『瀬野家の人々』 俊也の場合-A1 2009年3月


「はぁ……はぁっ……悠里お姉ちゃん、かわいいよお姉ちゃん……とってもきれいだ……」
 僕の目の前にいるのは、僕の知っている限り世界で一番美しい少女。
 TVや雑誌で見かけるアイドル達なんか目じゃないくらい可愛らしい女の子。

 茶色のブレザーに赤いチェックのミニスカートの女子制服で細身の身体を包み、ニキビもない滑らかで瑞々しい肌を紅潮させ、長い睫毛を震わせている。
 彼女の柔らかそうな胸を、白いブラウスの上から僕は手で包み込むように揉みしだき、同時にプリーツスカートをめくり開けて、股の間に指をさし延ばす。

「ああっ……俊也ぁ。としやあ……っ!!」
 形の良い唇を微かにわななかせ、甘い声で僕の名前を呼ぶ。目は潤み、吐息は熱い。トレードマークの黒い長い髪が、背中でさらさらと揺れる。
「好きだよおねぇ……っ!!」

 丁度その瞬間、家のドアの鍵を開ける音がして、硬直する。
 お父さんの帰ってくる時間なわけはないし、家政婦の鈴木さんか──それとも“本物”の悠里お姉ちゃんなのか。
 タンスの中に女子制服姿のまま飛び込んで、内側からそっと扉を閉める。

「ただいまー。……ん? 誰もいない? 俊也もどっか出かけたのかな」
 『今日は遅くなるから』と言って出かけた、お姉ちゃんの声が玄関から届いてくる。
 僕はまだ荒い息を鎮めようとしながら、お姉ちゃんが気づかないことを祈るだけだった。
 タオルを詰めて膨らませたブラジャーの下、心臓が痛いくらいに激しい鼓動を刻んでいる。

 やがてまた出かけていく音がしたので、タンスのドアを開けて外に出る。
 ここは僕とお姉ちゃんの部屋の間にある一室で、死んだお母さんが昔使っていた場所。
 今はお洒落で衣装もちのお姉ちゃんの、衣裳部屋のような感じになっている。
 防虫防臭剤の匂いが強く漂うその部屋にある等身大の鏡に、お姉ちゃんがこの間までまとっていた制服を着こんで、女装をした僕の姿が映る。

 ──物心つく前から、僕はお姉ちゃんにずっと憧れていた。
 でもそれが、異性としての恋心だと気づいたのはいつのころだっただろう。

 ──物心つく前から、僕は『お姉ちゃんそっくり』と言われることが多かった。
 そして今日。僕は前々から念願だった、卒業でもう用済みになったお姉ちゃんの制服を取り出して、下着まで身に着けてのオナニーに挑戦したのだ。
 誰も帰ってこないはずの時間を見計らって。

 鏡の中の“僕”は、予想以上に“姉”そっくりで。
 世界で一番きれいな、世界で一番大好きな“お姉ちゃん”が、手を伸ばせば届きそうな場所にいる。
 その『彼女』を自分が好きに弄ぶことができる、自分の思い通りの反応を返してくれる。

 その事実に、僕はひたすら興奮を覚え、そして自分の竿を掴んで激しくこすり上げる。
 いや、“僕”のお○んちんをしごくのは、『お姉ちゃん』のほっそりした綺麗な指先。
 『私』のおっぱいを揉んでいるのは、“俊也”の指先。
 訪れた絶頂は、今まで経験がないほどに強く激しいものだった。



「ところで俊也。明日はヒマ?」
 そんなことがあった翌々日の夜。晩飯の席でお姉ちゃんが唐突に言ってきた。
「できれば明日一日で春休みの宿題を終わらせときたい、ってくらいかな。
 今のところ、特に用事ってほどのものはないね」

「友達と遊びに行く約束とかしてないんだ。なら明日は一日デートに付き合ってくれない?」
 僕たち姉弟の間では、『デート』と称して一緒に買い物に行くのを昔は時々やってきた。
 最近なかったお誘い。心が躍るのを表に出さないようにするのに苦労した。
「なんだか久々だね。うん、いいよ 今度は何を買いに行きたいの?」

「いや、買い物もあるけど、純粋に男女としてデートしてみたいなぁ、って」
 その言葉にむせる僕。
 お姉ちゃんが何か企んでいるときに見せる笑顔が、その日はなぜかとっても眩しく見えた。


 その次の朝。朝食を食べて、お父さんが仕事に出かけたあと。
「じゃあ、デートの準備はじめよっか。俊也、私の部屋に来て」

 部屋に入ると、部屋着姿のお姉ちゃんがベッドの上に色々衣類を並べているとこだった。
「お姉ちゃん、来たけど準備って何?」

「うん、まずは服を全部脱いで、これ着てね」
 そう言って手渡されたのは、女物の下着一式。
「……へ? どういうこと? まさかこれを着ろって? 僕は男だよ」
「いいじゃない。もう何回も着てるんでしょ? 一度お姉ちゃんにきちんと見せて欲しいな」

 『“何回も”なんてやってない。まだ1回だけだってば』
 一瞬そう抗議しかけたけど、でもそれじゃただの墓穴だと気づいて慌てて口を閉じる。
 弱みを握られてるんじゃ仕方がない。お姉ちゃんの言葉に従うだけだ。

 ──いや、それは言い訳だと自分でも分かってる。この胸のたかぶりは自分自身には隠せない。それはきっと、お姉ちゃんにもばれてるだろう。

 しぶしぶ、のふりをして後ろを向いて裸になり、渡された下着を手に取って眺める。
 なんだか薄緑色をした、柔らかで柔らかで滑らかでふわふわして手触りの良すぎる物体。
 男物の衣装にはありえない、細かな白いレース、前についた小さなリボン。
 僕の心臓はもう、さっきからもうバクバクいいっぱなしだ。

 姉と弟。決して叶うことがないと分かってる、僕の初恋の相手の女性。
 その人の下着を、本人がまじまじと見つめるその前で穿かされるシチュエーション。
 片足ずつ持ち上げて、そっと足を通していく。(少なくとも記憶にある限りでは)これが2度目とはいえ、男物の下着と違いすぎるこの感触に慣れることはなさそうだ。

「あなたまだスネ毛ほとんど生えてないんだ。きれいな足してるわねえ」
「クラスにはボウボウの子もちらほらいるけど、僕はまだ全然だね」
 最後まできちんと穿いて、股間のものを収める。堅くなりかけだけに辛いものがあるけど、それでも布の外にはみ出さずに済んだ。
 布が股の間をそっと包む感覚がなんとも言えない。

「次はブラジャーだけど、大丈夫? ちゃんとした付け方分かる?」
「たぶん、なんとか……」
 下と同じ色の、レースで飾られた普通の男なら決して身に着けることのない下着。
 ウェストのところで後ろ前につけて、その状態でホックを留める。

 前回後ろでホックが留められず、悩んで編み出した方法──なのだけれど。
「違う、違う。やっぱりちゃんとした付け方教えるわね?」
 すぐにダメ出しされて、『正しいブラジャーの付け方』をレクチャーされる。

 まずはお姉ちゃんが上半身裸になって、ブラジャーの肩ひもをかけた状態で身体を倒し、そっとカップにおっぱいを入れて後ろ手にホックを止めて、手間をかけて調整して終了。
 思春期真っ盛りの童貞少年には、余りに刺激的過ぎる光景。さっきから下着から先端が覗いている状態だけど、そこに手を伸ばすことも目を背けることも許されない。

 『女の子がブラジャーをする仕草』って、何故こんなに可愛くて綺麗で色っぽいんだろう。
 でも、自分でその動作を真似させられるとなると、また話が別だった。
 背中のホックに手が届かなくて四苦八苦。つってしまいそう。

「まあ今日はこんなところで許してあげよっか」
 とようやく開放された時には、流石にめげてしまいそうだった。
 下を向くと見える、ストッキングを丸めて詰めた丸い2つの盛り上がり。
 男にはありえない胸の膨らみ。
 せっかく大人しくなった股間が、また充血し始めるのを感じる。

「んー。やっぱりイマイチかなあ。今日は仕方ないとして、もっとまともなパッド欲しいな」
「お姉ちゃん、ひょっとして今日だけじゃなくて、またやるつもり?」
「こんなワクワクすること、1回で終わらせるのはもったいないと思わない? ……じゃあ、次はスリップをどうぞ。これは分かるよね? 頭からかぶるだけだから」

 そういえばこの間は着なかった、なんだかツルツルする同じく薄緑色の布地。
 これは普段着ているノースリーブと変わらない……かと思ったら、生地が薄すぎて力を変に入れると破けそうで、動き自体が微妙な感じになってしまう。
 自分の意思はお構いなしに、自分の動きが“女らしく”させられてしまう不思議な感覚。

 肌に吸い付いてくるような柔らかな感触もなんだか不思議な感じ。
 自分が身に着けている下着から、微かに漂ってくる女の子の匂い。お姉ちゃんの匂い。
 この前は半分以上テンパってた状態。改めて落ち着いて五感で知覚するのは、なんとも不思議な体験だった。

「うーん、可愛い。じゃあ次はメイクしよっか」
「そこまでするの?」
「うん、やるなら徹底的にね」

 妙な匂い、ひんやりとした柔らかい物体が自分の顔を丁寧に撫でていく奇妙な感覚──でもそれを『気持ちいい』と感じている僕がいて、なんとも落ち着かない気分になる。
 微かに色のついたリップクリームを塗って完了。
 お洒落とはいえ流石に中学を卒業したばかりの年頃なので、簡単すぎる化粧。

 それでも訪れる、自分が自分でなくなったような心地にうっとりとする。
 この感覚はお姉ちゃんに気取られないようにしないと──と思うけど、やっぱり無理なだよな、ともすぐに思い直す。

 頭にネットみたいなものをかぶせられ、その上から長髪の黒髪のカツラを被せられる。
 これは前回も被った、お母さんの遺品の中にあったカツラ。地毛の長いお母さんが何故持ってたか分からないけど、これを見つけたことがこの間のオナニーのきっかけでもあった。

 ずっと鏡を見せてもらえてないけど、今の僕はどんな状態なんだろうか。
 テレビとかで見る女装の人は、気持ち悪いか、あるいは綺麗に見えてもよく見ると違和感が出るような感じだった。僕はどっちだろう。
 この間は『お姉ちゃんそっくり』と思ったけど、それも錯覚じゃないかと不安になる。

「うんっ、完成!」
 なんだかすごい時間が過ぎたような、逆に一瞬だった気もする時間が流れたあと、お姉ちゃんが満足そうな笑顔でうなずいた。
「やっぱり私ってすっごく可愛いんだね。鏡で見るときとは結構違うなあ。さ、立って」

 言いつけ通り立ち上がって、二人並んで鏡に映る。
 目に入ったものが、信じられなかった。
「お姉ちゃん……? が、ふたり?」
 自分でも意識しないうちにふらふらと鏡に近寄り、そっとその『少女』の姿を撫でる。

 鏡の中の『お姉ちゃん』も、どこか呆然とした、どこか満足したような表情で同じ動きを繰り返す。
 それでも2人の“お姉ちゃん”のうち、片方が僕だという実感が浮かんでこない。

 僕が身動きするたびに、サラサラという音が微かに耳に届く。
 女の子の服というのは、なんでこんなにちょっと動くだけで気持ちがいいんだろう。
 思わず先走り液がにじみ出るのが分かる。自慰をしたくなるのを抑えるのが大変だった。

 もう一人のお姉ちゃんが背後から僕の身体をぎゅっと抱きしめ、顔同士をくっつけてくる。
 すぐ近くから漂う匂いにドキマキし、その匂いが自分の服からも漂うことにドキマキする。

 前は『お姉ちゃんそっくりだ』と思ったけど、こうして並べると『そっくり』なんてレベルじゃなかった。まるで一卵性の双子の姉妹のよう。
「本当、私たちがこんなにそっくりだと思わなかった。まるで双子の妹ができたみたい」
 姿が似ると思考も似るのか、僕と同じような考えをお姉ちゃんが口にする。

「──この話、俊也は聞いたことあるかな。私ね、本当は双子だったんだって。
 でも双子の妹はお母さんのおなかの中で、途中で成長がストップして死産で。
 結局生まれたのは私だけだった、って。
 でもこうしていると、まるでその双子の妹が生まれてここにいるみたい」

 異性として憧れていた人に背後から抱きすくめられるドキドキ感と、その人と同じ姿になっているドキドキ感、それにその人の下着を身に着けているというドキドキ感。
 今バクバクいいまくってるこの心臓は、どれが原因なのだろう。



 ──やっぱりお姉ちゃんは世界で一番可愛い。

 茶色のブレザーに青いチェックのミニスカートの真新しい制服姿。デザインが可愛いことで有名な女子高の制服姿が似合って、最高に可愛い。
 身体のラインの出るグレイのニットセーターに黒いデニムスカート。最近のお姉ちゃんが好んで着ているやや地味な普段着だけど、洗練された感じでやっぱり可愛い。

 仕立ての良い白いブラウスにロングスカート。お嬢様然とした姿も反則的に可愛い。
 もこもこセーターにマキシスカートの、女の子らしい服も抱きしめたくなるくらい可愛い。
 身体にフィットした紺のスーツ上下の姿も、大人びて可愛らしい。
 フリルとレース満載な花柄ワンピースにボレロを合わせた姿も悶絶しそうなくらい可愛い。

 お姉ちゃんと僕の、2人きりのファッション・ショー。
 鏡の中にいる『お姉ちゃん』の可愛らしさに、僕はすっかり魅了されていた。
 隣の衣裳部屋からも服を漁ってきたりもして、充分堪能したあとベッドに座って少し休憩。
 今の自分はシンプルな艶のある黒のロングドレス。鏡に映る姿は綺麗で可愛い。

 死んだお母さんの代理で、夫婦同伴のパーティに参加する時に着ているのを見かける衣装。
 飾りを一切排したデザインだけど、その分身体のラインが際立って美しく見える。
 ドレスとスリップ、2枚の布の下の僕の体は男のものなのに、こんなに薄い2枚の服を纏うだけで見事に誤魔化されているのが不思議なくらいだった。

 今までお姉ちゃんがこのドレスを着るところを見るたびに、讃嘆の念と同時に感じていたモヤモヤした思い。
 それが『自分もあんなドレスを着たい』という嫉妬だったとようやく気付いて、なんだか複雑な気分になるけれど。

 お姉ちゃんが衣装持ちなことに感謝する。
 袖を通す時のすべすべ感、肌を撫でられるような感覚、そっと包み込む柔らかさ、ほのかに漂ういい匂い。
 自分が女の子の服を着るのがこんなに好きだったなんて、僕自身驚くしかない事実だった。

「おわっ」
 自分の世界に入り過ぎていただろう。突然ウェストあたりを鷲づかみにされて驚く。
「ダメよ。今あんたは女の子なんだから、男っぽい驚きかたしちゃ」
 お姉ちゃんが驚いた時の反応も大差ない気がするけど、言わないほうが良い気がした。

「それにしてもあんた、ウェスト細いのねえ。私のスカート、なんで穿けるのよ」
「いや、流石にちょっと苦しい感じはしたよ?」
「だからその、『ちょっと苦しい』だけでちゃんと入るのが、既に変なのよ。うちのクラスでも、私のスカート穿けるの何人もいないんじゃないかな」

 返答に困る僕の僕の背後に回って、脇の下からお尻までのラインを何度も撫でてくる。
「細身だから分かりにくいけど、でもやっぱり体のライン自体は男の子なんだね。春物の間はいいけど、夏物だったらちょっと厳しいか」
 この人は、一体いつまで僕に女装させるつもりなのだろう。
 ……そして僕は、一体いつまで女装を続けたいのだろう?

「それにしてもあなた、身長伸びたよねえ。──ちょっと立ってくれない?」
 立ち上がって2人背中合わせになって、背丈を比べてみる。
「前はもっと差が開いてたのに、こんなに迫られちゃって。今はまだ私がちょっとだけ高いけど、もうすぐに抜かれちゃうんだろうなあ」

「お父さん180あるもんね。クラスでも背高いほうだし、僕もその位になるんじゃないかな」
「背も高くなって。声変わりもして。スネ毛も生えて。筋肉もついて。……これからどんどん男らしくなっていく時期だもんね。
 ……ね、だから。今この貴重な時間を楽しみましょう?」

 やっぱり外見が似ると、考える内容も似てくるらしい。
 鏡の中にいるお姉ちゃんが、恥ずかしげに、でもどこか嬉しげにこくんと頷くのが見えた。



「わっ」
 家のドアを閉めた直後に吹いてくる14階の風。
 ふわっと舞い上がるスカートを慌てて押さえたあと、「きゃっ」と小声で言い直す。

 春先の冷たさの残る風が、むき出しの太腿から下着1枚挟んだ股間にダイレクトに当たってくるのが厳しい。短パンより露出度が低いと油断していたのが仇だったのかも。
 今よりずっと寒い時期に、生足で歩いてる女の子たちを改めて尊敬する。
 いや、今は“僕”──じゃない『私』も、『女の子』の一員ではあるのだけれど。

 いつもお姉ちゃんが履いてる女物の黒のローファー、太腿までの長さの黒のサイハイソックス、黒のオーガンジーのミニスカート、黒のシフォンのフリルブラウス。
 全身黒で統一した衣装の上に、オフホワイトのゆったりとしたニットのポンチョを羽織った、そんなコーディネート。

 本物のお姉ちゃんより少し短いだけの、黒のストレートのウィッグ。
 左のこめかみあたりで細い三つ編みにした以外は、背中に流して緩く一つに纏めてリボンを模した白いバレッタで留めてある。

 ちなみに服や生地の名前は、ほとんど全部お姉ちゃんの受け売りだったり。
 サイハイとオーバーニーとハイソックスの違いとか色々説明されたけど、きちんと理解できたかは今一つ自信が持てない。
 身に着けていくたび、身動きするたびに自覚させられる、男の衣類とは違いすぎる感覚。
 柔らかさ、滑らかさ、頼りなさにずっと気を取られっぱなしだったから尚更に。

「お姉ちゃん、お待たせ」
 少し遅れて、家から僕の服を着こんだお姉ちゃんが出てくる。
 黒いジーンズに白いトレーナー、黒いジージャン。長い髪は無理やり帽子の中に押し込んでいるらしい。

 今日、これから私は瀬野悠里。今度高校1年生に進級する女の子。
 この少年は弟の瀬野俊也。私の2つ下の男の子。
 それが家から出る前におね──俊也とした、今日の『デート』での約束事なのだ。
 さっきから胸がバクバクしてちっとも収まらないのは、一体何が原因なのだろう?

