル先……風輪学園第三グラウンド……」

どうやらこの角を曲がった先には風輪学園の所有する三つ目のグラウンドがあるようだった。
そういえば、学園の敷地内だけでは部活動すべての練習スペースを確保できないため、こんな辺境な地に三つ目のグラウンドを設けた、と破輩から聞いたことがあった。

本当ならさっさとこんなところに気を取られてないで風輪学園へと向かうべきだ。しかし、もしかしたこの先に白高城が居るかもしれない。
屁理屈かもしれないが、一応ここの第三グラウンドだって風輪学園の敷地なのだ。“風輪学園”へ行くと行ってここへ来たとしてもそれは間違いではない。

一厘は風輪学園へと続く直線の道を進まず、第三グラウンドへと続く右の道へと進む。

何分か走り続けるとそのグラウンドが見えてきた。
そのグラウンドには綺麗に惹かれた白線があり、薄茶色の砂の上で綺羅びやかに輝いていた。
やはり誰もいない。
真ん中に“赤いもの”があるだけで、遠目で見ても人がいるようには見えなかった。

「やっぱ……いないか……」

緑のネット越しに一通り眺めた一厘はやはり引き返そうとする。

が、

待て。

自分は今視界に入ったものの中で何か大事なものを見落としてないか?
そう、それはグラウンドの奥にあった“赤いもの”。
白線を引くグラウンドマーカーにしては大きすぎるし陸上部が使用する器具にしても他は片付けられているのに、一つだけ放置されているのは不自然だ。

そこから何か異様な気配を感じ取った一厘は急いでその正体を探るべくその物へと向かった。
その赤いものとの距離が縮まるに連れ段々と正体が明るみになる。
そう、それは赤いものではなく、

「――――うそ」

自分の血で真っ赤に染まった少女、葛鍵真白だった。

これで今日何回目のショックを受けただろうか。
そう考えてしまうほどに、目の前の現実は目を背けたくなるほどの残虐な光景だった。
まるで獰猛な熊に襲われたように、葛鍵の全身には切り傷が、そしてそこから溢れ出す夥しい血の量が砂地に染み渡り、血の湖を形成している。

「葛鍵さん!! しっかりして……何が何があったの……!?」

急いで駆けつけた一厘は、服が血に染まることすら顧みず葛鍵の身体を抱き起こす。

「一厘さん……」

血に染まった純白の眼帯、そしてもう片方のうつろな瞳。
葛鍵は口をほそぼそと動かし、掻き消えそうな小さな言葉で答えた。

「何があったの!? 誰がこんなこと……!!」

「逃げ……て。あいつが、またここに……来るから。私に……トドメを刺しに」

「そんなこと出来るわけ無いでしょ!! 私は風紀委員なんだから!!」

一厘は自分のリュックサックをあさり、支部から持ちだしてきた応急キットを取り出す。
確かに、葛鍵の傷は無数にあるが、そのうち深い傷は数える程しかない。なんとかそれらを止血できれば、とりあえず一命は取り留められるはずだ。

「それから、警備員に……」

ポケットから取り出し電話をかけようとする一厘。だがその手を不意に止めた。

彼女は見てしまった。
ディアクティブモードの携帯の黒い画面に映る。
今自分の背後から、腕に取り付けられた機関銃を構える男の姿を。

「―――――ッ!!」

一厘はとっさに振り向いた。
その後に聞こえてきたのは連続して聞こえてくる激しい銃声。
警備員の所有するゴム弾など比にならない破壊力の鉛の塊が何十発も自分に向けて発射された音だった。

「はあ、一服して戻ってきたと思ったらこれかョ 何かねぇ、そんなに俺の道楽の邪魔したいのか? ゴミども」

手のひらに設置された銃口から硝煙が上がる。それを鬱陶しそうに振り払うと、その声の主は不機嫌そうに、まるで獲物を横取りされた虎のごとく睨みを効かす。
その視線の先には無数の弾丸により、蜂の巣にされた一厘鈴音






―――――ではなく。

「いきなり……何するのよ!!」

『物質操作』により、自分に直撃する前に弾丸の動きを止めた一厘鈴音がいた。

「……なるほど、弾丸のスピードを正確に把握し、完璧に動きを止めるタァ……テメエ高位能力者の念動使いってわけかョ」

「だったら……」

目の前の男が葛鍵をこのような目に合わせた。
その事実を理解したと同時に、一厘に沸々と怒りがわき出してくる。
動きが完璧に止まり、地に落ちた弾丸を足で踏み潰すと、

「だったら何だって言うの……私も葛鍵さんみたいな目に合わせるって!?」

敵意を剥きだしにした表情で、目の前の男――――木原一善を睨みつける。

「ああ、そうだョ。
そこの肉塊、レベル4つーわりには糞弱くてさぁ、こちとら不完全燃焼なんだわ。ま、ここの学園のレベル4なんて半分が形だけの雑魚の集まりだから仕方ないっちゃあ仕方ないんだけどョ」

