紙の書類を埋め尽くすようにボールペンの滑る音が響く。カリカリと一秒ごとに時間を刻んでいくそれは、彼の繊細にもピンと張られた集中力を音に表しているかのようだ。
「……はぁ」
かれこれ数時間、延々と書類と格闘し続けているわけだが、未だ終わる兆しは見えない。非情な現実をたたきつけるかのごとく彼、鉄枷束縛を360度覆う書類の山は依然として顕現していた。
そして数分前にこの支部に到着した目の前の少女、一厘鈴音は早くも音を上げ始めたようで「うー」とか「むー」とかしきりにため息混じりの擬音を吐き出して、今にも仕事をほっぽり出して逃走しそうな状態である。
「ねえ」
ついに我慢の限界か、一厘が話しかけてくる。鉄枷としては集中が乱されるので作業中に声を掛けてくるのは控えていただきたいのだが、無視したらそれはそれでめんどくさそうなことになりそうなので仕方なく応じる。
「なんだ?」
しかし、これはおしゃべり好きの少女にとっては“会話するだけの余裕がある”ということを教えてしまうことになるので、本当は黙ったままであった方が正解だったかもしれない。
「暇」
「暇って……やることは目の前にたくさんあんだろ」
「確かにそうだけど、耳が暇なのよ。ね、なんか話して。手は止めないからさ」
突拍子もない一厘の提案に鉄枷は半ば呆れた。そんなに耳が暇なら音楽プレイヤーでも聞いとけばいいのだ。もちろんそんなことがバレたら破輩に「オ・シ・オ・キ確定ね」なわけだが、このおしゃべり大好きな歩く騒音にはいい薬だろう。
「ねーいいでしょう? 私もまだこの支部にきてそんな長くはないし、親睦を深めるということで、さ」
この少女がここ、159支部にきたのは今年の新学期からか。確かにいくら慣れたとはいえ2ヶ月ちょいのつき合いでしかない。鉄枷が知らない一厘のことや、一厘が知らない鉄枷のことなども必然的に存在するわけだ。
鉄枷はここいらで先輩の偉大さを知らしめるために自分の過去話を教える良い機会かもしれない、と考えた。
「仕方ねえなー。じゃあなんか適当に話してやるよ。なんかリクエストあるか?」
「はーい。じゃあ鉄枷はいつ春咲先輩に惚れたんですかー?」
ブゴッ!! と、突拍子のない一厘の質問に思い切り頭をぶつける鉄枷。
「なな、何故そそそそそそ……そのことを」
「知らないと思った? 乙女のカンをなめないでよね」
おそるべし乙女のカン。額に掲げたハチマキと同じくらいに真っ赤になった顔を隠すように書類の山に埋めて、鉄枷は「これは悪夢だ」覚めてくれと念じる。もちろんそんなご都合主義は存在しないわけだが。
「早くー。お姉さんが相談に乗ってあげるから」
「……だれがお姉さんじゃボケ。俺の方が年上だ」
「まあそれはいいとして、話してくれないの?」
「春咲先輩との出会いは……ぶっちゃけ俺の中のトップシークレットだ。これだけは誰にも言えん」
ぶー、とがっかりする一厘に鉄枷は辟易する。
男の初恋の話というものはきゃぴきゃぴした女子会と同じように軽々しく語れるものではない。一人心の中に秘め、その思い出を棺桶まで持っていくのが真の男、というのが持論だった。
「その代わり俺と破輩先輩の話ならしてやらなくもなしぞ」
「えっ……鉄枷と破輩先輩にそんな関係があったなんて意外」
「違うっつーの! なんで女ってそういう関係持ってきたたがるかな。どっちかというと破輩先輩は俺にとっての姉貴だよ」
ゴホンと咳払いをして鉄枷は語り出す。彼が風紀委員に入ってからしばらくしての出来事を。少なくとも彼だけでは乗り越えられなかった大きな壁にぶち当たった日のことを。
「そうだな……あれは俺がまだ弱かったときのことだ」
とある風紀委員たちの志
159支部 鉄枷束縛の場合
1
ゴギッと、嫌な手応えが鉄槍に伝わり、それと同時に目の前の男は身じろぎ一つせず眠りにつくように崩れ落ちていった。
男の表情は眠りにつくにはあまりにも穏やかなものではなく、眼球は飛び出るかのように強ばったまま、口からは嗚咽と共に少量の血液が吐き出されている。人間が持つ苦を最大限に引き出した顔と言うのが正しい表現だろうか。
その光景は世界がスローモーションになったのかと思えるほど、されど強烈な印象を与えながら流れていった。
鉄枷の前でうつ伏せに倒れた男、それは眠っているよりかは死んでいるに近いかもしれない。瞳孔は開き、しばしの痙攣を続け、数分もすれば事切れてしまいそうなほどに脆弱な存在と成り果てている。
「あ……あ……!」
震える手を抑えきれず、ついに手に持っていた鉄槍を床に落とす。カランカランと無機質な音が床を伝わる時、スローだった世界は再び元の時を取り戻した。
「うわああああ! ひ、人殺しッ!」
目の前で倒れ伏す男の仲間が発狂したかのように裏返った声で騒ぎ、鉄枷の元から逃げ出していく。まさに一瞬の出来事だった。さっきまでの騒ぎが夢幻だったかのように路地裏には普段の不気味さと、静けさが舞い戻る。沈黙が鉄枷を断罪するかのように痛く、深く突き刺さってきた。
人殺し。確かにそう罵られても仕方がない。
「俺は、俺は……なんつーことを……!」
目の前の男をこんな状況に追いつめたのは、紛れもない自分だったのだから。
◇ ◇ ◇
事の発端は風輪学園付近の巡回だった。
鉄枷はただいつのものようにあちこちを見回り、ゴミのポイ捨てや、買い食いなんていう小さな非行を注意するような風紀委員としての変わらない日常を送っていた。
そこに物足りなさや不満を感じることはなく、これこそ風紀委員本来の仕事だと自負していた。自分たちの仕事が少なければ少ないほどこの学園は平和ということだ。それならそれにこしたことがない。鉄枷は一人の生徒としても風紀委員としても平和な日常が大好きだった。
だが、今日というその悪夢のような日にそこに紛れ込んでいる非日常へとつながる扉を開けてしまう。
一通りパトロールも終えて、そのまま寮に帰ろうとした時、風輪学園の生徒であろう女学生が二人組の男に無理矢理連れていかれそうになっていたのを目撃してしまったのだ。ナンパというほど生易しいものではない、明らかに女子生徒は嫌がっていて、明らかに男二人は危害を加えようとしていた。
もちろん鉄枷はその間に割り込み、やめるよう忠告した。しかし邪魔された男たちは逆上し、鉄枷を潰しにかかってきた。
意見の食い違いから戦闘にもつれ込むことは今回が初めてではあったが、相手はスキルアウトなのか能力を使えなかった。それ故に鉄枷は自分を過信して、油断していたのかもしれない。
「もうウゼエ……死ねよてめえ!!」
「!!」
――男の手に、低レベルの能力よりもずっと有効な拳銃が握られたことに動揺してしまうぐらいに。
鉄枷は男が引き金を引くより早く鉄槍で気絶させようとした。その時、焦りと拳銃への恐怖で肩を狙おうとしたのが誤って男の喉元に向かって突いてしまったのだ。
これが今につながる原因。これから先、良くも悪くも忘れることは出来ないであろう鉄枷にとっての大きな事件だった。
◇ ◇ ◇
