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Via Dolorosa - (2012/07/19 (木) 22:17:51) の1つ前との変更点

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――チッチッ、チッチッ、時計の刻む音だけが聞こえてくる。 ――生臭い、生肉や生魚よりももっときつい、今にも吐き戻してしまいそうな臭いがする。 ――空条さんは黙ったまま、ぴくりとも動かない。 川尻しのぶは、空条承太郎の動向を固唾を呑んで見守っていた。 ――何? 何か問題でもあったの? ――黙ったままじゃあわからないわよ。 どれくらい時間が経ったのか、よくわからない。 まだ数分も経っていないような気もするし、もう何時間とここにいるような気もする。非日常の只中に置かれて、自分の感覚ひとつ信じられない。 ただわかることは、このままここに居続けたって何の解決にもならないということだけ。 刻み続ける時計、その音がじりじりとしのぶの不安を増長する。 やがて、しのぶは意を決して承太郎にもう一度声をかけた。 「あの……空条さん? 何か、問題でも?」 言ってから、言葉のまずさに気がついた。何かなんてものじゃない、人が死んでいるのだ。 「ご、ごめんなさい、わたしったら……その、ええと」 男の背中は、何物をも拒絶するように微動だにしない。 しかしぽつりと、聞き逃してしまいそうなくらい小さな声で、返事が戻ってきた。 「…………くろ、だ」 「何? ごめんなさい、今、なんて……」 しのぶが聞き返すと、もう少しはっきりとした、ただし恐ろしく冷たい声が路地に響いた。 「俺の、お袋、ははおや、だ」 「……えッ」 聞き間違いでもない、空耳でもない。今この人は、自分の母だと言った。 しのぶが踏んづけてしまったこの腕は、この異常な場所で初めて出会ったこの人の、母親だと。 しのぶはなんとも言えない気持ち悪さに襲われた。冷たい汗が噴き出て止まらない。 こんなことはテレビの中だけの出来事だと思っていた。笑えも泣けもしない、昼下がりの二時間サスペンス。 しかし現実は非情なもので、ここはテレビの中でもなければ昼寝の夢でもない。頭で理解を拒否しても、体は否応なしにこの現実に順応していく。 吐き気は残っているけれど、いつの間にか臭いはわからなくなっていた。 「あ、その……なんて言ったらいいか……」 取り繕うように喋りながら背中を向けている男を窺うと、唐突に青い大男がぬっと姿を現した。 しかも、それは空条承太郎の体から透けるように浮き出ている! 「ひッ!?」 またしても恐慌状態に陥りそうになったしのぶだが、自分の手でなんとかそれ以上の悲鳴を上げないように口を押さえつけた。 異常といえば、みんな異常な出来事だ。どこかふわふわと地に足のつかない奇妙な感覚で、半透明の青い大男の動きに目を瞠る。 青い大男は、腕を――先ほどしのぶが踏んづけた腕――拾おうと手を伸ばし、ぎくりと固まって、不意に立ち消えた。まるでその場にいたことが間違いだったように、あっさりと掻き消えてしまった。 「あんた――見えてるのか?」 ようやく、空条承太郎が振り返った。だが、しのぶは男を『異常なものを見る目』で見つめていた。 出会ったときにうっすらと感じた頼り甲斐だとか、ささやかな安堵感だとか、そういうものは暗雲のように立ちこめた恐怖に覆い尽くされ、しのぶは堪らず叫んでいた。 「何、何、なんなのッ!? そいつッ!?」 忽然と現れ、そして煙のように消えた大男。 空条承太郎の、表情の無い能面のような顔。 無言の視線。観察するような、冷たい目。 色々なことが、短時間のうちに起こりすぎていた。 しのぶの心の容量は、もうほんの僅かな刺激で決壊してしまうくらい限界だった。 時間にすればほんの僅かな沈黙も、引き金と成り得るほどに。 「――――もう嫌ッ! いやァァァッ!!」 「ッ! 待て、待つんだッ……」 しのぶは弾かれたように駆けだした。 承太郎の声など、聞こえてもいなかった。 ◆ 川尻浩作――もとい、『川尻浩作の皮を被ったラバーソール』は、ごく一般的な日本の住宅街をゆったりと歩いていた。 支給品はすっかり検分が済んでいる。あとは、よさそうなシチュエーションを見繕うだけ。 いかにもただの会社員といったふうを装うのに、コロッセオや庭園などは不釣り合いだろう。つぎはぎの町の中でも目を惹いた『館』の所在は、ここからだと少々遠すぎるし、先約の『依頼人』が在居しているとは限らない。 もう少し――そう、もう少し時間が経ってからでいい。 あの場で無数にいた獲物やら御同類やらを鑑みても、こんな早々から西へ東へとあくせく働きまわるのも不合理だ。新しい『依頼人』にはそれなりの媚を売りつつ、美味い汁だけ啜らせてもらえばいい。 そのための、このひ弱な会社員姿だ。せいぜい有効利用させてもらおう。 「それにしても……日本の住宅街ってやつはどうしてこうゴミゴミしてやがるのかねェ」 ラバーソールの目的地、それは川尻家と地図上に記されている家である。 行く先で人に出会えればそれもよし、出会えなくとも、本人が自宅で休むのに何の不都合があろうか。気力体力を充実させてこそ、いい殺しができるというものだ。 「まあ、入り組んでるけどもうチョイってところか……っと、おやおやァ?」 熟練の殺し屋としての感覚が、近くにいる誰かの気配を知らせている。 誰であろうと構いはしない、何せ自分は『川尻浩作』だ。この姿、無力、無害、弱者! ラバーソールがいかにも恐る恐るといったふうに曲がり角の先に顔を出すと、ひとりの女が息を荒げて蹲っていた。切れ切れに上がる嗚咽から察するに、どうやら泣いてもいるようだ。 ラバーソールは内心、にんまりと口角を釣り上げる。ひとつ口笛でも吹きたくなるようないいカモだった。 「あの、すみません……もしもし?」 ラバーソールは女に声をかける。無力、無害、いかにもマヌケそうな善人ぶって! しかし、思惑は脆くも崩れ去る。 ラバーソールの誤算、それは女のあまりにも特異な反応だった。 「ッ!! ……あ、あなた、アナタぁぁァァァッッ!!」 涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔に、振り乱した髪。