その少女は、楽しいのだと言った。
「おじさんには分からないかな。戦うことって、凄く楽しいんだよ」
倒れている私に、彼女はそっと手を差し伸べた。大人を殴り飛ばすわりには彼女の手は小さく、しかし、どこか力強く見えた。
◆ ◆ ◆
少女は可愛らしかった。だが、その小さな体には、確かに痛々しい傷痕が残っていたのだ。ある春の日の昼のできごとだった。忘れえぬ、出会い。
◆ ◆ ◆
私はその日、街角の小さな飲食店に向かった。
店の一番奥に陣取り、壁に剣を立てかけ、注文を取りに来た小女にパンと卵料理を命じる。
誰も、剣の存在を気にしなかった。そういう術を掛けていたのだから、当然のことだった。そうでなければ、こんなものを持って外を出歩けるわけがない。
湯気の立つ、濃いソースの掛かった卵料理を食べるうち、何かの拍子に、壁に立てかけておいた剣が倒れた。
壁に立てかけ直すとき、背に誰かの視線を感じた。振り向くと、少し離れたテーブルで、料理を食べる手を止めて、こちらをじっと見詰めているひとりの少女がいた。そういえば、私が店に入って来たときも、彼女は私の方を見ていたような気がする。どうして彼女は、私を見ているのだろう。
そこで私は、少女の異変に気付いた。右腕が、義手だったのだ。それも、ただの義手ではなかった。魔力の流れが感じられる。霊装。彼女が魔術師であることは、すぐに分かった。彼女もまた、私が魔術師であると分かっているのだろう。魔術を知る者ならば、剣は剣に見えているはずである。
ああ、なるほど。ただの飲食店に、自分以外の、不知の魔術師がやって来たのだ。思わず興味を持っても、さほど不思議なことではない。もちろん、それだけでないことも、私には分かっていた。
私は席に座ると、再び料理を食べ始めた。それを見て、少女も食事を再開したようだった。
しばらくして、また少女の視線を感じた。私は、無視した。なにも、急ぐことはない。料理を食べ終えてからで良いのだ。
◆ ◆ ◆
「おじさん」
店を出てしばらく歩くと、すぐ後ろから声が聞こえた。
目を向けると、やはり、店で私を見ていた少女だった。
「私に何の用だい」
「あたしと戦ってほしいの」
私は、黙った。黙らざるを得ない。
それは、少女の言葉が予期せぬものだったからではない。逆だ。予想通りのものだったからこそ、私は黙ったのだ。
店で私を見詰めていた少女の目には、戦意が宿っていた。戦いたいという気持ちが、少女の視線には感じられたのだ。本来ならばそれは、戦士だけが持つ目だった。つまり、少女は戦士ということになる。
「どうして、戦ってほしいんだい」
「おじさんと戦いたいからだよ」
「それは答えになっていないな」
「じゃあ、どう言えば良いのかな」
彼女は、本気で悩んでいる様子だった。戦いたいと言う他ないのだろう。
「とにかく、おじさんと戦いたいの」
だめかな、と少女は首を傾げた。
彼女はただ、私と、戦いたいのだ。戦いたいから、戦うのだ。そこに他意がないことは、少女の目を見れば明らかだった。それは、戦士の目だった。
どうしてだろう、と私は思った。誰しもが戦士として生まれるわけではない。何かが誰かを戦士に変えるのだ。何が少女を変えたのか、ふと、興味を持った。
「良いよ」
「戦ってくれるの」
「ああ」
どうして興味を持ったのか、私にも分からなかった。
戦場への道すがら、私と少女は、少し話をした。
「おじさん。名前はなんて言うの」
「リカードだ。君は」
「あたしはマティルダ」
「マティルダ。良い名前だな」
「にへへ。ありがとう」
本心からの、女の笑顔を見たのは、妻を喪ってから初めてだったかもしれない、と私は思った。そんなことを考えていると、マティルダは言葉を継いだ。
「おじさんって、良いひとだね」
「どうして」
「あたしと戦ってくれるから」
「君が戦ってほしいと言ったんじゃないか」
「そうだけど、おじさんみたいなひと、珍しいから」
「まあ、そうだろうな」
