Common Sense?


 皆さんはご存じでしょうか? 世の中の常識という代物は、強固なように見えて案外脆いものです。
 そのよい例が、国の違い。日本から一歩踏み出してみれば、自分がそれまで信じて疑わなかった「常識」や「普通」とは180度異なる事象に遭遇することも珍しくありません。
 大学時代の私もそうでした。
 小学4年の頃に生みの母が亡くなり、その2年後に父親が今の母親と結婚した……という経歴は持つものの、私自身は、自分のことをごく普通の家庭に生まれ育った平均的な男子学生だと信じていました。
 継母との折り合いも悪くはありませんし、6年前に生まれた妹も私に懐いていました。
 不満が何一つないと言うのは言い過ぎでしょうが、自分がそれなりに恵まれた立場であることは理解していました。強いて言うなら平凡で平穏過ぎて波風が立たないことが不満……と、それが贅沢な悩みであることも理解はしていたのです。
 それでも、2回生の5月に、大学が募集していた「半年間の米国短期留学」に、ちょっとした好奇心と冒険心から応募し、私は見事に受かりました。
 出発は7月の終わりで、8月から2月末までの7ヵ月間、つまり夏休みを除く9~2月の秋学期&冬学期(日本と異なり、あちらは年度開始月が春とは限りません)を、留学生として過ごすことになります。
 その直前の8月のひと月間は、向こうの風土や習慣に慣れるための準備期間、というところでしょうか。
 高校時代はECC(英会話倶楽部)に所属していましたし、現在在籍している文学部でも、米国児童文学を専攻するつもりなので、英語には多少自信がありましたから、語学力については問題ありません。
 どちらかと言うとインドア派で、ろくにひとり旅をしたこともない私のことを両親は心配しましたが、私からすれば、そんな自分を変えるキッカケにでもなれば……と言う思いもあったので、この時は頑として譲らず、留学を認めてもらいました。
 ──ええ、そうですね。あとから考えると、確かに大きく変わりましたとも。


 さて、羽田から飛行機を乗り継いで、無事にカンザスシティ国際空港に降り立ったものの、何かの都合で迎えの人──ホームステイ先の親御さんが遅れているらしく、私は少し手持ち無沙汰な時間が出来てしまいました。
 幸い先方に電話は通じ、あと30分程で空港に着くとのことなので、私は少し空港内にあるショッピングモールを見て回ることにしました。
 今にして思えば、始めてのアメリカ、しかも童話の中でもお気に入りな「オズの魔法使い」の主人公ドロシーの故郷に来たということで、私はかなり浮かれていたのでしょう。ちょっとスーツケースから目を離した隙に、置き引きにスーツケースを盗まれてしまったのです。
 幸い、パスポートや財布、留学先の許可証などの貴重品は、肩にかけていたボストンバッグに入れていたので無事でしたが、衣類や日用品の大半はあちらに入っています。
 オロオロしながらも、そろそろ待ち合わせの時間になっていたため、仕方なく私は空港のロビーに戻りました。
 「ボーイ、そりゃあ、災難やったなぁ」
 車で迎えに来てくれたチャールズ・リデル氏は、いかにも「田舎のナイスガイ」と言った感じの、気のいい中年男性で、盗難事件を気の毒がってくれましたが、同時に、おそらくスーツケースのは取り戻せないだろうとも言われました。
 「ま、心配せんでエエ。服とかはウチにも同い歳くらいの子がいるさかい、あの子らが貸してくれるやろ」
 バンバンと私の肩を叩きながら、陽気に笑い飛ばすと、リデル氏は車に乗るよう促しました。
 着いた早々の自分の失態に落ち込んでいた私も、道すがら、氏の陽気な語り口と下手なジョークに励まされて、次第に元気を取り戻していきました。
 1時間あまり車を飛ばして着いたリデル氏の家は、日本人的な感覚を差し引いて周囲と比べても、かなり大きな屋敷でした。聞けば郊外にいくつもの農園を持っている大地主なのだとか。日本で言えば、経済的には間違いなくセレブです。
 けれど、リデル家の人々は、私に気遅れを感じさせない、陽気で気さくでとても優しい人々でした。
 「よう来はりましたなぁ。この家を自分の家やと思て、ゆっくりくつろいでおくれやす」
 リデル氏の奥さんであるフランシスさんは、ふくよかな体型ながら、若い頃はさぞかし美人だったのだろうと思わせる40歳前後の女性で、「古き良きアメリカのお母さん」といった印象を受けました。
 「は、初めまして。有栖川蘭童(ありすがわ・らんどう)です。これからしばらくお世話をおかけしますが、よろしくお願い致します」
 最初こそ少しつっかえたものの、何とか無事に自己紹介できました。
 「ヘロゥ! 俺はジェイムズ。ジェイムズ・R・リデル。この秋から大学に通うことになっとる、この家の長男だ」
 息子さんは一学年下でしたか。とてもそうは見えない、堂々とした大人の男性です。ご両親と違って、訛りのないきれいな米語で話しかけてきます。
 「えーっと、アリスグゥ……」
 「有栖川──「ありすがわ・らんどう」、こちら式に言えば「ランドウ・アリスガワ」です。言いにくいなら、略してもらっても、名前でも結構ですよ」
 どうやら、私の苗字は英語圏の人には発音しづらいようです。
 「フーム。それじゃあ……」
 何か思いついたのか、ジェイムズはニヤッと悪戯っ子のような笑みを浮かべます。
 「アリス、でいいかな? その方が言いやすいし」
 !? さすがにソレは……。
 「あら、いいじゃない。その方が似合うと思うわ、貴方、可愛いもの」
 身も蓋もない発言をしてきたのは、ジェイムズの妹とおぼしき金髪の娘さんでした。