一善の右肩が開くと、そこからは人間の拳程度の大きさのある物が出てきた。
その物の形はヨーヨー、しかしその間で回転しているのは完璧な刃、強いて言うならば円盤状の電動ノコギリと言ったところだ。

「これでそこの女を刻んでやったてわけ。
高度な遠隔操作に対応してるから、そいつの『粒子創剣』とかにもかすりもしなかったわ。
本当笑えるよなあ……所詮レベル4の能力でさえも科学者が創りだした“おもちゃ”ごときに及ばないんだからョ」

一善が指差すと計三機の回転刃が同時に一厘を襲う。
三機の回転刃はそれぞれが不規則な軌跡を描き、一厘の方へと向かった。
これをかわすのは人間では困難なことがその動きからわかる。
たとえかわしたとしても、すぐに方向転換し、体制を整えさせる暇も与えずに襲い続けるだろうし、攻撃を当てようにもあれだけ小さく素早い的だと命中する確率はかなり低い。

しかし、小型というのは利点だけというわけでもない。
なぜなら――――

「さっきのでわかんなかったの? こんなガラクタ、私には効かないっ!!」

ドンドンドン!!
突然、三機の回転刃が地面へと突撃する。
地面に落ちた瞬間にそれらは砂の粒を巻き込み、しばらく回り続けた後モーターが焼き切れる音を残して停止した。

「ちっ……やはり弾丸以外にも干渉することはできたってわけか……」

そう、一厘の能力『物質操作』ならば、たとえ高度な遠隔操作にも対応してる機器でもその操作を上回る干渉力によって思うがままに操作できるのだ。

「それで、手の限りを尽くしたってところかしら? なら今度は私の番よ。葛鍵さんをこんな目に合わせた罪……きちっと償ってもらうわ!!」

一厘は両手を広げ、何かを呼び出すように両目を閉じ意識を集中させる。
すると、カバンから出てきた二十基の機械がまるで風の渦に乗った落ち葉のように一厘を中心として回りながら集まってきた。
それは木原の操作した回転刃よりも更に小型の機械。消しゴム程度の大きさで色は光沢のある黒。

「DSKA―004、これが私の能力を最大限に活かす為の答え。そう“今のところ”はね――――」

一厘は自分の周囲を飛び交うDSKAを一斉に木原の元へと飛ばす。
DSKAと呼ばれる機械の速度は木原の扱う回転刃よりも早く、動きさえもそれ以上の不規則な動きを醸しだしていた。
電子制御化に置かれた電子機器を上回る、速度と複雑な動作、さらにその数は二十。
木原の回転刃を人間がかわすのが困難と言うなら、これは人外ですらかわすのは困難といったところだろう。

「いッ―――けえェェェ!!!」

DSKA―004とは一厘が最近になって収集し始めたスタンガンの一種。
消しゴム大のサイズでありながらその出力は真に迫るものがあり、電圧を最大で250万キロボルトまで引き上げることが可能。
一基だけでは最悪少ししか傷をつけることしかできないとしても、その数が二十基もあれば話は別。
二十基のスタンガンによる放電を一斉に食らったら、どんな屈強な人物でも意識が一瞬で飛ぶのは明白なのだから。

一厘は演算によりどの機体がどういうルートを通り、木原に直撃するかの計算式を組み立てる。
もちろんこれだけの数があれば視界の外に回りこんでの奇襲だって出来る。なので二十基の内、五基を視界の外に回りこませその上で木原へと向かわせた。

「はっ!!」

360度すべての方向からスタンガンが自分に突撃してくるという絶望的な状況の中でも木原一善は笑みを絶やさない。
それよか、さっきよりも活き活きとしてるようにすら感じられる。


――――こんなんで、俺を倒せると思ったのかョ。

そんな呟きが聞こえた気がした。
前方から突撃していったDSKAはすべて回避され、その上で反撃を受け破壊される。
人間とは思えないその動きに、すこし眉をひそめる一厘。
しかしここまでは予想の範疇。
本命は視界外からの奇襲だ。
幸い木原自身も背後から迫るDSKAには気づいていない。

(そこッ!!)

五基のDSKAを一気に加速させ、木原の背後に突進させる。その距離はわずか五センチもない。
射程範囲内には入った。
これで逃げることは不可能――――

「気づいてないとでも思ったか?」

ではなかった。
木原は約二メートルの高さを垂直に跳躍し、背後からのDSKAを容易くかわしてみせた。

「うそ……!!」

驚く点は多々ある。
それは異常なまでの反応速度と、それについていける肉体の俊敏さ。さらに視界外からの攻撃すらもなんらかの方法で把握しているということだ。

木原は着地と同時に、真下にあった五基のDSKAをそのまま踏み潰す。
これで先ほど破壊されたのも引いて考えると残り十二基。
一厘はこのままではすべて破壊されるかもしれないと危惧して、一旦全てのDSKAを自分の元へと戻した。

「なんだョなんだョ。ようやく身体が温まってきたっ―のに」

(なんでこいつは、視界外からの攻撃にも対応できるのよ……それにあんな動き人間には不可能でしょ……?)