「ね、俊也。私どこか変なところない?」
 家を出る前に鏡で確認したときには、『いつも通りの』可愛い女の子に見えた自分の姿。
 でも他の人の目から見るとどうなのだろう?
 エレベーターで降りる最中、少し不安になって聞いてみる。

「うーん、強いて言うなら、可愛すぎるのが変かな」
「もうっ、この子はまたそんなこと言って」
 自分の口からそんな言葉がすらりと出たことに、少し驚いてみたりもする。

「坂本さん、こんにちは」
 8階でエレベーターが開き、2歳くらいの男の子連れの女性が入ってきた。
 言い合いを中断し、前2人で会ったときどんな反応だったか無理やり思いだしつつ挨拶を。
「悠里ちゃん、俊也くん、こんにちは。相変わらず美人で羨ましい……こら、ダメでしょ亮」

 声でばれないか冷や冷やしたけど、気付かれなかったらしい。
 とほっとしたのも束の間、男の子がスカートを興味津々で持ち上げたりしてきた。
 俊也が無言のまますっと移動して、亮くんの手からカバーする位置に入ってくる。
「いいえ、大丈夫ですよ。一番上のスカートだけなら別にめくられても」

 今私が穿いているのは、2重のオーガンジースカートの下にサテンのスカートが入った計3枚のスカートが一体になったもの。今みたいに1番上だけなら別に問題はない。
 一番下までめくられて、下着まで見えたらまずかったけど──と意識した瞬間、なぜかぴったりとした下着を持ち上げて、股間にあるはずのないものが堅くなってきたけれど。

「どうもすいません。亮もお姉ちゃんに謝って。本当にごめんなさいね。
 ところで今日はこれからデートなの? お洒落して、いつもより可愛さ3割増しって感じ」
「ええ。今日は僕とお姉ちゃんの2人でデートなんです」
「なるほど仲良くていいなあ。凄い美男美女カップルね」



「……ばれなかったなあ」
 玄関先で坂本さんたちと別れて、ふうっと息をつく。
「ばれる、って何が?」
 悪戯っぽい顔で聞いてくるお姉ちゃん──じゃなくて俊也。

「え? いや、なんでもないのよ」
 今一瞬、素の自分に戻り過ぎてやばかったと反省しつつ、意識を切り替えようとする。
 幸い、今の出来事で自信が持てた。あとはこのデートを楽しむだけだ。
 ……まあ、そんな浅はかな決心は、すぐに崩れてしまうわけだけれども。

 たとえば『歩く』という、いつも何気なくやっている動作。
 でも『瀬野悠里らしく歩く』というのは、これはなかなか大変なことだった。
 姿勢をまっすぐに、肩の力を抜いて、腰に重心を置いて、視線は前方を保って。

 出る前にうちでレクチャーされたけれども、簡単に身に付くようなものでもない。
 意識しないとできないし、意識しすぎるとやっぱり変になる。普段こっそりと見惚れていた仕草も、自分の体で再現しようとするとなかなかに大変なのだった。

「きゃっ」
 そんな感じで街中を歩いている最中、不意に強い風が吹いてくる。
 小さく叫び声をあげて、とっさに舞い上がるスカートと飛ばされそうになるウィッグを手で押さえる。

 3度目の正直、今度は女の子らしい反応が出来たと内心ガッツポーズをしてみたり。
 背中で纏めた髪が膨らむ。小さく編んだ三つ編みが躍る。ポンチョがはためく。胸の部分が押し付けられて、二つの膨らみが顕になる。薄くて短いスカートがめくれそうになる。
 手で押さえられた前側は良いけれど、後ろは下着が見えてないか不安になる。

 男でいるときは気にもしなかったような風が、女でいるときは肉体感覚として強く意識される。
 むしろ女の子の髪型、衣装というのは、より強く“風”を感じるのを目的で作られているんじゃないか?

 そんなことを実感させられつつ顔を上げると──
 大学生くらいの男の人が、こちらを凝視してるのに視線が合ってしまう。
 一瞬後、慌てた様子で視線を外す彼。でも一旦意識し始めるとそこら中が視線の渦だった。

 どの方向を向いても、だいたい自分のほうを向いてる視線に出会う。
 目を向けると目を反らしたり、凝視を続けたり、ちらちら覗き見を続けたり、変な笑顔を返してきたり。

「ん、お姉ちゃんどうかした? なんかキョロキョロして」
「やっぱり私、どっか変なのかな。なんだか注目されてる気がする」
「そりゃあ、お姉ちゃん可愛いから。ひょっとしてこんな視線、慣れてないの?」
 その言葉、信じてしまってもいんだろうか。

 私が男でいるときも、確かに視線を受けることは多かったし、慣れてるつもりだった。
 でもこうして『女の子』として歩いているときの視線は、その比じゃない。
 目を向けてない方向でも、なんだか見られている場所がチリチリと視線が刺さってくるような気がする。顔と、あと脚がなんだか特にムズムズする気がした。

 ただの自意識過剰だろうか? そうならいいんだけど。
 背中からお尻、太腿にかけて何度も舐めるような視線を感じて目を向けると、中年男性が慌てたように目を反らすのが見えた。顔を前に戻すと、また戻ってくるその視線。
 ほとんど『だるまさんが転んだ』状態。

 『見る性と、見られる性』
 ──どこかで読んだ、そんなフレーズが頭に浮かんでくる。

 自分は今、『見る性』である男から、『見られる性』である女になってしまったんだ。
 そんなことを、頭でなく心でストンと理解させられてしまう。
 まあ私たちのことを「あの2人かっわいいねー」とか指さしてる女子高生集団もいたりして、余りあてにはならない指標ではあるけれど。

 風が吹く。さっきとは違う春先の優しい風。
 髪を、スカートを軽くたなびかせる風を、心地よいと感じた。



 その『視線』に会ったのは、買い物を幾つか済ませたあとだった。

 どこに行っても常に付きまとう視線の渦には未だに慣れなくてめげそうになるけれど、それとはまた別の種類の視線。
 『視線はもう、そんなもんだと割り切ってしまって、気にしちゃダメだよ』
 そう『俊也』に忠告を受けていたけれども、ふとそちらに顔を向ける。……と。

「ひょっとして、悠里ちゃん?」
 視線の主だった、微妙に記憶にある気がする女の子が声をかけてきた。
 太い黒ぶち眼鏡。ややぽっちゃり体型。お洒落すればなかなか可愛いタイプだと思うけどあんまり興味がなさそうで、少し野暮ったい格好をしている。

 (本物の)瀬野悠里の知り合いとのエンカウント。
 本来、予想しておくべきだったのにしてなかったイベントに、内心うろたえる。
「あ、はいっ」

「やっぱりそうだったんだ。すっごい久しぶりー。もう何年ぶりかな? 最初見つけて、『どこの芸能人?!』って思っちゃった。すっっっごい脚長くて細くて頭小さくて首細くて顔すっげー可愛いしさ。でもなんとなく見覚えある気がして。よく見るとあれ悠里じゃん、って。もう何年ぶりかな? あ、ひょっとしてあたしのこと覚えてない? 中里美亜紀」

 予期せぬトラブルと、マシンガンのようなトークで止まっていた思考を無理やり動かす。
「あーっ、ミアっちなんだ。ごめん気付けなくて。久しぶりー。可愛くなったねえ」
 お姉ちゃんの小学時代の友だちで、昔はよく家にも来ていた。僕も知ってる相手だ。
 ──違う。『私』の友だちで、『俊也』とも顔を合わせたことのある女の子、だ。

「むぅ。それ嫌味か。いやあんた昔から美少女だったけどさ、ここまで可愛くなるとはなー」
「いや本当だって。お洒落に気を遣ってないのもったいないなあ、って最初に思ったもの」
「気を使ってもらってありがと。でもこれだけ美人ならモテモテじゃない? つかこちらのイケサマが彼氏さん? お邪魔しちゃってごめんなさいねー。って今更か」

「美亜紀さん、僕ですよ。悠里お姉ちゃんの弟の俊也です」
 にっこり笑ってお辞儀する俊也。
『目がハート型になる』って漫画にはある表現、目の前で見れるとは思わなかった。
「きゃあっ。凄いびっけー。少女漫画の王子サマかと。悠里もなんだかお姫様みたいだし」

「ここで立ち話もなんですから、どこか喫茶店でも入りますか?」
「あっ、ごめんあたしこれから用事なんだ。でもまた遊びたいなあ。……悠里はまだあのおっきなマンションに住んでるの? 引っ越したりしてない?」
「いや、まだあそこだけど」

「ほんじゃー。また遊びに行かせて。都合のいい日があったら言ってね。あたし大体ヒマだからさ。ケー番教えて? ……うん、ありがと。今日の夜かけていい? じゃあまたねー」

 ぶんぶん手を振りながら、嵐のように去っていく少女。
 最近会ってない相手とはいえ、『瀬野悠里』として、『女の子』として、疑われることなくうまく対応できたようだったことに、安堵の溜息をついた。



「お疲れ様。今日はどうだった?」
 そのあとも散々遊び歩き、結局夕食まで外で食べて家に帰る。
 服を取り換え、ダイニングでお茶を飲みながらほっと一息。
 自分の服から微かに立ち上るお姉ちゃんの残り香が、なんだか僕をドキドキさせる。

 向いに座っているのは、さっきまで僕が着ていた服を纏ったお姉ちゃん。
 でも『もう一人の私が目の前に座っている』ような違和感があるのはなぜだろう。

 最後のほうでは特に気にならなくなっていた、女の子の衣装。
 それが男の服に戻った途端に、滑らかな肌触りを生々しく思い出す。
 実際に女装していた時よりも、男に戻った今のほうが、『ああ僕は女装して、女の子として街を歩いたんだ』と意識させられてしまう不思議な感覚。

「うーん、色々言いたいことはあるけど、まず第一に、疲れたねえ。普段使わない筋肉使いまくったから、もう筋肉痛になりかけてる」
「まあ、ぶっつけ本番だった割にはうまくモデルウォークとか出来てたと思うかな。まだまだ甘いから、たくさん練習しないといけないけど」
「練習させられちゃうんだ」

「そ。私も身に付けるまで結構研究と練習を重ねたからね。常日頃から綺麗な動きを保てるように。あと歩く以外の動作もお互い真似できるように練習して」
「それ馴染んじゃうと、女っぽいとか言われないかなあ」
「私は今日特に動作変えてなかったけど、普通に男に見られてたし、大丈夫だと思う。あと『女っぽい』で思い出した。あんた会話中に指先で髪をいじるのは止めたほうがいいかも」

「……ええっ? あれお姉ちゃんがやってる仕草を一生懸命マネしてたんだけど」
「へ? 私、そんなことしてる?」
 自覚がなかったらしい。それから暫く、互いに相手の癖を指摘しあって驚くタイム。

「……うわぁ。なんだかショックだなあ。でも俊也、私のこと凄い細かく見てるのね」
 それは、自分でも少し驚きだったかもしれない。
 『お姉ちゃんだったらこういう動き/反応をするだろう』というのが、自分でも不思議なくらいにすっと思い浮かんでいた気がする。

「お姉ちゃんは、今日はどうだった?」
「楽しかった! なんだかいつもより気楽に素のままで行動できてた気がする。あとやっぱり長年の夢が叶ったのは嬉しいな」
 僕を女装させて連れまわすのが夢だったんだろうか。ありうるだけに聞き返すのが怖い。

「世界で一番可愛い女の子と、一度でいいから一緒にデートしてみたかったんだ」
 違った、とほっとして良いのか悪いのか。
「……お姉さま。それはひょっとして、自画自賛というものではありますまいか」
「もちろんそうよ。俊也はそうは思わない?」

 にっこりと笑って合意を求めるお姉ちゃん。
 自分では隠していたつもりのこの思い。やっぱりバレバレだったのか。

 くっきりした二重と長い睫毛に縁どられた、強い意志を示す瞳。すっきりした鼻筋、綺麗な形の唇。小さな顔、腰まで届く漆黒の艶やかな髪。
 ポンチョは着てないから、今は服も含めて黒一色の姿。細身の体を包む黒のブラウスに黒のスカート。この人には『黒』が良く似合う、と改めて思う。

 確かにお姉ちゃんは可愛い。
 そしてほんの30分ほど前まで、僕はこの可愛い姉のふりをして、誰からも疑われることなく存在していたのだ。この人が今着ている服を、下着まできちんと身に着けて。
 それを思い出すと、かっと身体が熱くなってくるような気がした。

「そういえば、よくばれなかったよね。エレベーターの坂本さんとか、声を出したあとで『しまったこれでばれるかな』って思ったのに」
 むくむくと元気になり始める股間のものから意識を反らすため、気になっていたことを訊いてみる。

「まあ、あんたはまだ声変わりしてないし、電話越しとかだったら前から時々間違われてたからねえ。あと狭いエレベーターだったから、微妙に声が反響してたのもあるかも。
 他は、今日会った知り合いってミアっちだけか。そう考えるとラッキーだったね。もっと親しい知り合いだったらバレてたと思う」

「やっぱりそっかあ。声もそうだし、仕草も違うし、結構『本当の僕なら、そんなこと言わないしやらない!』って思うことあったしね」
「そう? 言動に関してはいつもの俊也通りにやってたと思ったんだけどなあ」

「これ、ずっと言いたくて我慢してたんだけどさ。今日のお姉ちゃん、イケメンすぎ。スカートめくられた時にすっとカバーに入ったり、女の子を茶店に誘ったりとか。僕ならそんなことできないもん」
「そっかなあ?」

「だいたい、美亜紀さんが説明なしに『彼氏』? って聞いてきたのもびっくりしたんだ。僕の場合はほら、男の服を着てても女と間違われるのが普通だし。
 今日、男らしさで僕はお姉ちゃんに完敗したんだなあ、って」

「それを言うなら、今日の俊也は美少女すぎだと思うんだ。坂本さんから『可愛さ3割増し』って言われちゃったけど、それよりもっと上かも。外で男たちの目が吸い付けられていく様子とか、見てて面白かったな」
 それが今日一番、大変だったことだ。今でもまだ誰かに見られてるような気がする。

「私たち、生まれる性別間違えたのかな。ね。これからずっと入れ替わって生活してみる?」
「『ずっと』って、嫌だし、無理だよ。これから僕は、どんどん男になってく時期だもの」
「じゃあ、あんたが男らしくなるまでかな。入れ替わりは」
「そうだねえ」

「よし決まりっと。じゃあ明日からもっと本格的に入れ替われるよう、これから特訓ね♪」
「……ええっ?」
 軽い相槌のつもりで言った返事が、酷い地雷だったことに気付くのに、少しかかった。

 そして自分が、お姉ちゃんの言葉に喜んでいることに気づくのは、更にもう少しかかった。



『瀬野家の人々』 俊也の場合-A2 2009年3月


「ありがとうございましたー」
「またのお越しをお待ちしております」
 店員さんたちの声に、振り返って会釈を返しつつ店を出る。
 手には着てきた黒いワンピースを入れた紙袋。纏うのはたった今購入した真新しい服。
 女装外出2日目にして、初の『女』1人だけでの街歩き。

 ズボン姿では歩き慣れたこの道も、スカート姿だと新鮮なことばかり。
 中の人は少しも変っていない。身に付けている布が何枚か違っているだけ。
 それだけで、こうも相手の対応が、世界そのものが変わってくるのが面白い。
 いや、変わったのはむしろ、自分の内面、自分の受け取り方の側かもしれないけれど。

 柔らかい風が街中を駆け抜ける。
 くるぶしまでの柔らかな長いスカートがふわりと風をはらんで舞い上がり、目の粗いニットチュニックの中を通り抜ける。今日は結んでないストレートの髪が舞い踊る。
 まるで、風そのものを纏っているような気分。

 若草のような淡いグリーンのロングスカートに、淡いピンクの花柄のロングブラウスをオーバースカート風に合わせる。
 ゆるめで下の見える白いチュニックをふわりと羽織り、大きなリボンのついた白いベルトを高い位置できゅっと結ぶ。まるで自分が花束と化したような、そんな衣装だった。

 今日のマイ・テーマは、『瀬野悠里はどれだけ可愛くなれるか』。
 心なしか、道行く人からの注目度も1ランク上がったように思える。
 鼻歌でも歌いたくなるような気分の良さに浸りながら駅のロッカーに荷物を仕舞い、次はデパートに入る。

 デパート1階。男の時には、そそくさと通り過ぎることだけに注力していた『女の空間』。
 でも今は、ここは『私たちの場所』なのだ。
 中身は何も変わっていない。ただ着ている服が変わっただけ。
 それだけでこんなに印象が違ってくるものなのかと驚く。

「あの、すいません。よろしいでしょうか」
 首から下のあとは、首から上のお洒落ということで、化粧品売り場で店員さんを捕まえておずおずとお願いしてみる。
「はい。何でしょう。気になる品がございましたか?」

「図々しくて申し訳ないのですが、よろしければフルメイクお願いできませんでしょうか」
「はい。承りました。どうぞこちらにおかけください」
 昨日聞いたときは半信半疑だったけれど、お姉ちゃんの言葉通り色よい返事が返ってきた。
 いやそれ以上か。喜色満面、とはこの表情を指すのか、というくらいの笑顔だった。

 薦めに従い、売り場の椅子に座る。昨日の夜に特訓させられた通りぴったりと膝を揃えて。
 小さな女ものの下着の中にある股間のものが、少し窮屈で辛いけどそこは我慢。
 背筋をぴんと伸ばし、浅く腰掛ける。こんな動作一つとっても男とは大違いなのだった。

「これからデートでしょうか?」
「はい。そんな感じです」
「こんなに可愛らしくて素敵な恋人がいるなんて、彼氏さんが羨ましいですねえ」

 『可愛らしくて素敵』──自分が“男”でいるときには一応反発していたそんな台詞。
 でも『女』でいる今なら、素直に喜んでしまっていいのか。

 そう考えている最中に、スーツ姿の綺麗な店員さんに
「ではまず、このウィッグを外させて頂いてもよろしいでしょうか」
 と訊かれて戸惑ってしまう。
「……ウィッグって、分かるもんなんですか?」

「頭のサイズがかなり違いましたし、悪くないウィッグではあるんですが、古いもので少し痛んでおりましたので……普通のかたには分からないと思いますが」
 流石はプロ、ということなのだろうか。
 カツラを外してもらい、スモッグのようなものを肩を覆うようにかけられる。

「ではまず、お化粧の落とし方から説明しますね。まだお若いですからピンと来ないかもしれませんが、10代の化粧でも、一番大切なのはスキンケアなんです」
 流れるような調子で、化粧落としの様子を事細かに指導される。
 概ね昨晩お姉ちゃんに指導されていた通りだけど、丁寧さが段違いでわかりやすい。

 一連の作業が終わって現れたのは、常日頃鏡で見慣れた通りの自分の顔。
 カツラもなくメイクもなく、首から下は白い布で服が隠された状態。いつもは学ランを着て、普通に男子中学生として生活している、そんな姿。

『失敗したかな? これだと僕が女装した男だとばれるかも』……内心渦巻く、そんな不安。
「すっぴんでも本当に可愛らしいですねえ。同じ女として嫉妬してしまいます」
 でも幸い、店員さんにはばれなかった様子。
 これは男として、喜んで良いのやら悪いのやら。

「肌も本当にお綺麗で。お化粧とか普段あまりされてない?」
「私、この春から高校生になるんです。それでこれから化粧にも挑戦していきたいな、って」
「あらあらあらあら。本当にお若いんですねえ」

 普段一緒に居るのは同級生の女子たち。
 先生や家政婦の鈴木さんもいるけど、それを除けば身近にいる唯一の『年上の、大人の女性』だと思っていた、お姉ちゃんの年齢。
 それが『若い』と言われることに、違和感と面白さを覚える。

「あ、忘れてました。私の肌に合う化粧品があれば教えてください。揃えていきたいですので」
 ふと思い出した、お姉ちゃんからの伝言を口にしてみる。
「はい。ありがとうございます。高校生のお小遣いで買えるものがよろしいですよね……」
「そこら辺は気にせずに良いものをお願いします。幸い、お年玉が結構ありましたので」