元はそれなりに美人なのだろうが、いかんせん鬼気迫る表情がそれを台無しにしている。 たいがいの美女も醜女も見慣れていたラバーソールだが、一線を画した女の表情というのはいつ見ても心臓に悪いものだった。 まして、それが全力で抱きついてくるなんて! 女の細腕が、万力のような力を込めて回される。がくがくと震えているのは安堵故か恐怖故か。 一瞬、このまま『喰って』しまおうと思いかけたラバーソールだったが、女の叫びに僅かなひっかかりを覚えた。ものの試しに、川尻浩作から得た妻の名を口に出してみる。 「しの、ぶ……?」 「ええそうよッ、半年見なかったら忘れたとでもいうのッ!? 本当に本当に心配してたんだからッ! よくわからないことは起こるし人は殺されてるし、こわかった、本当に怖かったわッ!」 堰を切ったようにとめどなく流れ出す『しのぶ』の言葉を、要点だけ拾うように聞き流しながら、ラバーソールは俄かに思考を巡らせていた。 (チッ、厄介なものを拾っちまったかもしれんなァ~、このアマ……とかく面倒そうな女だ) (しかし妙だな、川尻浩作は半年もこの女の元に帰ってなかった? そんなことなら女のひとりでもつくってそうなもんだが……ンなこたぁ言ってなかったしよォ~) (ま、気になることはあるがよ……オレ様の魅力にかかればチョロそうな女ではあるなァーッ! せいぜいいい奥さんになってくれよッ) ラバーソールは、ほんの数十分の邂逅で得た『川尻浩作』像を、可能な限り模倣する。 「しのぶ、しのぶ……すまなかった、落ち着いて聞いてくれ」 「こんなところ、一時だって居たくないのッ……え、なあに?」 胸元に顔をうずめて泣きじゃくっていた女が、夫の言葉に顔をあげてことりと首をかしげる。 あどけない童女のような仕草に、これを素でやっているのだとしたら大したカマトト女だと思いながら、ラバーソールは壊れ物を扱うように優しく彼女を抱き返した。 「ここは危ない、一度家に行こう。何かわかることがあるかもしれない」 「……そう、ね。そうしたほうがいいわよね」 「そうとも。それに、人が殺されていたんだろう? こんな暗がり、どんな殺人鬼が潜んでいるかわからないじゃないか」 「……ええ、そうね。でも……ああ、わたし……空条さんに酷いことを……」 「ッ、?」 悔やむように呟かれた名。 ラバーソールにとって、その名は酷くひっかかりを覚えるものだった。 空条、空条だと? その名を持つ男は既に殺されたはず。 まさか生きていたとでも? いや、それはありえない。ラバーソールはしっかりと見届けていた。空条承太郎はあの場で殺されたはずだ。 しのぶの口調はほんの今しがたの接触を語っているように聞こえる。ならば、空条承太郎の身内……別の人間と考えるのが妥当だろう。 上ずりかけた声を整えながら、ラバーソールは優しく女の言葉を促した。 「ふうん、空条さん、空条さんね……下の名前は?」 「え? ……ええと、承太郎さんっておっしゃってたわ」 そのとき、ラバーソールの背に電流走る。 空条、承太郎? 同姓同名にしては出来すぎている。奇妙なことばかりが起こっているが、これは極めつけの異常事態かもしれない。 「……助けてもらったのかい?」 「ええ、でも……何か、不気味で……ヘンな青い大男が……」 そこまで話を聞いたところで、不意にざっざっという足音が聞こえた。 腕の中のしのぶも気づいたのか、胸に擦りつくように身を縮こませる。 (チッ……気配を消してやがった。聞いてやがったな) 嫌な予感、ある意味ではいい予感とも言い換えられる。ラバーソールは腕の中の女を確かめるように僅かに撫でた。いざとなったらこいつが楯だ。 そして予想に違わず、写真では見慣れた、しかし随分と年を食ったふうの空条承太郎がのっそりとその長身を現した。 ◆ 少し前、空条承太郎は叫び走り出した女の背を茫然と見送っていた。 口の中はからからに乾き、胃の腑がひっくり返ってしまいそうな吐き気に襲われていたが、辛うじて声は出せた。 しかし、足が動かなかった。動こうとしてくれなかった。 彼が背負うものの中に、彼の大事な人が増えた。その重みが、彼の足を鈍らせていた。 「……やれやれ」 自嘲。 何もかもを守れるつもりなど無い。それほど強いと嘯けない。その青さは、遙か昔に失った。 絶望することは簡単だ。投げ出すことはより容易い。 信じがたい、信じたくない現実に、揺らぐ心は今にも折れそうに危うく傾いでいる。 ――だが、こんな俺にも守りたいものがある。守りたいひとがいる。 ――折れるわけにはいかない理由が、ある。 承太郎は悲しいくらい『空条承太郎』だった。背負ってきたもの、背負っているもの全てが、彼を彼として縛り付けている。 ぎゅっと帽子を深く被り、もう一度スタープラチナを出す。バラバラにされていた彼女を一所に集めるために。 叶うなら静かに眠らせてやりたいが、今動かなければ手遅れになることがあるというのを嫌というほど知っている。 これ以上、手を伸ばせば守れたかもしれない命を失うのはごめんだった。 見開いたままだった彼女の瞼をそっと落とし、入れ物ごとすぐ傍の見知らぬ邸宅の庭を間借りした。せめてこれ以上、辱めを受けることがないように、傷つけられることがないように。 青さという強さは取り戻せなくても、それに代わる重厚な経験を以って、空条承太郎は彼のまま、この理不尽な事件を解決しようとしている。 ◆ 承太郎は、さしたる間もなく川尻しのぶを見つけ出した。 血だまりに踏み込んだ際に付着した血の足跡によるところもあったが、何より彼女は派手に声を上げていたからだ。 危険そうな人物との遭遇であれば、有無を言わさず割って入るつもりだった承太郎だが、しのぶが抱きついている人物を窺って驚愕した。 川尻浩作――吉良吉影。忘れようにも忘れられないその姿は、十数年前の記憶となんの変わりもない、当時の姿そのものだった。 空条承太郎は恐るべき速さで思考する。 大前提として、吉良は承太郎の目の前で死んでいる。これは紛うことなき真実である。 十数年前の一連の事件、それはかの殺人鬼の死を以って終息した。 ゆえに生きているはずがない。当然の帰結として偽物と考えるしかないが、既に死んだ人間の偽物を作って何になろう。 川尻しのぶを絶望させたいがため? 彼女は限りなく『因縁』とは無関係の人間のはず。