イメージチェンジ

泉どなた ◆Hc5WLMHH4E氏の作品です。


背の高い人低い人、髪の長い人短い人、太った人に痩せた人……
この地球上には沢山の人があちらこちらで生きていますが、誰一人として同じ人は居ません。
私たちは数多くの特徴を持っており、その一つ一つが個人を形成するパーツとなって、
それら全てが合わさったものが、この世界に唯一無二の自分という存在になるのです。
例えるなら、真っ白なキャンバスにいろいろな絵具を用いて一枚の絵を完成させるようなものでしょうか。
どの箇所に何色の絵具を使用するかによって、絵の雰囲気はガラリと変わります。
空を描く際に、青い絵具を使えば朝や昼の景色になり、オレンジ色だと夕暮れに、黒や紺なら夜に……。
この絵画は一度完成させたとしても、何度でも塗り替えることが出来ます。
その人が長かった髪を短くしたり、着る服の系統を変えてみたりすることで、
たとえばそれまで赤く塗っていたところが青や黄色に塗り替えられ、
『自分』というタイトルの絵が、また違った印象のものになるのです。


「あう~」

初めまして、高良みゆきと申します。
突然ではありますが、白昼の本屋さんでの唸るような声はこの私です。
今日は休日でしたので、久しぶりに本屋さんで参考書と小説を一冊ずつ購入しました。
新しいものを買ったりするとなんだか嬉しくなりますよね。
そんな満足感で胸を一杯にして店を出ようとしたところで、事件は起きました。


お日様は熱心にも、満面の笑みを浮かべて莫大なエネルギーを放出しています。
しかし今はお昼をとるにはまだ早い比較的日差しの弱い時間帯です。
「僕の出番はまだ当分ないだろう」とお月様も眠っていることでしょう。

ゴツン!

「きゃ!」
そんなお月様が慌てて飛び起き、ベッドから転落してしまいそうなほど
とてつもなく大きな音がこのお店中に響き渡りました。
続けて店員さんの「お、お客様! 大丈夫ですか!?」という慌てた声が耳に入りましたが
今の私にそれに答えるほどの余裕はまったくありません。

雲ひとつ無い空は青々としていて、その上今は室内に居るというのに、
私はキラキラと光り輝く星々を確かに目にしました。

私がぶつかってしまったのは、本屋さんの出入り口、四角い取っ手の付いたガラス戸でした。
店に入る際には、きちんと表示してある通りに扉を押して入ったのですが
買いたい本を探してレジへと持っていくうちに頭の隅へ追いやってしまい
店を出ようとした頃にはそのことをすっかり忘れておりました。
そして勝手に自動ドアだと思い込んでいた私は、扉の前で一度立ち止まりました。
しかし、もちろんセンサーの類など一つも付いていないガラス戸が自動で開くわけありません。
よくよく考えればその時点で気付くはずなのですが……
学校で何か考え事をしていて教室の扉にぶつかってしまったり、
お勉強の最中、飲み物をレンジで暖めたことを忘れて何度も暖めなおしたり
ある一つのことに集中していると、それ以外のことが考えられず失敗することの多い私です。
今回もその例に漏れず、既出の通り小さな満足感で胸が一杯だったため
何の躊躇も無くぶ厚いガラスにぶつかった私は、お店中の視線を釘付けにしてしまいました。
まったくお恥ずかしい限りです。

道を歩いていて壁や立て看板などにぶつかるという経験は何度もあります。
しかし今回はそれだけでは終わらなかったのです。
もう一つ別の事件が発生していたことに気付いたのは、
慌てて傍まで駆けつけたくださった女性店員さんに声を掛けて頂いた時でした。
「お怪我はありませんか?」
「えぇ、大丈夫で……あっ」
心配してくれた店員さんのお顔を見上げたのですが、そのお顔はぼやけてよく見えません。
それどころか総ての景色が、水彩絵具で描かれた風景画を水で濡らしたように
ピントのずれたカメラのレンズを覗いているかのように、滲んで、ぼやけて見えなかったのです。
ご存知かどうか定かでないので補足いたしますと、私は幼い頃よく暗い中で読書をしていたので、
それによって視力が低下してしまい、以来ずっと眼鏡をかけております。
一度「コンタクトレンズにすれば良いのに」と泉さんに……
あっ泉さんというのは私の友人の「泉こなた」さんです。
彼女はとても個性的な方でして、日本が世界に誇る文化のうちの一つである
ゲームやアニメといったもの対する愛情を人一倍持っており、知識の豊富さには感心いたします。