 母親は何年か前に死去したとはいえ、母方の親戚とはそれなりに親交はある。
 叔父が医者と弁護士な上に、従兄弟たちも相次いで大学院を卒業して、今学生なのは僕たち姉弟のみ。

 そんな関係から、割と人前では言いにくい金額が『お年玉』として入って来ていた。
 お姉ちゃんから預かってきたその予算額を告げる。あからさまではないけれど、物腰が変わったのを、少し楽しく感じてしまった。

「メイクはどのような感じがご希望でしょうか」
「ナチュラルメイク、って言うんでしょうか。自然な感じでお願いします」
「承りました。世界で最高の美少女にして差し上げますね」

 そんな会話から始まったフルメイク。
「メイクに慣れないうちはつい厚くしてしまいがちなんですが、10代のうちは素肌の綺麗さを生かした、薄い感じのメイクがいいですね。
 特にお嬢さまはお肌が本当にお綺麗ですから、ファンデもコンシーラーもいらないですね」

 『お嬢さま』、っていきなり呼ばれて戸惑ったけれど、そうかこれは僕のことなのか。
「ベースメイクとして、肌の艶感をさりげなく演出するために、薄くそっとフェイスパウダーを載せていきます」

 僕の目からは余り差のないように見える7種類のパウダー。
 それを丁寧に丁寧に、場所ごとに替えながら肌の上に載せていく。
 一通り終わったあとには、そんなに化粧をしていないように見えるのに、でも化粧前とはまったく違った輝きを見せる顔の肌があった。

「チークは軽く、本当に軽く、頬の一番高い箇所にほんのりと当てる感じで。次はアイブローですね。……眉毛を整えさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「……ええと、目立たない感じであれば」
「畏まりました。もとから形がよろしいので、それほど直す必要はないのですが」

 そう言って小さな鋏を取り出して、眉毛を微かにいじってくる。
 『新学期になって、これで僕が女装してたことがばれるんじゃないか』
 そんな懸案が心を通り過ぎるけど、それより『もっと可愛くなりたい!』という欲望が強くてあっさりと敗北してしまった。

「ラインを引くのではなく、このようにぼかす感じで……」
「わあっ、あのお姉ちゃんすっごくきれい!」
 眉を描いてもらってる最中に、不意に幼女の声が届く。顔を動かせないので視線だけを向けると幼稚園くらいの小さな女の子が、キラキラ輝く瞳で自分のことを見つめていた。

 そっか。『私』は『きれいなお姉ちゃん』なんだ。
 ペンの当たってない側の目でウィンクして、小さく手を振る。
 連れてる母親は申し訳なさげな表情をしてたけど、大喜びしてくれる様子が心強い。

「続いてアイメイクに移ります。まずはビューラーで睫毛をカールさせますね」
 先を急ごうとする母親に女の子が駄々をこねて、このまま見てることになったらしい。
 少女の視線を浴びながら、丁寧な説明付きのメイクが続く。

 鋏のようなものものしい物体が、目の前でカチカチと小刻みに動かされる。
 少し恐怖に似た感情を覚えるけど、小さな女の子の前で表に出すわけにはいかない。
「本当、睫毛が長くて濃いですねえ。付け睫毛とか必要ないですね。羨ましいです」

 鏡の中の『私』の印象は、また一段と変化していた。いつも睫毛で少し翳になっていた目に光が入り、ライトを受けていっそ眩しいくらいに輝いている。

「アイラインは……そうですね。濃い目のブラウンが良さそうですね。睫毛を繋げる感じで。マスカラは付けずに、シャドーは肌の色に近いものを、ほんの少し」

 化粧は魔法だ。そんなことを考える。
 ペンが、筆が、指先が、私の顔を撫でていくたびに、鏡の中の私がますます輝いていく。
 『私』という存在が、塗り替えられていく。

「あの娘可愛いね」
「頭小さいし、首細いよねえ」
「モデルさんの実演販売なのかな?」
「メイクの説明も分かりやすくていいね。割と目から鱗だわ」
 どうも陶酔に浸り過ぎていたみたい。
 ふと気づくと女の子の他にも何人かギャラリーが出来ていた。

 店員さん含め、全員が女性。
 その中で唯一の男である僕が、誰よりも女らしい可愛らしい姿にされていく。
 店員さん含めて、誰一人として僕が男であることを気づいていない。飛び切り綺麗な女の子だと思われている。そんな不思議な感覚。

 この場で自分が男であると知っているのは、僕一人。いや、自分の心さえ騙して女の子になりきってしまえば、ここにいるのは一人の少女になる。
 そう、思ったのに……何故かむくむくと股間のものが自己主張を始める。
 まるで『ボクの存在を忘れないで!』と主張するかのように。

 デパート1階、女の園。そこで可愛らしい服を着て可愛らしいメイクをされて。
 周囲の誰からも女と思われている状況で、僕はこっそり男としての欲情を持て余していた。

「最後に口許のメイク。10代のうちは口紅やグロスは使わずに、色付きのリップクリームで仕上げたほうがいいですね。
 唇は少しお手入れがよろしくないようですね。唇を舐めたりしちゃだめですよ。きちんと手入れをすれば、すぐに彼氏さんがキスしたくなるようなプルプルの唇になります」

 “彼氏とキス”……僕がそんなことをする日が来るんだろうか。来ないでほしいけど。
「まずは保湿用のリップクリームですね。終わったら、ティッシュを軽く咥えて、リップを押さえてください。ほんの軽くで結構ですよ? そのあとリップコンシーラーを……」

 まるで呪文のような言葉が続いていく。
 最後にリップを塗って終わった時には、軽い疲労感と不思議な達成感があった。
 世の中の女性は皆これを毎日やっているのか。羨ましいのか大変だと思うのか、自分でも決めかねる揺れる心が自分の中にある。

 鏡の中にいるのは、ほとんど化粧をしてないように見える、でもメイク前とは明らかに変貌を遂げた、美しい少女の姿。
 目は微かに潤み、頬は紅潮を湛え、眩いくらいに光り輝いている。

 その様子は完全に『恋する乙女』。そしてその恋の相手は、世界で一番可愛い女の子。
 お姉ちゃんであり、鏡の中の自分でもある、そんな女性。
「女の子はまず、自分自身に恋をしないと」
 “彼女”が時折口にしていた言葉を、ふと思い出して納得する。

「ナチュラルメイク、って手間がかかるもんなんですね」
 メイクが終わり、ギャラリーが去ったあとに店員さんに疑問を投げてみる。
 自分では『高い』と感じた化粧品が、飛ぶように売れていたのが驚きだった。自分はお姉ちゃんからの軍資金がなければ、絶対に買わなかった値段なのに。

「薄化粧とナチュラルメイクは違いますので。化粧してないくらいに自然に見えるようにメイクするのは、かなり大変なんです。お嬢さまは肌がお綺麗ですから大分楽でしたよ?」
 なるほど、奥が深いと感心する。はまってしまいそうな自分が怖いとも思う。

「ところでお嬢さま、お時間はよろしいでしょうか」
「えっと、今何時でしょう? ……あと1時間半くらいでしたら大丈夫です」
「畏まりました。そうですね。では……」

 店員さんに連れられてデパート内を移動し、まず到着したのはウィッグを売ってるお店。
「お嬢さまは頭が大変小さくていらっしゃいますから、なかなかピッタリ、というのは難しいですね。出来ればフィットするものを新しく作ったほうが良いのですが」
 そんな言葉を受けつつ、ウィッグを色々試してみる。

 見慣れたはずの自分の顔。でもウィッグを変えるだけで随分が印象が変わるものだと驚く。
 女の子って、髪型一つでまるで別人になるものだ、と改めて驚かされる。
 今は髪型だけでなく、長さも色も変えたい放題だから余計にそうだった。

 結局衣装に合う髪ということで、茶色のセミロング、軽くウェーブのかかったウィッグを購入。それをそのまま頭にかぶった状態で、次の店の女性靴売り場に。
 こちらでは3センチのヒール付き、可愛らしいデザインの白のパンプスをさっくり購入し、続いてネイルサロンに案内される。

「随分せかしてしまって申し訳ありません。次は、もう少しお時間のある日にお越しくださいね。本格的なネイルケアやエステなど、最上級のサービスで案内させて頂きます」
 その店の人だけでなく、化粧品店の店員さん含めた3人がかりでマニキュアが施される。

 控えめで淡いピンク色の爪が輝く、見慣れたはずなのにそうは見えない手の指。
 いつもは『女みたいだ』とからかわれる、でも今日は『とってもお綺麗で羨ましい』と絶賛を受けた、男としては(女としてすら)華奢で小くて指の長い手。
 それに見とれる間もなく、次は3階へ。

「お嬢さまは、こういった場所はこれまで利用されたことはありませんか?」
「すいません、ありません……初めてです」
「やっぱり。ではパウダールームの利用方法と、化粧直しのやり方を説明させて頂きますね」

 『女性』としては来慣れてないとおかしかったか、と一瞬発言を後悔したけど、変には受け取られなかったらしい。
 『世間知らずの超箱入り娘』とでも思われてるのだろうか。
 にっこり笑って、ここまで案内してくれた店員さんが説明を開始する。

 女性がトイレを『化粧室』と呼ぶのが不思議だったけど、見ただけで納得させられる異空間。
 男子禁制、女だけの秘密の場所。
 ライトが照らす、綺麗で明るい空間。
 本当はこの場で唯一の男なのに、備え付けの三面鏡の中では、この場で一番美しい女の子が化粧直しを済ませたばかりの顔で、にっこりと微笑んでいた。



 もっと時間を余らせて、『女の子の独り歩き』を体験したいと楽しみにしていたのに、結局待ち合わせの時間ピッタリになってしまった。
 いやそんな時間に間に合わせてくれたのか。そういえば、『そんなに使えないんじゃ?』と懸念していた軍資金。これも2万残るくらいでほぼピッタリ使い切っている。

 デパートを出る。
 店内に居る時から感じてはいたけど、路上に出ると視線が凄い状態になっていた。
 昨日が『視線の渦』だとしたら、今は『視線の嵐』みたいな状態。
 自意識過剰な部分もあるんだろう。冷静に見回すと全員が全員僕を見てる状況でもない。

 それでもチラ見する人、二度見する人、ガン見する人、わざわざ立ち止まって見る人、色々な視線が僕を包み込む。
 昨日はお姉ちゃんが、今日も店員さんが保証してくれたけど、それでも不安が駆け巡る。
 僕はやっぱりどこか変なのかと。女装少年がそんなに珍しいのかと。見世物扱いなのかと。

 それでも立ち止まるわけにはいかない。一歩を踏み出したとき、呼び止められる。
「そこのお嬢さん、ちょっとよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょう?」
 返事して振り向いたあと、『お嬢さん』と呼ばれて自分が反応したことに少し驚く。

「いや本当に可愛らしいお嬢さんだ。私の理想通り……いやそれ以上か。もし時間がありましたら少し話をさせて頂きたいのですが……」
 少し乱れた白髪に白い髭、多少くたびれた感じの老紳士、といった感じの人物だった。
「あの、すいません。デートの待ち合わせに間に合わなくなるので、私はこれで」

「ほう。それは本当に済まないね。出来れば時間があるときに連絡してくれると嬉しい。呼び止めてしまって申し訳なかった。彼氏さんによろしくね」
 そう言って名刺を渡して立ち去っていく紳士。今のは一体なんだったんだろう。

「ねーねー、そこの彼女」
 再び歩き始めて2分も経たないうちに、次の声に呼び止められる。つい「?」と振り向いてしまって後悔。軽薄そうな男性が、ガムを噛みながら立っていた。
「うわっ、思ってたより何千倍も美人! もしかして芸能人? ねーねー今日お暇?」

「すいません、待ち合わせの時間に間に合わなくなるんで」
「そんなつれないこと言わないでいーじゃん。それともオレみたいなブサメンと話すの嫌?」
「やめなよ。この子が困ってるじゃないか」
 見るとナンパ男の後ろから出現した、背の高い知らない男性が制止してくれている。

 軽く礼をして、そのまま逃亡。
 後から来たほうもどうせ下心見え見えなのだ。関わらないほうがよさそうだ。
 でも……とすると。今までの出来事を、軽く反芻する。今の僕──いや『私』の姿は一人の『女の子』として、十分自然で魅力的だと信じてしまってもよいんだろうか。

 これは、珍奇な存在を不審がる視線じゃなくて、『世界一の美少女』に見惚れる視線。
 仮にそうでなかったとしても、そう信じてしまおう。
 大きく深呼吸して、背筋を伸ばして歩き始める。唇の端に笑みが浮かぶのを覚えた。



 ──時刻と場所を確認する。うん、間違っていないはず。
 色々な人が待ち合わせしている場所。お姉ちゃんが化けてる『俊也』の姿が見当たらない。
 近くに女の子たちと話している少年の背中が見えるけど、背丈も違うし髪を隠す帽子も被っていないから違いそうだ。

「そこの綺麗なお嬢さん、どうしましたか? 何かお探しでしょうか?」
「いえ、お気遣いなく。電話をかけますから大丈夫です」
 またナンパかと少し辟易しつつ、でも表面的には穏やかを装って笑顔でお辞儀して、iPhone を取り出してかけてみる。

 待つほどもなく電話が繋がる。
『お姉ちゃん? ……うん。いや、もう待ち合わせのところにいるけど……』
 先ほどの少年が振り向いた。黒いジーンズ、黒いジャンバー、黒いシャツの黒一色の姿。
 見間違えるはずがない、見慣れた“俊也”のいつもの顔。でも髪が短い。

「……ああっ、髪切ったの!」
 座った時に椅子につくくらいまで長く伸ばしていた黒髪が、普通の少年よりは少し長い程度に切りそろえられていて、さすがに驚く。
 先ほど声をかけた男性に軽く手を振って、歩いて近寄ってみる。

「きゃああっっ!」
「わっ! びっじーん……」
「ね、俊也くん、この人?」
 周囲を取り巻く女の子たちが華やかだ。
 いつの“俊也”はこんなにモテモテじゃないので、少し理不尽に思う。
 でも肝心かなめの『俊也』はというと、私のほうを瞬きもせずに見つめて硬直していた。

「俊也? どうかしたの?」
「……おねえ……ちゃん?」
「うん、そうよ。他の誰にかに見える?」
「いや……見違えたよ……うん、すごい綺麗だ」

 周囲への挨拶もそこそこに手を繋いで、駅の構内を2人で歩き始める。
「髪、切っちゃったんだ」
「うん。……暑いし重いし、手入れ大変だして、前々から切りたいとは思ってて。で、丁度いい機会だから」

「うーん、もったいなかったかなあ。……それで待ち合わせ時間遅くしたのね」
「うん、そういうこと。それにあと色々買い物が必要だったし」
「背がいきなり高くなってるからちょっとびっくり。シークレットブーツ買ったの?」

 3cmヒールの靴を穿いたから見下ろす形になるかと思ったら、逆にほんの少し見下ろされる形になっていた。『男女の身長差』ほどないけど、並んで歩いてバランスがいい。
 ジャンバーには肩パッドが入ってるようで、肩幅もそれなりにある。

 自分もこの服を着れば、『格好いい男の子』になれるのだろうか?
 ……『無理して男装した女の子』に見えてしまうのかもしれないけれど。
「まあね。お姉ちゃんのほうも、凄く変わったね。今日家を出るとき黒い服だったから合わせたつもりだったのになあ」

「今日は『可愛い瀬野悠里』を徹底的に極めてみたかったの。……最初は『黒くて可愛い服』を探してみたんだけどね? なんだか浮いちゃう感じがして、これに決めたんだ」
「いや、いいと思うよ。凄く似合ってると思う。ああ、良かった。ちょうど空いてる」
 手を引かれるままに、2人一緒に駅の男女共用の障碍者トイレに2人で入る。

「……俊也、やりすぎ。心臓が止まるかと思っちゃった」
 扉を閉めるなり、大きく息を吐いてそんなことを言う“お姉ちゃん”。
「まずかったかな?」
「スカウトとかナンパとか凄くなかった?」

「次から次へと大変だったよ。お姉ちゃんっていつもこんな感じなの?」
「私はいつもはそこまではないんだけどな」
「そういうお姉ちゃんのほうも、逆ナン凄かったね」
「うん、大漁だった。女の子たちに囲まれてたのは見たでしょ? 俊也ってもてるのね」

「僕だとあんな感じにならないよ……」
 制服のときならともかく、私服時に来るのはナンパ男か女モデルのスカウトばかり。
 僕だって男だ。男にもてるよりは女にもてたい。何かコツでもあるなら教えて欲しい。

「ところで、こんなところに連れ込んで何かするの?」
「ああ、忘れるところだった。これも買ってきたから付けてね」
 そう言ってゴソゴソ鞄の中から取り出して渡されたのは、なんだか昨日見せられたお姉ちゃんの胸部を、そのまま切り取ったような肌色の物体。

 少しの言い合いして、チュニックとワンピースを脱いで、丸めたストッキングの替わりにそれをブラジャーの中に詰める。
 さっきまでとは段違いに自然な感じになった、2つのささやかな膨らみがそこにある。
「結構重みがあるんだね。つけてると肩が凝りそう」

「実際のおっぱいと同じ重さって話。でもBカップだからそんなに重くないと思うんだけどな。クラスにDの子とかいたけど、あれは確かに大変そうだった。
 ……今度、Dカップのパッドも買って試してみよっか」

 それは興味があるようなないような。
 今でも十分な柔らかさと重みに、股間がやばいことになっているのに。
 窮屈すぎる下着の前を持ち上げて、我慢汁がにじみだしそうになっているのが辛い。
 それでもスカートの上からは少しも分からないのも、ある意味辛いところだけど。

「あー、お姉ちゃん。今のうちに小便しておいていい?」
「どうぞ。……って、その格好で立ってしないでよ。ちゃんと座って、脚も閉じて」
「他に誰も見てないんだから、別にいいんじゃないの?」
「駄目よ。油断は禁物。誰も見てない時も、視線を意識して『女』でいないと」

 色々言いたいことはあるけど、黙って言われた通りに腰掛ける。いい加減硬くなりっぱなしなものを無理やり下へ向けて太腿でぴったりと挟みこむ。
 半脱ぎのスカート、女物の下着、スリップを盛り上げる双つの丘の間に、まるで女の子のような股間が見える。

 ……僕はこれからいったい、どうなってしまうのだろう?



