-外伝『月影蝶夢』-
日はとうに落ち、明かりさえない部屋の中。
揚蝶 純は、暗い暗い闇の中へと落ち込んでいた。
『スタンド』……
佐藤から教えられた『それ』は、強い衝撃を揚蝶に与えていた。
『爆弾を持ったテロリストと一緒に飛行機に乗るなんて嫌だろう?』
『絶対に爆弾魔と一緒の飛行機に乗らずにすむ方法があるんだ』
『先に自分が爆弾を持って飛行機に乗ってしまうんだ』
頭の中で、何度も死んだ兄の言葉がこだまする。
『爆弾を持った人間』……そう。まさしく、揚蝶はそれだった。
自分ですら制御できない『爆弾』を持った、人間。
佐藤を救い、危機を乗り越えたことで高揚していた心は、時間と共に収まり、
逆に強い罪悪感として揚蝶に圧し掛かった。
「俺、さ。明日の試合で優勝したら、あの子に告白しようと思うんだ」
聞き覚えのある声に、揚蝶は顔を上げた。
目の前には、ただただ暗闇が広がるばかり。
……しかし、じっと見詰めていると、そこに二人の少年の姿が浮かび上がった。
「……ああ。きっと上手くいくよ」
「その為には、お前にも勝たなきゃな」
「手加減はしないからな」
そんな会話を交わし、笑いあう二人。
あれは……そう。3年前の揚蝶と、その親友だった。
「あの子の為なら命だって賭けられる」そう、口癖のように言っていた
親友は、次の日の空手の試合で、見事優勝した。
決勝戦の相手となった揚蝶は、宣言通り手加減しなかったが、完敗だった。
その日。親友は、揚蝶の目の前で、少女を庇ってトラックに轢かれた。
即死だった。
告白が上手くいき、二人で手を繋いで帰路につこうとした、その直後だった。
……ああ。夢を見ているのか。『揚蝶』はようやくそれに気付いた。
暗闇の中、思い出の映像は流れるように過ぎ去っていく。
「……揚蝶クン。……私には、あなたの辛さが全てわかるなんて思わない……
でも、人は、前を向いていかなきゃ、歩けないの。
だから……お願い。立ち上がって」
優しい、しかし、芯の強い声。
暗闇に浮かび上がったのは、2年前、自分の担任となった新米教師だった。
兄と親友の死に、塞ぎこんだ揚蝶を、ずっと傍で励まし続けてくれた恩師だ。
彼女は若く、情熱に溢れていたが、揚蝶の閉ざした心を開くような、含蓄に富んだ言葉を投げかけるには、若すぎた。鬱陶しいと思うことも、何度もあった。
だが、彼女はずっと揚蝶を見守り続けてくれた。
疎んでも、無視しても、ずっと同じように微笑む彼女に、揚蝶は次第に惹かれ、そして心の傷を癒していった。
そんな彼女が、結婚する事になった。心から……と、言えば、嘘になる。
しかし、揚蝶は彼女を祝福した。素直に、幸せになって欲しい、と、そう思った。
優しい夫と、彼女を慕う生徒達に囲まれ、彼女はやがて、子供を身篭った。
皆の祝福の中、新しい命が生まれた。
しかし、そこで悲劇が起こった。
O型の夫。AB型の妻。その間に生まれたのは、AB型の子供だった。
両親のいずれかがO型の場合、子供がAB型になることはない。
夫は、妻を激しく責めた。妻は最後まで自分の潔白を訴え続けたが、やがて一方的に縁を切られ、彼女は子と共に姿を消した。
ごく稀に、『シスAB型』と呼ばれる特殊な血液型の親からは、ABとOの組み合わせでも、AB型の子供が生まれる……そんな事を揚蝶が知ったのは、それから更に1年後の事だった。
記憶の風景は、どんどん流れ続ける。学校でガス爆発が起こったこともあった。
大規模な爆発で、何人もの死傷者が出た。
揚蝶もそれに巻き込まれたが、彼だけは全くの無傷だった。
乗っていた電車が脱線し、大事故になったこともあった。
飛行機が、揚蝶の通っていた学校に墜落したことも。
そして、忘れえないあの事件。
ある日揚蝶が道を歩いていると、突然、覆面をかぶった二人組みの男が揚蝶を羽交い絞めし、ナイフを突きつけた。
「アゲハ……ジュン、だな?」
口を抑えられ、叫び声をあげることもできずに、揚蝶は頷いた。
そのまま揚蝶は連れ去られた。身代金目当ての誘拐だった。
『揚羽
順』 同音の名を持つ、有数の富豪の息子と間違えられたのだとはすぐにわかったが、揚蝶がそれを口に出来たときには、既に誘拐犯達は引き返せない場所まで来ていた。
5000万。それが、犯人たちの要求金額だった。
元々攫う予定の富豪であれば、簡単に払える金額。しかし、けして裕福であるとはいえない揚蝶の家にとって、それは莫大な金額だった。
だが、兄に続いて、純まで失うことを恐れた両親は、必死に金をかき集めた。
方々から金を借り、犯人達に支払い、揚蝶は開放された。
……それから、揚蝶の家は困窮を極めた。
毎日の様に家を訪れる取立ての怒鳴り声。両親は日に日にやつれていった。
そんな、ある日。
揚蝶は、ふと何と無く買った宝くじが当たっていることに気付いた。
1等前後賞あわせて2億円。借金をすべて返しても、余裕で残る額だ。
喜び勇んで家に帰った彼を待っていたのは、天井からぶら下がり、変わり果てた姿となった両親の姿だった。
揚蝶は必死で吐き気を抑えた。
今まで、『これは運命なんだから仕方ない』そう、思い続けてきた全ての不運は、自分が原因だったのだ。
記憶の景色は消え、辺りは完全に暗闇に包まれた。
……いや。一つだけ、その『闇』の中に見えるものがあった。
それは、暗闇より尚暗い、漆黒の影だった。
そして、影はゆっくりと形を変えると……『揚蝶』自身の姿となり、揚蝶に指を突きつけた。
「さっきから……そうやって、しょげ返ってるが……これは、お前が望んだことじゃあないのか?」
その言葉に、揚蝶はカッとなって『揚蝶』の胸倉をつかんだ。
「ふざけるな! 誰がこんなこと、望むものか!」
「そうかな?」
『揚蝶』は胸倉を掴まれたまま、ニヤリと嫌な笑いを浮かべた。
「『俺』は『お前』なんだ。隠し事をしたって、無駄さ。
……兄を疎ましく思って、『いなくなってしまえばいい』
そう思ったことがあるだろう?
