中学生日記 ~遠回りする雛~ ◆j1I31zelYA
青春は、やさしいだけじゃない。
痛い、だけでもない。
【再会】
四人の少年少女が白日の下で座り、影を長くのばしていた。
「病院、行かなくていいの?」
綾波レイが、秋瀬或へと問いかける。
その手は救急箱の中身を探っているけれど、視線は彼の右手首へ。
右手のあった場所がすっぱりと割断され、切断面と止血点の位置とが包帯で縛られていた。
「確かに……」
秋瀬から話を切り出されかけた越前リョーマも、そちらへの注目を優先する。
秋瀬があまりにも平然としているので釣られかけたけれど、腕がなくなるなんて、普通は命の心配をする事態だ。
テニスの試合でも、体が欠如するほどの怪我を負うことは(今のところはまだ)有り得ない。
秋瀬は「そうだね…」と携帯電話を左手で取り出した。
「問題は我妻さんが先回りしていないかどうかだけれど、こればっかりは近づいてレーダーで索敵するしかないな。
……もっとも、そう長く電池が持ちそうにないけれどね」
警戒すべき我妻由乃が雪輝日記を持っている以上は、待ち伏せされるリスクが常にある。
しかし我妻は『次に会ったら殺す』ということを言い残して退いた。
最大の障害である秋瀬或には重傷を負わせたことだし、『ここにいるユッキーには執着していない』と言い張る今の彼女ならば、こちらから出向かない限りはそこまで執拗さを発揮しないだろう。
電池の持ちを気にした秋瀬に対して、綾波は小首をかしげてみせた。
「私たちの電話には、まだ電池の持ちがあるけれど……」
「ところが、浦飯君は携帯電話を使ったことが無かったんだ。
バッテリーの持続時間をよく知らずに、電池を消耗させてしまったらしい」
秋瀬がそのことに気づいたのは、レーダーを借りうけた時だった。
浦飯は主催者から携帯電話の使い方をインプットされただけで、携帯電話の扱いそのものには不慣れでしかない。
常に画面を開きっぱなしにしてGPS機能をオンにしていたり、好奇心がてら暇があればいじくり回したり……そんな扱いを半日以上も続けていれば、『充電してください』という警告表示も出るだろう。
「デパートに寄って、充電器を探す?」
合流したい人物や避けたい人物を抱えていて、探知機能が使えなくなったのは痛い。
休息後の安全を確保するためにもと、綾波が代案を出した。
「いや、それがデパートに行くのもリスクが大きい。
ちょうど浦飯君が、その近辺で危険人物を見かけていてね」
御手洗清志という、“水”の化け物を操るらしい危険人物のことがあった。
浦飯は必ず仕留められると息巻いていたようだったが、遠隔操作で化け物を操れるということは、御手洗本人が捕まっていても化け物が野放しになったままということも有り得る。
人質になりやすい一般人を含んだ集団でどかどかと踏み込んだとしても、浦飯の邪魔になるだろう。
「……それ、近くを通ってる菊地さんも危ないっすよね」
そこまで聞き終えた越前が立ち上がり、すぐさま来た道を走り出そうとして、
「ダメ」
素早くシャツの裾をつかんで引き止める手があった。
綾波だった。
「その怪我で、戦うのは無謀だから。
右腕もそうだけど、その両脚ではさっきみたいに走れないはず」
指摘されて、越前は足元を見下ろす。
綾波が応急処置をした結果として、膝まわりが冷却スプレーと湿布でがっちりとおおわれていた。
処置の下では、両足が青紫色のペンキでも塗ったような、痛々しい炎症を起こしている。
バロウ・エシャロットとの激戦で乱発された光速移動の“雷”は、本来の使い手である真田弦一郎でさえ負担が大きすぎて滅多に使わないような諸刃の剣だった。
バロウの放つ鉄球から菊地たちを守るために濫用し、さらにその足で我妻由乃の急襲する現場に駆け付けたとあっては、足が根をあげてもおかしくない。
「それに、拳銃が通用しない相手なら、私たちも戦力になれそうにない。
そもそも、大けがしたこの人を病院に連れていく話だったはず。
この人たちを戦場に連れていくのも、ここに放置するのも良くないわ」
「でも……」
思い出した痛みで脚を震わせながら、それでも越前は意固地そうに立った。
駄々をこねる子どものような声で、反発する。
「高坂さんが、もういないのに……また誰か死ぬのは、やだ」
死んでしまった少年の名前が出たことに、綾波もまた肩を震わせた。
それでも、静かに言った。
「高坂君は……もういないから。
あなたまで喪いたくないし、あなたがいなくなったら、きっと色々なことが終わってしまう」
ちらりと座りこんだ秋瀬たちに視線をうつして、続ける。
「……それに、高坂君は、この人たちが死ぬのも、この人たちを放っておくのも望まないと思う。
戦線復帰したいなら、今のうちに休むべき」
淡々とした、しかし刻み込むようにゆっくりとした言葉を聞いて、
越前は叱責された子どものように唇を噛んだ。
焦りをすっと引かせて、素直に頷きを返していた。
