2003年6月。兵庫県西宮市にて。
ある、『スタンド』に纏わる『事件』が発生した。
事件の中心人物は、『矢』を所持する一人の『スタンド使い』。
名を、『小野大輔』と言った。
小野大輔の『矢』によって、西宮市内では、三週間のうちに十数名の『スタンド使い』が産みだされ
彼らは、小野大輔が『標的』とする『スタンド使い』の軍団。
通称、『SOS団』への刺客として送り出された。
その事件は、6月下旬。SOS団との戦闘の末に、小野大輔の敗北という形で幕を閉じた。
そして―――SOS団と小野大輔の刺客との戦いが繰り広げられていた、その裏で。
人知れず、彼は動いていた。
彼が望むものは、ひとつ。自らの好奇心を満たす事。
彼の名は、岸辺露伴。職業は―――漫画家。
「おい」
それは、『事件』の最中。岸辺露伴と、森園生、朝比奈みくるの三名が、『夢の世界』から生還した二日後にあたる、金曜日の午後。
岸辺露伴は、『病院』の四階、入院病棟の廊下にて。
不意に、視界の端に留まった、見覚えのある後姿に声をかけた。
それと同時に、水面を伝うように、均一に、機械的に行われていた、その人物の歩行が止まる。
薄い上半身が露伴を振り返る。短めに切りそろえられた、細く透き通った色の前髪の下で。ガラス玉のような瞳の中に、露伴の顔が映った。
「……君は、たしか『長門有希』だったな」
「そう」
長門の精神に、露伴に声をかけられたことで、果たしてどのような移ろいが発生したのか。
まるで、道端の街路樹を前にしたような普遍的な表情で、長門は、露伴の言葉に、短い返答を寄越した。
「何?」
続けて、先の二文字と、なんら変わりのないイントネーションで、彼女の喉が鳴る。
その表情や語調から、彼女が、露伴をうっとうしがっている様子は感じられない。しかし、好意的なわけでもない。
それこそ、ただそこに在るだけの街路樹のような雰囲気を漂わせた、その少女を、露伴が呼び止めた理由とは。
「いや、何。前から、君と話がしてみたいと思っていてな。思わぬところで見かけたもんでね、つい声をかけちまったよ」
露伴が、目の前の少女について知る情報。
古泉や森、キョンら、『SOS団』の面々から聞かされた、その『正体』。
露伴の興味は、ただ一点。
『長門有希』が『宇宙人』である。その情報に向けられていた。
「あなたが、平日の放課後の時間帯に外出することは、推奨出来ないことであると伝わっているはず」
あまりに無機質につむがれる長門の言葉から、その意味を理解するのには、常人との会話においてのそれよりも、いくらか余分に時間が掛かる。
数秒後。露伴は、つまり。長門は、こう言いたい訳だ。
『おい、どうしてこんなところでテメーに会うんだ。
テメーと涼宮ハルヒが顔をあわせるとまずいから
好き勝手に外をウロつくんじゃねーと言っただろうが』
……と。
ふん。馬鹿馬鹿しい。岸辺は、己に課せられた理不尽で過剰な行動制限と
それを馬鹿正直に厳守することを求めている、目の前の少女に向けて、沸き立ったイラつきを隠さずに吐き出す。
「あのなァー。この、お前らの学校から三キロちかくも離れた救急病院に
『涼宮ハルヒ』がやってくるわけが無いだろうが!
大体、この時間、お前らは『団活』とやらの最中のはずじゃあないのか?
ぼくのほうが聞きたいぜ、お前がどうしてこんなところにいるんだ?」
時刻は四時へ差し掛かる頃合いだ。彼らの学校が、どのような時間割のもとに回っているか知らないが、普通の高校なら、授業が終わった直後というところだろう。
涼宮ハルヒと行動を共にしているはずの長門有希が、何故、この『機関』の『病院』に居るのか。
長門は、露伴の言葉を聴いた後、数秒ほど。思案をめぐらせる様な沈黙をはさんだ後に、口を開く。
「涼宮ハルヒには、私は急用のため、団活を休むと、古泉一樹から伝わっているはず」
「急用だって? 御神体みたいに涼宮のことを優先するお前らが、SOS団以上に優先する急用なんてもんがあるのか?」
「ある。なければ、私は今、ここを訪れてはいない」
長門の言葉に、感情は込められていない。
しかし、そのがらんどうで、押し我意の無い無機質さに、露伴は、まるで自分が馬鹿にされているかのような錯覚を抱いた。
「ほう、そりゃあいったい何だ?