 「ハ~イ! わたしはマリス。マリス・リデル、16歳よ。この家の長女なの」
 マリスは、9月からハイスクールの1年生になるらしいのですが、外見も態度も、とても大人びた少女でした。あとで聞いたところ、運動能力も成績も非常に優秀な、夫妻自慢の娘なのだそうです。
 「よろしくね、アリス・ガーランド」
 「いえ、だから……」
 まるっきり女の子風な呼び方に、抗議しようとしたものの、ジェイムズもリデル夫妻も、
ひとり娘/妹に大甘らしく、「おお、ナイス、ネーミング!」だとか「ユニーク!」だとか感心して、すっかり受け入れています。
 仕方ありません。初対面時から目くじら立てて、あまり悪い印象を持たれるのもはばかられます。コチラの人は、慣れたらファーストネームの「ランドウ」で呼ぶようになるでしょうから、しばらくの辛抱です。
 その時は、そう思って黙っていたのですが、実はこれが大きな間違い。米国では「嫌なものはイヤ」、間違っているならその間違いを即座に指摘するべきだったのです。
 おかげで、その日の内に屋敷の使用人や近所の人にまで、私の名前は「アリス・ガーランド」だと認識されてしまいました。
 コレが、私がアメリカで最初に学んだ日本との常識・慣習の違いからくる教訓でした。

 とは言え、いささかノリが良すぎる傾向はありますが、リデル家の人々はとてもよい人達で、私の為にホームパーティ形式の歓迎会まで開いてくれました。
 肩肘張らないその席で、私はリデル家の知人や近所の人々はもちろん、ジェイズやマリスの友達とも知己を得ることができたのです(無論、その席でも、私のフルネームは「アリス・ガーランド」だと誤解されてしまいましたが)。
 パーティーがお開きになった後、時差や飛行機乗り継ぎの影響で思った以上に疲れていた私は、リデル家に人々に感謝をしつつ「おやすみ」を言って、用意された私用の部屋のベッドで眠りにつきました。

 こうして、私の米国生活は、些細なつまづきこそあれ、ほぼ順調にスタートを切ったかに思われたのですが……。
 すぐに私は、もうひとつの「常識の壁」に直面することになりました。
 身長170センチ、体重55キロの私は、日本にいた頃は、決して大柄とも逞しいとも言えないものの、ごく普通の体格の成人男性だと思っていましたし、周囲の認識も同様でしょう。
 しかし──ここ、米国に於いて私は、明らかに男としては「小さい」のです!
 農場主であり、自ら農作業にも従事しているリデル夫妻や、地元ベースボールチームのスラッガーであるジェイムズはもちろん、4学年下のはずのマリスでさえ、私より3、4センチ高く、ヒールのある靴を履けば、それこそ10センチ以上差が付きます。
 マッチョな男が偏重される傾向のある米国社会に於いては、心身ともに貧弱で未成熟な私なんて到底「立派な男」として認められるわけがありませんでした。

 また、日本人である私にとっては胸毛や腹毛の類いと無縁なのは当り前で、体毛や髭もそれほど濃い方ではありませんでしたが、白人男性であるジェイムズ達にはそれが信じられないようで、何度も「脱毛処理をしたのではないか」と尋ねられました。
 肌の肌理(きめ)に至っては、リデル夫人の若い頃を彷彿とさせる美少女──と言うより「美人」なマリスにさえ、お手入れの方法を聞かれる程。もっとも、このヘンは東洋人と白人の違いだと思ってあきらめてもらうしかないのですが……。

