「おい、晩飯はまだなのか?」
「うるさいわね! だったら手伝ってくれてもいいじゃない!」
今日も今日とて、高山家には健一と由希子の口げんかが響き渡る。
結婚してから早5年。
子供ができれば変わるのだろうが、ここ2年ぐらいはセックスレスでそのような兆候もあるはずない。
今でもお互い憎からず思っているのは確かなのだが、健一も由希子も積もったストレスが原因でついつい相手に文句を言ってしまう。
一度は別居も考えたのだが、心のどこかで「ちゃんと仲直りしたい」という思いも強く、
ここでもし別居してしまったら二度と修復できないのでは? という恐れから踏み切ることもできない。
今日も向かい合いながらお互い一言も発せず晩御飯のカルボナーラを食べ、
バラバラに寝るまでの時間をつぶし、そしておやすみの挨拶もせずにベッドへと入る。
こんな状況になっても寝室ではシングルベッドを2つくっつけているのは、
どちらにとっても、ここが「関係を繋ぐ最後の場所」という意識があるからだろうか。
休日、もう昼といっても差し支えない時間に目覚めた健一は、
テーブルの上に一枚の置手紙があることに気がついた。
一瞬「まさか!」と思ったが、ただ単に「買い物に行ってくる」というメモだった。
ふうと一つ安堵の息を吐き、買い置きのバターロールをコーヒーで流し込む。
そして顔を洗い、電気髭剃りと安全カミソリの2つを使い、丁寧に髭を剃っていく。
続いて寝間着替わりのスウェットやTシャツからトランクスに至るまで、着ていたものをすべて脱ぎ捨てると、
寝室の隅にうずたかく積まれたクリーニング屋に出す前の洗濯物を漁りだした。
黒い膝丈までのベアトップタイプのドレス。
ドレスにあわせる白いボレロ。
先週、由希子が友人の結婚式に出席した時に着ていたものだ。
あまり几帳面とはいえない由希子らしく、ドレスにあわせるための高級下着や緻密なレース状の加工が施されたストッキングなど、
ドレス以外のこまごまとしたものも一緒に出てきた。
それらの収穫物をベッドの上にきちんと並べると、健一はにんまりと笑った。
健一は学生時代から女装が趣味だった。
どことなく線の細い健一は、学園祭の余興をきっかけにすっかり女装にハマっていた。
結婚前はワンピースやドレス、ロリィタ服から水着やバニースーツに至るまで
いろいろな衣装を持っていたのだが、結婚を機にすべて捨て去ってしまった。
しかし、ストレスがたまるとどうにも女装熱が昂って、時折女装サロンで女装を楽しんでいたのだ。
普段ならばそのように慎み深く楽しんでいたのだが、
先週、ドレスアップした由希子を見てどうにも止まらなくなってしまっていたのだ。
あのドレスを自分が着たら、どんなにステキに変身できるだろうか……
彼女が日常的に着ているもので女装するのは明らかにバレるだろうが、
あとはクリーニングに出すだけのものを身に着けたとしても少しの違和感程度でスルーされるだろう。
そういう考えもあり、この一週間、時々由希子と喧嘩しつつもこの日を待ちわびていた。
まずはノンストラップのビスチェを身に着けていく。
男と女ではウェストの位置や骨格の関係でそのまま着るのは難しいと言われる女性用補正下着だが、
そこは昔取った杵柄、少々手間取ったもののなんとか体を通すことができた。
余った肉を強引に引き寄せ持ち上げ、ささやかながらバストを生み出すと、
背中のホックを止めて女性らしいラインを作り上げる。
そして揃いのショーツに脚を通し、その上からストッキングを履く。
まるでイタリア辺りから輸入した高級品のような緻密なデザインに傷がつかないよう、
慎重に丸めて、つま先の方から伸ばすように慎重に引き上げていく。
するりするりとストッキングが足を覆っていくたび伝わるなんとも言えない締めつけ感が、
いやが上でも健一の心を高ぶらせていく。
クローゼットを開け、大きな姿見で今現在の様子を映してみる健一。
首から上こそ男だが、その肢体はしなやかな曲線を描き、シルエットだけならば女性そのもの。
そのような美しい姿に生まれ変わったにもかかわらず、股間がしきりに男性を主張し、
それが逆に倒錯のエロティシズムを演出している。
逸る気持ちを抑えながら、ドレスに体を通す。
カップの部分をしっかり合わせ、後ろ手でゆっくりファスナーを上げていく。
ファスナーをしっかりと引き上げ、一番上についたホックも留める。
そして最後に残ったボレロを軽く羽織ればドレスアップ終了だ。
だが……どこか物足りない。
これだけでは、ただ「女物のドレスを着た変態男」どまりだ。
画竜点睛は欠きたくない。
そう思った健一は、由希子のドレッサーに腰かけるのだった。
髪の毛がかからないように数か所ピンで留め、チューブを絞りクリームファンデーションを少量手に取る。
肌色に近いベース化粧品を手のひらでなでつけ、最後はパフで細かいところを調整する。
すると少しくすんでいた男っぽい皮膚が、ぱっと明かりがさしたように女性の肌へ変貌する。
続いて、ライナーでくどくならない程度にアイラインを引き、目元から受ける印象を女性のものへと作り変える。
ビューラーで根元からしっかりまつ毛を立ち上げ、アイラインと同じ色のマスカラを塗り重ねる。
いい感じにまつ毛がボリュームアップさせ、2、3回ほど瞬きをする健一は、
眼だけならばモデルにも負けないぐらい美人に仕上がったのを確認すると、満足そうに微笑んだ。
妻と暮らしている以上眉毛を女性的にいじれないのは残念でならないが、
今日は諦めるしかないと割り切り、口紅を手に取る。
直接口紅につけてもいいのだけれども、由希子が使っているように筆を使って唇を描き出していく。
本来よりもわずかに小さく描かれた桜色のリップをグロスで仕上げると、
ぷるんとしたなんともかわいらしい唇が生まれ、
自分のものであるはずなのに健一は思わずキスしたくなる衝動に駆られるほどだった。
「ウィッグがあればなぁ……」
このドレスには、由希子のようにゆるやかに巻いたロングヘアのほうが似合うのだが、
ここは諦めるしかない。
短めの髪の毛はいじりようがないため、ワックスで分け目を消してベリーショートの女性風になんとかセットする。
これで全身コーディネート完成と、ドレスアップした姿を鏡に映して悦に浸る健一。
傍から見るとベリーショートのキュートな女性がポーズをつけているようにしか見えないが、
女性にはありえない器官がドレスの下から自己主張しているのがわずかながら見て取れる。
数分間ポーズをつけてうっとりしていた健一だったが、
ずっと感じていた「物足りなさ」の原因に思い至り、慌てて玄関のほうへ走り出す。
全身コーディネートしているのにも関わらず、足元を飾るヒールがないことに気がついたのだ。
男にしては小さい足のサイズは、こういうとき便利だ。
そう思いながら玄関へ行くと、ふと外から聞きなれた自動車の音が響いてくる。
出かけたはずの由希子が乗る軽自動車のエンジン音だ。
買い物に出かけたら夕方まで帰らないはずの由希子が、すぐそばまで来ている。
この姿を見られたらどうしよう!