「もしかして、なんで自分の攻撃が当たらないか不思議に思ってんのか?」

「!!」

木原の言うこと反論はできなかった。事実その事を疑問に思っていて、なおかつタネすらわからない状態なのだから。

「その面だとどうやら図星だったってところか、じゃあ最大のネタばらし。
俺はサイボーグ。そして俺の能力は空間掌握《エリアグラップ》。自分の周囲にある物体を全ての把握できるって訳ョ」

まるで格下を相手取るように木原はふざけた口調でそう言った。
その言い方に苛立ちを感じながらも、それで全てを納得する一厘。
『空間掌握《エリアグラップ》』により、自分に迫り来るすべてのDSKAの位置を正確に把握し、サイボーグの補助によりそれらすべてを回避してるのだ。
サイボーグ人間なんてにわかに信じがたいが、そうとしか説明のしようがない。

「自分の能力をあっさりと教えるなんて随分と余裕ね……そういうの“負けフラグ”っていうのよ?」

一厘は焦りを表情には出さず、距離を離すため一歩後ずさる。
このグラウンドには一厘の『物質操作』で飛ばせ、武器になりそうなものは手持ちのDSKAしかない。もしこれが全て破壊されたら完璧な丸腰状態となる。
その上で、肉弾戦に持ち込まれたら勝ち目はない。
女の一厘と男の木原。さらには生身の人間とサイボーグ人間なのだ。殴り合ったらどちらが勝つかなんては目に見えている。

「じゃあ、テメエのそれはョ……」

木原が足に力を込める。
地面の砂がグッと盛り上がり、次の瞬間に一気に後ろへと蹴り飛ばされた。

「死亡フラグなんだよォォォ!!」

速い。
まるで人間の形をした新幹線がこちらに向かって突っ込んでくるかのよう。
このままでは一瞬で距離を0にされる。そう考えた一厘は残りのDSKAを防御用にと展開し、木原へと向かわせた。

「はっ……! どこぞのSFロボットアニメじゃあねえんだから――――」

木原はまるで鬱陶しい蚊を払うかのようにそれらをかわし、

「んなもんでオールレンジ攻撃を繰り出すより、殴りに行ったほうが早いに決まってんだろォォォ!!」

サイボーグの腕一本で全てを殴り、砕き、破壊していった。
目の前でバラバラ砕け散るDSKA。
それは今一厘を繋いでる一本の生命線が裁たれたことを意味していた。

これで勝機は完璧に消えた。
あとは一方的な殺戮が待っているだけ。

「さて……こんなもんで終わりかョ。結局不完全燃焼には変わりはなかったな」

「まだ終わりじゃないわ。そうだ……こんなところで終わってたまるもんか! 私は白高城ちゃんに会いに行かなきゃならないんだから」

一厘は震える右手で拳を作る。
伊達に中学から風紀委員をやってるわけではない。それなりの体術だって自分はある。
そう信じて、一厘は木原に向かって殴りに掛かる。

「うっ……あああああああ!!」

それは捨て身の特攻なのか、それとも本当に倒す気でいたのかわからない。
しかしどちらにせよ結果は一つだった。
その拳をあっさりとかわした木原はそのまま伸びきった一厘の右手首を掴んだ。
もちろん優しくなんてことはありえない。木原は万力に匹敵する力で、一厘のか細い腕を掴んだのだった。

「テメエ……今白高城って言ったか?」

「それがッ!! なんだって言うのよ……!」

痛みに顔を歪めながら一厘はそれでも抵抗を続ける。

「ああ……なるほど。テメエが白高城の言っていた幼馴染の風紀委員てやつか……」

「貴方……!! 白高城ちゃんを知ってるの!?」

「知ってるも何も。白高城は俺達と同類の人間だぜ?」

「!……ふざけるな。白高城ちゃんが貴方みたいな下衆と同じなわけがない!!」

ブンッ!! 一厘の視界が回転し、天と地が何度も反転する。
それは木原が一厘の片腕を掴んだまま、放り投げたのであった。
一厘は地面に背中を打ち付け、内蔵が揺れるのを痛みを伴いながら感じた。

「あッ……が……!!」

仰向けにされた一厘の腹部に木原の右足が乗る。木原は甚振るようにその足をグリグリとめり込ませていく。

「残念。それが同じなんだョ。こういう風に弱者を甚振るのが好きで好きでたまらないんだなぁ!! 俺もあいつも!!」

「違う……絶対に……!」

ゴポリ、と口から血が溢れだしてくる。木原の足によって内蔵がかなりの圧迫を受けているようだ。
それでも一厘は木原の足を掴んで、必死にどかそうとした。

「違わねえョ!」

木原は一厘のお腹に乗せた足をどかす代わりに、背中を掬いあげるように蹴っ飛ばした。
空中で何度も回転し、一厘は砂のもとに叩きつけられる。

うつ伏せになった一厘はそれでも立ち上がろうとする。
もがいて、もがいて、必死に身体を地面から離そうとする。
こんなところで、潰えるわけにはいかない。
早くこいつを倒して白高城の元へ行かなければならないのだ。