警備員の事務所を出た時にはもう午後11時を迎えていた。完全下校時刻を過ぎた夜の学園都市はただ暗く、夜の風が冷えきった心を透かすように吹いて、一層に鬱な気持ちを加速させる。
「お、ようやく出てきたか。元気ないな」
そんな暗闇の中で鉄枷を迎えにきてくれたのは二つ年上の先輩、破輩妃里嶺だった。迎えを頼んだ覚えはないが、どうやら彼女なりに鉄枷を思っての行動なのだろう。
鉄枷は何も語る気にはなれず、小さな声で謝った。
自分のミスで一五九支部の評判を悪くしてしまう。あそこには悪人を殺しにかかる風紀委員がいると、そんな悪い噂が蔓延してしまう気がしたのだ。
思い詰めたままの表情でうつむく鉄枷に、破輩は声色を変えて、
「まったく。あれは事故だったんだ。それに、もしためらっていたらお前は死んでいたのかもしれないんだぞ?」
「そうっスかね……」
事故。確かに法的にはそうなるのかもしれない。
だが、そんな人間の作り出したルールを取っ払ってみれば自分がしたことは悪人と何ら変わりがない。結局あの男を説得できないまま、正当防衛という言葉を盾にして力でねじ伏せたのだから。
鉄枷の一撃をもらった男は未だ病院にて緊急手術を行っている。今現在も予断を許さない状況で生と死の境をさまよっているらしい。
もし彼が死んでしまったら、生きていたとしても重大な障害が残ってしまったら。自分はその重みに耐えれるだろうか、と考える。法や周りの者が自分を無罪だと主張しても、罪を犯してしまったことへの良心の糾弾は止むことはないだろう。
収まり切らない心の靄を払うように破輩が告げる
「今日はゆっくり休め。明日も早いだろうしな」
破輩はポンと鉄枷の頭を小突いて、棘のない優しい言葉で告げてきた。その声に少し和らぎを見せるが、それも刹那の出来事のように一瞬で霧のように消えていってしまう。
何を言われても、何を聞かされても、今は前のような状態には戻ることは出来なかった。
夜の街に星がチカチカと煌めいてる。鉄枷にはそれさえもが自分を追いつめるシグナルに見えてならなかった。
2
目が覚めたとき、時刻は午前八時三〇分を回っていた。いつもならもっと早く起きれるはずなのに、こうも寝過ごしたのはいつ以来のことだろうか、と鉄枷はぼやける視界をこすりつつ考えた。
何気なしに自分の額に手をかざせば、低くない温度で熱が感じられ、体調不良であると教えてくれる。休むことも考えたが、今日は数学の小テストがある日。これを休めばハゲタナにたっぷり追試用のプリントを渡されるのは火をみるより明らかなので、せめて一限目は受けなくてはいけない。
寮を出て数十分したところで鉄枷は長く続く坂を見た。
これが風輪学園に向かうための最後の関門でもあり、生徒からは『心臓破りの坂』と恐れられているところだ。さすがに心臓破りとまではいかないが、あまりにも長いので途中で力尽きる(休む)者ものもしばしばいる、厄介な坂である。
億劫な気持ちで一人坂を上っていく。
どくん……どくん。
心臓が小さく鼓動を刻んでいく。風気委員として鍛えている身ならこんな坂なんて屁でもないはずなのに今日はどうも息が上がってしまう。たぶん体調が悪いせいだ、と決めつけて鉄枷はさらに歩を進めた。
どくん……どくん、どくん。
学校に近づくにつれ、さらに鼓動が加速していく。まるで自分が学校に行くことを拒むかのように。
「なんなんだよ……ちくしょう」
自らの胸を強くつかみ、収まるよう暗示をかけるがそれもまったくの意味はを成さないようで、鼓動が落ち着くことはない。
坂を上りきった後もその鼓動は止まなかった。
もはやなぜなんだろう、と考えるまでもない。実際はこの鼓動の高鳴りの理由を知ってるからだ。
鉄枷は夢を見た。学校に行って殺人者と軽蔑される夢を、風紀委員の仲間にさえも避けられる孤独の悪夢を。
それが現実にならないか不安で不安で仕方がない。今まで自分が味わったことのない不安と孤独がすぐ目の前にあるというのは未熟な者の心には重すぎる負荷であった。
どんどん自分の近しい者が消えていく。懇々とした暗闇の中で墜ちていく。――それが怖くて怖くて仕方がなかった。
「あれ……破輩先輩、それにみんな……」
そんな恐怖と戦いながら目をやれば、校門の前で破輩を始めとする風紀委員が集まっていた。彼らは何かを隠すように校門の壁をブルーシートで覆っている。
鉄枷は気まずく思いながらもゆっくりと近づいて声を掛けてみた。
「おはようございます……」
「おう、鉄枷か。おはよう」
何かぎこちない様子で返してきた破輩の応対に違和感を感じる。
「どうしたんスか。みんな集まって」
「いや。大したことはないんだ。そんなことより授業遅れるぞ。早く行った行った」
ポンポンと鉄枷の背を軽く叩いて破輩は門を通るように促すが、鉄枷にはそれが厄介者を追い払うような動作に思えた。
「……俺も風紀委員です。手伝いますよ」
「いやいや、これは私たちの仕事だ。それにお前少し熱ないか? 顔が赤……」
「うるさい!!」
額にのばされてきた破輩の細い手を鉄枷は乱暴にもはたき払う。
「そうッスか……そういうことっスか!! 俺はもう風紀委員の仕事は任せられないということですね。そりゃあそうでしょうね。相手を意識不明に追い込むような危険人物、そうそう置いておくわけにはいきませんもんね!!」
熱のこもった言葉が吐息とともにこぼれ落ちる。熱のせいでもはやまともな思考が出来なかった。破輩の言葉がとても冷たくとても遠いものに聞こえた。それ故にらしくない、被害妄想でものを語ってしまっていた。
「鉄枷……お前」
あっけにとられている破輩に一瞥をくれて、鉄枷はずかずかと壁に掛けられたブルーシートに歩み寄る。
「この……こんなもん!」
自分に黙って何をやっていたんだ、そういったたぐいの怒りに任せて鉄枷は埋め込まれた鉄の杭を能力によって変形させ、はずした。
「バカやめろ!」
破輩の制止の声を振り切って鉄枷はブルーシートを思い切りにひっぺがす。
(やっぱりそうだったんだ……! あんなに慌てて、俺には見られたくないものがあったんだ)
ぶわりと打ち上げられたブルーシートが風に舞い、ゆらゆらと目の前に落ちてくる。そしてそれが完璧に地面に着いたとき、鉄枷は見た。
「……!」
赤く、朱く、紅く。まるで血で描かれたかのように赤く吹き付けられた文字。
『人殺し』、『仲間を返せ』、『赤鉢巻の風紀委員でてこい』。
それを見た瞬間は理解出来なかった。
――なんだ、これ。
目をこすって幻覚を疑ってみても、そのスプレーで吹き付けられた文字は消えることはない。徐々にその文字が指し示す者と意味がくみ取れてくると……
「う、うわあぁぁぁぁぁぁ!!」
走った。とにかく走った。
視界に焼き付いた光景を払拭するように。何も考えないように。猛然と教室に向かって走り続けた。
あれを書いたのは誰だ? 人殺しとは誰だ? 仲間とは誰のことだ? 赤鉢巻の風紀委員とは……
考えないように意識しても、穴を埋めるように疑問が生じてくる。そしてその答えは既にわかっていた。
(あいつの仲間。あいつの仲間が俺に報復に来たんだ……!)