その泉さんにアドバイスしていただいたこともあるのですが、
お恥ずかしながら、目に物を入れるという行為に抵抗がありまして
他の眼鏡をかけていらっしゃる方々と同様、私にとって眼鏡は
命の次に大切だと言っても過言ではないほど、生活に欠かせない必需品です。
極端に言うと、眼鏡が無いと命の危険に晒されることもあるかもしれませんね。

ハッとして地面に目を向けると、ぶつかった拍子に落ちてしまった、
購入した本を入れたバッグ(であろう物体)のすぐ近くに、眼鏡(であろう物体)が光って見えました。
安心した私はその眼鏡を掛け直そうと手を伸ばしたのですが……。
私が手にした物、それは“たった今まで眼鏡の一部だった金属”
つまりテンプルと呼ばれる眼鏡の側面部分でした。
椅子に置いたのを忘れて、その上に座っただけで割れてしまうこともある眼鏡は
結構衝撃に脆いものでして、時としてこのように簡単に壊れてしまうのです。
店員さんが拾ってくれたバッグを受け取りながらもう一度お顔をよく見ると、
その方も眼鏡を掛けていらっしゃるようで、ことの重大さに気が付いた様子でした。
「大変……ご自宅まで帰れますか?」
「は、はい」
咄嗟にそう答えたものの、実はかなり不安でした。
ですが恥ずかしさで一刻も早くこの場を去りたい一心でしたので、
眼鏡の残骸を店員さんから受け取り、会釈してガラス戸へ小走りで向かったのです。
しかし――
「きゃ!」
「おっと!」
またしても衝撃を受けた私は後ろ向きに倒れそうになりましたが、
ぶつかった相手の方が咄嗟に腕を掴んでくれたので事なきを得ました。
「すいませんすいませんすいません」
その方の声が男性の声だったものですから、
なんだか怖くなってしまって何度も何度もお辞儀をしつつ謝っていると、
相手の男性はそんな私に向かってポツリとこう言ったのです。
「あれ? 高良、どうしたんだ?」
「ふぇ?」
どうやらぶつかった男性はお知り合いだったようです。
しかし私には相手のお顔はよく見えませんし、あまりに慌てていたので
声でその人物を判断することが出来ませんでした。
「あの、もう少しお顔を近づけて頂けますか? 眼鏡が壊れてしまいまして……」
「あっ悪い」
近づくに連れて段々ハッキリとしてくる男性の顔
腕を伸ばせば触れることの出来る距離まで接近したところで、
ようやくどなたか判別できました。
「あっ! キョ――」
「お知り合いの方ですか? よかった」
私がその方の名を呼ぶより先に、店員さんがホッとした様子で声を掛けてこられ、
私たち二人の様子を眺めていたのですが、しばらくしてお客さんが待っていることに気付き
「ではお気をつけて」との言葉を残して、急いでレジへと戻って行かれました。
残った私たちはレジから視線を戻し、もう一度向き合いました。
今目前で少し恥ずかしそうにハニかんでいるのは、同じクラスのキョンさん。
キョンというのは彼のニックネームです。
いつからそう呼ばれているのか存じ上げませんが、友人はもとより、
教職員や親族の方に至るまで、彼のことをニックネームで呼んでいます。
本人はそれを嘆いているようですが、私は皆から親しまれる良いニックネームだと思います。
「眼鏡が壊れたのか?」
手のひら上に置かれた“元眼鏡”を見たキョンさんは
若干眉を動かして私の顔と手のひらとを交互に眺めています。
「えぇ、先程扉にぶつかってしまって……」
「そうらしいな、デコが赤いぞ」
「ひゃぁ!」
キョンさんはそっと私の額に手を触れました。
そして、それがあまりに急だったので私がひどく驚き、
つい気の抜けた声を挙げてしまったことはお構いなしといった風に
今度はその手を動かして額を擦っています。
「コブが出来てる」
「そ、そうですか」
私はよく泉さんなどから「天然だ」「ドジっ娘だ」などと言われます。
最初にそう言われてよく意味の分からなかった時分、泉さんが私に
「歩いていて電柱にぶつかるのがドジで、さらにその電柱に謝ってしまうのが天然」
このように説明してくれたことをよく覚えています。
「ドジっ娘」と言われることについては、今回も経験したような
店の扉にぶつかるなどということはまさにその典型ですね。
なので何となく自分でも「ドジだ」と言われても仕方ないと思っています。
しかしながら「天然だ」と言われることに対しては、少し疑心暗鬼でした。
常軌を逸した行動を無自覚に行ってしまう人のことを差す言葉ですので、
そう思ってしまうのも当然といえば当然でしょう。
今こうして、仮にも異性である私の身体に触れるという、
普通なら恥ずかしくて出来ないような、常軌を逸しているとも言える行動を
当然のように、何の抵抗も無くやってのけるキョンさんは、ある意味天然だと言えると思います。
そんなキョンさんもきっと、自分が天然だという自覚は無いのではないでしょうか。
もっとも、私をそれほど異性として意識してないのかもしれませんが……。
もちろんキョンさんに触れられたからといって不快感はありませんでした。
ですがその代わりに、私は自分の身体が熱くなっていくのを感じていました。
今の私は、おでこだけでなく顔全体が赤くなっていることでしょう。