「……まだ、まだよ!!」

右手を地面につける。そして次に左手を。
その次には両膝をつけようとする。

「寝てろ」

が、起き上がりかけていた身体を、再び屈服させるように、木原は一厘の頭に足をのせて、地面に叩きつけた。

「さーて、テメエはどう料理してほしい? ただ殴り殺すには芸がねえし、切り刻むのも飽きちまったしョ……」

頭からも血が流れ出し、視界が鮮血で染まる。
ぼうっとする思考を巡らす中で浮かんできた感情は後悔。
こんなところで道草を食っていなければ、スムーズに白高城の元へと進めた。
こんな男と遭遇しさえしなければ、今ここで命を落とすこともなかった。

しかし、

(私がここに来なきゃ……葛鍵さんはこいつにトドメを刺されてた……のかな)

一厘は自分からわずか数メートル先で血まみれで倒れ込んでいる葛鍵にと目をやる。
そう、間違いなく一厘がここに来ていなければ葛鍵は木原によって殺されていた。風紀委員としてそれを阻止できたことは悔いるべきことではない。

(けど……同じか。どうせ私が殺されたら……葛鍵さんも。……何よ、死人が二人に増えるだけじゃない)

圧倒的実力の差に己の非力さを改めて実感する一厘。
自分がこの男を圧倒出来るだけの力があれば、自分の命も葛鍵の命も助けることができるというのに。
何故自分はここまで弱い人間なのだろうか。
風紀委員として虚勢を張っていただけで、精神面でも肉体面も未熟な弱い人間なのだろうか。

(せめて……私の能力で何かを操作できれば。この男の気をそらすことが出来るのに……)

一厘はあたりを見回す。しかし半径30メートル以内には砂地が広がっているだけで、能力で操作できそうなものは何もない。
用具室にはボールなどの操作するには最適なものもあるだろうが、ここからは離れすぎていた。

「んじゃあ。三流スプラッター映画よろしく、首を切断したあと、すり下ろしでもしてみるか。安心しろ、おろした肉片は風紀委員の支部にとどけてやるからョ」

人間をまるでおもちゃのように扱えるこの男に心底戦慄した。
無意識の内に身体が痙攣したように震え、咬み合わない上下の歯がカチカチと音を鳴らす。

死にたくない。
こんな所で、死にたくない。
『生』を強く欲求する一厘。
だが、パニックには陥らず、不気味なほどに落ち着いて考えていた。


考えろ。

――死にたくなければ。

考えろ。

――生きたければ。

考えろ。

白高城に会いに行くために――――!


一厘は何かに気づいたようにカッと虚ろだった目を見開く。

(あはは……本当に私って鈍いなあ……)

確かな感覚。
“それ”が自分の手中に収められていることを確認すると、一厘は少し唇を震わせて笑みを作った。
それは諦めの笑みではない。

(――――こんなとこに“ある”じゃない。
私の能力で操れるものが、こんなにも、たくさん――――!)

確かな勝利を確信した笑みだった。


  5


私は小さい時泣き虫だった。
道端でつまずいただけで泣き、男子にからかわれて泣き、挙げ句の果てには犬に追い掛け回されて大泣きしたことだってあった。
とくに何の取り柄もなく、泣き虫だった私。
けどそんな私にも正義の味方のような頼れるヒーロがいた。
擦り剥いた足を丁寧に処置してくれたり、からかう男子を腕力に物を言わせて黙らせてくれたり、獰猛な大型犬にも生身で立ち向かってくれた、頼れるヒーローが。
彼が来てくれるだけで、必ず何かが起きた。それは奇跡といってもいいのかもしれない。それは口では表現できない何か。
そんな彼は私に約束をしてくれた。

『お前がピンチになったときは俺が助けてやる。これから先。何年、何十年経とうがな』

そして、その言葉に私も対抗するようにこう約束をした。

『私だって、君が危なくなった時は絶対に助ける! 守られるだけじゃなく守れるようになってみせる! この約束は何億年たったって消えないから!』

私はその少年に守られるだけではなく、自分でもその少年を守りたかった。
強くなって、いつかはその少年だけではなく、この世界のみんなを守れるような人間になりたかったんだ。







耳元に轟音が響いてくる。
それは金属や木材が執拗に肉を叩き潰すかのような音。
気を失っていた破輩はそこで目を開ける。頭を強く打ったせいか、気絶する前の記憶が前後し正しく整理するのに時間がかかった。