「……はい」
「それに菊地くんの近くにいる植木くんは、さっきの人も倒せるぐらい強いらしいから。
合流できていればきっと大丈夫」
「うぃっす」
頷いて、ぺたんと腰をおろす。
足を崩して座りなおすのを待って、秋瀬が尋ねた。
「菊地くんというのは、別行動中の仲間のことだね。合流する当ては?」
これまでの話からすると、菊地という少年は植木という増援を連れて戻る予定だったらしい。
しかし、場所を特定する手段もないのに別行動をとったとすれば引っかかった。
越前たちが我妻由乃から逃れるために、この場を移動していた可能性もあったのだから。
「最初は、学校で合流する予定だったんスけど……」
「菊地くんの仲間も、『未来日記』を持っているらしいから。
地図で言う周囲1エリア以内なら、予知が届くって言ってた」
菊地と別れた時のことを、綾波は補足説明していく。
バロウを相手に共闘までしたからには、今の菊地が『友情日記』と契約すれば綾波たちは『友達』として申し分なく予知ができる。
菊地自身はムルムルから契約禁止の叱責を受けているが、そこから既に6時間近くも経過しているし、いざとなったら植木の声真似でも何でもして契約すると、別れる直前に言い切っていた。
「それなら、多少は移動しても差支えないようだね。
見たところ学校からの火の手は鎮火に向かっているようだけれど、危険なことに変わりはないし……」
思案するように、秋瀬は北の方角に目を走らせる。
雪輝たちの走って来た方向から炎上した火災は、学校のある一帯とその南方の雑木林を焦がしただけにとどまっていた。
周囲にある建造物が、公営体育館とその駐車場などなど、耐火造の建物だったり延焼物の無い土地だったりしたことが幸いしたらしい。
「火災から避難するのも兼ねて、ここは素直に病院に移動しようか。雪輝君もそれでいいね?」
「うん……」
雪輝としても、いてもたってもいられない心境ではあるにせよ、腰を落ち着けて方針練り直しをする時間は欲しい。
貴重な味方である秋瀬が重傷を負ったともなれば、休息に反対しない理由はなかった。
話がまとまったのを見て、越前が再び立ちあがる。
「じゃ、出発しようか。秋瀬さんだっけ。歩ける?」
「止血はしたし体力的にも支障はないけれど……むしろ君の方が大丈夫かい?」
「あ、だったら僕が、背負っていこうか?」
遠慮がちに、雪輝が声をかける。
越前が首をかしげ、雪輝の肩あたりを見下ろした。
「いや、そこまではいいって言うか、肩を貸してもらえたら充分なんスけど……」
注視するのは、雪輝の衣服。
肩から背中の部分を湿らせている、まだ乾いていない血の染みだった。
「その血、大丈夫っスか?」
その血が誰のものかを知らずに、聞いた。
◆
彼とは、十二時間余りもの時を共に過ごした。
それだけの時間があれば、それだけの会話は交わすことになる。
とはいえ、一万年間も何もせずぼーっとしていた天野雪輝に、話題のバリエーションなどあるはずもなく。
自然と話題は、その少年――遠山金太郎に関することが多くなった。
そうすると、その少年が熱中している『テニス』のことが頻出するのは、必然であって。
その中で、『彼』の名前は、よく登場した。
越前(コシマエ)、と呼ばれていた少年。
とにかく強いのだとか。
何度も勝負を挑んでいるのに、よくつれない態度を取られて逃げられてしまうとか。
しかし、とても楽しそうにテニスをするのだとか。
指から毒素を放ち帽子の下に第三の眼をうんたらかんたらとか。
はっきり真偽の怪しい話も交じっていたし、遠山は『そいつと合流できれば何とかなる』という楽観よりの思想だったから、かなり話半分として聞いていたけれど。
後になって、奇縁だと知った。
同行者である、遠山金太郎の友人だったそいつ。
友人である、高坂王子の同行者だったそいつ。
今の天野雪輝とは、出会わない方が良かったのかもしれない。
元恋人との殺し合いに巻き込んで遠山を死なせたあげくに、
瀕死の遠山を見捨てて、囮として戦わせることで自分だけ逃げ出し、
仇であるところの元恋人は、跡部という他の仲間も殺していて、
二人の戦友を殺した仇であるその我妻由乃と、よりを戻してふたり幸せに星を見に行こうとしている。
誰から非難されても、それが誰かの犠牲の上に成り立つことでも、そうする。
それが、今の雪輝だった。
秋瀬或は、『移動時間を短縮するアテがある』とか言って、重傷人とも思えない軽快さで先行した。
病院へと向けて、進路を西寄りにして。
残った三人で、越前に肩などを貸しながら追っていて。
間もなく、一行はその『彼ら』と再会した。
倒れている人影が離れた場所に小さく見えて、越前が目を見開いた。
一歩を近づくごとに、人影の小柄な輪郭だとか、微風にパタパタと揺れるヒョウ柄のタンクトップだとかが鮮明に見えてくる。
傷ついた両脚に鞭を打つようにして、越前は雪輝たちの手を振り払い、早足で近づいていった。
