第24話「キリング・ザ・ドラゴン②」
宝塚記念。
JRAの主催により、阪神競馬場(宝塚市)、芝2200で施行されるG1レース。
1960年、春期の関西地区を代表するレースとして創設。その後、上半期の一大レースとしての地位を獲得する。
近年は競馬の国際化という状況を踏まえ、国際レースへの試金石として一流馬が挑むケースが多く見られる。
これに関連し、宝塚記念は海外からの出走を受け入れている。
しかし、国際G1レースとして格付けされた2001年以降、海外からの競争馬の出走は一度もない。(2009年現在)
「ひゃー……人、いっぱいですねえ」
みくるさんが目をぱっちり開けて言った。ハルヒも目を白黒させている。
「……嘘でしょ。まだ12時よ!?何でこんなに混んでるの!?」
宝塚記念の開始時刻は4時近いが、競馬場内は既に人で溢れ返っていた。ぼくにしてみれば当然の事だが。
「人気レースだからね。このクラスになると前日組も出るくらいだから」
「そんなに人気なのか?」
キョンが汗を拭いながら言う。さすがにこの熱気には驚いているようだ。
「そうだよ。確か、宝塚記念はファン投票で出走馬を決めてたはずだ。
オールスター・ゲームって事。人気あるのは当然だろ?」
「へえ、そうなのか」
感心したように頷くキョンの横で、みくるさんがしゃがみ込んだ。
「……何か、人混みで気分悪くなってきちゃいました」
「ええ!?ちょっと待って!今、席探してるから!」
ハルヒが慌ててみくるさんの背を撫でる。この混み様じゃ、席が取れてもゆっくりは出来そうに無いが。
女子トイレとかも混んでるだろうし……ぼくは長門に耳打ちした。
「長門……どうにかならない?情報操作で、鎮静剤作るとか」
「……出来るかもしれない。けど、やった事がないから失敗するかもしれない。……効きすぎたり」
……じゃあ、やっぱりいいや。ちょっとしたパニック状態に包まれる中、視界に見慣れた顔が入った。
古泉だ。人混みをかき分けながら歩いて来るが、その表情は暗い。
「駄目でしたよ。空席は一つもありませんでした」
余りにも人が多いので、古泉だけが代表で席を探しに行ったんだけど、やっぱり駄目だったか。
「えー!じゃあレースまで三時間も立ち見!?」
「……む、無理です……」
みくるさんが弱々しい声を上げる。残念だが、今からではどうしようもない。
暗い雰囲気の中、ハルヒはしばらく俯いていたが、顔を上げると口を尖らせて言った。
「……ジョニィも混むって知ってるんだったら、言ってよね」
ちょっと、八つ当たりをされたら困る。突然矛先が向けられた事に驚き、ぼくは早口に言った。
「ハルヒがもっと調べてると思ったんだよ。時間が遅いのも、何かあるんだって……指定席、取ってるとか」
「指定席?」
苦し紛れに言った言葉を聞いて、ハルヒが一転して明るい明るい声を出す。
ほぼ出任せなのに。行き当たりばったりのハルヒが指定席を取ってるわけ無いし。
「指定席ですって?そんなのがあるの?」
「あるけど……でも、この人だよ?空いてるわけがない」
止めようとしても、もう手遅れだった。ハルヒはみくるさんから手を離すと言い放った。
「わからないわよ。ひょっとしたらキャンセル出てるかも!あたしに任せて!」
まるでラインを潜り抜けるランニングバックだ。すいすいと人混みを駆け抜けていく。
「お、おい。……どうする?」
置いてきぼりになったぼくらを代表し、キョンが言う。ぼくは溜め息と一緒に言葉を吐き出した。
「……任せられるわけ無いだろ。みくるさん、歩けるかい?後を追おう」
ここ以外のどこかに医務室くらいはあるだろう。どっちにしろ、みくるさんをこのまま人混みの中に居させる事は出来ないんだ。
指定席を譲り受けられればベストだが……一番避けたいのはハルヒがトラブルを起こす事だ。