『瀬野家の人々』 俊也の場合-A3


 服を着なおして、おかしなところがないかを確認してトイレを出る。
 ここから先は、私は悠里。この子は俊也。自分の心に改めてそう言い聞かせながら。
「お姉ちゃん、食事いかない? もうこんな時間だし、お腹すいちゃった」
「あ、そうだ。今日は『お姉ちゃん』ってのやめよう。私のことは『悠里』って呼んでね」

「恋人のように?」
「そ。恋人のように。ただ『悠里』、って」
「……うん、分かった。でもなんだか恥ずかしいね」
「大丈夫。私もちょっと言ってて恥ずかしかった」

 2人で顔を見合わせて笑いあう。
 荷物をまたロッカーに預けて少し歩き、適当にランチセットのある店を探して中に入る。
『高校生デート』としてはグレードが高いかもしれない、そんな瀟洒なレストランだった。

 本日のメニューを眺めてみる。
 レディースランチがいい感じ。でもやっぱり男なのに『レディースランチ』は変なのかな、とまで考えて思い至る。そういえば今日の『私』は女の子なのだった。

 ということでオーダーを取りに来たウェイトレスさんに、遠慮なく注文してみる。
 特に不審がられる素振りもなかったので内心ほっとする。
 そういえば座るとき特に意識してなかったのに、気が付くといつの間にかスカートを綺麗にお尻の下に敷いて、脚をきちんと閉じて腰掛けていた。

 “女を、装う”と書く、女装という言葉。
 女物の衣装を装うだけでなく、仕草も、立場も、他人からの扱われ方も、トイレの仕方ですら女を装うことを要求される。
 でもなんだか、それを楽しく思い初めている自分がいた。

 そのうち、心まで“女を装う”ことが出来るようになれば、それは“女が、女でいる”というだけの、ごく自然な状態になってしまうのだろうか。
 このドキドキがなくなってしまいそうで、それはそれで少し勿体ないような気がした。

「悠里ってば、凄いイメチェンだよね。最初分からなくてごめん。こういうのも可愛いね」
 テーブルの向かい側から手を延ばし、肩にかかる私の髪に指先を絡めながら俊也が言う。
「昨日、『世界で一番可愛い女の子と、デートしたい』って言われたからね。だから、もっともっと可愛くなれるように、って頑張ったの」

「昨日の時点でもう世界一だと思ってたけど、まだまだ上を目指すんだ」
「うん。──私もね、ずっとずっと“悠里は世界一可愛い女の子”だと思ってた。
 でも、昨日今日で確信しちゃったんだ。“悠里はもっともっと可愛くなれる”って。
 身内や惚れた欲目抜きで、本当に世界一を目指せるんだ、って」

「何だか眩しいな。うん。悠里は本当に可愛い」
 目の前に座る男の子、俊也がうっとりとした表情で微笑む。
 胸の中で、『キュン』と音が鳴ったような気がした。
 冷静に考えれば、弟の服を着こんで男装した姉の、自画自賛の言葉。
 でも今は、一人の『女の子』としてその言葉にトキメキを感じていた。

「最初にも言ったけどさ、ナンパとかスカウトとか大変じゃなかった?」
「デパートから待ち合わせの場所の移動だけだから、そこまでじゃなかったかな。そういえばこんなの貰ったんだけど……」
 と、デパート出口で受け取った名刺を取り出して渡してみる。

「○○○○、ねぇ……」
「あれ、知ってる人?」
「なんだったかな。美人画か何かの画家さん。どっかで前聞いたことはある」
「やっぱり、あれスカウトだったんだ。絵のモデルかあ」

「本人ならね。そっくりさんがなりすまして勧誘とかよくあるから、仮に興味があってもその名刺のアドレスには連絡しないこと。名刺もさっさと捨てちゃったほうがいいね」
「うーん、そこまで用心するんだ」

「AVあたりの勧誘ならまだ可愛いけどね。誘拐とか拉致とかヤクザとかレイプとか普通にあるから、悠里も気を付けないとだめだよ。
 ……悠里はまだまだ、自分の魅力と価値がどんなものか分かってないみたいだから」
「うん。……分かった、とまでは言えないけど、分かるよう努力します」

「美人はねえ……得なことも多いけど、面倒ごとも沢山あるから」
「なんだか実感が籠った喋り方だけど、ひょっとして女装して歩いたときのの実体験?」
「……いや、お姉ちゃん見てるとそう思う、ってだけ」
「あの人、美人だもんねえ」

 昼時よりは遅いとはいえ、人もそれなりに居る店内。お姉ちゃんでも油断することがあるのか、と内心思いつつ軌道修正してみる。

 でもこれ、意外に楽しい。
 傍から聞いてる人に、『私』が本当は男で、『俊也』が本当は女であることを悟らせないように会話を繋いでいく。なんだかパズルでも解いていくような感覚。
 いつもの自分は無口なほうだと思うのに、口に翼が生えたように喋りたくなってくる。

「俊也は俊也で結構スカウト来ると思うんだけど、芸能界入りとか興味なし?」
「言ってなかったっけ? 僕はほら、経営やりたいから……経営は何かやりたいことを達成するための手段のはずなのに、目標にしてる時点で変な話とは分かってるんだけどね」
「いや、すごい立派だと思う。まだ若いのに」
「だからまあ、あんまり時間がとられることは、したくないってのが正直な気持ちかな」

「でもちょっと意外かな。モデルウォークとか練習してたから、モデル目指すと思ってた」
「モデルみたいな綺麗な動作は目指したいと思うけど、職業にはしたくないかな。仮に芸能界に入るなら、じょ……俳優あたりが目標」
「そうなんだ?」

「容姿も武器にできて、でもそれだけじゃなくて、努力とセンスと技術と積み重ねが要求される世界がいいなって。そういう悠里は、将来の夢とかあるの?」
「んー。俊也のお嫁さんとか?」
 思わずむせる俊也。生まれて初めて、この人に一矢報いることができたような気がした。

 女と男、姉と弟、もうすぐ高校生と中学生、私立の女子校生と公立共学校の生徒。
 何重にも立場を入れ替えた状態で、周りに不審に思われないよう注意をしながら、でもここ暫くなかったくらいの勢いで、私たちは2人の会話を楽しんでいた。

 やがてランチが運ばれてきたので、二人で「いただきます」と手を合わせて食べ始める。
 “女の子らしく、瀬野悠里らしく食べる”という、実は難易度の高い行為。記憶の中の“瀬野悠里”にイメージを合わせて、それに沿うように全身を動かす。
 言うは易し、行うは難しを地で行く作業だった。

 昨日と違って髪を後ろで纏めてないから、ウィッグの茶髪がかかってくる。
 左手でそっとかきあげてみるけど、どうにも落ち着かない。
 口紅……じゃなくてリップクリームか。とにかく綺麗に化粧した唇がはげないように、そっと食事を口の中に入れるのも結構気を使う。

 食事の匂いに、化粧の匂いが混じってくるのにもなんだか違和感。
 おかげで今まで意識から外れていた化粧が気になり、ついこすってみたい衝動に襲われて、それを抑えるのが大変だった。
 これが“女性の日常”なのか。大変なものだと改めて感じる。

 いつもより意識してゆっくりと咀嚼して食べる。
 自分におかしなところがないか気にしながら、指の動きにも気を使って。
 目の前には、小憎らしいほどに落ち着いた『俊也』が、男性ではあまり見かけない、自然で優雅な仕草で食事を食べている。

「レディースランチ、美味しい?」
 私の視線に気付いたのか、ニッコリ笑ってそんなことを聞いてくる。自分と同じ顔がそんな表情が出来るとは思っていなかった、“女殺し”の笑顔。
 自分の心臓がまたキュンとなるのを覚える。

 正直、味も分からない状態。でもせっかく得た生まれて初めての優位を失うのはシャクだ。
「まぁまぁ、かな。俊也も食べてみたい? はい、あーん」
 いんげんのおひたしを少し取って、それを差し出てみる。
 少し面食らった顔をしたあと、それでも笑顔でパクリと食べてくる『俊也』。

 お返しとばかりに、箸に自分のおかずを少し取って「あーん」させてくる。
 傍から見てると、きっと呆れるくらいにバカップルな光景。
 ほんの一昨日まで、あり得ない夢だった『悠里お姉ちゃんと俊也との、いちゃラブデート』。
 これで立場が逆だったら、自分が悠里の立場でなかったら、どんなに良かっただろう。

 そんな食事をなんとか終わらせて、女子トイレに移動。
 白いチュニックに淡いピンクのロングブラウス姿の『可愛い女の子』が、大きな鏡に映し出されている。
 案の定リップが取れかかってたので、さっき習った通りに軽く化粧直しをしてみる。

 一段と輝きを放つように思える、可愛らしい容姿、可愛らしい笑顔、可愛らしい仕草。
 “女でいる”というのは大変なことも多いけど、それを補ってなお余りある喜びがそこにあるような気がした。



「俊也、どこか行きたいとこある?」
 会計を済ませて店の外に出て、2人で腕をからませて歩きながら尋ねてみる。
「今日はもう、完全に悠里に任せるよ」
「んー。じゃあ、次はあのお店」

 私が指さした店を見て、珍妙な表情になる俊也。
 店に入ったあとも、やっぱりどういう顔をしたものか決めあぐねる変な顔になっている。
 やばい。楽しい。癖になりそう。普段なら自分が優位なんてあり得ないことなだけに。

「ねえ……悠里、やっぱり僕外で待っててもいいかな?」
「だーめ。ほら俊也も一緒に選んで。どんなのがいい?」
 ここはランジェリーショップ、女性用の下着売り場。いつもの僕ならなるだけ目をそらしながら通り過ぎていた店。正直言えば女のふりをしている今でも、いるのは十分恥ずかしい。

 偶々、同じようにカップルで来ていた男女(多分大学生くらい)と目が合う。
 彼氏さんはやっぱり少しうんざりした様子で目線を彷徨わせている。俊也と目を合わせて、『お互い大変だよなあ』って感じで、男同士視線だけで分かり合ってる様子。
 その様子を見て、彼女さんと目を合わせて一緒にニヤニヤ笑ってしまう。

「なんだよ、そこ。女子同士で分かり合っちゃって」
「そんなこと、どうでもいーでしょ。それより俊也、私に着せたい下着見つけた?」
「うん、あれとかどうかな?」
 少し投げやりに指さした先にあるのは、真っ赤な……『勝負下着』だっけ、そんな下着。

「ふぅん。あんなのが良いんだ」
 にやりと笑って、サイズを探して平然と手に取る。内心バクバクなのは秘密だ。
 ぴろんと広げて目の前にかざすと、顔を真っ赤にして視線をそらす。逆襲のつもりだったんだろうけど、そんなことはさせてあげない。

 とんでもないことやってるなと、自分の大胆さに内心驚いてみる。
 逆の立場なら、僕が男のままなら、絶対ありえないような行為。
 結局、その他に2セット。“瀬野悠里”の持ち物と比べると随分と可愛らしいデザインの下着を購入して店を出る。

「試着、してかなくて良かったの?」
「うん。大丈夫」
 店を出た直後の、俊也の言葉に適当に相槌する。

 実は女の子の振りをしつつ、股間のものはずっと男の子を主張しっぱなしだったのだ。
 試着なんてしたら、女の子ではありえない場所に、女の子にはあり得ないシミがついてただろう。そうしたら店員さんにバレて大変だっただろう。
 試着したくても出来なかった、というのが実際のところなのだ。

「で、ごめん。ちょっとおトイレ行かせて」
「そうだね。僕も少し行きたいかも」
 近場のスーパーに入り、障碍者用の男女兼用を探しても見当たらないので、2手に別れる。
 本日3回目の女子トイレ入りだった。

 トイレは幸い空いていた。
 挙動不審にならないように気を付けつつ個室に入り、またチュニックとワンピースを脱いで、たった今買ったブラジャーを袋から取り出す。
 ワンピースの色と合わせた感じの、淡いピンク色の女物の上の下着。フリルがついていて、かなり可愛らしいデザインの一品だ。

 “お姉ちゃん”のものではない、“僕”だけのブラジャー。
 感慨に耽りたかったけれども先を急ぎ、昨日教わった通りのやり方で身に付ける。
 慣れのおかげか、肌にピッタリくっつくタイプのパッドだったためか、今朝よりも随分スムーズに装着出来た。男として生活する上で、無用なスキルばかり磨かれていく。

 軽く身をよじって着け心地を確認。
 昨日色々測ってみて、“お姉ちゃん”よりも“僕”のほうがアンダーバスト(!)が少し大きなことは、知識としては把握していた。
 パンストを詰めた時には大して問題のなかった、数センチの差。

 でもきちんとしたパッドを詰めてると、意外な苦しさに少し気分が悪くなりかけていた。
 平然とした振りをしていたけれども、下着屋に行ったのは割と切実な事情があってのこと。
 決して助平心や好奇心じゃないんだから、と誰に言うでもなく自分自身に言い訳してみる。

 正直、かなり楽になったと感じる。
 男が下着を試着して買ったら気持ちが悪いだけだけど、女の子がきちんと測って試着までして下着を購入する理由が身に染みて分かってしまった。男として無駄な知識が増えていく。
 先走り液が少し染みついた、下のほうもついでに穿き替えてみる。

 そうしてもう一度、服を着なおして、ドアを開ける……と。
「ちょっとあなた、何してるの!」
 見知らぬおばさんが、やや抑えた声で、でも凄い剣幕で怒鳴ってきた。

 血が逆流するような思いがした。
 どこで僕が男とばれたんだろう? やっぱり女装して女子トイレに入るのはまずかったのか。変態扱いならまだいいとしても、犯罪者になるんだろうか。
 そんな思いが頭をグルグルする。

「あなた、万引きしてたでしょう?」
 だから、そのおばさんの放った次の言葉に思いっきり、きょとん、としてしまった。
「……万引き、ですか?」
「そうよ。誤魔化そうとしても無駄よ。トイレの中で思いっきりゴソゴソしてたじゃないの」

 思わず笑いたくなるけど、でもこのまま身体検査とかされたら男だとばれてしまう。
 ピンチな状況は変わってないんだった。
 思考停止しかける頭を無理やり動かして、言葉を作る。
「すいません。……急に始まっちゃったので」
 言ったあとに、自分が何を口にしたか意識して、思いっきり赤面してしまう。

「そう……なの?」
「幸い、下着を買ってたので着替えたんですが……紛らわしいことをして申し訳ありません」
 そのまま、頭を深々と下げる。主に表情を隠すためだけど。

「本当にごめんなさいね。私ったら変に疑ったりして。
 ……彼氏さん、彼女を大切にしてあげてね」
 トイレの出口。そんなことを言いながら去っていくおばさん。

「何があったの?」
 合流直後に見知らぬ人にそんなことを言われて、目をぱちくりさせていた『俊也』に今の出来事を軽く説明する。
「そっかぁ。始まっちゃったんだ。……今日はお赤飯かな」

「もうっ。デリカシーのない人は嫌い」
 演技でもなんでもなく、また顔が赤くなるのを感じる。
 自分が咄嗟にそんな言い訳を思いついたこと自体が恥ずかしいし、『俊也』にそれを説明してしまった自分の迂闊さが恨めしい。

「ごめんごめん。もう二度と言わない。……ところで、トイレで少し気になったんだけどさ」
 そう言って少し背を屈めて、耳元でこそこそ話しかけてくる。
(……男子トイレに音姫が見当たらなかったんだけど、ここが特殊なの?)
(ごめん、そもそも『音姫』がなんなのか分からない)

 通行人の邪魔にならないように壁に寄って、2人で交互にこそこそ耳打ちする。
(水が流れる音が出る装置なんだけど……トイレには普通にあるもんだと思ってた)
(それ、何のためにあるの?)
(え? だって、トイレの音聞かれるのって嫌じゃない?)
(えぇ?! 女の人って、そんなの気にするの? 普通、そんなの気にする男性はいないってば)
(だから男子トイレになかったんだ……)

 意外なところで出会う男女のカルチャーギャップに、お互いショックを受けてみる。
 でも良かった。さっきトイレの個室に入った時には、存在すら気が付いてなかったわけで、そんなところから“僕”が男だとばれる可能性もあったのか。

 “女を、装う”ためには、外見を完璧に女にしただけではまだ全然足りなくて、気付かない所に散りばめられた『女としての常識』を身に付けないといけないらしい。
 浅いようで深い男女の溝。
 難しいと思っているのか、面白いと思っているのか、自分の心が分からなくなる。

 その次はインポートショップを回ったりして、アクセサリ類を購入。どれも銀色に光る、控えめで上品だけど、高校生らしい高価過ぎないアイテム。
 『センスある彼氏と、初心で可憐な彼女』の買い物道中。これが逆の立場だったらどれほど良かったことか。……まあ、自分はセンスはないから役者不足かもしれないけど。

 身体を動かすたびに、耳元でイヤリングが揺れる。
 首元でネックレスも揺れる。
 慣れかけて気にしなくなってきていた長いウィッグの髪の先や、ロングスカートやチュニックが揺れる様子もまた意識にのぼってくる。
 そしてそのすべてを、心地よいと感じている自分に気付いて心が揺れる。

 自分の身体が男らしくなるまでの女装。
 今はまだいい。普通に男の格好をしていても、まず100%女と思われるような状態だから。
 でもこのまま完璧に女装にはまってしまって、男らしくなってもまだ女装を続けたいと思ったら“僕”はその時どうするのだろう? それが、どうにも不安になった。

 『女一人歩き』に比べると、『男女の2人歩き』は随分と気楽だった。
 スカウトもナンパも格段に減ったのが割と重要。
 それでも俊也を女の子と勘違い(?)して声をかけてくる人たちも時々いたけれど、手慣れた風であしらってくれたのはありがたかった。

 『頼りになる彼氏さんに、守られている女の子』って、こんなに心地よいものだったのか。
 ただ、注目度が恐ろしい勢いで増えたのも確か。
 今までさほどでなかった女性からの視線も加わって、ほとんど網のように自分たちを包む。

「これ、結構いいね。客観的に見て、服とか似合ってるかどうか確認して買えるのは」
 慣れているのか、そんな視線の中でも泰然とした様子の同行人が呟く。
 しかしなるほど。この『デート』には、そんなメリットもあったのか。
「へー。じゃ、次は『俊也』の服を見に行く?」

「そうだね。あれとかどう? 似合うと思うんだけど」
 そう言って指さしたのは、ロリータ服専門店。
 返事を待たずに店内に入り、店員さんと平然と「一度着てみたかったんですよねえ」とか会話しながら試着を始める。

 『王子ロリータ』とかいう、主に女の子が男装するために作られた、フリル一杯の黒メインに白が配色された衣装。
 中性的な容姿を持つ少年(に化けた本当は女性)に、それは確かに良く似合っていて、通りすがりの女の子たちまで含めてキャーキャー騒がれました。

 「彼女さんもぜひご一緒に」と店員さんから強く薦められ、自分も同じように黒メインに白を配したゴスロリに着替えさせられてみたり。
 大きく膨らませたミニスカート、コルセットの窮屈さ、過剰なフリル、動きにくい衣装が、『自分は今、女の格好をしてるんだ』と改めて意識させる。

「すっごい可愛い!」
「本当に王子様・お姫様みたい」
「写真を店に飾ってもいいですか?」

「……どう? このまま街を歩いてみる?」
「いやいやいやいや。それは本気でやめようよ」
 このまま外出は勘弁してもらえたけど、結局一式を購入してみる。

 そのうち“僕”も、この王子ロリータかゴスロリかで外出させられたりするんだろうか。
 しばしの逆襲を楽しんでみたりもしたけれど、結局この人には敵わない。
 そんなことを痛感させられる一幕だった。



「んーーっ。疲れたー」
 昨日に引き続き夕食まで外で食べて、ようやく家に戻って大きく伸びをする。
 ずっとお澄まし状態の外だと、こんな動作すら思うようには出来なかったのだ。
 それでも布地がみしりと音を立てた気がして、慌てて身体を伸ばすのをやめる。

「お姉ちゃん、服はどうする? また取り換えるの?」
「今日はこのままにしようよ。パパを騙せるかどうか、実験してみたくない?」
「えぇ? いい加減、男に戻りたいよ……」

