番外編中編
先程の女子トイレ騒動に引き続き、またもやの失言により鉄枷に対する彼女の信用度はかつて無い程に失墜していたが、それでも通話は続いていた。
鉄枷は電話の向こうの声に当たり障りなく、至っていつも通りに返答しながら、第7学区の木の葉通りを外れ、丁度ビルの立ち並んだ道路を前進する。
木の葉通りは連日人のにぎわう活気ある場所だが、一歩通りを外れればたちまちその雰囲気を変貌する場所としてその道の者には有名である。
勿論学園の治安を維持する風紀委員たる彼がそんな事を知らないはずもなく、ついでに言えば、ここはその道の者達からケンカ通りという別称で呼ばれている事も百も承知であった。
出来れば足を踏み入れたくなかった、そう鉄枷は電話の向こう側に聞こえないほど小さな声でひとりごちる。不良でも何でもない人間がそのような危険極まりない場所を敢えてぶらつこうなど思う筈もなく、彼の弱音も至極当然である。
彼が先程から電話を切る事無く、破輩と会話を続けているのもそういった一抹の不安を緩和する為であるのかもしれない。
しかし、彼は進まねばならない。自らの踵を返す事などしない。
彼が自分の左手に持つ受信機がその先を指し示す限り、その歩む向きを変える事は無い。
彼の左手に収まっているコンパクトのような形をした精密機器は、中央には液晶がはめ込まれており、その液晶の中で一つの光の点がゆらゆらとたなびく。
その点が示すのは彼らが捜している
春咲桜、その人である。
『ところで、それが春咲だって確証はあるんだよな?もし間違ってたらもう今夜は探すのは難しいぞ』
「あぁそれは大丈夫です。自分がちゃんとトイレの中を確認しましたから、ぶっちゃけ万が一にも人違いは有り得ないっす」
そう鉄枷は破輩に対して誤解の生じる事の内容確証めいた口ぶりでそう断言する。
春咲は物体転移系能力者と言えど、その能力強度はせいぜい異能力程度。自分を転移してその場を離れたという可能性は皆無に等しい。というより、それが出来たとしてもわざわざ自分を転移する理由もない。彼女はトイレに行っただけなのだ、ならば大手を振って堂々と出入口から出ればいい話である。
ならば女子トイレに残っている筈だが、それは鉄枷自身が自らの社会的地位と失ってはならない何か大切な物を犠牲にしてまで確認したが、彼女の存在は確認出来なかった。
したがってあの時女子トイレから姿を現したマスクの変人は春咲本人、そう断言できる。
『そうか―――にしてもガスマスク、ねぇ。』
「えぇ。顔を隠してまで何をするつもりなのか…ぶっちゃけ、何かキナ臭くなってきましたね」
『顔を隠す必要があるのか、あるいは顔バレが怖くて自発的にやってんのか。
いずれにせよケンカ通りなんつーガラの悪ぃトコに顔隠して入ってく所から察するに、ヤベェ事に足突っ込んでるって事は伺えるな』
電話先の声のトーンが少しばかり低くなるのが容易に聞いて取れる。電話先の女、
破輩妃里嶺の機嫌が悪くなるとほぼ必ずと言っていい程声のトーンが下がるのは、風紀委員の同僚には周知の事実だ。そして今現在、破輩は明確に怒りを露わにしている。
(…)
無理もないだろう、と鉄枷は思った。なにせ自分の同僚の風紀委員が完全下校時間をとうに過ぎた頃に街を徘徊、それだけでなく学園都市でも治安の悪い所へ自ら赴き、他人に顔向けできない様な事にうつつを抜かしているというのだ。
彼女の上司として。
そして一人の風紀委員として。
彼女の悪行を見過ごすわけにはいかなかった、看過できるはずなど無かった。
それだけに、今まで彼女たちがその事実を知らないで過ごして来たという事は彼女をより苛立たせる要素となった。
所属がバラバラではたから見れば組織力の無いような救済委員ならばまだしも、よりにもよって学園内の治安を守る風紀委員が、内部の歪みに気付かなかったなど言語道断、とんだ御笑い種である。
彼女が抑え様の無い、矛先も分からないような怒りを露わにするのも至って自然であると言えよう。
電話先の向こうからでもひしひしと伝わってくる憤怒の感情に、鉄枷は当惑の念を禁じえなかった。
正直な所、鉄枷は怒っている破輩を見ると、または起こった時の低い声色を聞くと、どうしても生物的な恐怖心が沸き起こってくる。
例えその怒りが自分に対してではない時でも自分の気持ちが一気に引き締まる位、怒る破輩の姿は当たりの空気を塗り潰す程の濃密な威圧感を辺り構わずまき散らす。
端正な顔を傲然と眦一色に染め上げ、凄みを帯び、さながら女帝の如き貫禄を見せる。
鉄枷は一人で治安の悪い所を歩き回る心細さに更なる不安要素を加えないでくれと内心懇願しながら、同時にその怒れる台風女こと破輩先輩に同行している一厘に同情してやまない。
虫の居所の悪い獣と同じ檻に入れられているようなものだ、彼女の心境は心細いどころでは無いであろう。
もっとも、こんな失礼な例え方をしていた事が本人にばれようものなら明日の朝日は拝めない様な目に合う事になることは必至だが。
(そういえば、さっきから一厘の声が聞こえないな。一緒にいるんじゃないのか?)