実に興味があるな、ぜひとも教えてもらいたい。
この『病院』に、それがあるってのかい?
この先には入院患者の病室しかないぜ。
まさか、『宇宙人』の君が、両親や兄弟姉妹のお見舞いに来たってわけじゃあないんだろ?」
「……あなたがこの『異常』に関わるのは、あまり喜ばしくないこと」
再び、数秒の沈黙の後で。長門は言った。
「『異常』だって?」
「……先日から、この病院内で、これまで観測されていなかった次元の『歪み』が発生している。
その歪みを初めて観測した時刻は、あなたが『夢の世界』から帰還した時刻と一致する」
「『歪み』? ……言っていることがよくわからんな。
そりゃあつまり、あの『夢の世界』の『スタンド』の影響なのか?」
「……その原因が『スタンド』である可能性はゼロではない。
しかし、『歪み』自体と『スタンド』は無関係。
『スタンド』によって発生したものであれば、情報統合思念体の持つ概念では観測できない」
「『概念』……やっぱりよくわからんな。適当にそれらしい言葉を並べて、ぼくを追い払おうとしているんじゃあないだろうな?」
元々は、『長門有希』そのものに向けられていたはずの岸辺露伴の興味の矛先は、いつの間にか、彼女がこの場所に居る理由へと向け代えられていた。
「あなたが関与することは推奨出来ないと言ったはず。
あなたは、自分の目的を遂行し、速やかにホテルへ帰るべき」
やはり、長門の表情は変わらない。
しかし、その口走る言の葉は、明らかに、露伴を追い払おうという意志を孕んだものに変わっている。
しかし。岸辺露伴という人間は。自分の好奇心、興味の前に立ち塞がるものには、決して従いはしない。
「ぼくの用事なんかどうだっていい!
お前が推奨するかしないか、そんなことも知らん!
お前らと僕は無関係じゃあない。
仮にあの『夢』の『スタンド』が原因で、その『歪み』とやらが生まれたなら
ぼくにだってその正体を知る権利があるんじゃあないか?
ぼくはな、よくわからんことをよくわからんままにしておくのが嫌いなんだ。
『概念』だの『異常』だの、お前がブチ撒いた言葉の意味を知らんと気がすまないんだよ」
「……言語では説明できない」
「だ・か・ら! ぼくはお前に『ついていく』と言っているんだよ、長門有希!
お前の行く先には、たったの四部屋病室があるだけだ。
この何の変哲も無い廊下の先に、お前は歩いていこうとしていたよな?
この先に『歪み』とやらがあるっていうのか? なんでもいい。
ぼくはこう言っているんだ。
長門有希、ぼくにそれを『経験』させろ、とな!」
「…………」
細い肩に掴みかかりながら声を張り上げる露伴を、まるで気にも留めずに。長門は、あの均一で、機械的な歩行を再開する。
接着剤で固定された風見鶏のようなその態度に、再び、露伴は苛立つ。
「おい、ぼくを無視しようってのか?
だがな、ぼくはお前についていくぞ、長門。
何なら、ぼくの『スタンド』で、お前に命令をすることだって出来るんだ。ぼくを『つれていけ』ってな!」
「それは推奨出来ない」
……推奨。幾たび目かの、その単語が、長門の口から飛び出した。
「情報統合思念体は、『スタンド』の属する概念による事象を、観測、干渉することが出来ない。
もし、私が『スタンド』の影響を受ければ、私自身が、情報統合思念体の『概念』から切り離されてしまう可能性が懸念される」
露伴を見ずに、ただ、ゆっくりと前方に歩みを進めながら。長門は言う。
つまり。長門は露伴の要求を『受け入れた』と言うことだ。
長門の言う『異常』、『歪み』の正体の解明。その旅路に、露伴は、同行することを許されたのだ。
「……だがな、長門。
ぼくの見た限りで、この先に何も『歪み』なんてもんは見当たらないぞ?
