第10章 平和の時


 尾川龍成二士は宿営用天幕に寄り掛かり、ぼんやりと青い空を見上げていた。
 彼は何となしに、連隊に配属された後の激しい訓練の日々を思い出していた。
 横須賀市武山の教育隊で新隊員前期教育課程を修了した尾川は、発足したばかりの第1危機即応連隊に行ってもらいたいと教育隊長から言われた時、全くそれが信じられなかった。
 なぜ自分なのか、何かの間違いではないのかと慌てながら尋ねて返ってきた答えは、「君は射撃成績が優秀じゃないか」というものだった。
 確かに徒手格闘や持久走などでは、入隊後からずっと仲間に水を空けられていたが、小銃射撃だけは不思議とよくできていた。尾川はそれがきっかけで銃と射撃が好きになったのである。
 なあに、第1空挺団や西部方面普通科連隊のようなシゴキやキツ過ぎる訓練はないし、射撃訓練も存分にできるよという教育隊長の言葉を信じ、結局は自ら志願をして、舞鶴の駐屯地に赴任した。
 しかし、間もなく彼は厳しい現実と直面することになった。前期教育が遊びのように思えた、過酷な後期訓練の日々。地獄の責め苦のようなその内容。
 9ミリ拳銃から12.7ミリ重機関銃まで、あらゆる銃器を延々と撃たされ、耐えがたい苦痛となった射撃訓練。重装備での障害持久走訓練。手足を縛られ、プールに突き落とされる水泳訓練。寸止めなしの徒手格闘訓練。ヘリで素早く展開もしくは離脱する訓練。就寝中に予告なく叩き起こされ、そのまま実施される夜間戦闘訓練。
 そんな殺伐とした日々の中にあるささやかな楽しみは、一般社会では決して味わうことのできないものであった。
 夕食後に売店で買い食いした、アンパンやドーナツのおいしさ。わずかな自由時間に、ベッドやフットロッカーに座って小説や漫画本を読む楽しさ。月に2回しかない外出日のありがたさ。駐屯地の外で時間を過ごす解放感。消灯ラッパと共に訪れる、ベッドに横たわる安堵感。
 元の世界で過ごしてきた苦楽の日々が、彼の脳裏に浮かんでは消えた。
「おい尾川、暇か?」
「わ」
 眼前に突如として小野寺士長の丸顔が現れ、尾川は思わず尻で後ずさった。
「そう辛気臭い顔すんなよ。暇だったらよ、一緒に炊事班の当番やろうぜ。新しい食材の調理法を試すらしんだ」
 専門のスタッフが食事を作る海自や空自と異なり、陸自では一般隊員が持ち回りで糧食班に出向し、調理師や栄養士の指導の下で調理をするシステムを採っている。
「何です? その新しい食材って」
「恐竜の肉らしいぜ」