 口では抗議してはみたけれど、でもそこまで本気だったわけでもない。
 普通に押し切られて、お姉ちゃんの持ってるルームウェアでも一番可愛い、クリーム色で花柄の上下に着替えさせられる。
 ウィッグはまた黒のストレートに戻して、首の後ろで大きなリボンを結ぶ。

 化粧も落として、パック含めて普段お姉ちゃんがやってる肌の手入れを実践させられて。
 その後は昨日購入していた録音機を使って、互いの声真似を練習してみる。
 正直……自分の声がこんな感じとは思ってなかった。いつも思ってる“自分の声”より割と高くて、『僕の真似をしたお姉ちゃんの声』のほうが少し低いくらいというのは驚いた。

「なんだか自分の声って恥ずかしいなあ」
 僕の服を着たお姉ちゃんが、うつ伏せで脚をバタバタさせながら言う。うん、違和感が。
 そんなこんなしてるうちに、お父さんが帰ってきた。
「「お帰りー」」と二人で言って、まずはお姉ちゃんが迎えに行ってみる。

「ただいま。ああ悠里、髪切ったんだね」
 流石というかなんというか、すごくあっさりばれた玄関から会話が流れてくる。
 もう少しは分からないかと思ってたのに、と思いつつ僕も部屋の外に出る。
 目を白黒させて、お父さんが僕のこと……特に頭(カツラ?)のあたりを見ていた。

「普通の親なら、やめなさい、って言うべきなんだろうけどね……」
「わざわざそういう前置きするってことは、特にお咎めなし?」
 元の服に着替えて、リビングのソファに一家3人で腰掛ける。少しの沈黙の後、お父さんの口から出たのは少し意外な言葉だった。

「まあ、節度を持って楽しむくらいなら、男装も女装も禁止するつもりはないよ。
『良識をわきまえて』って言おうと思っても、君たちのほうが僕よりよほど良識があるのは知ってるし。それに、あんまり僕が強く言える立場でもないしね」
「……」

「──これは親が言うことじゃないかもしれないけど、人類の半分は異性で、実際の気持ちが分からない存在なんだ。
 男装や女装を推奨するわけじゃないけど、君たちには異性の立場も理解できる、相手を思いやれる大人になって欲しいな。……って、これは半分以上、僕の願望だけど」

 深く考えてなかったけど、確かに言われてみればそんな側面もあるのかもしれない。
 そこまで御大層なことを言えるほどには、昨日今日だけだと理解出来なかったけれども。

「けど、そんなに私たち見分けがつきやすかったかな?」
「僕を騙せる自信あったの? 2人とも確かに似てるけど、全然違うじゃないの」
「うーん、そっかー」
 不満そうなお姉ちゃんとは別に、僕のほうはお父さんの言葉に安堵を覚えていた。

 他人に成り切る体験は楽しいけれど、『自分』が揺らいでくるような不安感が、振り返れば、実は常に付きまとっていた。
 それでも僕を僕だと把握してくれる人がいる。僕を僕に留めてくれる人がいる。
 そのことに、内心深く感謝をしている自分がいた。


『瀬野家の人々』 俊也の場合-B1 2009年4月


「えっ?! ええ──────っ?! 理沙、本当にこの子が話してた子なの?」
 駅前の広場に、頓狂な声が響いた。
「そうよねー。ねっ、俊也クン?」
「すいません、その……聞いてる人がいない場所に移動しませんか?」

 住んでる街から電車で1時間近くかかる街。
 たぶん知り合いはいないだろうけど、女装中に通行人の行きかう前で本名を呼ばれるのはたまらない。
 近場のカラオケ屋に3人で入って一息つく。

「……今更で悪いんですが、理沙さん、でいいんですよね?」
 僕の目の前に座る、ギャル系の格好をしたやや小柄な女の人におずおずと尋ねてみる。
 前に会った時は茶髪だけど大人しい感じの人で、声は確かに一緒だけど印象が重ならない。
「そーよ? びっくり? びっくりした?」

「ええ。正直なところ、少し」
「この子はね、いつもはこんな感じなのよ。一昨日急に普通の格好で出かけて驚いたもの」
「アタシだってねー。TPOは考えるわけですよ。2、3年ぶりに会うプチ同窓会だもん。一応、猫かぶりモードで。
 ……俊也クン、こんなギャル嫌?」

「嫌、っていうほどじゃないですけど、身近にいないタイプですので」
「敬語なんてやーよ。オトトイみたいに、アタシのことはリサって呼んでっ」
「一昨日は、姉のふりをしてただけですし、そういうわけには……」

「あ、ちょっといい? そこが分からないの。
 漫画じゃあるまいし、弟が姉のふりをして見破れないとか、そんなことありうるのか、って」
「親しい人なら無理だと思いますよ。一昨日は、3年間会ってない昔の友人同士だったからなんとかなっただけで。
 ……それでも、理沙さんにはばれたわけですから」

「アタシだって、そこまで確信もってた分かったわけじゃないよ?
 だいたい姉貴。こんなちょー美少女が実は男の子って、フツーは漫画の中だけの話じゃん」
「そこも疑問。どこからどう見ても女の子なんだけど、2人で私を担いでるわけじゃなくて?」

「じゃー、自己紹介しましょっか。まずはアタシ、杉本理沙。オトトイは猫かぶってたけど、本性はこんな感じなんでヨロシクねっ
「ええと、瀬野俊也と申します。今日はこんな格好で本当に申し訳ありません」
 かぶっていた黒髪ロングのウィッグを外しながら、僕は女性2人にお辞儀する。

「ダイジョーブ、姉貴には事情は話してあるから。アタシが女装で来てってお願いしたとか」
 今日はハイウェストで長い黒のサロペットスカートに、白のトレーナーを合わせた衣装。
 女装もそろそろ慣れてきたとはいえ、身内以外に女装と知られている状態で同席するのはまた別種の恥ずかしさがある。

「普段から女の子に間違えられますけど、正真正銘、男です。胸だって真っ平でしょう」
 今日はパッドもブラジャーもつけてないので膨らみがない、下も男物の下着の状態。
 そういえば、前回僕が男物の下着で外出したのは、何日前のことだっただろう?
 胸に重みがないことに違和感を覚えていることに気づいて、複雑な気分。

「いやでも声も女の子だし、貧乳の女の子ってことも……」
「姉貴、疑いすぎ。……って、あんた本当に俊也クンだよね? 悠里が俊也クンのふりをしてるとかないよね?」
「まだ声変わりしてないからこれが地声ですし、僕は本当に俊也ですよ」

 一応スカートを穿いてるとはいえ、ウィッグも取ったし、化粧もしてない。
 これで男と信じてもらえない自分が少し情けない。
 ……本当は『情けない』以外の感情も自覚してるけど、そこからは敢えて目をそらして。

「姉貴、悠里のこと覚えてるかな? こっちに引っ越す前、小学校のころ何回かうちに呼んだことあったし。俊也クンはその弟」
「もちろん覚えてる。あの頃から可愛い子だと思ってたけど、今はこんな感じの美人に育ってるのかあ」

 初めて女装で外出した日に出会った、中里美亜紀さん。
 その後色々連絡を取ってたわけだけど、結局うちに遊びにくるということになった。
 それも、小学校時代のお姉ちゃんの友人たち数人を引き連れて。

『分かってるよね? 明日は俊也が私のフリをして相手してあげてね?』
『さすがにばれると思うけど……』
『ばれた瞬間、大笑いしてやるくらいの気分でやれば大丈夫。きっと、みんなも喜ぶわよ』
 そんな会話の結果、僕はお姉ちゃんのふりをして皆を応対して。

 割と意外なことに、その日は最後までバレずに散会までこぎつけて。
 でも見送る別れ際に、その会の参加者の一人だった理沙さんが、こそこそと寄ってきて、僕だけに聞こえるように囁いたのだ。
『あなた悠里じゃなくて、俊也クンだよね? 今度、その格好で一緒にデートしよ?』

 ……とまあ、それが一昨日の出来事。
 『デート』の機会は意外に早くめぐってきて、それから2日後の今日、彼女が今住んでるこの街まで、電車に乗って一人でやってきたのだ。事前の指定通りに女装姿で。
 今の服は可能な限り目立たないようにというチョイス。充分注目を浴びてた気もするけど。

「最後、杉本詩穂。理沙の姉です。今度大学3年だから、俊也くんからはおばさんだよね」
 理沙さんと同じく少し小柄で、切れ長な目の割と美人な女性が、自己紹介してお辞儀する。
「まー。このオバサン、ただのやじうま兼、解説役だから深く気にしなくていーよ」
「ひどいなあ。まったく、誰に似たのかな」

「さてねー? じゃあ、さっそく本日のメインイベント、始めましょー」
「……カラオケでしょうか?」
「いーや? 俊也クンの大変身たーいむ。どんどんぱふぱふー」
 ニンマリした笑顔で、口で囃し立てる音真似をしてたりする。

「なんだか嫌な予感がひしひしとするんですけど……帰ってもいいですか?」
「じゃあ、ミアとかみんなに教えてもいい? あれ俊也クンの女装だったんだよー、って」
「……それは勘弁してください」
 内心、(正直、激しくどうでもいいな)と思ってしまったのは秘密だ。

「にひひ。いーこだ、いーこだ。じゃー、まずこれに穿きかえて」
 持ってきていた大きなボストンバッグから、何か黒い物体を取り出して手渡される。
 一応、下着という分類になるんだろうけど、どちらかというと既に「ヒモ」としか言いようがない存在。

「これ、着なきゃいけないんですか?」
 作った困った表情でなく、普通にひきつったような困ったような笑顔になってしまう。
「100均で買った新品だから気にしなくていーよ? それとも俊也クン、アタシの脱ぎたてが穿きたい?」

 100円均一、恐るべし。こんなものまで売っているのか。
 しぶしぶ従う様子を装いながら、スカート姿のまま男物の下着からその物体に穿き替える。
 幸い前のほうは三角の布があって、なんとかすっぽり収まった。勃起したら即はみ出しそうだけど。

「どう? 俊也少年。女の子のショーツの穿き心地は。……でね、次はこれ!」
 次に手渡されたのは、デニムの超ミニスカート。
 後ろを向いて、今着ているサロペットスカートを脱いでそれに穿き替える。
「うわっ! 脚長っ! ほそっ! すごいスベスベじゃない。脛毛剃ってるの?!」

 妹の言動に呆れていたのか今まで無言で見守っていた詩穂さんが、突然大きな声をあげた。
「脛毛とかは、まだ生えてきてないだけですよ。手入れとかしてないです」
「声変わりもまだって言ってたし、そっかー。中学二年ってそういうもんなんだ」
「僕は遅いほうです。体育の時とか、時々クラスメイトからからかわれますねえ」

 覚悟(期待?)していたよりは、幾らか長めのスカートだった。股下で言うと5cmくらい。
 股下スレスレ、屈んだら即下着が見えるシロモノもありうるかと予想していただけに、少し拍子抜けしてみる。
 ただウェストのボタンをはめると、居心地が悪い感じがするのは否めなかった。

「ん? どったの?」
「いえ……そのままずり落ちそうで不安に……」
「それ、腰で穿くタイプだから、そんな感じでおっけーだよ?」
「男と女で骨盤の形が違うから……それに、お尻が貧相だから、みっともなくないですか?」

「いや全然。モデルさんみたいな引き締まった綺麗なお尻だなあ、って羨ましく見てたのに」
 少し不安になってくる。僕はこの人に男扱いされてるんだろうか?
 確かに藍色の厚地のスカート越しだと前の膨らみも判然としないし、第一こんなミニスカートを穿いた男は普通いないと思うけれども。

 続いてブラジャーを取り出してきたので、トレーナーとTシャツを一気に脱いでみる。
「うわっ! 本当に男の子だったんだ。今まで信じてなくてごめんなさい」
 むき出しになった胸をまじまじと見つめつつ、驚いた顔で詩穂さんが言う。

「まあ、女に間違われるのは慣れてますから。今日はずっと女装してましたし」
 言ってて自分でも少し悲しくなってくる台詞。100%事実なのがなんともまた。
 ……問題はむしろ、女と思われることへの抵抗感が薄れていってることかもしれないけど。

「いやでも本当に身体細いのねえ。肌も綺麗だし、女風呂で一緒になっても『貧乳だけど素敵な女の子だなあ』って絶対思うな。
 ……どう? これから私たちと一緒にスパに行かない?」
「犯罪に巻き込むのは勘弁してくださいってば」

「そこなミニスカート姿の女装少年。ブラジャーの付け方分かるかい?」
「これ、理沙さんが無理やり着せたんじゃないですか……良くわからないです」
 女性2人の前で『正しいブラジャーのつけ方』を実演するのはどうかと思い少しとぼける。
 黒いブラジャーを付けてもらい、お腹丸出しの短い黒いキャミソールをかぶる。

 でも『私は悠里、女の子』と自分に言い聞かせて、女に成り切ったつもりでいるときより、『あんまり女装慣れしていない少年』としてこの2人の前にいるときのほうが、ずっと羞恥感が上なのはなぜなのだろう。
 もう慣れていたはずの、むき出しの太腿すら気恥ずかしくなってくる。

「で、ラストはこれ!」
「あっ、それ私のじゃない。理沙、人のタンス勝手に漁って持ち出さないでってば」
 目の前にぶらりと吊るされた、豹柄のトップス。
 大人しそうな詩穂さんが着ていたとは思えず、思わずびっくりした目で見つめてしまう。

「でも大丈夫? 俊也くん、私より背随分高いし、男の子だし入らないんじゃないの?」
「……まあ、とりあえず着てみます」
 大人しく袖を通してみる。オフショルダーなデザインで、ほっておくと際限なくずり落ちそうな気がして、右肩にひっかける形で調整。

 左肩と背中側が大きく開いて、ブラジャーとキャミソールの紐が丸見え状態。
 一応丈はスカートにかかる程度で、腕を高く上げない限りお腹が見えることはなさそう。
 袖は肘上くらいの長さ。
「うわあ。ちょっとショックかも。普通に入って似合ってる。……きついとかない?」

 実は少しぶかぶかな感じがするけど、これを言ったらショック与えそう。
「一応、大丈夫かと。生地が伸びたらごめんなさい。新品を買ってお返ししますね」
「いや、どうせもう着るつもりなかったから大丈夫。プレゼントしてもいいわよ」

「姉貴、『どうしよう、入らなくなっちゃったー』とか言ってたもんねえ。着たくても着れもんからねえ」
 そう言ってケタケタ笑う理沙さん。あまり突っ込まないほうが良い話っぽい。

「それにしても……この時点でもう、完璧女の子だよね。肌綺麗だし、頭小さいし、首細くて長いし、肩幅狭いし、それに顔もアイドル顔負けな超美少女だし。
 いーなー。私もこんな美人に生まれたかったなあ」

 『うわっ、手も凄い綺麗。手タレ出来るよ』
 『足ちっちゃーい。可愛くていいなあ』
 とか微妙に羞恥プレイめいた賞賛を受けつつ、マニキュアとペディキュアを塗ってもらう。
 こんな風に褒められるのは珍しくないけど、指先が真珠色に光る様子はなんとも新鮮だ。

 そのまま理沙さんの手によって化粧一式も受けさせられて、茶髪というより金髪に近い、ウェーブのかったウィッグを被らされる。

「うっ……わぁ…………」
「わお。やっぱり美人はどんなにやってもサマになるんだ。カクサ社会だなあ」
 化粧は、魔法だ。
 差し出された鏡の中の、いわゆる『ギャル系メイク』を施された自分を見て、改めて思う。

 少女漫画でよくある、顔の半分以上を占める大きな目。
 長い付け睫毛で縁どられた黒目がちな目は、それがリアルに存在するかのような印象だ。
 ラメ入りのシャドウとチークを使用したのだろう。瞼の上と頬が微かに輝き、抑えめな色合いの口紅を施された唇が、謎めいた笑みを漂わせている。

 男心を挑発するようで、でもどこか羞恥心を漂わせていて、自らの美を勝ち誇るようで、でもどこか危うさを放っていて。
 もしお姉ちゃんがこんな格好で僕に迫ってきたら、僕はどんな反応を示すのだろう?
 ドキドキが止まらない。スカートの下、股間が熱く、堅くなるのを感じる。

「理沙、あんな風に背筋を伸ばして姿勢よくしなさいよ。くねくねしてみっともない」
「うわ、とばっちりきた。説教くせー。どーでもいーじゃん」
「でもこれ……途中から完璧に意識から抜けてたけど、あなたって本当は男の子なんだよね」
「……ええ、そうです」

「プロの女性モデルさんって言われたら納得しちゃうなあ。どっからどう見ても男っぽいとこなんてないもの。すっごい自然で。
 ……もしかして女装慣れてたりするの?」
「俊也クンって、小学校入るまで、ずっと女の子として生活してたんだっけ?」
「へーっ。そんなこと本当にあるんだ」

「そーだよ。昔、悠里によく俊也クンのアルバム見せてもらってたもん」
 お姉ちゃん、そんなことしてたのか。
「ちっちゃいころの俊也クン、全部女の子の格好してたっけ。七五三とか可愛かったなあ」
「昔の話で記憶には残ってないんですが、よく姉のお下がりを着せられていたそうです」

「ああ、そういう話か。なるほど。でもそれならこの馴染みようも納得?」
「小学以降は女装してなかったんですが、先週、突然姉に『服入れ替えて遊びに行こう』って無理やり女装で外出させられて。
 で、その時偶然美亜紀さんに会って、僕が姉の振りをして応対して……で、一昨日も姉の身代わりをさせられた、って流れです」

「じゃあ、別に趣味で女装してるわけじゃないんだ?」
「絶対に趣味じゃないです。好きでこんな格好はしません」

 今のところは、まだ。
 たぶん。きっと。
 そうであって欲しいと切に願う。

「どーかなー? マンザラでもない、って顔しまくりだったじゃん」
「別にいいんじゃないかな。ほら、最近男の娘とか流行ってるみたいだし。
 いっそ本当の女の子になっちゃったほうがいいんじゃないの?」
「やめてください。ただでさえ、男から告白されて嫌な思いしてるんですから」
「ええと、それはごめんなさい。でもこれだけ美少年なんだから、女の子にももてるんじゃ?」

 着替えに化粧で、予想外に時間が経っていたらしい。
 その質問に答えようとしたときにフロントから終了前の電話がかかってきて、そのまま外に出ることにする。



「フロントの男の子、すごいびっくりしてたね」
「入るとき、あいつ俊也クンに気のある素振りしてたもんね」
「清楚で大人しそうな美少女が、ギャルに化けて出てきたらそりゃ驚くか」
「……あの、それなんですが、出来れば『俊也』って呼ぶの止めていただけませんか?」

「うーん。そーだねー。
 ……じゃあ、こーしよ? 俊也クン、これから敬語禁止。1回破ったら、1回『俊也』って呼んであげるから。どう?」
「……ええ、わかりま──うん、わかった」
「もっと砕けた調子でいーよ。ねっ、『トシコ』ちゃん!」

 なるほど今日の僕は、『トシコ』ってギャル系の女の子なのか。
 どこまで出来るか、不安と同時にワクワク感を覚えている自分がいた。

「とりま、サンダル買いにいかねばだ」
「これじゃダメ?」
「そのコーデで、スニーカーはダメっしょ! 論外」

 下着に衣類、化粧に香水、アンクレットまで含めたアクセサリ類一式。
 理沙さんが持ってきた女のもののアイテムで身を包んだ僕だけど、唯一靴だけが履いてきた男物のスニーカーのままだ。
 近場の店に入って、適当に安物で女性用のサンダルを購入してみる。