見なければよかった、というのはもはや遅い。
自分自身がその罪を意識していたとしても、それを他人から指摘されるのがこれほどまでにも苦しいとは思っても見なかった。
ズキン……ズキン。
鼓動の振動は痛みに変わり徐々に胸を締め付けていく。耐えられない痛みに、許容限界を超えた苦しみに、鉄枷は全てを投げ出したくなった。
「やっぱ俺は……俺は……!!」
ドン。
と、鈍い音が聞こえると同時に後ろに吹き飛ばされ、思考が一時的に中断される。
鼻先にジンジンと伝わる痛みをこらえて見れば、そこには高級そうなスーツを身に纏った中肉中背の男が立っていた。
「ふむ、風紀委員が廊下を走るとは困ったものだね」
威厳と優秀さの象徴とも言える見た目に深みのある声、鉄枷はその男が誰だかを知っている。
「校長先生……」
風輪学園一九代目校長、風輪縁暫。鉄枷が知るこの学校の中で一番のお偉いさんだ。
「おや……誰かと思えば鉄枷君じゃないか。ちょうど君と話がしたいと思っていたんだよ」
その音調の変わらない平坦な声にゾクリとする。校長が自ら自分と話? 何のために? 心当たりをたどっていくと一つの答えが見つかる。否、その答え以外なかった。
「まさか……」
「ああ、昨日の件に関してなんだが」
3
風輪学園西棟の四階に位置する校長室はほとんど誰も近寄らない場所だ。それはルールで禁じられてるからとかいった理由ではなく、ただ単に行く機会がないから。しかし興味本位で近づく者もそうそういない。それは校長室自体から発せられるオーラのようなものが行く足を拒ませ、一歩たりとて進ませないのである。幼子にとっての歯医者と言えばわかりやすだろうか。
そんな生徒にとっての未開の地の中心で鉄枷はぽつんと来客用のソファに座り込んでいた。あたりはシックな家具で彩られ、海外のブランド品がいくつか並んでいる。思わず学校内であることを忘れてしまいそうな豪華絢爛さだ。
「お茶です。ごゆっくり」
鮮やかな緑を含んだ陶器を、後ろ髪を雑に縛ってオールバックにしてる女性から手渡された。年上かつ、包容力のある女性は鉄枷にとってのストライクゾーンなのだが、いまはそんな巡り合わせにトキメキすらも起きない。
鉄枷はここに呼び出された理由は退学を伝えるためだと思っていたからである。
それしか考えられない。この学園はどこよりも風評を気にする学園だ。その中でなにかやっかいごとを起こした生徒がいたら噂が広まる前にさっさと退学させ、この学園の生徒であったことすら抹消するだろう。
「すまないね、準備をしていたら遅れてしまったよ」
カツカツと小粋なリズムを刻んで部屋の奥から縁暫が出てきた。両手には年季の入ったチェスボードがしっかりと納められて、異様な雰囲気を漂わせている。
「ふん。そんなに肩肘張らずに聞いてくれたまえ。別にとって食おうというわけではないのだから」
「はい……」
膝においた二つの拳を強く握りしめる。鉄枷は死刑執行を待つ受刑者のような気持ちで次に縁暫から発せられる言葉を待った。
君は退学だ、その一言だけでいい。もうこんなギリギリの精神状態でジラされるくらいなら、いっそのこと退学とはっきり言ってくれた方がマシだった。
「君はチェスは好きかな?」
しかし、予想していたものとは一八〇度異なった言葉が縁暫の口から発せられる。
聞き間違いだろうか、とうつむきっぱなしだった顔を上げてみると、机にはチェスの駒が全て初期の配置につき、いつでもゲームスタート出来る状態でセットされていた。
「……やったことないっス」
どういう風の吹き回しなんだろう。未だ収まらない不安を胸に鉄枷はまじまじと校長を見つめる。
「そうか、じゃあ少し話をしようか」
コトン。
縁暫の指は優しくポーンの駒を掴み一歩前進させた。
「ここで一つ質問だ。僕がこのチェスの中で一番好きな瞬間はいつだと思う」
「えと……その、やっぱチェックメイトの時ですか?」
チェスに関してほとんど知識のない鉄枷だが、さすがにチェックメイトぐらいは知っている。それはつまり相手のキングの首に刃を当てる瞬間。あと一歩で勝ちになる瞬間だ。
「残念。それは不正解だ」
カツカツカツ、と更にポーンを進め、敵の駒を蹴散らし一番端のマスへとつかせる。それをうっとりと満足げに見つめる縁暫は血色の良い唇を潤しこう言い放った。
「ポーンからクイーンへのプロモーション。つまりは最弱だったはずの駒が最強の駒に進化する瞬間だよ」
鉄枷はなんとも答えられない。そもそも何故チェスの話題になっているのかわからない。
ただ適当に相づちをうってぼうっと惚ける鉄枷に縁暫は更に問いを投げかけた。
「君は何故風紀委員に入ったんだい?」
「え……」
唐突な問い。しかし今度はチェスよりも昨日の件に深く関係している問いだった。
鉄枷は縁暫の問いの答えを探し出す。今まで風紀委員としての生活がごくありふれたものとなったため自分の心を支える柱を見失っていた。
「俺は……」
『俺は!』
風紀委員に正式決定した当初、新入りでまだ垢抜けない、されどもやる気と自信に満ちた自分が言った言葉を思い出しながら重ねるように言う。
「……みんなの笑顔を守りたい。みんなに笑顔でいて欲しいからです……」
『みんなの笑顔を守りたい!! みんなに笑顔でいて欲しいからです!!』
言ってる言葉は同じなのに、伝えたい思いは一緒なのに。どうしてこんなにも違うのか。今の自分じゃ誰一人として笑顔を守ることなんてできない。そんな気がした。
「ふむ。それは笑顔を守る為の力をつけたいから、と言い換えることもできるね」
「そう……ですね」
縁暫はお茶を口に含んで、じっと鉄枷の方を見つめる。何を考えているのかわからない暗い瞳に映るのは鉄枷自身。
息をのむ。汗が吹き出る。目が泳ぐ。
この人物はどうも苦手だ。嫌みではなく純粋に鉄枷はそう思った。
この男の目、それは底のしれない闇であると同時に、無感動で、無感情で、まるで自分以外の者などどうでもいいと言いたげなのだ。根拠もないのに邪推しすぎ、そう自分に渇を入れて次の言葉を待った。
「私も教師だ。この学園の生徒が力をつけ成長していくのはとても喜ばしい。それに風紀委員というのはより成長を早めてくれるものだとも思ってる」
縁暫は初期位置の別のポーンをまた一歩ずつ進めていく。
「だが、今君にとっての風紀委員は重しになっているのではないか?」
「……!」