どんどん近づき、その人影の『切断』があらわになった距離で。
我慢できなくなったように、走り出した。
綾波レイが、そんな彼のそばへと駆け寄ろうと急ぎ足になり、雪輝もそれにつられる。
立ち止まり、じっと見下ろす。
そこにいた。
彼らと言ったのは、ようするに、つい複数形で表現してしまうような状態だったということで。
遠山金太郎が、上半身と下半身とで真っ二つに斬殺されて仰向けに転がっていた。
(分かってた、ことだったけどね……)
日本刀を持った我妻由乃の手で絶命させられた。
ならば、その死に様など分かり切っている。
赤く染まりはじめた陽の下に、ふたつ血だまりが広がっていた。
ひとつは、一メートルくらい離れた地面に転がっている下半身から噴き出したもので、
もうひとつは越前の真下に転がる、上半身の腹部より下から流れたものだった。
そちら側の血液は、地面と接する背面からもじわじわと染み出した跡があり、
それは天野雪輝を手榴弾からかばった際に受けた傷口が、開いたものだと分かる。
雪輝は中学校で流れた血の量を知っていただけに、まだこれだけの血が残っていたのかと驚いた。
それだけの血を流した証明として、遺体は凄まじい色合いになっていた。
土気色というよりは、青っぽい粘土で作り上げた人体のような、生前の面影をなくしたそれ。
小柄なりにがっしりとしていた体つきが、血を吐きだしつくした分だけ『しぼんでいる』ことがはっきりと認識できる。
体のそこかしこが、手榴弾の熱風を浴びた火傷で煤けていて。
右手には、テニスラケットを強く握りしめたままで。
左手は、やや不自然な内向きの角度で、腹部にもたれかかるように乗っている。
それは不幸なことに『斬られて』からもしばらく命があって、動いていた証左だろう。
霞んでいく最後の意識で、『何か』に向かって手をのばそうとして、持ち上げて。
そこで命が喪われて、ぱたり。
何を見つめていて何に向かって手をのばそうとしたのか、見開かれたまま絶命した両の瞳からは語られなかった。
そんな変り果てた姿を、越前リョーマが眼球に映していた。
目をそむけることさえできないまま、呼吸すら止める。
足をがくがくと震わせて、無言で。
ただ、己の時間を止めることしかできないでいる。
(きつい、かな……うん)
これは、無理だろう。駄目だろう。
心ある人間ならば、あっちゃいけないと否定したがる。
綾波が、そんな越前に対して、かける言葉を決めかねたように手をのばそうとして。
かくんと、越前の背たけが地面へと低くなる。
足から立っている力がぬけて、膝をついた。
ぴちゃんと、遠山の血液だったものが跳ねる。両膝の湿布が、赤黒い血だまりで汚れる。
綾波が名前を呼んでも、返事を返さない。
膝をついているところなんて想像もできない唯我独尊野郎だと聞いていた少年が、そうなっている。
(意外……でもないよね。こんな友達を、見たら)
雪輝は、そう思う。
だから、こうも思う。
――やっぱり、違う。僕は、“こう”はならない。
越前は、見るからに悲しんでいる。
涙こそ見せていないけれど、それはただ現実に打ちのめされるばかりで、悲しみが追いついていないだけなのは明らかだ。
対して、天野雪輝はどうか。
こうなってしまったことを、悔しいと思う。こうするしかできなかったことを、悲しく思う。
――犠牲とか、殺された人とかそんなのを度外視してでも――僕は由乃に手を伸ばす。
じゃあ、こうなった遠山を度外視して、我妻由乃を迎えに行きたい天野雪輝とは、何者だ?
悲しいはずなのに、泣けない。冷静に死体を観察して、見捨てたことを自嘲している。
(昔のことを思い出してきて……僕も学習したってことなのか?)
由乃のように、他の人間を駒だと割り切ることなんてできない。
けれど、三週目世界の由乃も、異世界の両親も、手の届く皆を救おうとした結果が、あの結末だった。
三週目の世界はそれなりに救済されたらしいけれど、いちばんに助けたかった我妻由乃は喪われた。
(だったら、割り切るしかないのか?
これも、由乃と星を見に行くための犠牲だって)
神崎麗美と対峙する前から、分かっていたはずだった。
天野雪輝は神さまのくせに弱くてちっぽけで、遠山金太郎のような理想論者ははいずれ遠からず死んでしまうこと。
無力感が、黒い感情へと反転していく。
泣けなかった罪悪感が、由乃を迎えに行きたいという欲望が、悪魔のささやきを運んでくる。
後ろめたく思うことなんか、何もない。
会いに行きたい由乃は『雪輝日記』を持っている。
迎えに行こうとしても、確実に先手を取られて殺される。
だったら、これからも遠山の代わりに『盾』が必要だ。
ここに、二人いる。
こいつらも、利用すればいい。
皆を救うことなんてどうでもいい。
遠山金太郎に励まされ、神崎麗美と対峙して、気がついてしまったはずだ。
神さまなんだからみんながハッピーになれるように願いを叶える?
