レオニード・ザコーフスキー(Леонид МихайловичЗаковский、1894年~1938年8月29日)
ソ連の革命家、チェキスト。一等国家保安委員(1935年1月26日)。
本名は、ゲンリフ・シュトィビス(Генрих Эрнестович Штубис)。
クルランド県ルドバルジ集落出身。森番の息子。リバヴァ私立学校の2学年を卒業。銅・ブリキ工として働き、1912年から、リバヴァ-ニューヨーク線の見習い水夫、火夫として航海した。1913年、ロシア社会民主労働党に入党、ボリシェビキ。突然逮捕され、1914年、オロネッツ県に追放。1917年1月から、ペトログラードに居住し、動員を忌避した。1917年の事件の積極的参加者。1917年10月、水兵部隊と共に、電話局(ペトログラード)の奪取に参加。
1917年12月のチェーカー創設時から、当初は諜報員、間もなく、チェーカーの情報部長兼警備司令官となった。1918年3月、西部・南部・東部戦線のチェーカー幹部会特別全権代表。特殊任務支隊を指揮し、アストラハン、サラトフ、カザン等における蜂起の鎮圧を実施した。後に、カスピ・カフカーズ戦線特別課長、モスクワ・チェーカー通報班長。1921~25年、GPUポドリ及びオデッサ県課代表、ウクライナGPUモルだビア全権代表。1926年2月6日から、シベリアOGPU全権代表兼シベリア軍管区特別課長。1928年、スターリンのシベリア滞在時、彼の安全を保障した。1932年4月10日から、白ロシアOGPU全権代表兼白ロシア軍管区特別課長。1934年7月15日から、白ロシア・ソビエト社会主義共和国内務人民委員。
S.M.キーロフの暗殺後間もなく、1934年12月10日、NKVDレニングラード州局長に任命。1936年2月9日付全ロシア共産党(ボリシェビキ)中央委員会令において、「我が機関の任務は、全トロツキー・ジノヴィエフ地下組織の一人残さず除去することである」と指示された。G.E.ジノヴィエフの「措置」すら超える前例のないテロルが市内で展開された。1935年1月~3月の28日間だけで、11,072人がレニングラードから「押収」された。彼の指導の下、党・経済エリートの逮捕が行われ、後に銃殺された。同時、更に多数の「搾取階級」代表が逮捕された。
1937年6月10日、レニングラード州党会議に出席し、「我々は、敵を最後まで撃滅しなければならない。そして、我々は撃滅する」と語った。1937年から、ソ連最高会議代議員。1938年1月19日から、副内務人民委員兼NKVDモスクワ州局長。1938年2月17日、M.P.フリノフスキーの書斎で、ソビエト諜報部のボス、A.A.スルツキーを毒殺。
1938年3月28日、NKVDモスクワ州局長を解任され、4月16日、副内務人民委員を解任、4日後には、NKVDクイブイシェフ・ダム建設部長に降格された。1938年4月30日に逮捕。取調において、「ドイツ及びポーランド諜報部のエージェントであり、また、右派トロツキー組織にも加入した」と、有罪を認めたが、裁判では、自分の証言を否定した。1938年8月29日、死刑を言い渡される。銃殺。
1987年、「ザコーフスキー事件の審理のための根拠は存在しない」と認められた。
最終更新:2009年05月10日 22:54