 そして……私が到着早々に着替えを盗まれたという話を覚えてらっしゃるでしょうか?
 確かに、リデル氏のお子さんは快く服を貸してくださいました。
 しかし、私とジェイムズには上背で15センチ、体重にして20キロ以上の差があり、服の貸し借りなんてとうてい不可能です。
 では、誰の服か……と言えば、もうおわかりでしょう。マリスの、それも昨年のジュニアハイ、つまり中学生の頃に着ていた服が今の私にちょうどピッタリなのです。


 それでも、最初の頃はTシャツとジーンズやショートパンツといった、男が着てもさしておかしくない物を貸してくれていたのですが、1週間も経たないうちに、ボトムがホットパンツやスパッツに、上着がチュニックやブラウスに変わりました。
 そのせいか、周囲の私に対する扱いも、大学生の青年ではなくミドルティーンの少女に対するようなものになっていました
 私も、「何かが変だ」と思いつつ、「でもここは米国なんだから、ちょっとくらい習慣が違うのも仕方ない」と思い、ソレに慣れるように努めました。

 ──いえ、正直に言いましょう。私も事実に気づいてはいたのです。
 けれど、そんな風に「本来の自分とは全く違う立場」として扱われ、それに応えることに、私は密かな快感を見出し始めていました。
 日本にいた頃は、「いい年した男」として、あるいは「お兄ちゃん」として、常に「しっかりとした」「おとな」でいなければいけませんでした。
 ですが、本来の私を誰も知らない此処なら、私は「ミドルティーンの少女」として、あるいはジェイムズやマリスの「妹分」として、我ままを言ったり、甘えたりすることもできるのです!(同時に、主にマリスも、初めて出来た「妹」を構うことを楽しんでいたようです)

 そして……リデル家にステイするようになって10日目の朝、マリスから差し出された、ジョーゼットの半袖ワンピースと女物の下着を、私はほとんど躊躇うことなく受け取り、身に着けていました。
 リベラルと言うかユニークと言うか、リデル夫妻も、私がそんな風に変貌していくことに、別段口を挟みませんでした。
 あるいは、溺愛する娘の悪戯に、お人好しな私がつきあっているのだと解釈してたのかもしれません。
 とはいえ、リデル氏などはむしろ家の中に「娘」が増えて心なしか嬉しそうでしたし、夫人も、マリスほどではないものの色々私の世話を焼いてくれてたのですから、消極的に賛成していたと言ってもよいでしょう。

 そう言えば、私が寝泊まりしている四畳半程の部屋は、本来はマリスが少女時代に使っていた部屋だそうです。兄のジェイムズが本宅を出て敷地内に立ったロフトを改装して自室にしたのに伴い、マリスは兄が使っていた広い部屋に移ったのだとか。
 この部屋の広さもまた、私と「兄」と「姉」のヒエラルキーを表しているようで、倒錯的な喜びを私は覚えていました。

 「姉」の勧めに従って、私は髪と眉を金色に染め、目に蒼いコンタクトを入れるようになりました。少しでも姉達に近い姿になって、リデル家の「末娘」として他の人にも認めて欲しかったからです。
 言葉づかいや仕草も、「姉」を手本に真似るようになりました。
 この頃には、私は自分から進んで「アリス・ガーランド」と名乗り、他人にリデル家の関係を聞かれた時も「遠縁の親戚で、マリスの妹みたいなもの」と答えるようになっていました。

 結局、夏休みのあいだ、私は、もっぱら「姉」──マリスの属するコミュニティーと行動を共にすることが多く、そこでは「マリスの妹」として認知されるようになっていました。


 そして、新年度が始まる9月1日。
 さすがに、大学へは男装(当時の私の感覚からすると、まさにそんな感じでした)して行くつもりだったのですが、「姉」が差し出したのは真新しい女物のブレザーとスカートでした。
 それもいいかと言う気になって流された私は、アイビー風のそれを身に着け、「姉」とともに「家」を出ました。
 私が通う予定の大学と、「姉」の入学するハイスクールは、ちょうど同じ方向にあったからです。

 けれど。大学とハイスクールの分かれ道まで来た時、「姉」はとんでもない提案をしてきました。
 私が「マリス・リデル」としてハイスクールに行き、「姉」が大学の講義に出てみてはどうか、と言うのです!
 確かに、今日の姉は、長かった髪を切りダンガリーシャツにジーンズと言う中性的な格好をしているので、一見したところでは性別はわからないでしょう。。
 とは言え、さすがにコレには私もふたつと返事で頷くことはできませんでしたが、「地元の同級生はいないから大丈夫」などと、のらりくらりと押し切られてしまいました。

 物の本やテレビドラマを見ての通りいっぺんな知識はありましたが、やはり実際に初めて体験するハイスクール生活は、刺激的でとても愉快な一日でした。
 私は、初日から夢中になり………「姉」の「じゃあ、これからも、あっちの学校のことは任せたわよ?」という勝ち誇ったような声にも、コクンと従順に頷いていました。

