File6 思いは温度で変化しない
それはいつもと何一つ変わらない一日になるはずだった。
『黒丹羽君おはよ!』
『黄ヶ崎……お前は何度言ったら寝坊が治るんだよ。もう十分近く遅れてるぞ』
『えへへ……ごめんなさい』
朝は近くの喫茶店で黄ヶ崎と待ち合わせをして登校した。
『ほら風輪定食ばかりじゃなくて、もっと違うもの食べようよ。毎日同じものだとお腹壊すよ?』
『ほっとけ、俺はこれが好きなんだよ』
昼は食堂で一緒に食事をした。
『ねえ……今日の放課後はあのケーキ屋さん行かない?』
『いいけど、どうしたんだ黄ヶ崎。顔色悪いぞ』
『ううん、大丈夫。じゃあ約束ね』
放課後は行き付けのケーキ屋に行って、何気ない会話を交わすはずだったのだ。
だというのに。
だというのに今現在黄ヶ崎が案内した場所は、ケーキ屋とは程遠い人気のない裏路地。
そして、今にも泣き出しそうなくらいの声で空気を振動させる。
『ごめんね黒丹羽君。でもこうしなきゃ私、痛い目にあっちゃうから』
その声を合図にして、待ち伏せしていた十人の男が物陰からゾロゾロと現れる。
『おい、何の冗談だよ……黄ヶ崎』
黒丹羽はいきなりのことに頭が上手く働かない。
鼓動は乱れ、焦点が合わずに瞳があちこちに泳ぐ。
黄ヶ崎の裏切り。
そんなこと信じたくなかった。
信じれるはずがなかった。
つまりは、この少女が自分に見せていた顔は偽りだったのか。
それをバカみたいに信じこんでた自分を影では笑っていたのか。
『はぁい♪ 第六位。大事な大事なお友達に裏切られた気分はどうかしらぁ?』
十人の不良共を率いてその場に現れた少女は皇光双里。
学園祭では司会を担当するほどに男女どちらの支持の高い風輪学園のアイドル的な存在だ。
そんな人物が何故このような場に立って、そのような言葉を口にするのか、パニック状態の頭では判断すら難しい。
『なんで、あんたが……』
『あらあら、そういえばこうして会話を交わすのは初めてだったわね黒丹羽君。なんでって言われたら――――』
双里はポケットからリップクリームを取り出し、
『私の順位を奪ったテメェが憎いからに決まってんだろ?』
右手の握力だけでそれを粉々に砕いた。
バラバラと地面に落ちるリップクリームの残骸をしばらく眺めて黒丹羽は口を開く。
『そんな下らないことで……』
『あぁん!? 何だって!? ものを言うときはもっと大きな声で――――』
『そんな下らないことで黄ヶ崎を利用したのかって言ってんだよッ!!!!』
黒丹羽の咆哮が空気を大きく震動させる。
近くにいた黄ヶ崎だけがビクッと片を揺らした。
『あぁ……そうだよ。そうそう! テメェのその泣きべそを見るためにそのチビを利用させてもらったわ! そいつも男を騙す悪女を演じられてまんざらでもなかったぽいぞお?』
ギリッと、歯軋りをして黒丹羽は眼前の女を見据える。
『ぶち殺す……!』
『殺されんのはテメェだよ黒丹羽。やれ、お前ら』
双里の言葉をトリガーにして、男達は一斉に黒丹羽へと襲い掛かった。
数にして十。
しかもそこには能力者もいて、普通にやり合った所で袋叩きにあうのは目に見えているし、能力を使ったとしても勝算は限りなく低い。
だが――――
『かかってこいよクズ共……片っ端から冥土に送ってやる!』
黒丹羽はもはやそんなことはどうでもよかった。
ただこの怒りをぶつけられれる標的さえいればそれで十分だったのだ。
三人の男がまず黒丹羽に釘バットを振り下ろす。
黒丹羽は三方向から飛んでくるバットの根元に、手の甲が触れるようにして裏拳で弧を描いた。
その手が触れた瞬間、金属バットは刺さった釘ごと粘土細工のように溶けて地面にこぼれ落ちていく。
目の前の不可思議な現象に男達は困惑し、それが隙を生んだ。
『な、なんだこいつ!? 念動力系の能力者――――』
バギン! と間髪いれず前方の男に拳を叩きつける。
それもただの拳ではなく、鋼を纏った鋼鉄の拳。
能力を使って液状にしたバットの金属を、腕に包みこむようにコーティングしたのだ。
呆気にとらわれる残りの二人にも回し蹴りをお見舞いして蹴散らす。
残り七。
『ほらほら、頑張りなぁ! チミの大好きな黄ヶ崎ちゃんも見守ってるよお』
黒丹羽は鋭い瞳で黄ヶ崎の方へ視線を移す。
『ごめんなさい、ごめんなさい……でも……私……』
彼女は近くの壁に寄り掛かりながら泣いていた。
顔を腕で覆い、言葉にならない謝罪の言葉を必死に紡ぎながら。
それは何の為?