見ず知らずの少女からいきなり勝負を申し込まれて、それを受け入れる人間など、なかなかいるものではないだろう。そいう意味では、私は変わった人間なのかもしれなかった。
「だから、おじさんは良いひと」
そして少女は、にへへと笑ってなどいる。
マティルダは、感情を読み取るのが苦手な私でも判るほどに、嬉しそうだった。ようするに、笑っていたのだ。
私と戦えるのが、そんなにも喜ばしいことなのだろうか。変わった女の子だと、そのときの私は思った。年頃の女の子というのは――否、魔術師という存在は、やはり、よく分からない。私に限らず、魔術師には変わり者が多いのかもしれなかった。普通の人間ならば、魔道に走らないと言えば、それも当たり前のことではあるのだが。
◆ ◆ ◆
「ここなら戦えるね」
「そうだな」
念のために人払いもしておいた。これで万が一にも、一般人が私たちの戦闘を目の当たりにすることはない。
私は鞘から剣を抜き放った。とある伝承に登場する聖剣の模造品。私の、相棒。
彼女は私と霊装を交互に見詰めていた。澄んだ碧色の瞳の奥に、やはり理性では如何ともし難いものが見え隠れしている。
どうして。
「君はそんなにも嬉しそうなんだ」
「戦えるからだよ」
「戦えることが、そんなにも嬉しいのかい」
「嬉しいよ。だっておじさん、強いでしょ」
「どういうことだ」
「あたしね、強い人と戦うのが、とっても好きなんだ」
「変わっているな」
「にへへ、オズ君にもそう言われたよ。どうしてかな。生きるか死ぬかの戦いって、とても楽しいと思うんだけどなあ」
本当に不思議そうに、彼女は首を傾げながら言った。
察するに、彼女はこれまで、生死に関わる戦闘を何度か経験したことがあるに違いなかった。衣服から覗く白い肌にある傷痕が、何よりの証拠だった。
私は、怖い。修羅の道に自ら進む彼女が。誰かに強制させられている訳ではなく、己の意志で死地に赴くその姿が。まだ年端も行かない少女が、どうして、自ら命を閉ざすような真似をするのか。私には、理解ができない。できないから「怖い」。
「死ぬのが恐いと、思ったことはないのか」
「ないよ」
一寸の迷いもなく、少女はそう答えた。死ぬのが恐くないと。それは、つまり。
「死んでも構わないということか」
「そうだよ。だって」
死んじゃっても、天国にいけば、天使さんと戦えるでしょ。
「君は」
強いものと戦えれば、それで満足なのか。強いものと戦えれば、自分の命も厭わないのか。
「うん」
彼女は頷いた。少女の瞳は、まるで宝石のようだ。どこまでも純粋なのだ。
その純粋さに、私は言葉を失った。純粋ゆえの、異常。――否、マティルダにとって普通なら、それは異常ではない。
彼女は、己が戦闘狂であることに気付いていない。狂っているという自覚さえない。何となれば、戦いを楽しむのは当然だと思っているからだ。
私は、その異常なまでの純粋さを、羨ましくも思った。私には、大人にはない、愚かしいほどの無垢。
そう。私には――
「おじさんは、好きなこととかないの」
――何もない。どこまでも純粋に、ひたむきに、わき目も振らずに取り組めるものが、私にはない。
妻と娘を事故で失った私は、心にぽっかりと巨大な穴が開いたかのような虚無感に苛まれた。私は、そのどうしようもない孤独感を埋めるように、あらゆる修練に励んだ。魔道に足を踏み入れるのに、そう時間はかからなかった。だが、意味などなかった。何をやっても満足が得られない。開いた穴が塞がらない。
私は愚かだった。妻子を亡くした悲しみを、凡俗な修行で埋めようとすることが間違っていたのだ。私が今までやってきたことは、ただの逃避に過ぎなかったのだ。
愚行だと気付いたのは、事故から五年も経ってからだった。
「ないよ。私には、何もないんだ」
私は嘲るように笑うと、己の霊装を見下ろした。からっぽの男に振るわれる、哀れな剣。