ひとまず、ぼくらは受付に行く事にした。ハルヒの姿はすっかり見失ってしまったが、
指定席の問い合わせなら行き先はここだろう。そう思ったのだが。
「……どこにも居ませんね」
古泉が肩を竦める。まさか、行き違いになったのか?無理も無い。ぼく達の機動性は最悪そのものだ。
車椅子のぼくがいるし、みくるさんだって長門に支えられて歩いてるような物なんだから。
まして、この人混みの中では亀以下。素早いハルヒとすれ違うのは当然だ。
しかし、ぼくは最悪のケースを予測していた。
「……まさか、指定席に直接行ったんじゃ」
だとしたら、危険性は跳ね上がる。受付嬢相手なら、多少無茶を言っても困った客止まりだが、
一般客相手にそれをされたら最悪警察沙汰になりかねない。
全員がすぐにぼくの意図を察し、すぐにエレベーターに乗り込み指定席方面へ向かった……が、思わぬ場所で足が止まる。
「お、おい。あれってハルヒじゃないか?」
キョンが青ざめた顔で指差す。エレベーターを降りた矢先の事だが、その方向は指定席方面じゃない。
見間違いか?思いながら見ると、見慣れたカチューシャ。紛れも無くハルヒだ。
何か、人と言い合ってるようだが……あ、相手は警備員じゃないか!?
しかも、あの馬鹿……!あそこは指定席じゃあない!あそこはVIPルームだ。
一流馬主か、JRAの役員、それくらいしか入れない部屋が並ぶ場所だ。一介の高校生が入れるわけが無い!
詳しく知らないであろう他の皆も、ハルヒが警察を呼ばれかねない事をしている事はわかったらしい。
ぼく達は一目散に駆け付けると、驚くハルヒにかまわず頭を下げた。
「すみませんすみません!コイツにはよく言って聞かせますんで勘弁して下さい!」
まず口火を切ったのはキョンである。見事な謝罪。さすが、謝り慣れている。
しかし、話の腰を折られたハルヒは黙ってはいない。
「ちょっとキョン、今交渉てるんだから邪魔しないでよ!」
「もう喋るな!すみません、ここは許して下さい!」
無視して謝罪を続けるぼく達にハルヒは激怒した。
「何よ、皆して!あんなに部屋があるのよ!?一つくらいいいじゃない!ケチ臭いのよ!」
やってしまった。明らかに警備員が表情を険しくしている。
「君たちねえ……まだ学生だろ?学校どこ?」
まずい。非常にまずい。競馬観戦どころの話ではない。仕方ない。こうなったら長門に鎮静剤を……。
そう思ったその時だった。若々しいが落ち着いた声と共に、手前のドアが開く。
「何だ?騒がしい……。警備員は何をしてる?」
聞き覚えのあるブリティッシュ・イングリッシュ。ドアから出て来たのは……金髪の、乗馬服の男だった。
警備員は英語がわからないようだったが、非難がましい目付きには気付いたらしい。慌てた様子で手を振った。
「も、もういい。さっさと行きなさい」
振り払う態度が気に入らなかったらしく、ハルヒがムッとした表情をする。爆発寸前だ。キョンと古泉が必死になだめる。
その間、あの男は虫を見るような冷たい目付きでぼくらを見ていた。しかし、突然にその目が驚きで見開かれた。
「……おい、ジョニィ?君、ジョニィ・ジョースターだろ!?」
そして、警備員の制止を振り切ってぼくに近づいて来た。
「…………」
「やっぱり、ジョニィじゃないか!怪我したって聞いていたが……フフッ、日本にいたとは!」
皆が、警備員すら事態が理解出来ずに固まっていた。突然に親しげに話し始めた男に面食らっていた。
「レースを見に来たのか?こいつらは友達か?」
なおも質問を浴びせる男に、部屋からやはり落ち着いた声の英語が問い掛ける。
「どうしたんだね、Dio君?戻って来ないが、何かあったのか?」
身なりのいい中年の紳士だ。馬主だろうか。男……Dioはぼくを手で示した。