彼女を殺害してこちらを苦しめようということなら、反吐を吐き捨てたいくらい苛立たしく頭にくるが、意図としては読める。 そして、さらなる疑問は彼女の言葉。 彼女――川尻しのぶの叫びにあった『半年』とは? 彼女は十数年夫を待ち続けていたのではなかったのか? 川尻浩作の姿はまだ偽物という仮説をこじつけられるが、彼女の発言は奇妙だった。この時間のずれは何だ? 何かがおかしい。何かとんでもない、パンドラの箱を開きかけているような予感。 川尻浩作――中身は果たして何がでてくるやら――は、どうやら承太郎のことを妙に気にする素振りを見せている。 ――切るべき札は切る。 そうして承太郎は姿を現した。 「く、空条、さん……」 対話の口火を切ったのは川尻しのぶだった。彼女は怯えたように、川尻浩作にすがりついている。 これから起こることが彼女にとっての絶望に他ならなくとも、承太郎はこの理不尽なゲームの破壊をするために、一歩を踏み出す決意を既に固めていた。 「川尻さん、さっきは驚かせてすまなかった。ついでにもうひとつ、先に謝っておく」 ――スタープラチナ・ザ・ワールド。 かつての全盛期には比べるべくもないが、女ひとりを男から引き剥がすには十分な、間。 瞬きも許されぬ時の狭間で、三者の構図は逆転する。 ――そして、時は動き出す。 次の瞬間、川尻しのぶは空条承太郎のたくましい胸にすがりついていた。 何が起こったのかすら全く理解できていないだろう彼女は、黒目がちな目をさらにきゅうと丸くして、茫然と承太郎を見上げていた。やむを得なかったとはいえ、落ち着いたらもう一度きちんと謝罪せねばなるまい。 彼女の様子を視界の端に、承太郎は『川尻浩作』の次の動向を油断なく窺った。 さあ、鬼が出るか蛇が出るか―― ◆ ――あ、ありのまま 今 起こったことを話すぜ! ――『空条承太郎の前で女を楯にしていたと思ったら    いつの間にか女が空条承太郎に抱かれていた』 ――何を言ってるのかわからねーと思うが オレも何をされたのかわからなかった ――催眠術だとか超スピードだとか そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ ――もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ… 絶句するラバーソールを、空条承太郎は冷ややかな目で見据えている。さながら、実験動物でもみるような冷徹な視線。 なんらかのスタンド能力には違いない。だが、何をされたのかすら全くわからない、そんな理不尽な能力を空条承太郎は持っているのか? そもそも、何もかもがおかしいのだ。殺された空条承太郎、あれも間違いなく『空条承太郎』だった。 だが、ここに存在しているのもまた『空条承太郎』である。殺されたものより幾分年を食っているようだが、ただ年を重ねただけとは到底思えない、熟練した戦士の凄味を感じさせる。 何より、人を殺したことのある人間だけが持つ不穏な気配。 ビリビリと肌を粟立たせる容赦のない殺気が、ラバーソールに向けられている。 ――間違いねぇ、どういうわけだかコイツはオレに気づいてるッ! ラバーソールの背を冷たい汗が伝う。事を有利に運ぶはずだった『川尻浩作』の外見も、人質も兼ねた楯であったしのぶも、この『空条承太郎』の前で何の役にも立ちはしない。 今この瞬間、あの訳のわからないスタンド能力で抵抗する間もなく殺されるかもしれないのだ。 目の前の男が、得体の知れない化け物に見えた。 「て、テメー……一体何をしやがった……」 「……答える必要があるか? 川尻浩作の偽物」 それは決定的な一言だった。 「えッ……何よ、それ。何言ってるの」 空条承太郎の言葉を聞いて、呆気にとられていた川尻しのぶがやにわに騒ぎだす。 しのぶの気を引いて空条承太郎の隙を狙うという選択肢もなくはなかったが、恐らく空条承太郎は躊躇なくこちらを再起不能にするべく、あの訳のわからないスタンドを発動させただろう。 もはや会話は有用どころか、一触即発の危うさを孕んでいる。 答える代わりにじりじりと後退り、ラバーソールは脱兎の如く逃げ出した。 三十六計逃げるにしかず。 勝算のある殺しはするが、勝算のない戦いはラバーソールの望むところではない。それ以上に、あの空条承太郎とこれ以上相対していたくなかった。 右へ左へ進路を誤魔化しつつひた走り、やがてラバーソールは手近にあった民家の庭先に滑り込んだ。 (クソッ……何がどうなってやがるッ……) 壁に囲まれた庭先は、追跡者を窺うにも都合がいい。追手がなければなお良いのだが。 そのまま息を整えつつ、音と気配とに全神経を集中させる。 1分、2分、3分――追跡者は現れない。 (……お荷物が功を奏した、ってとこか) 楯にも隠れ蓑にもスタンドの食糧にも使える女を逃したのは手痛いが、あの奇妙な空条承太郎から逃走できたことを純粋に安堵しておく。 そしてラバーソールは、目の前の民家から人の気配がしないことを確認し、スタンドをグネグネと変形させて鍵を開けるとするりと忍び込んだ。室内を選択したのは、自身の能力を最大限に生かすためでもあり、純粋な休息を求めてのことでもある。 キッチンと思わしき場所は、幸いにして水も確保できるようだった。明かりはつけない、そんなことをすればここに人がいると大声をあげているも同じだから。 「理屈はさっぱりわからんが……空条承太郎は『二人』いた――?」 人心地のついたラバーソールは独り呟く。 それが何を意味するのか、彼の思考はたゆたっていく。 ◆ ――いったい、何が起こっているの? ――わたしはあのひとの傍にいたはず。 ――それに、今、空条さんの言った『偽物』って何? あのひとの偽物? 夫と再会できたとき、しのぶは例えようもない安堵感を感じていた。 なんの変哲もない日常から不意に姿を消した夫、ドラマの中だけだと思っていた出来事が自分の身に降りかかってきたとき、しのぶは俄かには信じられなかった。 明日には帰ってくる、明日には連絡をくれる、明日には警察から報せが来る……。 そう期待して待ち続けて、待ち続けて……遂に、日常の中で夫が戻ってくることはなかった。 だから、この『バトル・ロワイアル』で夫の姿を見つけた時、しのぶは俄かに色めきたった。 もちろん不可解な現実に恐ろしさも感じはしたが、それ以上に『ようやく夫を見つけた』という胸の高鳴りが勝ったのだ。 