ローレンシアは とてもまずしいかていに うまれそだちました
 いえは きれいではないし まいにちの たべものも まんぞくにないけれど ローレンシアはしあわせにくらしていました

 やさしいおとうさんとおかあさんは びんぼうでごめんねと ローレンシアになんどもあやまっていました
 でも ローレンシアは そんなこときにしませんでした
 おとうさんとおかあさんといっしょにくらせれば それだけでローレンシアはしあわせだからです

 ローレンシアはうまれつきからだがへんで みみがすこしとんがっていました
 そのせいで そとをあるけばちかくにすんでいるこどもに まいにちいじめられていました

 だから ローレンシアはじぶんのとんがったみみがだいきらいでした
 でも おとうさんとおかあさんは ローレンシアのみみをかわいいねといってほめくれました
 そんなおとうさんとおかあさんが ローレンシアはだれよりもだいすきだったのです

 あるひ ローレンシアのいえにしらないひとがやってきました
 そのひとは ローレンシアがほしくて わざわざとおくからいえまでやってきたようでした

 どうしてローレンシアがほしいのか おとうさんとおかあさんは そのひとにききました
 どうやらローレンシアは まじゅつてきにすごくかちのあるからだみたいです

 まじゅつてきとはなんなのか おとうさんもおかあさんもローレンシアも よくわかりませんでした
 でも そのひとがローレンシアをむりやりつれていこうとしていることだけはわかりました
 おとうさんは ローレンシアをつれてとおくへにげなさいと おかあさんにいいました