そんな願いよりも大切なモノ。
我妻由乃との幸せを掴むことこそが、一番の願いごとであったことに。
遠山も、それを応援してくれた。
『やりたいことも貫けんよっぽどマシやと思うけどな』と、笑って背中を押してくれた。
一万年ぶりにできた大切な友達が、命を捧げてまで願ってくれた。
高坂は、『泣きそうな顔をしろ』と言っただけで、それ以上のことは要求しなかった。
やりたいこと。分かり切っている。
我妻由乃と、星を見に行く。
もっと彼女の声を聞いていたい、彼女の笑顔を見ていたい、彼女の華奢な体を抱きしめたい。
それが、天野雪輝だったはず。
『恋人』のためならば、『友達』だって踏み躙れ。
お前はしょせん、お姫様の為だけの、王子様だ。
そこで膝をついている、弱い雪輝を助けてくれた、やさしい王子様とは違うんだ。
形容しがたい感情から歯を食いしばり、越前リョーマの背中を観察する。
この少年が、早く泣き叫んでくれればいいのに。
まっすぐに悲しんで、その正しさを、王道を、普通の青春を、見せつけてくれたら。
泣きたくても泣けない雪輝は、羨ましいと逆恨みできるのに。
どうしてこんなに差があるんだろうと妬んで、夢を叶えるための犠牲として利用することが――
「――馬鹿じゃないの?」
押し殺したような声が、耳朶をうった。
己のことを指摘されたような錯覚で、雪輝はどきりとする。
越前は怒りに満ちた声で、見下ろす少年に向かって話す。
ひと言ひと言を、喋るたびに歯を食いしばるように。
「べつに、誰か庇ったりするのは、そっちの勝手だから。
自己犠牲とか、……うちの先輩も、よく、やるし。
オレも、死にかけたり、無茶したから、命賭けるなとか、人のこと、言えないし。
でも……」
越前リョーマは、まだ殺害者である我妻由乃のことを知らない。
『雪輝を逃がすために囮になった』という略された説明でしか理解していない。
だから、怒りを向けられるとしたら、雪輝が見捨てて逃げたことについてだろうと、そう予想したのだが――
「何が、『もう手遅れ』だよ。なんで、そこで諦めてんだよ」
びしゃん、と地団太を踏むように、立ち上がって血だまりを踏みつける。
震える足で、強く。
絞り出すような声で、その声を出すためにありったけの意思で涙をこらえて。
「生きること、諦めるなよ。
いつも、あんなに負けず嫌いだったくせに。
もうすぐ死ぬからって、生きるの止めるなよ。
囮になるのは勝手だけど、『手遅れ』とか『優先順位』とか言うなんて、そんなの。
本気で、やってないっ。そんなんだから、死んだんじゃないの?」
見苦しいまでに、必死に煽っていた。
見ようによってはスポーツマンらしかぬ、鬼か畜生かの振る舞いだ。
絶対に助からない怪我を負って、精いっぱい痛みに耐えて戦った少年に対して、
『そんな無様な戦いをするもんじゃない』と罵っている。
しかも、罵倒していることは理不尽な言いがかり。
仮に遠山金太郎が諦めなかったとして、手榴弾による致命傷はどうにもならない。
さながら、どうしようもなく強い対戦相手に追い詰められても精いっぱいに頑張っている仲間に、『本気でやれ』と冷たく鞭を打つようなものだ。
「そんなの、最後の一球がまだ決まってないのに、諦めるのと同じじゃん。
まだまだだよ。……ぜんっぜん、まだまだだね」
『あの』遠山の友人だったほどの人物なら、
雪輝にも、わだかまりなく手を差し伸べるのではないかと思っていた。
遠山が救おうとした人間だから守ってみせるとか、友達のことを誇りに思うとか、そんな理由をつけて。
それができないならば、怒りにつき動かされて、見捨てた自分を責めるはずだと思っていた。
なんでアイツは死んで、お前が生きているんだと、そんな主張をして。
どちらの立場を取ったとしても、越前の言い分は正しい。
でも、違った。そんな二元論では解決できない。
「一球勝負……引き分けだったのに……」
誰かを責めても解決できないと分かっている。しかし笑って許せるほど立派にもなれない。
それでも、心を殺さないために叫んでいる。
よりによっていちばん悪くないはずの遠山を、怒りをぶつける対象に選んだ。
でも、それが死者の冒涜には見えなかった。
なぜなら。
「……オレに引き分けといて、負けんなっ!」
この二人は本当に友達で、好敵手(ライバル)だったから。
だから、こいつは遠山に怒ってもいいんだ。
そんな納得が生まれ落ちた。
のどではなく魂から絞り出すように、越前の呼びかけは続く。
「死にたくなんて、なかったくせに」
