これは私がまだ一年生だったころの話。
そこそこ足が速く、中学から陸上部だった私は、高校でも迷わず陸上部を選んだ。
もともと体を動かすのは好きだったから、気楽にやっていけると思ってたんだ。
甘かったぜ。
「なんとなく」な感じの部員もちらほらいた中学に比べ、高校は粒揃いで。
公立でもこうなのだから、有名私立とかに行くと当然もっとすげぇ奴もいるわけで。
――所詮、私じゃトップになんか立てないんだってヴぁ。
何度走っても、誰かの背中を見ていなければならなかった私は、自信を失くしかけてた。
そんなときに現れたのが、
☆
「涼宮ハルヒ!」
春の日差しも穏やかな、新学期を迎えて間もない昼下がり。
夢とうつつの狭間に俺を乗せて浮かんでいた船は転覆し、俺は現実に打ち上げられた。
寝ぼけ眼で大声の主を探ると、何だ、昨年に引き続き同じクラスになった日下部みさおじゃないか。
瞳に強い決意を宿した彼女は、指を突き出して俺――ではなく、後ろの席の御仁を指し、
「お前に決闘を申し込むぜ!」
とんでもなく厄介なことをのたまった。
メッセージを伝えた白山羊は満足したようだが、黒山羊はどうだろう。
いつものように、他人の話など読まずに食べてそれっきりにするのかもな、と思っていたら、
「いい度胸じゃない」
不敵な笑みでふんぞり返っていた。あら、ずいぶんとまあ、乗り気のようで。
コンピ研とのゲーム対決を鑑みるに、うちの団長は決闘とか勝負とか、そういう提案に弱いようだ。
それから対決内容の簡単な取り決めをし、日下部は上機嫌で自分の席に戻っていった。
あとには、いささか興奮気味のハルヒと、若干眠気の抜けていない俺が残る。
「ハルヒ。お前、何か日下部の恨みを買うようなことでもやったのか」
「知らないわ、そんなの」
本人はそう言うが、普段の行動から判断するに、こいつは他人の感情の機微にさして興味を抱かない。
やっぱなんかやったんだろうな、と溜息をついた。
「勝負事の前に辛気臭い真似しないでちょうだい」
そして、ハルヒの「今日の団活は勝負に備えた特訓に決定ね」という不吉な宣告をBGMに、
何やったんだろうな、面倒くさいな、日下部思いとどまってくれないかな、なんて考えながら、
大海原に再び舟を漕ぎ出した。ヨーソロー。
☆
涼宮ハルヒ。
「今年の一年には変な奴がいる」というウワサは、私の耳にも入っていた。
というか、私はその変な奴と同じクラスだった。一度も会話したことないけど。
いろいろ変なことやってるってのは聞いてる。で、今が旬なのは、仮入部の話。
何でも一日ごとに部活動を変えて回ってるとか。全制覇するつもりかよ。
で、今日は陸上部にやってきたということみたい。なんか、応対する先輩たちの方が緊張してら。
仮入部して最初にすることは、短距離走のタイムを計ることだ。
せっかく来てくれた新入生を、見学ばかりで退屈させないように――という配慮らしい。
「位置について、よーい……」
パン、という合図とのタイムラグがまったくないくらいのタイミングで、涼宮は走り出した。
思わず見とれちまった。
だって、すっげーキレイなフォームで走るんだもんよ。素人とは思えねー。
涼宮が走り終わったあと、先輩たちが興奮してた。予想よりかなりいいタイムだったっぽい。
ああ、あんな奴まで入ってくるのか。
私はこれで完全に自信を失くした。
☆
何でこんな体育会系なマネをしなくちゃならんのかね。
本日のSOS団の活動である持久マラソンに挑みつつ、俺は心の中でぼやいた。
今、口から余計な空気を漏らしたら命にかかわるかもしれない。
「はいストップ! 五分休憩よ」
激しい運動のあと、急に動きを止めるのは体によろしくない。
知識はあるのだが、クールダウンを行うだけの体力がなかった。
「お疲れのようですね」
尻餅をつく俺の周りを、タップでも踏むような軽やかさで古泉が周る。
かなり汗をかいているが、デフォルトスマイルは崩れておらず、忌々しいほど爽やかである。
古泉から目を逸らすと、普段通り棒立ちの長門が視界に入った。あいつはもう少し偽装したほうがいい。
息も絶え絶えで長門にもたれかかっている朝比奈さんとのコントラストのせいで、余計にそう思う。
挑まれたのは自分だけというのに、団員全員をつき合わせている団長殿は、優雅にストレッチなぞしていた。
「古泉……今回も、何が何でもハルヒを勝たせなきゃならんのか」
「どうでしょう。僕は、例のコンピ研との勝負の際にあなたが提示した見解を支持しますよ」
――あいつもそろそろ学んでいいころだ。
そういえばそんなことも言った。負けた程度で閉鎖空間なんか出るものか、と。
野球のときはあれだけ大騒ぎしたのに、どうしてそんな無責任な発想が出てきたんだか。
「……昔のハルヒだったら、日下部の勝負を受けるどころか、挑まれること自体なかったかもな」
「休憩終わり!」と告げるハルヒの声に急かされ、俺はどっこいしょと冗談抜きで重い腰を上げた。
☆
涼宮は陸上部に入部しなかった。
もったいない、と思ったのは先輩たちだけじゃない。私も同じだってヴぁ。
聞けば、どこの運動部からも熱烈な勧誘を受けてるのに、全部断ってるって。
期待されても走らない涼宮と、誰にも期待されてないのに走り続ける私。
――なーんか、腹立った。
腹立ったついでに、今の私の何が悪いのか、友達に聞いてみた。
「みさちゃんは……そうねえ、走るときに無駄な動きが多いのかな」
「あんたの走り方ってガキっぽいのよ。幼稚園児が腕広げてブーンとかやってる感じ」
つまり、私の走り方は大雑把らしい。向上心の見られない走り方ってやつ?