401号室、402号室はもう通り過ぎてきた。
今、ぼくらの真横にあるこの部屋が403号室だろ?
この先にあるのは、404号室。例の『スミレ』のいる病室だけだ。
まさか、『歪み』はその部屋にあるとでもいうのか?」
「……黙ってて」
「何だと?」
不意に。長門の口から発せられた、やや強く、露伴を制する言葉に対し。露伴は、納まりかけた怒りに再び炎をともす。
「おい、待て! お前なァー! 宇宙人だかなんだか知らんが、人を馬鹿にするのも大概に……」
露伴の怒りをまったくに気に留めず、長門は歩みを進めてゆく。そのスピードがやや速まっている。
これまでの三部屋同様に、長門は、404号室の前を、通り過ぎ、更にその先へと歩いてゆく。
露伴は、それを早足で追いかける……
「おい、聞いてるのか…………!」
……露伴は、ふと。長門がまっすぐに見据える先……目の前に広がる光景に、違和感を覚える。
これまでに。長門と露伴は、この廊下に在る、四つの病室の扉の前を通り過ぎてきた。
スミレの入院している404号室を通り越した先には、壁がある。廊下はそこで終わっているはずなのだ。
しかし。露伴の目の前には……
「……何だ? こりゃ……なんで、404号室の先にも『廊下』が続いているんだッ!?」
露伴は、背後を振り返り、確認する。……入り口は、確かに四つ。既に通り過ぎてきた廊下の壁に張り付いている。
この廊下には、間違いなく、病室は四部屋しかなかったはずだ。数日前、露伴は、その突き当りの『404号室』で、『スミレ』のスタンドを見つけたのだから。
まさか。これが、長門の言う『歪み』だというのか。
「い、いつの間に……こんな『先』が現れたんだッ!? これが、『歪み』なのか……?」
「『404号室』の病室前に該当する空間に『次元断層』を観測した。『歪み』の正体は、それ」
「『次元断層』? なんだ、そいつは?
どうもお前の言うことは、いちいち小難しいんだよ。
さっきからしち面倒くさい言葉ばっかりをわざと選んで、ぼくをからかっているんじゃあないだろうなぁー?」
「……この空間に、通常空間とは位相の異なる空間が存在している。
本来は、我々には観測、干渉が不可能なもの。
しかし、局地的に、二空間の位相が同期している空間が発生していた。その地点が、この場所。」
……長門なりに、言葉を噛み砕いたつもりなのだろうか。
露伴は考える。そして、彼なりに、長門の言葉から、大まかなことの概要を読み取り、組み立てる。
「つまり……あの『夢の世界』のような別世界があり、お前の言う『歪み』、『次元断層』があったという、あの病室の前が。その入り口だったということか?」
「少し違う。完全に異なる次元上に存在しているわけでなく、この空間は、もともと、通常空間と重複していたと思われる。
この位相に近い波長を持っている人間にならば、視認でき、行き来が可能だった。
……『スタンド』と『スタンド使い』の概念に近い」
「何だって?」
長門は、露伴の瞳をまっすぐに見つめながら、淡々と言葉をつむぐ。
「『スタンド』は、常人が視認、干渉することはできない。
本来、人間が持ち得る波長では同調し得ない位相上に存在する。
しかし、存在する次元が異なっているわけでなく、通常空間と重複して存在している。
『スタンド使い』とは、スタンドの存在する位相と同調し得る波長を持っている。
おそらく、その波長を齎すのが『矢』。
そして、スタンドとスタンド使いの間では、お互いの存在する位相の同期が発生している。
その同期を通じて、『スタンド』は通常空間への干渉を行う事ができる」
成る程。露伴の頭の中で、ようやく『ピン』と来た。
相変わらず言葉は難解ではあるが、身近なものに例えて考えれば、それだけ理解も早い。
「つまりだ。この、これまでは無かったはずの『先』が『スタンド』で。
その『次元断層』だとかいうものは、人間が『矢』に刺されて、『スタンド』と同期とやらをするように。
スタンドにおける『矢』にあてはまるような、なんらかの理由で生まれた『繋がり』だってわけか」
「そう。しかし、この空間と通常空間との位相のズレは、スタンドのそれほど大きくはない。
おそらく、常人でも、この空間を認識し、干渉を行える個体は存在すると思われる。
先ほど、この空間へのアクセスコードを解析し、私とあなたの座標をこの空間に移行させた」
……露伴は、眼前に広がる『異なる空間』を前に。胸の奥から湧き上がってくる、炎のような高揚感を覚える。
そうだ。露伴がこの『長門有希』に期待していたものとは、まさしく『これ』なのだ。
露伴一人では決して巡り合えない、しかし『存在』するものとの遭遇!