 おかあさんはローレンシアをだきかかえて いそいでいえからにげだしました
 おとうさんのくるしそうなさけびごえがきこえましたが おかあさんはたちどまりません

 おかあさんは おおあめのなかを ひたすらはしりつづけました
 はしって はしって はしって はしって

 …………

◆ ◆ ◆

 しんと静まり返った夜の教会に、サンダルの足音が響く。
 白いワンピースを着た少女がひとり、神像の前までやって来たのだ。
「神さま」
 少女の長い金髪が、天窓から差し込む光を反射して綺麗に輝く。
 濡れた宝石のような碧眼で神像を見上げるその姿は、幻想的なまでに美しかった。
「教えてください、神さま。どうして私を、こんな辛い目に合わせるんですか」
 どうして、どうして、どうして。
 泣き出しそうな声で神像に問い掛ける少女。無論、ただの神像が答えてくれる訳がない。そんな事は少女も理解していた。しかし、何かしらの奇跡が起こるのではないかと、少女は期待していた。
「どうして」
 何も言ってくれないんですか。
 少女は奇跡を待っていたが、やがて神像を見詰めることを止めた。少女は諦めた。
 やはり、神は信じるに値しない。神などという不確かなものを信じること自体、間違っていたのだ。
 少女の瞳は、失望に満ちていた。まるで深い穴のようだ。神に対する失望と絶望が、ただひたすらに、少女の瞳を暗くしていた。
「お父さん、お母さん」
 陰鬱な瞳に涙が浮かびそうになるが、少女は決して泣くことは無かった。
 どんなに辛い目に遭っても、母の最期を脳裏に描けば、全ての感情を殺せた。黒焦げになってしまった父。血の海に沈んでしまった母。
 何もかも、両親の死に比べれば些細な出来事のように思うことができたのだ。心の痛みは、あの瞬間に頂点を迎えたのだ。
 少女は、首から提げた十字架をそっと握り締めた。「神様があなたをきっと守ってくれる」と。そう言って母が死の間際に少女に授けたもの。お守り。
 神様などいない。それは、母が死んだ時点で分かり切っていた事だった。仮に、神が本当にいるのだとすれば、なぜ神は母を見殺しにしたのか。神とは、救世主ではないのか。苦しんでいる人間を救うのが神の行いではなかったのか。
 そうして、少女は神を信じることを諦めた。己の役を全うしない神を、どうして信じることができようか。父を殺し、母を殺した神を、その娘が信じる道理など、この世のどこにもありはしなかった。
 だが少女は、十字架を捨てる気にはなれなかった。母の形見。これを失ってしまえば、本当に独りになってしまう気がしたから。独りは、とてつもなく寂しいことを、少女は本能で知っていたのだ。
「もう子どもは寝る時間だよ」
 少女にひとりの男が近づく。
「神父さま」
 教会の近くで行き倒れていた少女を保護したのが、この神父だった。
 少女は追われていた。どうして自分が追われているのか分からなかったが、とにかく逃げなければいけないという事だけは理解できた。父が逃げろと言った。母が逃げろと言った。だから逃げている。
 それに、捕まれば何をされるか分からない。分からないから怖い、怖くてたまらない。未知から来る恐怖で、その小さな体と心は今にも張り裂けそうだった。小さな女の子が体験するにしては、その恐怖はとてつもなく大きすぎたのだ。
 だが、希望が無いわけではなかった。少女に宿っている、よく分からない不思議な力。この力が、少女を狙う者達から少女を守ってくれる。助けてくれる。だからこそ、少女は今の今まで逃げ続けることができた。
 逃げ切ってみせる。いつまで逃げれば良いのかは分からない。来週までかも知れないし、一年後までかも知れない。でも、必ずこの逃走劇に終わりが訪れる。そうでなければ救いがない。
 だから少女は、逃げ続けると決めた。いつ終わるとも知れない恐怖が終わるまで。絶対に終わると信じて、少女は逃げ続けるしかないのだ。
「ごめんなさい。寝ようとしたんですけど、でも、どうしても眠れなかったから」
 申し訳なさそうに顔を伏せる彼女に、神父は優しく微笑んで答えた。
「そうかい」
 神父は彼女を保護するにあたって、少女の素性については深く追求しなかった。孤児であることや追われていることは聞いたが、なぜ親がいないのか、なぜ追われているのかまでは聞かなかった。
 最低限のことだけを訊ねて、彼は彼女にこう言ったのだ。好きなだけ此処にいるといい。好きな時に此処を出て行けばいい。それまでは、私が責任を持って君を保護すると。
 少女は感謝した。国内の教会を転々としながら逃亡生活を続けている彼女だったが、もちろん、まともな衣食住が確保できる日はそうそうない。教会が見つからず、路上や廃墟で夜を明かすのは当たり前。期限が過ぎて廃棄された食物を口にして腹を下すのも当たり前。父と母のいない世界が、こんなにも冷たく寂しいと分かるのに、そう時間はかからなかった。
 そんな彼女にとって、衣服も寝床も食事もあるこの教会はまさに天国にも等しき場所に違いなく、神父はまさに神のような存在に違いなかった。
 そう、神。
「神父さま。聞いても良いですか」
「なんだい」
 本当に聞いて良いものかと、少し逡巡した後、少女は神父の顔を見詰めながら、こう言った。
「神父さまは、神さまを信じてますか?」
「人並みには」
「私は、信じていません」
「どうして?」
「だって、神さまは何もしてくれません。お父さんが死んだ時も、お母さんが死んだ時も、神さまは、何もしてくれなかった。助けてくれなかった。だから私は、神さまなんてもの、信じてません」
 静かな叫び。それは、両親を救わなかった神に対する恨みだった。怒りだった。
「なるほどね。だから、神を信じてないのか」
 なら。
「いま、君を突き動かしているのは、なにかな」
「え?」
「君は何年も逃げ続けている。君のような小さな女の子が何年も逃げ続けるのは、すごく大変だろうと思う。途中で諦めてもおかしくない。でも、君はいまも逃げ続けている。どうして、そこまで頑張れるんだい」
「それは」
 捕まるのが嫌だから。捕まれば何をされるのか怖いから。逃げ続ければ、追いかけている人もいつかは諦めると思うから。この逃走劇が終わると信じているから。
「なんだ、やっぱり」
 君も神様を信じているんじゃないか。
「ローレンシア。僕はね、君がいま信じていると言ったものこそ、神というものだと思っている」
「神さまは、天国にいるすごい力を持った人のことじゃないんですか」
「そう捉える人もいるよ。幸運とか天災とか、神という存在の捉え方は人それぞれなんだ」 
「どうして、人によって違うんですか」
「神を実際に見た人が一人もいないから、各々で勝手に神の正体を決めるしかないんだよ」
 どれが本当の神なのか分からないし、そもそも神なんていないと主張する人もいるんだけどね。
「私は、神さまなんて信じてません」
「救世主としての神様を、だろう? でも君は運命としての神様を信じている。いつかは逃げ切れると信じている。それが、君にとっての神様なんだと僕は思う」
「こんな根拠のないものが、神さまで良いんですか」
「良いんだよ。根拠が無くても、自分が信ずるに値するものなら、それはもう立派は神様さ」
 神父は、微笑んだ。優しい笑みだった。少女は神父の笑みを、言葉を、信じてもいいと思った。特に理由がある訳ではなかった。
 だが、或いは、絶対的で確信的な理由のない、この説明しようが無い感情こそ、神さまと呼ぶのかもかも知れなかった。
「よく、分かりません」
「あはは。子どもには少し、難しい話だったかな」
 神父は苦笑いをした。
「でもね、これだけは覚えておいて欲しい」
 信ずるべきものが無くなった時、人の心はひどく脆く、壊れやすくなってしまう。
「信じるものが在るということは、それだけで心の支えになるんだ。だから、いつまでも信じていて欲しい。希望を持って生きて欲しい」
 信じるものが無くなった時、人は絶望する。気力を失う。何もかも、何もかも、諦めてしまう。だから。
「何でも良い。自分が信じても良いと思えるのなら、信じなさい。良いね」
 信じる者は救われるから。
「はい」
 説教。少女は、神父の言葉を、深く心に刻み込む。諦めそうになったとき、いつでも思い出して、元気が出せるように。
 良い子だ。神父は微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
 少女は頷き、差し出された神父の手を握る。
 瞬間、神父は、得体の知れない邪悪な気のようなものを感じ取った。と同時に、ひどい臭いがした。神父の顔が強張る。見れば、少女がその小さな肩を震わせて怯えていた。
 神父は急いで視線を巡らす。見つけた。教会の一角。そこから青黒い霧のようなものが噴出していた。悪臭はあの煙から発生しているのだろう。
 煙は次第に凝り固まり、一つの形を構成する。
 そうして現れたのは。

 黒い、獣。

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最終更新:2012年08月29日 01:36