 それからと言うもの、私は「マリス・リデル」としての高校生活を思う存分楽しみ始めました。
 同級生の中には、私の身体的性別に気づいた子もいましたが、普段の振る舞いからして「GID」だと思ったのか、取り立てて騒がれることもなく、私はスクールガールライフを満喫していました。
 スクールガールの花形、チアリーダークラブにも入り、苦しい練習を経て、何とかレギュラーにも選ばれました。
 こう言ってはなんですが、結構男の子にもモテたと思います。

 けれど。
 それは、周囲を嬉々として欺いたことへの罰だったのでしょうか。
 放課後、チア部の練習を終えて、家に帰ろうとしていたさなかの私の携帯電話に、「リデル家にステイ中の大学生が、交通事故で亡くなった」という信じられない知らせが入ったのです。
 無論、その学生とは私の立場になり済ましている「姉」──本物のマリスに違いありません。
 けれど、後ろからのクルマの追突で崖から湖に落ちたという車の中から、助手席に載っていたはずの人物の遺体は、発見されませんでした。
 もっとも、大学の友人からの証言で、事故車に乗っていた(そして死んだ)のは、確かに「日本からの留学生、アリスガワ・ランドウ」だと確認され、ステイ元にも、日本にいる家族にも、そう伝えられました。


 その後、当の私が家に帰ったことで、私達がこれまで学校側に行っていた不誠実な入れ替わりは、少なくとも「父母」──リデル夫妻の目には明らかになったはずです。
 嗚呼、それなのに父も母も、私に向かってこう言うのです!
 「お帰り、マリス。今、警察から、アリスに関する残念な知らせが入ったよ」

 いくら目と髪の色彩を同じにしたからと言って、私は「姉」と顔立ちまで似ているわけではありません。
 おそらく、愛娘が死んだことを認めたくない気持ちが、私に「マリス」の姿を投影させているのでしょう。
 ここが最後のチャンスだったのでしょう。
 この時、否定していれば……別の未来が開けたのかもしれません。

 けれども、私は溺愛する娘を亡くして落ち込む「両親」」を、これ以上悲しませたくありませんでした。「兄」は何も言いませんでしたが、私の行動を黙って見守っていてくれました。
 だから……それから、私は家の中でも「マリス」として振る舞い、話し、「家族」に笑いかけるようになったのです。

 ──ええ、それ以来ずっと。
 ハイスクールを出て、大学に通うにようになり、今年の秋の卒業を控えた現在も、私は「マリス・リデル」として生きています。
 最初は贖罪──罪悪感から来る、せめてもの罪滅ぼしのつもりでした。
 ですが……今は違います。
 事故当時の混乱した心境ならともかく、現在は父も母もそろそろ娘の死を受け止めいるはずです。
 その上で何も言わないというのは……恐らく私を許してくれているのでしょう。

 そして、それを踏まえたうえで、私は敢えて「マリス・リデル」であることを望むのです。
 どんな経歴であっても「マリス」は、死んだ「姉」と失われた「アリス」に代わって、幸せになると決めたのですから。


 今日は私の結婚式。ハイスクール時代の知人で、大学に入ってからつきあうようになったルイスと式を挙げました。
 これで、「娘のウェディングドレス姿を見せる」と言う親孝行をひとつ達成できたでしょうか。
 彼──ルイスには、婚約する際に私の事情──本来の肉体的な性別や元の名前、素性について、すべて話してあります。
 実は、ハイスクール時代に密かに通院してホルモン投与をしたおかげか、今の私の胸は手術もしてないのにDカップあり、体型も成熟した女性らしくなっています。
 そのため、長年つきあってきた(ただし肉体関係は持っていなかった)彼も、なまじ浜辺のビキニ姿などを見ているため、私が元は女ではないなんて、夢にも思っていなかったようです。
 けれど、彼は「それでも君を愛している」と断言し、言葉のみならず行動でもそれを証明してくれました。
 本当は、結婚するまで純潔はとっておこうかと考えていたのですけど……。彼の手で「愛される」のは素敵な体験だったとだけ、ノロケさせてもらいましょうか。

 ハネムーンから帰ったら、彼は父の経営する農園の関連会社で働き、私は実家の隣りに立てられた新居で「妻」として彼の帰り待ちつつ、できる限り頻繁に「娘」として里帰りをするつもりです。
 いえ、義務感からではありませんよ。
 だって、私は──マリス・リデル改め、マリス・ドジソンは、家族のことが大好きなのですから!

 -FIN-

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最終更新:2013年06月12日 20:53