「ええ、ご覧下さい。ジョニィ・ジョースターですよ。……お忘れですか。数年前にデビューした天才ジョッキーの」
紳士はぼくの姿を認めると目を見張った。
「む……た、確かに。しかし、これがかつての天才ジョッキーの姿とは……あ、いや失礼」
紳士は咳払いするとぼくから視線を外し、既に興味を失ったかのようにDioに言った。
「……そんな事より、もうこんな時間だ。そろそろレースの準備をしなくていいのかね?」
「オーナー、その事なんですがね……」
Dioは言葉を切ると、一瞬嫌らしい笑みを浮かべた後に口を開いた。
「彼らをVIPルームに入れてやってはくれませんか。彼は私の友人です。このレースでの勝利を特等席で見てもらいたい」
「何だと?うむ……しかしな……」
意外な申し出に馬主も驚いている。無理も無い。身元の知れない人間を入れるなんて、常識では考えられない。
しかし、Dioが食い下がった。
「今回もオーナーは前レースからゴール正面の席でご覧になるんでしょう?でしたら、どのみち空く席ではないですか」
馬主はしばらく思案していたが、ジョッキー直々の頼みに渋々といった様子で頷いた。
「……いいだろう。私もそろそろ行く。君も準備したまえ」
Dioは満足そうに笑いながら礼を言うと、その笑みをぼくに向けた。
「フフ、ねじ込めたよ。環境は最高だぜ。のんびりとエアコンの効いた部屋で俺の勝利を見ているといい」
そして、馬主に伴い奥へと歩いて行った。去り際に不敵な笑みを残して。
「……え?何?どういう事?」
Dioや馬主の会話は英語で行われたため、ハルヒ達は何が何だか分かっていない。
ぼくは苦々しい気分で疑問に答えた。
「……あいつはDio……ディエゴ・ブランドー。騎手だ。そこの部屋を使っていいらしい」
「ええっ、嘘っ!」
皆が信じられないという様子で声をあげる。
しかし、髪の長い男……Dioのボディーガードだろうか……に耳打ちされた警備員が道を開けると、
どうやら本当にVIPルームを使っていいのだとわかった。ハルヒが喜んで部屋に入って行く。
「やったー!うわ、涼しい……」
「良い部屋ですね。まるでホテルの一室、といった所でしょうか」
「へえ、飲み物まで備え付けてあるのか。本当にVIP待遇なんだな」
皆が口々に部屋を誉める。確かに環境としては最高だ。人が溢れたスタンドとは比べ物にもならない。
みくるさんも涼しい部屋で座れたせいか落ち着いた様子だし、文句の付けようが無い。喜ぶべきだ。
「ところでジョニィ、さっきのあいつは……ってどこ行くんだよ?」
喜ぶ皆をよそに、ぼくはドアに手を掛けていた。
ぼくは振り返らないまま返事をした。
「……まだレースまで時間がある。飲み物を買ってくるよ」
特に制止の声も無く、ぼくは一人廊下に出た。一般席の喧騒から離れた静かな廊下。
ぼくは当ても無く、奥へ進んで行った。Dio……彼も本場英国では天才の名を独占していた騎手だ。だが、それもぼくがデビューするまでの話。
直接対決では結局勝つ事は無かったが……でも、いつか勝つ。そのはずだった。あの事件のせいでそれも断たれたが……。
静かだ。車椅子のタイヤが鳴らす、ゴムの擦れる音だけが響いていた。
「ジョニィ?……どこ行くのよ」
澄んだ声がそこに混ざる。真っ直ぐな視線がぼくを射抜いていた。
「……ハルヒ……言っただろ。飲み物買ってくるって」
「嘘。キョンが言ってたじゃない。飲み物も備え付けられてるって。見もしないで行く?」
「…………」
ハルヒは本来頭が良い人間だ。しかし、ただの秀才と一線を画すのは行動力が尋常ではないという事。
もう一つ、他人の都合をまるで考えない事。目的地を見据えたなら最短距離を突っ走る。
雪崩のように進路上にある物は全て巻き込んで。強引な奴なんだ。