傷つき、戦っている自分のため?
いいや、違う。
それは『泣いていれば助かる』という自分の保身しか考えていない偽りの涙でしかなかった。
『俺の前で……』
黒丹羽は自分の顔が一層険しくなるのを感じる。
顔面を殴打された。腹を蹴り上げられた。頭部を強打された。背中を切りつけられた。
それでも黒丹羽千責は膝を折らない。
次々と殴り込んでくる男達を振り払うと、
『涙を見せんじゃねえぇぇぇ!!!!』
激昂しながらアスファルトの地面に拳を叩きつけた。
直後、周囲にいた男達の足が、底なし沼にハマったかのように地面のコンクリートにめり込んでいく。
『なんだこれ!? う、動けねぇ!』
黒丹羽は身体の自由が効かなくなった男達に文字通り鉄拳をたたき込んでいく。
一度では収まりきれず、何度も、何度も、何度も。
その拳は確実に男達の意識を刈り取っていった。
残り四。
『ハハハハハ!! 超イカスわあんた! 超抱かれてぇ!!』
黒丹羽はゲラゲラと笑う双里に向かって突進する。
『……黙れよ、今すぐ!!』
醜い言葉を発する口を閉ざすため、これ以上好きに言わせないために。
『ぶぁ~か。だからテメエは騙されるんだよ』
言葉の通り、その短絡的で直線的な行動が災いした。
ドゴォ!! という、まるで台風を一ヶ所に集中して放ったかの様な空気の塊が黒丹羽の脇腹に直撃する。
その勢いで黒丹羽は真横の建物の窓ガラスを突き破り、内部に突っ込んだ。
『が、ぐあぁ……』
肺から空気が押し出され、吐血と共に口から放出される。
体からは痛みの感覚が薄れ、ただ何回も痙攣を繰り返した。
失敗だった。
双里の挑発は黒丹羽の意識を自分に向けさせる罠で、本命はその隙に不意討ちを加えること。
残り四人も能力者がいるのに一人を狙ってたのではこっちの損害は増えるばかりだ。
『ヒャハハハ!! これで終わりにしてやんよ』
割れた窓から双里の手先が四人入ってくる。
もはや倒れこんでる暇はさえなかった。
『くたばれぇ!! 第六位!!』
先ほど黒丹羽を吹っ飛ばした風力使いが手のひらから収束した空気を放つ。
『くっ……』
黒丹羽がそれをかわすには時間が足りなかった。
轟!! という激しい気流に呑み込まれた黒丹羽は砂ぼこりと共に高く打ち上げられると、そのまま壁に叩きつられ、力なく倒れ落ちる。
風力使いはその様子を最後まで見届けると、
『やりましたよ双里さん!! 俺が黒丹羽を……』
だがそこで風力使いの男はある異変に気付いた。
黒丹羽に向けた自分の腕。先程風を生み出したその右腕の手首に。
ダーツの矢が深々と貫通していたのだから。
『ぎ!? ギャアァァァァ!!!!』
痛みは後からやってくる。
血が噴水の如く吹き出し、腕はみるみる紅く染まっていく。
黒丹羽は男が風を発生させる瞬間を見計らってダーツの矢を投擲していたのだ。
それも気流で狙いが狂わないよう、ぎりぎりのところを狙って。
『いい様だな……くそったれが』
そんな男を嘲笑しながら黒丹羽はヨロヨロと立ち上がる。
手には残り二本のダーツの矢が握られていた。
残り三。
『おいおいおいおい!!!! 何十人がかりで一人にのされてんだ!! 八百長試合じゃねえんだ、容赦なくぶっ殺せ!!』
まさかここまで黒丹羽が耐えるのは予想外だったのか双里の言葉に焦りの色が見えてきた。
『は、はいっ!』
男達は多少おどけながら双里の言葉に従う。
一人は水流操作。
近くにあった貯水タンクからまるで渦巻く龍の如く水を操り、黒丹羽に襲い掛かる。
一人は念動力。
周囲のガラクタを一斉に浮かび上がらせ、黒丹羽に向けて放つ。
そして最後の一人は電撃使い。
指先にバチバチと紫電を纏わせ、黒丹羽を指差すと雷撃の槍を放つ。
三方向から襲い掛かる雷撃と激流と鉄塊。
だが、どれも黒丹羽に触れた瞬間。
『邪魔だ』
龍を模した激流は凍り付き、後ろから続く雷撃に衝突され粉々に砕け散る。
鉄塊は粘り気のある水の様に溶けて床に落ちていった。
状態変化《コンディションチェンジ》。
