伊東史朗『薬師如来像』(文化庁、東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館監修『日本の美術 七』、至文堂、一九八六年七月、二五頁)によれば、大和法隆寺金堂薬師像光背の銘文の真偽性そのものは疑問視されているものの、その像容から止利仏師の一派の手によったものであると推定されることから、遅くても七世紀半ばまでの造像であることが確認されているという。 『日本書紀』天武天皇九年(六八〇)十一月癸未条(増補新訂国史大系『日本書紀後篇』所収)に「皇后體不豫。則為皇后誓願之。初興薬師寺。」とみえている。 五来氏は、「山の薬師・海の薬師」(民衆宗教史叢書第十二巻 五来重編『薬師信仰』所収、一九八六年、雄山閣)(三十六頁)で、「悔過は、天下国家の人民や信者に代って苦行し、それらの人々の罪や穢れを滅ぼすのが目的」であると指摘している。すなわち「滅罪の代受苦が悔過」であるという。修験「悔過」行には、「観音悔過」や「十一面悔過」、また「吉祥天悔過」などがあり、「薬師悔過」もその一つであるという。 薬師悔過法の初見は『続日本紀』天平十七年(七四五)癸酉条(増補新訂国史大系『続日本紀前篇』所収)の記載で、「又令ム京師畿内ノ諸寺及ヒ諸ノ名山ノ浄処ヲシテ行ハ薬師悔過之法ヲ。」とみえている。 五来重「薬師信仰総論‐薬師如来と庶民信仰‐」(民衆宗教史叢書第十二巻 五来重編『薬師信仰』所収、一九八六年、雄山閣) 西尾正仁『薬師信仰‐護国の仏から温泉の仏へ‐』(御影史学研究会、民俗学叢書十三、二〇〇〇年、岩田書院)。 前掲、西尾論文〈註6〉。 久下隆史『村落祭祀と芸能』(一九八九年、名著出版) 前掲、伊東〈註1〉、西尾、論文〈註6〉など。 本論で検討する『峰相記』(成立は、室町初期頃)は、『兵庫県史』本を底本とする。 橘成季編『古今著聞集』巻二第三話。 『瑞應塵露集』(巻三の四)(成立は享保十五(一七三〇)年、著者は宝林山安楽寺の真言僧超海通性、大谷大学図書館蔵)については、本論第二部で詳しく検討する。 根本誠二「行基と薬師信仰」(根本誠二・宮城洋一郎編『奈良仏教の地方的展開』所収、二〇〇二年二月、岩田書院)。 前掲、西尾論文〈註6〉。 『日本霊異記』「二つ目盲ひたる女人、薬師佛の木像に帰敬して、現に眼を明くこと得る縁 第十一」(下巻十一話、日本古典文学大系本、岩波書店)
『康富記』応永二十五(一四一八)年七月二十六日条(『増補史料大成康富記一』所収)。 現在の神戸市垂水区(一部)・西区・明石市をさす。ここ数年来、同地域は明石海峡大橋建設に伴う新道建設や宅地造成(ニュータウン計画)などの開発が盛んである。 本論で用いる『金波斜陽』は、京都大学文学部図書館蔵本を底本とする。著者、成立年ともに『金波斜陽』には明記されていない。しかし内容を検討すると、享保年間の記録が多いことからこの頃の成立と推定される。また著者については、享保年間に成立した大井毎高編『明石記』に、この『金波斜陽』と美濃郡の地誌『玉彩光分』が再録されており、明石城下の住人、長野恒臣の著であることがわかる。(日本歴史地名大系『兵庫県の地名Ⅱ』「史料解題」、一一四四頁、平凡社) 前掲、五来論文「薬師信仰総論‐薬師信仰と庶民信仰‐」〈註5〉 前掲、五来論文「山の薬師・海の薬師」〈註3〉 豊島修「都市の薬師信仰‐大阪を中心として‐」、大森惠子「因幡薬師と山陰地方の薬師信仰」(民衆宗教史叢書第十二巻 五来重編『薬師信仰』所収、一九八六年、雄山閣)では、薬師信仰の衰退に医療が関わったことを指摘している。豊島氏は、信仰衰退の時期を「近代以後」(三八〇頁)とみており近世的問題とはしていないので、近世医薬との関わりは不明であるが、大森氏は特にその時期を定めず、「医学や薬学・医療技術の発達に伴い、今日では薬師如来に病気平癒を祈願するより、医療機関で治療を受けたほうが賢明と、人々は思うようになった。その結果、因幡薬師(平等寺)や座光寺に寄せられた信仰や祈願内容は、諸病平癒から安産や種々な「福」を求める傾向に、変化していったと考えられる」としている。この解釈では、本論第二部第三章で触れるように、近世にすでに医療が民間に展開する状況、また近世においてすでに安産や富裕を祈願する事例がみられることを鑑みれば、医薬文化発展と薬師信仰の衰退が近世に端を発しているということになる。 吉岡信『近世日本薬業史研究』(一九八九年、薬事日報社) 長友千代治『江戸時代の書物と読書』(二〇〇一年、東京堂出版)
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