今回だってそう。鋭い洞察力から、ぼくが嘘をついている事には気付いたらしいが、
何か理由があるんだろうと、そっとしておくなんて考えもしない。
一言で言えば暑苦しくて迷惑。ハルヒはそういう奴だ。
でも、この時はそういう所が嫌いにはなれなかった。
「……さっきのあいつ、どう思った?」
「さっきの?Dio……だったっけ。友達?」
ぼくは吹き出した。
「友達?冗談だろ!?あの笑顔、見たかい?旧友に対して向ける物じゃない。見下してた。
大体、あいつとは話した事すら全然無い。それなのに……」
それなのに、わざわざ誘った。友達の前で席を譲ると言われたら断われるわけが無い。
「俺の勝ちを見ろ」だと?文字通り「失脚」したかつてのライバルに?……最高に良い趣味をしてる。
「そうなの?……確かに、何か嫌な感じしたけど」
ハルヒが怪訝そうに言う。しばらく眉を寄せると、戸惑ったように口を開いた。
「……ねえ。何か変よ?あの人と何かあったの?」
「……彼は信用出来ない。それだけは確かだ。個人的な印象を抜きにしても、競馬界では彼の黒い噂は絶えない。
一見紳士的だけど、それは上辺だけだ。……少なくとも、見返り無しに親切をするタイプの人間じゃあない」
今回は見返りがある。優越感という大きな見返りが。高慢なあいつには堪えられないだろう。
しかし、こんな場所で会うなんて……運命の悪戯か?だとしたら残酷じゃないか!
脚だけ取り上げて、競馬からは離れるなって!?悪趣味すぎる!
「……ねえ、ジョニィ。そろそろ戻らない?」
弱々しい声を聞き、ぼくはハルヒを見る。……初めて見る顔をしていた。こんな顔をするのか、とすら思った。
いつもとは全然違って、そして、その原因は一つしかない。ぼくだ。
「……ごめん。こんな事言って。大した事じゃあないんだ。本当だよ」
ハルヒは少しの間ぼくに視線を送ったが、すぐに普段の不遜な態度に戻った。
「しょうがないわね。大サービスで帰りにジュース一本で許してあげる」
……ふう、良かった。そうじゃないと調子狂うしね。
「……何、ニヤついてんのよ。もう、さっさと行くわよ!」
強い声で言って、小走りで戻り始める。ぼくは慌ててそれについて行った。
「やあ、お二人共。長くかかりましたね。もうしばらくでメインレースのパドックが始まるようですよ」
部屋に戻ると古泉が出迎えた。ずいぶん爽やかな笑顔だ。
「それ、買ったの?」
その事には触れず、ぼくは彼が持つ紙束を指差した。
「はい。せっかくですからね。今も話していた所です」
古泉は競馬新聞を開きながら言った。一面には当然、今日のメインレースの宝塚記念が載っている。
「でも、やっぱり良くわからなくてな。ジョニィ、お前詳しいみたいだが、このレースどう思う?」
キョンが聞いてきたのでぼくは競馬新聞を受け取った。……いた。Dioだ。やはり目に付いてしまう。
騎乗するのはシルバー・バレット。英国馬か。……聞いた事はある。海外馬だけあって実力は折り紙付きだ。
オッズや予想を見ると、今回のレースの本命は話題のホクトブライアンと共に、宝塚記念初の海外馬シルバー・バレット。この二頭に絞られるようだ。
総合するなら、本命は……ホクトブライアン。僅差で対抗がシルバー・バレット。
とはいえ、日本馬であるホクトに多少の贔屓がかかっていると考えれば、力はほぼ同等だろう。
ぼくは二頭の走りは見ていない。だから、データ上での判断しか出来ない。その上で、ぼくは判定した。
「やっぱり、ホクト有利だろうね」
「へえ、何で?」
ハルヒも食い付いて来た。ぼくは一点を指差す。
「ここを見てくれ」
「……?矢印?」
……本当に何も知らないんだな。
「……これは脚質を表してるんだ」
「脚質?」
ハルヒが目をぱちくりさせる。