本屋さんを後にした私たちは「とりあえずどこかに座ろう」というキョンさんの提案で
近くを流れる川沿いの小さなベンチへと向かっています。
前を向いてひたすら歩いている、寝癖を立てたキョンさんと
その後ろであたふたと視線を右へ左へ移動させている、困り顔の私
二人は第三者の目に一体どんな風に映るのでしょう。
それにしても、ここまで視力の低下が進行していたとは思いもしませんでした。
眼鏡を掛けると目が悪くなるというのは迷信だと思っていましたが、
実際にこうやって辺りを見回すと、確かに悪くなっているような気がします。
これは恐らく矯正した視力に慣れてしまったからでしょう。
ですから今日みたいにふと眼鏡を外した時に「視力が落ちている」と感じてしまうのです。
と冷静に語っていますが、そうでもしてこの不安を誤魔化さないと歩けないんです。
「あ、あの……」
前を行くキョンさんに恐る恐る声を掛けました。
すると立ち止まったキョンさんが振り返りこちらに顔を向けます。
「どうした?」
「えっと…その……て、手を握ってもらえないでしょうか? やはりよく見えないと不安で……」
普段であればこんな恥ずかしいこと、面と向かって言えるわけありません。
でも今は幸いにも(といっても不幸中のですが)面と向かったその顔はよく見えないのです。
シドロモドロにはなったものの、何とか伝えることが出来ました。
「そうだよな、スマン」
「いえ、私もご迷惑を掛けてしまって……」
「ま、少なくとも猫の手よりは頼りになると思うぞ」
目の前に差し出された手をそっと握ると、キョンさんの手はほんのり温かく、
そのお陰で不安という名の氷が段々と解けて水になり、私の心を満たしていきます。
やがて溶け水はさらに熱を持ち、私の心は温かくなりました。
今の私は、遊園地などで迷子になった後、無事に母親と再会できた子供のようです。
私はそんな子供と同じように、繋がれた手がもう離れないようにと強く握っているのでした。


手を繋いでしばらく歩くとベンチへ到着し、キョンさんに、すぐ傍に立つ大きな木から
雨風に吹かれて落ちたであろう葉や小枝を払っていただいた後、腰を下ろしたわけですが
そこで私はあることに気付いて、思わず大きな声を出してしまいました。
「あっいけない!」
「こ、今度はなんだ?」
「キョンさんせっかく本屋さんへいらしたのに……」
自分のことに精一杯で、キョンさんの予定を崩してしまったのです。
どうして気が付かなかったのでしょう……ホントに私はドジですね。
ドジという言葉の語源には諸説があるのですが、もうそんなことはどうでもいいです……。
「申し訳ありません」
「そう気を落とすなよ、どうせ何も買う予定なかったんだ。
それより眼鏡はどうすんだ? 買わないといけないだろ?」
「使い古していたものはもう処分してしましたので……」
私がそう答えると、キョンさんはなにか考えているようで、やがて私にある提案をしました。
「今持ち合わせあるか?」
「ありません」
実は私は物を紛失することが多いので、必要最低限のお金を、
普段使っているものとは別の、少し小さなお財布に入れて外出するようにしていました。
「んじゃ一度高良の家までお金を取りに行って、それから眼鏡を買いに行こう」
「で、でも迷惑ですし」
「普段から高良には世話になってるんだ、今日ぐらい恩返しさせてくれ」
「キョンさん……」
キョンさんの優しさに思わず涙が出てきそうになりました。
少し大げさに思われるかもしれませんが、誰かに優しくしていただくと、
しかもそれが自分招いた失敗に対する手助けであれば尚更
嬉しさと申し訳なさの入り混じった気持ちになります。
人に無条件で、見返りを求めない無償の優しさを与えてくれる
さらにそれをごく自然に出来るキョンさんはとても素敵な方です。
キョンさんにそう伝えても、恐らく「そうか?」と首を捻られるでしょう。
過度の謙遜は時として嫌味に聞こえてしまうこともありますが、
決して驕ることの無いキョンさんは、そんな嫌味をまったく感じさせないお方です。
自分の為に親切にしてくれる方の好意を断っては、逆に失礼に当たりますよね。
「では、お言葉に甘えて……」
「そうと決まれば、さっそく行くぞ」
キョンさんはすっくと立ち上がり、私に握手を求めるように手を差し伸べました。
たったそれだけなのに、どうしてこんなに胸の鼓動が速くなるのでしょう。