そこから再会までは、ただまんじりと待ち続けていた半年間とは違い、ジェットコースターのような急転直下の事態が襲いかかってきた。 見知らぬ他人、無残な死体、奇妙な大男――そして。 再会した夫は、いなくなったあの日と変わらず優しかった。彼の腕は力強く、また懐かしかった。 しのぶはようやく、希望と言う光を見つけられたような気がしていた――それなのに。 「えッ……何よ、それ。何言ってるの」 見上げた男の表情は窺い知れない。近すぎるのだ。 そして逃げ出すことも叶わない、しのぶは空条承太郎の頑健な腕にしっかりと押さえつけられている。 ――あなた、何か言って。言うべきことがあるでしょう、ねえッ! 沈黙。 いやに白々しい、それでいてピンと張りつめた空気が満ち満ちているのが、しのぶにすら理解できた。 夫は何も言ってくれない。 ようやく戻ってきてくれた、優しい言葉をかけてくれた夫。彼の腕の中で、しのぶは確かに安堵していた。彼だって、しのぶのことを抱きしめてくれた。居なくなっていたことが間違いだったとでも言いたげに、しっかりと。 それなのに、なぜ彼は何も言ってくれない? 「あな、た……ッ!?」 どうにか肩越しに垣間見た夫、その表情! 見たことのない、見たこともないその表情にしのぶは絶句した。 ――どうしてそんな顔をしているの。 ――どうしてわたしを見ていないの。 ――どうして、逃げ出そうとしているの? そして彼女の夫は逃げ出した。彼女に見向きもせず、あっさりと。 そして彼女は理解する。この無愛想な他人が告げたこと、それが真実だということを。 「……こんな形で知らせることになって、本当にすまないと思っている」 やがて紡がれた言葉を、しのぶはどこか他人事で聞いていた。 夫だと思っていた人の背は、既に闇に消えている。 言葉も現実も全てが遠い。 喜びが大きければ大きいほど、転じた絶望も深く際限がない。 俯き震えるしのぶに、目の前の男は静かな声で続けた。 「俺は以前、川尻浩作氏の死亡事件に関わっていた。詳細も――知っている。  聞きたいというなら話そう。信じられないのならば、どこか安全なところまででいい、付き添わせてほしい。  ――選んで、もらえないだろうか」 途切れた言葉に、しのぶはゆるゆると面を上げる。 乞い願うように、贖罪を求めるように、承太郎はじっとしのぶを見つめていた。 日本人らしからぬ深いエメラルドグリーンの、凪の海を思わせる眼差し。 恐らく、不器用な男の精一杯の気遣いなのだろう。 真摯な声と眼差しに、しのぶの硬直していた心がどきりと揺れた。 そうだ、彼も言っていたではないか。一人娘が、巻き込まれていると。 自分のことばかり考えていたが、振り返って彼はどうだったろう。 血を分けた娘がこの理不尽な殺戮に巻き込まれ、血を分けた母はあろうことか無残に殺され。 一度は彼を恐怖した。逃げ出しもした。 それでも彼は、詰りもせずしのぶをこうして気遣っている。悲しみも苦しみも押し隠して、赤の他人に過ぎない女を気遣っている。 そう、何も変わりはしないのだ。しのぶも、彼も、理不尽に運命の歯車を狂わされた者同士。 やがて、しのぶの唇がゆっくりと開かれた。 「……聞かせて、全部。あの人のことも、その『傍に立っている奇妙な大男』のことも」 「……わかった。少し――長くなるが。もう無関係とは思えないからな」 選んだ道、それが悲しみと苦難に満ち溢れていたとしても構いはしない。 女は、母は、そんなに弱い生き物ではないのだ。 空条承太郎は少しだけ躊躇ってから、頷き返事をくれた。 彼もまた、しのぶに宿った『覚悟』を見定めたのだろう。 ――夜明けが近づいていた。 【E-8 どこかの民家/一日目 黎明】 【ラバーソール】 [スタンド]:『イエローインパランス』 [時間軸]:JC15巻、DIOの依頼で承太郎一行を襲うため、花京院に化けて承太郎に接近する前 [状態]:疲労(中)、『川尻浩作』の外見 [装備]: [道具]:基本支給品一式×3、不明支給品3~6、首輪×2(アンジェロ、川尻浩作) [思考・状況] 基本行動方針:勝ち残って報酬ガッポリいただくぜ! 1.空条承太郎…恐ろしい男…! しかし二人とは…どういうこった? 2.川尻しのぶ…せっかく会えたってのに残念だぜ 3.『川尻浩作』の姿でか弱い一般人のフリをさせて貰うぜ…と思っていたがどうしようかな 4.承太郎一行の誰かに出会ったら、なるべく優先的に殺してやろうかな…? 【D-7、E-7 境目の路地/一日目 黎明】 【空条承太郎】 [時間軸]:六部。面会室にて徐倫と対面する直前。 [スタンド]:『星の白金(スタープラチナ)』 [状態]:健康、精神疲労(中) [装備]:煙草&ライター@現地調達 [道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2(確認済み) [思考・状況] 基本行動方針:バトルロワイアルの破壊&娘の保護。 1.川尻しのぶに真実を話し、詳細な情報交換をしたい。 2.川尻浩作の偽物を警戒。 3.お袋――すまねえ…… 4.空条承太郎は砕けない――今はまだ。 【川尻しのぶ】 [時間軸]:四部ラストから半年程度。The Book開始前。 [スタンド]:なし [状態]:疲労(小)、精神疲労(中) [装備]:なし [道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2(未確認) [思考・状況] 基本行動方針:? 1.空条承太郎から真実を聞く。 2.この川尻しのぶには『覚悟』があるッ! 3.か、勘違いしないでよ、ときめいてなんていないんだからねッ! *投下順で読む [[前へ>もしDIOがこの『バトル・ロワイアル』に参加していたら]] [[戻る>本編 第1回放送まで]] [[次へ>空気]] *時系列順で読む [[前へ>もしDIOがこの『バトル・ロワイアル』に参加していたら]] [[戻る>本編 第1回放送まで(時系列順)]] [[次へ>生とは――(Say to her) 前編]] *キャラを追って読む |前話|登場キャラクター|次話| |018:[[やっぱり僕のパパじゃない]]|[[ラバーソール]]|088:[[弾丸]]| |032:[[――時は巻き戻せない]]|[[川尻しのぶ]]|076:[[覚悟]]| |032:[[――時は巻き戻せない]]|[[空条承太郎]]|076:[[覚悟]]|