 パスキル帝国内府のミジャータ・ミグドットが練兵場に到着したのは、昼過ぎだった。
 衛兵からそう知らされた丸ノ内は安達原を連れ、指導兵用の兵舎に向かった。
 一時は研究室内の崩落事故で茫然自失としていた安達原であったが、すでに普段通りの好奇心と探求心に支えられた活気を取り戻していた。
 彼らは、応接室のような趣のある部屋に案内された。
 室内で待っていたミジャータに対し、丸ノ内と安達原は脱帽して敬礼した。
「ようこそいらっしゃいました。改めて、陸上部隊総指揮官の丸ノ内陽であります」
「同じく、艦隊副司令の安達原康行です。お忙しい中をわざわざお越しいただき、光栄であります」
 ミジャータはそれに握手で応じた。
 丸ノ内はふと、ミジャータの陶磁器を思わせる白い肌に気付いた。「たんご」艦内で初めて会った時には気にも留めなかったことだが、目の毒だなと理性が認識した。
(しかし、彼女はまだ20代後半……いや、30代前半だとしても、この歳で皇帝に次ぐ地位に立っているとは……)
 内府とはいわゆる内大臣のことで、君主を補佐し、宮中の政務を担う役職である。日本では明治時代に大日本帝国憲法下で設置され、敗戦まで存続していた。
 少なくとも彼女は、相応以上の苦難と努力を経てきたということだ。冷たく鋭い目付きと匂い立つような艶は、その表れに違いないと丸ノ内は思った。
「あなた方の宿営地を拝見しましたが、実によくできている。ただ住むだけなら、当分の間は何の不自由もないことでしょう」
 ミジャータの言葉から、丸ノ内は彼女の関心が自衛隊の戦力に対しても向けられていることを感じ取った。だが、無理はないとも思った。自らを守るために強い力を欲するのは人間の本能であり、自然の真理だからだ。この国が隣国の脅威に直面している以上、それはさらに至極当然と言えよう。
「申し出にあった物資の件ですが、必要な分は確保できました。明日には届くよう手配いたします。ただ、食料はそちらの将兵の口に合うかどうか、試してからの方がよいと思いますが」
「それは承知しております。まず少数を搬入し、十分な評価をした上で決定します」
「それは結構。ところで、ここからが本題です。ネワディン王国に動きが見られます」
「何という、ことだ……」
 丸ノ内は暗澹たる気分になった。すでに安達原の話で、ネワディン王国がパスキル帝国を虎視眈々と狙っていることは知っている。
「彼らは大地竜帝国に対抗するためとして、以前から我が国に軍を駐留させることを要求しておりました。そこで先日……ちょうどあなた方がパスキリーに入港した翌日ですが、駐留そのものはまだ許可できないが、可能な限り協力する旨を伝えました。ところが今朝になって、国境付近に兵力が集結しつつあるとの情報が入ってきました。これが我が国への侵攻の前兆なのか、あるいは進駐の督促を意味するのかは不明です」
「それで、どのような対応を?」
 安達原が訊いた。
「皇帝陛下は万一を考慮して、警戒するよう護国大臣にお命じになりました。そこでお訊きしたい」
「何でしょう」
「あなた方自衛隊は、我が国が王国か大地竜帝国の侵略を受けた際にはどうするのですか?」
 今まで避けてきた問題が、鋭い刃となって喉元に突き付けられた瞬間だった。
 一切のごまかしを許さず、こちらの腹の内を見透かさんと容赦なく斬り込んでくる彼女の視線に、丸ノ内はぞっとした。
「無論、軍も自国防衛を是が非でも完遂する意志を持っています。しかしながら、兵力差はいかんともしがたい。一方、あなた方の守るべき祖国は今、この世界にはない。だが頼るべき国として、我が国があります」
 顔をわずかにうつむけ、手で頭を押さえてから、丸ノ内は右側に座る安達原を見た。厳しい表情こそ丸ノ内と変わりないが、そこに焦燥は見当たらなかった。こいつは何を考えているのかとの思いが、丸ノ内を一層不安にさせた。
「つまり、お国が侵略を受ければ我々にも共に戦って欲しい、ということですか?」
 ここでいくら回り道をしても仕方ないと割り切った丸ノ内は、単刀直入に切り出した。が、「否定はしません」という曖昧な答えに、肩透かしを食わされた気分になった。
「強制するつもりは毛頭ありません。しかし、この国が彼らの手に落ちた場合、あなた方だけが紳士的な扱いをされるとは限りませんからね」
 胃腸がキリキリと痛み出し、丸ノ内は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。背中を伝わる冷や汗の不快な感触が、それに拍車を掛けた。
 ふ、と彼女の赤い唇が自嘲的に歪むのが見えた。
「は?」
「いえ、失礼。王国の俗物将軍と大して変わらぬ物言いをしてしまったのが、自分でもおかしくてね」
「は……」
 丸ノ内は苦笑しようとしたが、顔の筋肉が思うように動かなかった。
 ミジャータが立ち上がったのを見て、丸ノ内と安達原もそれにならった。
「あなた方の力がどれほどのものなのか、我々も全てを知ったわけではありません。いずれにせよ、決めるのは誰ならぬあなた方自身です。それをお忘れなく」
 ミジャータは退出し、丸ノ内と安達原はその背中に敬礼を送った。
「お前、一緒に来たがっていた割には、肝心の部分では喋らなかったな。なぜだ?」
「丸ノ内」
「何だ?」
「研究室の片付けを手伝え」
 安達原の目に小さな炎が宿ったのを、丸ノ内は見た。