『面白い』! 露伴は、この新境地で、これからいったいどのような体験ができるのか。
それを考えるだけで、全身に武者震いが走った。
「おい、長門! それで……『これ』はいったい何なんだ?
お前は、この『先』が、もともと存在してたものだと言ったな?
そして、こいつが見える人間もいる、と言ったな?
しかし、ぼくにはいまいちピンとこないぞ。
この『異なる空間』は、『夢の世界』でも『スタンド』でもないんだったな?」
「……有機生命体の認識上で最も近い表現は……『幽霊』」
「! ……幽霊だって? ……どういう事だ? 幽霊ってのは、生き物がなるものじゃあないのか?
この『廊下』が幽霊だっていうのか?」
「そう。……正確には、意識を持つ『幽霊』を中心に構築された、擬似的空間」
……幽霊が構築した、空間だって? その言葉に、露伴は眉を顰める。
『幽霊』。露伴にとって、その概念の存在は、決して驚きを覚えるものではない。
露伴は、既に『幽霊』と対面した経験がある。……しかし、その幽霊……彼女には、何かを構築するような力はなかった。
「――――ン……お、おい、長門?」
露伴が思案を巡らせる中。
長門が、眼前に続く、『幽霊の廊下』を歩み進め始める。
「この空間を構築している中心を探す。
ここはおそらく、自我を持つ思念体が構築したもの。
その思念体が、通常空間に存在する生命体に害をなす存在であった場合、殲滅する必要がある」
言いながらも、長門はすっくすっくと、早足で、幽霊の廊下の奥へと進んでゆく。
その行く手には、二股に分岐する突き当りが見える。窓や部屋は見当たらない。証明の類は見当たらないが、不思議と、暗闇に包まれてはいなかった。
殲滅だって? 冗談じゃない。露伴は、心中で呟く。
『建物の幽霊』を作り出す、病院に憑いた『幽霊』。これほど興味を引くものが、この世に存在するだろうか?
ぜひとも『取材』がしたい。しかし、露伴の能力では、幽霊の『死後』の記憶を読むことが出来ないことは、既に実証されている。
直接会話がしたい……だが、長門の言うように、その『幽霊』が、露伴たちに対して攻撃的であれば、それは難しい……
「……おい、待て長門。殲滅するというが、そいつは可能なのか?
ぼくのスタンドは攻撃向きではないぞ?
お前は確か、『スタンド使い』でないんだったよな?」
「問題ない。この位相上であれば、情報統合思念体による干渉が可能。
対象が我々に害意を持っていれば、情報連結の解除を行う」
「情報連結解除? 何だい、そりゃあ?」
「名称通り。当該対象を構築する情報を解析し……端的に表現すれば、消滅させる」
「『消滅』ッ!? おい待て、冗談でなく言っているのか、それは!?
