涼宮ハルヒの代役/月曜日
だんだんと肌寒い季節になってきた。
そろそろ学校指定のコートを買わんといけないな、なんてことを考えながら、俺は自分のターンが回ってくるのを待っていた。
将棋盤を挟んで、俺の向かいに座っている男は、左手をあごに沿えてなにやら考え込んでいる。
なあ古泉、正式な将棋ならそれだけ長考するのもわかる。しかし今、俺たちがやっているのは将棋崩しだろう。このゲームのどこに、そんな高度な戦略性があるんだ。さっさと取れそうなやつから取ってくれないか。
「いやあ、この傾きかけた香車を立ててから運搬すべきか、はたまたこの三枚重なった歩兵を一気に獲得すべきか、そこが悩みどころで…」
知るか。
うんざりしかけた俺は、もう一度外を眺めた。
いつものように長門は窓のそばの椅子に掛け、なにやら恐ろしく分厚いハードカバーを読んでいる。
そんな長戸に対して、ハルヒはさっきから頻繁にちょっかいを出している。
普通の人間ならば、読書中にこれだけ話しかけられたら、キレるか読むのをやめるかするだろうが、長門はハルヒの執拗な「どうでもいい話題攻撃」に耐えて読書を続行している。
まあ、この二人に常人並みの反応を期待しても無益なことだ。
この部屋に集まるいつものメンバーは五名、今はそのうち四名がいる。微妙なゆるさに支配されたこの空間で、俺は残る一人の到着を心待ちにしていた。
「申し訳ありません皆さん。委員会が長引いてしまいまして…」
やっと来たよ、心のオアシスが。
「待ってましたみゆきちゃん、ささ、着替えて着替えて。男子は外に出る!」
突然テンションの上がったハルヒに促され、俺と古泉はいったん部屋を退出した。
「お待ちかねの方がいらっしゃいましたね、キョン君」
古泉がいつものにやけた表情でこちらを見た。
何とでも言え。この異常きわまる同好会において、彼女だけが俺の滋養強壮剤だ。
「あの、ひゃっ、涼宮さん、自分で脱げますから、あのっ」
ハルヒの奴、明らかに彼女に卑猥な発言をさせて楽しんでやがるな。俺も混ぜろ。
いやまあ、女同士だから許される行為であって、男がやったら逮捕モノであることは理解してるが。
「はーい、もう入っていいわよ」
その許可と同時に、俺はすばやく振り向いてドアを開ける。
そこにはいつものように―いっさいの拒否権無く強制的に―メイド服に着替えさせられたみゆきがいた。
これだよこれ。
「とりあえず、お茶をお淹れしますね」
いやが応もない。急須に茶漉しをセットしてポットに向かう彼女の後ろ姿を、俺は心ゆくまで鑑賞した。
わがSOS団の誇る随一の萌え要員、高良みゆき。
容姿端麗・成績優秀・品行方正、おまけにけしからん乳と非の打ち所のない女性だ。
一部では、変人ハルヒに服従を強いられている哀れなペット、などとの噂もあるが…おおむねそれは真実だ。
しかし彼女には、ごく一部の人間しか知らない重大な秘密がある。
「どうぞ、キョンさん。熱いのでお気をつけてください」
優雅な動作で、湯呑みを目の前に置いてくれた。いつも気を遣わせて悪いね。
ん? なにやら俺に目配せをしている。
彼女はそっと、俺の湯飲みを指さした。よく見ると、湯飲みの底に小さなメモが挟んである。
ああ、ハルヒにばれないように、後で読めってことか。
お茶を飲むとき、同時にメモをそっと手のひらに忍ばせた。大丈夫、ハルヒはこっちを向いていない。
ついでに古泉の様子も伺う。その視線に気づいたのか、奴はちらりと手のひらを返して見せた。
どうやら、こいつも俺と同様のメモを受け取っていたようだ。つまりこれは、俺個人あての用件ではないってことか。
なんとなく予想はついていたが、残念だぜ。
再度ハルヒの状況を確認。よし、あいつは何も気がついていない。こっそりとメモを開く。
『重要な報告があります。活動終了後、長門さんのお宅へ集まりましょう』
午後7時、すでにあたりは真っ暗だ。俺はいったん帰宅したあと、長門の住むマンションへ向かった。
「どうぞ…」
チャイムを鳴らそうと俺がドアの前に立った時、向こうからドアが開けられた。
こいつ、壁の向こうでも見えるのか? というか、長門ならそのくらいはできるのか。
すでに古泉とみゆきは来ていた。当然ながら、ハルヒはこの秘密会議には不参加である。
「それでみゆきさん、重要な話ってのは?」
さっそく用件を切り出すことにする。普通に家族と暮らしている俺は、あまり長居できない。
それにこいつらも、SOS団の活動以外で長々と顔を突き合わせるのは気詰まりだろう。
「すでにお二方にはお話したのですが、私の所属する組織から緊急の連絡がありました」
彼女の組織、それはタイムパトロールだ。
はるか未来の人間であるみゆきは、ハルヒの持つ強大な特殊能力を監視するべく現代へやって来たのだ。
まあ、この話の読者にとって、そんなことは常識中の常識であろうから、その件についての詳しい説明は省く。
「ハルヒの奴、今度は何をやらかしたんだ」
「それが、まだ不明なのです」
申し訳なさそうにして、みゆきは答えた。
「不明ってことは、これからなにか起きるのか」
「いえ、すでに一部は始まっています。ですが、それが何なのかが不明なんです」
俺は無言で軽くうなずき、話の続きを促した。
「これから数日の間に、断続的な歴史改変が発生します。すでに、この世界の歴史の一部は書き換えられてしまっています」
「歴史が変わるって、具体的にはどんな風に」
俺がここ半年ほどの間に知ったハルヒの力なら、地球の歴史ぐらい簡単に変えられるだろう。
だが、それがどんな変化なのはわからないのでは、対策のしようがない。
「それが、わからないのです。少なくとも、この時空連続体の中にいる私たちには意識できません」
はあ、時空連続体ねえ。いきなりそんな専門用語を出されても、純然たる現代人の俺には理解しきれないんですが。
「あ、申し訳ありません、説明が不足していたようですね。では、コホン」
やばい、この人のいつもの悪い癖が始まる。
「時間、というものはそれ自体がひとつの次元です。私たちが存在しているのは三次元空間ですが、理解を容易にするために次元をひとつ落として、世界が完全に平面状の二次元空間であると仮定しましょう。
この時空における一つ一つの瞬間は、時間軸に対して厚さがゼロの二次元平面に収まります、ですからこれを時間平面と呼びます。
時の流れとは、この時間平面が無限に積み重なって立体を構成するようなものです。これを時空連続体と呼びます」
長い、説明長いよみゆきさん、手加減なしですか。
彼女がこのモードに入ってしまったら、そう簡単に話をやめてはくれない。半分理解を諦めながら聞くことにした。
「たとえば、ある時間平面以降に歴史の改変があった場合、私のように複数の時間平面を移動できる存在であれば、過去もしくは未来の歴史に異常があったことを感知できます。
しかし今回の歴史改変は特定の時間平面に留まっていません。過去と未来をつなぐ時間軸そのものが、これまでとは違う状態に変異しつつあるのです。
そのため、改変の影響が時空連続体の全体に及んでしまい、その中にいる者にとっては、どれが元の歴史でどれが改変された歴史なのか、区別することは不可能となります」
みゆきの高速マシンガントーク授業を聞きながら、俺はこの状況になんとなく違和感を感じていた。
この人って、こんなに理路整然と話ができる性格だっけか。
彼女の解説好きな性格は、学年内でもわりと有名だったりする。歩く百科事典、みwikipediaの異名を持つ女だ。
しかし、なんというかこう、俺の知ってる『未来人』はもっと頼りない性格だったような気がする。なぜだろう。
「高良さん、そろそろ勘弁してあげてはどうでしょう、キョン君はダウン寸前のようですよ」
古泉の言葉で、みゆきははっとわれに帰ったようだ。助かった古泉。おまえに感謝したのはこれが初めてかもしれん。
「すみません。つい、調子に乗ってしまって…」
ぺこぺこと謝るみゆき。このギャップもいわゆる萌え要素って奴なのか。
「理解はできた?」
ここまで黙っていた長戸に尋ねられた。自分の理解力をひとに心配されるってのは、けっこう屈辱だ。
「ええと、間違った理解をしてるかも知れんが」
そう前置きしてから話を続ける。
「今起きてる歴史の改変とかいうのは、過去も未来も巻き込んじまうほどの規模だから、未来人でもどう歴史が変わったかはわからん、というわけか」
長門はわずかにうなずいた。よかった、俺の理解力もそう捨てたもんじゃないらしい。
だがひとつ分からない点がある。未来人には知覚不能でも、宇宙人にはどうだ。長戸にきいてみる。
「おまえの親玉にも、この改変は分からないのか」
「情報統合思念体は、時間平面を貫く超立体的トポロジを有するが、あくまで固有時空連続体の内部に縛られた存在…」
だから専門用語を前置きなしに使うのはやめてくれないか。いや、おまえにみゆきレベルの前置きをされても、それはそれで困るが。
「だから今回のように、時間軸そのものがシフトするタイプの歴史改変は、詳細な解析が困難。検知だけなら容易だけど」
「つまり、ちょっとは分かるがよくは分からん、と」
再び長門は軽くうなずく。
「その理解は妥当」
ふう、と俺はため息をついた。なんだか脳が疲れる会話だ。
「で、俺たちはどう動けばいいんだ。この二人でもよく分からないんじゃあ、正直お手上げって気もするが」
そう言われると、みゆきはうつむいてしまった。別にあんたを責めているわけではないんだけどな。
「申し訳ありません、お役に立てなくて。私、何の戦力にもなれないのに…」
俺の何気ない一言が、なにやら彼女の重圧になってしまったようだ。いかん、何かフォローをしなくては。
「そんなことはありませんよ、高良さん。あなたの機転には、これまで何度も助けられました」
古泉め、女性を慰めるときだけは素早いな。
「高良みゆきの情報解析能力は、人類の平均値を大幅に上回っている。十分な戦力と期待できる」
「光栄です。古泉さん、長門さん」
二人の励ましを受けて、みゆきは立ち直ったようだ。俺は蚊帳の外か?