「それじゃ、私はここまでかな。また夕方に荷物持ってくるから、その時また会いましょう」
 店を出たところで、履き替えたスニーカーをビニールに包んで、ほかの荷物も入れたカバンに突っ込んだあと、詩穂さんがそんなことを言った。
「ほいじゃーねー。あーとん」

「……そういう予定だったんだ?」
「てか元々来ないハズだったんだけどね。どうせなら、ってことで荷物持ち頼んだだけだし」
 『やじうま兼、解説役』って、本当なのか。去っていく詩穂さんを手を振って見送る。

「ま、あのオバサンのことは忘れて、れっつごー」
 理沙さん──リサに手を引かれて、街を歩き出す。
 いつも見慣れた街並みとは違う、それでも十分に大きな街並み。行きかう人も当然多い。
 男でいるとは当然違う、『瀬野悠里』でいるときとも大きく違う視線に少し戸惑う。

 いや、一番違うのは『視線』じゃなくて『視線の不在』か。
 “ギャル系の外見をしている”、というだけで、目を合わせないよう、目を向けないよう、不自然な方向を見てる人の多いこと。

 そして同時に、逆にガン見してくる人も多い。しかめ面でみてる中高年女性とか、エロそうな目で見る中高年の男性とか。
 付け根近くまでほぼ丸見えになった太腿から、ふくらはぎ、足首からつま先まで、今までになく視線が粘りつくのを感じる。
 男が男の脚を見て、何が嬉しいのかと思うけど。

 こうもジロジロ見られると、脚の付け根にある、短すぎるスカートと小さな布に隠された『あるはずのない物』の存在に気付かれそうで、どうにも落ち着かない気分になってしまう。

「アタシらそんなことやんねーの、しっしっ」
「あんがとー。リサ、何度も何度も、もーもうしわけ」
「まったくしつこいよなあ。ヤになっちゃう。もー、エロオヤジ全部滅んじまえてーの」

 これで何人目だろう。
 援助交際目的で声をかけて来る男性の数が、段違いなのだった。
 そのたびにリサ(正直、この呼び方はまだ慣れない)が追い払ってくれたけど、自分一人だったらどうなってたことやら。

「いつもこんな感じなの?」
「まっさかー。今日はトシコがいるから特別だね。トシコこそ、いっつもこんなん?」
「そーんなことないよぉ。無いこと無いけど、こんなにはナイ」
「そっかー。でもあるにはあるんだ」

「まーねー。……制服着てるときとか多いかな」
「あの制服かあ。あれ有名だし目立つもんねえ。めんこいし」
「……? んー。何か勘違いしてる?」
「え? ……ああっ。メンゴメンゴ。ナチュラルに間違えた。でも制服ってそれじゃ……」

 一昨日理沙さんが僕たちの家に遊びに来たとき、部屋の中に飾っておいたお姉ちゃんの学校の、高等部の制服。その日、その場で着替えさせられたりもした。
 『制服』と聞いて理沙さんの頭に浮かんだのはその服みたいだけど、それはお姉ちゃんの制服であって、僕の制服じゃない。
 僕の制服というと、詰襟のことだ。

「うん。そーゆーこと。珍しくもないよ?」
「むむー。まーいっか。プリクラ撮ろ、プリクラ」
 この手のお話はお気に召さなかったのか、あるいは僕の顔色を読んだのか。
 話題を途中で打ち切って僕の手を掴んで、半ば強引にプリクラコーナーに引っ張り込んでいく。

「大丈夫? ここ女性専用ってあるけど」
「何か問題でも? トシコちゃん、女の子だよね?」
 はい、そうでした。
 少し意識から外れてたけど、今の僕──じゃない、『アタシ』は女の子なのだった。

 備え付けの鏡を覗き込む。
 派手な豹柄のトップス。大きく開いた左肩の上で、強いウェーブのかかった金髪が躍る。
 この鏡じゃ見えないけど、デニム地のウルトラミニから生脚が伸びている。
 下着だって上下ともに女物で、胸はないけどブラジャーもしている。

 瞬きするたび風が起きそうな付け睫毛に縁どられた、大きな目。
 カラコンを使うのは初めてだけど、思った以上に印象が変わるものだと感心してしまう。

 いつも使ってる化粧品が、『無香料』の割には匂うので気になっていた。
 でも今の化粧に比べれば確かに匂い抑えめだと納得してしまう。
 そんな女らしい匂いが周囲に漂う。

 『ギャル』と呼ぶには微妙に違和感はあるけれど、『女の子』──それも『飛び切り可愛い女の子』としては違和感の欠片もない。
 そんな美少女が、どこか面白がるような表情で見つめ返していた。



「目でけー。エイリアンみてー」
「リサ、ひっどー」
 大笑いしつつ往来を歩く。
 『デカ目機能』か何かそんな機能を使って映った写真は、ほとんど人のレベルを飛び越えて異常に目が大きくて、見てると自分でも笑いがこみあげてくる。

 プリクラ自体がほとんど初体験なのに、それも『女性専用』のところに入って色々撮って。
 春先なのに、買ったアイスを舐めながら往来を歩く。
 “瀬野俊也”には出来ない、やらない行動も、『トシコ』ならやすやすとやってのけてしまう。
 そのことに内心嫉妬している自分を見つけて、戸惑ってしまうけれど。

「おー。リサめっけー。やっほー。その子が今話題のトシコちゃん?」
「やほー。サーシャ。うん、この子がトシコ」
「どもーっす。トシコっす。……って、アタシ話題になってるんだ?」
「うん、リサっちがお姫サマ連れまわしてるって。ういういしくていーねー」

 『体が細い』とよく言われる僕たち姉弟。それよりも更に痩せていて、見ていて少し不安になるくらいの体型の、ギャル系の女の子が陽気に声をかけてきた。
 その“サーシャさん”に引き連れられて、少しだけ歩いて3人でファミレスに。

 カラオケでいたのは、既に男だと知られていた相手。でも今は、男とばれたらまずい相手。
 この短さのスカートで座ったら、正面から見れば膨らみが分かりそう。不透明な机の存在に感謝するしかない。
 募る不安を無理やり押し隠して、スカートを押さえながら女らしく椅子に腰かける。

 もうほとんど何も考えなくても出来るようになった動作だけど、男には女にないものがついてるし、骨盤の形も違うのだ。
 膝を揃えて綺麗に座れていることを、少し意識して確認。
 『女の子らしく』ということでパフェを注文してみたりしたあと、改めて自己紹介。

「ウチは、藤村サーシャ。まー、いわゆるDQNネームってやつ? トシコちゃんの周りにはこーゆーのって、あんまりいないかにゃぁ?」
「んー、……そーでもないかも? クラスにもいるし。あと、サーラって親戚もいたかな」
「へー、そうなんだ。お嬢様学校って、そーいうのあんまいないと思ってたけどなぁ」

「お嬢様……、ってそんなんじゃないっすよ。別にフツーの学校っす」
 その言葉を口にしたあとで、カマをかけられていた事に気づく。
 正直、外見に引きずられて判断していたみたい。
 これは、気を抜くと凄い勢いで個人情報がばれてしまいそうだ。

「あ、そーなんだ。メンゴメンゴ。
 ときにその『親戚のサーラさん』ってDQNネームじゃなくて、マジモンの外国人?」
 いつもなら別にどうでもいいけど、女装中に身元バレはやばい。
 できれば女装なこと自体、ばれないようにしたい。
 かなり口が滑ったと、今更ながら後悔してみる。

「あー。アタシね、今日ここに来たことがバレちゃうと、もう二度とこっち来れなくなっちゃうんだ。だからゴメン、そーゆー詮索はナシにしてくれないかな」
「うっはー。そんなセカイのお方ですか。じゃー、当たり障りのない質問にしなきゃだね。
 ……そだね、ならまず第一問。トシコさんは処女ですか?」

「ケホっ、ケホっ」
 『当たり障りのない』質問の最初ががそれかと、少しむせてしまう。
「ほほう♪ その反応、処女ですなぁ」
「……残念ながら、処女じゃないっす」

 自分は童貞であって、処女ではないんです。
 リサも店内に鳴り響く声でケラケラと大笑いして、「そーよねぇ。トシコは処女じゃないよねえ」とか言ってたりするし。
 その言葉だけで分かってしまいそうで、冷やりとしてみる。

「ほうほう。じゃあさ、初体験はいつかな?」
「そこらへんはノーコメントで。つか、そもそも何でアタシの質問タイムになってるのカナ?」
「いやいやいやいや。こっちのみんなさぁ、トシコちゃんに興味津々なワケよ。ひょっとして実は某有名アイドルじゃないかとか、そこら辺まで含めてさ」

「うふふ。そこ、重点的にノーコメントで」
「むー。こりはなかなか。じゃあ、この質問はアリかな? トシコちゃん何の目的で来たの?」
「目的、かぁ……」

 今日は理沙さんに無理やり連れまわされてるだけで、最初から目的なんかない。
 何事もなく解放されるのが目的と言えば目的だった。
 ──でも、『やりたい』ことならある。

「サーシャとリサの『フツー』が見たいかなぁ。
 いつもどんな風に遊んでるのか、いつもどんなことを話してるのか、どんな風に物事を見てるのか、とか」

「なるほどー。それさ、ひょっとして、ドラマの役作りのためとか?」
「うふふ。ご想像にお任せ。初対面の子に処女かどうか聞いたらギャルっぽくなるのかな?」
「んなわけねー……って、実はあるんか?」
「まぁ、それでギャルっぽくなるんかと言えばノーだけど、割と普通の話題ではあるのかな」

 「まぁ、トシコちゃんのせっかくのリクエストだし」と、サーシャさんとリサさんの間で『普通の会話』を繰り広げてくれる。
 今までセーブしていてくれたのだろう。意味不明な単語だらけで幾つかの話題が同時展開して、あちこちに話が飛びまくって、相槌を打つのもやっとなくらい。

 知人の話
 ファッションの話
 最近見たTVの話
 落ち目の芸人の話
 生理の話
 モデルの話
 化粧の話
 おっさんの話
 イケメンの話
 恋愛の話……

 普段の中学の友人に比べると、やっぱりいろんな意味で『大人』な話題が多い。
 中学生と高校以上の違いもあるだろうし、同学年でも男と女だと女性のほうが大人びてる気がする。

 一昨日の、『普通の女子高生』同士の会話も思い起こしてみる。
 違う面も多い。人生経験の種類も違う。
 でも──それでもやっぱり、ギャルも『普通の女の子』の一員だし、『普通の人』の一員なことが、段々と腑に落ちてくる。
 平凡な事実が嬉しく思えて、茶々を入れつつ唇に笑みが浮かぶのを止められない。

「あれ、女装男かよ。まったく勘違いしてキモイったらありゃしない」
「うげぇ。ひょっとして、ばれてないと思ってるのかねえ。あーヤダヤダ」
 そんな会話を楽しんでいたのに、唐突に大声が店内に響いてきた。

『瀬野家の人々』 俊也の場合-B2 2009年4月


 一瞬ギクリと反応しそうになるのを、なんとか押しとどめる。
 それでも、表情や顔色に出なかったかどうかは自信がない。

「男のくせして、あんな女の格好して恥ずかしくないのかね?」
「少しでも羞恥心があれば、あんな短いスカート穿けるわけないよね。頭おかしいよ」
「ホモなのなかな? ああやって男漁ってるんだろうな。ああ、キモキモ」
 傍若無人な会話が続く。

 リサはぐりっと頭を回して声の主を確認したあと、「にひひ」と笑って、横に座るアタシの顔をじっと観察してる。視線がイタイ。
 アタシも体をひねり、大騒ぎしている連中を眺める。
 部活の帰りだろうか。地味目のブレザーの制服をたぶん校則通りに着た女子3人組。

 髪も黒くて短く、化粧もしてない……ってそれが『普通』なんだけど。
 そんな彼女たちの視線の先にいるのは、ありがたい? ことに“僕”ではなかった。
 更に身体をひねってみる。一瞬しか見なかったけど、それでも充分『女装させられた少年』
と分かる存在が、一人ぽつねんと席に座っていた。

「女装男って、存在自体が犯罪だよねー」
「ほんと、他の客に迷惑だと思わないのかね」
 続く嘲弄の言葉たち。

 同じく『女装男』である自分としては、居心地が悪いの否めない。
「なんのつもりか知らねーけど、てめーらのほうがよっぽど他の客に迷惑だっつーの」
 サーシャの苦い顔での言葉に、(少し意味はズレるけど)思いっきり同意だ。

 ……と、何やら考えていたリサが、指をパチンと鳴らして立ち上がった。
 直接文句でも言いに行ったのか? と一瞬思ったけど違ったようだ。
 少しの間のあと彼女が連れてきたのは、女装させられていた少年のほうだった。

 女子連とは違う紺色で地味なセーラー服を着て、ビクビクと怯えながら立っている。
 男としては小柄で細身だけど肩幅はそれなりにあり、脚はすね毛が生えていてがに股だ。
 つるんとした男臭くない顔で、『こういう女子いるよね?』と言われれば、いなくはない気がする。
 それでもさっき見た一瞬でわかった通りの、『普通に女装した少年』そのものだった。

「サーシャ、ちょい奥につめて。アンタもさっさと座って」
 そう言ってリサはサーシャの隣、アタシの対面に腰掛ける。なるほどこの配置なら、リサが女子連に睨みを利かせられるし、彼を視線から庇うことになる。
 展開に戸惑っているのか、女子連も流石に小声で囁くことしか出来てない。

「いや、いつまでもボサっと突っ立ってないでさ」
 セーラー服の少年に、重ねて着席を促すリサ。自分も「どうぞ。座って」と手で席を示す。
 彼はアタシの顔をじっとと見つめたあと、急に俯いて「すいません」と呟いて席に座る。
 顔に似合って、『低めの女子の声』と思えなくもない、微妙な音程の声だった。

 お尻に手をあてもしない、男丸出しの仕草で腰掛ける彼。
 案の定、スカートがひどい状態になっている。
 股も普通に開いていて、きちんと膝を並べている自分とは大違いだ。
 『普通の女装した少年』ってこんな具合なのかと思ってみたりもする。

 あっち行ったりこっち行ったりで、なかなか真っ直ぐに進まない会話。
 その中で聞き出したところによると、今度高校3年になる彼=西原雄一郎は普段からイジメにあっていて、今の女装もイジメの一環だという。
 向こうにいる斉藤とかいう女子連に呼び出され、彼女らの中学制服を無理やり着せられて。

「じゃさ、そのセーラー服は趣味で着てるんじゃないんだ?」
「絶対に違いますよ! なんで男なのに好きで女の格好するんですか。
 ボクは変態じゃないんです。斉藤さんたち、さっきまで『女装はキモイ』だのなんだの騒いでボクを晒しものにしてましたけど、正直あれ言ってる内容自体は同感なんですから」

「まあねぇ。確かにそーゆー似合ってない女装は、アタシもハズいと思うわ」
「ふむ。その言い方だとトシコちゃん、『似合ってる女装ならOK』ってタイプ?」
「うん、そだね。ま、大体そんな感じ」
 返事しつつ、自分の言葉に内心『ああ、なるほど』と納得する。

 さっきから──いや、カラオケにいた時から覚えていた違和感の核はそれなのか。
 “僕”は、『女の格好をすること』自体を恥ずかしいと思ったことがないんだ。
 『女に成り切れてない、中途半端な女装』なら恥ずかしいけど、そうじゃなくて皆に女性と認識されてる状態なら、恥ずかしいと思う要素のほうが思いつけない。

「ふむー。じゃ、リサとはちょうど逆なんかね?」
「女装で恥ずがってるからいーんじゃん。羞恥心ゼロの女装なんて、価値ゼロじゃん」
 少しぶーたれた感じで、リサがコメント。
 なるほど。『アタシ』の扱いが徐々にぞんざいになって行ってるのはそれが理由か。

「どっちも変ですよ。女装なんて似合ってても似合ってなくてもキモイだけじゃないですか」
 そう思ってるなら、チラチラとアタシの太腿を覗き見るのは勘弁してほしいかも。
 短すぎるスカートの奥、女物の下着に包まれたモノがばれそうで少し冷や冷やしてるのだ。

「じゃ、仮にさ。トシコちゃんみたいな感じの女装男がいたとして、あの斉藤みたいな女とだったら、付き合うならどっちがいい?」
 相変わらず『アタシ』が男だと見抜いてからかってるのか、判断に苦しむサーシャの台詞。
「馬鹿馬鹿しい。こんなきれいな男の人が居るわけないじゃないですか」

「そーかね?」
 とリサ。ニヤニヤ笑いが酷いことになってる。
「そりゃそうでしょう。昔からボク、『女みたいだ』と虐められたり、女に間違えられたりして嫌な思いしてきたのに、それでもいざ女装したらこんな感じですよ?」

「アタシは、じゅーぶんカワイイと思うけどな」
「小さい頃から『可愛い』って馬鹿にされ続けてきたんで、勘弁して欲しいんですが」
「バカにしてないよぉ? 第一『カワイイ』は褒め言葉じゃん」
「だから、その言葉自体が大嫌いなんですってば」

 と、サーシャが目をキラリと輝かせ、身を乗り出してやり取りに割り込んできた。
「……そうだ。雄一郎クン。キミさ、いじめられっぱなしでいいの?
 見返してやりたいとか考えたことない?」



「……やっぱりやめません?」
「なんだよ女々しいなあ。男なら一度言ったことは貫かないと」
 ここはリサのダチ(やっぱりギャル系)が店員をしているコスメショップ。
 軽く紹介を済ませたあと、雄一郎を店の椅子に座らせる。

 スカート丈のやたらに短いセーラー服を着て、ギャル系の女性4人(?)に囲まれて化粧品店にいるというシチュエーション。
「うーんこのピチピチ肌いいねえ。化粧映えしそうだしカワイイし。
 うん、お姉さんにまーかせて。君を世界一の美少女にしたげるよ」

 戸惑い、ビクビクしている彼に、店員さんが自信満々で言い放つ。
「あ、『カワイイ』感じじゃなくて、『カッコいい』感じにメイクできない?」
「サーシャはそういうのが好み? もちろん出来るよぉ。じゃ、世界一の美女コースで」
 本人の意思を確認することなく、一人のやや女顔だけど普通の少年を題材にして、この世に新しく美しい女性を生み出す作業が始まる。

 自分がメイクしてもらった時とは、大きな流れは一緒でも段階ごとでは違う化粧の手順。
 BBクリームで剃り跡を隠し、ファンデを重ねて艶やかな肌を作り出す。
 吹き出物もあるくすんだ男の肌が、瑞々しく血色良い若い女性の肌に変えられていく。
 蛹の中にいた蝶が、外の世界に触れ煌びやかな翅を広げるのにも似た光景に見惚れる。

 化粧の匂いが、己を柔らかく包み込んで染め上げていく感覚。
 細い女性の指先や刷毛の穂先やパフが、幾度も優しく丹念に自分の顔を撫でていく感触。
 そしてその度に自分のすべてが、つややかに、あでやかに、色づいていく様子。
 あれが自分だったら──そんな羨望が、かすかに心の中で渦巻くけれど。