――チッチッ、チッチッ、時計の刻む音だけが聞こえてくる。 ――生臭い、生肉や生魚よりももっときつい、今にも吐き戻してしまいそうな臭いがする。 ――空条さんは黙ったまま、ぴくりとも動かない。 [[川尻しのぶ]]は、[[空条承太郎]]の動向を固唾を呑んで見守っていた。 ――何? 何か問題でもあったの? ――黙ったままじゃあわからないわよ。 どれくらい時間が経ったのか、よくわからない。 まだ数分も経っていないような気もするし、もう何時間とここにいるような気もする。非日常の只中に置かれて、自分の感覚ひとつ信じられない。 ただわかることは、このままここに居続けたって何の解決にもならないということだけ。 刻み続ける時計、その音がじりじりとしのぶの不安を増長する。 やがて、しのぶは意を決して承太郎にもう一度声をかけた。 「あの……空条さん? 何か、問題でも?」 言ってから、言葉のまずさに気がついた。何かなんてものじゃない、人が死んでいるのだ。 「ご、ごめんなさい、わたしったら……その、ええと」 男の背中は、何物をも拒絶するように微動だにしない。 しかしぽつりと、聞き逃してしまいそうなくらい小さな声で、返事が戻ってきた。 「…………くろ、だ」 「何? ごめんなさい、今、なんて……」 しのぶが聞き返すと、もう少しはっきりとした、ただし恐ろしく冷たい声が路地に響いた。 「俺の、お袋、ははおや、だ」 「……えッ」 聞き間違いでもない、空耳でもない。今この人は、自分の母だと言った。 しのぶが踏んづけてしまったこの腕は、この異常な場所で初めて出会ったこの人の、母親だと。 しのぶはなんとも言えない気持ち悪さに襲われた。冷たい汗が噴き出て止まらない。 こんなことはテレビの中だけの出来事だと思っていた。笑えも泣けもしない、昼下がりの二時間サスペンス。 しかし現実は非情なもので、ここはテレビの中でもなければ昼寝の夢でもない。頭で理解を拒否しても、体は否応なしにこの現実に順応していく。 吐き気は残っているけれど、いつの間にか臭いはわからなくなっていた。 「あ、その……なんて言ったらいいか……」 取り繕うように喋りながら背中を向けている男を窺うと、唐突に青い大男がぬっと姿を現した。 しかも、それは空条承太郎の体から透けるように浮き出ている! 「ひッ!?」 またしても恐慌状態に陥りそうになったしのぶだが、自分の手でなんとかそれ以上の悲鳴を上げないように口を押さえつけた。 異常といえば、みんな異常な出来事だ。どこかふわふわと地に足のつかない奇妙な感覚で、半透明の青い大男の動きに目を瞠る。 青い大男は、腕を――先ほどしのぶが踏んづけた腕――拾おうと手を伸ばし、ぎくりと固まって、不意に立ち消えた。まるでその場にいたことが間違いだったように、あっさりと掻き消えてしまった。 「あんた――見えてるのか?」 ようやく、空条承太郎が振り返った。だが、しのぶは男を『異常なものを見る目』で見つめていた。 出会ったときにうっすらと感じた頼り甲斐だとか、ささやかな安堵感だとか、そういうものは暗雲のように立ちこめた恐怖に覆い尽くされ、しのぶは堪らず叫んでいた。 「何、何、なんなのッ!? そいつッ!?」 忽然と現れ、そして煙のように消えた大男。 空条承太郎の、表情の無い能面のような顔。 無言の視線。観察するような、冷たい目。 色々なことが、短時間のうちに起こりすぎていた。 しのぶの心の容量は、もうほんの僅かな刺激で決壊してしまうくらい限界だった。 時間にすればほんの僅かな沈黙も、引き金と成り得るほどに。 「――――もう嫌ッ! いやァァァッ!!」 「ッ! 待て、待つんだッ……」 しのぶは弾かれたように駆けだした。 承太郎の声など、聞こえてもいなかった。 ◆ [[川尻浩作]]――もとい、『川尻浩作の皮を被った[[ラバーソール]]』は、ごく一般的な日本の住宅街をゆったりと歩いていた。 支給品はすっかり検分が済んでいる。あとは、よさそうなシチュエーションを見繕うだけ。 いかにもただの会社員といったふうを装うのに、コロッセオや庭園などは不釣り合いだろう。つぎはぎの町の中でも目を惹いた『館』の所在は、ここからだと少々遠すぎるし、先約の『依頼人』が在居しているとは限らない。 もう少し――そう、もう少し時間が経ってからでいい。 あの場で無数にいた獲物やら御同類やらを鑑みても、こんな早々から西へ東へとあくせく働きまわるのも不合理だ。新しい『依頼人』にはそれなりの媚を売りつつ、美味い汁だけ啜らせてもらえばいい。 そのための、このひ弱な会社員姿だ。せいぜい有効利用させてもらおう。 「それにしても……日本の住宅街ってやつはどうしてこうゴミゴミしてやがるのかねェ」 ラバーソールの目的地、それは川尻家と地図上に記されている家である。 行く先で人に出会えればそれもよし、出会えなくとも、本人が自宅で休むのに何の不都合があろうか。気力体力を充実させてこそ、いい殺しができるというものだ。 「まあ、入り組んでるけどもうチョイってところか……っと、おやおやァ?」 熟練の殺し屋としての感覚が、近くにいる誰かの気配を知らせている。 誰であろうと構いはしない、何せ自分は『川尻浩作』だ。この姿、無力、無害、弱者! ラバーソールがいかにも恐る恐るといったふうに曲がり角の先に顔を出すと、ひとりの女が息を荒げて蹲っていた。切れ切れに上がる嗚咽から察するに、どうやら泣いてもいるようだ。 ラバーソールは内心、にんまりと口角を釣り上げる。ひとつ口笛でも吹きたくなるようないいカモだった。 「あの、すみません……もしもし?」 ラバーソールは女に声をかける。無力、無害、いかにもマヌケそうな善人ぶって! しかし、思惑は脆くも崩れ去る。 ラバーソールの誤算、それは女のあまりにも特異な反応だった。 「ッ!! ……あ、あなた、アナタぁぁァァァッッ!!」 涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔に、振り乱した髪。元はそれなりに美人なのだろうが、いかんせん鬼気迫る表情がそれを台無しにしている。 たいがいの美女も醜女も見慣れていたラバーソールだが、一線を画した女の表情というのはいつ見ても心臓に悪いものだった。 