この光景を見て、またもや俺は不思議な違和感を感じた。
そもそも、なにか異常事態が起きたときに、長門と古泉以外を戦力に数えるのはおかしくないか。そんな気がするのだ。
そんなことはない、みゆきはいつも的確な助言で俺たちを救ってくれた。そう俺の知識は告げている。だけど何か、何かが本当の世界とは食い違っている気がしてならない。
これも歴史の改変とやらの影響なんだろうか。
涼宮ハルヒの代役/火曜日
朝、健全な学生なら登校している時間だ。もちろん俺もその範疇に入る。
今日は遅刻ぎりぎりだったが、何とか間に合った。教室に入り自分の席に着く。
俺の後ろの席、おそらく今回の異変とやらの元凶たる人物は、机に突っ伏してうたたねをしていた。
「そろそろホームルームだぞ。おーい、ハルヒー」
正直このまま寝かせておきたいところだが、担任が来る前に起こさないと、それはそれで厄介なことになる。
「あー…おはよ、キョン。おやすみ」
起きてすぐ寝るなって。いつもは無駄に元気なおまえが、今日は一体どうした。
「なんかだるいのよねー、最近。へんな夢も見るし」
知らん、というかおまえはあまり夢など見ないほうが、世界の平和のためになる。
などと思っていると突然、ハルヒはむくりと起き上がった。
「あ、今日こっちは? 遅刻?」
こっち、と言いながら、ハルヒは俺の前の席を指差した。その席は、今は空席になっている。
「ん、どうだろ。こいつが遅刻なんて珍しいな。いつも…」
そう話している途中で、教室の前のドアが開き担任が入ってきた。
起立、と号令がかかる。俺たちは会話を切り上げ、席を立った。
礼、着席。
「では朝のホームルームを始める。週番は誰だ。ああ、今日は柊が遅刻する。3時間目から来るそうだ」
1時間目、そして2時間目も何事もなく過ぎ去った。その休み時間。
「おっす、おはよう。って言うほど早くもないけど」
地味な色あいのリボンとツインテールがトレードマーク。柊かがみが登校してきた。
「おはよう、って言う権利があるのは、ちゃんと朝から来た生徒だけよ。あんたの場合は『おそよう』じゃない」
そんなに柊を挑発するな、ハルヒ。おまえらがマジで言い争いを始めるようなら、悪いが俺は逃げるぞ。
「むむむ… ちょっとバイトが立て込んでね」
不満げにそうつぶやく柊。っておい、おまえの仕事はこいつに秘密だろ。
「バイト? あんたアルバイトなんてやってたんだ。初耳だけど」
ほらハルヒが食いついてきた。柊はあわてて言い訳する。
「いや、バイトっていうか、ほとんどお金にはならない仕事なのよ。どっちかっていうと、ボランティアなんだけど」
「はあ、ボランティアねー。ゴミ拾いとかやってるの?」
お金にならないと聞いて、ハルヒは急激にこの話題への興味を失ったようだ。こういうのを現金な奴っていうのか。
「まあ近い、かな。ゴミ拾いみたいなものよ」
何とか話題をそらすことに成功し、柊はほっとしたようだ。ハルヒは頭の後ろで手を組み、椅子の背もたれに寄りかかった。
「ふうん。でもそんなの、清掃業者とかに任せておけばいいんじゃないの」
あ、この一言はまずい。
柊は、ハルヒから見えないところでこぶしを握り締め、ぶるぶると震わせている。そしてこうつぶやいた。
「誰のせいだと思ってんの…」
3・4時間目も終了、そして待望の昼休み。
ハルヒは4時間目が終わるとすぐに、昼食を持って教室を出て行った。隣のクラスのみゆきにちょっかいを出しにでも行ったのだろう。
俺は柊と二人、しばし無言で飯を食っている。
こいつに対して、とりわけ特別な感情を持っているつもりはないが、それでも男女が二人きりで飯を食うというのは気恥ずかしいものだ。
「しかしいつも時間厳守のおまえが遅刻とは。例のバイト、そんなに長引いたのか」
ぴたりと彼女の箸が止まる。
「まあ、ね。今回はちょっとした異常事態だったから。機関のメンバーに重傷者も出ちゃったし」
柊の所属する機関、それはエスパー地球防衛隊である。
ハルヒの妄想から生まれた異世界『閉鎖空間』に突入し、巨大怪人と戦う女子高生エスパー、それが柊かがみの正体なのだ。
これがラノベかなんかの話なら、どうにも馬鹿馬鹿しい設定だと笑い飛ばしてやるところだが、事実だから恐ろしい。
「異常事態ね。超能力者なんてものが実在してる時点で、十分に異常事態だと思うが」
そう聞いて、彼女は明らかに不機嫌な表情になった。ちょっと言い過ぎたか。
「なりたくてなったわけじゃない、私だって」
「う、すまん。でその異常ってのは」
柊は再び弁当を食べ始めた。その合間合間に説明してくれる。
「神人がね、二体同時に現れたのよ。それだけなら今までにもあったことなんだけど…」
閉鎖空間に現れる青い巨人、神人。俺も今までに二度ほど見たことがある。
「今回はね、赤い神人が出てきたのよ。あんなの初めて。機関の誰も知らないタイプ」
「赤い神人? 二体出てきたってことは、通常の青いのと、その赤いのと両方か」
柊は無言でうなずいた。ああ、口がふさがってたらそりゃ話せないよな。食うかしゃべるか、どっちかにしないか。
「ん。でね、そいつらがお互いにケンカを始めたの。あれは戦いってレベルじゃないわね。ほとんど子供のケンカ」
咀嚼を終えて、飯を飲み込んでからそう話す。
おーい、唇の端にスクランブルエッグの切れ端がついてるぞ。ダメだ、ぜんぜん気づいてない。
俺は手を伸ばし、その欠片を取ってやった。柊は驚いた目で俺を見る。
さて、人差し指の先についた、この3ミリほどの黄色い塊をどうしよう。
指をぴんと弾いてその辺に飛ばしてしまうのは簡単だが、それはなんだかこいつに悪い気がする。
かといって、これを柊に差し出して「食うか?」などと聞いたら、完全に嫌がらせだ。
第一、小さな欠片とはいえ、食料に変わりはない。せめて人間様の栄養にしてやるのがニワトリさんへの慈悲というものだろう、うん。
そう考え、俺はこの極小卵焼きを食った。このサイズでは味などよく分からんな。
これを見て柊は、はうっと奇声を上げて深くうつむいてしまった、机の下に潜り込まんばかりに。
「や、や、やっぱり、昨日の、昨日のみゆきの話と、関係あるのかな。その、この現象って」
彼女は激しく口ごもりながらも、話を元に戻そうとした。
なんだ、食べかすを取ってやったくらいでこんなに反応されても困るな。
「みゆきさんの話っていうと、あれか、歴史の改変がどうこうっていう」
こくこくと首を縦に振り、柊は弁当に蓋をした。まだ残ってるぞ、もう食わんのか。
「青い神人は、ハルヒの暴力衝動のシンボル。でも赤いほうってなんだろ。昨日みゆきが言った通り、歴史が変なほうに変わろうとしているなら、あれは新しい歴史から来た奴なのかな。よく分かんないけど」
俺は思った、この話は明らかに変だぞと。話の内容ではなくてそれ以前に、なぜこいつが昨日のことを知っている。
「あれ、おまえいたっけ、昨日」
つい思ったことを口に出してしまった。この性格は俺の欠点かな。
「は、え。あたしいたじゃない。長門んちに、みゆきと、あんたと」
柊は顔を真っ赤にして怒り出した。しかしなあ、あのシーンにおまえがいた印象がないぞ。
「みゆきの話をあんたが理解しきれなくて、助けてあげたのは誰よ。忘れたっての」
えーと、そういえばそうだったような。まて、よく考えろ。
校内きっての奇人、涼宮ハルヒによって結成された目的不明の同好会、SOS団。
その団員は現在五名。ハルヒ、俺、長門、みゆき、そしてこの柊だ。
昨夜の秘密会議には、ハルヒ本人を除く全員が参加していた。間違いない。ということは当然、柊もその中にいたわけだ、論理的に考えて。
「どうかした? 今のが、なにかの手がかり?」
俺が考え込んだ様子を見て、やや怒りがおさまったらしい柊がそう尋ねる。
「いや、まだはっきりとは。ただ、昨日も感じたんだが、なんというか違和感があるんだ。この世界、というかおまえらに」
は?とでも言いたげな柊。彼女がしゃべりだすのをさえぎって、話を続ける。
「理屈で言うなら、おまえは間違いなくあの場にいた。だが俺には、そんな気がしないんだ」
「じゃあほかに誰がいたって言うのよ、ただの思い違いでしょう」
そんな恨めしげな顔で言うな。別におまえにいて欲しくないと言ってるわけじゃないんだから。
「歴史が変わった場合、俺たちの記憶まで変わっちまうんだろ。もしかすると昨日の時点の歴史では、柊はあの場にいなかったのかも。だが今日の時点で…」
ここまで聞いて、柊ははっとした表情になった。話の筋を理解したか。
「今日の時点では歴史が変わった。そのせいで、昨日あたしも参加していたことになった、って言いたいのね」
「分からん、単に俺の憶測、かつ主観に過ぎん」
俺たちの間に沈黙が流れた。自分で言い出しておいてなんだが、今の記憶がまるで当てにならないってのは不気味きわまりない。
そのとき、どすどすと足音を立てて俺たちに近づいて来る人物がいた。