そんなことが可能なのか、その『統合思念体』とやらは!」
「情報の解析が可能な位相上の存在であれば可能。生命体の肉体を再構成するのとメカニズムは同じ」
肉体の再構成。それは露伴も経験したことがある。
この西宮市で、初めて『スタンド使い』に遭遇し、『森園生』と共に戦ったあの日。
突如現れた長門が、露伴の体の傷に手をかざした途端に。
見る見るうちに、傷が治っていった、あの不思議な現象のことだろう。
『治す』だけでなく、問答無用で『壊す』こともできるというのか、『情報統合思念体』とやらは。
なんという万能な能力だろうか。露伴は思う。
まるで弱点がないじゃないか。露伴の作品には、とてもではないが登場させられない。
……しかし、それならば。
「おい、なら何故、お前はその『解除』とやらで、スタンド使いたちと戦わないんだ?」
「その理由はさっきも話した。
私が『スタンド』による影響を受けることは、情報統合思念体にとって非常に危険。
『スタンド』という『概念』は、情報統合思念体には解析不可能な次元に存在する」
「……何だと?」
そこで、初めて。長門が、幽霊の廊下を突き進む足を止め、背後の露伴を振り返る。
再び、あの水晶の瞳が、露伴を写す。
「……この世界は、数多の『概念』が重なり合って構築されている。
あなた達『有機生命体』が標準とする『概念』や
『思念』のみによって構築される『幽霊』の概念。
その他に無数の『概念』が、同一の次元上に存在しながら、異なる位相、波長の上に存在し、共存している。
『情報統合思念体』もまた、それら概念の一つに属する。
そして、情報統合思念体は、多くの他の概念への観測、解析を行うことが可能。
しかし、『スタンド』は。決して『情報統合思念体』に観測できない位相に存在する。
恐らく、この世界で最も高位の『概念』に属する」
「なッ……!?」
……露伴は、古泉やキョンから、長門有希という存在が、いかに強大なスケールの元に在る人物であるのかを、少なからず聞かされている。
まさに、あらゆる『概念』への干渉が可能な、全能と呼ぶべき力。
しかし、その長門にさえも、決して干渉出来ない『概念』。
まさか。―――露伴の持つ。
そして、その他にも、無数の人間に備わっている、『スタンド』という能力が。
その『先』に在る存在だというのか?
「……情報統合思念体の操作を持ってしても、決して。
私に『スタンド』への干渉を行う力を付加することは不可能。
もし、情報統合思念体という概念によって産み出された私という個体に、『スタンド』の概念が介入した場合……
私という個体が、情報統合思念体の『概念』から切り離されてしまう事態も懸念される。
それが、『スタンド』。……我々が観測対象としている、『涼宮ハルヒ』の持つ世界改変の能力も、その概念に分類される」
……『動揺』。そして、『驚愕』。
岸辺露伴の精神を、その二つの感情が埋め尽くす。
露伴の興味を惹いた、長門有希の、全能たる能力。
しかし。露伴自身の持つ、『スタンド能力』は―――それすらをも超えた位置に存在する能力だというのか!?
「……こっち」
いつの間にか、立ち止まっていた露伴を振り返り。
長門は、たどり着いた突き当りの丁字路の、右方向を指差し、呟いた。
「……気をつけて。この先に、無数の『思念』……『幽霊』が停留している」
「! 何だと? おい、待て。
この『幽霊の廊下』は、一人の『幽霊』が創ったものだと言ったじゃあないか。
何故、『幽霊』が無数に居るんだ?」
「わからない。しかし、この先に居る『幽霊』は、この空間を構築している思念とは別のもの。
……あなたは『スタンド使い』。しかし、精神はあくまで常人のもの。
『思念』……『幽霊』の持つ『怨念』は、時として、常人の精神に影響を及ぼし得る」
「……ハンッ、ぼくを甘く見てんじゃァーないぞ?
死んだ人間の念なんてなァ、生きてるぼくにはまったく関係ないねッ!