自宅まではそれ遠くありません。
でもこの道のりを眼鏡を掛けずに一人で歩くことを考えると……。
偶然とはいえ、キョンさんにこうして来て頂いて本当に助かりました。
「しかしちょうど良かったな、タイミング的に」
「そうですね、でもこんなことにも付き合わせてしまって……」
「まぁ俺としてはこうやって手も繋げるし」
「え?」
「な、なんでもない!」
小さな声で何か仰ってたので、すぐに聞き返したところ、
途端にキョンさんは身体を震わせて、やけに慌てた様子でした。
一体何と仰ったのか気になりましたが、キョンさんはそれ以上何も言いません。
私もそれ以上尋ねませんでしたので、二人の間にしばし沈黙の時が流れました。
でもすぐに私の家が見えてきたことで、変に意識して気まずくなるようなことはありませんでした。
お家の前まで来たところでキョンさんは顔を上へ向けボーっと眺めています。
「どうしました?」
「いや、こんな立派な家に住んでる友達は高良ぐらいだと思ってな」
「そんな、立派だなんて……お褒め頂いて光栄です。
少し待っててくださいね、すぐ準備いたしますので」
キョンさんに玄関で待ってもらい、急いで靴を脱いでリビングへ向かいます。
そこでもキョンさんは、まるで別世界に迷い込んだように顔をして
靴箱の上に置かれた花瓶に刺さる花などを眺めておられました。
ここで生まれ育った私にとってそこまで珍しくはないのですが……。
リビングには、テーブルに両肘を付いて座り、お煎餅を咥えているお母さんの姿が見えました。
「あふぁ、おふぁえんあふぁい」
恐らく「あら、おかえりなさい」と言いたかったのでしょう。
このようなことはよくあるので、聞き取るのも慣れてしまいました。
「あの、実は……」
私が眼鏡を掛けていないことにまったく気が付かないお母さんに
かくかくしかじかと経緯を伝え、何とかお金を用意していただきました。
キョンさんにもお家にも迷惑を掛けてしまって……反省しないといけませんね。
その前にキョンさんにもう少しだけ迷惑を掛けてしまいますが。
「お待たせしました、行きましょう」

照明によって煌びやかに輝く店内は、清々しく目覚めた朝のように爽やかで
吊り下げ式のスピーカーから流れるクラシックが心地良い、とてもリラックスできる空間でした。
もっとも、今の私にはよく見えないのですが……。
壊れた眼鏡は長く使用していたものなので、こうやってお店に来るというのもしばらくぶりです。
「俺はショッピングセンターとかに構えてる店に面白半分で立ち寄ったくらいで、
こうやって眼鏡屋さんに入って真剣に見るのは初めてだな」
キョンさんはテーブルの上に沢山並んだ眼鏡のうち一つを手に取り、クルクルと回し見ています。
私も一つ一つ手に取って見てはいるのですが、色だけでも数種類、また形も多岐にわたり
同じようなテーブルがあと4つほど備え付けられていて
それぞれにもまた沢山の眼鏡が綺麗に列を成して並んでいます。
「良くも悪くも、選り取り見取りだな」
「これほど種類があると迷ってしまいますね」
今まで掛けていたものと同じような形のほうが良い気もしますし
逆にそれだと代わり映えしないとも言えますし……。
そんなことを顎に手を当てて考え込んでいる間に、キョンさんは殆どの眼鏡を見終わっており、
することがなくなってしまって少々手持ち無沙汰を感じているようでした。
私はどちらかというと優柔不断な性格なので、こういうときは困ってしまいます。
「……あっ」
「ん?」
こういう体に身につけるものを選ぶときには、自分を客観視することが大切だと思うんです。
他人の意見を参考にすることも良い手段だと言えるでしょう。
そして今、私の隣にはキョンさんが立っております。
「あの、お願いがあるのですが」
泉さんがよく仰っていた「困ったときの人頼みぃー」ですね。
私はキョンさんの耳元へ口を近づけ、そのお願いを囁きました。
「い、いいのか?」
「はい」
キョンさんは少し困った顔をされたようですが、すぐ納得してくれました。
そして小さく「わかった」と言って、またテーブルへと視線を落としたのです。
私は目を懸命に細めて、何とかその横顔を確認しようとしましたが、やはりよく見えませんでした。