触れた物の粒子の運動を操作することにより、任意に状態変化を引き起こすことが出来る能力。
この能力の前にはあらゆる物体も触れた瞬間に状態変化を引き起こされ、ダメージを与える前に原型を崩されてしまう、つまりは無効化されるのだ。
黒丹羽は残り二本のダーツの矢を飛ばす。
三人の能力者はそれを各自かわすと黒丹羽との距離を詰めるべくバラバラに走りだした。
黒丹羽の身体はお世辞にも良いといった状態ではなく、全身には殴打による痣や、ガラスに突っ込んだ際にできた切り傷もあった。
傷の割に出血量が少ないのは自分の血を固めて止血しているからだろう。
『なら、これでどうだッ!!!』
『!?』
ブワッと、黒丹羽の体が突然宙に浮く。
それは物を飛ばしてダメなら本人を飛ばせばいいと察した、念動力の男による能力の使役。
黒丹羽は空中でじたばたと抵抗するがまったく意味がない。
『ようし、そのまま固定しとけ』
電撃使いが両手に電気を帯電させる。
どうやら念動力で浮かした黒丹羽を電撃で狙い射つという作戦らしい。
『ぐっ、この……!』
電撃の槍が超高速で黒丹羽へと飛んでくる。
もちろんそれは避けれるはずがなく、直撃した。
『う、ぐああぁぁぁぁ!!!!』
その電撃は脳の血管まで焼き切るのではないかと錯覚させるぐらいに強烈な一撃。
全身を覆う制服はあちこちが断裂し、焦げたかのような臭いを放つ。
『さーーて、いつまでもつかな?』
道端の虫けらをいたぶるかのように、電撃使いは狂気の笑みで顔面を埋め尽くすと、
『あ、あ、があああぁぁあぁぁぁ!!!!』
再び電撃を黒丹羽に浴びせた
スタンガンなどとは比にならない電撃に黒丹羽は再び絶叫する。
(……はぁ……くそ、このままじゃマジで意識が飛ぶ……なんかないのか……)
しかし黒丹羽はまだ意識を殺さずに保ち続けていた。痛みにもレベル4の頭脳は死んではいなかったのだ。
この状況を打開するため、動かない身体とは対照的に脳をフル回転させる。
まずは身体の自由を確保するために念動力の男をなんとかしないといけない。
だが唯一の飛び道具であるダーツの矢はもう使ってしまっていて、今は丸腰状態。
(何か……!)
黒丹羽は無意識のうちにポケットに手を突っ込む。
すると、その指先に電撃とはまた違った痛みが走った。反射的に手をポケットから引き抜き、見る。
人差し指の先には、刃物で切ったかの様な傷ができていた。
何かと思って、再びポケットに手を入れると――――
『ギャハハハハ!! 止めは最大質力の電撃をお見舞いしてやるぜ』
電撃使いは先程の二倍以上の太さの雷撃の槍を放つ。
それは一直線に突っ込んでいき、念動力によって固定されてれている黒丹羽はまたそれに直撃する――――
はずだった。
だが、電撃は黒丹羽の差し出した手に当たると、せき止められた濁流の様に勢いが止む。
一応は当たったのだ。なのにその電流が黒丹羽の身体に流れていっていない。
『なに、が起きた!? 電撃を掻き消したのか!?』
『んなファンタジーなことができるかよ……無能が』
今度は笑うほどの余裕もなく、黒丹羽はただ淡々と口を動かす。
黒丹羽が電撃を受け止めた拳には先程同様に何かがコーティングされていたのだ。
それは透明な物体。プラスチックの様に薄っぺらい透明ではなく、厚みのある透明だった。
『さっき窓ガラスに突っ込んだ時、その破片がいくつかポケットに入ってたらしくてさ……』
黒丹羽は拳を覆っていたガラスを変質させ、液状にする。
『そうか……ガラスは不導体。そのガラスで拳を包んでいたから電撃を受け止められたのか……!』
『今更気づいても……おせえんだよっ!!』
ブンッ! と、液状にしたガラスを投げつける。
正確には手から離れる瞬間に凝固させ、つららのような形にしたガラスの矢を。
標的はもちろん念動力の能力者。放たれた三本のガラスの矢は、一本は外れ、もう一本は途中で電撃使いに防がれた。
そして、最後の一本は――――――