「えち……ぜん……?」

ようやく記憶の整理がつき、破輩は一人の男の名前を呟く。
そう、それは自分が黒丹羽の策に嵌められ、窮地に陥った時に駆けつけてきてくれた男の名。

「越前……!!」

その者を探すように、破輩は顔を上げる。
顔をあげたすぐ先にその男、越前豪運は背中を見せて佇んでいた。
後ろで倒れている自分を庇うため、両手を拡げ身体で大の字を描くかのように。

「ガハハ! こいつマジしぶてーー!! けどちょうどいいサンドバックだぜ!」

「いい加減倒れろよ! このままだとマジで死ぬよ? それともおたく自殺願望者?」

「なにが『この女を傷をつけたきゃ俺をぶっ倒してからにしろ』だ! こんなゴリラ女をかばった所で何の得があんだヨォ!!」

男の拳が、金属バットが、スタンガンが、ありとあらゆる凶器が越前を傷つける。それにより、血を吹き出すスプリンクラーのような状態になりながらも、越前は膝を折らない。

「なに……やってんだ、よ。越前」

破輩の顔が驚愕の色一色に染まる。
何故この男は自分を守るためにこんな血だるまになっているのか。
自己犠牲なんて言葉とは全くかけ離れたこの男が。

「約束……しただろ」

越前は霞んだ声を呻き声とともにひねり出す。

「俺はお前のピンチに……いつでも駆けつけるって……」

「だからって!! 越前がそこまですることないだろ!?」

破輩は立ち上がってボロボロの越前へと駆け寄ろうとする。だが身体に力が入らなかった。
少しだけ眠っただけはで今まで積もった疲労を完璧に消し去ることはできてなかったのだ。

「そこでおとなしく見てろ……俺がこんな逆境をぶっ飛ばす『奇跡』を……。いや――――」




――――――“波乱”を起こしてやる!!


轟―――と、風が唸りを上げる。
空は暗雲に包まれ、嵐の直前のように雷鳴が鳴り始めた。
この空間を駆け抜けるのは強風。
破輩の髪をザアザアと撫で、立っているのすら困難なほどの風が流れ始めていた。

「これは……」

破輩は呆然とした。
今日の天気予報は晴れで、風のない穏やかな一日になるとのことだった。
さらには黒丹羽の言ってたように、この学園の周囲には気流を操作する機械が設置されていて人工的な無風状態が創りだされているのだ。
なのに何故こうして風が吹く。
どのような道理で樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》の導き出した完璧なる予測をねじ曲げる異常気象がこうして発生しているのだ。

「な、なんだぁ!? 機械の故障かぁ!? 早く! 早く! この風を止めさせろ!」
「やべえって、これマジで!」

男達が焦りの声を上げる中、破輩のポケットにある携帯が何かを訴えるように鳴る。発信者の名は春咲桜だった。

『破輩先輩……大丈夫ですか?』

「春咲か、こっちはなんとか持ちこたえている……お前は今何をしてるんだ?」

『風輪学園の周囲に怪しげな機器が設置されていたので私達で機能を停止させておきました。
もしかしたら爆発物の危険性もあるので、まだ注意は必要ですが……』

「……でかした!!」

破輩は携帯を切り、ようやく立ち上がる。
越前の『波乱越し』により、樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》の示した天気予報をねじ曲げ、春咲達により気流を操作する機械を破壊したのだ。
これにより100%の状態でこの学園にも風が流れ込んでくる。
それは、破輩の能力が回復したことも意味していた。

「後は任せたぜ……俺は俺の約束を果たした。今度はお前の番だ……破輩」

吹き荒れる風に耐え切れず、越前は倒れこむ。
破輩はそれに黙って頷くと、目の前の男達を睨みつけた。

「私と越前の痛み……そしてテメエ等が傷つけた者の痛み。すべてその身体に刻みつけやがれ……」

それはゆっくりとした口調。だがそこには確かな怒りと使命が秘められていた。
縦横無尽に吹き荒れる風が、破輩を中心にして包み込むように集約し始める。
その規模はドンドンと広がり、最後には校庭を飲み込みかねないほどの竜巻と化した。

「テメエ等まとめて……」

男達は声も上げる暇なく、その渦に飲み込まれ、空中を凄まじい速度で回転させられる。
破輩は上空で回転し続ける男達に向けて、敵意の視線を送ると、

「吹っ飛んで反省しやがれェェェ!!!」


ドゴォォォ!!
竜巻によって男達を空高くへ舞い上げる。
学園中を包み込む巨大な風の渦。それはまさにこの学園の名を冠する“風”の“輪”。
その風は天にまで届く勢いで突き進み、淀んでいた暗雲までもを消し去った。

