氏名 |
所属 |
職種 |
社会人経験年数 |
藤沢武夫 |
本田技研工業 |
実業家、経営者 |
50年 |
経歴
明治43(1910)年、東京生まれ。京華中学卒業後、日本機工研究所を設立。戦後、本田宗一郎を知り、昭和24(1949)年、本田技研工業に常務として入社。経営を担当し、技術部門を担った本田と共に“世界のホンダ”の基盤を作る。39年副社長、48年には社長の本田とともに第一線から退き取締役最高顧問となり、58年取締役を引退。この間52年4月には藍綬褒章を受章。63年12月30日歿。享年78。従四位勲三等旭日章を受章。「経営に終わりはない」より
業務内容
やりがい
仕事への姿勢/考え方
「ホンダの社長は、技術畑出身であるべきだ」「経営者とは、一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ」との言葉を残す。常に宗一郎をたて、自身は沈思黙考、20年先まで見越した計画と組織作りを。双方の関係は良好で、お互いに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている。また、「白鶴高く翔びて群を追わず」という言葉を好んだ。
転機
1949年8月に竹島弘の引き合わせで本田宗一郎と出会う。同年の10月に製材業を引き払い、本田技研の常務に就任。
私生活
今後の目標
感想①
本田技研工業というと、創始者の本田宗一郎氏がカリスマ的扱いをされているけれど、影でこの藤沢武夫氏という人物が本田技研工業を支えていたのだなと思う。つい、でしゃばりたくなるものだが、そこをあえてでしゃばらず相手をたてる役に徹することは中々出来ないことだろう。それは藤沢氏が本田氏を技術者として信用していた証からだと思う。そして本田氏もまた藤沢氏を経営者として信用していたのだろう。お互いを尊敬しあうことが、良い会社を作る秘訣なのかもしれない。
感想②
記事にもあるように、本田技研工業と言えば創業者である本田宗一郎の名前が広く知られており取り上げられることも多い。しかし、この藤沢武夫がいたからこそ、本田技研工業は日本を代表し世界に進出していく企業になったのだということが分かった。本田宗一郎から本田技研の経営を任されていたのは藤沢武夫であり、20年先を見越した計画と組織作りを行ったことでこれまでの本田技研の発展がある。企業の経営を考える上で長い目でものを見て、先々のことを考え計画することの重要性を感じた。いくらアイデアや技術があっても、経営がきちんとされていなければ実現できるものではない。経営を藤沢武夫が担い、技術を本田宗一郎が担うことで本田技研は完成し成長していく。何も知らない大学生が簡単に言えることではないと思うが、成功する企業に必要なものをこの2人は持っていたのだと思う。そして2人がそれぞれできること・やるべきことを理解し、実行してきたことで今のホンダに至るのだろうと思った。
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最終更新:2017年02月26日 17:52