進めていたポーンを盤上の中腹あたりで一度止め、向かい側の黒の駒を行く手を遮るように設置した。
「このポーンが君、そしてそこから伸びる一直線上のマスが風紀委員という組織。さて、君は今まで風紀委員という組織を一マスずつ地道に進んできた。しかしその途中で昨日のようなトラブル、つまりは障害が立ちふさがる。さてこの先どうする?」
「……ッ。それでも前へ進みます」
「残念。そうした場合。君は次の手で敵の手に落ちる。そして盤上から落ちた駒は二度と戻ることはできない。……何が言いたいかわかるかい?」
「俺はこのまま風紀委員を続けたら、いずれ駄目になるってことですか……」
膝小僧に乗せた二つの拳をギリギリと握りしめる。声を震わせながら否定したかった。ふざんけんな! と、この男に言ってやりたかった。
けれども言われてみれば本当にそうなる気がしてならない。昨日今日とで思い知った風紀委員の重さが鉄枷には耐え切れないのだ。
「そうだ。君は努力という一歩すら進めない、先ほどのように無事盤の端にたどり着いてクイーンのような絶対的な力をつける事もできない」
縁暫はフッと笑って。
「ただの駄駒となるのが関の山と言ったところか」
「そんな、ことは……!」
ないのだろうか。自分はこのまま風紀委員を続けていっても壊れないだけの強靱な心が、志しがあるだろうか。
鉄枷は考える。今の自分はただ強がって、大人のいうことを端っから否定する駄々っ子なのではないか、と。この男の言うことは本当は正しいのではないか――と。
「……考えさせて下さい。俺、いろいろあってまだ上手く頭が働いてないみたいなので……」
「そうだね。私も君を追いつめようというわけではない。時間をかけ、じっくりと考えてみてくれ。私の言った言葉を」
会話が終わり鉄枷は校長室を後にした。昨日今日の出来事のフラッシュバックと縁暫の言葉がエコーのように響き、共鳴しているかのように繰り返される。
自分はどうするべきか、どうしたいのか。なにもわからなくなってしまった。
足下が地に着いていない、ふわふわとした感覚が異常なほどに不快だった。
◇ ◇ ◇
おぼつかない足取りで出ていった鉄枷を見送った後、縁暫は残りのお茶をゆっくりと啜っていた。コップの中で揺らめく鏡に映る彼の顔はほのかに笑っている。さわやかな笑み……ではなく正反対の嘲笑に近い負の微笑みで。
「あの少年が気になるようだね」
視線はコップに向けたまま、縁暫は空間を貫くような一言をそっと口にする。今この場所には縁暫と用心棒兼世話役の女性しかいない。その言葉が自分に向けて発せられたことを悟った女性は、なるべく障りのない言葉でこう答える。
「まだ中学生だというのに、あの子は重い問題に直面しています。今にも壊れてしまいそうな未成熟な子を見るのは些か胸が痛みます」
「ふん……元教師ならではの愛というものか。下らないな」
「……」
「すべては結果だよ。その過程で心が壊れただとか失っただとかはどうでもいい。ただ私の望む姿に成長さえしてくれればいいんだ」
顔色一つ変えない縁暫に対して、眉間にしわを寄せる女性。それは彼女なりのささやかな抵抗だった。この男に逆らうことはできなくとも、自らの不快を露わにすることで少しは気負いするのではないかという脆弱で、無意味にも等しい。
「うーん。なかなかいいお茶だね。よし、今度からこれを淹れるようにしてくれ」
しかし、いや、やはり。彼女の小さな表情の変化に縁暫は気づいていない。気づいているのかもしれないが、彼女の動作もまた、鉄枷の葛藤と同様に彼にはどうでもいいことなのだろう。
相手のいないチェス盤で縁暫は先ほどポーンの前に配置した敵の駒をポンと押して倒すと、
「まあ……そうだな。彼が風紀委員を『重し』ではなく、再び成長を促進させてくれる『手段』に戻せるのだとしたら。辞める必要はない。私としてはそっちの方がありがたいくらいだね」
未だ続く小さな笑みとともに、ボソリとそう口にした。
4
放課後の風紀委員の活動には出なかった。熱を理由に午前中に早退してきたからだ。
寮に帰ってみても何もする気は起きず、ただ寝床から天井を見つめるだけ。帰りがけに買ってきた薬さえも飲まず、そこら辺に投げ捨てたままだった。
「ぶっちゃけ……どうすりゃあいいんだよ」
ゴホゴホとせき込みながら一人鉄枷は呟く。脳に響き続ける声を振り払いながら、現実逃避するようにそのまま目を閉じて。
こんなに辛いのに、こんなに苦しいのに。それでも夢という唯一の逃避場所すら行くことは出来なかった。
寝られないのだ。脳に渦巻くもやもやが鉄枷に考えを、結論を急かす。彼自身もうどうにでもなれと半ばやけ気味でもあった。考えたくないのに考えなければならない、それは拷問にも近い。
「くそ……くそ」
弱々しい声とともに微かな雫が目尻から落ちる。
時刻は午後八時半過ぎ。帰ってきてからもう大分時間が経過していた。日は沈み、電気をつけていない部屋には鉄枷の心を具象しているような暗闇が蔓延していた。
「よ、サボり風紀委員」
そんなとき闇を照らすように部屋全体に明かりが広がった。なんと言うことはない。ただ部屋の明かりがついただけだ。それでも鉄枷には驚くに値するできごと。
まず一つに鉄枷の部屋には相方はいない。レベル三以下の生徒は基本二人部屋ということにはなっているのだが、今年度の入寮生徒数が奇数であったため運が良いのか悪いのか鉄枷一人で割り当てられたのだ。
そして二つ目がその声の主。
「破輩先輩……?」
そう、闇の中で投げかけられた女性の声はいつも聞く、尊敬する先輩の声だった。
「どうやら、サボった理由は熱だけじゃなさそうだな」
「……」
破輩はさらりと髪をまくしあげてから、学習机のイスに腰を落とす。そしてジッと鉄枷の方を向き、様子をうかがうような口調でこう告げた。
「今日のこと気にしてるなら、その必要はないぞ。あれはただの逆恨みってやつだ。お前は何にも悪いことはしてない。お前の判断は間違ってはいなかった」
破輩の声は確かに鉄枷に届いてきた。が。だからといって楽になるようなものではない。同じ穴の狢でそんなことを言われても何の説得力もないのだ。
例えるなら自分が強盗だとして同じ強盗の仲間から『盗みは正しいことだ』と言われているようなものだ。
