張作霖元帥の「無賃乗車事件」

張作霖元帥の「無賃乗車事件」」("Литерное дело" маршала Чжан Цзолиня)


2003年6月27日付独立軍事評論
ドミトリー・プロホロフ


1920~1930年代の中国におけるソビエト諜報部の活動は、余り研究されていないテーマである。その間、武装白衛移民のプレゼンス、常に変化する政治情勢は、中国をソビエト特務機関の凝視の対象とした。OGPU外国課、労農赤軍情報局及びコミンテルンOMSは、中国で起こっている事件を注意深く追跡しただけではなく、積極的に干渉した。その事例となり得るのは、1928年6月4日の中国「軍閥」奉天派の長、張作霖元帥の暗殺だった。90年代初め、歴史家ドミトリー・ヴォルコゴノフが、レフ・トロツキー暗殺の組織者、ナウム・エイチンゴンについて語りつつ、張作霖と関連したエピソードが存在することを伝えるまで、長い間、彼の除去は日本特務機関によるものとされてきた。

青年時代、元帥は、満州で馬賊と呼ばれた胡匪だった。時と共に匪賊の1つの統率者となった張作霖は、1904~1905年の日露戦争時、日本人側で戦い、ロシア軍後方に対する襲撃のために、胡匪を利用した。戦後、張作霖(特に、未来の首相田中義一の庇護のおかげで)は、自分の部隊と共に中国正規軍に採用されて、急激な出世を遂げ、将官の階級と師団長職にまで栄達した。

1911年の清朝打倒は、張作霖の立場を更に大きく強化し、1916年、彼は、日本の秘密支援の下、満州を中国から独立したものと宣言しようと試みた。北京は、北の豊かな州を失うのを恐れて、張作霖を奉天督軍兼省長と東三省巡閲使に任命した。しかし、1917年、張作霖は、中央政府に従うのを最終的に止め、満州の事実上の統治者となったことにより、いわゆる「省軍閥」に変わった。

中国の「省軍閥」という独特な現象は、配置された部隊を指揮する督軍が、軍と文民権力を兼任するシステムを特徴とした。中央政府の弱体化の条件の下、督軍は、時代遅れの組織と過酷な規律を有し、装備は劣悪であるが、他の督軍に対する闘争には全く適した傭兵に頼りつつ、急速に自領土の絶対権力を有する支配者となった。1918年までに、中国では、国内で権力を要求するいくつかの主要集団が形成された。北部には張作霖を首班とする奉天派、段祺瑞を首班とする安徽派、中央には曹錕と呉佩孚を首班とする直隷派、南部では国民党党首孫文が主要な役割を演じていた。

張作霖勝利のチャンスは、かなり高かった。第1に、彼は日本の支援を受けていた。第2に、満州には、満州で最も発達した鉄道網があり、主として日本人が建設した重工業企業の大部分が存在し、第3に、彼はリーダーに必要な資質を有していた。元帥にいかなる共感も感じなかったロシア移民P.バラクシンは、彼をこう評した。

「天賦の知性、巧妙さ、政治的機敏さの外、この表現を当時の中国の典型的統治者に適用できるとすれば、彼には多くの個人的魅力があった。張作霖は、常に自分に利益をもたらし、自分の権力を強化することを意図して、自分の政治的賭けを行った」。

20年代初め、張作霖は、孫文と同盟を締結し、直隷派に対する戦争を開始した。この戦争での敗北と国際舞台における日本の脆弱さは、張作霖をして、軍事・経済ポテンシャルの増強と相対的な経済的独立の達成を目的とした「満州再編」のスローガンを提出させた。彼の満州の経済発展プログラムは、北東部の州の自然資源の積極的利用、空白地の開拓、工業と輸送機関の発展、教育システムの改善を規定した。張作霖と1923年2月に広東に戻った孫文は、新たな同盟を模索し始めた。同盟者となり得たのは、ソビエト連邦であり、1923年春、孫文は、蒋介石を団長とする代表団をモスクワに派遣した。

