科学の殿堂、学園都市にも季節の移り変わりがやってくる。梅雨も明けてそろそろ夏休みの足音が聞こえてくる頃。これはとある朝のお話。
「ああっ!」
登校中、大通りに面する歩道に立つその男と対峙したとき、或井美奈子は思わずビクッと身構えてしまった。
端から見れば、怯える女子高生に迫る、大学生くらいの、箱を持った男──まあ、募金箱なのだが──男は単にボランティアで街頭募金活動をしていただけだ。そもそも迫ってなどいない。立っていただけだ。
少女はキッと勇気を振り絞って後ずさりの体勢から立ち直ると、
「私だって、お金がないと生きていけないんですよう!」
妙に力のある、大きな目の端に涙を浮かべて、いきなり脈絡のないことを言った。どうやら金がないらしい。ハの字に下がった眉がとことん気の毒そうだ。
野暮ったいほどに整った白と灰色のセーラー服、肩の下あたりまで伸ばした黒髪、一直線に切りそろえられた前髪という埋没スタイル。無彩色に覆われたその姿に唯一彩りを添えているのは、革製の学生カバンに挿された、大量の色とりどりの羽根。赤や緑、青色橙色紫色水色金銀白黒エトセトラ、エトセトラ。まるで南国の鳥のようなカバンだった。
その羽根が募金をすると貰える記念品であることを考えれば、彼女がどれだけお人好しなのかわかるだろう。
街を歩けば迷子を見かけ、捨て猫を拾い、交通事故の瞬間に出くわし、街頭の怪しいおまじないに付き合わされ、署名活動には訳も分からずサインしてしまう。頼まれたら最後、自分の意志に関わらず結局引き受けてしまうのが、或井美奈子という人物だった。
今朝も登校の道すがら、献血、道案内、見知らぬ人のコンタクト探し、と順調にこなしてここまで来たのだが、そもそも女子寮を出て徒歩五分の停留所から校門前まで直通のバスがあるというのに、どうやったらそれだけのイベントに出会えるのか、本人にも全くわけが分からなかった。
で、気がつけばバス停を通り過ぎ、学校まで歩いたほうが早いがそう近くもない微妙な位置をうろうろしていたところで、募金に出くわしたのだった。
「──二千円」
震え声で絞り出した言葉。その瞳があまりに強い意思をたたえているものだから、募金スタッフの男は思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。
「今月のおこづかい、あと二千円しかないんですよ。一六歳にもなって。まだ夏休みにも入ってないのに」
或井はもうほとんど泣き出しそうな勢いで叫んだ。
「それもこれも、あちこちで募金、募金、募金! なんで七月は募金が多いんですか! 私が破産したら助けてくれるんですか!」
それから急に消え入りそうな声で、
「ですからその。せめて五〇〇円じゃだめですか? ──募金」
結局するのかよ! しかも五〇〇円は街頭募金としてはけっこう高額、と思ったスタッフだが、言葉には出さなかった。このタイプはさっさと受け取って満足してもらった方が早いと思ったらしい。
或井美奈子とはそういう人物だった。
完全に涙目の或井が断腸の思いで財布を取り出した、その背後から。
キュキュキュキュキュ、とタイヤのスリップするような音を出しながら、八〇度くらい傾いて角を曲がってきた女子生徒が一人。なんだか動画を早送りで見ているような動き。マンガのように残像が見えた。
走っている速度がおかしい。曲がってきた角から二人まで、一〇〇メートルはあったはずなのに、三つ数える間もなく顔が分かるほどまで近づいてきた。
気配を感じて或井が振り向く。近づいてくる人物にピントが合うより早く、関西訛りの元気な声がした。
「アルミナちゃんおっはよー!!」
すれ違いざま、日焼けした褐色肌の左腕が或井の首に巻きついたかと思うと、そのまま速度を落とすことなく走り抜けた。その速度、およそ時速八〇キロ。車道を走る車より明らかに速かった。
「ぐぇ」
女の子にあるまじき声が一瞬だけ漏れたのが聞こえた気がする。
見方によっては、プロレス技のラリアットかネックブリーカーのように見えなくもない、かもしれない。
二人の姿が二百メートル先の路地を曲がって消えていったのを見てスタッフは思った。あの子、慣性力と遠心力で首を支点にブラブラしていたけど大丈夫なんだろうか?