それなら、とフォームを意識して作ってみた。
ビデオで見た陸上の有名選手みたいな走り。でも、全然うまくいかない。
……何か、変な感じ。誰かに走らされてるみたいだった。
なんとなく、そんな感じ。
いつからか、私は部活動の時間がキライになってた。
だって、そうだろ? いくら昔から好きだっていっても、うまくいかなくなったら嫌気もさす。
こりゃ辞め時かなーなんてことも思ってたりして。それでも五月までもったけどさ。
そして、ある日の体育の時間。
涼宮と走れるチャンスを得た。
☆
「特訓はこれにて終了!」
結局、今日の団活はすべて特訓に充てられた。お前一人で走っていればよいものを。
しかしまあ、いつも通りの時間に帰れるのは嬉しい限りだ。てっきり、居残り特訓もあるかと思っていたし。
「残業なんて非効率よ、キョン」
誰も残業だなんていってない。
「とある高評価のアニメ会社は、社員を必ず定時に帰宅させるらしいわ。だらだら長引かせてもダメなのよ」
そいつは賢明な判断かもしれない。
俺やそこそこ疲れているらしい古泉はもちろんのことだが、このままでは朝比奈さんがピンチだ。
散々走らされたのに息一つ乱していない長門もある意味ピンチだ。
余計な藪は突くまいと、団長の指示に従って俺もさっさと帰ることにした。
「あ、キョンキョン」
一人になったとき、泉こなたに出くわした。クラスは違うが、いつからか准団員のように扱われている奴だ。
こんな時間まで何をしていたんだろう。
「いやー、ちょっとつき合わされちゃってさ」
泉に手を引かれて連れて来られた場所は、SOS団が使っていた場所とは別のグラウンド。
そこで、日下部みさおは走っていた。
☆
私が初めて涼宮と走ったときの結果は、私の惨敗だった。
スタートダッシュは、専門的な練習をしてる私の方が早かったけど、その後で抜かされた。
慌てずにイメージしてた体勢を崩さないで走ってたら、一方的に距離を開けられてって、負けた。
せっかく身に付けたフォームを試してみたのに、まるで意味がなかった。
むしろ、何か気持ち悪かったな。
走ったあとも、涼宮のことを見てた。
あんなに速く走れるのに、涼宮は不機嫌そうだった。
私も、そんな涼宮を見ていて、不機嫌だった。走ったのに不機嫌になってる自分にも不機嫌になった。
不機嫌スパイラルの法則が発動だね、こりゃ。
☆
「涼宮を抜かさねーと、先に進めないんだよ」
日下部はそう語った。
ハルヒとの決闘に備えて、抜群の運動能力を持つ泉と競争していたらしい。
「おおちびっこ、戻ってきてくれたのか!」
「もう走らない! 走らせるなよ、絶対走らせるなよ!」
何度も付き合わされた泉は、体力はともかく、心が折れていた。
「練習ぐらい一人でもできるんじゃないのか? 個人競技だし」
「それがそーもいかないんだよなー」
競争相手がいないと「燃えない」そうな。
俺はついつい噴き出してしまう。ちゃんと、やる気の出し方がわかってるじゃないか。
ハルヒとどんな因縁があるかは知らないが、大してこだわってはいないらしい。
顔を見ればわかる。日下部みさおってのは、そういう奴だ。
「お前なら一人でもいい記録出せるんじゃないか」
「なんでわかんだよ?」
「特に理由はない。俺の勘だ」
「……キョンの勘って当たんのかー?」
「悪い予感はしょっちゅう当たる」
なんだよそれーと口を尖らせて、日下部は俺に、ストップウォッチを投げ渡した。
「ちょうどいいや。言いだしっぺだし、ちょっとタイム計ってくれよ」
「まだ走るの!? これは血を吐きながら続ける悲しいマラソンだよ……」
「頼むよちびっこ! あと一回だけだからさ」
しかし尚も頑なに拒む泉。仕方なしに、俺が助け舟を出す。「一人で走ればいいじゃないか」
「うー……でもさー」
渋る日下部であったが、泉と二人がかりで説得して、一人で走ってもらうことになった。
泉に感謝されたが、俺はただ「一人で走っている日下部を見たかった」だけだ。
☆
六月あたりから、涼宮はよく笑うようになった。
楽しくて仕方がないというような、そういう笑い方。
理由はわかってる。前の席に座ってる、キョンとかいう仇名の男子だ。
ずっこいなあ、自分だけ楽しくなっちゃって。
「涼宮ちゃん、走ってるときのみさちゃんみたいな顔するようになったね」
あやのにそう言われたとき、ちょっと悔しかった。私、今はそんな顔してないだろうから。