「間違い……? なんでそんなことがわかるんスか。なんでそんなことが言えるんスか。第三者から見たら俺は……俺は悪党となんも変わりませんよ。結局最後は暴力で、相手を反論余地のないぐらいにぶちのめして解決してしまったんスから」
震える両手をブルブルと震えさせて眼前に掲げる鉄枷。自分の犯した罪を実感せずにはいられなかった。大丈夫だ、と言われる度に積もる不安を押さえきれずにはいられなかった。
「だがそれは……!」
「仕方のないこと、というのは聞き飽きましたよ!!」
破輩の声を上書きするように鉄枷の激昂が塗りつぶす。汗と涙でびしょぬれの顔で、息も絶え絶えで鉄枷は語る。
「俺はただみんなに笑っていてほしかったんだ……ガキの頃みたいにバカやって、怒られて、それでも毎日が楽しくて……こんな日常を守りたいって。そう思ったから風紀委員に入った。俺はこんな風に傷つきたくて、誰かを傷つけたくて入った訳じゃない!」
「……」
破輩からの応えはなかった。おそらく風紀委員としての実績も経験も鉄枷より豊富な彼女だからこそ敢えてなんにも言わないのだろう。
鉄枷は顔を両手で覆ってなおも語る。
「俺は怖いんスよ……正義という言葉の裏で積み重ねていく『罪』が。それがいつか俺を俺でなくしてしまうような気がして……」
胸に宿るは純粋な恐怖。
笑顔を守る、それとは正反対の誰かを傷つける『罪』。いくら相手に非があろうと、いくら相手が悪党だろうと鉄枷は力を正義とはしたくなかった。本当はご都合主義だろうと綺麗事だろうと笑って迎えられるハッピーエンドがいいに決まっている。そんな理想と現実のギャップが激しいからこそ、それに絶望し、逃避してるのだともいえた。
「そうか」
破輩はしばらく間を置き。
「じゃあ辞めちまえ。そんな風紀委員、うちにはいらない」
「!!」
衝撃があった。
空白があった。
静寂があった。
思考が追いついた先には絶望があった。
鉄枷は心の中ではどこか破輩に期待していたのかもしれない。ここで泣き言を言えば「ああそうね、それは大変」と、面倒見のいい母親のように何から何まで解決してくれると夢見てしまったのかもしれない。
考えてみれば彼女はそんな柄ではない。それに気づいたとき、鉄枷はそれが『期待』ではなく『甘え』だったことを悟る。
自らの恐怖を他人に任せる事なんて出来ないのだ。それに立ち向かうには自分自身が変わらなければ。
破輩の的確な言葉の槍は続く。
「自分の『罪』を重ねるのは嫌だから。助けを求めてる者も笑顔を失いかけてる者も、無視しようとしてる奴はいらない。……お前、言ったよな。ここに入る時、風紀委員になって一人でも多くの人の笑顔を守る、笑顔にしてみせるって。今お前は自分でそれを否定しようとしてるんだぞ」
何も言い返せない。言い返すことなどできるはずがない。破輩は過去の自分の意志を代弁しているのだからここで言い返せばそれは本当の否定となってしまう。
気がつけば破輩は玄関へと向かっていた。しなやかな髪を鉄枷の視線を誘うようさらりさらりと揺らしながら。
「三日だけ時間をやる。その間に本当に辞めるかどうか考えときな。もしお前が止めるならその腕章を回収しにくる」
……あとな、と最後に付け加える形で開かれたドアの向こうで破輩はポツンと呟いた。
「お前が助けたあの女の子、笑ってたぞ。昨日あれだけ怖い思いをしたのに、友人といつもと変わらない様子で笑っていた」
ドン、と扉が閉まり再び静寂が訪れる。風のように去っていた破輩に、鉄枷はしばらくは硬直したままだった。
――そして。
「くそっ!」
数分の後、思い出したかのように吹き出した怒りが鉄枷の拳を突き出させた。低反発の敷き布団に何度も何度も、感情をむき出しにして拳が埋まる。
この怒りは誰に対してのものか。
あの不良へのものでもなければ破輩へのものでもない。これはこんなに惨めで、臆病で、情けない自分に対しての怒りだった。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
そんなとき鉄枷の額に巻かれていた赤い鉢巻が音も立てずにはらりとほどける。同時に固定された前髪はストンと落ち彼の視界を妨げた。たったこれだけの出来事。しかし気が立ってる今はそんな些細なことも最大限にうっとうしく感じられ、柄にもなく怒りの方向を無関係のものに向けてしまう。
「ああ!? 邪魔なんッ――」
破り捨ててしまおうとその鉢巻へ手を伸ばした瞬間。
「……!」
穴の開いた風船のように怒りが収束していく。向けた拳はプルプルと震え、最後には力なく布団へと落ちていた。
「く……」
その鉢巻は鉄枷が風紀委員に入った当初にある者から受け取ったもの。今まで肌身離さず身につけてきた大事なものなのだ。
『お前は気が緩みやすいからな。この鉢巻で常に引き締めとけ。……ふふん、やっぱ赤は正義の色だな、お前によく似合ってる。これからお前の力でみんなを幸せにしてくれ』
わずか一瞬でもその大事な鉢巻に悪意を向けてしまったことに後悔する鉄枷。そして何かがほぐれたようにそっと笑うと、
「ごめん……俺にはもうお前は必要なくなっちまった」
握りしめて鉢巻をそっと戸棚の上へと置いた。
自分の信念の象徴のような鉢巻が必要がない、それが意味するのはたったひとつ。
「もう……俺なんかじゃ誰一人として幸せになんて出来ない。だからさ――」
辞めるよ――風紀委員を。
三日後の破輩への返答はもう見つかった。今からでも追いかけて腕章を渡したいくらいだったが、さすがにその体力は残っていない。
何もかもを投げ出した後は心のなかが空っぽになったかのように虚しさが残った。しかし同時に背負っていた重しから解かれた様に軽くもなった。
そうか、と鉄枷は気づく。
(校長の言った通り、俺にとっての風紀委員は重しでしかなかったんだな。最初から軽い気持ちで中身の無い言葉ばかりを連呼して……ほんとバッカみたいだ)
何かから覚めた鉄枷は今までの自分が陳腐に思えた。風紀委員の真の重さも知らないで、何でも知った気になって、強がって、粋がって、背伸びして。こうなることは予期できたはずなのにその部分から目を逸らしていた。自分に都合のいい部分だけを切り取り、それだけを憧れとしていた。
やがて眠気とともに闇が降り掛かってくる。唯一の逃げ場であるはずの夢でさえもそこにあるのはただの自責の念の塊と呼べる悪夢だった。
5
「ふわ~……今日もいい一日だったわね。破輩」