綾波が、遠慮したように雪輝の方を振り向く。
その言葉は、ともすれば死ぬ原因を作った雪輝への非難ともなる。
しかし雪輝は首を横に振り、「言わせてあげて」と小さくつぶやく。
不思議と、今はその言葉を聞きたいという心境になっていた。
「生きたかった、くせに!」
心臓がはねる。
――ワイは死にたくないけど、人を殺すのもイヤや。
橋の上で。神様なら手伝ってほしいと懇願された時。
死にたくないと言っていた。
雪輝も、彼のことを死なせたくはなかった。
ほとんど喚くように、乱れた声がなじった。
「『日本一のテニスプレイヤーになる』って、夢があったくせに!」
知らなかった。
冷えていた胸のうちが、熱を注がれたように熱く痛んだ。
◆
【推測】
秋瀬或がディパックに納めて持ち帰ってきたのは、なんと自家用車だった。
トヨタ・クレスタの後期モデル。X100系。
例の浦飯という男から、車を放置してきたというようなことを聞いていたらしい。
片手の秋瀬或に運転をさせるわけにもいかないので、天野雪輝が車のハンドルを握った。
無免許運転にあたるはずだけれど、運転するのは初めてでもないと天野は言った。
秋瀬或が助手席へ。
綾波レイ自身と、越前は後部座席へ。
あれほど体も口も動かしていた越前は、座席につくや否や、糸が切れたように眠りはじめてしまった。
疲れたとか言っていたのは、確かにその通りだったらしい。
その両腕には、遠山少年の持っていたラケットを抱きかかえるように持ちこんでいる。その遺品を持っていくことと、遺体の目を閉じてやること。
それだけしかできなかったことは、越前にとっても辛かったらしい。
車に乗りこむ寸前まで後ろを振り向き、置きざりにするしかない遺体を気にしていた。
そんな姿を見た綾波レイは、胸がチクチクと刺さるような痛覚を覚えた。
だから、というわけではないのだが。
一連の出来事に関わった、運転席の天野雪輝に向かって問いかけてみる。
「さっきの『由乃』って、我妻由乃のこと?」
天野が驚いたように身をすくめて、アクセルをベタ踏みしかけた。
「……知ってたんだ」
「高坂君が、言ってた。『私が守る』って連呼したり、好きなひとを閉じ込めたりする怖いひとのこと」
バックミラーから見える雪輝の目つきが、形容しがたい風になった。
「間違ってないのが……」とかなんとか、ぼやく。
「そんな人と、どうして敵対しているの?」
尋ねると、見るからに天野の口が重たそうになった。
しかし、答えを渋っているというよりは、答えを練っているという風な沈黙だ。
ややあって、淡々とした説明が聞こえてくる。
「ざっくり言うと、前の殺し合いの最後の最後で、どちらが優勝するかで喧嘩になったんだよ。
彼女は僕を生き残らせたいと言って、僕は、由乃を殺すぐらいなら死ぬって言った。
そしたら彼女は、僕を捨ててパラレルワールドの僕と結ばれるって言い出した。
その為には優勝しなきゃいけないから、僕のことも殺すんだって」
「…………」
予想以上に、難解かつぶっそうな内容だった。
考える時間がほしいからちょっと待ってと言うべきか、綾波は悩む。
すると、助手席の少年が口を開いた。
「正確に言えば、彼女の“願い”は、優勝した報酬によって雪輝君を手に入れることだね。
全てを0(チャラ)にすることも視野に入れると、さっきそう言っていたよ」
「そんなこと、できるの?」
「させてもらえると思えないから、僕らは彼女を止めようとしているんだ。
優勝者が褒美をもらえるかどうかについて、ある『予知』を得ていてね」
ちらりと運転席へ、変に熱っぽい視線を送る。
「それに、たとえ生き返るのだとしても『友人』に死んで欲しくないのは当然のことだ。
雪輝君が我妻さんを殺せないように、僕も雪輝君が殺されるのは見過ごせない」
「秋瀬くん……」
ずいぶんと友人おもいの人物であるようだが……実はこちらの少年は、少し苦手だ。
どこがどう、とは言えないのだが、声とか、印象とかに奇妙な既視感がある。
まるで少年にそっくりな人から大事なものをかっさらわれたことがあるみたいな、そんな『気に食わない』みたいな感じだった。
そんな秋瀬或に、雪輝が問いかける。
「でも、それなら由乃が僕のことを捨てる必要は無いはずだよ?
三週目に行く必要が無くなったんだからさ。
なのに、由乃は僕のことを『愛してなんかいない』って言ってた……」
助手席から、微苦笑を含んだため息が聞こえた。
「雪輝君。我妻さんからすれば、君をつい一日前まで殺そうとしていたんだよ?