「馬だって生き物なんだ。それぞれ個性や性格がある。最初から全力で走りたがる馬、どうしてもスタートが苦手な馬ってふうにね。
脚質はその馬が得意とする位置取りやレース展開を言うんだ」
古泉がなるほどと相槌をうつ。しかし、まだキョンはピンと来ないのか険しい顔だ。
「例えば、対抗馬のシルバー・バレットは『先行馬』。
先行馬はトップの後ろにつけて、ラストでそれをかわす。一番スタンダードな脚質だね。
で、本命ホクトは『逃げ馬』。スタートダッシュでトップに立ち、そのままゴールする事を目指す」
「へえ、あたしにぴったりね!」
「お前はペース配分出来ないだけだろ」
胸を張って言うハルヒにキョンが茶々を入れる。また機嫌を損なわれては困るので、ぼくはそのまま続けた。
「これで、脚質はわかってくれたかな?そしたら、もう一度ここを見て」
「……あ、逃げ馬がホクトだけだわ!」
ハルヒは大発見をしたかのように言った。ぼくは頷きながら続けた。
「逃げ馬のメリットとして、ラインや位置取りのための他馬との競り合いが無いぶん、体力の消耗を避けられるって点がある。
それは逃げ馬が他に居ない、スローペースのレースで最も発揮される。しかも、ホクトは内枠引けたしね」
「内枠?」
ハルヒがまた聞き返す。
「ああ、内枠っていうのは一番インコースの事。最短距離を走れるわけだから、逃げ馬には最適なんだ」
キョンが不思議そうに口を挟む。
「じゃあ、先行馬はこのレースじゃ不利なのか?」
ぼくは首を振る。
「いや、先行馬のメリットはどんなレース展開にも対応出来るっていう事なんだ。
でも、逆に言うなら特に得意なレース展開は無いって事になる。悪く言えば器用貧乏とも言える。
とはいえ、最も実力が反映されるっていう事は事実だね。
判断材料はそれだけじゃない。日本の気候やこの競馬場への『慣れ』も考えると、やっぱりホクト有利じゃあないかな?」
ぼくがそう結論付けると、古泉が大袈裟に拍手した。
「素晴らしい。さすがですね」
「くどいようだけど、ぼくは二頭のレースは見てない。データ上の話だよ」
ぼくは肩を竦めながら言った。結局の所、レースが始まらないとわからない。
データだけで勝敗を語る事の馬鹿馬鹿しさをぼくは良く知っている。
今のぼくの御託だって、ホクトがスタートをミスった瞬間に無になる程度の物だ。
「それにしたって凄いわ。あたしたちは良く知らないし」
「そうかな……どうやら、もうすぐパドックが始まるらしいし、見てみよう」
ぼくは相槌を打ちながら、ここまで一言も喋っていない人物に視線を向けた。
……ああ、長門じゃない。いつもろくに喋らないからな。
「みくるさん、元気無いけど……やっぱりまだ調子悪い?」
みくるさんは心配を振り払うかのように、にっこりと笑った。
「ありがとう。でも、大丈夫ですよ。まだ少し変な感じしますけど、むしろ気分は良いんです。
興奮してるっていうか……場所のせいかな?こういう所に来るの、初めてですから」
明るくそう言う姿に安心させられる。だいぶ体調が良くなったようだ。
「そうか。ところで、それ……持って来てたんだね」ぼくは彼女が羽織ったカーディガンを見ながら言った。ぼくが部屋を出た時に身に付けたのだろうか。
「え?……ええ、冷房で寒い時がありますから、夏も持ち歩いてるんです」
確かに、この部屋は一般スタンドと違ってクーラーが効いている。
ぼくは全然気にならないが、体を冷やしやすい女性にとっては寒いくらいかもしれない。
「あ、見て見て!パドック、始まったみたいよ!」
元気なハルヒにはそうじゃないみたいだが。ぼくは早速オペラグラスを手にパドックを見た。
特に入れ込んでいる(興奮して落ち着きが無くしている事)馬はいない。調子を落としている馬も。
これで当日の調子という不確定要素が一つ消える。ぼくの予想通り、順当に行くのか?