放課後。学校が終わり支部に来ていた厳原と破輩はひと通りの美化活動兼見回りを済ませティータイムに勤しんでいた。
「ああ……そうだな」
鮮やかな夕日とは対照的などんよりとした破輩の声色に厳原は眉をひそめる。三日前に鉄枷の元を訪ねて以来破輩はずっとこんな調子なのだ。上の空というか本調子でないというか。どちらにせよ彼女らしくない。
「鉄枷君のこと心配してるの?」
厳原が問えば、ぼうっとしていた様子から一変、破輩はギョッとしてせっかく淹れたお茶をこぼしそうになった。
「っ……別に」
取り乱すも、声は必死に冷静さを保とうとしている。彼女の天邪鬼な一面に多少ほのぼのして厳原はまた一言。
「私の能力は透視能力《クレアボヤンス》。だけどね、ただ物質的に透視する以外にも“心”という概念的なものだって透視できるのよ?」
「……ま、まさか! 私が鉄枷に本当は言い過ぎたって反省してることも心配してるのもお見通しということか!?」
――言ってから、破輩は聞かれてもいないことをべらべらと喋ってしまったことに気づく。厳原の方を見れば「無事本音を聞けましたよ」と言わんばかりにニッコリと笑っていた。
「もちろん嘘」
「厳原~~! 私を嵌めるとはいい度胸だな」
「こんなことに引っかかる破輩が悪いのよ。そんなんじゃこの先やってけないわ」
しばし睨み合って火花をバチバチと散らすが、先に破輩の方が敵わんとばかりに降り、ストンと背もたれに体を預けてこう言った。
「……ああ、そうだよ」
破輩は降伏の姿勢のように両手を頭の後ろで組み更に背を倒す。無防備にさらけ出された二つのお山が厳原には自分への挑戦だととれてしまうがそれは置いといて、本題へと進む。
「確か今日だったわね。鉄枷が続けるか辞めるのか聞く日」
「そうだな。あと少ししたら聞きに行くとするよ」
「破輩はどっちだと思う?」
「なにが?」
「鉄枷君が続けるか辞めるかのことよ」
回転式の椅子をクルリと一回転させ、回る天井を見つめながら破輩は一言だけ。
「辞めるだろうな」
まるで答えを見ながら問題を解いているかのような奇妙な確信があった。破輩はあの時三日待つといったが、本来そんな日数などあってもなくとも関係なく、鉄枷の答えはこうだろうとずっと思っていた。
別に辞めるなら辞めるでも構わない。あの時も言ったように、逃避する為に守るべき存在を蔑ろにする風紀委員ならいない方がマシだ。厳しいのは自覚しているが破輩としてはどうしてもこれだけは譲れなかった。
「そう……寂しくなるわね鉄枷君がいなくなったら」
「はっ、これで騒がしい奴がいなくなってせいせいしたよ。これで仕事も捗るってもんだ」
「そう思うなら“なんで”、“なにを”心配してるの?」
ズン、と貫くような厳原の視線が破輩に定まる。その瞳は本当に心までも透視しているかのように鋭く、研ぎ澄まされていた。
そうだ――破輩の中で疑問が生まれる。
辞めるならそれでもいいと割り切っていたはずなのに、どうして自分の中でわだかまりが残っているのだろう。風紀委員の研修期間中に基礎訓練の厳しさを苦にして辞めていった者も数多くいた。しかし破輩はそれを引き止めること無く、「そこまでの者だったんだ」と、ドライな感情で見送っていた。なのにどうして今回もそんな風になれない。何かが心のつっかえとなっている。
「獅子の子落としっていう話を聞いたことあるかしら?」
不意に厳原が口を開いた。今とは何も関係無さそうな話にお茶を濁すが、破輩はしばらくして
「敢えてそうすることで子の力量を試し、這い上がってきたものだけを育てるって話だろ? それがどうした」
「私はね、破輩がお母さんライオンで子ライオンが鉄枷君に思えるの」
なにを馬鹿なことを……と、一瞬思ったがよくよく考えたらあながち間違ってはいないのかもしれない。破輩は今鉄枷を試している。厳しい言葉で谷底に叩き落とし、鉄枷が自らの力で這い上がってこれるかを。
「だとしたら、あいつは結局這い上がってこれなかったってことだな」
鉄枷が風紀委員を辞めることを選択したらそれはつまり崖を登る途中で諦めてしまったということ。それで話しは終わり。何事にも発展していきやしない。しかし厳原はまた新たな問いを投げかけてきた。
「破輩。子を突き落としたお母さんライオンの気持ちってどんなだと思う」
「……さぁな。せいぜい高みの見物ってところじゃないか?」
厳原はメガネを外し、わずかに潤んだ瞳で視線を下に落とす。
「私はね、とっても苦しいんだと思うの」
「!」
「お腹が張り裂けんばかりの思いで生んで、お乳を上げて、一緒に寝て。少しの間でも家族として過ごした日々はお母さんライオンにはかけがえのない日だったと思う。だからこそ子を手放すのは本当に本当に苦しい。心のなかではまた同じ生活をしたいと思ってる。本当は子どもが這い上がってくることを心より願ってる」
だからね、と厳原は続けて、
「お母さんライオンは精一杯に『頑張れ! 絶対にできる! 諦めるな!』って声を張り上げるんじゃないかな。直接的には力を貸せなくても言葉は伝えることができるから。たとえそれしかできなくても子ライオンにはそれが何よりも力になるんじゃないかな」
厳原という少女は些か乙女チックなところがある。この少女が語る“獅子の子落とし”の話だってすべては想像の域を出ない子供の戯言だ。
だが、それが戯言だとしても綺麗事だとしても――
「そうか……そうだな……!」
破輩には何か来るものがあった。心の靄が晴れていく気がした。
「ありがとよ、厳原。んじゃ今からアホな子獅子に親獅子からの檄を飛ばしてくるわ」
「ふふ。そうね。いってらっしゃい、破輩」
バン、とドアを勢い良く解き放ち、破輩は学生寮目掛けて走りだす。
そう、心のわだかまりの正体は鉄枷ではなく自分にあった。自分の性分として何もしないのは収まりが着かない。例え鉄枷が辞めるにしても自分の思いを伝えずに終わってしまうのが嫌だった。
全力でやれ。全力をだして鉄枷とぶつかり合えば結果はどうであれ、後悔はしない。我ながらスポ魂体質だとは思う。けれどこれでこそ自他共に馴染みのある破輩妃里嶺だ。
6
あれから三日、熱を理由に学校に行かず、ずっと寮に篭るだけの生活か続いてきた。何もせず、何も考えず、ただ魂の抜けた抜け殻のような状態で一人逃げ続けながら。
しかし、ずっとそのままでいるわけにもいかなくなった。それは使命という幾分ご大層なものではなく、ただ単に食料の枯渇という原始的な理由だ。