 アイメイクは普通よりは派手目に、でもアタシらよりは少し抑えめで。
 グロス艶めく真紅の唇も色っぽい、『格好いい大人の女性』の顔ができあがる。
 ウェーブのかかったハニーブラウンでセミロングのウィッグを被せ、右目を少し隠すような感じに流して整える。

「ここまでの美女になるとは思わなかったなあ。素材良すぎ。店に写真飾ってもいい?」
「ウチの言った通りっしょ?
 キミは斉藤たちよりも──いやあんな奴らとは比較にならないくらい美人になれるって」
「雄一郎……いや、『ユウコ』って呼ぼうか。凄い綺麗。嫉妬しちゃう」

 皆の賞賛の中、どこまで演技か分からないむっつりした表情で座ってる『ユウコ』。
 確かによく見れば、鼻の形や輪郭あたりは男のパーツだ。
 それでも化粧前とは違って、“一目で男と分かる”ことはなくなっている。
 むしろかなりの美人と言っていい。

 『化粧は、魔法だ』
 この春休み、何度も思い浮かべた言葉を改めて痛感する。

「ああっ、唇舐めちゃダメ」
「だってなんかヌメヌメして気持ち悪いですよ。変な味もする」
「それくらい我慢しなよ。あーあ。見事にはげちゃって。……ごめ、塗り直しお願い」
 彼がその『魔法』に慣れるのは、大変そうな気がするけれども。


「いや、こんなとこ入れないですってば」
「男なんだから、ウジウジ言わない」
「男だから嫌なんじゃないですか」

「おっすミユ。一番でかいカップのブラってどれ?」
「あらリサ、お久しぶり。それにサーシャ……って、あんたら知り合いだったの?」
 サーシャと言い合うユウコを尻目に、次に移動した下着店にずかずか入っていくリサ。

 今度もまた店員さん(こちらは非ギャル系)とは顔見知りらしい。
 無理やり試着室に押し込まれ、セーラー服を脱がされてトランクス姿にされて黒いブラジャーを付けさせられて、その中にパッドを山盛り突っ込まれて。
 ……なんだか結局、彼をイジメる人間が増えただけのような気もしなくもない。

「……これ、穿かないと駄目なんですか? そもそも入らなそう」
「ダイジョーブ、ちゃんと伸びるから。あと、こっちのキャミもね。着終わったら呼んで」

「これ、どっちが前なんですか?」
「小さなリボンがあるほう」
 とかのやり取りを挟みつつ、カーテンが開く。

 ブラジャーの二つの膨らみが、黒いインナーキャミソールの胸の部分を大きく盛り上げる。
 メイクも衣装も扇情的なそんな外見なのに、仏頂面のまま羞恥に顔を赤くしてるユウコ。
「いいねえ。いいよ。これだよ我輩が求めていたのは」
 リサは喜びのあまり、ヨダレを垂らさんばかりの勢いだ。

 ただ格好がより女性的になったせいで、逆に男らしさが強調されてる気もしなくもない。
 むき出しになった肩も腕も首もやっぱり男性のもので、何より今一番目立つのが。
「……スネ毛はどうにかできないのかなぁ」

「剃れっていうんですか? それは流石に勘弁してくださいよ」
「あ、そこまでは言わない。剃れる場所なさそうだし」
 慌てて手を振るアタシ。
 少し皆で考えたあと、ストッキングを2枚重ねて穿いて、これでこの店での完成形。

 ブラが体を包む感覚。
 ブラの紐が伝える重み。
 揺れる胸。
 キャミソールの薄くて柔らかい布地が肌を撫でる感覚。
 一見頼りなさそうなストッキングが、優しく締め付ける感覚。
 男物の下着にはありえない、肌触りの良さ。

 全身女物下着の彼を見て、自分が最初に『女の世界』を纏った時の感覚を思い出す。

「ユウコちゃん、どんな感じ? 下着まで完璧に女の子になった気分は」
「最低、ですね。恥ずかしくて死にそうです。……で、さっきの『賭け』はどうします?」
「ウチとしては化粧の時点で、もう勝ったつもりだったんだけどなあ。
 まだ勝敗がついてないつもり? じゃーいいや。次の店まで持ち越しで」

 『雄一郎が他人が見ても男とバレないくらいの美人になれるか』というのが、ファミレスでした『賭け』の内容。
 美人になれたら、彼はサーシャの言うことに1つ従う。
 美人になれなかったら、アタシらのうち指名した一人を恋人に出来るというもの。


 ケバめの化粧に髪型、巨乳で持ち上げられお腹が出そうなセーラー服。
 コスプレものAV(見たことないけど)みたいな状態の元・雄一郎少年。
 サーシャの案内で『彼女』を引き連れ、今度は古着屋に移動する。

「相談なんだけど、服を1日だけレンタルって出来ないかな?」
「んー。フツーはダメだけど、サーシャの頼みだからなあ。クリーニング代だけもらえればいいや。何かあったの?」
 事情を簡単に説明して、皆でユウコの服を物色する。

「リズリサがあるとは思わなかったな」
「嫌ですよこんな服」
「つべこべ言わずに着て」
 とかの会話のしばらくあと、試着室から変な生き物が出てくる。

 レース飾りのついた少女趣味な花柄ワンピース。
 衣装は可愛いと思うけど、でも今の派手な化粧となんともチグハグだ。
 胸が全然入りきれてないし。

「リサ、実はわざとやってない?」
「にひひ。テラカワユス」
「まいっか。次はこれでよろ」

 次に着替えて出てきたのは、ピンクのキャミソールドレス姿のユウコ。
 確かに顔とは合ってるけど、これで外を歩いたらまるっきりキャバ嬢だ。
 あと肩がごついのが分かりすぎ。

「あちゃー。メンゴ。いけると思ったんだけどなあ」
「もう分かったでしょう。どんな服だろうが似合うワケないんです。もう終わりにしません?」
「んー。分ぁった。トシコちゃんのチョイスでラスってことで」

 つまりこれで美人にできなかったら賭けに負けなのか。
 なんか無駄な責任が出てしまった。

「……ほほぅ。こりゃいーね」
 服を渡して暫くして、黒豹の柄の長袖のトップスに、黒いフェイクレザーのタイトスカートを合わせた衣装のユウコが出てくる。
 正直、想像していたよりもずっとハマっていた。

 ただそうなると、端々に覗いている男らしさが気になってくる。

 赤いスカーフで喉仏と太い首筋を、黒いレザーのジャンバーで肩幅とお尻のラインを、手袋で指先を、幅広のベルトでウェスト周りを、膝下のブーツで脚の筋肉を誤魔化す。
 ついでに耳には大きめのイヤリングをつけて、ウェストに金色の鎖を巻き付ける。
 色々置いてある古着屋だなと内心感心しながら。

「背筋はしゃんと伸ばしてね。
 頭の上から糸で吊られるイメージで、両方の肩甲骨を真ん中にぎゅっと寄せて。
 ……うん、いけてるいけてる」
「おおぉー。本当にモデルに見える」
「もうチョイ男っぽさ残してくんないかなぁ。これじゃアタシの楽しみ半減じゃん」

 確かによく観察すれば、男と分かる要素はまだそれなりにある。
 でも多分それは前提知識があるからで、街で会ってもまず『ケバいけど美人な女性』としか認識できないと思う。

「この子本当に男の子なんだ? どっからどう見ても女だよね。それも普通に美人じゃん」
 今まで他の客の対応していた店員さんも参入してくる。
「どう? ユウコちゃん。賭けの負けを認める?」
 鏡に映る黒ずくめの色っぽい(偽)巨乳美女の姿を、改めて観察する西原雄一郎少年。

「駄目ですよ。今ボクが女に見えるって言ってる人、皆サーシャさんの身内じゃないですか」
「ほうほう。じゃあ、他人の証言が必要ってことだね。良く言った」
 ぐずる彼に、サーシャはなぜかニンマリと喜んだ。


「ちょっと、どこ行くんですか?」
「うん、そこまで」
 『この格好で外を歩きたくない』と文句を言うユウコを引き連れて街中を歩く。

「ほら、やっぱり。(コソコソ)だって思いっきりバレてるじゃないですか」
「そんなことないと思うけど、なんで?」
「だってほら、すれ違う人がみんなボクのほう見てますよ。
 変なキモイ(コソコソ)が歩いてるって、思いっきり注目されまくりで」

「キミねえ。胸のおっきなすげー美人が道を歩いてたら注目浴びて当然だって」
「不審な目線と、みとれる目線の区別つかない? 皆セクスィーぶりにメロメロじゃん」
「ホントホント。ユウコは美人。自信持って、胸を張って、まっすぐ前を向いて歩いて」
 不承不承、といった感じで、でもアタシのアドバイスを意識しながら歩き始めるユウコ。

 ヒールのあるブーツを履いたから、今までメンバー中一番背が高かったサーシャと大体同じ背丈になってる。
 慣れないヒールで流石に歩きにくそうだ。
 アタシが今163cmで、素のユウコがそれよりちょい低いくらい。
 ちなみにリサが150cm少し、サーシャが160代後半くらいだろうか。

 と、見覚えのある制服が前から歩いてくるのに気付く。
「げっ、斉藤? 逃げようよ」
「大丈夫。おどおどしなきゃバレないから」
 小声の会話で思い出す。ファミレスで騒いていた斉藤とかの女子3人組なのか。

 なんと奇遇な……と思いかけたけどそうでもない。
 アタシら、最初のファミレスのあたりをうろちょろしてただけだから、今まで会ってないのが不思議なくらいだ。

「チビ連れてったのあいつらだよね?」
「聞いてみる?」
「やだよ。馬鹿が感染る」
 そんなことを姦しく話しながら、すれ違っていく彼女たち。

「ひょっとして、あの真っ黒いのがチビとか?」
「ないない。それはない」
 通り過ぎたあとそんな会話が流れてくるのを聞いて、ユウコが「はあぁ」とため息をつく。

「ね、大丈夫だったっしょ?」
 仮にメイク前の雄一郎を連れて来て、今のユウコと並んで立たせたとしても、それが同一人物だと分かる人は少なそうだけど、でもこの自信はどこから出てくるのやら。


「ここでいーかな」
 ビルの間の狭い路地で立ち止まり、そこから繋がる駅前広場を指さすサーシャ。
「他人から美人と思われるかどうか、ということで。
 あそこに5分立ってて、男性からナンパされたらウチらの勝ち、されなかったらウチらの負け。
 どう? 簡単でしょ」

「無茶言いますね……知り合いに会ったらどうするんですか」
「さっきのでバレないって分かったっしょ。だいじょーぶだいじょーぶ。
 5分だけ我慢すれば、キミは解放。おまけに美人の彼女ゲットだよ? どう。諦める?」

 その言葉に暫く悩む妖艶な偽美女。
 少しのあと、アタシらのほうに視線を走らせて、「分かりました。乗りましょう」と頷く。

「でも、見本とか見せて貰えません?」
「それも面白そーね。よし乗った。じゃんけーん、ぽん」
 却下されると思ったアイデアだけど、サーシャはニヤリと笑い即座にじゃんけんを始める。
 結果、サーシャが1番勝ちでリサがドベ。

「じゃ、まずリサからGO。一番時間かかった人、罰ゲームね」
「あいよー」
 手をひらひらと振りながら、広場に向かうリサ。1番負けた人だけじゃないんかい。
 通行人から不審な目で見られつつ待つこと3分12秒。男を連れたリサが戻ってくる。

「あらサーシャじゃん。何してんの?」
「なんだヨッシーか。リサみたいなのが趣味?」
 ガタイが良くて背の高い、ヨッシーとかいう男性。サーシャと知り合いだったらしい。

 2番手、ということで交替で広場に出て、駅ビルの壁に背を向け立ってみる。
 さっきの路地はちょうど死角みたいになっていて、広場を通る人はまず意識しないのに、横を見れば様子が丸見え、という少し面白い配置。

 位置についてから20秒もしないうちに、背広の男性が声をかけてくる。
「君、すっごい可愛いね。スタイルもすごくいいし。……芸能界に興味あったりしない?」
 内心していたぬか喜びが、あっさり覆ってずっこけそうになる。
 何とか追いやるのに結構かかってしまった。今のは時間の計算に入るんだろうか。

 気を取り直して、顔を回して目のあった男性に愛想をふりまいたりもしてみる。
 生まれて初めて訪問した街。
 酷く短いスカートを穿いて、生足を殆ど全部晒して、ギャルメイクで、今まで嫌でたまらなかった男性からのナンパを心待ちにしている。
 僕はいったい、何をしてるんだろう。

 ──って、素に戻っちゃダメ、ダメ。
 アタシはトシコ。世界でいちばんカワイイ女の子。
 けど、いつもならウザいくらい来るナンパ男、今回に限ってやって来ないのは何故ナノダ。

 内心じりじりして時間を過ごすことしばし。
「おねーちゃん、今おヒマ?」
 とやたらに能天気な声がかかってきたときは、小躍りしそうになってしまった。

「見てのとーりよ。ナンパ?」
「いや、愛の告白ス。一目惚れしました。付き合って下さい」
 深刻さ皆無、どこまで本気か分からない言葉に思わず吹き出す。

 かなり痩せ型、容姿は中のやや上、外見はチャラ男そのままの人物の手を引いて路地へ。
「最初、スカウトが来て追い払うのに時間かかっだけど、あれノーカンにならない?」
「ならない、ならない。きっかり4分41秒がアンタの成績」

「ね、これどういう状況? 6P乱交? それとも“ビジンキョク”とかゆーやつ?」
 美人局(つつもたせ)、とか突っ込みをいれつつ、サーシャを見送る。

「あ、オレ、アカギ・リュウセイね。赤いお城に流れ星って書くの。おねーちゃんの名前は?」
「アタシはトシコ。
 ……それ、ひょっとしてソウルネームとかいうの?」
「いやモノホンの本名。かっこいいっしょ。
 でもいー名前だね。アカギ・トシコかぁ」
「結婚前提のお付き合いッ?!」

 そんな会話の最中、そこそこイケメンな眼鏡の男性を連れて戻ってくるサーシャ。
「1分18秒だね。とゆーことで、トシコ罰ゲーム決定ー。どんどんぱふぱふー」

「……あー。そういうこと」
 アタシの顔をマジマジと見て何か納得したあと、キョロキョロ周りを見回し始める眼鏡君。
 そういえば彼、アタシが広場に立ってたとき、チラチラと視線を向けていた男性の一人だ。

「カメラはどこですか?」
「カメラって?」
「芸能人にギャルの格好させて、ナンパに何分かかるかって番組じゃないんですか?」
「ぶぶー。アタシらパンピーだよ。ナンパされるゲームしてたのは、当たりだけど」

「メイクで分からないけど……少なくとも彼女は芸能人ですよね?」
 そう言って、アタシのほうを見る眼鏡のちょいイケメン。
「仮に当たりでも、今日はオフだから普通の女の子として扱ってくれないかな? ダメ?」
「分かりました。……何だかドキドキしますね」

「そういえば君さ、何でアタシには声かけてくれなかったのさ。おかげでドベじゃん」
「こんだけ完璧な美人に声かけるんですよ? 余程自信があるか、バカじゃなきゃ無理です」

 『バカじゃなきゃ無理』というところで、流星の顔を思わず見て納得してしまう。
「うん? そう、オレいつでも自信まーっくすだから」
 何やらポーズを取ってるし。

「じゃーラスト、ユウコちゃん、いってらー」
 もはや完璧に目的を見失ってたけど、そういえばこれは、
『西原雄一郎という少年が、他人が見ても男とバレないくらいの美人になれるか』
 という賭けの結果を決めるナンパなんだった。

 負けたらアタシが指名されるんだろうか? 男だとばらせば諦めてくれるか……
 そんな心配をするヒマもなく、むっつりした顔で男連れで戻ってくるユウコ。
 最後に来たのは、ヨッシーと並ぶ長身に引き締まった細身の体、細いストライプの入った仕立ての良いスーツにノーネクタイのカラーシャツ。チョイ悪系のかなりのイケメンだった。

「53秒。やったねユウコちゃん、秒殺だよ。それに……」
 4人そろった男性陣を見回すサーシャ。つられてアタシも見回す。
 デカいヨッシーおバカな流星、眼鏡君、チョイ悪系と並んだ4人の男性陣。

「釣り果でも1位だね」
 身も蓋もないサーシャの言葉に、リサと2人でうんうんと頷いてしまう。
「ってことは、女の魅力、ユウコ>サーシャ>>アタシ>>>トシコ最下位で確定かぁ」
「真っ先に芸能スカウトされたんだから、アタシが一番でいーじゃんっ?!」

「じゃー、男女4人ずつ、8人そろったところで」
 ぱん、と手を叩き、皆を見回しつつサーシャが宣言する。
 男6人、女2人でしょ、という突っ込みを口に出来ないところが辛い。
「今日はこの8人で遊びましょー」



『瀬野家の人々』 俊也の場合-B3 2009年4月


「ついてばっかで悪いんだけどさ。ちょいおトイレに行かせて?」
 自己紹介と馬鹿話をしながら8人で歩くこと少し。
 到着したゲームセンターで、皆──

 無口な超美男美女カップルのユウコ&京介
 40cm近い身長差のにぎやかコンビのリサ&ヨッシー
 ヲタ会話で盛り上がるサーシャ&直樹
 それに流星

 ──を見回しながらアタシは言った。

「オレ、一緒に行っていい?」
「いいわけないっしょ。すぐだから待ってて。……で、ごめ。ユウコは一緒に来て」
「んだね。ウチもついでに行っとくわー」

 『女子はなんでみんな一緒にトイレに行くんだろう?』という昔からの疑問。
 女の子の振りをしている今、図らずも自分自身で実演するハメになるとは。
 男女4人(!)で一緒に女子トイレに入り、中を見回す。幸い他の人はいない様子。
「……で、あのさ、ユウコ」

        <<男性陣>>

「あー。本当に誰なんでしょうねえ。トシコさんって」
「あんま考えないがいいと思うよ。サーシャの知り合いだし、適当言ってるだけかも」
「──あの、すいません。眼鏡かけてもよろしいでしょうか?」
「別に断るようなことじゃなし好きにかければ? てかキョースケ、敬語似合わねーなあ」

「でもこの中じゃおれが一番年下ですし……では失礼して」
「京介、女子組トイレに行ったら急に喋るようになったな。無口なタチだと思ってたけど」
「知らない女性と一緒にいるの慣れてないから、無茶苦茶緊張してたんですってば」
「へぇ、意外すぎ。
 ……って、あははははははははははははっ」

「さっきまで二枚目俳優みたいだったのが、なんで急に食い倒れ人形になるんですか」
「いや、眼鏡なくても、おれはこんな感じでしょう?」
「いやいやいやいや。そりゃあない。お前さん、鏡見たことないの?」
「裸眼0.1以下なんで、眼鏡のない顔は……。皆さんの顔も初めて見えました」

「そっかあ。俺らのツラはどうでもいいけどさ、女子連を見れないのはもったいないよな」
「このあとプリクラとか写メとか撮るでしょうし、あとで見てびっくりするといいですよ」
「どんな顔なんですか? ……まあ、戻って来たら見ればいいだけですか」
「あー。女子の前で、その眼鏡をかけるのだけはやめとけ。忠告しとくわ」