「あんたたち、なーに無言で見つめ合ってんのよ。まさか、にらめっこしてましたなんて言わないでしょうね」
来やがったよ、場の空気をことごとく破壊する女、エアブレイカー・ハルヒが。
「はっ、ハルヒ。別に見つめ合ってなんか…」
「はいはいそうですね、ただ二人して向かい合って、こうやって」
ハルヒは俺の机に両肘を乗せ、両手をあごの下で組み、やや首をかしげて俺を見つめた。
「バカキョンの馬鹿面を、じっくり拝んでいらしただけよね」
「う、う、う…」
頼むおまえら、本気でやめてくれ。クラス全員がこっち見てるじゃないか。これは俺に対する何の刑罰だ。
「ブレイク、ブレイク。両者離れて」
やむなく二人の間に割って入る。俺にキャットファイト観戦の趣味はない。
柊は怒り心頭といった顔で教室を出て行った。入り口から様子を伺っていたみゆきが、心配そうについていく。
ハルヒはその後姿を、してやったりといった顔で見送っていた。こいつは人を怒らせる技術にかけては天才的だな。
午後の授業中も、柊は相変わらずぴりぴりしていた。むべなるかな。
いっぽうのハルヒは…また寝てるよ。朝も眠たそうにしてたし、どれだけ寝不足だったんだ。
ふと、朝のこいつとの会話を思い出した。たしか変な夢を見てだるい、とか言っていたな。
柊の話も総合すると、その変な夢とやらは「赤い神人」と戦った夢だったんだろう。
寝ながらでも世界を危機におとしいれることができるのが、こいつの能力のたちの悪いところだ。
そして放課後。ホームルーム終了と同時にパッチリと覚醒したハルヒは、またもや教室を駆け出して隣のクラスへ行った。
みゆきも、ハルヒに妙に気に入られて災難だな。俺に人のことは言えんが。
柊は、俺のよく知らない女子たちと談笑中。とりあえず機嫌は直ったようだ。
特にほかに用事もない俺は、荷物をまとめてからSOS団室へ向かうことにした。顔を出すのが遅れて、またハルヒにつまらん詮索をされても面倒だ。
団室のドアをがらりと開ける。開けるのに遠慮する必要はない…いやちょっとは遠慮するべきだった。
そのときちょうど、ハルヒがみゆきの制服を剥いている途中だった。
「ひゃああ」
このシチュエーションは何度目だ。
「出てけっ!」
やっちまった。俺はすぐ視線をそらしてドアを閉めた。「ごゆっくり」ぐらいは言うべきだったかな。
しかしあれだ、彼女のナイスバディはいつ見ても素晴らしい、まさに眼福。
いやいや、俺は別に今のが見たくて開けてしまったわけではない。これは不可抗力だ、うむ。
彼女の半裸体、ほくろひとつ見当たらない柔らかそうな肌、これが見られただけで、今日はもう帰っていいかという気分になる。
というか正直もう帰りたい。
みゆきが着替え終わって入室の許可を得ても、今のアクシデントのせいで微妙な空気になりそうだし…
「どうかしたの、キョン」
妄想中に突然声を掛けられ、俺はびくっとして振り向いた。柊と、長門か。おまえら人の後ろに立つときは、もう少し気配を感じさせてくれ。
「あ、ああ、今はまだ入室禁止だ」
正確には、入室禁止は俺だけなのだろうが、女子四人が集う部屋の前で一人だけぽつんと待ってるのは寂しすぎる。
「そう。なら今のうち手短かに」
ん、何か用があるのか、長門。
「閉鎖空間での出来事は聞いた。それについて、私なりの仮説」
おお、そうだな。超常現象の原因を究明するなんて無理難題は、こいつに任すのが適切だ。
「あの空間に存在するすべての物は、通常の意味での物質ではない。涼宮ハルヒの願望実現能力によって生成された、情報連結体」
手短かにと言いつつも、やっぱり話に前置きがあるんだな。俺の理解力を心配してのことか。
「神人の持つ『色』の違いは、単に外観上の体色の違いなどではない。神人を発生させた存在の持つ、パーソナリティーの違いを意味していると推測できる」
なるほど、よくわからんがなるほど。で、結局何を言いたいんだ、長門。
柊は驚いたような表情をしている。おまえはこの話についてこれてるのか。
「てことは、赤いほうの神人を生み出したのはハルヒじゃないってこと?」
柊の質問に、長門はいつもの無表情で答えた。
「可能性はある。涼宮ハルヒのほかにも物理法則を改変できる能力者が存在し、この世界に干渉している。そういう仮説が成り立つ」
これを聞いて柊は眉をしかめた。たぶん俺も似たような表情になってるだろう。
冗談きついぜ。あんなのがもう一人いたら、この世はどうなっちまうんだ。
「おまたせっ、キョン。もう入っていい…なんだ、みんな揃ってるんじゃないの」
ドアを開け、部屋から半分身を乗り出したハルヒが、俺たちを手招きする。
はあ、いつも楽しみにしているみゆきのメイド姿だが、今日ばかりはそれを見てもあまり心が晴れそうにない。
涼宮ハルヒの代役/水曜日
朝、健全な学生なら登校している時間だ。ってこの出だしはもうやったな。
昨日は遅刻ぎりぎりだったので、今日はやや早めに学校につくようにした。
席について、今日の分の教科書などを用意しているうちに、かがみが登校してきた。
彼女と軽く挨拶を交わす。本当は、ここ数日のうちに発生しているらしい異変について、もう少し突っ込んだ話を聞きたいところなのだが、ほかのクラスメートもいる前で、朝からいきなり歴史の改変がどうこうなどと話すわけにもいくまい。
「何か新しい事とか、分かんなかったか」
とりあえずはこう聞くに留めておく。
「悪いけど、私には何も。ただ…」
ただ、なんだ。
「んー。本人から直接聞いたほうがいいかもね、あとで」
こいつが何を言いたいのかはよく分からんが、現段階で、昨日感じたような謎の違和感はない。今日のかがみに関して、大幅な設定変更はなさそうだ。
やがて、ホームルーム開始ぎりぎりにハルヒが来た。
今日のこいつは、昨日にも増して眠たそうだった。担任が朝の連絡事項を話している間、ずっとうつむいていた。
「キョン君、ハルちゃん、おはよー」
1時間目の前の休み時間、かがみの双子の妹、つかさが教室に入ってきた。
隣のクラスだってのに、わざわざこの挨拶のためだけに来たのか。まあ、こいつはいつもかがみに頼り切ってるから仕方ないか。
「はれ? ハルちゃんどうしたの。寝不足?」
なんというか、こいつの挙動からはいつも実年齢より幼い印象を受けるんだよな。そういうのがいいって男は結構多いんだろうけど。
「ああ、つかさ。ふう…おはよ」
やる気ゼロの口調でハルヒは返答した。おまえ、自分を心配してくれてる相手に対してそれはないだろ。ただでさえ少ない友人をさらになくすぞ。
かがみは、やや心配げな態度でハルヒに話しかける。
「あんた、あれ?」
その発言だけじゃ、なんのことだか意味不明だぞ。つかさも困惑顔だ。
「あれって、えーと、あの、あれだよね」
つかさが少し恥ずかしそうにそう言うと、ハルヒはつかさをじろりと睨んだ。つかさは思わず縮こまってしまう。
「うう、ごめんねハルちゃん」
こいつらは、なぜこんな指示代名詞ばかりのセリフで会話が通じるんだ。
なんの話だ、と聞くと、ハルヒのやつは返答の代わりに俺の椅子の底を蹴っ飛ばしてきた。なにしやがる、悪いことでも言ったか俺。
「今日は1時間目から体育よね」
ハルヒのほうを見たたまま、かがみがそう言う。おっと忘れるところだった。さっさと着替えないと。
俺は更衣室に向かうべく、教室を出た。するとつかさが俺の後についてくる。
「今のはちょっとデリカシーないよ、キョン君」
つかささん、もしかしてなんか怒っていらっしゃる?
「キョン君がそんなだから、お姉ちゃんが忙しくなるんだよ。自覚しないと」
すまんがつかさ、なぜ俺が叱られないといけないのか、理解に苦しむぞ。
といっても、こいつの話が要領を得ないのは今に始まったことではない。軽く聞き流すことにする。
「あ、そうだキョン君、忘れるとこだった」
今度はどうした。
「あのね、あとでちょっとお話があるんだけど。お昼休みになったらすぐにね、SOS団室に来てくれないかな」
こいつがあんなとこで俺に何の用だ。よく分からんが、とりあえずはうなずいておく。つかさは自分のクラスに戻っていった。
どんな用件か問いただそうかとも思ったが、今はあまり時間がない。遅刻したらグラウンド何周分か追加されてしまう。
まあつかさの話とやらは、昼になってから聞こう。速攻でジャージに着替えて校庭にダッシュ。何とか間に合うか。
体育ってのは、ほかの授業に比べて退屈せずにすむ分まだましだな。しかし体を動かしたあとはどうしたって眠くなる。
3時間目の授業中には、ちょうど俺の意識が飛んだ瞬間に問題を当てられてしまい、どの問題だか分からずに往生した。
畜生、何で今日は俺ばかり怒られるかな。俺の後ろの奴だって、授業中ほとんど下向いてたじゃねえか。
そして、ハルヒの傍若無人ぶりはそれだけに留まらなかった。その後の休み時間、あいつは体調不良とかで保健室に行ったっきり帰ってこなかった。
ずいぶんといい身分だな。それとも本当に具合が悪かったのか?