鉄枷は三日ぶりに外へと出た。太陽の日は鬱陶しいくらいに眩しく感じられ、流れ行く雲は心を覆う不安を象徴しているかのよう。最寄りのコンビニで適当な食料を買って戻ろうとしたところ、鉄枷は何を思ったのか、ぶらりと学生寮とは正反対の方へと歩き出す。
普段孤独とは無縁な彼は、本能的にまたあの一人ぼっちの空間に戻ることを避けたのだ。だが誰かと会いたい、話したいといった気持ちにもなれず、相反する矛盾した感情を抱え込みながら、ただ先を考えず孤独な空間へと戻る時間稼ぎをしているだけ。
「おい……あんた」
そんな時だ。不意に後ろから声をかけられた。振り返るとそこには同年代か一個上ぐらいの少年が佇んでいる。しかも初対面ではなくどこかで見たことのある顔つきだ。
「……」
鉄枷が呆然と心当たりを探る一方で、その少年の顔つきは険しくなり下弦の月のように口元は笑みに裂けていく。
バギィ!! と次の瞬間には鉄枷の頬に少年の拳がめり込んできた。ミシミシと頭蓋を振動させるかのような衝撃とともに鉄枷はようやくその心当たりの正体に気がついた。そう――この少年は鉄枷が重症に追い込んだ男の仲間。ちょうどあの場に居合わせた人物だ。体調不良と三日三晩ろくに睡眠を取っていない身体にはその一撃は重く響き、鉄枷の意識はそこで飛んでいった。意識が消える直前に少年はこう呟いた気がする。
「ようやく見つけた……ぶち殺してやる」
◇ ◇ ◇
目が覚めると、鉄枷は両手を鎖的なもので塞がれ、足がぎりぎり着くか着かないかぐらいの状態で宙吊りにされていた。口はガムテームのようなもので塞がれ鼻からは呼吸の音がスウスウと漏れる。
ここはどこだろうか。辺りを見渡すとサビ臭い匂いが感じられ、天井近くに設置された窓ガラスから僅かな光が差し込んでいた。
その時ドズッっと誰かの拳が鉄枷の腹部に突き刺さる。食事が喉を通っていなかったため吐くことは無かったが、強烈な衝撃に再び意識を失いそうになる。
「ようやく目が覚めたか……」
無理やり髪を掴まれ、顔を上げさせられる。するとそこには先程の少年を始めとした何人かの男がこちらを憎悪の眼差しで見つめていた。どうやらここはあの男達のアジト、報復としてここに連れて来られたのだと、鉄枷は悟る。
「おい。本当にこんな奴があいつをあんな目に遭わせたのか?」
集団の中でそんな声が上がった。それに応えるように先ほどの少年は「間違いない」とだけ確信ありげに呟き、再び鉄枷を蹴りあげると、
「こいつが俺らの仲間をやったんだ!! こいつはせせら笑いながら仲間をゴミクズのように打ちのめした!! 違うか!!」
ビッ! と口に閉じられたガムテープが取り払われる。発言を許された鉄枷は小さな声で否定をしようとしたが、再び暴力という盾によってその言葉は途中で途切れる。
「聞こえなかったが……今なんつった? テメエには『はいそうです』っていう言葉しか与えられてねえんだよ!!」
「俺は……」
鉄枷は目を閉じ考える。
これは今までの自分への報いなのではないのかと。彼らからしたら確かに自分の存在は『悪』だ。いまこの空間には風紀委員も警備員もいない。郷に入れば郷に従え、ここでは彼らの裁きを甘んじて受け入れるべきなのだろうか。
「もういい……断罪の時間だ」
少年は指示を出し鉄枷の周りを埋め尽くすように囲む。
鉄枷は自分の命の危機を感じてか、反射的に両腕を拘束する鉄の鎖を変形させ外した。地面に倒れ込むように着くと手に持っている金属の塊に目をやる。これを武器として使えばこの場所から逃れられるかもしれない。けれど、けれども――
『う……げ、ぎゅぁ……がッ』
あの時の男の歪んだ悲鳴が脳裏によぎった。もしかしたら、また自分は同じ事を繰り替えしてしまうかもしれない。この男達の誰かを自分はまた手にかけてしまうかもしれない。そう考えると武器など握ることは出来ないし、戦うことなんてもっての他であった。
「こいつは既に虫の息だ。だからアイツのために――」
少年の眉間に縦皺が刻まれる。そして怒号と罵声がごっちゃになった叫びが施設内に波紋のように反響した。
「殺せえええええええええェェェェェェ!!!」
殴られ、吹っ飛んだ先でまた殴られ、倒れることすら揺らされず気絶してもまた殴られて起こさせられる。永遠に続く暴力の嵐は止むことなく鉄枷を切り刻んでいく。それでも鉄枷はただ呆然と上だけを見上げていた。僅かな光が指す窓枠に切り取られた小さな空。そこに流れていく雲を見上げ慈しむように笑っていた。
(ちくしょう……いてえな。……けど、これでいいのかもな。俺が本当に怖いのは悪事を犯してもそれが目逃されてしまうことだから。……だから罪に怯えるよりいっそのこと誰かに裁かれたほうが……)
その時だ。その小さな空から降ってくる何かがあった。もしかしたらこれが天からの使者なのかなんて考えるも、どうやら違ったらしい。天使にしてはどうもセクシー過ぎる、それに服装だって鉄枷が見慣れているものだった。
窓ガラスが割れ、大量の風を纏ってその使者は鉄枷の元へと現れた。周囲に群がる男達はその風に吹き飛ばされ散り散りになって吹っ飛んでいく。
「は……ば、ら先輩……なんで……ここに?」
その使者とは破輩であった。彼女は口をグッと閉じたまま、ただしゃがみこんだ鉄枷を見据えている。怒りかそれとも悲しみかどちらとも取れる表情で鉄枷の質問に質問で返した。
「なんで、抵抗しなかった。私がもしこなかったらお前は死んでいたかもしれないんだぞ」
彼女の声は平坦だ。けれどもそこには本当の憂いが含まれていた。
鉄枷は考える。
死ぬ。それもしかたがないことなのかもしれない。もしここに守るべき対象がいて、それを守りきれずに死んでいくのは嫌だが、ここには守るべき対象はいない。
「大丈夫ッスよ……もし俺が死んだとしても、ここには守る対象はいない……だからだれも笑顔は失わない」
その言葉を口にした瞬間破輩に綻びが見えた。ワナワナと小刻みに震え、平坦だった声も、抑えた表情も全てが崩壊していく。
「歯ぁ……食いしばれ」
パン!! と勢い良く鉄枷の頬にビンタが炸裂した。なぜ叩かれたのか、その意味がわからない鉄枷は頬を抑えながら破輩の方を向くと。
「この……大バカ野郎っ!!」
強い声で、強い力で破輩は抱擁してきた。ギュッと触れ合う体と体から彼女の温もりと内に秘めた優しさが伝わってくる。