グチャ と念動力の使い手の左目に真っ赤な花が咲く。
そう、最後のガラスの矢が左目に直撃したのだ。
『うぎゃぁああああ!! いでぇ!! いでぇ!! いてぇぇぇぇぇ!!!』
間抜けた叫び声とともに、黒丹羽を束縛していた力が解かれる。
約4メートルの高さから落下する黒丹羽だが、地面に触れた瞬間、コンクリを粘性のある液状に変化させて衝撃を殺した。
『馬鹿野郎何やってんだ! もう一回奴を浮かせろ!』
目を押さえうずくまる念動力の男を、必死に立たせようとする水流操作の男。
『無茶言うな! そいつは片目が潰れてんだぞ!? そんな状態じゃ演算が安定しねぇよ!!』
だが、電撃使いはこれ以上の念動力の力をあてにするのは不可能だと判断し、単独で戦うことを促す。
『あいつはもう、ろくに動くことすらできねぇ!! 例え俺らがレベル3だとしても潰すことは訳ねぇよ!』
『そうだな、今度こそぶっ殺してやる!』
水流操作の男は再び貯水タンクから水を吐き出させ、それを黒丹羽の全身を覆い尽くすように放った。
避ける余力など今の黒丹羽にあるはずがない。
一瞬にして黒丹羽は巨大な水滴に包み込まれる。
『っしゃあ!! 捉えた!! これで手も足も出ねぇだろ!』
この時点で水流操作の男は、勝ちを確信した。
何故ならば、先程黒丹羽は金属を溶かし、水を凍らせた。
つまりこの男、黒丹羽は物質を『液化』か『固形化』しかできないと踏んでいたのだ。
『さぁどうする。 てめえを包むその水を凍らせたら。てめえごと氷のオブジェになっちまうぜ? まあ溺死よりはマシってか!?』
巨大な水滴の中で、ゴボゴボと息を吐きだす黒丹羽だが、決してその表情は苦しそうなものではなかった。
むしろ、笑っている。
『なんだ、こいつ気味が悪い……』
電撃使いがそう言葉を漏らした瞬間。
バシュゥゥン!! と、奇怪な音を上げ黒丹羽を包み込んでいた水滴が消えていった。
『馬鹿かお前は。液化と固形化が出来て、気化だけできない……はずがないだろ』
変化はそれだけではなかった。
建物の中が段々と白い靄に覆われていく。それは彼らがよく知る現象に酷似していた。
『なんだ、これ……“霧”!?』
『それもかなり濃いぞ!! うおっ……前が見えねえ……』
視界を覆う白い闇に戸惑う能力者達。
そこに黒丹羽の声だけが響く。
『なあ……霧がどうやって発生するか知ってるか?』
『んなことはどうでもいい! いい加減くたばりやがれバケモノ!!』
男は黒丹羽の言葉に耳を貸さない。それが、まるで死神の囁きのようだったから。
『発生方法には色々あるんだけどさ……今回の場合は至って単純』
前後左右もわからない状態で、男たちはうろつく。
もはや黒丹羽を見つけ出すどころか、今自分たちがどこにいるのかも見当がつかなかった。
『俺がさっきの水にしたのは『気化』じゃない……言わばただの『細分化』だ』
要するに人一人を丸ごと包み込む巨大な水滴を、空気中を漂う極小の水滴に細かく分割しただけだった。
これによって、狭い室内中に細かな水滴が頒布され、霧を形成しているというわけである。
『そんな……お前の能力名は確か状態変化《コンディションチェンジ》だろ!? その通りならだとしたら水滴の大きさを変えることなんて出来るはずがない!!』
『あぁ……状態変化っつーのは確かに語弊があるな……別に沸点やら融点やらを操作してるわけじゃないんだから』
『だったら……!』
『俺が操作しているのは粒子の運動。基本的には状態変化のキーとなる訳だが、応用すれば細分化するのなんて訳はない』
男は自分が対峙している者がやはり人外のバケモノであることを改めて確信する。
レベル3とレベル4でここまで差があるとは思ってもいなかったのだ。
(やべぇ……やべぇ! ここはひとまずここから出ねぇと……)
電撃使いはそこで何かに躓《つまづ》いた。
霧が発生するまでは何もなかったはずの床で、なんとも言えぬ感触を持つ物体につまづいたのだ。
(―――――ッ!!)