1923年6月、中国共産党第3回会議は、政治及び組織的独自性を保持した下で、国民党に合流する決定を採択した。1924年1月26日、孫文と駐中ソビエト代表アドルフ・ヨッフェにより、中ソ協定が署名された。北京の中央政府を支配していた呉佩孚も、モスクワと孫文の接近に自分の権力に対する危険を見て、ソ連との関係調停に着手した。しかしながら、クレムリンは、既に独自の選択を行っており、これには国共合作が少なからず影響していた。1924年9月20日、ソ連は、張作霖と東清鉄道に関する協定を締結し、それに従い、鉄道は中ソの共同管理下に移された。既に9月末、達成された合意に従い、ソ連は、1,000万元の借款を孫文政府に提供し、編成中の中国国民革命軍のために武器を納入し始めた。その外、1924年10月、V.ブリュヘルを団長とする最初のソビエト軍事顧問団が広州に到着した。

「省軍閥」間の絶え間ない権力闘争の過程において、張作霖へのクレムリンの態度は変わり始めた。特に、1926年1月、東清鉄道において、奉天軍の鉄道輸送費問題に関して、緊迫した紛争が発生した。1925年末までに、輸送費の債務は1,400万ルーブルに達し、東清鉄道の管理者A.イワノフは、軍部隊と貨物の無償輸送を禁じた。1926年1月、中国軍司令部は、拒否した場合銃殺すると鉄道乗務員を脅しつつ、勝手に列車を運行し始めた。1月22日、イワノフが逮捕されことは、事実上、張作霖による東清鉄道の奪取を意味した。

ソビエト指導部は、日本の著名人層は張作霖と他の緩衝将軍との交代に同意しているが、ソ連は「正常関係の確立の条件の下では、張作霖と他者の交代の根拠」を見出していないと示唆して、張作霖に働きかけようと試みた。

しかしながら、張作霖と合意に達することはできなかった。1926年6月、彼は、今後の「赤」への共同対策計画の審議のため、北京で呉佩孚と会見し、1926年8月21日、東清鉄道管理部に次の要求を提示した。東清鉄道の全裁判権を奉天当局に引き渡すこと、鉄道教育課を閉鎖すること。そして、ソビエト側の抗議にも拘らず、9月、彼は自分の脅迫を実行した。

張作霖がソ連に対して行った政策、並びにモスクワの同盟者の軍事的失敗は、クレムリンにおいて強情な元帥を物理的に除去する決定をもたらした。この作戦は、労農赤軍情報局職員、経験豊富な破壊工作員であるフリストフォル・サルヌィンに委任された。作戦計画を立案するに当たって、サルヌィンは、レオニード・ブルラコフを行動させた。

スターリンが立案した計画は、奉天の宮殿での強力な地雷の爆発による張作霖の除去を予定していた。宮殿に地雷を持ち込み、元帥の部屋にそれを仕掛け、時限装置を夜間にセットすることは、9月末にそこでコンサートを行うオーケストラ内のサルヌィンのエージェントが行うはずだった。地雷を満州に持ち込むことは、ブルラコフに委任された。

1926年9月24日、イワン・ヤコヴレヴィッチ・シューギン名義の文書を持ったブルラコフは、ポグラニーチナヤ鉄道駅に到着し、東清鉄道警察に勤務していたサルヌィンのエージェント、メドヴェージェフに地雷を手渡すはずだった。しかし、メドヴェージェフは、既に張作霖の特務機関の監視下にあった。乗客の1人と彼の接触を認めた後、警察官は、客車を捜索して、地雷を発見し、その後、ブルラコフ、メドヴェージェフ及び彼の補佐官であるヴラセンコは逮捕された。

ソビエト公式当局は、ブルラコフを「白衛匪賊」と呼び、彼と直ちに絶縁し、張作霖暗殺の準備は移民のせいだとされたが、これを信じる者は少なかった。1927年夏、ハルビン裁判所は、暗殺関係者に懲役を言い渡し、ブルラコフは、かせをはめられて、2年以上、独房に収監された。ブルラコフ、メドヴェージェフ及びヴラセンコは、1930年4月14日になって初めて釈放され、東清鉄道での戦闘時に捕虜となった中国人将校5人と交換された。