「魔術師になったのも、特に理由なんてない。私はただ、独りが怖くて、その孤独を紛らわせようと、魔術を学んだだけなんだ」
今でも魔術師を続けているのは、魔術師である私を必要としてくれている人がいるからだ。魔術結社の下請けに過ぎないが、けれども、あの空虚な日々に比べれば、少しは実のあることだと思った。
「私のことはいい。そろそろ始めようか。君も早く戦いたいだろう」
私が促すと、少女は頷き、拳を構えた。碧色に輝く瞳は、まっすぐに私を見詰めていた。
◆ ◆ ◆
………………。
◆ ◆ ◆
「思ったより強いんだな、君は」
「
必要悪の教会の一員だからね」
「そうか。道理で」
私は地面に仰臥していた。剣は、彼女の一撃を受けて遠くに吹き飛ばされていた。彼女は私を見下ろしている。勝敗は言うまでもない。
「本気で戦ってくれたら、もっと楽しめたんだけどなぁ」
やはり、見抜かれていた。実際、私は手加減をしていた。だが、負けるつもりでもなかった。単に、彼女の実力を、見誤ったゆえの結果だった。
「どうして、殺す気で来てくれなかったの」
「私はそんなに器用な人間じゃないんだよ。殺す気で戦えば、本当に殺してしまうかもしれない」
「あたし、殺されても良いよ」
「君が良くても、私が嫌なんだ」
それでも、少女は納得のいかないという表情で、私を見下ろしていた。容赦をされたのが、そんなにも不満だったのだろうか。私は、彼女の期待に応えられなかったことを、少しだけ、申しわけなく思った。しかし、これは、仕方のないことだった。
「それにしても、君は本当に、楽しそうに戦うんだな」
「強い人との戦いだもん。楽しいに決まってるよ」
「そうか」
「おじさんには分からないかな。戦うことって、凄く楽しいんだよ」
倒れている私に、彼女は笑顔で右手を差し伸べた。大人を殴り飛ばすわりには彼女の手は小さく、しかし、どこか力強く見えた。
私は、彼女の手を掴み立ち上がった。義手であるはずなのに、不思議と暖かく感じた。
そう言えば。こんな身近に他人と触れ合ったのは、久し振りの気がした。
結社の仕事上、私は何人もの魔術師と接してきたが、それはあくまでも仕事の付き合いだった。一人ではなかったが、私はいつも独りだったのだ。
ああ、そうか。
なぜ私は、少女の頼みを聞き入れたのか。なぜ私は、少女と戦ったのか。その答えが、ようやく分かった気がした。私は、彼女が戦士になった理由を知りたかったわけではないのだ。そんなものは、ただの建前に過ぎなかったのだ。ほんとうは、私は。
「そうだな」
こんな風に人と触れ合うのも、悪くない。
私は、自分でも気付かないうちに、微笑みを浮かべていた。
「さて。そろそろ私は行かないと」
「もうお別れなの?」
「仕事の時間だからね。遅れるわけにはいかないんだ」
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね。あっ」
「どうしたんだい」
「あたしも仕事があるんだった」
急いで行かないと、クライヴさんに叱られちゃう。
彼女はぺこりとお辞儀をすると、逆の方向に走って行った。だが、何かを言い忘れたのか、途中で立ち止まって、再び私の方に体を向けた。
「おじさん、またどこかで会ったら」
今度は全力で戦ってね。私、もっと強くなってみせるから。あと、お仕事がんばってね。
彼女はひとしきり叫ぶと、大きく手を振って、私の返事も聞かず、二度と振り返らないまま街中へと走っていった。
結局、何がマティルダを戦士に変えたのかは分からなかった。だが、今となっては、どうでもいいことだった。
戦いが好きな、奇妙な女の子との出会い。ほんの数十分のできごと。けれど、彼女の存在は、私の心に深く刻み込まれたのだ。
空を見上げる。今日は、どこまでも青い。
私は彼女と逆の方向に歩き始めた。
また、下請けに戻らなければならない。たいくつで孤独の始まり。それでも、私の歩みは今までにないほどに軽かった。
最終更新:2014年02月18日 18:55