 小野寺と尾川は、連隊本部の糧食班が使用しているテントに入ると、敬礼の代わりに会釈した。
「小野寺久、普通科大隊より出向いたしました」
「同じく尾川龍成、参りました」
 糧食班長は、いかにも調理の鬼という感じのする准尉だった。
 彼は2人に「御苦労」と言い、白いエプロンとキャップを太い腕でずいと突き出した。
「これを着てから、手をクレゾールで洗え」
「こんなの、駐屯地の厨房でしか着ないかと思った」
 尾川はエプロンに腕を通しながら、独り言を吐いた。
「バカを言え。厨房じゃ、調理服とゴム長までが必須だったろうが。野外でも可能な限り、清潔な服装で料理せねばならんのだ」
「は、はいっ!」
 班長の固い拳骨にゴンと後頭部を小突かれ、尾川は反射的に大声を返した。
「かわいいメイドさん隊員が自衛隊にもいたならなぁ」
「どうするんスか? そんなの」
「バーカ、糧食班で毎日毎食おいしい料理を作ってもらうに決まってるだろうが。あ、メイドさんの普通科隊員ってのもいいな。こう、メイド服の上から9ミリ機関拳銃ぶら下げてさ。いや、いっそのこと戦車隊員もメイド服で……」
 趣味の世界にトリップしつつある小野寺を、尾川は引いた目で見ざるを得なかった。
「おい……さっきから何をブツブツ言っとる?」
 小野寺は班長のドスの効いた声で我に返り、即座に「何でもないであります!」と叫んだ。この古参准尉にオタク趣味を熱く語ってみたところで、雷が落ちるのは目に見えているからだ。
 2人が手を洗い終えると、班長は突然「気を付け! 傾注!」と号令した。
「もはや言うまでもないが、恐竜の肉が我々の食用に適するかをこれから調べる。お前達と俺は、恐竜を食した最初の自衛官となるのだ。これは今後の隊員全体の食生活に関わる、重大かつ崇高な任務であることを忘れるな」
 本気で言っているのか、あるいはただ偉大なことを言ってみたいだけなのか、2人には想像できかねたが、それでも姿勢を正し「はっ」と声を揃えて返事した。
「よし。これが問題のブツだ」
 班長は2つの皿を取り出し、テーブルの上に置いた。
「ついさっき、パスキル帝国軍の炊事兵が持ってきてくれた新品だ。ニワトリ大の小型肉食恐竜と大型草食恐竜のものらしい。他にも種類は色々あるそうだが、ひとまずこの2種類で試すことにした」
 美しいピンク色の肉塊と、赤い血のしたたる大きな肉塊が、それぞれ皿に載っていた。
「これで適当に何か作ってみろ。他にも取り寄せた食材があるから、一緒に使っても構わん。恥ずかしくない程度には仕上げろよ」
「班長……いや、旦那は手伝ってくれないのでありますか?」
 尾川が訊いた。
「ばあか。俺は夕食の仕込みをしなきゃならんの。じゃ、任せたぞ。できたら呼べ」
 そう言うと、班長は出ていってしまった。
「おい、どうする?」
「ニワトリ大の恐竜って言ってましたから、チキンみたいな感じで料理すればいいんじゃないですか。そっちの草食恐竜のは、牛肉をイメージして……」
「おお、そうだな。何だかそれっぽいし。とにかくやってみようぜ」
「小野寺さん、こっちに半分に割ったココナッツがありますよ」
「よし、使っちまおう。こいつの果汁と果肉を和えて、蒸し煮にしたらどうだ?」
「いいですね、それ。タイ料理みたいで。小野寺さんは、草食恐竜の方をお願いします」
「分かった。味がまだ判らんから、とにかく焼いてみるか。それで食ってみてマズけりゃ、また何か加えりゃいい」
 最初の不安な気分をいずこかへと流し去り、小野寺と尾川は未知の食材に挑み始めた。

