僕にはお姉ちゃんがいた。
気立てが良くて、美人で、何一つ非の打ち所がない誰もが尊敬するような人間“だった”――そう聞いている。
どうして伝聞形かだって?
それは僕とお姉ちゃんは歳が五つも離れている。通う学校も違ければ、住む寮だって違う。直接会うことなんて年に数えるしかなかった。だから実際お姉ちゃんがどんな人物だったかということは噂でしか知らないんだ。
だけど僕はそこに不満はなかった。ただ自慢の姉がいる。そんな事実だけで僕の心は満たされて行ったから。
ある日のことだ。
お姉ちゃんの通う高校の教師から僕に一本の電話が入った。その内容はお姉ちゃんが先日から寮にも帰ってきておらず行方不明だが何か心当たりはないか――――とのこと。もちろん僕が知ってるはずもなく、その時はただ首を横に降るしかなかった。
更に一週間が過ぎた。
未だ行方が掴めない姉、日に日に肥大化して行く焦躁感。僕は我慢できずに最後に姉が目撃されたという場所に足を運ぶことにした。
自分の姉が何の理由もなしに消えるはずがない。そこにはなにか重大な理由があるはずだ。
その理由を見つけるために僕は足を踏み出す。
――今思えば、この一歩が後に絶望を味わう為の第一歩になるとは思いもしなかった。
◇ ◇ ◇
何がしたいんだろうな。
夕暮れ時。窓に映る町並みを眺めながら俺こと黒丹羽千責はそんなことを考えていた。
あの事件から数年たった今でも俺はまだこうして“人間として”生きている。この手を血に染めても、化け物としてではなく、ただ流れてくる日常を享受しながら生きる人間として。
――あの日に誓ったはずなのに。
自分の苦しみ、人間の醜さ、居場所のないこの世界。何一つ知らない、何一つ気づこうとしない、そんな日常に飼い馴らされた家畜共に現実を思い知らせてやると。
「……馬鹿みたいだな」
自らを見下すようにそっと呟く。
だが、今の俺はどうだ? 大層な事を言った割には、自分自身仮染めの平和にほうけ、不変の日常を受け入れ、段々と周りに同化して行っている。時の経過に流され、あの時の怒りが薄れてきている。
……そんなことは許されない。今までのことをその程度で終わらせてはいけない。子供の喧嘩じゃあるまいし時間が解決してくれるはずがないのだから。
「どうしたんだい。そんなしかめっ面して」
コトンと、陶器の器がテーブルを鳴らす。見れば、鮮やかな黄色を含んだマグカップが目の前に差し出されていた。
「なんですか、これは」
指摘された表情を柔和な笑顔に変え、それを差し出してきた店員の方に目を向ける。
「見ての通り、特製のコーンポタージュだよ」
白いエプロンがよく似合う、母性という言葉をそのまま体言したような店員は僅かに口元をあげて微笑した。
――これがコーンポタージュなんてことはわかってる。俺が聞いたのは“どういう風の吹き回しだ”という意味でだ。だが、それを言葉に出す前にその店員は悟っていたのか、
「コーヒー一杯だけじゃ寂しいだろ? 私の店に来たからには満足して帰ってもらいたいからね。それは私からのサービス、残さないでおくれよ」
そう言って、空いている向かい側の席に腰を降ろす。
「はは……ありがとうございます」
こういう風に客に絡んでくる店員ほど厄介なものはない。自分は客の細かいところまでに気が配れるというアピールなのかもしれないが、俺としてはうっとうしいだけのなにものでもないのだ。
「それで少年は何に悩んでいるんだい」
「え……別に自分は」
「嘘おっしゃい」
ピシャリと俺の言葉を遮って店員は言う。
「あんたのさっきの顔見たら誰もが悩んでるように思うよ。こう見えても私は相談にのるプロなんでね。気にせず言ってみなよ」
この店員の乗れる相談なんて大体が勉強や恋愛についての事だろう。さっきまで騒いでいた常盤台の四人組と交えていた会話だってそのような有り触れたものだった。そんな人物に『恨んでる奴らがいて、そいつらに復讐したいんですがどうでしょうか』なんて聞くのはお門違いだ。