そう思った瞬間、健一は玄関にある自分の靴を抱え上げると、
寝室とつながったウォーキングクローゼットへとその身を隠すのだった。
「もう、財布忘れちゃうなんてどうかしてるわ。
……あら、アレは出かけてるのかしら?」
玄関に健一の靴がないことに気がついた由希子は、にんまりと笑い寝室の方へ小走りに駆けて行った。
寝室へとやってきた由希子は身に着けているものを乱雑に脱ぎ捨てたあと、
また寝室から出て行った。
しばらくしてタオルで顔を拭いながら、手にしていた布きれをベッドの上に乱雑に放り投げた。
洗濯したてのランニングシャツとアイロンがよくかかったワイシャツがばさりとベッドの上に広がるのも気にせずに、
由希子は手に残ったビニール袋を破り捨て、中から出てきたトランクスに迷わず履くと、
ランニングシャツやワイシャツに袖を通していく。
そして壁にかかった健一のスーツのうち1着を手に取ると、これまた慣れた様子で身に着けていく。
するすると自らの首にネクタイを巻きつけ、
続いてゆるやかなウェーブがかかったロングヘアに健一のヘアワックスを撫でつけてオールバックにすると、
前髪以外をすべてまとめてゴムで縛りあげた。
「うん、やっぱり『俺』はカッコいいな!」
あれよあれよという間に健一の服をまとった由希子は、まるでどこかのお笑い芸人のように胸を張ると、
普段の女性らしい表情とは違う男らしい笑顔を浮かべていた。
「やっぱり、無理言ってアイツにこのスーツ買わせて正解だったな」
半年前、量販店で既製品のスーツを買う際どちらにするか悩んでいた健一の背中を押し、
このスーツを買うように強く推した理由は、由希子自身が着てみたいという願望からだった。
そう、健一も知らなかったが、由希子には男装趣味があったのだ。
自ら「理想の男性」になりきり、スラックスの上から自らを慰める由希子。
その様子をウォーキングクローゼットの扉の隙間から眺めるしかない健一。
ふと由希子の手が止まり、ゆっくりウォーキングクローゼットのほうへと歩き始めた。
「やっぱりこのスーツにこのネクタイは合わないな」
アイツはセンスが悪いからな……などとつぶやきながらウォーキングクローゼットの扉を開ける由希子。
「や、やあ……」
扉が開いた瞬間、健一は何ともばつの悪い笑顔を浮かべるしか方法がなかった。
「おーい、晩御飯はまだー」
リビングでバラエティ番組を見ながら、ベストにポロシャツ、スラックスといった姿でくつろぐ夫が、
腹ペコのあまりキッチンに向けて声をかける。
「ごめんね、もう少しで出来るから。
あ、ちょっとお皿出してもらえる?」
ゆったりとしたデニムのワンピースに桜色のエプロンをつけた妻が、甘い声で返事する。
仕方ないな……とつぶやきながら、夫は手際よく食卓に皿を並べていく。
あれから健一と由希子はすっかり仲直りし、いまでは新婚当時のようなラブラブの夫婦へと生まれ変わった。
ただ一つ違うところと言えば……
「ねえ健ちゃん、お皿はこれでいい?」
「うん、バッチリ。ありがと由希くん」
お互いの男装姿、女装姿に燃え上がって濃厚なセックスをかわした2人は、
家の中では健一が女装して、由希子は男装して過ごすことになったのだ。
その日からまったく喧嘩せず、お互いを思いやるように暮らせるようになり、
そしてストレスも溜めずに過ごせるようになった。
もちろん夜の生活でも……。
「えっとね、実は今日バニースーツ買っちゃったんだ……」
恥ずかしそうに上目使いで由希子を見る健一。
「じゃあ今夜は寝かせないぞ」
バニースーツ姿で誘惑する健一の姿を想像しながら、由希子は健一お手製のスタミナ料理を舌鼓を打つのだった。
最終更新:2013年05月12日 09:40