それを確認した瞬間、男の恐怖が最大にまで釣り上がる。
そう、男がつまずいた“それ”とは――――
『……氷のオブジェになるのはお前らのほうだったな』
念動力と水流操作の能力者。
“氷ではない氷に”氷漬けにされたその二人だった。
強張る体を必死に動かし、仲間を覆っている氷に触れる。
その氷は全くと言っていいほどに冷気を感じさせなかった。
冷たくはない氷。そんなものがこの世に存在するはずがない。
『ううっ! 止めろ! お、俺はこんなにはなりたくねえ!!』
気がつくと電撃使いの男の身体はビッショリと濡れていた。それは汗なのか、この部屋に充満する水滴のせいなのかはわからない。
わかることはこんな状態では、自身までもが感電する恐れがあるため能力が使えないということだけだ。
『……俺たちは悪くない! 俺たちは双里さんに何かをされたせいで、お前を……』
ガシッ!! と一面霧の視界を、突如現れた手のひらが覆った。
『だ・ま・れ』
そう、黒丹羽千責が男の顔面を鷲掴みにしていたのだ。
その力は大した物ではない。並の中学生程度の握力だ。
振り切ろうと思えばいつでも振り切れるはずだった。だが、男は動かない、否、動けなかったと言ったほうが正しいか。
『あ、あ、ああ…………』
部屋中の水滴が黒丹羽の手元に集まっていく。男はそれによりずぶ濡れになった。
『俺は今からあの女をぶち殺しに行く、文句なら……地獄で会った時に本人に伝えろ』
水滴が一箇所に集まったことにより部屋にあった霧は消滅した。
男が最後に見たのは黒丹羽の顔。
言葉では形容できないほどの憤怒を纏い、憎しみに満ちたその顔だけだった。
◇ ◇ ◇
『はは、やっぱり来たかぁ……黒丹羽』
建物の屋上で、皇光双里は待っていた。ドアが開く音を聞いて、どうとでも取れる笑みを、その顔に浮かべながら。
黒丹羽の足取りは重い。
それでも一歩ずつ一歩ずつ近づいていった。
その目は殺意だけでつき動かされている、狂犬の目。
『おっと動くなよ? 今から月並みな手を使ってやるから』
ピタリと黒丹羽は歩を止める。
そこには双里によって首元にナイフを押し付けられている黄ヶ崎の姿があった。
『……』
『ギャハハハ! これだから男ってちょろいよな!! 自分を裏切った女を人質にとっただけだっつーのに、ピタリと動きが止んでやがんの!!』
黄ヶ崎は黙ったまま俯いていた。今更合わせる顔なんてないといったように。
『さぁて、これで主導権はこっちのもんだ。こいつが殺されたくなければ、なんでも言うこと聞いてもらおうか』
『……』
黒丹羽は黙って前を見るだけだった。
『んーー、そうだな。こっから落っこちて死ね、ただ死ぬだけじゃつまんねーから全裸で!!』
場違いな双里の発言にもピクリとも表情を変えない。
それどころか双里の言う通りに、まずは羽織っていたブレザーを脱ぎ、
バサリ!
双里の元へ投げつけた。
ちょうどよく覆い被さるブレザー。
『うへっ!! 血生グセぇ!! てめえ! なにしやがんだっ!』
双里がそれを引剥して前を見ると、黒丹羽は自分のすぐ前に来ていた。
黄ヶ崎に当ててたナイフをドロリと溶かして。
ズンッ!!!!! と黒丹羽の拳が双里の右の頬にめり込む。
双里はその衝撃でふっとばされ、黄ヶ崎は解放される。
だが黄ヶ崎が黒丹羽に駆け寄ることなんてなかった。
『このゴミがあぁァァァ!!! てめえは何この美しい双里ちゃんの顔を汚してんだよォォォ!!!』
双里が黒丹羽に向けて拳銃を突きつける。
『……』
しかし、双里が引き金を引くよりも黒丹羽がその拳銃に触れるほうが早かった。
ジュワという蒸発音をあげ、拳銃は霧散する。
『くそがァァァァ!!! て、めえが!! てめえごときが!! この双里ちゃんに歯向かってんじゃねぇよ、あぁあんっ!?』
同じレベル4の黒丹羽と双里。だが、双里の身体能力なんて平均的な高校生となんらかわりはない。
人質も奪われ、武器も奪われた双里が黒丹羽に勝てるはずがなかった。
だからこそ出来るのは能力の使役。感情加速《メンタルスパイラル》というレベル4の精神操作系の能力。
『これは……』
黒丹羽の変化として現れたのは一つの感情。絶対に有り得ないはずの双里に対する『好意』の感情だった。
『ギャハハハ! これでテメェは私の言いなり人形だ!! 好きなやつを手を下すことなんてできねぇだろうがよ!』
だが、
グシャ!!!!
