氏名 |
所属 |
職種 |
社会人経験年数 |
松岡修造 |
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元プロテニスプレイヤー 現日本テニス協会理事 タレント |
年 |
経歴
8歳からテニスを始める。
慶応義塾高等学校から柳川高校へ転入、厳しいテニス部で自分を磨き、アメリカへ渡る。
アメリカで大学に通いながらテニスを続ける考えであったが、プロになることを強く勧められ、プロの道へ入る。
ソウルオリンピックアジア予選にて強豪をストレートで次々と破り、オリンピック初出場を果たす。
セイコースーパーテニスという大会にて大きな活躍を果たし1年でシングルスランク252位から82位まで上昇、年間top100入りを果たし、世界に通用する日本人プレイヤーとして注目を浴びる。
1989年のBP国際選手権にて自身初となるシングルツアー準優勝を果たす。
1992年の韓国オープン、およびイギリス・クイーンズクラブ選手権の活躍によりシングルスランク46位を記録。
1995年ウィンブルドンにて日本男子62年ぶりのベスト8入りを果たす。
1998年に現役を引退。
引退後はジャパントーナメントのトーナメントアドバイザーやスポーツコメンテーター、食事レポーターなど多岐に渡って活躍を果たしている。
業務内容
やりがい
彼にとってテニスとは人生そのものであり、またぬるま湯に浸かっている彼自身を大きく変えるきっかけにもなったものである。
仕事への姿勢/考え方
彼の考えは独特で、とにかく前向きな姿勢で取り組むことから「熱い男」の代名詞になりつつある。テニスの試合中には、折れそうな自分を正すために常に日本語で暗示をかけ続ける一面を見せあきらめない姿勢を見せた。またソチオリンピックにおいてカメラの回っている間はいつもの熱いキャラであるが、カメラが止まると長期のロケの疲労感をあらわにするなど、極力弱みを見せない思いが表れている。
私生活
転機
まず慶応高校から柳川高校へ転入し、身をおく環境を自ら厳しくしたことで、考え方の大きな変化を引き起こした。
そしてアメリカへ渡り、プロに行く道を選ぶことで、彼の人生を大きく変えることとなった。
今後の目標
頑張る周りの人たちを応援すること。これが彼の生きがいになっている。頑張ってきた彼だからこそその辛さが分かり、応援したいという思いからきている。
参考URL
感想①
今回松岡修造さんについて改めて調べたところ、私が知らなかった具体的な経歴を知ることができた。私が生まれてすぐ修造さんはプロを引退しているので彼のプレーをテレビで見たことはないが、とても興味がある。私自身テニスをやっていたのだが、強くなりたくて彼の考え方やテニスでの試合の運び方などを顧問から教わることもあるくらいだったので、かなり研ぎ澄まされた感覚と優秀な身体を持ち合わせた人だったのだと思った。
今では熱いキャラから一部ではオモシロネタとして大いに扱われているので、あまりテニスのすごい人という感じは薄れている印象ではある。
彼が外国に行くと日本に大寒波が訪れ、彼が帰ってくると急に暖かくなる現象が起こっているわけだが、果たして偶然なのかそれとも本当に修造さんの力なのかが気になるところである。
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最終更新:2017年04月30日 14:59