暗殺失敗後、モスクワと張作霖の関係は、露骨に敵対性を帯びた。1926年11月、彼はСунь Чуаньфан(孫伝芳?)将軍指揮下の国民革命軍と対決し、これをЦзюцзян(?)-南京地区で撃破した。1926年12月1日、全北部の「軍閥」の長、「安国軍」総司令となり、中国共産党を批判する「反共マニフェスト」を発表した。後に、特に「ボリシェビズムは、毒蛇、猛獣のように進んでいる・・・。我々の希望は、旱魃後の雨のように到来し、我々の生活を救う安国軍だ」と書かれたビラが、中国北東部の住民中に出回り始めた。

当時、張作霖は、蒋介石を積極的に支持し始めた。蒋介石は、1926年3月に人民革命軍部隊の隊列から共産主義者を追放して、ソ連との外交関係を断絶し、1927年4月に上海の共産主義者の蜂起を鎮圧し、南京に胡漢民の新しい国民党右派政府(武漢の汪兆銘を首班とする国民党左派及び共産政府への対抗)を創設した後、ソビエト軍事及び政治顧問は、急いで中国を離れざるを得なかった。1927年2月、張作霖は、「人民統治の発展」と「赤い過激派」の除去を組み合わせた新しい政治プラットフォームを発表し、6月25日、蒋介石は電信を送り、「赤」への共同対策のために同盟を結ぶ用意があることを表明した。この際、彼は、自らを孫文の旧友と呼び、自分の行動を彼の意思の実行と評した。電信では、彼が「赤」に反対しているだけで、特に赤に対して戦争を行っているとも語られていた。

1927年初め、武漢政府軍は、次期攻勢を開始し、当初、北方攻勢は成功した。回答として、張作霖は、満州での蜂起を懸念して、ソビエト代表団に対する一連の行為を行った。3月11日、ハルビン通商代表部の捜索が行われ、3月16日、ソビエトの株式会社「トランスポルト」のハルビン事務所が閉鎖された。3月31日、鉄道労働組合議長ステパネンコ、教官コソラポフ及び東清鉄道ハルビン電信事務所主任ヴィリドグルベの家宅捜索が行われ、4月6日、駐北京ソビエト領事館に対する襲撃が実行された。駐在武官の部屋の捜索中、警察は、暗号、中国共産党のエージェント及び武器納入のリスト、諜報業務への援助提供に関する中国共産党への指示書、並びに中国と西側諸国間の紛争発展を促進するためには、「強盗及び大量殺人を含めて、いかなる措置も避けるべきではない」と書かれたモスクワからの指令書を押収した。当時、北京で中国共産主義者の大量逮捕が行われており、中国共産党創設者の1人、李大釗を含む25人は、4月28日に銃殺された。

1927年2月28日、張作霖の軍が南京近郊でソビエトの汽船「パーミャチ・イリイッチャ」を拿捕し、外交伝書使3人とソビエト政治顧問の妻ファイナ・ボロディナを逮捕した以上なおさらであった。この後、張作霖は、南北間の和平締結を得ることを目的にして、M.ボロディンに働きかけようと試みた。5月に取引が失敗した時、F.ボロディナは、北京の刑務所に移され、6月、武器と扇動文献の輸送の嫌疑で裁判にかけられた。しかしながら、フー裁判官を買収することに成功した(彼には、20万ドルの賄賂が渡された。)後、彼は7月12日に無罪判決を言い渡し、直ちに逃亡した。釈放されたF.ボロディナは、暫くの間、北京に潜伏した後、ラクダで新疆を経由してソ連に呼び戻された。

満州においてソビエト市民及び施設に対する挑発を行いつつ、張作霖は、中国北部に住み着いた白衛移民組織のリーダーと胡匪の頭目にソビエト領土に対する武装攻撃を積極的に促した。1927~1928年に渡り、OGPU国境警備・軍総局の要覧に従えば、中ソ国境において、白衛軍部隊と胡匪グループは、90回以上、ソビエト領内に侵入した。この際、国境警備隊により、約20個の白衛軍支隊と匪賊グループが撃滅され、160人以上が殺害され、100人以上が負傷した。