「ではここに顔を乗せてください」
大きな装置の横に店員さんが立ち、私をその装置の前に座らせました。
巨大な双眼鏡とも見て取れそうな装置には、窪んだ形の顎当てが付いており
そこに顎を乗せた時に、ちょうどおでこの位置にも当たる箇所があります。
これによって顔が動かないように固定するわけですが、
その顎の当たる部分とおでこの当たる部分には、同じ大きさの薄い紙が何枚も重ねてついています。
これは恐らく沢山の人がそこに顔を乗せることを考慮して、
一人測定するごとに紙を一枚破っているのでしょう。
店員さんに言われるがまま顔を乗せますと、目前には覗き窓があります。
そこに映し出されるのは、牧場のような芝の中に走る一本の砂利道と
その道の先、雲ひとつ無い青空に浮かぶ大きな気球の写真です。
気球をジッと見つめていると、装置が音を発して、ぼやけたりはっきりと見えたりします。
この装置はレフラクトメーターと言いまして、目の奥の網膜に光標を映して
その結像の状態から近視や遠視、乱視の屈折の度合いを推測する為の装置です。
気球の写真は、正確な測定を実施するため、測定中に視線を固定するためにあり、
メーカーや機種によってはその写真が蝶々であったり田園風景であったりするそうです。
もちろん一般的な視力検査も行いました。
皆さんにも馴染みがあるかと思われますが、検査に用いられる
あの「C」のマークはランドルト環と呼ばれるもので、
フランスのエドマンド・ランドルト(Edmund Landolt)医師によって考案され、
1909年にイタリアの国際眼科学会で国際規格として制定されました。
円環全体の直径:円弧の幅:輪の開いている幅が5:1:1となっています。
国際眼科学会では、
『直径7.5mm・円弧の幅1.5mm・輪の開いている部分1.5mmの切れ目を200ルクスの明るさで
5mの距離から見分けられる視力を1.0』としています。
本来ならランドルト環はそのままの大きさで、距離を変えることによって測るのですが、
それだと時間が掛かってしまうので、ランドルト環自体の大きさを変えることで測定します。
だから視力表には大小様々なランドルト環が並んでいるんですね。
……っと、そんなこと聞いてませんでしたね。 つい悪い癖が出てしまいました。

その後もちょっとした検査を行いまして、無事新しい眼鏡を購入することが出来ました。
最近は眼鏡を作るのにもあまり長い時間を要することは無く、こうやって即日購入することができるのです。
「ありがとうございましたー」
店員さんの元気の良い声を背中で聞きながら店を後にします。
新しい眼鏡を掛けたことでやっとキョンさんの顔がよく見えるようになりました。
これで一安心なのですが、少し残念なことがありますね。
それは私の視界が鮮明になったことにより、キョンさんと手を繋――
「さ、行こうぜ」
「え?」
私の目の前にはまたキョンさんの手が差し伸べられています。
もしかして、もうその必要が無いことに、キョンさんは気付いていないのでしょうか。
「どうした?」
「いえ」
私より少し大きな手に自分の手を重ねます。
そして軽く握ると、キョンさんもそれに応えて握り返してくれました。
「行きましょうか」
私はもう手を取って歩かなくても平気だとキョンさんに話すつもりはありません。
……話したくないのです。
二人の手は今までそうしていたように、キッチリと握られていました。
もちろんその手を離すつもりはありません。
……離したくないのです。
日曜日の午後に、まるで恋人同士のように歩く私とキョンさん
今日はなんだかとても幸せな休日でした。