「早く。お客さんが少ない今しか時間がないんだから」
だが、このまま黙秘権を行使し続けても一向に引きそうになかった。
下手したら自白剤の混じったシュークリームをだしてくるかもしれないのはさっきの常盤台生に出していた激辛のシュークリームから想像に難くない。
はあ、と小さくため息を漏らし、俺は仕方なしに口を開いた。
「……昔決意したことが自分の中で揺らいでしまったら、どうすればいいんでしょうか」
「ふむ……なかなか面白い質問だね」
大事な所は伏せているが、これが俺の悩みであることには間違いない。
俺は心のどこかで恐れている。かつての怒りが、苦しみが、悲しみが。時間の経過とともに段々薄れて行くことを。優等生として振る舞う今の日常も悪くはないと思い始めてる自分を。
汚くて醜くて馬鹿馬鹿しいこの世界。そんな世界の奴隷に俺はなりたくなかった。
「そうだねえ……」
店員はもったいぶった様子でテーブルの上に置いた人差し指をくねらせる。相談のプロとは所詮口だけか。一向に答えが出る様子はない。
「あ……もうこんな時間だ。用事があるんで帰りますね」
なら無駄に時間を割くのは得策ではない。俺はテーブルに代金として数枚の小銭を置き(もちろんコンポタージュの分は含まれてない)、席を離れる。と、そんな時。
「形として表せばいいんじゃないかい?」
出口に達したところで店員はポツンと独り言のように言った。
「ほら、例えば決めたことが一日一善ならそう紙に書いて張っとけばいいんだよ。例え君の決意が薄れたとしてもその目に見える“決意”がまた濃くしてくれる。どうだい?」
確かにその考えは効果的ではありそうだった。人間の感情は不変ではなく、状況によって右往左往する安定しないものだ。なら感情の外にそれを表せばいい。不変が固定する、感情に左右されない現実に。――ただ、例えの決意が俺の決意と正反対なのがなんとも皮肉なことだ。
「単純ですけど良さそうですね。相談に乗ってくれてありがとうございます」
「そう言ってくれるとこっちも嬉しいよ。ただ……このアドバイスが本当に少年のためになるかどうかが気掛かりだけどね」
店員は目を細めて最後の方を濁すが、俺は「もちろんですよ」とだけ言い残して店の扉を開ける。
カランカランというベルの乾いた音だけが空虚な店内に鳴り響いた。
そんな奇妙な喫茶店を後にして、俺は帰途につく。帰り道は人気の少ない道を通って歩いた。幸せそうな奴らの顔が一々目に障ったからだ。
けれどもその判断が裏目に出たのか、角を曲がったところで。
「おら。テメエもっかいその写真見せてみろ。事と次第によっちゃ、ガキだろうとただではおかねえぞ」
一人の少年が柄の悪い男に絡まれてるというなんともありがちな現場に遭遇することとなってしまった。
学園都市《ここ》では本当に裏と表の世界のギャップが激しい。こんな風に路地裏という光の差さない場所ではクズ共が徘徊し、それを見て見ぬ振りをしてやり過ごす連中ばかりだ。
別に正義とか悪なんてどうでもいいことを語る気はない。
ただこんな光景を見せられたら、やはりこの腐りきった世界に居場所がないことを実感させてくれる。それだけの話だ。
「やだ! お姉ちゃんを悪く言う奴なんかに見せるもんか!」
見るからに生意気そうな子供《ガキ》が二人の男と揉め事を起こしている。茶番大好き風紀委員様の目にはこんな光景が、嫌がる子供に一方的に男が絡んできてるように映るのだろうが、俺にとっては心底どうでもいい。
クソガキと女の泣き顔ほど見てて殺意を覚えるものはないので、さっさとここを後にしようとそのまま通り過ぎる。
「あっ! 助けてください!」
案の定子供が助けを求めてきたが俺は歩くのをやめない。
下らない。お前を助けてなんになる? そもそもお前ごときが助けられる価値があるのか?