綺麗サッパリ周辺のものがなくなった第二グラウンド。破輩は痛む身体を引きずり越前の元へと向かう。

「ははは……やっぱお前はすげえよ。俺なんかは足元にも及ばねえ」

血だらけの越前は破輩を労うように声を掛けた。

「お前がいなきゃ、こうはいかなかった。私はお前に感謝してんだ……越前」

破輩は越前に寄り添う形で地に腰を下ろす。そこから溢れる言葉は感謝の言葉。
あの時の約束を守ってくれたことへの、身を張って自分を守ってくれたことへの。

「だけど――――」

ギュッ!!
破輩は越前の上半身を起き上がらせるように抱きついた。
力強い抱擁が越前の傷ついた身体を潤すように、締め付ける。

「やっぱり馬鹿だ……こんなに無茶しやがって。もし死んじまってたらどうすんだ、お前に死なれちゃ、私は……私は……」

「馬鹿はお前だよ、破輩」

「え?」

「この俺がそう簡単に死ぬわけねえだろ? お前の事をこれからも守っていかなきゃならねえんだから、こんなとこであっさりと死ぬわけにはいかねえ」

「越前……」

「さて、破輩。お前はまだやること残ってるな……? この学園を守るっていう大きな仕事が。
だったら、こんなとこで油売ってないで最後の決着をつけてこい。俺はここで寝ながら待ってるからよ」

「呆れた。この怠けやろう」

破輩はクスリと笑って、越前を再び地に寝かせる。
そうだ、自分にはやるべきことが残されている。
今度こそ、全てにケリを付けないといけない――――

「待ってろ。目が覚めたら、またいつもの平和な学園に戻ってるよ。この私、破輩紀里嶺が保証する」


  6

「さてこの世にお別れは告げたか? じゃあ首の切断に取り掛かるとするか」

木原がサバイバルナイフを取り出し、一厘の首を撫でた。
鋭い刃はその少女の軟らかい首をいつでも掻き斬れるのを故事せんとばかりに鈍い銀色の光をギラギラと反射させる。
しかし一厘は同様もせずに何かをしきりにブツブツと呟くだけ。

「……」

「あまりの恐怖に狂っちまったってか? おいおい……そんなんじゃ死ぬ間際の反応が楽しめねぇだろうがョ」

木原は興が冷め、焦らすのを止める。
こんなつまらない者はさっさと殺すか、と吐き捨てナイフを大きく振りかざす。

「――――演算完了。」

木原のナイフが今にも首を掻こうとしてる時、一厘が呟きが聞こえた。
その瞬間。

ドゴォ!! 
地面が抉れ、木原に向かって砂の柱が突き出す。

「チッ――!!」

木原は空間掌握によりその奇襲を把握し、後ろへと飛び退いた。
すると先ほどまで木原がいた場所に膨大な数の砂が突き抜けていく。

(こんな芸当ができるのは……ボルテックスのババアか……?)

風に乗っているかのように、空を切る大量の砂塵。
木原が予想するに風紀委員の仲間を助けにきた破輩が割り込んだのかと思った。
しかし、どこを見渡しても破輩の姿は見当たらず、風だって吹いてる様子はない。

「どういうことだ……こりぁ」

目を細め不可解な現象を見続ける木原。
この砂の動きは風によって操られてるものではなく、一つ一つが意志を持っているかのように、不規則な動きを続けている。なんの動力もなしには動かにハズの砂が何かによって動かされている。

「へえ……貴方みたいな凶人でも、そんな顔できるのね」

砂が舞うグラウンド。そこで今まで倒れ続けていた少女が立ち上がる。

「まさか……ははッ……おいおいおいなんだよその馬鹿げた能力《チカラ》はよ」

近くには土龍《ミミズ》。
砂の一つ一つが集まり、まるで本当に生きているかのように蠢く巨大なミミズを模した砂の塊が“いた”。

「私の能力は『物質操作』。重量15キロ以下なら、合計1トンまで操作できる能力。
なら……砂の一粒一粒を左右左できないわけがないわよね!!」

ゴッ!!!
流線形フォルムの砂の集団は一斉に木原へと襲い掛かる。
その姿は巨大なミミズが人一人をまるごと飲み込もうとする光景さえも連想させた。

(ふざけんな……! 一粒一グラムにも満たない砂の粒を一トン分操作するだと!? 一体、何千……いや何億の数の砂粒に干渉してんだョ……!)

これだけ巨大なものに飲み込まれたら木原とてひとたまりもない。この土龍に関しては空間掌握による運動パターンを先読みし、回避するのが無難なところ。幸い、一厘は土龍から離れて操作している。
つまりはこの攻撃を回避すればもはやスッカスカの守りになり、一厘を潰すのは容易いということだ。

(サイボーグで補助したこの身体能力なら……いけるか!)

