インドの西ベンガル州の州都、コルタカ。「喜びの都市」「宮殿都市」という愛称を持つその都市の市場を、一人の女性が歩いていた。
 丈長のワンピースに白いヘッドドレスとエプロン。編み上げの長靴。いわゆるメイドと呼ばれる種類の服装を身に纏い、登山家が使うような巨大なナップザックを背負う女性。
嫌が応でも人目を引く格好だった。しかも、この炎天下の中中身のぎっしり詰まったナップザックを背負いながらも、彼女は汗一つ掻いていない。
彼女の側を通り過ぎる人々の何人かは、ちらちら振り返ってその姿を見ていた。

「そこの人、メロンパンはいかがですか?」

 まだ幼さの残る声に呼び止められ、その女性――ヴィルヘルミナ・カルメルは足を止めた。メロンパンという響きに、今は遠い空の下にいる大切な一人の少女のことを思いだしたからだ。
 食料品を取り扱っている店、らしい。店内(この国では珍しくもない、簡単なテント張りの店だ)の机の上には、缶詰、ドーナツ、酒の入った瓶が置いてあった。
ヴィルヘルミナはこの奇妙なラインナップには別段感想を抱かず、 店員の少女がにこやかな笑顔を浮かべて差し出してくるメロンパンを手に取った。

「メロンパン、おいしいですよ」

 何処から仕入れているのか、日本製のものだった。「大きなメロンパン」。昔、ヴィルヘルミナがいつも買っていたメーカーのメロンパンだ。
いつも食べていた、とは言わないのはそれを食べていたのが彼女自身ではないからである。
 この菓子パンを食べている時の、大切な少女の屈託のない笑顔が蘇る。不意に、息が詰まった。ヴィルヘルミナは自らの唇を噛み締め、目蓋の裏に込み上げる熱を無理矢理抑え込んだ。

様々な事情から彼女自身は認めたがらない、しかし、確かに存在する「親」としての感情が、ヴィルヘルミナを揺さぶっている。
あの方は、今頃何をしているだろうか。身体を壊してなどいないだろうか。言葉にすればそれだけの、当たり前の心配。
 彼女には偉大なる"紅世の王"がついている。それに、「あの戦い」を通じて彼女はあらゆる意味で強くなった。あれからもう何年経ったと思っているのか。
彼女はもう立派なフレイムヘイズだ。自分が心配する時期など、もうとうに過ぎてしまっているではないか。普段のヴィルヘルミナなら、そう思っただろう。
しかし、この寂しさは時折やって来てはヴィルヘルミナの心を苛む。そしていつもそれと同時にやって来るのは、ある意味自分と同じ苦しみをあの娘に与えた憎い男への怒りなのである。
 店員の少女が怪訝そうな顔で自分を見ているのにも気付かず、メロンパンの袋を掴む手に力が入った。
 ヴィルヘルミナの涙腺が、寂寥感と怒りで決壊しようとしていたその時。

「……ヴィルヘルミナ?」

 ――ヴィルヘルミナは、その憎い男と再会した。

 ヴィルヘルミナは基本的に無表情を崩さない。そのせいでかつての旅では、仲間のスタンド使い達に「機嫌が悪いんじゃあないか?」と誤解されたことも、しばしばあった。そんな時は、一部の例外を除いて別に不機嫌だったわけではないのだ。
ただ、ヴィルヘルミナが感情を表に出しにくい性質だったというだけだ。
かれこれ数百年以上付き合ってきたこの性質がそう簡単に治るとはヴィルヘルミナには思えなかったし、取り立てて治す気もなかった。
 ……隠し事が致命的なまでに苦手なところだけは何とかしたいと切に願ってはいたが。
 そんな彼女は、錯覚などではなく今非常に不機嫌だった。対面に座る男とは目を合わせようとしない。
テーブルの上に置かれたインドのミルクティー「チャーイ」の入ったカップの水面を見つめ、不必要なほどぴしっとした姿勢でじっと座っている。そうすることで男にプレッシャーを与え、あわよくば押し潰さんと言わんばかりだ。
 しかし、もちろん彼女の対面に座る男、かつての旅でヴィルヘルミナ達のリーダー的立場をつとめ上げ、史上最悪の吸血鬼を打ち倒した"最強のスタンド使い"空条承太郎は全く動じない。ヴィルヘルミナの放つ無言の圧力を柳に風と受け流し、口元でカップを傾けている。
あまつさえ、「冷めるぜ。ぼけっとしてないで飲んだらどうだ」などと言った。

「(なんという、嫌な男でありましょう)」
「(同意)」

 意思を伝え合う自在法で、ヴィルヘルミナとティアマトーは無言の内に承太郎への文句を交わした。あの戦いから十三年。当時十七歳だったこの男も、今や而立の歳だ。
初めて会った時ヴィルヘルミナが感じた暴力の匂いも荒々しさも、今はない。それらは知性と物静かな風貌へと変化していた。
風の便りでは結婚して子供も持ったと聞いた。そうなれば年齢相応の落ち着きも出て来るというものだろう。あるいは、落ち着きが出て来たから家庭を持ったか。ヴィルヘルミナにはわからなかった。
 伴侶を得て、子供を儲ける。その響きが思いもよらぬ棘となってヴィルヘルミナの胸を刺した。フレイムヘイズとは、"紅世の徒"と戦う力を得る代わり、その存在の全てを捨てた者。 その者の時は"紅世の王"との契約の時点で止まってしまう。
子を宿すことも出来ない。人としての可能性を捨て去るとはそういうことだ。
だから、あの結果は仕方の無いことだったのだろう。まして、この男は人間。フレイムヘイズであるあの娘と同じ時を生きることなど出来はしない。自分だって反対していた。ならば、自分が今日この日まで抱えてきた感情は全く以って理不尽なものであるはずだった。しかし。だからといって。

「(割り切れるものではないのであります)」
「(同感)」

 やり場のない鬱屈した感情を、チャーイと一緒に飲み下すように、ヴィルヘルミナはカップを傾けた。ミルクのまろやかさと、砂糖の甘さ、ほんのり感じるショウガの風味。なるほど承太郎の言うとおり、なかなかの味である。それを認めるのは少々癪だったが。

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最終更新:2007年07月08日 17:26