まあいい、やっと昼休みなんだ。あいつのいない教室で俺はのんびりと弁当を広げた。さあ食うか、いただきます、っと。
…なんか忘れてる気が。
ああ、つかさと約束があったんだ。確か、昼休みになったらすぐ来いとか言ってた。
食う気満々で出した弁当箱には名残惜しいが、あんまり待たせるのも悪い。何の相談かは知らんが、ちゃっちゃと聞いてやろう。
「わりい、待たせた」
元文芸部室、現SOS団室前まで来た俺は、そういいながらドアを引く。つかさは、窓際に置かれた椅子に掛けて眠り込んでいた。
おーい、つかさー。だめだ、目覚める気配がない。仕方なしに彼女の頬を二度ほど軽くたたく。
その瞬間、つかさはびくりとして跳ね起きた。
「ふわ、お兄ちゃん」
なんだその寝言は。おまえにいるのは姉だけだろ。俺にはそう呼ばれて喜ぶ趣味もないぞ。
「え、あ、えへへ。キョン君遅いよ」
確かに俺は5分ほど遅刻した。しかしそんな短時間でよくマジ寝できるものだ、こいつは女のび太か。
「あらたまって話って何だ。あまり重要なことでなければ、手短かに頼む」
俺は今、ちょっと厄介な問題を抱えてしまっているんだ。おまえの話には付き合い切れないかも知れんぞ。
「もちろん重要だよ。あのね、だいたいの性質が分かったの、今回の歴史改変の」
歴史改変。この言葉をつかさから聞いた瞬間、俺はまた例の違和感に襲われた。くそ、今日のはとりわけ強烈だ、思考がまとまらない。
「ん? キョン君、続き話してもいい?」
俺は手のひらをつかさに向けて、彼女が話すのを制止した。待て、頭を整理させてくれ。
ついさっきまで俺は、つかさの用件なんて大したことのない相談だろうと決め付けていた。
なぜそんな風に思い込んでいたのか…そうだ、俺はこいつのことを、単に『かがみの妹』としか認識していなかった。
違う、そんなものじゃない。こいつは俺の今までの知り合いの中でも、ぶっちぎりで非常識な存在。
「つかさ、おまえは宇宙人、だよな」
宇宙のかなたに住む精神生命体によって作られた、地球人接触用アンドロイド、それがつかさだ。
現在はかがみの妹を名乗ってこの学校に潜伏中。活動目的はかがみやみゆきと同じ、ハルヒの持つ能力の監視。
「うん、宇宙人…みたいなものだけど。どうしたの、そんなのいまさら」
まずは、昨日から感じ続けていた違和感について、こいつにも説明しないと。
「あのな、急にこんなことを言われても理解できないだろうけど。おまえが人間じゃないなんて、俺には思えないんだ」
つかさは不思議そうにしている。マンガだったら頭の上に疑問符が浮かんでる所だな。
「これは、かがみやみゆきさんについても感じたことなんだが…変な話になるけど聞いてくれ。おまえらは、本当のおまえらとは別人、例えるなら、代役かなんかじゃないのか」
そう聞いて、つかさは驚いた表情になる。まあこんな妄言をいきなり信じろというほうが無理か。
「すごい、すごいよ、さすがキョン君。そこまで気がついてたの」
へ、その反応は何だ。まさか、この言ってみただけの憶測が当たってるのか。
「よかったあ。私にもね、カミサマからおんなじようなお告げがあったの。でもどう説明したらいいか困っちゃってて」
こいつの言ってる『神』とは、情報統合思念体って奴のことか。
「ええとね、うまく伝えられないかもしれないけど、聞いてくれる? 私が今知ってること」
聞かない理由はない、俺はうなずいた。
「昨日話したよね、お姉ちゃんが見た赤い神人は、ハルちゃんじゃない人が作ったんじゃないかって」
その話なら昨日聞いた覚えがあるが、俺にそれを伝えたのはこいつだったか? いや、今はこの違和感については後回しだ。
「それで、うう。何から言えばいいかな」
ちゃんと聞いてやるから落ち着け。
「あれはおとといだっけ、ゆきちゃんがキョン君に話してたよね、時空連続体について」
「ああ。この世界の中に縛られてる俺たちには、歴史が変わってしまってもそうとは分からない。だよな」
つかさはこくこくとうなずく。
「もうひとつ。私のカミサマにも、ゆきちゃんたちにも、この世界の外側のことは何も分からないし、何もできない。でもね、世界の壁でも超えられる力が、ひとつだけあるの」
その力が何なのか、俺でも大体予想はつく。
「ハルちゃんの、願いを叶える力。ハルちゃんが本気で、たとえば別の世界に行きたいと思ったら、きっとこの世界からはハルちゃんがいなくなって、代わりに別の世界に現れるはず。あ、たとえばだよ、今のは」
「あいつに関しては、もう何があろうと驚かんぞ。で、その話と赤い神人の関係は」
そう聞くと、つかさは少し口を尖らせた。
「それいま言おうと思ってたのに」
いちいち反応が幼児的な奴だ。天の神様とやらは、どういうつもりでこいつをこんな性格に設定したんだ。
「今回はね、今の例えの逆パターンじゃないかなって。つまり、別の世界にもハルちゃんみたいな力のある人がいて、その世界の人たちが、この世界の人たちと入れ替わってるみたいなの」
つまりあれか、今回の異変はハルヒの仕業ではなく、異世界人の侵略活動だとでも言うのか。そんな話は突飛すぎるだろう。
しかし今の俺には、つかさが受信したというこのお告げを、否定できる根拠が何もない。ただ唖然とするしかなかった。
「私だって、ちょっと信じにくいよそんなの。でもキョン君もおんなじように思ってたんだよね、どうやって気がついたの」
こいつも、精神のすべてを思念体に支配されてるわけではないんだな。こんな状況下だが、少し安心した。
「かがみにも話したんだが、おまえらに対してたまに違和感があるんだ。自分でもあまり分かってないんだが、俺が知っていたはずの宇宙人・未来人・超能力者と、今のSOS団メンバーが、本当に同一人物なのか確証が持てない」
つかさはきょとんとしている。
「私はずっと私だよ…あ、そっか。自分じゃ全然わかんないことなんだよね」
つかさは唇を噛んだ、そしてつぶやくように言う。
「キョン君だけは、私たちが変だと感じてる。たぶんキョン君とハルちゃんだけがホンモノの団員で、あとは私も、お姉ちゃんも、ゆきちゃんもみんな、ニセモノに変わっちゃった後なんだね」
たった今明らかになったこの信じがたい結論に、つかさは深く傷ついているようだった。
落ち込んでいる彼女を何とか元気付けてやりたかったが、かける言葉が何も思い当たらない。
「あんたたち、ここにいたんだ」
突然団室のドアが開き、かがみが現れた。かなりあせった口調である。
おねーちゃあん、とつかさが叫び、かがみに抱きついた。
「キョン! つかさに何したの」
まて、誤解だ。そう勘違いされても仕方ないシチュエーションではあったが。つかさ、俺をおとしめるような挙動は謹んでもらえないか。
「ううん、違うの。変なのは私たちなの」
がかみは困惑しながらも、つかさの頭をなでてあやした。いつも思うが、そうやってると本当に仲のいい姉妹みたいだな。
「よくわかんないけど、キョンに話ってのは済んだ?」
つかさはかがみの腕の中でうなずく。何とか感情が収まったようだ。
「悪いけどつかさ、すぐ一緒に屋上に来て。あんまり時間がない」
かがみは、なかば無理やりつかさを連れて行こうとする。何があった、かがみ。
「閉鎖空間よ。ちょっとだけ覗いてみたけど、規模も進度も最大クラス。応援は呼んだけど、来る前にある程度は叩かないと」
かがみの先導でずんずん歩いていく二人を、俺も追いかける。
「たぶんまた赤いのも来てる、私一人じゃ相手がしきれないのよ。ほんとはつかさの仕事じゃないけど、手伝って。キョンは待ってて」
俺の話題が出たとたん、つかさの足が止まった。
「お姉ちゃん、キョン君も一緒に」
「なに言ってるの、危ない…足手まといでしょ」
つかさは姉の袖を握り、首を横に振る。
「私たちだけじゃもう、この世界を元に戻せる見込みがないの。キョン君はハルちゃんに選ばれた観察係、全部見てもらわないと駄目」
妹の真剣な表情に、かがみは気おされたようだ。
がんばって主張してるところ悪いが、俺に期待しすぎじゃないかつかさ。こういう事態のときに、何一つ役に立てる気がしない。
「キョン君は大丈夫、私が守るもん」
昼休みの屋上、校庭を見下ろせる一角に俺たちはいた。普段と変わりない平和な日常の光景、と俺には見えるのだが。
「ふわー、空間ゆがんじゃってるね」
「私には戦う力しかないから、キョンのこと頼んだわよ。さあ、二人とも目をつぶって」
言われるままに目を閉じた。かがみが俺の手をとる。
手を引かれるままに数歩進んだ後、かがみの合図で目を開ける。
目の前には、二体のヒト型の巨人がいた。
校舎の屋上にいる俺たちでも、高さでいったら奴らの膝までぐらいしかない。まあどこが膝かもよく分からん連中ではあるが。
校庭には青い神人、俺たちに背中を向けている。校庭のフェンスの向こう、ちょっとした林の中にいる赤い神人と向かい合っている。
かがみが少し唇をなめる。
「こいつら、昨日よりでかい…でもやるしかないわね。あたしが赤いほうを叩くから、つかさは青いほうを引き付けて時間を稼いで」
つかさは無言でうなずき、俺の手を取った。やっぱり女子の手って柔らかいな。いや楽しんでる場合ではない。
ふんっ、という気合とともに、かがみの体は赤い球体を核とするヒトダマのような姿に変わった。そして空中に軌跡を描いて赤い巨人のほうへと飛んで行く。
「ええと、青いのを引き付けるんだよね。どうしたらいいかなあ、キョン君」
俺に振るのかよ。もしかして、手を握ったのは俺を安心させるためじゃなくて、自分が不安だったからか。
そもそも、つかさにどんな能力があるのかもはっきりとは知らないのに、どうしろと。とりあえず以前に見た戦いを思い出す。
「あれだ、朝倉がやったみたいに、槍を何本も飛ばすってのはどうだ」
つかさはわずかに口ごもった。そういえばあの時、こいつは串刺しにされてたはずだな。別なのが良かったか。
「う、ヤリだね、やってみるよ…てーい!」
小学校の学芸会レベルの掛け声と同時に、突き出されたつかさの左手からいくつもの白熱した光弾が射出された。そして青い神人のわき腹あたりに次々と着弾する。命中した光弾は瞬時に実体化し、金属質の槍のような形状となる。
人間が食らったら即死間違いなしのこの攻撃だが、巨大な神人にとってはせいぜい画鋲を何個か刺された程度のダメージだろう。
効果音をつけるとしたら『ギギギ』という感じで、神人は俺たちのほうを振り向き、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「わ、わ、来た、来るよ」
「それが狙いだろう、大成功じゃないか。ちょっとは落ち着け」
つかさは痛いぐらいに俺の左手を握り締めた。どうして無力な一般人の俺の方が冷静で、化け物じみた力を持つこいつがあわててるんだか。
地響きを立てて歩く青い神人の背後では、かがみと赤い神人が交戦していた。まるで蝿と人間の戦いだ。
かがみの変化した光球が神人のそばをかすめ飛ぶたびに、奴の表面がばっくりと切り裂かれていく。
俺が初めて閉鎖空間に来たときに見せられた戦いでは、能力者たちはたやすく神人の手足を切り飛ばしていたが、今回は勝手が違うようだ。それだけ強力な相手だということか。
ゆっくりと歩んでいるように見える目の前の神人だが、サイズが巨大すぎるせいでそう感じられるだけだ。あと一、二歩で校舎に届くところまで迫っている。
神人は両腕を振り上げ、頭上で手を組んだ。
「おい、やばくないか。バリアーかなんか出してくれ」
緊張で硬くなっているつかさの腕を引き、注意を促す。
「ばっ、バリアだね。やってみる」
彼女は握っていた手を離し、両手を頭上に掲げる。
「じょーほーれんけちゅ…ああもう、情報連結体阻止っ! バルバルサミコミコス」