どうして、とっくに終わっちまった連中に、まだ先のあるぼくが気を乱されなきゃいけないってんだ?」
「……そう」
長門は、それだけの会話を済ませると。露伴から視線を逸らし、自らが指差した方向へと歩き始める。
露伴は、ほんの僅かな躊躇いのあとで。たった今、自分が口にした台詞を、頭の中で反芻しながら、大またで長門のあとを追う。
……くそ。いつの間にか、完全に、長門のペースに飲み込まれている。
どうしてこの岸辺露伴が、宇宙人だかなんだか知らんが、他人の。しかも、少なくとも見た目においては、とうに年下の女に、主導権を握られなければいけないのだ。
「……おい、長門。ぼくの『スタンド』はな、例え幽霊にだろうと能力を発揮できるスタンドなんだ。
ぼくが先に行く。どうせ道は一本道だろう、お前はぼくの後ろにいろ」
早足で長門を追い越しながら、たった今まで、自分の先を歩いていた、華奢な肉体に向けて言い放つ。
「……あなたが先をゆく必要性は感じられない。あなたは、その『スタンド』で、自分の身を守ることを優先するべき」
背後から、長門が言う。
露伴は思う。お前のその態度に、ぼくはイラついているんだよ。
情報統合思念体だかなんだか知らんが、何者であろうと、この岸辺露伴の先を行くものなど居ては為らないのだ。
第一。今さっき、お前は。ぼくの『スタンド』の方が、自分の能力よりも上であると言ったばかりじゃあないか。
「うるせェーな! お前は黙って、ぼくの後ろにいりゃァいいんだよ!」
「……そう」
そう呟いたきり、長門は何も話さなかった。
いまいち煮え切らない。
露伴は苛立ちを晴らしきれぬまま、『幽霊の廊下』を歩み進んだ。
しかし、行く手には、ただ、代わり映えのしない、窓も扉もない廊下が続いて行くのみ。長門の言ったような『幽霊』たちの姿は、一向に現れない。
「……おい、長門。お前の言う『無数の思念』とやらは、一体どこに居るってんだ?」
「……気づいていない?」
「何?」
……痺れを切らした露伴が、長門を振り返り、訊ねた……その、瞬間だった。
露伴の視界に映ったのは……長門有希の、小柄な肉体。そして――――
「なッ……これはッ……なんだァ――――!!?」
……長門の体に、今にも掴みかからんという勢いで、無数に伸びる『腕』。
それらは、よく見ると、左右の壁から伸びている―――いや。壁ではない!
露伴は、前方へと向き直る――――そして、初めて、気づく!
行く手の、左右の壁に―――『鉄格子』が、際限なく続いている事に!!
「ばッ……なんだ、こりゃァ―――!!?
さっきまで、こんなもんは無かったぞォ―――ッ!?」
鉄格子だけではない。その向こうには、さながら牢獄の如き空間が広がっており……
そして、そこに幽閉された囚人の如き、無数の人々が。鉄格子に噛り付き、その隙間から! 露伴たちに向けて、手を伸ばしているのだ!!
「……あなたの無神経さが、これまで、彼らの怨念に気づかせなかった。
……そのまま進むべきだった」
「なッ……!!」
……行く手は、いまだに闇に包まれている。
そして、この永久と思えるほどに長い廊下が続く限り。『鉄格子』は続いている。
これが……長門の言っていた、無数の『思念』だというのかッ!?
「お、おい……こりゃ、何だッ!? こいつらの一人一人が、『幽霊』だってェ―――のかッ!?」
「そう。……この思念体たちは、この病院内、もしくはそれに近い場所で、生命活動を停止した有機生命体の思念。
……恐らく。この空間を構成するものによって、強制的に、『幽霊』として、この空間に留められている」
迫り来る、磯巾着の触手の如き、痩せ細った腕の群れを見つめながら。長門は、言う。
「何だって……この世に未練があるわけでもない連中が、無理やり『幽霊』にされてるってのかッ!?」
「おそらく。……あなたがこの存在に気づかなければ、このまま進むつもりだった。
しかし、気づいてしまった今、あなたの精神が保つかどうか分からない。このエリアを突破する」
「なッ……!?」
再び、露伴が長門を振り返った時。
長門の口から、何やら、人語を極端に高速再生したかのような、奇妙な機械的音声が放たれた。
それと、同時に―――!!