 真河潔三曹は、少年騎士隊員らがダチョウ恐竜の曲乗りをしているのを見ていた。
 運動時間が終わり、手ぶらでテントに戻る気がせず、ただ何となく練兵場をうろついていたのだ。本音からすれば、あのレンスと名乗った少女と会えるかもしれないと、淡い期待を抱いていたのだが。
「何か用かい?」
 黒い髪を後ろにまとめた少年騎士が、真河に気付いて声を掛けてきた。
「あ、いや。あんたら、近衛騎士団の少年騎士隊だろ?」
「そうだよ。あたいはアントワ・アーデン。いい名だろ」
「男じゃなくて女かよ……」
 彼はようやく気付いた。性差別的見地からすれば、端正かつ精悍な容姿は言うに及ばず、口調にも女らしさは感じられなかった。
「あー? 何か言ったか?」
「そのあの……レンス・テラスって隊員はいるか?」
「ああ、今はちょいといないねえ。そうそう、あんた確かサナガワって人だろ。この前、レンスが助けてもらったって言ってた。探してこようか?」
「いや、いないならいいんだ。ところで、その恐竜は?」
 恐竜に特別な興味があるわけではなかったが、一言質問をしただけで帰るというのは、何となく失礼だと真河は考えていた。
「ああ、オルニトミムスかい。こいつは人が乗るのに最適な恐竜だよ。足は速いし、粘り強い。それに何よりも、すぐ乗り手に馴れてくれる」
「乗り手は自分の恐竜を一から十まで調教するのか?」
「ああ。でもほとんどの場合は、卵から面倒を見るんだ。こいつらは、生まれて初めて見た者に愛着を覚える性質があるからね。卵から出て大人になるまでの1年間、みっちり仕込むってわけさ」
「ふうん……」
 真河は刷り込みという言葉を思い出した。
「乗ってみるかい?」
「振り落とされたりしないか?」
「大丈夫だよ。怒らせない限りな」
 アントワはにんまりと満面の笑みを浮かべた。

 小野寺と尾川は料理を2時間ほどで完成させ、糧食班長を呼んだ。
「おお、できたか」
「はい。草食恐竜は塩焼きにしてみたんですが、肉の臭みを消すためにトマトソースで煮込みました。肉食恐竜はココナッツの蒸し煮に」
 小野寺が説明する傍ら、尾川は盛り付けを済ませた。
「なかなかやるじゃねえか。よし、さっそく食ってみよう」
「いただきます」
 小野寺と尾川は、さっそく目の前の目標に攻撃を開始した。昼食は食べていないので、胃袋は空いている。班長も、仕込みの合間に小皿料理を食べただけである。
「うん、うめえな」
「はい。なあ尾川、蒸し煮にドライトマトを入れたのは正解だったな」
「炒めたタマネギも入れましたからね。こっちのトマトソースにも、肉のコクがよく出てますよ」
 結局、3人は料理を全て平らげて満腹した。

 夕食後の散歩をしていた丸ノ内に、船橋二佐がメモを持ってきた。
「糧食班長と、同じく糧食班に出向した普通科隊員2名が、試食数時間後に腹下しか……。やはり恐竜の肉の使用は、取りやめた方がいいな」
「あ、いえ。医務官の報告によれば、食べ慣れない肉を摂取したために、胃腸が消化不良を起こしたとのことです」
「そうか。いずれ対応策は考えよう。しかし、この偵察隊員1名が全身打撲というのは何だ?」
「少年騎士隊のダチョウ恐竜に乗せてもらったところ、落馬……いえ落竜したそうです」
「皆、宿営地でじっとしてることに飽きて、刺激を求めているのかもしれん」
 歩きながら、丸ノ内は満点の星空を仰いだ。
「娯楽も何もあったものじゃありませんからね……。外出の件はどうなったんです?」
「分からん。便宜を図ってくれるよう、帝国側には頼んでおいたがね。そう簡単にはいかんだろう。難民が街を散策したりするなど……」
 美しい月光が、草原と海面をうっすらと照らしていた。



最終更新:2007年10月31日 03:06