つかさは多少セリフを噛みながらも、わけの分からない早口の呪文を唱えた。俺たちの周囲に光の粒子が集まり、ドーム状の半透明の壁が形成されていく。
ほぼ同時に、巨大な青い両腕が校舎に叩きつけられた。猛烈な衝撃が伝わってくる。
つかさがバランスを崩して転びかけたので、腰をつかんで支えてやった。みようによっては、俺がつかさにすがり付いているようにも取れる構図だが、格好なんてかまっていられない。
いまやこの校舎は、屋上の一角を除いてほぼ崩壊している。俺たちを守っている障壁には、ところどころ小さなひび割れが生じている。
再び神人が両腕を振り上げ、勢いよく振り下ろした。衝撃と轟音で、平衡感覚がおかしくなりそうだ。
今度もまた奴の腕はバリアーに阻まれ、俺たちの所までは到達しなかった。しかし、バリアーの亀裂は明らかにさっきよりも広がっている。
神人はまたゆっくりと腕を持ち上げた。あと何発もつんだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん…」
まぶたいっぱいに涙を浮かべて、つかさがつぶやいている。
その呼び声に答えたのか、さっきまで赤い神人を翻弄していたかがみが、目にも止まらぬほどの勢いでこちらへと飛来してきた。
ひときわ長い軌跡を描いて、かがみの光球が神人の両手の周囲をぐるりと回る。よくみると、今の軌跡が細い糸のようになって巻きついている。
神人はそれを意に介さず、一気に腕を振り下ろそうとした。その結果。
奴の両腕はきれいに切断された。俺たちに対する三回目の打撃は空振りに終わり、手首に相当する部分から先を失った神人の両腕は、足元の校庭に激しくこすりつけられた。
手痛い不意打ちを食らった青い神人は、標的を俺たちからかがみに変えた。やや短くなってしまった腕を振り回して、自在に飛び回る光球を叩き落そうとする。
かがみはその攻撃を難なく回避した。しかし、そのすれ違いざまに突然、かがみが光球の姿から人間の姿に戻ってしまった。
つかさが、ほとんど悲鳴に近い声で姉を呼ぶ。いったい何が起きた。
元の姿になれば、当然ながら重力に引かれて落ちる。放物線を描いて落下するその体が、巨人の頭部をかすめるほどに接近した瞬間…
「くらえ!」
かがみが吼えた。
ほんの数秒間の落下中に、エネルギー弾を両手の間に収束していた彼女は、空中でほぼ逆さまになった体勢から、神人の側頭部にゼロ距離射撃を叩きつけた。
激しい閃光とともに爆発が起こり、神人の体が大きく傾いてゆく。奴の頭部は、半分近くが吹き飛ばされていた。
一方のかがみは、地面激突の寸前に光球の姿に戻り、再び上空へ舞い上がった。
「あいつはスーパーサイヤ人か…」
つい独り言が出る。今の戦いぶりは、心強いという感想を通り越して、凶暴とすら感じる。
つかさは、呆けたような顔つきで軽く拍手している。
かがみの光球が俺たちのすぐ脇に飛来してきて、元の彼女の姿に戻った。神人の打撃に耐え切ってわずかに残っている足場に着地する。
「お姉ちゃんっ…はぐっ」
つかさがかがみに駆け寄ろうとして、自分の作ったバリアーにおもいきり額をぶつけた。
かがみは呆れ顔で、この半透明の障壁をこつこつと叩いている。
「よくあれの力を正面から受け止めたもんね。神人は動きが鈍いから、防ぐよりは避けたほうがよかったんじゃない」
言われてみれば確かに。もしかして俺の指示ミスか。『バリアーかなんか』じゃなくて、『ワープかなんか』と注文しとくべきだった。
さて、先ほどかがみの強烈な一撃によって倒れた青い神人だが、まだ終わりではなさそうだった。
何度か身震いしたあと、ゆっくりと起き上がろうとしている。よくみると陥没した頭部が再生を始めており、両腕も切断された直後よりは長くなっている。
さらにその後ろから、かがみに体のあちこちを切り裂かれた赤い神人が近づいてくる。こちらも、ダメージをかなり回復してしまっているようだ。
「しぶといわね。やっぱ即席チームじゃ力不足か。そろそろ撤退」
かがみが悔しそうに言う。つかさは申し訳なさそうな表情になる。
青い神人は、上体を起こし終わって立ち上がろうとしている。そのすぐ背後まで迫っていた赤い神人は、両腕を横に広げ…青い神人にしがみついた。
青いほうはそれを振りほどこうと身をよじったが、まだ先ほどのダメージが抜け切っていないためか、力負けしている。
「どうなってんだこれ。あ、そういえばこいつら、仲が悪いんだっけ」
と、かがみに聞いてみる。
「仲が悪いってより、どっちかっていうと…」
赤い神人はがっちりと相手を押さえ込んでいるが、それ以上のことは何もしない。青い神人はやっきになって抜け出そうとしている。
「もしかして、遊んでるの? 子供のケンカみたい」
「うん、あんたにもそう見えるか」
はた迷惑なケンカもあったもんだ。できればナメック星あたりでやってもらいたい。
「今ってチャンスよね。つかさ、あんたの力を全部貸して。パワーだけならそっちが断然上でしょ」
つかさは深くうなずく。かがみは念を込め、左手の上に光弾を発生させた。
「お姉ちゃん、いくよ。情報連結転写っ」
今度は噛まずに言えたな。
つかさが言い終わると同時に、俺たちとかがみの間を隔てていたバリアーが光の粒に分解され、かがみの保持している光弾に吸い込まれていった。
ぎゅんっ、という唸りとともに光弾が前後に数メートル伸びて、槍状になる。
これなら、とかがみはつぶやき、槍投げ選手のようなポーズを取った。二体の巨人はまだもみあっている。
「どぉぉりゃーー!」
とてもうら若き乙女とは思えぬ雄叫びとともに、かがみは光の槍を投擲した。
槍は、輝く粒子を撒き散らす螺旋状のビームとなって神人たちに襲い掛かり、二体をまとめて串刺しにする。
その直後、神人たちは内側から膨れ上がるように爆発し、跡形もなく消滅した。奴らの青と赤の破片が、雪ようにひらひらと舞い落ちてくる。
かがみは肩で息をしながら、先ほどまで神人たちがいた場所を凝視していた。
「終わった、の?」
「やった、やった、お姉ちゃん、やったよ」
想定外の大勝利。かがみとつかさは笑顔でハイタッチを交わした。
閉鎖空間の崩壊を待ってから現実世界に帰還してみると、もう昼休みは終了直前だった。
生命の危機が去ったら、急に腹が減ってきた。さっさと弁当を食わないと。
なぜこんな時間に食っているのかを、ハルヒに詮索されたらなんと言い訳しようか、なんて事を考えながら教室に戻ってきたが、それは杞憂だったようだ。あいつはまだ戻ってきてない。
俺が高速で飯をかきこんでいる途中、かがみのこんな声が聞こえた。
「え、ハルヒ早退したの」
ん、誰に言ってるんだ。前の席をみると、かがみはクラスメートと会話しているようだった。俺に言ったわけじゃないのか、紛らわしい。
確認のため、後ろの席もみてみる。確かに言われてみるとあいつのカバンがない。
「んー、あれじゃしかたないわよね。朝からキツそうだったもの。ついさっき、急に体調が悪くなったとかで」
かがみの友人らしき、カチューシャをした女子が、やや声を潜めてそう言ってるのが聞こえる。
「…ただの偶然よね。いやむしろ、神人が出たのがあれのせいなのか。え、あ、こっちの話」
かがみもなにやらぶつぶつ言っている。こいつら何の話をしてるんだ。
まあ何にせよ、団長がいないのでは、今日の団活は無しだな。
結局、今日はハルヒとほとんど会話がなかったが、時にはそんな日もあるだろ。どうせ明日にでもまた、嫌でもあいつの起こす騒動に巻き込まれることになるんだ。
涼宮ハルヒの代役/木曜日
「おーい、キョンとやら」
見知らぬ生徒が俺に話しかけてきた。
ショートカットと日焼けした肌、いかにも運動部やってますって感じの女子だ。
朝のホームルームが始まる前の時間、今この教室にいるということは、こいつもうちのクラスの生徒だと思うが。
「えーと、誰だっけ」
そう返事をすると、彼女は突然ひきつった顔になって、別の女子のところに行ってしまった。
「そーさそーさ、どうせあたしらただの背景さ」
「まあまあ、いつかは顔と名前ぐらい覚えてもらえるわよ」
ああ、そっちのカチューシャには見覚えがあるな。どっちもかがみの友達か。
などと考えながら、俺はちらりと後ろの席を見た。その席は、まだ空席になっている。今日はこいつ休むのか? 昨日のこともあるし、少しだけ心配になる。
「で、キョンとやら」
またさっきの女子が来た。何だ。
「今日、柊は休みかい」
そいつは、『柊』と言いながら、俺の後ろの空席を指差した。
その瞬間、背筋にぞくりと嫌な感じが走る。昨日までの違和感とはまた別の感覚、これから自分は知りたくもない何かを知ってしまうだろう、そんな予感だ。
「おまえらナントカ団の仲間なんだろ、来るかどうか知らないか。宿題がピンチなんだよ」
そうだ、SOS団。その団員はうちのクラスに二名。俺と、かがみ。だがこれを思い出しただけでも猛烈な違和感がある。
俺は隣のクラスに走った。後ろでさっきの女子が呼んでるが、とりあえずは無視。すまんな、名も知らぬスポーツ少女よ。
「おはよー、キョン君」
「おはようございます、キョンさん」
ああ。つかさ、みゆきさん、おはよう。これで団員と呼べるメンバーは全員のはず。そう、団員は。
このとき、後ろから声をかけられた。
「やふー。おはよう皆の衆」
膝の位置まである長髪と、ピンと立ったくせっ毛がトレードマーク。我らがSOS団団長、泉こなたが登校して来た。
女子たちが、おはようと一通り声をかけあう。
「で、どうしてキョンはここにいるんだね。かがみんと夫婦喧嘩でもした?」
こなたはそう言っていたずらっぽく笑う。
「あ、ああ。いやそうじゃなくて」
泉こなた。悪ふざけが好きで、意外と多芸で、趣味のためならとことん本気になる奴で…
そして、平凡な人間であるはずの俺を、非日常の世界へと引きずり込んでくれた張本人で。
最後のを『思い出した』とたんに、俺の心のどこかで、違う、違う、違うと大合唱が始まった。
ここまであからさまだと、もはや笑いたくなってくる。こいつまで異世界人に入れ替わってしまったとは。
呆然としている俺をよそに、女子たちの日常会話が続く。
「お姉ちゃんは、今日お休みだよ」
「ありゃ、どしたの。もしや、昨日のあたしのあれがうつったか」
「え、あれってうつるものなの」
「よく一緒にいるとうつるって聞くけど。みゆきさん、どうなの」
「そうですね、女子寮などでずっと一緒に暮らしている女性同士は、月経周期が一致する傾向があるといわれています。同性に対して影響を与える、ある種のフェロモンの効果だそうですよ」
「なんと。ただの迷信じゃなかったか」
こいつら本当に仲がいいな。知り合ってまだ半年だというのに、もう何年も付き合っている友人同士みたいだ。
いや、こいつら全員が同じ異世界から来たんだとすれば、元からの仲間だったのかもしれん。
どちらにせよ、もう知ったこっちゃない話だ。無理にでも、そう思い込むことにするしかない。
もはや俺には、本来の団員の顔も名前も思い出すことができないのだから。
未来人や宇宙人ですら抗うことのできない怪奇現象に、俺なんかがたった一人でどう立ち向かえというんだ。
「ほんとにどしたの、キョン。なんか変だよ」
いぶかしげな顔色で、こなたが下から俺の表情をうかがった。なんか変、だと。
「変なのはおまえのほうじゃないか…」
思わず言ってしまった。みゆきがはっとした表情になる。つかさは、こなたと俺を交互に見ている。
こなたは今の言葉の真意を測りかねているようだった。当然か、こいつだけは何も知らされてないんだから。
「すまん、今のは忘れてくれ」
俺は逃げるように自分のクラスに戻った。
この数日間のごたごたは、もう忘れさせてくれ。