別れたばかりの恋人に『振ったけど、生き返ると聞いたから愛します』なんて、言えると思うかい?」
「う……」
人間として男性として気づかないようでは駄目なことを指摘されたように、運転席の少年は肩を落とした。
どんどん、綾波には難しい話になってくる。
けれど、遅れて理解が追いついたこともあった。
「それは、喧嘩になっても仕方がないと思う」
それは、天野と我妻由乃が、殺し合いの中で、お互いを生かそうと動いたらしいこと。
「どうして、そう思うんだよ」
いきなり断定されて、雪輝はやや不機嫌そうになった。
「私は、“好き”が私にもあるのか、自信がない。
でも、私の守ろうとした人が、生きてほしいから止めてって言ったら、きっと困るわ」
菊地善人から聞いた、碇シンジの最後の言葉。
綾波レイも含めた二人の人間を、守ってほしいと言ったこと。
困る。
最初は殺し合いに乗ってまで守ろうとしたのに。
そんなことを言ってもらえるなんて、ぜんぜん思ってもみなかったから。
受け止め方が分からない。
「それは……僕も同じだよ。
僕も、由乃に生きてほしかった。由乃の居場所をつくりたかった。
それがあれば、由乃は僕を追いかけなくても、生きていけると思った」
居場所。
その言葉を、綾波は自分の場合と照らし合わせる。
それは、綾波の言葉で言うところの“絆”のある場所ということかもしれない。
だとすれば。
「そう言ってくれる人がいるだけで、もう居場所はあったと思う」
それは、誰かと繋がったまま終われるということだから。
そんな人を、殺すことなんて綾波にはできそうにない。
「だから、私ならそう言われただけで満足するかもしれない。
好きな人を殺さずに済んで、居場所をもらったまま終われるなら」
今度は、急ブレーキがきた。
反動で四人が前に投げだされかけ、越前が眠ったまま倒れかかってくる。
その頭が綾波の肩にいったん引っかかり、そのままずるずると膝の上にシフト。
つまり、膝を枕にした格好に。
起きないかどうか目を配っていると、運転席の主が「ごめん」と謝った。
「君の言ったことが、昔の由乃と重なったんだ。
あの時は、どうしてそんなことを言ったのか分からなかったから、びっくりして」
曖昧な言葉を使ってぼかしている風な雪輝は、あまり良い思い出でないことを匂わせていた。
無遠慮に知ったようなことを言って踏みこみすぎたと、反省する。
いや、そもそも詳しい話を聞くための会話だったのに、『人を好きになる』という話題が出たせいで脱線した。
脱線ついでだと、話題をもどす前にひとつだけ聞いてみたくなる。
「聞いてもいい? 天野くんは、どうしてその人を好きになったの?」
好きになる条件を満たすものは何か、誰かを好きだと言える少年から知りたい。
ハンドルを握る少年は、長くも短くもないだけの間をおいて、答えた。
いつくしみのこもった声で、しっかりと。
「ずっとそばにいてくれたから、かな」
「そう……」
答えを聞いて、思い出す。
学校の教室で、話しかけてくれた少年のこと。
この場所に来てから、ずっと一緒にいた少年のこと。
人を支えようとしたことと、人から支えてもらったこと。
「私と、同じね」
少年の重みを膝に感じながら、言葉はそんな感想になった。
天野がルームミラーごしに、形容しがたい感情のこもった目でこっちを見ていた。
その目には、見覚えがあった。
時おり碇ゲンドウが自分を見て、誰かを重ねるような目をする時と、似ていた。
だから天野も、自分たちの姿から過去の誰かと誰かを重ねているのかもしれない。
「そこの彼とは、ずっと一緒にいるのかい?」
秋瀬或が問い返してきた。
越前を見下ろして物思いにふけるのを見て、綾波にとっての『そばにいた』を、その少年だと解釈したらしい。
「うん。今までずっと」
「良ければ、君たちのことも聞かせてほしいな。今まで見てきたことを」
「……構わないわ」
話題の転換と、情報提供を求める会話の導入。
逆らう理由もなく、避けられることでもないので頷いた。
ぽつりぽつりと、順番通りにたどたどしく話を始める。
時をおかずして、白亜の大きな病院が見えてきた。
◆
手塚部長が、死んだ。
跡部景吾が、死んだ。
ペンペンが、死んだ。
碇シンジが、死んだ。
真田弦一郎が、死んだ。
神崎麗美が、死んだ。
高坂王子が、死んだ。
そして遠山金太郎が、死んでいた。
嫌だった。
一人前になりたくても、一人になりたかったはずがない。
『死んだ』と言われるたびに胸が穿たれて、うんざりだと叫びたくなる。
だって、『死んだ』ってことは、もう終わったってことで。
ぶつかって勝ち負けを競ったり、遊んだり、新しいことを知ったりすることが二度となくなったってことで。
神崎麗美が、跡部景吾を殺したと言った。
神崎麗美が、ペンペンを殺した。