まして、それが全力で抱きついてくるなんて! 女の細腕が、万力のような力を込めて回される。がくがくと震えているのは安堵故か恐怖故か。 一瞬、このまま『喰って』しまおうと思いかけたラバーソールだったが、女の叫びに僅かなひっかかりを覚えた。ものの試しに、川尻浩作から得た妻の名を口に出してみる。 「しの、ぶ……?」 「ええそうよッ、半年見なかったら忘れたとでもいうのッ!? 本当に本当に心配してたんだからッ! よくわからないことは起こるし人は殺されてるし、こわかった、本当に怖かったわッ!」 堰を切ったようにとめどなく流れ出す『しのぶ』の言葉を、要点だけ拾うように聞き流しながら、ラバーソールは俄かに思考を巡らせていた。 (チッ、厄介なものを拾っちまったかもしれんなァ~、このアマ……とかく面倒そうな女だ) (しかし妙だな、川尻浩作は半年もこの女の元に帰ってなかった? そんなことなら女のひとりでもつくってそうなもんだが……ンなこたぁ言ってなかったしよォ~) (ま、気になることはあるがよ……オレ様の魅力にかかればチョロそうな女ではあるなァーッ! せいぜいいい奥さんになってくれよッ) ラバーソールは、ほんの数十分の邂逅で得た『川尻浩作』像を、可能な限り模倣する。 「しのぶ、しのぶ……すまなかった、落ち着いて聞いてくれ」 「こんなところ、一時だって居たくないのッ……え、なあに?」 胸元に顔をうずめて泣きじゃくっていた女が、夫の言葉に顔をあげてことりと首をかしげる。 あどけない童女のような仕草に、これを素でやっているのだとしたら大したカマトト女だと思いながら、ラバーソールは壊れ物を扱うように優しく彼女を抱き返した。 「ここは危ない、一度家に行こう。何かわかることがあるかもしれない」 「……そう、ね。そうしたほうがいいわよね」 「そうとも。それに、人が殺されていたんだろう? こんな暗がり、どんな殺人鬼が潜んでいるかわからないじゃないか」 「……ええ、そうね。でも……ああ、わたし……空条さんに酷いことを……」 「ッ、?」 悔やむように呟かれた名。 ラバーソールにとって、その名は酷くひっかかりを覚えるものだった。 空条、空条だと? その名を持つ男は既に殺されたはず。 まさか生きていたとでも? いや、それはありえない。ラバーソールはしっかりと見届けていた。空条承太郎はあの場で殺されたはずだ。 しのぶの口調はほんの今しがたの接触を語っているように聞こえる。ならば、空条承太郎の身内……別の人間と考えるのが妥当だろう。 上ずりかけた声を整えながら、ラバーソールは優しく女の言葉を促した。 「ふうん、空条さん、空条さんね……下の名前は?」 「え? ……ええと、承太郎さんっておっしゃってたわ」 そのとき、ラバーソールの背に電流走る。 空条、承太郎? 同姓同名にしては出来すぎている。奇妙なことばかりが起こっているが、これは極めつけの異常事態かもしれない。 「……助けてもらったのかい?」 「ええ、でも……何か、不気味で……ヘンな青い大男が……」 そこまで話を聞いたところで、不意にざっざっという足音が聞こえた。 腕の中のしのぶも気づいたのか、胸に擦りつくように身を縮こませる。 (チッ……気配を消してやがった。聞いてやがったな) 嫌な予感、ある意味ではいい予感とも言い換えられる。ラバーソールは腕の中の女を確かめるように僅かに撫でた。いざとなったらこいつが楯だ。 そして予想に違わず、写真では見慣れた、しかし随分と年を食ったふうの空条承太郎がのっそりとその長身を現した。 ◆ 少し前、空条承太郎は叫び走り出した女の背を茫然と見送っていた。 口の中はからからに乾き、胃の腑がひっくり返ってしまいそうな吐き気に襲われていたが、辛うじて声は出せた。 しかし、足が動かなかった。動こうとしてくれなかった。 彼が背負うものの中に、彼の大事な人が増えた。その重みが、彼の足を鈍らせていた。 「……やれやれ」 自嘲。 何もかもを守れるつもりなど無い。それほど強いと嘯けない。その青さは、遙か昔に失った。 絶望することは簡単だ。投げ出すことはより容易い。 信じがたい、信じたくない現実に、揺らぐ心は今にも折れそうに危うく傾いでいる。 ――だが、こんな俺にも守りたいものがある。守りたいひとがいる。 ――折れるわけにはいかない理由が、ある。 承太郎は悲しいくらい『空条承太郎』だった。背負ってきたもの、背負っているもの全てが、彼を彼として縛り付けている。 ぎゅっと帽子を深く被り、もう一度スタープラチナを出す。バラバラにされていた彼女を一所に集めるために。 叶うなら静かに眠らせてやりたいが、今動かなければ手遅れになることがあるというのを嫌というほど知っている。 これ以上、手を伸ばせば守れたかもしれない命を失うのはごめんだった。 見開いたままだった彼女の瞼をそっと落とし、入れ物ごとすぐ傍の見知らぬ邸宅の庭を間借りした。せめてこれ以上、辱めを受けることがないように、傷つけられることがないように。 青さという強さは取り戻せなくても、それに代わる重厚な経験を以って、空条承太郎は彼のまま、この理不尽な事件を解決しようとしている。 ◆ 承太郎は、さしたる間もなく川尻しのぶを見つけ出した。 血だまりに踏み込んだ際に付着した血の足跡によるところもあったが、何より彼女は派手に声を上げていたからだ。 危険そうな人物との遭遇であれば、有無を言わさず割って入るつもりだった承太郎だが、しのぶが抱きついている人物を窺って驚愕した。 川尻浩作――[[吉良吉影]]。忘れようにも忘れられないその姿は、十数年前の記憶となんの変わりもない、当時の姿そのものだった。 空条承太郎は恐るべき速さで思考する。 大前提として、吉良は承太郎の目の前で死んでいる。これは紛うことなき真実である。 十数年前の一連の事件、それはかの殺人鬼の死を以って終息した。 ゆえに生きているはずがない。当然の帰結として偽物と考えるしかないが、既に死んだ人間の偽物を作って何になろう。 川尻しのぶを絶望させたいがため? 彼女は限りなく『因縁』とは無関係の人間のはず。彼女を殺害してこちらを苦しめようということなら、反吐を吐き捨てたいくらい苛立たしく頭にくるが、意図としては読める。 そして、さらなる疑問は彼女の言葉。 彼女――川尻しのぶの叫びにあった『半年』とは? 彼女は十数年夫を待ち続けていたのではなかったのか? 