俺は、無自覚な神とやらのせいでおかしな連中と付き合うことになってしまっただけの、平凡なる高校生にすぎない。それでいいじゃないか。
教室に戻ると、さっきのスポーツ女子が勝手に俺の席に座っていた。おい、どいてくれ。
目があったとたんに、どうだった? と質問された。 こいつは俺のことを待ってたのか。
「かがみは休むそうだ。理由は知らん」
「うう、じゃあ別のやつに見せてもらうよ。それにしてもおまえ、いいやつだな。わざわざダッシュで妹ちゃんにきいて来たのか。恩に着るぜぇ」
あ、そういう風に受け取ったか。そう感謝されるほどのことでもない。
「別に、俺も気になっただけだ」
スポーツの隣にいたカチューシャは、楽しそうにしている。
「ふふっ。そんなに気になるんだ、柊ちゃんのこと」
何でこいつはそんなにニコニコしてるんだ。女子の思考はさっぱりわからん。いま俺が巻き込まれている宇宙レベルの異変と同じくらいに。
俺は学生だ、そして学生の本分は学業、部活動など余暇に過ぎん。そう思うことにして、今日はいつになく授業に集中した。
あとでかがみにノートを見せてやろうかな。いや、あいつのことだし、友人に見せてもらうとか言いそうだ。
自分でも、これがただの逃避だってことは分かってる。だがこれ以上こなた達のことは考えたくない。
よし、4時間目も終了、さあメシだ。そう思って弁当箱を取り出してみたが、まるで食欲がわかない。仕方ない、寝るか。
机に突っ伏して目を閉じる。そのまま眠くなるまで待機、ひたすら待機。
やがて、半覚醒状態の俺の脳内で、さまざまなビジョンがぐるぐる回りだした。知ってる顔、知らない顔、知ってる声、知らない声…
「おいキョン。キョン、起きてくれ」
あ? 何だよ、ほっといてくれないか。
「高良さんが、君に用事だってさ。あんな美人に呼ばれてて、なお寝るって言うのか」
俺を起こした男は、ここに入学して以来の悪友、白石みのるだった。
「はあ、君はいいよなあ。僕もあんな人と一緒に仕事できたら、どれだけ幸せか…」
白石はぶつぶつ何か言ってる、こいつこういうキャラだっけか。もしやおまえも異世界人か? まあどうだっていい。
みゆきがいったい何の用だろう。こんな状況でなお、俺にまだ何か期待してるのか。
「すみません、お休み中とは気がつかなくて。朝のこと、確認させていただけませんか」
彼女はかなり恐縮している。たぶん俺は今、ものすごく不機嫌な面をしているんだろうな。
気がつくと、今クラスにいる連中の半分近くが俺達のことを注視していた。男子が見てるのはみんなみゆきのほうだろうけど。
いままでにSOS団が起こした騒ぎのせいで、俺もプチ有名人にされてしまってるようだ。
とりあえず、視線を避けるために彼女を連れて歩き出す。特に用事はないが、団室のほうに向かいながら話を聞くことにしようか。
「で、朝のことって言うと」
いかん、口調まで不機嫌そうになってしまった。やや間があってから返答が来る。
「はい。率直に聞きますね、昨日までの泉さんと今日の泉さんは別人、ということで間違いありませんか」
やっぱり気づかれてたか。そうだよな。
「わからない。ただ言えるのは、今朝のあいつは俺の知ってる団長ではない、そう確信できる」
みゆきの足音が止まった。だいぶ人通りの少ないとこまで来たし、もう移動はいいか。
「私には、今までの泉さんのままとしか思えないのですが…違うのでしょうね。キョンさんが確信されているのなら」
みゆきは唇をきっと結んでいる。こういう真剣な表情もいいなあ。彼女には悪いが、少し和んだ。
「もういいじゃないか。あいつが、こなたがこうなることを望んでいたんなら、それで」
みゆきは目を見開き、少し息を飲んだ。
「いけません、諦めては。この改変を知覚できるのは、キョンさんだけなんですよ」
彼女の必死の訴えに、思わず謝罪の言葉が口をつきそうになった。いや、ここは謝らないからな。
「今朝だけど、もうひとつ思ったんだ。こいつらは本当に仲がいいなって。以前はもう少し、観察する者とされる者の間に、微妙な距離感があった気がするんでね」
みゆきは黙って話を聞いている。
「だからなんだか、俺だけ蚊帳の外にされた気がしたのかな、今朝はこなたにあんなことを言っちまった。それについては、すまない」
結局謝ってしまった、損な性分だな。
「あなたに無理強いはできません。でもこんな事態、規定事項にないんです。未来の時代にどのような影響があるか…わずかな手がかりでもかまいません、本来の歴史につながる何かを感じたなら、あとで教えていただけませんか」
さっきまでの訴求が、いまや懇願になっている。くそ、簡単にはうなずかんぞ。
「それがみゆきさんの仕事だから?」
返答はなかった。我ながら意地の悪い質問だったか。
みゆきの顎がわずかに震えている。涙があふれそうなのを必死でこらえているようだ。こんな彼女を見てNOと言える男がいるんなら代わってくれ。
「努力はするよ、でも期待はしないでくれ」
みゆきは小声で、すみませんと何度もつぶやいた。俺の胸に、自己嫌悪の感情だけが残る。
放課後。いつものように団室へ向かおうとした俺は、後ろから声を掛けられた。
「おーい、キョーン」
小柄な少女が、長い髪を振り乱して駆けてくる。こなたか。
「今からゲマズ寄ってかない?」
ゲマズってのはあれか、ゲーマーズの略称だな。おまえも前置きなしに専門用語を使うな。
「今からって、団はいいのかよ」
「それがさー、かがみんは休みでしょ、みゆきさんも、なんか大事な用件とかで早退しちゃったし。今日はいっかなーって」
適当な奴だ。いつもなら…もはやいつが『いつも』なのかも混乱してるが、俺の知ってるいつもなら、勝手に行けと言って断るところだ。
しかし、昼休みのみゆきとの約束を思い出した。こいつに付き合えば、また何がしかの違和感を感じることになるだろう。その程度の手がかりで異変を止められるかといえば、絶望的だが。
「まあ俺は構わんが」
そう答えると、こなたはぱっと嬉しそうになる。アニメショップなどいつでも行けるだろうに。
「最近、なんか集まり悪いよね。あ、昨日はあたしのせいか。よし、あさってはひさびさに不思議探索でもしよう。全員参加ね」
妙にハイだな、こいつ。なにか楽しみなことでもあるのか。
「好きにしてくれ。そういや、つかさはどうした」
「あ、それがさあ、聞いてよ。つかさのやつ『今夜はお告げが来そうだから早く寝ないと』とか言って、先に帰っちゃったんだよ」
お告げ? ああ、上級宇宙人様とのコンタクトのことだな。事情を知らないこいつに、それ言ったのか。
「あたしはいまさら気にしないけど、ひとが聞いたら相当な不思議ちゃんだよね」
こいつは、親友がいきなり『神様のお告げ』とか言い出しても気にしないのか。相当な度量だなおい。
鼻歌交じりでこなたは歩く。彼女から突発的に振られてくる話題を適当に受け流しながら、俺はあとをついて行く。
高校生にもなった男女が二人きりで寄り道とくれば、世間一般ではデートというものに該当するわけだが、こいつといるとどうもそんな気にはならない。保護者としてお守りをしてる気分だ。
「そういやさー、今朝の」
今度は何だ。
「今朝キョンがさ、変なのはあたしだ、とか言ったよね。あれどういう意味よ」
う、けっこう鋭いところをついてくるな。これは正直に答えても仕方がないし、どう返すか。
「どういう意味も、言葉通りだ。自分の胸に聞いて見ろ」
よし、うまく話題をリバースできたぞ。
「ほほう、ならばあたしの未発達な胸に聞いてみるよ」
こなたは自分の制服の胸元を引っ張って、首と襟元の間に隙間を作り、そこに呼びかけた。
「どーゆー意味ですかー」
その問いかけに対し、声色を変えて自分で返答する。
「オタクのくせに生意気だって意味でちゅよー」
その行為の意味こそわからん。何が言いたいんだ、俺へのあてつけか。
「今朝のあれはすまん、ちょっと言い過ぎた。しかし自分でそう思うんなら、わざわざ聞くなよ」
こなたは少し笑っていた。いつものいたずらめいた笑顔ではなく、少し恥ずかしそうに。
「キョンはさ、あたしなんかと居て、嫌じゃないの?」
「何をいまさら。本気で嫌なら、とっくにおまえから逃げてる。どうした急に」
それを聞いたこなたは、歩きながらくるっとターンした。おい、その無駄に長い髪がぶつかるぞ。
「なんでもなーい、なんでもなーい♪」
突然楽しそうに歌いだした。何か聞き覚えのある曲だな、昔のアニソンか。
「え-すおーえす、ちゃっちゃ、えーすおーえす♪」
こなたの、ちょっと古いアニソンメドレーはまだ続いている。レパートリー広いな。
SOS、か。この名称に何かが引っかかる。ちょっとつついてみよう。
「そういや、SOS団って、正式名称があったよな、おまえが決めた。何だっけ」
こなたはメドレーを一時停止した。
「えー、キョン忘れたの。いいかい、S! 世界を、O! 大いに盛り上げるための、S…エス?」
おまえも忘れてるんじゃねえか。
「世界を大いに盛り上げるための、す、すず…」
なぜだ、心の奥のほうがちくちくとする。SOS団、3文字目のSには何がある。
「鈴木一郎の、団」
「…なぜそこで日本人メジャーリーガーが出てくる」
こなたは、ふえーんと泣くまねをした。やめい。
「とにかく、誰かの名前だよ、誰かの。あ、ついたついた。ここだよ、あたしの行きつけの」
おっと、目的地に着いたようだ。この話題はここまでかな。
「で、おまえは今日何を買うんだ」
ハイテンションで店内を物色するこなたに声を掛ける、
「あー、キャラソンだよ、あたしがチョーはまってるアニメの」
彼女の目は生き生きと輝いている。たいして曲も入ってないCD一枚のために、よくそんなに元気になれるな。
「ほお、どんな奴なんだ、そのアニメ」
こなたの動きがぴたっと止まった。呆然とした表情になっている。
「あ、あれ。ええと、あれだよ。なんで? タイトルが…出てこない」
これまでに見たこともないような困惑顔で、何かを思い出そうとしている。
「すごく面白いんだよ、んーと、宇宙人とか超能力者とか出てきて、それで」
宇宙人に超能力者ね。昨日はそいつらの超常バトルを観戦するはめになったがな。
「うー。キャラもストーリーも出てこない…ありえないよ」
すでに半泣き状態になっている。こいつにとっては、つかさがお告げがどうだとか言い出したことよりも、自分がアニメのタイトルを忘れるってことのほうが異常事態なのか。
「おまえの脳内アニメだったんじゃないのか、忘れてるって事は。それより、一緒に見て回ろうぜ」
「う、うん」
こなたはまだ納得がいかないようだったが、俺と一緒に店内を見ているうちに、またいつもの調子に戻った。
「キョンはなに買うの。へ、単行本二冊きり? もう一冊ぐらい買わないかね。ああ、この人のポイントはこっちに加算してください」
俺と店員に交互に話しかけている。忙しいやつだ。
帰る方向が違うので、こなたとは店の前で別れた。じゃあ、また明日な。
帰りしなに、俺は今日の出来事を思い出していた。
昼休み、みゆきには少し悪いことを言ってしまったと思う。だが。
あの時彼女に、こなたが望んでいるなら世界はこのままでいいと言った。その時点ではただの言い訳だったのだけど、今の俺は、本気でそう思いかけている。
みんな気のいい奴らじゃないか、こなたも、みゆきも、かがみやつかさも。
彼女らが、本来どんな世界の住人だったのかは知らないが、決して悪意があってここに来たわけではないはずだ。
元の世界がどうだったのか思い出せない以上、すべて無かったことにしてここで暮らしていくのも、そう悪くはない選択肢じゃないか。
そして夜。健全な学生はそろそろ寝る時間。
俺の携帯に着信が入った。発信者を確認する。『柊かがみ』、なんの用だ?