バロウと呼ばれていた少年が、神崎麗美を殺した。
バロウが、手塚部長を殺したと言った。
バロウが、高坂王子を殺した。
ごちゃごちゃだ。
泣いたり、怒ったり、悩んだり、疲れたり。
背負うべきものがあって、手が届かなかったものもある。
青学の柱だって、べつに聖人じゃない。
仲間を傷つけた相手には痛い目を見せてやりたいし、
部長や副部長のように誰が相手でも公平にするような自制心にはまだまだ及ばないし、
たまには疲れたと根をあげたくなることだってある。
だから、困る。
天野雪輝の大事な人である我妻由乃が、遠山金太郎を殺した。
「何か僕に言いたいことはある? コシ……じゃない、越前くん」
高坂王子の言っていた『救われてもいい天野雪輝』の。
「いや……っていうか」
外科病棟の待合室で。
自嘲じみた笑みをうっすら浮かべて、対面に座る天野雪輝。
一万歳の神様は、自分に起こったことを全て打ち明けて、そして感想を求めた。
だから、答える。
「世界が二週したとか三週したとか、そんなややこしい話をよく遠山が理解できたなぁと思って」
「最初の感想が、それ?」
綾波に横から突っ込まれた。
リョーマは綾波が見つけてきた車椅子の上に座らされ、綾波はその隣にある座席に座っているので、目線はほぼ同じ高さにある。
休めばちゃんと動けるようになる怪我だからとリョーマ自身は車椅子に反対したのだが、
(根拠として同じ症状を出した真田は数時間かからずに動けるようになっていたので)
綾波は少しでも動かさないようにすべきだと譲らなかった。
ちなみに、骨折した右腕も綾波の手によってがっちりと固定されている。
綾波自身、この手の怪我を見慣れているというか、主に手当される側であり、やり方には心得があったらしい。
呆れとも困惑ともつかない風に顔をひきつらせて、天野は答える。
「知ってる漫画の内容とかに当てはめて考えたみたいだったよ」
「……あ、納得」
それなら分かると、疑問が解決した。
話のスケールはとんでもない。
すべてを0(チャラ)にするために神様になろうとしたとか。好きな女を追いかけて時空を超えたとか。
それなのに、天野雪輝は頼りない笑みを口の端に浮かべて目の前にいる。
だがしかし、遠山金太郎があっさり受け入れたという話を、自分が飲みこめないというのは癪だった。
だから、理解がおよぶ部分から言葉にしていく。
「高坂さんが、アンタのこと色々言ってたよ」
「どうせ弱虫とかヘタレだとか、そんなことだよね?」
「うん、あと、バカだとか甘ったれだとか」
「あ、そう……」
「うん、そのイメージ通りの人だった」
「君……その話し方でよく高坂と喧嘩にならなかったね」
「でも、最後に言ってた。『別にアイツを救いたいとか思わないけど、救われてもいいぐらいには思ってた』って」
「高坂、が?」
淡々と話を続けていた顔が、そこではじめて揺れた。
その動揺を見て、ほっとしていることに気づく。
高坂が天野と張り合おうとしていたように、天野も高坂に対して思うところはあると分かったからか。
「じゃあ、君はどうなんだ?
遠山を見殺しにして涙ひとつ見せない神様を、どう思う」
ぜんぜん『神様』っぽくは見えない、と揚げ足を取る。
少なくとも、『神様に勝ちたい』と公言していたリョーマの前に、『僕がラスボスです』と言って現れたのがこいつだったら…………なんか、嫌だ。
「泣きたくても泣けないことがあるのは知ってるし、別にそれはいい」
隣にいる綾波が、右手を自身の胸にあてた。
どう考えたらいいんだろうねと、内心で呼びかける。
遠山が死んだのに、天野が生きていると恨めたら簡単なのかもしれない。
神崎麗美に指摘されたように、そう考えたいことだってある。
でもそれは簡単なだけで、ぜんぜん楽にはなれそうになかった。
だいいち、天野雪輝に向かって責任追及する権利があるのかどうか。
そこを槍玉にあげるなら、あの神崎麗美が中学校でやらかしたという話には、リョーマ自身の責任も絡んでくるだろうし。
ただでさえ色々とすごく痛いのに、無駄に傷つけあうことになるだけだ。
「高坂さんが殴ったのもあるし。アンタが昔に色々やって、さっきまでグダグダだったってことは別にいいよ。
お年寄りはいたわるものだし」
「お、お年寄り……」
天野雪輝をどうこうしてやりたいというのは無い。
文句を言うべきはそういう選択をした遠山自身であって、それは死体の前で洗いざらいぶちまけた。
「ただ、話を聞いてて気になったんだけど」
でも。
あの死体は、我慢できない。
あの血だまりは。二つに切り裂かれてしまった体は。空っぽになってしまった瞳は。
因縁浅からぬ知り合いをあんな死体に変えたヤツは、許せそうにない。
「もし、その我妻って人が皆を殺したことを悪いと思ってなくても、気にしないの?