「あ、五〇〇円玉、落ちてる……」
◆
腕から解放された或井は、げほごほごほぜひゅー、とひとしきりむせたあと、ようやく立ち直った。頸椎はどうやら無事だったらしい。
「んもう、花冠さん! あんなスピードで歩道を走ったら危ないじゃないですか!」
「えっ、突っ込みどころ、そこ?」
ハナカンムリと呼ばれた少女は、心底意外そうな表情で抗議の声を上げた。
花冠撫子。或井と同じ、灰色ベースのセーラー服を着ている。祐天寺学園の制服だ。日焼けした肌と、余計な脂肪を全く感じさせない体型が特徴的。
バスにも乗らずにこんなところを走っていたのは、たぶん走った方が速いからなのだろう。彼女はそういう能力者だった。なにしろ音速の女とかいう異名を持つくらいだ。まあ、その名前の由来は速度ではなく暴走が巻き起こす余波なのだが、本人はそこまでは知らない。
「助けてもらっておいて、この物言いやもんなぁ」
「助けるって何のことですか? 私、何も困ってないですけど」
「はぁー? さっきそこでカツアゲされて『もうお金が無いんですよう』とか情けない声出して半泣きなっとったのはどこの誰やったかいな」
どうやら意外と大きな声で訴えかけていたらしい。猛スピードで走ってきた撫子にすら聞かれるとは不覚だった。
「うっ。反射的におこづかいを守ろうとしたのは確かですけど。でもあれはカツ……なんとかじゃなくてれっきとした募金で私なりに納得して」
あまり汚い言葉は使いたくなかったのか、ちょっと口ごもるあたり本当にお人好しなのだろう。
「わかった、わかった──ほんま優等生なんかアホなんかわからんわぁ。世間の荒波を乗り越えられへんお嬢様は祐天寺みたいな学校来たらあかんえ?」
「私は庶民の生まれだからいいんです!」
庶民の生まれならもっとお金を大切にすべきやろ、と撫子は思ったが、長くなりそうなので口に出すのはやめた。
「それに、どちらかと言えば花冠さんのほうが不思議ですよ」
なんだか遠い目をして、或井は続ける。
「学園都市でもそれほど多くない大能力者、しかも珍しい能力の持ち主ともなれば、あの名門長点上機学園や霧ヶ丘女学院が放っておくはずはないのに、まさかこんな普通の高校に進学するなんて」
周期操作。それが撫子の能力の名前だった。自身の生命活動の周波数を強制的に加速できる能力者。神経伝達を始め思考速度、筋肉の収縮、心臓の鼓動、はては細胞分裂まで。早送りのような動きは、この能力のなせる業だ。
祐天寺学園は、学園都市の高校としては普通過ぎて個性がないというのが特徴だ。基本的に高位能力者が行くような学校ではない。大半が無能力者と低能力者、わずかなエリートとして強能力者が存在する程度、そんな高校に大能力者が(実は撫子以外にもう一人)入学するというので、校内が異様な雰囲気に包まれたこともあった。
が、一ヶ月もしないうちに、二人の大能力者がどちらも学生として残念な部類であることが知れ渡ったため、今では普通に受け入れられている。
「しかも、その類い稀な能力を、もっぱら朝寝坊の後始末に活用だなんて」
音速の女の名が急速に広まったのもそのせいだ。要は祐天寺学園に二人しかいない大能力者の一人は、寝坊を繰り返しては暴走登校する有名人だった。
「それで思い出したんやけどさぁ、アルミナちゃん、通学中にうちと出会うということは、どういうことか分かる?」
当時を思い出したのか、ちょっと遠いところへ旅立ちかけていた或井の目を覚ますように、撫子が声をかけた。
「ふぇ? なんですか?」
「今から普通に走っても間に合わん、ということでっす! イェーイ」
何がそんなに嬉しいのか、Vサインまで決めて非常な宣言をする撫子。或井は愕然とした。
「ですよね……。花冠さんが加速状態で走ってたんですもんね、ふふふ……私のバカ」
いつもトラブルを予測して早めに出ていたのだが、今日は一六歳になったからといってついつい献血をしてしまったのがタイムロスだった。
「じゃそういうわけで、うち急いでるから」
「えええ〜〜〜」
「けど友達のよしみや。良かったら連れてったげよか? 超特急ソニックブーム号、いまなら無料でご招待」
「連れてくって、まさかまた私を抱えて走るってことですか?」
「そりゃまあ。うち、鍛えてるし」
と言って撫子は、灰色のセーラー服をチラリとめくってみせた。そこには堅く締まった見事な腹筋が見えた。本物のアスリート体型だ。
(うわあ、腹筋浮いてる、女の子なのに……ってそういう問題じゃなくて)
混乱している或井をおかまいなしに、撫子は或井の腕をとって自身の背後を抱きかかえるように添えさせた。