「おっす。今日はどうした」
かがみは、なにやら疲れた声で返答した。
「どうにもね…ちょっと電話じゃ無理。あした学校で、こなたが来る前に話したいんだけど」
こなたには聞かせられない話、となるとやっぱり例の異変がらみか。
「みゆきには、あした団室に七時半に来て、って伝えてある。つかさも連れてく。あんたはどう」
「どう、と言われても行くしかないだろう」
「そうよね、ありがと。じゃ、また」
おう、と答えて通話を切る。まだこの事件、終わりではないようだ。
涼宮ハルヒの代役/金曜日
早朝の学校、こんな時間に登校する生徒は、熱心に朝練に励む運動部員ぐらいのものだと思っていたが。
SOS団団室には、こなたを除く四名の団員が集結していた。さしずめ、第二回SOS団秘密会議といったところか。
「では、私からよろしいですか」
みゆきがおずおずと手を挙げる。異論はない。
「いまさらかとは思いますが、ここ数日間に起きた時空震動のデータが届きました。特に大きな震動は四回発生しています」
みゆきの報告に、かがみが答える。
「つまりそれが、私たち四人が入れ替わったタイミングってことね」
「おそらくはそうでしょう。最初が今週の月曜日の未明、それからほぼ一日おきに三回です。入れ替わった順番、分かりますか、キョンさん」
俺か。そうだな。一度頭の中で順番を並べてから口に出す。
「四人のうち、最後はこなただな、それが昨日。その前はつかさ、その前がたぶん、かがみ。つまり最初はみゆきさんか」
つかさが驚いた顔になる。
「ふえー、ぜんぜんわかんなかったよ」
そういう性質のものだって、何度も説明があっただろ。むしろどうして俺にわかるのかが不思議だ。
「現在では、小規模な時空余震を除いてほぼ定常状態に戻っています。事実上、今回の歴史改変は終了したと思っていいでしょう」
みゆきは、ふうとため息をついた。やや間があって、つかさが手を挙げる。
「じゃ、次は私でいいかな。昨日またお告げがあってね、こなちゃんの力が、もうほとんど無くなっちゃったんだって」
そう聞いて、かがみは目を見開いた。つかさが話を続ける。
「でも、本当に無くなったわけじゃなくて、眠っちゃった、って言ったほうがいいのかな。たぶん今のこなちゃんには、無理してでも叶えたいお願いが無いんだと思うの、それで、もう必要ない力は眠っちゃった、そんな感じみたい」
この話を聞き終わってから、かがみがうなずいた。
「もういい? つかさ。うん、じゃあ私。とりあえず、昨日は急に休んでごめんね」
そういえば、こいつの欠席の理由を聞いてなかったな。
「機関のメンバーのうち、直接連絡が取れない人の状況を確認してたのよ。けっこう移動した」
そういいながらも、かがみの表情は暗い。
「ちょうどおととい、私とつかさで神人二体を倒した直後からね、機関のエスパーがどんどん力を失っていったの。人によっては、自分に特別な力があったことすら忘れてた」
かがみは、自分の手のひらを見つめた。
「私にも、もうほとんど力は残ってない。機関自体の解散も時間の問題ね。この学校にいる理由もなくなった」
再びこの場が沈黙に包まれる。つかさがぽつりとつぶやいた。
「私たち、どうなっちゃうのかな」
つかさはうつむく。その隣で、みゆきは肩を震わせていた。
「みゆきさん。まだ何かあるのか」
彼女は目を合わせずにうなずいた。
「実は…近いうちに、元の時代へ帰ります。この時代からの撤退命令が下されました。」
「「そんな!」」
かがみとつかさが同時に叫んだ。こんなときは息がぴったりなんだな。
「私だって、納得できませんでした。ですが今はわかります。この時代での、私の使命は終わりました」
だいぶ長い間、誰も口をひらけなかった。
いまさらながら、こなたが力を失うことは、SOS団の解散を意味しているのだと知らされてしまった。だったら、それが戻れば。
「聞いてくれ、みんな」
俺に注目が集まる。
「あいつに、こなたに自分の力のことを教えないか」
息を呑む音が聞こえる。
「だってそうだろう。こんな形で、みんなが離れ離れになって、それがあいつの願いの結果か。真実と、今の状況を知れば、あいつは今まで通りの日常を心から望むはずだ」
かがみが何度かまばたきする。
「こなたがまた新しい願いを持つようにして、眠りかけた力を戻そうってわけ?」
「いいよ! それやろうよ」
つかさもこれに呼応する。
このとき、ずっとうつむいていたみゆきがまっすぐ俺達を見た。そして、両手で机をばんと叩いた。
全員がぎょっとしてみゆきを見る。彼女のこんな態度を見るのは、間違いなく初めてだ。
「いけません。重大な…禁則事項です」
「みゆきっ」
かがみが叫ぶ。しかし、みゆきは目をそらさなかった。
「願望実現の力、個人が自由に振りかざしていいものではありません。泉さんがご自分の力を自覚したとして、その力に溺れてしまわないという保障はどこにもありません」
これまで見たこともないような彼女の気勢に、誰も反論ができなかった。
「私たち個人の目的のために、この宇宙すべてを危機にさらすことはできません。たとえ、私たちという存在が消滅しようとも、です」
最後のほうはほとんど涙声になっていたが、それでもみゆきは言い切った。
かがみが、ぎりっと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
緊迫した空気の中、がらがらと団室のドアが開いた。
「ちょっとお、みんなそろって何やってんのさ」
開けたのはこなただった。俺達がここに集まってから、予想以上の時間が経過していたようだ。
「泉さんっ」
感きわまったのか、ついに泣き出してしまったみゆきがこなたを呼んだ。二人が駆け寄る。
「ええっ、みゆきさん? みんな何したの」
どこかで見たことある光景だな、これ。こんな状況で無責任かも知れんが、そう感じた。
「みなさんも、泉さんも、だれも悪くはありません」
みゆきはこなたを抱きしめた。身長差もあって、こなたの顔はほとんどみゆきの胸に埋もれている。
「みゆきさん、ちょ、嬉しいけど苦しい」
我に帰ったみゆきはこなたを開放した。
「ふう、まさかみゆきさんに襲われるとは。で、ホントになに話してたのさ、ごまかさないで教えてよ」
そう言われても、正直に話せるはずがない。仮に言ったところで、本当の話をこなたが信じるかどうかは別の問題だ。
第一、さっきのみゆきの熱意を裏切ることになってしまう。
くそ、何かないか、この状況を突破できる材料。持ってる可能性があるのは俺だけだ。
青と赤の神人、その正体ははっきりしている。青が元SOS団長、赤がこなたの生み出した神人だ。二体の神人の戦いは、こなたと元団長の力のせめぎあいのシンボルだったんだろう。
SOS団の三文字目、こなたはたしか、人の名前だと言った。元団長は、イニシャルにSの文字をもつ人物か。こなたが元団長の名前を知っているという矛盾を防ぐために、その名前自体は記憶から消えた。
そして…
「なあこなた、昨日の話だが」
「昨日って? なんかあったっけ」
柊姉妹、そしてみゆきは、俺とこなたを不安と期待の面持ちで見ている。どう話を持っていこうか、時間はあまりない。
「一緒にアニメショップに行って、おまえがハマってるとかいうアニメの話をしたじゃないか」
「ちょっと、こんなときにアニメなんかの話」
かがみが怒り出しそうになる。
「アニメなんか、か。俺やおまえにとってはそうだな、アニメなんかだ。でもこいつにとってはどうだ。泉こなたにとっては、創作上の物語の世界も、もうひとつの現実だ」
こなたが口を尖らせる。
「なんか馬鹿にされてる気が。それよりあたしが聞きたいのはさ…」
「悪い。隠し事をされて、おまえが不満に思うのは当然だ。でも今だけは俺の話を聞いてくれないか、お願いだ」
そう言われてこなたは黙った。まだ文句はありそうだったが、とりあえず話は聞いてくれるらしい。
「たしか、宇宙人とか超能力者が出てくる話なんだよな」
「だから筋はいまいち覚えてないってば」
かがみがぽかんとした顔になる。
「え、あんたハマってるんじゃなかったの。それなのに覚えてないって」
ほら、異常事態だろ。
「その宇宙人やらは、主人公の敵か、味方か」
「えーと、味方だよ、うん。友達」
いける、もう一押し。
「その主人公は、そいつらの正体を知ってるのか」
「ううん、知らない。主人公だけは、みんな普通の人間だと思ってるんだよ」
つかさとかがみは目を合わせた。
「それって…」
「そーだ、思い出してきた、うん。主人公の女子高生にはね、なんかすっごい特殊能力があるんだよ。でもそれを本人が知っちゃったら、地球が大変なことになっちゃうんで、主人公を監視しに来た宇宙人とか未来人とかが、正体を隠してつき合ってるんだよ」
みゆきが、恐る恐るといった感じで質問した。
「もしかして泉さんは、その物語の登場人物になってみたい、などと思いませんでしたか」
「そりゃもちろんだよ。面白い作品って、そういうものじゃん。みんなとあんな世界で遊べたらいいなあって」
平然としてこなたは答えた。聞いている三人は、開いた口がふさがらないようだ。
「こなた、たぶんこれが最後の質問だ。わがSOS団の正式名称、もう一度教えてくれないか」
「いいけど。世界を、大いに盛り上げるための、涼宮ハルヒの団!」
涼宮ハルヒ。その言葉がこなたの口から出たとたんに、世界がぐにゃぐにゃとゆがみ出して、俺の意識はとぎれた。
気がつくと、俺たちは奇妙な場所にいた。
空はまっくらで、赤や青の球体がいくつか浮かんでいる。地面は赤いゼリー状の物質でできており、どこまでも広がっている。
俺を含め、団室にいた五人は全員いる。
「何だここは。閉鎖空間か?」
こういう異空間に一番なじみがありそうな、かがみに聞いてみた。
「わかんないわよ、私も初めて。でもこの地面、神人と同じ素材みたい」
つかさが何か言いたそうにしている。何か知ってるのか。