一緒に星が見れたら、それでいいの?」
「ああ、それでいいよ」
自信ありげに、うっすらと笑みを口の端にのせて。
即答だった。
「――っ!」
今だけは、足を怪我していることに感謝した。
すぐに立ち上がることができたら、たぶん天野の胸ぐらをつかんでいた。
その代わり、本気なのかと抉るように眼力をこめて天野を睨み据える。
天野は動じない。
仮面をかぶったように冷たく、揺るぐものがないように堂々としている。
高坂王子に殴られて、泣きそうな顔をしていた頼りない少年とは別人のようだった。
「遠山は、僕にとっても友達だった。友達だって言ってくれた。
だから僕は、遠山を殺したことについては、由乃に怒ってる。
でも、だからって由乃を諦める選択肢は無い。
皆と一緒に脱出することも考えるし、助けられた借りだって返したい。
協力できることがあれば何でもする。
ただし、由乃のことだけは譲れない」
でも、そんな僕と相容れないならここでお別れだと、天野は言った。
試されるような視線を、向けられる。
勝手だ。
勝手なことを言ったくせに。
見捨てたらこっちの器が小さいかのような態度を取るなんて、勝手だ。
しかも。
きっと、ここで怒りに任せて突き放しても天野は恨まない。そういうものだから仕方ないと、割り切って別れを選ぶ。
でも、きっと誰も助けてくれないだろうと独りになる。
味方は秋瀬或ぐらいだと、勝手に諦めるのだろう。
それはきっと、遠山も高坂も望んでいない。
誰だって、自分だって、後味の悪い思いをするために、戦ってきたんじゃないはずだから。
じゃあ、どんな言葉をかけたらいい。
気に入らないこともあるけど我慢して一緒にいよう、では足りないと思う。
これから似たような想いをする人と会っても、『俺だって我慢してる。だからお前も我慢しろ』とでも言うのか。
そういう『柱』を、人は信用するのか。きっと信用しない。
考える。難しい。難しい。難しい。
「――大丈夫」
ぽつりと。
リョーマの顔をのぞきこむようにして、綾波が言った。
「越前君が無理なら、私が間に立つから」
念を押すようにひとつ頷くと、雪輝に向かい合って、話す。
「本当に好きな人のこと以外どうでもいいなら、ありのままを話したりしない。
私たちを利用するためにごまかして印象操作をするはず。でもあなたはそうしなかった」
「分かったように話すんだね」
「私のいた場所にも、そういう仕事を専門にした人たちがいたから」
リョーマが感情として我慢できないなら、その間は綾波が代わりに話すということなのか。
さっき寝ている間も、天野たちにこれまでのことを説明していたようだった。
その詳細までは知らないけれど、しっかり天野と言葉を交わして、その上で『言葉が通じないわけじゃない』と判断した。
だったらと、気持ちが少しだけ甘くなる。
綾波を信頼している分ぐらいは、彼女に免じたい。
それに、天野の背中は、遠山金太郎の血で汚れていた。
つまり彼は、ギリギリまで遠山を見捨てずに背負って走ったのだろう。
だから、友達だったというのは本当だ。
生前の記憶からヒョウ柄シャツの少年を呼び出し、その屈託のない笑顔に向かって、ややこしくなったのはお前のせいだと毒づく。
遠山は、跡部景吾が殺されたことも気にしないと言ったらしい。
一発ぶっとばさなければ気が済まないけれど、それで終わり。
そうするのも、分からないわけじゃない。
自分だってバロウが許せないけれど、だから殺そうとはならなかった。
でも、好きなだけ殴れば気が済むかと言われたら違う。
殴ったぐらいでおさまるのか。
あの血だまりを、乗り越えていけるのか。
だいいち、殴るのはすでに高坂が天野にやっている。
我妻に同じことをしても、きっと天野に対しての『あれ』以上の効果は出せない。
じゃあ、部長だったら?
厳しいあの人あったら、こういう時どうす――
……………………あ。
閃く。
冷めた声で、問いかけていた。
「悪いとは思ってるんだよね?
だったら、代わりに責任取ってって言ったら、取ってくれるの?」
そんな風に切り出すと、天野たちの表情が険しくなった。
天野のたつての願いで口を挟まないと診察室に待機していた秋瀬或が、警戒して顔をのぞかせる。
「アイツは一発ぶっ飛ばせば終わりって言ったみたいだけど。
オレ、その時まで我慢できそうにないから。
だから、好きな人のけじめぐらい、ちゃんと自分でつけてよ」
そこまで大事な人のためなら、逃げないよねと。
念を押すように、視線でがっちりと捕える。
覚悟したような顔で、雪輝が頷く。
「いいよ。それで由乃が、少しでも安全になるなら。
もっとも、迎えに行けなくなると困るから、動くには問題ない程度にしてほしい」
場の規律を乱すような者は、どうなるのか。
悪いことをしたら、どんな罰を受けるのか。
最初に会った時から、身をもって体験させられてきた。
絶対に、間違いなく、『100パーセント(CV青学テニス部3年乾貞治)』で、こう言う。
子どもじみた意趣返しもあり、たーっぷりと間を置いてから言った。
「じゃあ、グラウンド100周走ろう」
「「「は?」」」
まず反応を示したのは、綾波だった。
「グラウンドが、どこに?」
「こんだけ広い病院なら、運動用の部屋ぐらいあるでしょ。
リハビリに使うようなの。そこの中を100周で」
「越前君? いくらなんでもそれは、雪輝君は足を撃たれているし――」
秋瀬或も、冷静さをやや崩した声で反対する。
「カスリ傷だって言ってたし、さっきまで歩きまわってたじゃないっスか。
それに室内なら学校のグラウンドより距離短いし、筋肉痛とかも心配ないっスよ、たぶん」
「な、なんで急にそんな体育会系の発想が出るの?」
天野雪輝が、見るからにうろたえた。
「これから彼女さんと一万年間の距離を縮めに行くんでしょ?
それに比べたら100周くらい準備運動みたいなもんじゃないっスか」
「上手いこと言ってるつもりっぽいけど、それ全然関係ないよね」
「これが一番すっきりするから」
たぶん口を笑みの形にしながら、リョーマは言った。
「絶対に諦めたくないって、初めて本気になったんでしょ? その本気、見せてよ」
最終更新:2021年09月09日 19:55