そう思った瞬間、ぼくの手からオペラグラスが取り上げられた。
「借りるわよ。ふんふん、なるほど……」
何がなるほど何だか……。ぼくは何度も返してくれと言ったのだが、
「もう少し」
……これだ。結局パドックが終わるまで帰って来なかった。
レースもこの調子じゃ堪らない。返してもらうと、ぼくはハルヒに宣言した。
「ハルヒ、いい加減にしてくれよ。ぼくはもう貸さないからな」
強い口調にたじろいだのか、ハルヒの抗議は控え目な物だった。
「でもー、向こう側のコースに行ったら全然見えなくなっちゃうのよ?」
「だったら買いなよ。多分、売店に売ってるから」
「あ、そうなの。じゃ、キョン。買ってきて」
やっぱりこうなったか。「何で俺が……」と言いかけたキョンの言葉を遮って、ハルヒがまくしたてた。
「キョンもちゃんとレース見たいでしょ?皆の分が必要なの。だから代表してあなたが買いなさい」
一見もっともだが、多分ハルヒ一人に独占されるんだろう。
キョンはぼくを一瞥した後、反論するのも無駄と言わんばかりに早足で部屋を出た。許せ、キョン。
キョンが安っぽい双眼鏡を手に戻ってから程無くして、場内が地鳴りのような歓声に包まれた。
本日のメインレース、宝塚記念の主役であるフルゲートの18頭。
その競争馬達が現れたのだ。続々とゲートに向かう各馬を歓声が送り出す。
レース前の競馬場を包む熱気……久し振りに味わう感触だった。今日はターフの上では無いが、確かに伝わる。
この耳が痛くなるような歓声やも、馬自体が放つ力も、テレビ観戦では到底味わえない。
ハルヒ達も同じように、独特の緊張感を感じているようだった。
もうすぐ始まる。死力を賭けた二分間……!
各馬、滞りなくゲートインが完了。宝塚記念、そのためだけに作られたファンフーレが高々と場内に響く。
ゲート内で今か今かとスタートを待ち構える競争馬達。ぼく達は固唾を飲んで見守った。
そして、ついにゲートが開く。宝塚記念、スタート……!
「うっ……」
スタートを見て、ぼくは思わず呻いた。各馬綺麗なスタートだ。出遅れた馬は無い。しかし……!
「え、何で?逃げ馬はホクトだけなんじゃなかったの?」
逆!何と四頭が前に飛び出している。その中には当然ホクトの姿もある。シルバー・バレットはその後方だ。
「奇策、でしょうか。しかし、こんな場で……」
いや、ある。前述の通り、逃げ馬のメリットとして、他馬との競り合いを避けられるという点がある。
これを最大限に利用……つまり、他馬が後方で牽制し合っている間にスタミナを節約。
漁夫の利を得る形で勝ち目の薄い馬が勝利するという事は過去に何度もある。
見ると、やはりホクト以外は優勝候補には遠い馬ばかり。一か八かには違いないが、有力な戦法なのだ。
「これじゃ、さっきジョニィが言ってた逃げ馬の旨みが無いんじゃないか?」
違う。やはりホクトは積んでるエンジンが違う。飛び出した四頭の内、ホクトだけが堂々と抜け出ていた。
先頭にホクト、その二馬身ほど後方に横一列となって逃げを狙った三頭。その後ろにシルバー・バレット達という展開になっている。
過程はどうあれ結果的に一頭だけが抜け出たなら、ホクトとしては普段と同じ感覚だろう。
むしろ、この突如現れた逃げ馬によって不利になるのはシルバー・バレット……!