「確かになー。同感。今のうちに、軽く女子連の感じだけででも教えとく?」
「ですね。ユウコさんは、化粧はケバいけど凄い美人です。あと胸が大きい」
「けど、ああいうメイクするの初めてじゃないかな? 普通の女の子をつれてきて、あんな格好をさせるのって、サーシャがやりそうな気がする」

「京介さんとユウコさんが並んでると、ハリウッドの美形男優・女優のカップルって感じでしたねえ。
 ぼくなんかが一緒に居ていいの? って気分に」
「いや直樹さん、めちゃハンサムじゃないですか」
「サーシャが最初にこの4人じゃ京介が一番男前って言ってただろ? もっと自信持ちなよ」

「お次は我が愛しのトシコちゃん。世界一カワイイ女の子」
「その言葉が大げさじゃないくらい、ルックスもスタイルも凄いですよねえ。おまけにノリと性格までいい。
 あー。なんでぼく、あの時声かけるの躊躇ったんでしょう」
「知るか。トシコちゃんはオレんだ。誰にもやらんぞ」

「スタイル良いっていっても、胸は真っ平だけどな。
 あれJCか、下手すりゃJSじゃね?」
「そういえばさっき直樹さん、トシコさんがどうのって言ってませんでした?」
「ああ、こいつずっとトシコが芸能人の変装じゃないか? って疑ってるんだ」
「芸能人って言っても、A○Bクラスじゃないですよね。もっと上のほう」

「A○Bっていうと、リサがそんな感じかな。混じっててもばれないと思った」
「サーシャさんとリサさんも十分美人ですよね。あの4人本当にレベル高い」
「へえ……そんな中に居て、おれ浮いてたんでしょうねえ」
「いや、京介が一番合ってるって。なんなら今から写真撮って見てみるか?」

        <<トシコ視点>>

「ごめ、すっかり遅くなっちゃった……あれ、京介とヨッシーは? トイレ?」
 女子トイレから出て戻ってみると、流星と直樹の2人が軽く手を振ってるとこだった。
「ああ、化粧直してきたんだ」
「おおっ、流星良く気付いたねえ。好感度3ポイントアップ!(サムズアップ)」

「やったね!(サムズアップ)
 今、好感度何ポイントくらい?」
「んー。92かな」
「やっほう。高得点!」
「1000突破でアタシのハート、ゲットだからガンバ!」
「わお! あとチョットだね!」

「あー。すまん。逆に待たせちゃったな」
 流星とおバカな会話をしてる最中、見えなかった2人がプリクラの台から出てきた。
「なんで男2人? ちょいと見してみ? ……うっはぁこれは」
「フジョに見せたら鼻血吹きそうだなー。高く売れそう。
 貰っていい?」

 結局、長身組がプリクラを撮ってた理由は不明なまま、ペアごとに機体を選んで撮影開始。
 アタシと流星は最初はピースサインしながら普通に。2枚目はコメカミにキスされながら。

 で、3枚目。頭に手を回して、流星はキスをしかけてくる。『チュープリ』だっけ?
 指を二本、唇と唇の間に挟み込んで阻止して、あっかんべしたあと笑いながら言う。
「ゴメンね。アタシはそんなに安い女じゃないんだ」

 他の面々も、三々五々プリクラを終えて出てくる。
「ねぇね、どんなの撮れた?」
「顔のデカさの差すげーなこれ」
「落書きしすぎだ顔見えね」
「チュープリ失敗かよ、だっせえ」
「るせぇ。でもそんなガード堅いとこもステキ!」
「これだけ浮いてますねえ。映画の宣伝みたい」

「あれ? ユウコ、撮ったの1枚だけ?」
 みんなでワイワイ鑑賞してる最中、ふと気付いた疑問を口に乗せる。
 ほかの組は2、3枚撮ってるのに、京介&ユウコカップルだけ1枚きりだ。
「……ユウコ、せっかく直した口紅が取れてるから、リサに直してもらって」
 サーシャの言葉の一瞬あと、京介が見せた狼狽は面白くなるほどだった。

 結局また、女子トイレに向かうユウコとリサ。その後ろ姿にふと違和感を覚える。
 少し思考を巡らせて、その正体に気づく。
 違和感を覚えなかったのが、違和感の原因なんだ。
 そのくらい、ごく自然に女性に成ってしまっている後ろ姿。

 さっきの女子トイレでの『説得』が効いたのか、眠っていた素質が花開いたのか。
 あるいは下着までの完全女装で美女そのものの外見になって、『女』として超イケメンな男性とキスしたおかげで、男として重要な何かを吹っ切ってしまったのか。
 心の持ちようだけでこうも印象が変わるのかと、感動に近い思いすら受ける。

 『メイク直しのために、女子トイレに向かう』様子も凄く自然。
 今までチラホラ見えていた『男らしさ』も、皆無とは言えないまでもかなり減っている。
 イマイチ、『アタシは女だ』と信じ切るレベルまでいけてない自分も、見習わないといけないんだろうか。

「なあ、サーシャ。ユウコってやっぱ、ああいうメイク慣れてないのか?」
 2人の姿が女子トイレに消えたところで、ヨッシーが尋ねる。
 一見・知性派の眼鏡君は思い込みが激しすぎて微妙にズレてて、パッと見ウドの大木系のヨッシーのほうが鋭いのが、妙に可笑しい。

「クライアントの秘密につきましては、守秘義務の対象とさせて頂いております」
 ニヤリと笑って大仰にお辞儀をするサーシャに、ニヤリと笑って返すヨッシー。

「あ、そだ。京介、今のうちに眼鏡かけてプリクラ確認しといたら?」
「あれトシコさん、なんで眼鏡のことご存知なんです?」
「そりゃあ、ねえ。あれだけ目があんまり見えてませんアピールされちゃ、さすがに」

 少しためらったあと、スーツの内ポケットから眼鏡を取り出し、装着する京介。
 吹き出しそうになるのをなんとか堪える。ギャップ激しすぎ。
 太い黒ぶちの丸眼鏡。超イケメンな容貌だったのに、今はとてもヒョウキンに見える。

「ああトシコさんて、そんな顔だったんですね。みなが超美少女とか言ってたのも納得です」
「その低い声で褒められるとゾクゾクするね。
 でもユウコも同じくらい美人だし、あの子の前でアタシを褒めるの、厳禁よ?」

「そのスーツとか、誰の趣味? 京介のチョイスじゃないよね」
「これ、大学の入学式のためにって作らされたんですけど、似合ってませんよね?」
「アンタのセンスが致命的に悪いのは、その一言でよーく分かった。自分らの写真見てみ?」

「──ええっ?! 誰ですかこれは」
「だから、それが京介とユウコ。正真正銘アンタらだよぉ。
 もう1枚のほうも見てみて」
 正直にいえばそれは、『奇跡の1枚』に近い、実物以上に綺麗に撮れてるプリクラ。
 でも自信と自覚を持たせるためなら悪くない。

 隠し持っていたプリクラを2枚取り出し、マジマジと見つめてるのを横から覗き込む。
 少し意外だったけど、ユウコのほうから積極的にキスを仕掛けてる。
 まるで映画の1シーンのような、美男美女のキスにうっかり見とれてしまう。

『成り切ってしまったほうが恥ずかしくないよ』
『雄一郎なんて人、忘れちゃいなさい』
『アンタはユウコ。飛び切り美人の女の子』
『だから女の格好もカレシがいるのも当然』

 さっきのトイレで『彼女』に対して伝えた言葉。
 言った当人はさほど守れてないのに、言われた側はやり過ぎなくらいに守ってる皮肉。

「京介さ。なんでユウコのことをナンパしようとしたの?」
「ええと、姉に『度胸を付けてこい』って言われてこんな格好無理やりさせて、顔も見えてない女の人を指さされて『あの子をナンパして来い』って」
 そんな偶然で、アタシはナンパ対戦に敗北したのか。
「いい姉貴じゃん。大切にしたげなよ?
 あ、戻ってきたから眼鏡とプリクラしまって」

 このタイミングで戻ってきた2人に、アタシはウィンクしながら声をかける。
「いーね! ユウコちゃんいい感じ! ステキ! ぐれーと! わんだほー!!」
 にっこりと女の子らしい笑みを浮かべつつ、ぎこちないウィンクを返すユウコ。
 ほんの1時間前まで『女装なんてイヤだ』と騒いでいた人物は思えない女ぶりだった。

 その後また、今度はカップルの枠を外して、適当なペアでプリクラを撮ることに。
 何故かアタシだけ全員と撮るハメになって。

 で、最後のリサとの撮影中に、「俊也クンってさ。悪女だよね」なんて言われてしまう。
 『なんのことかナー?』とトボケて返したけれど、でも雄一郎のことなら自覚してる。

 ファミレスで会った時点で“彼”が自分に対して好意以上の感情を持ったのは分かってた。
 あえて意識には載せないよう、努力してたけれど。

 今の雄一郎の心の中は、
『好きになった女性に好意をもってもらうために』
『嫌な女装をして』
『女に成り切って』
『他の男相手に恋人のふりをする』
 という、意味不明すぎる状態のはず。

 その“好きになった女性”が、(彼は知らないとはいえ)実は男だという事実も、混乱に拍車をかけている。
 流星も入れて、見た目は男2人女2人、実際には男4人の、そんな奇妙な四角関係。



「ひゃっほう! まーた大勝利!
 トシコちゃんマジ、オレの勝利の女神!!」

 プリクラのあと、階を上がってダービーゲームに皆で挑戦。
 2人ずつペアの4組に分かれての戦いだ。

 アタシは初めてで良く分かんないので、流星にお任せモード。
 それでも分かる無茶な賭け方、なのに何故かほぼすべてのゲームに勝利して独走状態。
「すげぇ! 今日のオレすげぇ! トシコちゃんが傍にいる限り負ける気がしねぇ!」
「おっしゃ! 流星、どんどん行こうぜぇ!」

 アタシも正直、わけが分からないくらいハイになって騒いでる。
 折り返し、アタシ達に張り合おうとヒートアップしている2位のリサペアともダブル差。
 セオリー通りに戦うサーシャペアが続き、地味で手堅い戦いを続けるユウコペアが最下位。

 その後も熱い戦いが続き、長かったような短かったようなゲームの末の最終戦前。
 リサペアが半分脱落して、サーシャペアが一発逆転を狙った最後のベット。
 そして……
「オレたちはもちろん、全ベットだ!!」
「いぇーっ!!」


「……あーっ、もうこんだけ笑ったの生まれて初めてかも」
 最後の最後に無一文の最下位転落。トップはユウコペアでゲーム終了。
 結果が出た瞬間から何故か笑いがこみあげてきて、流星と2人でフロア中に響く声で大笑いしてしまった。
 目じりに涙がにじんでいる。

「もうサイコウだったな。……どっちがいい?」
 しばらくそうやって笑い転げたあと、自販機から買ってきたらしい缶ジュース2本を流星が差し出してきたので、「サンクス」と言って、片方をありがたく頂く。
「いや、もー、楽しかった」

「どうする? みんなは他の階行くって言ってたけど……オレらばっくれちゃう?」
 少し離れてだべってる皆に聞こえないよう、小声で囁く流星の言葉。
 それもいいな、と思うのと同時に、現実に引き戻される。

「魅力的な提案だけど、でも今日はダメかな。
 夕方待ち合わせしてる人がいて、その人の連絡がリサの携帯に来るから、リサと別行動できないんだ」
「シンデレラの魔法が解けちゃうとか、そういうこと?」
「うん、そんな感じ」

 ふと、何故か『トシコ』を意識してしまう。
 あと数時間の命しかない、仮の自分を。

 ずり落ちかけた豹柄で女もののトップスを軽く整え、ブラとキャミの位置を直し、短すぎるデニムスカートの裾を伸ばして、ウィッグを手串で梳いてみる。
「んー? 流星、何? じっと見てさ。どっか変なとこあるかなー?」
「いやあ、トシコってマジかわいいなあって。改めて惚れ直してた」
「んふ。ありがと」

「そこのバカップルども。俺ら階登るけど、おまいらどうする?」
「あ、行く行くー。ごめんね気を遣わせちゃって」

 3階に上って、メダルゲームを皆で適当にプレイする。
 幾つか遊んで次に遊ぶ機体を選んでるとき、声がゲーム機の後ろから聞こえてきた。
「おねーさん、かっこいいね」
「マジ美人」
「一人? ヒマなの? 俺らと付き合わない?」

 なぜか気になり回り込んで覗き込むと、ユウコが3人のナンパ男たちに囲まれていた。
 駅前でナンパされた時とはまるで違う『余裕のある大人の女』の態度で、賞賛の言葉を受け入れているユウコ。
 黒いタイトスカートの中、(僕と同じく)女物下着に包まれた男性のシンボルが隠されているとはなかなか信じがたいくらいの美女ぶりだった。

 それにしても──男の時には、言われたくても多分聞くことのできなかった賞賛の言葉、『かっこいい』。
 それを女の時には、至極あっさりと手に入れているという皮肉な状況。
 そのせいかは分からないけど、満更でもなさが表情に表れてしまっている。

 順応力高すぎ、と呆れるけれど、でも経験値のなさも同時に見え隠れしてる。
 放置しても大丈夫なのか、助けに行ったほうがいいのか、いやそれだと二次遭難に合いそうだ、と悩んでる最中、トイレのほうから戻ってくる京介の姿が見えた。

「お姫様をほっぽり出して何してるの。王子様の出番よ?」
 戸惑う京介の袖を引き、救助に向かわせる。
 男たちの間を縫って京介に近寄り、これ見よがしに腕を絡ませるユウコ。
 相変わらず、映画の1シーンのような美男美女カップルぶりだ。

「……おれのツレに、何か用でもありましたか?」
 190cm近い長身、ほりの深い目鼻立ち、眼鏡がなくて目を細めてるせいで睨んでいるような目つき、低くてよく響く声。
 本人にその気はないんだろうけど、怖いお兄さんが凄んでいるようにも見える。

「あ、いえ。彼女さんとっても美人ですね。羨ましいです」
「お邪魔してすいませんでした」
 慌てた様子で退散する3人組。
 様子を覗いていたアタシと目があってしまう。
 性懲りもなく近寄ってナンパしに来そうなので、慌てて引っ込んで流星と合流。

「良さそうなのあった?」
「これどう?」
「ちょっとやってみるね」
「やったことあるの?」
「んにゃ、初挑戦。
 わ、わ、これってどうやるの?」
 コインを投入したあとで、慌ててやり方を教わってみたりもする。

 そんな感じで遊び倒して、ふと時計を見る。
 6時を少し過ぎたくらいの時刻だった。
 詩穂さんは『夕方』としか言ってなかったけど、もういつ呼ばれてもおかしくない状態。

「んー、どったの?」
「なんて言えばいいのかなぁ。『トシコさん』に嫉妬してた。
 こんだけ自由で、楽しくて」
「それに、こんな素敵な彼氏まで居て」
「ナマ言うんじゃないの。
 ──でも、まあ、それも入れていいかな」

「おおっ、ひゃっほい。……でもそろそろお別れの時間かぁ。また会えるよね?」
「どうかなぁ……分かんない」

 今日はどうやらバレずに済んだみたいだけど、次はバレずに済むかは分からない。
 流星は、“僕”が男だと知ったらどんな反応を示すだろう?
 それを恐れるほどに、彼のことを好ましく思ってる自分に気づいて驚く。

 特定の男性から異性として思われ、仮初の恋人として過ごした、生まれて初めての数時間。
 自分が本当に『トシコ』だったら良かったのに。
 そんなことまで考えてしまう。

「ね……流星はさ、女装した男ってどう思う?」
「んー、よく分かんないけど、ユウコが実は男とか、そういうこと?」
「──リサでもサーシャでもいいけどさ。
 まあ、例えばアタシがもし男だったとしたら」

「それ、オレの愛が試されてるのかな?
 男でも女でも、トシコなら関係ないぜ、って言いたいけど──正直難しいなあ。
 トシコちゃん似の女の子、3人は産んで欲しいし」
「相変わらず気、早すぎ」
「でも、仮定としても考えらんないな。こんだけカワイイ女の子が男とか、あり得ないから」

 本当の性別を一蹴されて少し困惑しているところに、リサがひょいと顔を覗かせながら、「トシコ、ここに居たんだ。姉貴から電話あったよ」と言ってきた。



「トシコちゃん、やほーー」
 待ち合わせの場所、待ち合わせの時刻。
 ギャル系のファッションでばっちり決めた小柄な女性が、陽気に手を振っていた。

「おーっ、シホじゃん。すんげー久々。寂しかったよー」
「なんだ、あんたらサーシャと遊んでもらってたの?
 サーシャ、おひさー」
 ……理沙さんの姉の、詩穂さんだったらしい。
 昼に会ったときからの余りの差が、意外というか納得というか。

「この中に一式入れといたから。着替えた服はこのロッカーに突っ込んどいて」
 そう言って見覚えのある鞄と、駅のコインロッカーのものらしいキーを渡してくれる。
「鍵は駅の忘れ物預かり所に『これ落ちてました~』って言って預けてもらえればいいから。あ、あとロッカー代」

「ところでトシコちゃーん。なんか忘れてないかい?
 ナンパ最下位の罰ゲームとか」
 と、サーシャがひょいと顔を寄せて、小声で割り込んできた。

「あーあー。あったねえ。
 ……またの機会になんない?」
「もう帰るから、すぐ終わる簡単なので。
 ──トシコちゃんの本名おせーて?」

 しばしの逡巡ののち、覚悟を決めて「瀬野、俊也です」と耳打ちする。
 びっくりした様子も見せずに、ニヤリと笑うサーシャ。
「やっぱねえ」と顔に書いてある。

「いつから気づいてた?」
「ファミレス入る前から、ちょい怪しいなあとは思ってた。
 確信したのはリサの態度かな」
「ん、何の話?」
「ヒ・ミ・ツ。……名残惜しいけど。
 ごめんね、アタシはここで。じゃーまたー!」

 興味津々といった感じで近寄ってきた流星に投げキッスをして、皆に手を振る。
 口々に別れを惜しんでくれる声を受けながら、駅に向かって歩く。
 振り返ると、詩穂さんが僕の代わりに加わって、次の遊びに向かう様子。

 障碍者用のトイレに入り、鞄を空ける。
 朝着てきた通りの衣装がそこにあった。
 なかなか落ちないギャル系の化粧を、クレンジングジェルを何度も使って念入りに落としてさっぱりしたあと、服を脱いでそれに着替える。
 この服に袖を通すのは数ヶ月ぶりな気もするけど、実は今日の昼過ぎまで着ていたのか。

 スカートの裏地のポリエステルの肌触りを、心地よくも頼もしく感じてしまう。
 今日はもう、スカートの中を覗き見られる心配はしなくても良いみたい。
 男なら決して感じないはずの不安と、それと裏腹な不思議な安心感を面白く思う。
 簡単にリップだけの化粧をしてウィッグをかぶり、鏡の中の自分を見つめる。

 少女にしか見えないように思える、女装した僕の姿。
 それでもサーシャさんにはあっさりと見破られていた。
『女に成り切れてない、中途半端な女装』の域を抜け出すには、まだまだほど遠いらしい。

 誰からも男だと見抜かれないよう、素敵な女性としか思われぬよう。
 帰ったら、もっともっと魅力的な女の子に成り切れるよう練習しないと……そう考えたところで思い出す。
 春休みの宿題、まだ終わってないや。


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最終更新:2014年05月30日 22:53