――――そうこうしている内に、鉄枷は遂に春咲の居場所へとたどり着いた。
鉄枷は足を止め、目の前にあるビルを見据える。
ビルとビルの間にひっそりと佇む朱色のビル。それは辺りにひしめくビルに紛れて決して目立つものではなく、普段ならば見向きもしないであろう何の変哲もない建造物。
しかし鉄枷はそこに自分の同僚がいて、そこで何かを執り行っているという事を知り、それを踏まえて見ているからかそのビルが嫌に不気味に見えた。長方形の建造物に塗りたくられた朱色がより一層その異様さを引き立たせている気がした。
鉄枷は右手に持ったスマートフォンで破輩に連絡する。不意に自分の手がしっとりと湿っている事に気付き、制服の袖でそれを拭い取る。
「着きました」
『そうか、じゃあ場所を教えてくれ、私たちも丁度準備終わったからそっちに向かう。
鉄枷は春咲に見つからない、どこか見通しのいい場所に待機して何か動きがあれば連絡してくれ』
「了解(ラジャー)、場所は今からメールで位置情報を送りますんで」
そういうと、返事も無いまま破輩の方から電話が切れた。
相変わらず自分の扱いが荒すぎると思わず不満を漏らしそうになったが、声のハリから察するに先程よりも気持ちは穏やかなものになっていると判断し、鉄枷は一先ず喉元でそれを堪える。気持ちさえ穏やかになってくれればそれでいい、イライラした状態で来る位なら一人で追跡を続けていた方が精神的にもやさしいと言うものだ。
最後まで準備の内容は教えてくれなかったが、兎に角落ち着いてこちらに向かっているのなら一先ずは安心出来る。
漸くこの心細い状況から解放される―――――そう思っていた矢先であった。
「はぁーい、ほんなら出発するさかい皆さんは外のトラックの荷台に乗ってぇーな♪
酔い止めは持ったかな?残念ながら乗り心地は保証しかねるでぇー」
という、何とも緊張感の欠片もない声が鉄枷の耳に滑り込む。声の発生源は間違いなく赤いビル、正確に言えばビルの入り口にある擦りガラスの向こう側からであった。
(ヤッベェ、どっかに隠れなきゃ…ッ)
あまりにも早い状況の変化に鉄枷は一瞬当惑するも、取り敢えず先程彼女の言っていた向こうの状況が見える、かつ姿を晦ます事の出来る場所を探し始める。
ビルの中の複数人が会話する声や、微かだが足音が聞こえる。恐らく直線的な距離では十mも離れてはいないほどの近距離。
当然ながら、隠れ場所を悩んでいられる時間など幾許も与えられてはいなかった。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバいってマジでぇぇぇぇ!!)
足音とビルの中から聞こえてくる声はみるみる内に大きくなり、遂に擦りガラスを通してその姿が確認できるほどの距離にまで彼らが辿り着く。
ビルの自動ドアは音も無くゆっくりと開き、とうとう彼らの目が鉄枷を捕捉する―――事は無かった。
鉄枷は寸での所で思い切り横に跳び込み、近くの資材置き場に転がり込む事で、彼らの視界の外へと辛くも逃れることが出来たのだ。
そこが本当に安全か、視界は良好か、という事は全く度外視しての咄嗟の選択であった為、向こうの様子の見えない場所に逃げ込んだと知った時、鉄枷は少しだけ落胆した。
しかし姿を晒さないだけマシだと早々にその悔恨を捨て去ると、微かに聞こえる音だけを頼りに向こうの状況を注意深く把握する。
会話の殆どは喧しい関西弁によるものであったが、どうやら自分の存在に気付いていない事が分かると、彼は強張った身体を和らげる様に大きく息を吐く。
もしあの場で彼らと対面していたとしたら、それは鉄枷ですら想像に難くはなかった。
裏の人間も蔓延るケンカ通り、その通りの外れに佇むビルを拠点とする程の組織である彼らだ。
会話の所々で聞こえてくる“狩り”“討伐”“処分”などというワードから鑑みるに、恐らく彼等にとって人一人処分する事などそれ程苦でも無いのだろうと予想はついた。
発見されるなりそこに居た事に対する故意の有無に関わらず即処分、少なくとも五体満足で帰って来られる程甘い結果は望めない。
そこで彼は今しがたやっと、自身の行いの危険性、その綱渡りのような所業を自覚した。
今までは自身の今置かれた状況などを冷静に顧みる余裕もなかったため、先程のような思い切った行動も取れたが、その危険性を自覚してしまっては話が別だ。
恐怖心は足を竦ませ―――
行動の遅れは焦りを生む―――
当惑は判断能力を鈍らせ―――
判断力の低下は死に直結する。
更に死は恐怖を煽るという、致命的な負の連鎖が生じてくる。
もう破輩先輩がイライラしてようが、一厘が破輩と一緒に自分をいじってこようがどうでもいい、今はとりあえず味方が欲しいと願ってならない鉄枷であったが、無い物ねだりはすべきでない、今自分が成せることを成すまで、そう自身の気持ちを奮起する。
思えば鉄枷のこの気持ちの切り替えの早さと言う強みが、結果としてこの直ぐ後に訪れる事態から彼を生き永らえさせたのかもしれない。
「…?」
無能力者狩り一行の内の一人、真っ黒なパーカーにサングラス、顔の下半分はバンダナによって隠された、まるで顔を見せる事を拒んでいるかのような出で立ちをした男が、鉄枷がいる方向を不審の念を抱いた面持ちで見つめる。
それは別に鉄枷の姿がハッキリと見えたと言うものではなく、直感的な違和感に過ぎなかったのかもしれない。
しかしその微かな疑念は確実に鉄枷がこの場から生き延びる確率を確実に削り取っていた。
「どしたん?はよ乗らんかい?」
「いや、誰かが見てたような。」
という一連の会話を聞くや否や、彼の身体から体温が奪われたような錯覚に陥りかける。
(畜生、バレた!!)
鉄枷は半ば脊髄反射で辺りを見回す、幸いここは資材置き場、彼の能力で取り扱える素材は腐るほど散在していた。
彼は反射的に近くにあった適当な金属に触れ、能力でその金属を自らの制御下に置くと、自身をコーティングするかのように身体中を金属で覆っていく。
黒ずくめの男が資材置き場の様子を見る頃には、彼は物言わぬ全身像へと姿形を変えていた。
この際全身像が某成瀬台の筋肉野郎の如き大柄で筋骨隆々な益荒男がポージングを行っている姿だったことについては触れないでおこう。あまりにも咄嗟の出来事だったのだ、演算を少々誤ってそうなってしまったのだろう、仕方のない事だ。
兎も角、結果としてその処置は彼らの目を欺く事となったのだ。
唇も金属の薄い膜が覆っている為呼吸も儘ならなかったが、それが逆に一切の気配を遮断した。
その偶然の体積に何かしらの意味を見出さずにはいられない、ある種の必然すら感じる一連の好転であった。
(あと少しでも気付くのが遅かったら、気持ちの切り替えが遅かったら…)
そう考えると、背筋に嫌な寒気が襲いかかる。
「おいてくで?」
「…」
向こう側から聞こえる声に呼ばれ、男は漸く観念しその身を翻す。
どれほどの時間が経っただろうか。
正確な所それ程の時間は経っていない様であったが、彼の生死を分つ時間は、彼にとって残酷な程に長く感じられた。
物言わぬ像が静寂を破ったのは彼らがトラックに乗り込み出発してから暫く立ってからであった。
能力による制御を解除してから彼はすぐさま新鮮な空気を自らの肺に取り込む。