黒丹羽は問答無用に双里の首を掴んで、地面に叩きつけた。馬乗りで上から押さえつける黒丹羽は双里が抵抗できないよう彼女の両足を地面のコンクリに埋め込む。
『あんた馬鹿だろ……全員が全員好意を向ける者に服従するとでも思ったのかよ』
『なっ……!?』
『それに、今の俺の感情はアンタへの憎悪でうめつくされてる。そこに恋愛感情が入り込むなんて余地はねえよ』
ギュウッと、双里の首を絞める握力が強まる。
『が……離せ……このクズが』
マニキュアを塗った爪が黒丹羽の右腕に食い込む。
それでも手を離さない。
「おい……人間は何℃で状態変化を起こすか知ってるか?」
「は……? てめぇ何を……」
「答えは人間に状態変化なんていう概念はない。一度分子の運動がバラバラになっちまったら、温度が変わろうが決して元の形には戻んないんだよ」
黒丹羽は右手に左手を添え、更に双里の首を押さえつける。
「まぁ……そういうわけで、アンタは一生宙に舞ってろ」
その顔はもはや何もかも吹っ切れたかのように涼し気な表情だった。
何の悔いもない、ただ瞳の奥に大粒の涙を浮べながら。
「ぎやぁァァァァァァァァァ!!!」
突然双里が絶叫した。
身体はまるでミイラのように乾燥していき、生々しい骨格があらわになっていく。
たとえ人間に状態変化という概念がなくとも、分子で構成されている以上必ず融点や沸点は存在する。
もし人間が高熱下の場所に置かれたら、まず体中の体液が蒸発するのだ。
もちろん、これは沸点を操ってるのではなく、分子の運動を操っているだけである。つまりは個体である双里の身体をを気体の運動に変えていっているのだ。
「や……め……」
黒丹羽は、どんどんと身体が蒸発していく双里を見るに耐えず、目を閉じうつむいた。
何秒、何分たっただろうか。
ついに黒丹羽の右手にはものを掴んでいるという感触がなくなった。
「……」
そっと目を開けると、そこには“何も”なかった。
皇光双里という人物すべてを気体として蒸発させてしまったのだから。
「は、はははは……ははは」
黒丹羽の口からは笑い声が漏れる。
それは、双里を殺したという達成感から来るものではなく――――
「なんで……こんなことになっちまったんだよ……」
今のこの自分の状況にもう笑うしかなかったのだ。
今日、この一日だけで黒丹羽は何もかもを失った。大事な親友に裏切られ、挙句の果てには人を殺したのだ。
ただの生徒で、一般人でいたかったはずなのに、殺人者になったしまったのだ。
そんな現実を受け入れることはまだ中学二年の子供には不可能な話だった。
「なんで……俺は……」
黒丹羽はよろよろと立ち上がる。
うつろな瞳はすぐ近くでうずくまっている黄ヶ崎に向けられた。
「く……黒丹羽君……双里さんは、どこに行ったの……?」
黄ヶ崎の問いに黒丹羽は答えない。
ただ黙って、近づいていくだけだ。
「ねぇ……なんで何も答えてくれないの……?」
黒丹羽は黄ヶ崎の前まで来ると、
「俺が、殺したからだ」
そうきっぱりと言い放った。
目の前の殺人鬼を見てこの少女はどんな反応をするのだろうか。
ぼうっとした思考を漂わせる黒丹羽はそう少女のリアクションを待つ。
「い……い……いやアァァァァ!!」
予想通りのリアクション。
黄ヶ崎はまるで化け物を見るかのように黒丹羽から離れようとした。
だがあまりの恐怖に腰が抜けてうまく立ち上がれていない。
「だよな……」
フッと笑って黒丹羽は黄ヶ崎の首に手を伸ばす。
今まで自分が見てきたのはただの幻想だった。
そう言わんばかりの諦めの表情で。
ただ、この少女に対するこの感情は何なんだろうか。
怒りか、憎悪か、嫉妬か、今の黒丹羽には判断がつきそうになかった。
「よく、わかんないが……俺はお前が憎いんだと思う。そうだよ、こんなことまでされて怒らねえ奴なんていないしさ」
目の前に対する少女への感情は、“とりあえず”憎悪にしておくことにした。
だがそんなことはもうどうでも良い。
どうせ――――この少女も双里と同じように消すんだから。
黒丹羽は黄ヶ崎のか細い首をその手で掴んだ。
人間さえも分子レベルで分解してしまう、その手で。
[私の名前はね、漣。黄ヶ崎漣だよ。よろしくね、黒丹羽君]
[私もね……黒丹羽君と一緒なの]
[また明日! また明日ね! 黒丹羽君!!]