その間、張作霖の立場は、非常に複雑なままであり続けた。1927年末~1928年初め、彼は、当初は武漢の人民解放軍、後に蒋介石の軍と戦わざるを得なかった。それ故、1928年、張作霖は、息子の張学良を通して、日本人との交渉を始め、その支援の下、中国北東部に独立満州共和国を建国しようと試みた。東京では、張作霖の構想に異議はなかったが、共産主義運動に対抗し、満州北部におけるソ連の利益に対してアグレッシブな政策を採ることを義務付ける等、日本の庇護下での緩衝国家「独立満州共和国」の建国について、一連の条件を提示した。

しかしながら、日本人と張作霖の交渉については、間もなく、OGPU外国課ハルビン支局長ナウム・エイチンゴンの知るところとなり、直ちにモスクワに伝えられた。クレムリンは、この交渉にソ連極東国境への直接の脅威を見て、張作霖を除去する決定が再び採択された。この作戦の実施は、エイチンゴンと1927年から在上海非合法支局を指導していたサルヌィンに委任された。作戦へのサルヌィンの参加は、彼が満州にロシア移民、中国人を問わず、多数のエージェントを有しており、全ての疑いが日本人にかかるよう、除去を行うことができることが理由となった。

1928年6月4日夜、張作霖の特別列車は、北京から奉天に向かっていた。列車が奉天郊外に近付いた時、張作霖の客車の下で、強い爆発が起き、その結果、彼は胸に致死傷を負い、数時間後に奉天の病院で死亡した。その外、爆発時、呉俊陞将軍も含めて更に17人が死亡した。中国兵ではなく、日本兵により警備されていた北京-奉天と南満州鉄道の分岐点である陸橋に地雷が仕掛けられていた以上、満州に対するコントロールを失うことを恐れて、アメリカ人顧問スワインヘッドを通したワシントンと張作霖の接触に不満だった日本人により暗殺が組織されたと、全員が誤解した。電気雷管を動作させた日本人将校の名前、東宮大尉すら挙げられた。

それにも拘らず、張作霖の除去は、ソ連に望ましい結果をもたらさなかった。元帥の後継者、息子の張学良は、1929年1月、蒋介石との同盟に入り、南京政府を承認し、8月、ソ連との武装衝突の準備を開始し、10~11月には、東清鉄道地区で起こった。張作霖の死後、中国北部に対する支配を失った日本は、1931年に満州を占領し、その領土に傀儡国家、満州国を建国することにより、ソ連国境自体に関東軍を展開する機会を得た以上なおさらである。

長い間、日本人による張作霖除去に関する説は、誰も異議を唱えなかった。1946~1948年、日本の戦争犯罪者に対する東京国際軍事裁判において、この説は、戦時中陸軍省兵務局長だった田中隆吉将軍の証言での確認すら得た以上なおさらである。張作霖の死について語りつつ、「張作霖暗殺は、関東軍の上級参謀将校河本大佐により計画された・・・。目的は、張作霖を取り除き、張学良を首班とする新国家を樹立することだった・・・。その結果、1928年6月4日、北京から来た列車が爆破された・・・。ダイナマイトを使用したこの暗殺には、朝鮮から奉天に到着した第20工兵連隊の将兵の部隊が参加し、その中には、オザキ大尉がいた」と彼は請け負った。

しかしながら、40年代末既に、日本人は、元帥除去のためのいかなる理由もなかったと主張して、張作霖暗殺への関与を厳格に否定していた。田中隆吉将軍が、ソビエトの捕虜となり、ソ連国家保安省の証人として徴募され、東京裁判でソビエト側が指図した証言を証言することにより、被告から証人に移されたことが明らかになった以上なおさらである。90年代初め、上記の通り、最も閉ざされたソビエトの公文書へのアクセスを有したD.ヴォルコゴノフは、ソビエト特務機関の張作霖暗殺への関与を認め、その後、この問題にピリオドを打つことができたはずだ。イギリスの百科事典(それに引き続き、西側の一連の他の便覧も)が90年代既に、張作霖の項目において、彼の暗殺を日本の満州占領を誘発することを期待した「日本の過激派」の責任に負わせたことは興味深い。
最終更新:2009年06月06日 09:28
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