親友の想っていた相手。あの子を好きだったのは、お前も同じだっただろう?」
「やめろ……」
「恩師の結婚を、本当にお前は心から祝福したのか?」
「やめろ……!」
「困窮した生活の中、お前は何を望んだ?金が欲しいと願ったんじゃないのか?
だから、手に入った……宝くじの当選金と……」
「やめろ!」
揚蝶は『揚蝶』に殴りかかった。しかし、それは空を切り、揚蝶は地面に倒れこむ。
「両親の『保険金』がな」
一番聞きたくなかった言葉が、揚蝶の身に刃の様に降り注いだ。
「『俺』はお前。お前は『俺』……どんなに隠したって、『俺』だけはお前の考えていることを知っている。
『俺』は生きているべきじゃあない……そうは思わないか?」
いつの間にか、『揚蝶』の手に剣が握られていた。
それが、倒れ伏した揚蝶に突きつけられる。
「……確かに、そう、かもな……お前の言うとおりだ」
揚蝶は、緩慢な動作で剣の先に触れる。
「兄貴を鬱陶しく思ったこともあった……
親友のアイツに、彼女をとられたくないと思ったことも。
先生の結婚だって、本当は嫌だった。
金だって……欲しかったさ」
揚蝶は剣をがっしりと握った。掌から血が噴出すが、それに構わず、
そのまま剣を引いて立ち上がる
「『だが』! 『お前』が『俺』なら、知ってるはずだろう!
俺がどれだけ、両親や兄貴、親友や先生を愛していたか……!
大事に思っていたかを!
それまで、『否定』し、死ぬというのか!?」
がらん。と、音を立て、『揚蝶』の手から剣が落ち、闇に消えていく。
「佐藤先生だって……助けられたじゃあないか。
……確かに、周りの人間が不幸な目にあったのは……俺のせいかも知れない。
『俺』は、それを一生忘れないだろうし、一生悔やみ続けるだろう。
……だが、『そうすべき』なんだ。一生『背負っていく』。
俺は、その『覚悟』を持って、生きていく。
……『お前』は、どうするんだ?」
『揚蝶』の頬を、涙が伝っていた。『悲しみ』の涙ではない。
それは、『決意』の涙だった。
「……そうだ。『それでいい』」
揚蝶はにこりと微笑むと……闇に溶けるようにして、消えていった。
「……!」
『揚蝶』は揚蝶の手を掴もうとして……そこで、目覚めた。
薄暗いアパートの一室。伸ばした手には蝶が……
いや、『バタフライ・キッス』が止まっていた。
夢の中で、揚蝶は、剣を持ち自分に死を迫った、『揚蝶』だった。
では、ずっと『記憶の風景』を眺め、そして『揚蝶』に生きろといったのは……?
揚蝶が『バタフライ・キッス』を見つめると、その意思が伝わってくるようだった。
「……そうか……スタンドは『精神エネルギー』。
つまり、お前も『俺』なんだな」
揚蝶が制御できていないのは、『バタフライ・キッス』自体ではない。
その、強力すぎる『能力』を、扱えていないのだ。
それに、彼は今、ようやく気付いた。
「お前も、苦しんでたのか……」
揚蝶がそう呟いた瞬間、『バタフライ・キッス』が光り輝いた。
「これが……お前の『本当の姿』……!」
光に包まれた、その姿。それはもはや蝶ではなく、小さな妖精の様な、
美しい羽を持った人間の姿だった。
「……強くなろう、『バタフライ・キッス』……
力を、自在に操れるように……
そして、すべての罪を背負って、生きていけるように!」
いつの間にか日は昇り、窓からは光が差し込んでいた。