川尻浩作の姿はまだ偽物という仮説をこじつけられるが、彼女の発言は奇妙だった。この時間のずれは何だ? 何かがおかしい。何かとんでもない、パンドラの箱を開きかけているような予感。 川尻浩作――中身は果たして何がでてくるやら――は、どうやら承太郎のことを妙に気にする素振りを見せている。 ――切るべき札は切る。 そうして承太郎は姿を現した。 「く、空条、さん……」 対話の口火を切ったのは川尻しのぶだった。彼女は怯えたように、川尻浩作にすがりついている。 これから起こることが彼女にとっての絶望に他ならなくとも、承太郎はこの理不尽なゲームの破壊をするために、一歩を踏み出す決意を既に固めていた。 「川尻さん、さっきは驚かせてすまなかった。ついでにもうひとつ、先に謝っておく」 ――スタープラチナ・ザ・ワールド。 かつての全盛期には比べるべくもないが、女ひとりを男から引き剥がすには十分な、間。 瞬きも許されぬ時の狭間で、三者の構図は逆転する。 ――そして、時は動き出す。 次の瞬間、川尻しのぶは空条承太郎のたくましい胸にすがりついていた。 何が起こったのかすら全く理解できていないだろう彼女は、黒目がちな目をさらにきゅうと丸くして、茫然と承太郎を見上げていた。やむを得なかったとはいえ、落ち着いたらもう一度きちんと謝罪せねばなるまい。 彼女の様子を視界の端に、承太郎は『川尻浩作』の次の動向を油断なく窺った。 さあ、鬼が出るか蛇が出るか―― ◆ ――あ、ありのまま 今 起こったことを話すぜ! ――『空条承太郎の前で女を楯にしていたと思ったら    いつの間にか女が空条承太郎に抱かれていた』 ――何を言ってるのかわからねーと思うが オレも何をされたのかわからなかった ――催眠術だとか超スピードだとか そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ ――もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ… 絶句するラバーソールを、空条承太郎は冷ややかな目で見据えている。さながら、実験動物でもみるような冷徹な視線。 なんらかのスタンド能力には違いない。だが、何をされたのかすら全くわからない、そんな理不尽な能力を空条承太郎は持っているのか? そもそも、何もかもがおかしいのだ。殺された空条承太郎、あれも間違いなく『空条承太郎』だった。 だが、ここに存在しているのもまた『空条承太郎』である。殺されたものより幾分年を食っているようだが、ただ年を重ねただけとは到底思えない、熟練した戦士の凄味を感じさせる。 何より、人を殺したことのある人間だけが持つ不穏な気配。 ビリビリと肌を粟立たせる容赦のない殺気が、ラバーソールに向けられている。 ――間違いねぇ、どういうわけだかコイツはオレに気づいてるッ! ラバーソールの背を冷たい汗が伝う。事を有利に運ぶはずだった『川尻浩作』の外見も、人質も兼ねた楯であったしのぶも、この『空条承太郎』の前で何の役にも立ちはしない。 今この瞬間、あの訳のわからないスタンド能力で抵抗する間もなく殺されるかもしれないのだ。 目の前の男が、得体の知れない化け物に見えた。 「て、テメー……一体何をしやがった……」 「……答える必要があるか? 川尻浩作の偽物」 それは決定的な一言だった。 「えッ……何よ、それ。何言ってるの」 空条承太郎の言葉を聞いて、呆気にとられていた川尻しのぶがやにわに騒ぎだす。 しのぶの気を引いて空条承太郎の隙を狙うという選択肢もなくはなかったが、恐らく空条承太郎は躊躇なくこちらを再起不能にするべく、あの訳のわからないスタンドを発動させただろう。 もはや会話は有用どころか、一触即発の危うさを孕んでいる。 答える代わりにじりじりと後退り、ラバーソールは脱兎の如く逃げ出した。 三十六計逃げるにしかず。 勝算のある殺しはするが、勝算のない戦いはラバーソールの望むところではない。それ以上に、あの空条承太郎とこれ以上相対していたくなかった。 右へ左へ進路を誤魔化しつつひた走り、やがてラバーソールは手近にあった民家の庭先に滑り込んだ。 (クソッ……何がどうなってやがるッ……) 壁に囲まれた庭先は、追跡者を窺うにも都合がいい。追手がなければなお良いのだが。 そのまま息を整えつつ、音と気配とに全神経を集中させる。 1分、2分、3分――追跡者は現れない。 (……お荷物が功を奏した、ってとこか) 楯にも隠れ蓑にもスタンドの食糧にも使える女を逃したのは手痛いが、あの奇妙な空条承太郎から逃走できたことを純粋に安堵しておく。 そしてラバーソールは、目の前の民家から人の気配がしないことを確認し、スタンドをグネグネと変形させて鍵を開けるとするりと忍び込んだ。室内を選択したのは、自身の能力を最大限に生かすためでもあり、純粋な休息を求めてのことでもある。 キッチンと思わしき場所は、幸いにして水も確保できるようだった。明かりはつけない、そんなことをすればここに人がいると大声をあげているも同じだから。 「理屈はさっぱりわからんが……空条承太郎は『二人』いた――?」 人心地のついたラバーソールは独り呟く。 それが何を意味するのか、彼の思考はたゆたっていく。 ◆ ――いったい、何が起こっているの? ――わたしはあのひとの傍にいたはず。 ――それに、今、空条さんの言った『偽物』って何? あのひとの偽物? 夫と再会できたとき、しのぶは例えようもない安堵感を感じていた。 なんの変哲もない日常から不意に姿を消した夫、ドラマの中だけだと思っていた出来事が自分の身に降りかかってきたとき、しのぶは俄かには信じられなかった。 明日には帰ってくる、明日には連絡をくれる、明日には警察から報せが来る……。 そう期待して待ち続けて、待ち続けて……遂に、日常の中で夫が戻ってくることはなかった。 だから、この『バトル・ロワイアル』で夫の姿を見つけた時、しのぶは俄かに色めきたった。 もちろん不可解な現実に恐ろしさも感じはしたが、それ以上に『ようやく夫を見つけた』という胸の高鳴りが勝ったのだ。 そこから再会までは、ただまんじりと待ち続けていた半年間とは違い、ジェットコースターのような急転直下の事態が襲いかかってきた。 見知らぬ他人、無残な死体、奇妙な大男――そして。 