翌日
私の周りにはいつもと変わらず泉さんや、ツインテールのよく似合う柊かがみさん
かがみさんの双子の妹であるつかささんが居ます。
この中でいつもと変わっているのは私だけですね。
「みゆきさんイメチェン?」
「眼鏡が割れてしまったので、昨日新しく購入しました」
「今までのに見慣れてたから最初ゆきちゃんだって気付かなかったー」
「それはないでしょつかさ、でもやっぱりイメージ変わるわねぇ」
実は今朝、恥ずかしいという気持ちを隠して登校したのですが、
皆さんは私の顔を見るなり、このように予想通りの反応を示しておられました。
しかしただ一人だけ、私には予想しえなかった反応をする方がいらっしゃいました。
「見て見てダンチョー、みゆきさんイメチェンしたよー」
泉さんがそう呼ぶのは、SOS団団長という肩書きを持つ涼宮ハルヒさんです。
涼宮さんは泉さんに負けず劣らず個性的な方で、入学時の自己紹介で
担任の岡部先生を含めた、クラス中の人を唖然とさせたのは、この学校では有名です。
今ではキョンさんと一緒に創設したSOS団という、
「宇宙人や未来人・超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」
を目的としたクラブで様々な活動を行っています。
前の席であるキョンさんがまだ登校してませんでしたので、涼宮さんは外を眺めていましたが
泉さんの声に気付き、私を見るなりニンマリとした表情を浮かべました。
その笑顔を見ていると、なんだか嫌な予感がするのですが……
「みゆきー、これを機にメイド服なんて着てみない?」
「え? あ、あの……」
私は返答に困ってしまいました。
メイド服というと、この学校ではやはり、SOS団のマスコット的存在である
朝比奈みくるさんのメイド服姿が思い浮かびます。
SOS団の活動の拠点である旧文芸部室によく顔を出させていただいているのですが、
初めてお伺いした際にその姿を拝見したときには驚きました。
最近では「もう慣れました」と言っておられましたが、
最初に着せられたときはとても恥ずかしかったそうです。
もし私が着たとしても、ずっと着ていれば慣れてくるのでしょうか……?
泉さんは私が部室内で衣装を着用することに肯定なようで
「いや、むしろナースでしょ!」
「そうね、メイドだとみくるちゃんと被っちゃうし」
お二人で怪しく笑いあいながら嬉しそうにお話しています。
「ナース……」
私は自分の看護士姿を想像して、思わず赤面して俯いてしまいました。
それを見たかがみさんは「ちょっと二人とも!」と二人の会話を中断させようとしていますが
そんなことはお構いなく、泉さんと涼宮さんの計画は着々と進んでいるようでした。
つかささんはというと、皆の様子をただ目を丸くして眺めておりました。
「みゆきは確か医者になりたいんだったわよね?」
「そ、そうですが……」
「それじゃナース服で決定ね! 今日の放課後が楽しみだわ」
「止めんかハルヒ、嫌がってるだろ?」
少し眠そうな声でお二人を止めに入ったのは、登校してきたばかりのキョンさんでした。
右手で鞄を肩に担いで、左手を涼宮さんの肩に乗せています。
「げぇ、キョンキョン!」
「露骨に嫌そうな顔すんな」
と言いつつ露骨にめんどくさそうな顔をして、キョンさんは大きな欠伸を振りまき
自分の机の上に鞄を置くと、椅子を引いて腰を下ろしました。
「それはそうと見てよキョンキョン」
キョンさんが席に座るや否や、泉さんは私の後ろへ付いて、両肩に手を置きました。
「何か気付かない?」
「あ、そういえば何も言わなかったわね」
かがみさんは腕を組みながら私を見た後、答えを待つようにキョンさんの様子を伺っています。
当のキョンさんは私の顔を見ていましたが、やがて泉さんの顔に視線をずらすと「別に」と呟きました。
その答えに泉さんが「嘘だ!」と大きな声を出したので、私も身体を震わせ驚いてしまいました。
「眼鏡だよ眼鏡!」
泉さんは私の目元を指差して言います。
それを聞いたキョンさんは若干表情を変えました。
私以外には誰もその「しまった」といった表情には気が付かなかったようですね。
「あれ? あんまり驚かないね」
「そ、そんなことはないぞ? いやー驚いたなぁ」
「なんかワザとらしいわねぇ」
涼宮さんは首を傾げて、キョンさんに疑いの目を向けています。
それを受け、慌てた様子のキョンさんは誤魔化そうと必死です。
しかしその行動が逆に不自然さを強調しています。