むせ返るような廃棄物の異臭を思い切り吸い込んだため思わず咳き込むが、長時間の無呼吸状態のせいで彼の身体は空気の清濁は関係なく酸素を欲していたので、形振り構ってられなかった。
「ぶはッ!!ッハァ、はぁ…。ゴホッ、ゲホッ!…ぶふぃー、あぶねぇ…ぶっちゃけ、ばれるトコだったぜ」
身体のリズムを整えるかのように大きく深い息を何回かした後、彼は注意深く辺りを見回し敵がいない事を確認すると、更に大きな息を吐く。
風紀委員の活動で何度か病院送りに行く羽目になったことはあったが、自分の生死を明確に自覚し、生存のための選択を決するのはこれが初めてであった。
故に肉体や精神への負担は普段の活動の比ではなく、彼は先ほどまで擦り切れそうな精神状態の只中にあった。
濃密で息も詰まるような緊張感から解き放たれ、鉄枷は思わず力なく壁にもたれ掛る。
こういった押し潰れそうな不安や困難も仲間と言う存在がいるとある程度精神的な軽減があると言うものだが、今はそれすら望めない。
「…取り敢えず報告しておくか」
鉄枷は思いつめた様な暗い表情でポケットに入ったスマートフォンに手を掛けながら、今はトラックの荷台に乗せられて移動している春咲について思いを巡らす。
先程支部で大言を吐いた身と言えど、実際の所春咲を本当に導くことが出来るかどうかは分からなかった。
正直な所春咲桜が同僚に隠していた秘密はもっと可愛らしいものである、そうたかをくくっていた。
せいぜい夜の学園都市をうろつき回ったり、安いサロンを借りて一人で時間を潰したり、あるいはスキルアウトにでも入って夜な夜な遊びまわったりする程度の、一般的な不良少女が成し得る範疇での非行であると。
しかし現実はその予想を遥かに凌駕するものであった、完全に彼女の内側に潜む闇を見誤っていた。
鉄枷は直感的に理解していた、あれは真面な連中ではない、少なくとも世間に広く認知され、知れ渡るような生ぬるい連中ではない事は分かる。
鉄枷はいつになく弱気になり、一人思い悩む。
そんな集団に籍を置く彼女を、どれほど深く歪な内情を抱えているか分からぬ彼女を、果たして自分達は正しい道に引き戻すことが出来るのだろうか、導くことが出来るのだろうか―――と。
しかしそれでも、彼の進む指針は曲がってはいなかった。否、それはより太く、より真っ直ぐな道となって鉄枷の眼前に広がっている。
恐らく途方も無い時間と労力と手間を要するものとなるだろう。
だが知ったことではない。
これから待ち受けているだろう試練は困難を極める事となろう。
しかしそれも知ったことではない。
彼は時間も、労力も、手間も、困難も、他のあらゆる打算的で利己的な利益も不利益も度外視して、ただ彼女の仲間として、道を踏み外した仲間を救うために立ち上る。
(助けられるから助けるんじゃねえ、助けたいから助けるんだ)
だから例えどんなに困難だろうと、手間がかかろうとも、無理だと誰かに謗られようと。
「諦めてたまるかってんだよ―――――なぁ、ぶっちゃけそうだろう?」
そう鉄枷は伏し目がちだった瞼を開いて、つい先程鉄枷の前に止まった一つの光源に向かって語りかけた。
光源は鼓動の如き大きなうねりを上げ、男の胸を一定の拍節で叩く。
そして光源は、鉄枷の夜に慣れた目が次第に慣れるうちに次第にその全容を明らかとする。
黒を基調とした、かなり旧車のバイク。R66、68、69と続いてきたスポーツタイプの最終モデルシリーズ中で最高の42馬力を発生し最高速度 175Km/h以上という高性能なエンジンを積んだ、名実共にフラッグシップモデルの名に恥じない駿馬、アールズフォーク付きの頂点を極めた、BMW R69Sという名のバイクであった。
もっとも、バイクにあまり興味の無い鉄枷には車種は分からないようであったが、それを巧みに乗りこなす女性と、一緒に乗っている少女の陰には身に覚えがあった。
「破輩先輩、一厘」
鉄枷はその黒のバイクに跨る女性とそのバイクに付いたサイドカーにチョコンと収まっている少女を見る。
「…あたりまえじゃねぇか、さっさと後ろに乗れ馬鹿野郎」
「もう時間も無いから!早く追いかけなきゃ」
そう言われて、すぐさま破輩の後ろに飛び乗ると、破輩は待ち侘びていたかのような素早い手際でスロットルを解き放つと、
バイクはそれに呼応するかのように猛々しい怒号を張り上げる。
なんとも心強い、そう鉄枷は思った。ここに居る二人、そして今はここに居ない風紀委員の同僚たちが結託すれば何も怖いものなど無いと思えるほどに。
―――あぁ、きっと大丈夫だ。
春咲先輩の問題はきっと解決出来る。何の確証もないにも拘らず、疑う余地も無い程の確信を抱いたまま、彼らは仲間が向かう場所へと目指すのであった。
後篇へ続く
最終更新:2012年08月16日 15:44