しかし、何時まで経ってもその手を握ろうとはしない。ただ首元に添えるだけ。
『……てけ』
口からは血が、瞳からは涙が、そして、喉からは悲痛な声がこぼれ落ちる。
『ここから、この学校から出てけッ……! そして二度と俺の前に現れんなッ!!』
それを聞いた黄ヶ崎は、どうしていいのかわからずただ震える。
『はやく行けっ!!……さもないと、さもないとほんとに殺すぞッ!!!』
黒丹羽は脅すように近くにあった壁を溶かした。
それを見た黄ヶ崎は、
『ひっ……!!』
力の限り黒丹羽を突き飛ばし、屋上から走り去っていった。
あとから聞こえてくるのは、少女の悲鳴じみた泣き声。
◇ ◇ ◇
突き飛ばされて仰向けになる黒丹羽は、曇天の空を見上げていた。
真っ黒に染まった雲からは雷鳴が鳴り。ポツリ、ポツリと雨粒が顔に落ちてくる。
黒丹羽はもう喋らない。
体の支配を放棄し、大の字になって雨を受け止める。
しだいに雨は強くなっていった。
いっそのこと、この雨に洗い流され、綺麗サッパリ消えてなくなりたかった。
『やあ、こんにちは。少し話がしたいんだけど、いいかな?』
そこに、どこか渋みのある声が聞こえてきた。
目を開くと、そこには傘を持った男が自分を見下ろすように佇んでいる。
見た目は二十代後半で、髪は茶色。
しかしその男まとっているスーツには何らかの威厳を感じさせる。
『その沈黙は肯定と受け取っていいね? じゃあ早速一つ』
黒丹羽は黙って目を閉じた。
冷やかしたいなら好きにすればいい、そう言わんばかりに。
『君も随分と優しい人間だな。自分が与えた致命傷だというのに、自分で止血させてしまうんだから』
なんのことだ、と黒丹羽は言い返す。
すると、男は黒丹羽の近くに何かの金属を置いた。
確認してみると、それは血がべっとりとついてるダーツの矢だった。
『覚えがないとは言わせないよ? 君はそれである人物の手首を貫通させた。普通なら大量出血で絶命は免れないのに、何故だかその血が凝固して止血されてたんだよ』
それだけじゃない、と男は付け加えて。
『他にも三人の氷漬けにされた男がいたけど、それは完璧に氷漬けではなかったんだ。ちょうど、呼吸できるように口元にだけポッカリと穴が開いていた』
『……』
『そんな顔はしないでくれ。せっかくの美男子がもったいないぞ?』
『……あんたは、誰だ』
『君が私の質問に答えてくれたら教えてあげよう』
男は持ったぶるようにそういった。
黒丹羽にとっては苛立たせるには十分な焦らし。
『確かに、そいつらは生かした……だが、そんなの気まぐれだ。俺は、もう皇光双里という女を殺したんだよ!』
『ふむ。気まぐれ、か……』
男は少し笑って、
『その“気まぐれ”が優しいと言ってるんだ。それに君は皇光双里という女を殺したといったが、その証拠はどこにある? 道具は? 目撃者は? 動機は? いつ? どこで?』
『やめろっ!!』
黒丹羽はついに我慢ができずに立ち上がった。
『いや……君が彼女を殺したのは知ってるよ。見てたからね。だけど結局、それは君と私しか知りえない事だ。もはや分子レベルで分解された彼女を見つけ出すことはできない。行方不明で済ませれてしまうんだよ』
『……何が言いたい?』
『端的に言うと君はまだ“日常”に戻れるということだ。こんな血なまぐさい非日常なんかじゃなくてね』
男は手に持っていたもう一つの傘を黒丹羽に差し出す。
だが黒丹羽はそれを振り払って言った。
『そんなのは無理だ。さっき潰した双里の手下たちがこのこと警備員にチクるだろうし、学校に行ったって俺を疎んでいる奴はゴロゴロといる』
『いや、その点も心配ない』
驚きに黒丹羽は目を見開く。
時間を巻き戻しでもしなければそんなことは不可能だ。そう思っていたから。
『私の知り合いに何人か精神操作系の能力者がいてね、現在進行形で君と双里に関する記憶を学校の生徒から抹消させてもらっている。もちろんさっきの手下も記憶をすっこ抜いて病院に送ってやったよ』
『そんなことが……出来るわけ無いだろ。生徒の中にはレベル4の能力者だっているんだから簡単に記憶を奪い取ることなんてできない。それに俺のことを忘れたとして、いきなり知らない奴が学校に来たらおかしいだろっ!?』