俺は無言のまま更に歩くペースを早めた。
が、
「無視を決め込むたぁいい判断だ兄ちゃん。けどあんたが表に出て風紀委員にチクらねえとも限らねえ」
道を塞ぐようにもう一人の男が前に立ち塞がる。要するに俺を口封じの為にここでボコって気絶させようという魂胆らしい。
――まったく、ガキ一人潰すくらいで一々臆病になりすぎだ。
「ああ!? いまなんつったおい!」
思わず声に出てしまった。面倒なことは極力避けたいと思っていたがそう上手くはいかないらしい。
そんなことを悟りながら俺は開き直ったように言い放つ。
「言葉の通りだよ。ヘタレ共」
◇ ◇ ◇
ケリは数分でついた。といっても俺は向こうに何にも手を出していない。ただキレた男が突き立ててきたナイフを『状態変化』で無力化してやっただけだ。
たったそれだけのことで男たちは逃げ出して行った。
勝てないと分かれば逃げる。利口な判断だが、さすがに諦めるのが早過ぎのような気もする。
「あの……ありがとう、ございました」
手に一枚の写真を握り締め、子供が礼を言ってきた。その瞳にはまるで人外の化け物を見るかのように僅かな恐れの感情が芽吹いている。
「思い上がるな」
「え?」
そんな子供に思うのは怒りを通り越して呆れ。
結果として男たちは逃げ出し、子供は助かった。しかしそれは飽くまで結果論だ。
もし男が子供を人質にとったとしても俺は子供が首をかっ裂かれようが気にせずに男に殴り掛かっていただろう。
そんな結末だってありえたというのに自分の為に動いてくれたなんて考えるのは、楽観的過ぎる。
ここは誰もが自分のために動き、自分の為に他者を利用し、蹴落とし、そして壊す。そんな腐りきった場所でいつまでこいつは夢を見ているんだろうか。
「誰もお前を助けてなんかいない。俺は俺のために動いただけだ。だからお前が死のうとこっちの知ったこっちゃない」
その言葉に失望したのか子供は呆然と目を見開いたまま閉口した。端っから期待された覚えはないので知ったことではないが。
「まって!」
立ち去ろうと動作を見せた瞬間に子供は再び口を開いた。
「……何だ?」
「お兄ちゃんの腕を見込んで相談したいことがあるんだ」
やはりこういう類の人間は面倒ごとを運んでくる。しかも聞いてもいないのに自分からペラペラと話し出すから尚更タチが悪い。
まあ用件だけ聞いて断ればいい。そもそも俺がこいつに肩入れする理由なんてないのだから。
「実は僕、お姉ちゃんを探してるんだ」
「探してる、か。よくある行方不明ってやつね」
「うん。それでお姉ちゃんの写真を持って最後に目撃されたこの場所で聞き込みを行っていたんだ」
聞き込み。
そんなものが実際に効果があるものか。
全くの赤の他人の事を一々記憶の隅に留めている奴なんているわけがないし、仮に覚えていたとして何の見返りも求めず真実を話すはずがない。
全くの無知、全くの愚鈍。こんな奴は一生求めている真実には辿り着けないだろう。
「けど結果はからっきし。あの不良が言ったことなんて真っ赤な嘘だし、本当の情報なんて何一つ手に入らなかったよ」
あの不良というのはさっきの男達の事だろうか。そういえば写真がどうのと揉めていた。
「どうしてその情報が嘘だと思う?」
「だって……あいつらお姉ちゃんの写真を見せた瞬間、血相変えてこう怒鳴ってきたんだよ」
――“この女、最近ここいらで暴れてた無能力者狩りのメンバーじゃねえか! 俺の仲間もこいつにやられたんだぞ!”ってね。
子供は顔を真っ赤にして俯く。怒りと悲しみで今にも泣き出しそうな所を精一杯堪えているようだった。
「お姉ちゃんは! お姉ちゃんはそんなことをする奴じゃない! だから嘘だ! あんなやつらの言うことなんか信じるもんかッ!」
「黒だな」
虚像の姉にしがみつく子供に俺はきっぱりと言い捨てた。
「そんな……そんなわけ」
「火の無いところに煙は立たない。それにお前も薄々気がついてるんだろ」
それは挙動からしてすぐにわかることだった。
まるでその事実を決定づける確かな証拠を持っているが、それから逃避しているかのような。まるで何かから逃げている者の振る舞いをしていたのだ。