そして必死になったキョンさんは私にとんでもないことを言ったのです。
「い、いつ……買ったんだ?」
「え?」
その瞬間私は時が止まってしまったのではないかと思いました。
それくらいキョンさんの口から出た言葉がショックだったんです。
「き、昨日です!」
「みゆきさん?」
「あ……いえ、その……」
いつ買ったかなんて、それをよく知ってるのは質問者であるキョンさんではないですか。
正直言って私はキョンさんに対して少し残念な気持ちを抱いてしまいました。
だって……昨日の事をそんなに必死になって隠さなくてもいいでしょう?
恐らくキョンさんは私と一緒に眼鏡を買いに行ったことが皆さんに、
その中でも特に涼宮さんにバレてしまうのを恐れているのでしょう。
からかわれるから? それとも勘違いされるのが嫌だから?
ただ話がややこしくなっては困るのでそうしただけなんだと思います。
もちろんキョンさんに悪気があったわけではない、というのも理解できるのです。
でも、この感情をどう説明したらいいのか分からないのですが、とにかく残念だったのです。
だから……
「まぁいいわ、それよりアンタも楽しみにしてなさい!」
「何を?」
「もちろんみゆきのナース服姿よ! アンタも見たいでしょ?」
「そりゃ見た……いけど。 でも嫌だよな? 高良」
そう尋ねられた時……
「いえ、眼鏡も新調したことですし、一度着てみます」
こうして普段の私なら絶対に口にしないようなことを言ったのでしょうか?
それは自分でもよく分かりません。
私がまさか承諾するとは思っていなかったのでしょう。
私の予期せぬ返答に、キョンさん・かがみさん、それからつかささんが驚き
涼宮さんと泉さんが喜び勇んでハイタッチをしています。
そんな皆さんの様子を尻目に、私はおもむろに眼鏡を外してよく見てみました。
手に持った真新しい眼鏡を見て私は思ったんです。
先ほどはついキョンさんに対しあんな気持ちを抱いてしまいましたが、
昨日の事は私とキョンさんだけの秘密、二人だけが知っている事実……ただそれだけ。
手を繋いだのは私の視界がぼやけていたからで、手を離したくなかったのも、
心臓の鼓動が速くなったのも、そうしてぼやけたままの世界をたった一人で歩くことが不安だったから。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけのことなのです。
ただそれだけ……それだけでいいのです。
もう一度眼鏡を掛けなおしますと、皆さんの顔が一斉に私を見ていました。
涼宮さんも、かがみさんも、つかささんも、泉さんも、キョンさんも
必死で何かを読み取ろうとしているように真剣な顔をして、私を黙って見つめています。
「どうしました? 私のイメージ、そんなに変わりましたか?」
私がニッコリ微笑んでそう言うと、皆さんは余計混乱したような顔になりました。
その反応が、質問に対する答えをそのまま表しているようでした。

キョンさんの選んでくれたプラスチックフレームの眼鏡はピンク色で
私の生まれつき少し癖のある髪の毛と同じ色をしています。
この眼鏡によって、私の「高良みゆき」という名の絵画は新しく塗り替えられたのでした。


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「やややっぱり恥ずかしいですね」
「イヤイヤ、みゆきさんGJ! 萌えの化身だね」
「ゆきちゃんホントの看護婦さんみたーい」
「流石みゆきね、似合うじゃない」
「………」
「仲間が増えてよかったぁ」
「キョン、古泉君! 入っていいわよー」

ガチャ……

「ど、どうですか?」
「とても似合ってますよ、高良さん」
「……恐縮です」
「それにしてもピンク一色だな」
「チガウチガウ、下着はねぇ……」
「い、泉さん!」
「赤白水色黒ピンク、縞々イチゴにクマパンダ……さてどれでしょう?」
「ん~と」
「悩んじゃダメです! 想像しちゃダメです!」
「正解は……」
「長門さんも! 言っちゃダメです!」

「ちなみにみくるちゃんはし――」
「す、涼宮さん! だめぇぇぇ!」






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最終更新:2008年09月28日 18:19
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