土龍が真上から降り掛かってくる。
まるで土砂崩れの様に大量の砂が流れ落ちる中、木原は右足で土を蹴りあげて横にそれる。
対象を失った土龍はそのまま地面に激突し、その姿は宙に霧散する。

木原はその隙に一厘に向けて猛スピードで近づいていった。
少なくとも土龍があの場所から復活して、こちらに向かってくるまでは時間がかかる。それならばその僅かな時間で一厘さえ消せば連鎖的に土龍も消滅するのだ。

「かかッ……かかかかかかかか――――かかか!!」

未だに足の速度を緩めない木原は自分の口が裂けるほどにひん曲がるのを感じた。
ようやく自分を“殺せる”人物に巡り会えた。生と死の間の命の応酬。
久々に体感するこれに、笑わないことなどできない。

一厘は未だに微動だにしない。
全神経を集中させて何億もの砂粒を操作しているのだから、身体の操作に割いてる余裕など無かったのだ。
今まで体験したことのない演算。脳に大量の情報が流れ込んできて、爆発寸前の風船のように今にもパンクしそうだ。

余計な情報を脳へと送らないために目は閉じていた。それでも自分へと近づいてくる凄まじい速さの足音で木原がすぐそこまで来ていることがわかる。

恐ろしい。
もしタイミングを見計らったら、間違いなく自分は木原に殺されるのだ。そうすれば、自分は白高城に会うこともできなくなる。風紀委員の仲間と仕事をすることだってできなくなる。

(――死ぬのは、やだ。)

演算が乱れ掛け、砂の掌握が不安定になる。

今すぐに演算を中止して、身体の方を動かせ。
今から逃げ出せばまだ何とか間に合うはずだ。

そんな弱音が、頭の中で響き渡った。

(――けど、)

だが、そんな言葉に振り回されてはいけない。
今から逃げ出した所で、機械で肉体を補強してる木原にかけっこで敵うはずがないし、それに――

(――逃げるのは、もっとやだ!!)

演算が安定する。
激しい頭痛と共に再び取り戻した、“あの感覚”。

一厘は目を開く。
するとそのすぐ先には、ナイフを振りかざして身体を引き裂こうとしてる木原がいた。
両者の距離は30センチほど。しかも土龍は未だ復活しておらず、消滅した場所からここの距離は10メートル以上もある。
たとえ今復活したとしても、この短時間であそこから木原の動きを妨害するにはあまりに時間が足りすぎた。

「死ねョ、今すぐ」

木原の口が大きく開き、唾液が糸を引く。死神が自分の首に鎌を掛けたような状況。
どうしようもないこの状況で生きるという選択肢は0に等しい。
それでも一厘はニッと笑った。

「生きる、これからも!」

木原の言葉に抵抗するように。自分の意志を再確認するように。






ドゴオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオ!!!!!

木原が一厘の身体を引き裂くため、一歩前に踏み出した場所。その地面の土が突然として天へとめがけて噴射された。

「ぐ、アァァァァァァ!!」

半径一メートル以上の巨大な砂柱が木原を飲み込み空へと弾き出す。
体中には砂が入り込み、不快感を与えた。そして砂塊が身体に衝突した衝撃は乗用車にはねられた以上の激痛を醸し出す。
目もろくに開けることができない木原は浮遊感と共に、訳の分からない今の現象に混乱していた。

(何が……どうなってやがる!?)

一つ目は土龍が消滅した場所とは全く関係のないところから砂柱が飛び出してきたこと。
しかも木原の攻撃モーションの直後に現れたため、空間掌握によりその存在は把握できたが回避することはできなかった。
二つ目は一厘の能力の限界値。
一つの物体には一五キロまでしか割けられないはずなのに、こうして木原は宙に持ち上げられている。

10メートル以上の高さまで放り出された木原は、落下し、地面に叩きつけられた。

「いてぇ……痛え、痛え痛え痛え痛え――痛え!!!」

その衝撃で義手はあらぬ方向にひん曲がり、使い物にならなくなった。
木原は屈辱と激痛に顔を歪め地面の上で激しくもだえ苦しむ。

「……貴方は私の能力が念動力系であることを失念していた。
ここのグラウンド中の土すべてが私の支配下に置かれてるんだから、どこにあるとか、どこで消えたとか関係ないの」

そこまで言って、一厘の身体がブワリと浮いた。
一五キロまでしか操作することができないはずの『物質操作』によって。

「どう……? うまく飛べてるかしら。
確かに私の能力は一五キロのモノしか操れないから、自分も含めて人間を動かすことはできない
でもね、ある『裏ワザ』を使うことで、さっきみたいに貴方をふっとばすことも、こうして自分を浮かすことも出来る」

木原は怒り心頭のまま立ち上がり、宙を浮く一厘と先ほどの自分の共通点を探す。
目を凝らし、一厘の姿をひたすらに窺うと、何か一厘の周囲にまとわりつくものが見て取れた。