三頭はほぼ横一列で走っている。それが問題なのだ。横に一m弱の間隔で走る三頭は完全にシルバー・バレットの進路をふさいでいる。
インコースぎりぎりに寄せたシルバー・バレットは大きく迂回……余分に走らざるを得ない。
やはり、勝負はわからない。本来、ホクトに不利なはずの逃げ馬が彼に味方するとは。
そうこうしている内に、レースも中盤だ。ホクトが第三コーナーに差し掛かろうとしている。
ここまで各馬の位置にはほぼ変わりは無い。……おかしい。なぜ動かない?
動かない、というのはシルバー・バレットの事だ。仕掛け、という話ではない。単純に動いていないのだ。
内側いっぱいのまま、前方との距離を保ち続けている。なぜだ?仕掛けは当然まだだろうが……、
言うなら、その下準備が必要なはずだ。つまり、最終的に外側に向かって前方の三頭を抜かすために、ある程度外に行く必要がある。
なのに、シルバー・バレットは内側いっぱいを走っている。恐らく、三頭を抜かすポイントは第三コーナーから第四コーナーにかけて。
コーナーを曲がる、外に膨らむ勢いを活かして三頭をかわす。これで間違い無いだろう。
しかし、だとすればそろそろ外に開かなければ自然に抜かせなくなってしまう……。
そう考えている内に、ホクトが第三コーナーに踏み込む。残りの馬達も。
……動かない!?Dio……何を考えている。コーナーを曲がるシルバー・バレットは微動だにしない。内側に寄せたままだ。
駄目だ。コーナーを曲がりきってから外に開いて抜かすのでは遅すぎる。それではホクトには届かない。
そろそろ開かなければ……。…………!?動いている……!?
シルバー・バレットじゃない。前三頭の内、一番内側の馬だ。僅かに外側に流れている。
違う、ぶれている!何歩目かに一歩、僅かに外側に体がぶれるんだ!
見ると、コーナーを曲がる動きに相まって、内側に空間が出来始めている。数歩ごとにそれは広がり、そして……!
「抜いた!」
ハルヒの叫び声が聞こえた。コーナーを抜けると同時にシルバー・バレットは三頭を追い抜いた。
後は直線……!ぼく達の正面のゴールに二頭が迫る。前はホクト、追うはシルバー・バレット。
迫る、迫る……!少しずつ馬身が縮んでいく。Dio……差し切るのか……!?
しかし、ここにきてホクトが粘る。後100m、半馬身から懸命にリードを守る。あと50……!30……!20……!10……並んだ!
同時に二頭がゴールを駆け抜ける。どっちが勝ったかはもうわからない。
「写」のランプが点灯する。写真判定だ。ぼくは乗り出した体を車椅子に預け、オペラグラスを置いた。
いつの間にか、呼吸を忘れていたようだ。全力で走った後のように息が切れている。
「ジョニィ。今、どっちが勝った……?」
わからない。でも、かなり際どい。
少なくとも、Dioが外に抜けるレースをしていればシルバー・バレットの勝ちは無かった事は確か……!
「あっ!おい、写真判定出るみたいだぞ!」
ターフビジョンに写真が写される。勝ったのは……シルバー・バレット……!
ハナ差……!Dioが勝った……。
「凄いな、これが競馬か……」
キョンが嘆息しながら呟く。ハルヒも興奮した様子で言う。
「凄かったわね!シルバー・バレットって凄く早いのね!」
違う。今日の仕上がりだけ見れば、ホクトが上だった。、シルバー・バレットが勝ったのは、別の要因……。
「癖」だ。人間同様、馬が持つ癖。前を行く馬の外にブレる癖。それを読み切って内側の経済コースを選択。
後から分析するのは簡単だ。しかし、それをせいぜい一分半程度の短い時間でやるなんて!
そして、それが結果としてはシルバー・バレット、ひいてはDioに勝利をもたらした……。
「あー、楽しかった!来て良かったわね!」
楽しそうに皆が談笑するなか、ぼくは一人黙っていた。
くそっ、悔しいが……Dio、あいつは天才だ。
To Be Continued……
最終更新:2009年09月22日 20:02