『それも心配ない。君のことを忘れさせるのは君のクラスの者だけだ。だからその者達が君を知らなくても、違うクラスの奴か程度で済むだろう。それに双里の記憶を奪うのはその手下だった者だけだ。一般生徒には『行方不明』と告げておく』
これ以上反論の言葉が思い浮かばなかった。そのかわりに出てきたのは疑念の言葉。
『なんで……なんであんたはそこまでして俺を庇う! さっさと警備員にでもなんでも突き出せばいいだろ!』
黒丹羽は苛立ちを通り越して憤慨していた。
堕ちるところまで堕ち、もう登っていく気力もない人間に、この男はまた這い上がれと急かすのだ。
『困るんだよ。“私の”学園から貴重なレベル4が消えるのは。ま、もうすでに君が一人消してしまったが……だからこそ君が残って、二人分の働きをして欲しいんだ』
『“私の”って……あんた……』
『おっと、そう言えば君の質問にまだ答えてなかったね。私は――――』
男のスーツの胸ポケットには見慣れた校章が刻まれていた。
風が輪となり渦を巻くのを表した、風輪学園の校章が。
『来年度からきみの学園の校長になる風輪縁暫、だ。これから長い付き合いになるかと思うがよろしくたのむよ。』
『あん、たが……校長!? ぷっ……あははは! これは傑作だ! 自分の学園で死者が出たっつーのに校長がそれをもみ消すとか、ありえねえよあんた!』
黒丹羽は腹を抱えて笑う“ふり”をした。
こう言って相手の機嫌を損ねれば、めんどくさいことに付き合わさせられずに済むと思ったから。
だが、
『そうだな。笑ってくれて構わんよ。君にはそれだけの資格がある』
縁暫は少しも不快な表情を見せず、ただ微笑みながらそう言った。
『なんだよ、それ。……同情のつもりか?』
『ああ、そうだ。だから君が学園に残るというなら、君の行動は大目に見よう』
男は続ける。
『そもそも理不尽ではないか? 操られてたとはいえ、君をいじめてた連中は何もかもを忘れ、幸せに暮らし、君と同じレベル4である連中は君のような扱いを受けずに快適な生活を送る。比べて君はどうだ!? ただの逆恨みによってここまで傷つけられ! 十字架までも背負わされた! このままでいいのか!? 君は!?』
縁暫の熱弁は真に迫るものがあった。
黒丹羽は何も答えられずに脳内で自問自答する。
そうだ。
何故自分だけがこんな目にあわされなければいけない。
何故高位能力者である自分が、無能力者どもに見下されなけらばならない。
何故他のレベル4は自分のような目に合わない。
何故――――――
『ガアァァァァァァァッッ!!!』
雨の中、つんざくような叫びが木霊する。黒丹羽はグシャグシャと頭を掻きむしった。
まるで今まで気づかずに蓄積されていた怒りが、その蓋を開けたかのように流れ込んでくる。
黒丹羽はもはや何もかもが憎かった。
自分を除け者にしてきたクラスの連中が。
こんな状況を創りだした皇光双里が。
そして全ての原因であるレベルなんていう制度を取り入れてる学園都市《ここ》が。
『君が望むのなら、その者たちへの報復だって許可しよう。といっても、皇光双里の件がしばらくして落ち着いたらになるがね』
しばらくは顔を押さえ、ふさぎこんむ黒丹羽。
数分してようやく口を開いた。
『……それは、いつ頃になる?』
『再来年度。つまりは君が高一になった時だ』
黒丹羽は先ほど振り払った傘を拾い上げ、開く。
虚ろだった瞳は、明確な意思を、怒りを帯びていた。
『ちょうどいい……』
全身雨に打たれ、ずぶ濡れの黒丹羽は、体にまとわりつく水滴を一瞬で気化させる。
すると、雨で濡れてた服が嘘のように乾いた。
そのとき、水滴と一緒に何か大切な物までを消してしまったのかもしれない。
『あんな腐りきった場所は、俺がぶっ壊す……そして、そこで平和ボケしてるクソッタレ共もな』
屈曲した怒りなのは黒丹羽自身も自覚していた。
だが、もはやこのまま消えるのは無理だった。――――自分に存在する怒りに気づいてしまったのだから。
怒りという思いに沸点や融点は存在しない。
気体になって霧散することも、液体になって洗い流されることもない。
だからもう、この怒りを消す方法など一つしかなかった。
それは、風輪学園という場所をぶっ潰すこと。
そして、そこに通うすべての生徒に自分と同じ苦しみを味合わせること。
最終更新:2012年05月20日 11:48