「!!」
「図星か。大方、姉の寮に忍び込んだときにでも、無能者狩りの計画書でも見つけたって所だな」
「どうして、そのことを……!」
「そのポッケからはみ出してる紙キレ。こっからもある程度の内容は見えるぞ」
「えっ!? ……あ、しまった!」
子供はその指摘を受けてそさくさとポッケの奥へと押し込み、棒状に丸められた紙がクシャリと音を立ててひん曲がる。
「ま、人間なんて醜いだけの生き物だ。違うのはそれを恥じずにさらけ出す馬鹿か、それを偽る偽善者かってだけだ。そしてお前の姉は後者だった。それだけのことさ。何も気に病むことはない」
絶望を植え付ける、というよりは現実を教えたつもりだった。
そうだ。この世界に善人なんていない。聖者なんているわけがない。存在するのは根本的醜さを内在した愚者だけだ。もちろん自分だってそう、こうやって自分のことを棚にあげて人様の姉を悪く言えるのも醜さあってのものだ。
「嘘だ……」
聞き分けがない。俺は未だに事実を認めようとしない子供に少しばかり苛立ちの感情が芽生えてくるのを感じた。
人間というのは本当に自己中心的にしか考えられない生き物だ。自分に都合の悪いことから耳を逸らし、聞かず、考えず、認めず。そうやって逃げてばかり。
「嘘なんだよ! これは、これは何かの間違い――ッ!」
「黙れ」
気がつくと俺の身体は子供の方を向き、無意識に延びた右手が胸倉を捕らえていた。
ギュウ、と能力を使わずとも握力だけで服の繊維を引きちぎってしまいそうなほどに強く握り締められた右手を自分の方へと引き戻し、子供の身体を引き寄せる。
「ヒッ!」
子供の身体がビクンと震え、顔を守るように両手で覆った。
「いいか、そこまで間違いだと思いたいければ勝手にしろ。けどそうやっていつまでも存在しない対象を探し続けたって、それは雲を掴むようなもんだ。何年、何十年かかろうと見つけだすことはできねぇよ」
それを聞くなり、子供は蚊の泣くような小さくはかない声で訴えかけてきた。
「やだ……僕は会いたいよ……お姉ちゃんに……」
「だったら現実を認めろ。お前が探さなきゃいけない女は“優しい姉”ではなく“裏で悪事を働く醜い女”だってな」
「認めるよ! もう何だっていい! どんな姉だっていい! だから、また会いたい! もう一度声を聞きたい!」
俺は子供の胸倉を掴んでいた右手の力を緩めて離すと、
「そ、じゃあせいぜい頑張れ」
背中を向け、そのまま歩き出す。
「て……手伝ってくれないんですか?」
「俺はただお前が本当に探さなきゃいけない標的を教えたまでだ。手伝うなんて一言も言ってない」
その言葉に対してガキ特有の罵声が帰ってくるかと思ったが、予想に反してそのような旨の言葉は発せられなかった。妙な所で冷静である子供に若干の疑念を感じ振り返ってみると。
「じゃあ明日も、ここで情報を集めてますから」
潤んだ双貌がただ俺の方だけを向き、震える口はそのような言葉を吐いて見せた。それを言って俺にどうして欲しいのか。まさかまだ手伝って欲しいと抜かすのだろうか。
「あっそ」
言葉を切り、俺は前を向き直すと足早にそこを去る。これ以上の会話は流石に助長だ。なんの得にもならない。
『明日も、ここで情報収を集めてますから』
だが――、あの子供の最後の言葉が妙に耳に離れなかった。まるで俺がまた会いにくると期待され、見透かされたような腹立たしさが胸一杯に広がる。
「……ま、あながち間違っちゃいないけど、さ」
そこそこ歩いたところで、俺はポケットからあるものを取り出した。それは乱暴に丸められた書類のような束。――あの子供が持っていたモノだ。
「……本当に醜いもんだ。人間ってのは。ちょっと凡人より優れた能力《オマケ》を持ってるだけで、どこまでも自分を過信し、どこまでも傲慢になれる。それこそ無能力者狩りなんて形で存在を誇示するぐらいにな」
この面倒事は俺にとってチャンスでもある。あの店員の言った“決意を形で示す”を実践するための実験として。
最終更新:2013年02月09日 23:23