久夛良木健(ソニー)

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    氏名        所属        職種        社会人経験年数   
  久夛良木健     ソニー  シニアテクノロジーアドバイザー  38年 


経歴・業務内容

東京都出身。電気通信大学電気通信学部電子工学科卒業後、ソニーに入社。ホームビデオ事業本部コンピュータ・エンターテイメント事業準備室室長、SCE取締役開発部長、SCE社長、ソニー執行役副社長兼ホーム・ゲーム・半導体担当。ソニーCOO(最高執行責任者)、SCE代表取締役会長兼CEO。そのほか、角川グループHDや楽天の社外取締役、立命館大学大学院客員教授、ノジマ取締役、サイバーアイ・エンタテインメント社長などを務めた。2004年に雑誌『TIME』が公表した「世界で最も影響ある100人」に選ばれた。

やりがい

「初めて就職を考えた時、意中の企業はソニーしかなかった。学閥・閨閥(けいばつ)がなさそうだし、技術主導で、今でいうベンチャービジネスだった。商売、ビジネス志向の僕は、ソニーなら自分なりのキャリアを積むことができると感じました(「人間発見」1999/07/27日経新聞夕刊より)」
自分のやりたいことに挑戦できる環境にやりがいを感じていたことがうかがえる。

仕事への姿勢/考え方

「300万円するワークステーションの性能を3万円のゲーム機にする!
ソニーのワークステーションNEWSに載っているCPU、R3000をゲーム機に載せる」
など、奇想天外で大胆な発想を持つ。
また、「五、六年後「プレステ3」を出すころでしょうね。僕は最大のライバルは携帯電話だと考えています。人間の最大の娯楽はコミュニケーションだからです。そのころは携帯電話の形態もかなり変わっているでしょう。挑戦のしがいがありますよ(「人間発見」1999/07/26日経新聞夕刊より)」
など、現在のスマートフォンを1999年の時点で暗示しており、驚異的な予見能力を併せ持つ。

転機

1991年夏の米国シカゴのエレクトロニクス・ショーでソニーが任天堂と提携したゲーム機を発表した翌日、任天堂がそれを否定し、フィリップスと開発することを発表して大混乱となった。この事件はソニーにとっても久多良木氏にとっても非常に大きな教訓となった。ソニー内部ではゲーム機事業からの撤退論も強かったが、久多良木氏はここでくじけることなく強引に経営トップに独自フォーマットでのゲーム機事業をみとめさせたのだった。1992年の経営会議でプレイステーション開発を決定し、翌1993年ソニーは家庭用ゲーム機に進出することを公式に発表した。1993年11月にはそのための実行会社としてソニー・コンピュータエンタテインメントが設立され、久多良木氏は取締役開発部長になる。そして1994年12月3日プレイステーションは発売された。プレステは名主任天堂やライバルのセガを追い越して成功した。1999年時点で5500万台の販売実績があるそうである。



感想

ゲーム関係の話題が好きだったこともあり、PlayStationの生みの親として有名な久夛良木健氏を取り上げました。以前から氏のことについては興味があり、今回いい機会でしたので色々と調べていたところ、やはり驚いたのは氏の「将来を見据える能力」です。普通ではありえないような発想で大変な構想をたてて、それを実現してしまう。並大抵のことではありません。PlayStation3の初期の躓きの責任をとる形でゲーム事業からは一線を引いてしまいましたが、最近の記事で、スマートフォンなどで急速に形成される「ビッグデータ」を利用したクラウドコンピューティングを更に進化させた情報技術と社会のあり方について論じたものがあり、氏の真骨頂は未だいかんなく発揮されていることがうかがえました。
 久夛良木健氏のように数々の成果を達成できる人間というのは希少ですが、こういった人物像を見ることは自分自身の刺激になるし、そうすることで自分を奮い立たせられたらと考えることが出来ました。


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最終更新:2023年11月17日 00:37
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