イギリス植民地時代
第一次世界大戦に際して、イギリス本国は英領インド帝国から2個師団100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。
1914年の大戦勃発時点でのインド軍の兵員数は、戦闘要員155,423名、非戦闘員45,660名の合計201,083名で構成されていた。1918年12月末までに、新たに戦闘要員として87.7万余名、非戦闘員として56.3万余名、合計約144万余名のインド人が,現地インドで戦争遂行の為に募集され,その兵力は開戦時の7倍強に拡張。
これらの戦費の負担については,開戦直後にインド政庁が、海外に派兵されるインド軍の通常維持経費を負担する提案を行いました。本国議会でもこの申し出は歓迎され、1914年9月と11月に本国議会両院は,1858年インド統治改善法第55条の国制上の規定に基づく、インド財政からの戦費支払いを認める決議を相次いで行った。
この結果,インド財政から海外派兵インド軍の通常経費を負担する事が確定し、インドにとっては約5,100万ポンドの負担になった。その他。臨時経費としてインドからの軍事力移動経費が、また、インド北西国境や海岸部の防衛費、エンパイア・ルートの拠点であり、慣例的にインドがその経費を負担していたアデンでの作戦活動に伴う諸経費など、約7,800万ポンドがインド財政から支出された。それに加え、1917年初めにはインド立法参事会の同意を得た上で、インド政庁は特別に本国に1億ポンドの献金を行い、総額2億2,900万ポンドの支出がインド財政から出て行った。
■第一次世界大戦当時の同盟状況
- ロンドン条約(1839年 - Treaty of London) イギリスは第7条によりベルギー侵略の際に、その中立を守る。
- 二国同盟(1879年 - Dual Alliance Treaty ) ドイツ・オーストリア・ハンガリー帝国は、ロシア侵攻の際には相互に防衛。
以下、合わせて三国協商(Triple Entente)
- 露仏同盟(1892年 - Franco-Russia Military
Convention)一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行う。
- 英仏協商(1904年 - Entente Cordial)
- 英露協商(1905年 - Angro-Russian Convention)
分離独立
そこでイギリス領インドの最後の総督ルイス・マウントバッテンはインドを一体とする計画を諦め、1947年6月4日、イギリス領インド帝国を「インド」と「パキスタン」に分割することによる独立(インド高等文官、インド軍、インド鉄道の分割を含む)を、同年8月15日をもって行う案を声明。
また、独立後の統治の暫定的な枠組みをイギリス議会が制定した1935年インド統治法によって行うことも含まれていた。7月18日に施行された1947年インド独立法は、イギリス領インドをインドとパキスタンの2つの新しい国に分割し、それぞれの国の憲法(インド憲法およびパキスタン憲法)が施行されるまでイギリス連邦の自治領(ドミニオン。カナダやオーストラリアと同じ地位で、国際法上の独立国)とすることを定めた。
大問題となったのは、イスラム教徒が多数を占める地域がイギリス領インド帝国の東西に分かれて位置していることであった。
このため、西のパンジャーブ地方と東のベンガル地方はそれぞれインド・パキスタン両国に分割され、パンジャブ地方はパンジャーブ州 (パキスタン)とパンジャーブ州 (インド)(後にそこからさらにハリヤナ州やヒマーチャル・プラデシュ州、チャンディガルが分割される)に、ベンガル地方は東パキスタンと西ベンガル州に分割されることとなった。この地理的分割の作業は、それまでインドに縁がなかったロンドンの法廷弁護士(バリスター)シリル・ラドクリフ(Cyril Radcliffe)にゆだねられ、このため分割線(分離独立後はそのまま国境となる)はラドクリフ・ライン(Radcliffe Line)と呼ばれるようになった。なお、この分割線は独立当日まで公表されなかった。
両地方ではヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒(およびパンジャーブではシク教徒)はヒンドゥー教徒地域へ、それぞれ強制的な移動・流入による難民化を余儀なくされた。 このとき短期間での一千万人以上もの人口流入によって生じた大混乱のため、特にパンジャーブ地方では両教徒間に数え切れないほどの衝突と暴動、虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火し、一説によると死者数は100万人に達したとされる。
またインドになだれ込んだヒンドゥー教徒およびシク教徒難民、パキスタンになだれ込んだイスラム教徒難民は、デリー、ボンベイ、カルカッタ、カラチ、ラホール、ダッカといった両国の大都市に巨大なスラムを生み、両国に膨大な都市貧困層を生じさせて社会の不安定要因となった。
印パ戦争
経済開放後