そして、体育の時間。再び涼宮と走ることになった。向こうはそんなの意識してないんだろーな。
よーい、ドン。やっぱスタートダッシュは私の勝ち。でもフォームを整理してる間に、また並ばれる。
――離れていく涼宮の背中を見て、私は、センスに任せてそれを追いかけた。
なんだか知らないけど、型にはまって走るのがバカらしくなった。
フォームなんか知るか。そりゃそんときは速かったんだろうけど、今走ってんのは私だ。
どーだコノヤロー、と追い抜く。
でも涼宮は本気を出してなかったみたい。また抜き返される。でも食いつくぜ。
「もっと速く」――そう思った。
もっと速く走りたい。プライドのため、とか、涼宮負かす、とか、そんなんじゃない。
私も楽しくなりたかった。そのためには、本気出すしか、ないじゃんか。
涼宮も速度を上げた。ちょっとはムキになったのか? で、そのままゴールラインを通り過ぎる。
――結局、今回も私の負け。
本気出して、本気出されたんだから、こりゃ完敗だね。でも、惨敗よりずっと気分がいいってヴぁ。
あれ、何で、こんなに、楽しいんだろ。
☆
日下部の走りは、素人目にも綺麗に映った。
だいぶ前に見たときは何も考えてないって印象だったが、今は「いい意味で」何も考えていない。
そりゃ楽しいに決まってるさ、日下部。
誰かに言われてでなく、「なんとなく」でもなく、ただ走れればいいという自己満足でもなく。
お前は、自分の意思で、自分のために、自分を超えようと走っている。
楽しみながら上を目指し続ける奴が一番強い――マンガの常識だよな。
「タイムいくら!?」
「教えない」
八重歯むき出しの日下部にそう答え、たった今記録した時間をリセットする。
「俺はあくまでSOS団なんでな。対戦相手に妙な自信をつけられても困る」
日下部は(あと泉も)俺にキョトン顔を向けていた。が、すぐに大笑い。
「じゃ、当日に同じタイムを出すか、それを超えるしかねーな!」
健闘のエールを贈り、俺は踵を返す。「あと、さ」と、去り際に一言。
「お前、とっくに前進してると思うぞ」
☆
二年に進学した私は、運良く涼宮とまた同じクラスになれた。
柊やキョンから、涼宮もだいぶ丸くなったと聞いていたので正式に勝負を申し込んだら……まさかのOK。
涼宮、変わったなあ……すげーノリが良くなった。
で、当日。涼宮と私が、短距離走でケリをつける。つけるったら、つけるんだってヴぁ。
今日の私は、何だかやれそーな気がする。昨日、キョンが帰る前に言ったのが効いてるのか。
キョン、お前すげーな。人をその気にさせるのがうますぎるぜ。
そう思うと……ちょっぴり、涼宮のことが羨ましくなる。
「なーなー涼宮、キョンといて楽しいか?」
「楽しいわよ。でもキョンだけじゃダメね、SOS団のみんなも一緒じゃないと」
否定はしないのな。うーん、ますます羨ましい。私も欲しーなー……。
私はクラウチングで行こうと思っているけど、涼宮は棒立ちのままだ。
「スタンディングで行くのか?」
「悪い?」
そりゃあ本人がその方が得意ってんなら文句はない。でも、なるだけ同じ条件で勝負したいんだけどな。
「ハンデよ。あんた、あたしに勝ったことないじゃない」
……ばっちり覚えてやがったのか。でも、私は本気のガチンコがしたいんだ、それは譲れねーぞ。
だから、むりやりにでも同じ目線になってもらうぜ。……私的にもオイシイかたちで。
「なあ涼宮」
「なによ」
「私が勝ったらさ、」
☆
日下部とハルヒは何やら話しているようだったが、ギャラリーの位置からでは聞き取れない。
と、ハルヒが突如振り返り、こちらに鋭い目線を向けた。
心なしか、俺に向けられている気がする。
訳がわからずとりあえず顔をしかめていると、今度は日下部が手を振ってきた。
咄嗟に振り返すと、ハルヒが一層険しい目付きをして顔を逸らす。
「何なんだ、一体……」
「昨日、私の前で堂々とフラグ立てておいて白々しい人だね」
隣に立つ泉の戯言は受け流すとして、日下部に何か吹き込まれたのは確かだろうな。
そうこうしているうちに、日下部は四つんばい――じゃなく片膝を立てて腰を高く上げる。
やがてハルヒも、しぶしぶといった感じで、同様のクラウチングスタートの姿勢をとった。
その様子を見ていた朝比奈さんが、慈愛に満ちた声で呟いた。
「涼宮さん、楽しそうですね」
ハルヒと日下部は、同じ目線でスタートの合図を待っている。