「このクソ女……」

それに気づいた木原は一層怒りの炎を強くし、睨みつける。

一厘の周囲にあったもの、それは砂。
一厘は何万粒もの砂で自分の身体を持ち上げ、宙に浮いてるのだった。
もしひとつの物体で自分の身体を持ち上げるのだとしたら、自分の体重全てがその物体に掛かる。
しかし何万もの物体で身体を持ち上げるのだとしたら、その物体一つに掛かる重さは何万分の一になる。
もちろん今一つの砂に掛かっている重量は一五キロ未満。一厘の身体を支えていても『物質操作』で操ることが出来る範疇に収まっているのだ。

「自分としてもこれだけの対象数を操るのは始めてだから少し不安だったけど、予想以上にうまくいった。
破輩先輩になぞって、能力名を『砂塵旋風《サンドボルテックス》』にでも変えてみようかな?
……貴方を、倒してからね……!」

一厘も宙から木原を見つめる。
その視線は何よりも強く、何よりも堅い。

「はっ……やれるもんならやってみろヨォ!!」

義手に内蔵された機関銃が唸りを上げ、一厘に向けて掃射された。
だがそれらすべての弾丸は『物質操作』によって動きを止められ、力尽きたように重力に引かれて地面に落ちていった。

「いい……これが私の全力……」

木原を囲う様に、周囲に砂の壁が現れ、右回りに回転していく。すると、それは砂嵐のように周囲の空間に砂を散布し視界が不安定にさせた。

「チッ、こいつは……やべえか」

木原はこのままここに留まれば、全方位からの砂で埋め尽くされることを悟って、一刻も早く逃げ出そうとする。

「!?」

が、身体が動かない。
たとえ10メートルの高さから落下したとはいえ、衝撃はほとんどが機械の部分が受けおってくれて、肉体の方に大きなダメージはない。
なのに何かに固定されたかのように両足が動かなかった。
木原は急いでその原因を探るべく、足元に視線を送る。

そこには、足首から下をすっぽりと覆い隠す砂があった。

「――――ッ!!」

それに気づいた時にはもう遅い。
その僅かな隙が木原が逃げ出すのにロスを与えたのだから。

「埋まれええええェェェ!!!」

一厘の叫びとともに、砂の壁で描かれた円がそこの中心にいる木原にむかって狭まり始めた。

ドドドドドドオォォォォォ!!!

円が段々と小さくなっていき、中心の木原に迫っていく。
狂った獣の如く、荒れる大波の如く、全てを喰らい尽くす虫の大群の如く。
その砂粒は様々な形に崩れ、様々な形で木原を飲み込む。

木原の悲鳴は、砂のこすれ合う音に遮られ一厘の元へは聞こえてこない。それでも確かな手応えで一厘は勝利を確信した。

砂の動きが弱まり、砂埃がひいて視界が明瞭になっていく。
地面に再び降りた一厘は木原がい居たであろう場所に目を向ける。

「はぁ……はぁ……なんとか、なった……」

そこにあったのは巨大な砂の山。
木原は完璧にそこに飲み込まれたようだった。

安堵と同時に、ガクンと体の力が抜け、地面にうつ伏せの状態で倒れ込む。
全身の痛みが今になって蘇り、立つことすらもうままならなかった。

「でも……これじゃあ。風輪学園までいけないやぁ……」

あと数キロ先の学園にさえも向かう体力はない。
絶対に会わなくてはならない人物がいるというのに、後はジッと佇むことしかできない。

そんな現実に一厘は歯噛みした。

「神様がいるとしたら、本当に意地悪だよね……どうして、こんなに私の邪魔ばかりするんだろ」

答えなんて帰ってこないのはわかっている。でも今はどうしても愚痴りたくて仕方ない。

この数ヶ月間、自分は進むべき道の中で様々な障壁にぶち当たってきた。
自分の思い描いていた道にはいくつもいくつも障害が隠されていて、進む度に自分の足をすくってくる。
でも、その転倒にはなにかしら意味があり必ず転ぶ度に何かに気づかせてくれて、時には間違った道を選択していたことも教えてくれた。

でもそれももう限界。
大切な何かを教えてくれる代わりに、身体が傷つく。
次第に進み続けるのが困難になっていくほどに。

今がまさにその状態だった。

もう、辛い。
心に身体がついてきていない。
思いに身体が応えてくれない。

『ここにいるぜ。神様じゃなくて“案内人”ならな』

ふと。そんな声が聞こえてきた。
気だるそうな風に聞こえる懐かしい男の声が。

一厘はこの声の少年を知っている。
自分の身体が応えてくれないことにさえ、応えてくれる少年を。
昔から、そして今でも自分と白高城を気にしてくれている少年を。

「はは、随分とやつれた案内人だね。
じゃあ……“案内人”さん。私を風輪学園まで連れて行ってくれないかな……? 会わなきゃいけない人が……“友達”いるの」

ぼやける視界に映ったのは自分を見下ろしている少年だった。
なぜか両手には猫が、そして顔中には引っかき傷がある。
その少年はピタリとも表情を変えずにこう言い放った。

『了解。ただし高くつくぞ。俺の案内料は』

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最終更新:2013年02月18日 00:14