「誰も悲しまない……? 笑顔を失わない……? もういっぺん言ってみやがれ」
抱きしめる強さは増し、反比例して声は小さく弱々しくなっていく。
「――――……ここに、いるだろうが」
「えっ……」
鉄枷はそこで破輩の顔を見た。
彼女は怒っていた。
彼女は悲しんでいた。
彼女は憂いてた。
そして彼女は少しだけ安堵していた。泣かないように、必死に大粒の雫を瞳に留まらせて。
「わたしがお前が死んでもずっとニコニコと笑っていられると思っていんのか。……私だけじゃない、支部の皆だってそうだ」
「……、」
「確かにお前の言う通りだよ。風紀委員というのは社会的にみたら正義なだけであって誰からも見ても正しいというわけではない。スキルアウトからしてみれば間違い無く私たちの存在は悪の方だろう」
けどな、と破輩は続ける。
「だからこそ自分の正義を貫かなきゃならないんだ。例え他から悪と罵られても自分の信念を信じ、自分の正しさを曲げずに突き進む。それが風紀委員の目標でもあるだろ」
『己の信念に従い正しいと感じた行動をとるべし』。鉄枷はこれを忘れていたわけではない。
けれども正しさを判断する信念が揺らいでいた。自分は笑顔を守りたいけれども一方では誰かの笑顔を奪っている。仲間を傷つけ彼らの笑顔を奪った事実が彼の『正しさ』の判断を鈍らせていたのだ。
「それでもお前があいつらに負い目を感じ、罪の意識があるって言うなら……」
破輩は鉄枷に風紀委員の腕章と赤鉢巻を差し出し、
「その罪、背負ってみせろ。それが風紀委員ってもんだろ」
「!!」
破輩のその一言が鉄枷の心を突く。
罪を重ねるのが怖い。逃げたくない、怯えたくない。だったら――背負えばいい。自分が起こしたことをずっと背負っていく、それは忘れてしまう以上に辛い茨の道かもしれない。けれど自分と向き合い生きていくというのはそういうことなのだろう。
「さあ、そろそろあいつらが来るぞ。『私達の笑顔』を守る為に『自分』を守る覚悟はあるか?」
フラフラの足取りで鉄枷は再び立ち上がった。右手には風紀委員の腕章を、左手には彼から受け取った赤鉢巻を握りしめて。
「――……そうですね。守るために罪を重ねることがあったとしても、逃げず、竦まず。俺は背負っていきます。それが俺の正しさですから」
誰もが笑っていられるハッピーエンドを鉄枷は望んでいる。そんなことが絵空事であることもわかっている。しかし、いつか相反する者とさえ分かり合うことが出来たとすれば――……
◇ ◇ ◇
「ふーん……そんなことが、ね」
鉄枷の話を聴き終わり、一厘はなんとも言えない様子でそう呟いた。
書類の山はまだまだ終わる様子はないが、黙って作業するよりも効率が良かったのか話し始めた頃よりもだいぶ減っている。そんな二人を隔てている書類の山の間から鉄枷はどうだと言わんばかりに自慢気な顔で聞いた。
「ふふーん。これを期に俺のことを先輩としてもっと敬えよ」
「どこがよ。これって要するに鉄枷の情けない話ってだけじゃん。まったく」
「なっ!? ……まぁ、確かに」
『凄いですね! 鉄枷先輩かっこいい!!』なんて展開を期待していたのだが、確かに話の内容からすれば『凄いですね! 破輩先輩かっこいい!!』の方が正しいだろう。自分の株を上げる目論見は失敗し、結局情けない印象を与えてしまったかと若干後悔する鉄枷。だが、一厘は最後に付け足して。
「ま、まぁ……被害者だけでなく加害者まで救いたいなんて考えるのは鉄枷らしいというか、甘い思想だとは思うけど私は評価してあげますよ。そういう風に考えれる人ってそうはいませんしね」
「ま……まじか?」
「もう、何度も言わせないでよ」
鉄枷にはいつも毒舌しか吐かないせいか、プラスに評価するのは照れくさそうな一厘。しばらくして彼女はこう切り出した。
「あのさ、少し休憩にしない? わたしも貴方も二時間ぶっ通しで働いてるんだし」
「ん、もうそんな時間か……そうだな」
そういった途端、一厘は大きく伸びをして、風の如く冷蔵庫へと駆け出していく。大方この休憩のために取っておいたドリンクを取りに行ったという所か。そんな様子をポカンと見つめながら一人になった鉄枷はあの後をもう少し振り返る。
あの事件の後、鉄枷は再び風紀委員としての活動を再開した。周りからは色々と噂されることもあったが今度は同様などせず、自分の正しさを信じて日々を送っていた。
そして、鉄枷は毎日欠かさず自分が怪我を負わせてしまったスキルアウトの病室に訪れるようになった。彼の容態は峠を越し、少しずつだが順調に回復していた。
彼は話そうとはしなかったが、鉄枷は毎日ひたすら病院通い、彼の暇つぶしになるべく他愛無い話を持ちかけていた。罪を背負うというのは鉄枷にとって自分の犯したことと向き合うこと。自己満足にも近いが鉄枷にはこういう形でしか背負うことが出来なかったのかもしれない。
結局、彼は一度も鉄枷と話すことはなかった。だが、彼は最後に一枚の手紙を残していた。
『お前といるとなんとも妙な気分になる。普通だったらどうせ俺のことなんて『自業自得』だとか『然るべき報い』だとか言われて終わりだっつーのに。なんでそんなに馴れ馴れしくしてくるんだよ。要するにお前は気持ち悪い。だから二度とお前なんかとは関わらねー。痛い思いもしたくはないしな』
拡大解釈かもしれないが鉄枷はこれを見て許されたような気がした。本当に憎いならまた仲間たちの報復があってもおかしくないのに、今もこうしてなにもない日常を過ごしてこれているのは彼が復讐劇に終わりを告げてくれたからではないのか。今彼のスキルアウトはどこで何をしているのかわからない。けれども日々どこかで起きる事件に名前が載ってないことを見ると、彼らは彼らであの事件からなにか変わってくれたのだと鉄枷は思う。
(無駄じゃ……なかったよな)
鉄枷は机に突っ伏し、少し微笑みながら。
「はぁ。こんだけやって……ようやく三割片付いたってとこか。ま、続きも頑張って行きましょうかねえ」
彼は今も風紀委員の仕事に誇りを持っている。辛いことも悲しいことも全部ひっくるめて風紀委員は彼の力になっている。
彼はまだまだ歩き続けるだろう。自分の信念に基づき自分の正しいと感じた道を、風紀委員の腕章と思い出の赤鉢巻と共に。
最終更新:2013年08月01日 21:33