露伴の身体が! 進行方向に向けて吹き飛ばされ、一瞬、周囲一帯が暗闇に包まれた、宇宙のような空間に投げ出される!
「うおおおおッ!? なっ、何をしたんだッ、長門有希イ――――ッ!!?」
『吹き飛ばされる』力は止まらない! 露伴は、暗黒に包まれた空間の中を、後方へと吹き飛ばされ続ける!!
「……落ち着いて。この『思念体』たちの居る空間から、あなたを切り離した」
体が空間を切り裂く、ビュウビュウという音にまぎれて。露伴の耳に、どこかから、長門の声が届く。
「目を閉じて。元の次元に戻す際に、閃光が生じる」
「なッ……ふざけるなァ―――、余計な事をしやがってッ!!」
「目を閉じて」
……二度繰り返された、その言葉に。露伴の意思とは無関係に、瞼が落ちてくる!
これも『情報操作』とやらか!? いや、違う!
露伴は、精神の根底で! 理解している―――この長門有希は、自分よりも高い場所に居る存在なのだと!!
「ううッ!!」
露伴の瞼が降り、視界が暗闇に包まれた瞬間。瞼の上から、白とも黄金ともつかない、強烈な閃光が降り注ぐ。
それはほんの一瞬だった。一秒にも満たないほどの僅かな期間だ。
「く……」
「……無事?」
露伴が瞼を開くと。そこには、これまでと変わらぬ表情で、露伴を見下ろす、長門の姿が有った。
……助けられたと言うのか。この少女に。あの、無数の悔念が渦巻く回廊から、この岸辺露伴が。
「ここは、どこだッ?」
露伴は、体を起こし、周囲を見回す。
……これまでと変わらない、『幽霊の廊下』。
しかし、あの『鉄格子』のエリアではない。露伴は念を入れて、背後と正面に続く道を、幾度も見比べて見る。しかし、『鉄格子』は現れない。
「『思念体』が停留している空間からは脱出した。おそらく、この先に、この空間を構築している『本体』がいる」
「『本体』……そいつが、あの大量の幽霊たちを、あの鉄格子の中に閉じ込めてるっていうのか?」
「おそらく。この空間は、危険。
有機生命体の睡眠時の波長は、この位相……『幽霊』の概念と同調しやすい。
あの『幽霊』の存在は、院内の入院患者に悪影響を及ぼす可能性が高い」
……要するに、あの病院は、完全に『憑かれて』いるというわけだ。
しかし、露伴が恐ろしく感じるのは、それ以上に。
あの幽霊たちが、『無理矢理幽霊にさせられた』存在であるということだ。
一体、いつからだったというのだろうか。
あの無数の手の数だけ、その犠牲者はいるのだろうか……
「……岸辺露伴」
「!」
不意に。そして、おそらく、初めて。長門に名前を呼ばれ、露伴は僅かに驚く。
「……あなたの背後。私の視界内に、当該対象を視認した」
何だって?
その瞬間。露伴の背筋に、冷たい痺れのようなものが走る。
……覚えのある感覚。これは、そう。
あの、『振り返ってはいけない道』で、背後に感じたような……
「……人間の姿をしている。視覚上、問題はない。しかし、恐ろしければ振り返らないでいい」
「……長門有希……どこまでもぼくを甘く見やがって」
恐ろしい、だって?
確かに。露伴は今、恐怖を感じている。
先ほど目の当たりにした、あの『幽霊』たちが発していた怨念に。
そして、この邪悪な『幽霊』が。人知れず、いつかから、この病院に取り憑いていたという事実に。
しかし―――彼にとって。
「この岸辺露伴にとって……『恐怖』など、『興味』の対象でしかない!」
背後に確かに感じる、その『存在』。
一息だけ、深く息をついた後……露伴は。眼前の長門が視線を注いでいる、自分の背後の空間を―――振り返った!!
to be contiuend↓
最終更新:2009年12月25日 04:58