再会した夫は、いなくなったあの日と変わらず優しかった。彼の腕は力強く、また懐かしかった。 しのぶはようやく、希望と言う光を見つけられたような気がしていた――それなのに。 「えッ……何よ、それ。何言ってるの」 見上げた男の表情は窺い知れない。近すぎるのだ。 そして逃げ出すことも叶わない、しのぶは空条承太郎の頑健な腕にしっかりと押さえつけられている。 ――あなた、何か言って。言うべきことがあるでしょう、ねえッ! 沈黙。 いやに白々しい、それでいてピンと張りつめた空気が満ち満ちているのが、しのぶにすら理解できた。 夫は何も言ってくれない。 ようやく戻ってきてくれた、優しい言葉をかけてくれた夫。彼の腕の中で、しのぶは確かに安堵していた。彼だって、しのぶのことを抱きしめてくれた。居なくなっていたことが間違いだったとでも言いたげに、しっかりと。 それなのに、なぜ彼は何も言ってくれない? 「あな、た……ッ!?」 どうにか肩越しに垣間見た夫、その表情! 見たことのない、見たこともないその表情にしのぶは絶句した。 ――どうしてそんな顔をしているの。 ――どうしてわたしを見ていないの。 ――どうして、逃げ出そうとしているの? そして彼女の夫は逃げ出した。彼女に見向きもせず、あっさりと。 そして彼女は理解する。この無愛想な他人が告げたこと、それが真実だということを。 「……こんな形で知らせることになって、本当にすまないと思っている」 やがて紡がれた言葉を、しのぶはどこか他人事で聞いていた。 夫だと思っていた人の背は、既に闇に消えている。 言葉も現実も全てが遠い。 喜びが大きければ大きいほど、転じた絶望も深く際限がない。 俯き震えるしのぶに、目の前の男は静かな声で続けた。 「俺は以前、川尻浩作氏の死亡事件に関わっていた。詳細も――知っている。  聞きたいというなら話そう。信じられないのならば、どこか安全なところまででいい、付き添わせてほしい。  ――選んで、もらえないだろうか」 途切れた言葉に、しのぶはゆるゆると面を上げる。 乞い願うように、贖罪を求めるように、承太郎はじっとしのぶを見つめていた。 日本人らしからぬ深いエメラルドグリーンの、凪の海を思わせる眼差し。 恐らく、不器用な男の精一杯の気遣いなのだろう。 真摯な声と眼差しに、しのぶの硬直していた心がどきりと揺れた。 そうだ、彼も言っていたではないか。一人娘が、巻き込まれていると。 自分のことばかり考えていたが、振り返って彼はどうだったろう。 血を分けた娘がこの理不尽な殺戮に巻き込まれ、血を分けた母はあろうことか無残に殺され。 一度は彼を恐怖した。逃げ出しもした。 それでも彼は、詰りもせずしのぶをこうして気遣っている。悲しみも苦しみも押し隠して、赤の他人に過ぎない女を気遣っている。 そう、何も変わりはしないのだ。しのぶも、彼も、理不尽に運命の歯車を狂わされた者同士。 やがて、しのぶの唇がゆっくりと開かれた。 「……聞かせて、全部。あの人のことも、その『傍に立っている奇妙な大男』のことも」 「……わかった。少し――長くなるが。もう無関係とは思えないからな」 選んだ道、それが悲しみと苦難に満ち溢れていたとしても構いはしない。 女は、母は、そんなに弱い生き物ではないのだ。 空条承太郎は少しだけ躊躇ってから、頷き返事をくれた。 彼もまた、しのぶに宿った『覚悟』を見定めたのだろう。 ――夜明けが近づいていた。 【E-8 どこかの民家/一日目 黎明】 【ラバーソール】 [スタンド]:『イエローインパランス』 [時間軸]:JC15巻、DIOの依頼で承太郎一行を襲うため、花京院に化けて承太郎に接近する前 [状態]:疲労(中)、『川尻浩作』の外見 [装備]: [道具]:[[基本支給品]]一式×3、不明支給品3~6、首輪×2(アンジェロ、川尻浩作) [思考・状況] 基本行動方針:勝ち残って報酬ガッポリいただくぜ! 1.空条承太郎…恐ろしい男…! しかし二人とは…どういうこった? 2.川尻しのぶ…せっかく会えたってのに残念だぜ 3.『川尻浩作』の姿でか弱い一般人のフリをさせて貰うぜ…と思っていたがどうしようかな 4.承太郎一行の誰かに出会ったら、なるべく優先的に殺してやろうかな…? 【D-7、E-7 境目の路地/一日目 黎明】 【空条承太郎】 [時間軸]:六部。面会室にて徐倫と対面する直前。 [スタンド]:『星の白金(スタープラチナ)』 [状態]:健康、精神疲労(中) [装備]:煙草&ライター@現地調達 [道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2(確認済み) [思考・状況] 基本行動方針:バトルロワイアルの破壊&娘の保護。 1.川尻しのぶに真実を話し、詳細な情報交換をしたい。 2.川尻浩作の偽物を警戒。 3.お袋――すまねえ…… 4.空条承太郎は砕けない――今はまだ。 【川尻しのぶ】 [時間軸]:四部ラストから半年程度。The Book開始前。 [スタンド]:なし [状態]:疲労(小)、精神疲労(中) [装備]:なし [道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2(未確認) [思考・状況] 基本行動方針:? 1.空条承太郎から真実を聞く。 2.この川尻しのぶには『覚悟』があるッ! 3.か、勘違いしないでよ、ときめいてなんていないんだからねッ! *投下順で読む [[前へ>もしDIOがこの『バトル・ロワイアル』に参加していたら]] [[戻る>本編 第1回放送まで]] [[次へ>空気]] *時系列順で読む [[前へ>もしDIOがこの『バトル・ロワイアル』に参加していたら]] [[戻る>本編 第1回放送まで(時系列順)]] [[次へ>生とは――(Say to her) 前編]] *キャラを追って読む |前話|登場キャラクター|次話| |018:[[やっぱり僕のパパじゃない]]|[[ラバーソール]]|088:[[弾丸]]| |032:[[――時は巻き戻せない]]|[[川尻しのぶ]]|076:[[覚悟]]| |032:[[――時は巻き戻せない]]|[[空条承太郎]]|076:[[覚悟]]|

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