「ほな、このへん摑まっててちょうだい」
「あの、えっと、その」
状況の変化に脳がついてこれない。絶賛処理落ち中。
「あの、一応言っておきますけど、危ないですから歩道を走っちゃだめですよう、あっでも車道もだめです」
「わかった。車道と歩道は、走らんかったらええねんな?」
含みを持たせた言い方に或井が一瞬躊躇した隙に、余計な制限を追加される前に次の言葉を捩じ込んできた。
「壁と、クルマの上は走ってもええよね☆」
ああ、笑顔がまぶしい。
押しに弱い或井は二の句を継げなかった。
「周期加速、十三倍。二分あれば、間に合う」
ヒュィィィィィン、と機械のスイッチを入れたときのようなノイズが辺りに響いたような気がした。
撫子の腰に手を回してしがみついている或井に、アイドリング中のバイクのような低い響きが聞こえてくる。心臓の鼓動が猛烈に早くなるとこんな音がするんだ、と半ばヤケクソに場違いな感想を抱いた。
「しっかり掴まっとかんと振り落とされるよお?」
「あの、まだ心の準備が。ちょっと待って、待ってくだ」
「スタートぉ」
唐突な宣言と同時に、ズドン、と砲弾のような勢いで飛び出した。
「ひゃあああああああぁぁぁぁぁ」
ドップラー効果とともに遠ざかる悲鳴。その後の記憶は、或井にはない。
◆
──校門通過時刻、午前八時二九分、五九・四秒。
「ふぃー、何とか助かったわあ。アルミナちゃん良かったなあ間に合って」
さすがに疲れた表情で、顔を上気させつつ息を整えていた撫子がようやく一息ついて後ろを振り返った。
「◎☆∞※△*〜〜〜」
顔面蒼白ぐるぐる目、よだれを垂らした或井の姿がそこにはあった。半開きの口からは声にならない声が漏れ続けている。いわゆる完全グロッキー状態。
腕が脱力して、それまでしっかりと掴んでいた撫子の身体からはらりと落ち、或井は地面に倒れ臥した。
「あっらー、ちょっとやりすぎたかな。でもその状態でちゃんと捕まってたなんて、やるやん? もうどんなジェットコースターでも涼しい顔できるんちゃう」
人間、イノチが掛かると猛烈な力を発揮するものだ。
結局あの後、車道を走る車の上を義経の八双飛びよろしく飛び渡り、立ち並ぶビル(二〜三階)を壁伝いに走り、つまづいて転びかけたところを華麗に空中三回転半ひねり(時速一八〇キロ)で立て直し、遅刻確定のかわいそうな生徒たちを風圧でなぎ倒し、全速力で校門を通過したあと、ご丁寧にも校舎の壁に用意してあった「花冠撫子対策」クッションに突っ込んで、ようやく地獄から解放されたのだった。
それはさておき。
もぞり。と、生気を失っていた或井が動いた。血の気のない顔を持ち上げて這いずるその姿は、さながら墓から這い上がるゾンビのよう。
「あの、ちょっとアルミナちゃん?」
ようやくたどり着いた撫子の脚にすがるように起き上がった或井は、腰にしがみついたまま、胸の起伏越しに撫子の顔を見上げた。
何か様子がおかしい。或井の吐息が荒い。
取り憑いた怨霊のように、陰の入った表情を撫子の方に向けて、
「せ、────」
と言った。
「せ……?」
あまりの迫力に思わず次の言葉を待ってしまう。
「せんめんき」
「? ? せんめんき……洗面器!? はっまさか」
唐突に出た単語の意味を理解すると同時に、嫌な予感が撫子の脳裏を電撃のように走った。
そして或井はその予感を肯定するかのように、苦悶の表情を浮かべるとビクンッと痙攣し、
「うっぷ」
「ひいっ! ダメ、絶対。アルミナちゃんそれだけはあかん」
撫子は必死で距離を取ろうともがくが、或井の両手は背後でガッチリとロックされていてびくともしない。人間、イノチがかかると猛烈な力を発揮するものだ。
「あふ、んぐぇ」
「かんにん、堪忍してー!」
そして、或井はもう一度激しく痙攣させ────
「おろろろろろろろろろろろ」
「わああああ! 助けて! 誰か助けてー! もう嫌やー!」
少女の悲痛な叫びが、校内にこだました。
◆
校舎の二階にある一年×組の教室。
「朝から最悪の光景を見てしまった……」
窓際から全てを目撃していた不運な男子生徒が一人。
少年はげっそりした表情で、首にかけていたヘッドフォンを耳に装着すると、自分に言い聞かせるように呟いた。
「よーし、今日一日あのゲロまみれ女には関わらないようにしようそうしよう」
まあ、問題は、その女の席が隣だということなのだが。
現在時刻、八時三四分。とりあえず、ホームルームは平和に過ごせそうだ。
最終更新:2013年11月25日 01:12