「ここはね、小さい宇宙だよ、ほんとに小さい。元の宇宙とは別の所だけど、すぐそばにあるの。ええと、わかんないよね」
すまんがおまえの言う通り、わからん。困惑している俺とかがみに、みゆきが助け舟を出した。
「私たちの宇宙を大きなシャボン玉に例えるなら、ここは、その表面についた小さな泡、というところでしょうか」
つかさが何度もうなずく。じゃあその比喩で理解しておこうか。
こなたはずっと黙って遠くを見ていた。何事か考え込んだあとに、つぶやく。
「あたし、ハルヒになってたんだね」
涼宮ハルヒ。今なら俺もその存在が思い出せる。
「そうだよ、ハルちゃん。うう、ずっと忘れちゃってたよ」
「涼宮さん。それに古泉さん、長門さん…」
こいつらも記憶が戻ったか。かがみはどうした。
「んー。というか、私も読んでたよ、涼宮ハルヒシリーズ」
シリーズ? 何のことだ。俺の怪訝そうな顔を見て、かがみは続けた。
「私たちの世界の小説よ。アニメや漫画にもなってて、かなりの人気」
俺たちの馬鹿騒ぎが、こいつらの世界では小説やらになって大人気なのか。マジかよ。
「あんた、キョンよね。私、ハルヒと口喧嘩とかしてたよね。うわ、なんかすっごい微妙な気分」
そうか。まあ俺だって、自分がいきなり漫画の世界とかに放り込まれたら、微妙な気分になりそうだ。
「で、この謎空間からはどうやって出るんだ。それ以前に、なんでこんな所に」
俺の問いかけには、こなたが答えた。
「なんとなくだけど、わかるよ。きっとこの場所はあたしが作った」
おまえが? そうか、ハルヒと同じ力があるなら、小宇宙の一つや二つ作れてもおかしくないか。
「物語りの主人公がさ、自分はお話の登場人物だなんて知ってたら、変じゃん。ギャグマンガになっちゃうよ。だから、元の世界を守るために、どこでもない世界に飛ばされてきたんだと思う」
「よくわからん理屈だ。そういうもんなのか」
こなたの謎理論につい突っ込みを入れてしまった。すぐにみゆきがフォローする。
「泉さんがそう信じるのなら、そのような法則が生まれます」
こいつといい、ハルヒといい、宇宙の法則まで変えられるのか。でたらめなパワーだな。
とにかく、こんなところで語り合っていてもらちがあかない。
「そういう法則があるんなら、ここから出る方法は二つあるな」
四人が俺に注目する。
「ひとつは、元の団員を今までの世界に呼び戻すことだ。世界のストーリーを、おまえらが来る前の状態にしちまえば解決だ」
かがみが、うんうんと納得している。
「もうひとつは、こなた、おまえのその何でもできる力で、自分の今日の記憶を消しちまえばいい。涼宮ハルヒの代役として、その力で何か騒ぎを起こし続ければ、おまえの望み通りこの世界で遊んでいられる。いつまでもな」
こなたは、信じられないという目つきで俺を見た。
「キョンはそれでいいの? 本当の仲間を返せって思わないの?」
そう言われると、少し返答に困る。本当の仲間、か。
「俺はな、おまえらのことが大好きだ」
そう言ったとたんに、四人の体が少し引いた気がする。ドン引きかよ。
つかさは、目をぱちぱちさせている。こなたとみゆきは少し、かがみはかなり赤くなっていた。
「いや、変な意味じゃなくて。元の連中も、まああれで面白い奴らだけど…おまえらと過ごした時間、俺もけっこう楽しかったからさ。だからおまえが選べ、こなた。俺はどっちだろうと構わん」
こなたは目を閉じて、深呼吸した。そして目を開け、この場の一人ずつと目を合わせる。
お任せします、とみゆき。
無言でうなずくつかさ。
髪をかきあげ、好きにやんなさい、と言うかがみ。
「うん。あたしはこの世界が大好きだった。ハルヒや長門のいる、この世界が」
胸元で祈るように手を組み、空を見上げる。
「だから願うよ。この世界のみんな、元に戻れ!」
こなたがそう宣言した直後、大地がどくんと脈動した。赤かった色が、じょじょに紫色に変わっていく。
はじめに変化があったのは、みゆきだった。足から少しずつ、光の粒子に分解されていく。
「これは…ここに来た順、ということでしょうか」
すでに膝のあたりまで消えている。なぜ立っていられるのかは疑問だが、そういうものなのだろう。
「本当にお世話になりました、キョンさん。涼宮さん、古泉さん、長門さん、それから私と入れ替わりになった方にも、お元気でとお伝えください」
この長い挨拶をきっちり言い終えると同時に、みゆきは完全に消失した。
そして、彼女のいた場所に粒子が集結し、女性の姿となった。朝比奈さんだ。
「ふええ、キョン君、キョン君!」
朝比奈さんはいきなり俺に抱きついてきた。そんなにしがみつかないでくれ、嬉しいが苦しい。
なんとか引き離すことに成功した。途中、俺の手が微妙な位置に当たったりもしたが、故意ではない。
「お帰りなさい、朝比奈さん」
やっと正気に戻った朝比奈さんは、おっかなびっくりといった態度であたりを見回し、かがみと目が合った。
かがみも、足元から消失が始まっていた。
「あんたは、ったく」
目が怖いぞ、かがみ。
「どうやら、あんたのそばにいていいのは私じゃなかったみたいね」
どういう意味だ。よく見ると、こいつ泣いてる?
「ハルヒには、あんまり意地張るなって言っといて」
そして、俺にびしっと指を突きつけた。
「これ以上女の子泣かしたら、承知しないからねっ」
そう啖呵を切り、ひとしずくだけ涙を落として、かがみは消えた。
彼女のいた場所に思わず駆け寄る、あいつとは、もう少し話がしたかったな。
そう思っていると、俺の目の前に光の粒子が集まり…
「おやキョン君、そんなに潤んだ瞳で見つめないでください。ふふっ」
忘れてた、あいつが誰の代役だったのかを。おまえだけはずっと入れ替わっていろ、古泉。
至近距離から古泉を睨みつけていると、つかさが駆け寄ってきた。そして彼女は、古泉の手を取った。え、なんでこいつなんだ。
「お兄ちゃん」
「つかさ…さん」
二人は見つめあっている。話がまったく見えないぞ、なぜおまえら面識がある。
つかさはぱっと手を離した。いま気がついたが、彼女もすでに膝の上まで消えている。
「ううん、これ、ニセモノの記憶なんだよね。でも」
やっと俺のほうを向いてくれた。すでにつかさは涙をこぼしている。こいつ涙腺がゆるそうだしな。
「ごめんね、忘れないよって、約束したいんだけど、忘れ、ひっく、でも」
なにが言いたい、最後くらいきちんと伝えてくれ。
つかさは泣きじゃくりながら、しかし満面の笑顔で。
「ありがとう」
そういい残し、消え去った。
つかさのいた場所には、長門が出現した。あと一人か。
「おお、ながもん!」
「その呼称は非一般的、個人識別の用を成さない」
「だったらあたしのことは、こなこなって呼んでもいいよ」
「その交換条件は非合理、互いにメリットがない」
なんだこいつら、妙に仲が良くないか。
「せっかくまた会えたんだし、最後くらいいいじゃないのさ。キョンキョンからも言ってやってよ」
なんだそりゃ。あだ名といえど勝手に改変するな。
もう胸元まで消えているくせに、テンション高いな。もしかして、別れがつらくないようにわざとふざけてるのか。
「むむっ、そういやこのシチュは。にふふ」
いつものチシャ猫笑いに戻った。またなんか思いついたな。
「あーあ、しょせんあたしはバックアップだったかぁ」
おい、そのセリフは俺のトラウマだぞ。なんで知ってる。
「じゃあハルヒとお幸せに。またね」
最後まで独特の笑みを崩さずに、こなたも消えていった。
こなたのいた空間に、われらがSOS団団長、涼宮ハルヒが現れた。
「一人でふらふらと、どこ行ってたのキョン」
ずいぶんな言い分じゃないか、今回のは完全に不可抗力だろう。
そう言ってやろうと思った矢先、ハルヒは俺の胸にすがり付いてきた。どうした、おい。
「ずっと、探して…」
そう言いながらハルヒは、かなりの体重をかけてきた。突然のことに思わずしりもちをつく。俺は押し倒される格好になった。
ん、と鼻声で言って彼女は目を閉じた。なんだ、それは俺からおまえに『何か』しろということか。
ハルヒはそのまま俺の胸に顔をうずめ…すーすーと寝息を立て始めた。寝るのかおい。俺の緊張感を返せ。
頬をひっぱたいて起こそうとしたら、朝比奈さんに止められた。
「今はゆっくりさせてあげてください。涼宮さん、本当にがんばったんですよ」
どういうことかと尋ねる。
「あっち側の世界で私たち、与えられた記憶にぜんぜん抵抗できませんでした。完全に自分のこと、普通の高校生だと信じ込んでいました」
あっち側っていうのは、こなた達が本来いた世界のことか。
「でも、涼宮さんだけは違った。ここが元いた世界じゃないと気がついて、私たちを必死で説得してくれたんです」
この一週間、そっちはそっちでいろいろあったんだな。
「かなり強引な手段でしたけどね。僕は正直、ずっと彼女の正気を疑っていました。面目ない」
「泉こなたの独自法則によって生じた時空断裂に、涼宮ハルヒの情報圧力が加わった結果、この泡宇宙が発生した。どちらかでも欠けていなたら、この帰還は成功しなかった」
相変わらず長門の話は理解不能だが、そこになぜか安心感を覚える。
「こいつが寝てるのは、ここに来るためにパワーを使い果たしたからか?」
長門はいつもの無表情だ。
「そう取っていい。今は脳神経に負荷がかかっているけど、通常の休息で回復できる」
じゃあそっとしといてやろうか。
「長門さん、ひとつ聞きたいことがあります」
そう古泉が言い出した。どうした、あとはもとの世界に帰るだけだろ。
「あなたと入れ替わりになった方が、このようなことを言っていました。忘れないとは約束できない、と。何かご存知ですか」
そういや、つかさがそんなこと言ってたな。
「この空間は、泉、涼宮、その二人の力によって作られた。だから私たちは、両世界の記憶を多重に保持できる」
古泉は顔をしかめた。
「では、元の世界に戻れば、今までのことは忘れてしまう?」
「そう。通常宇宙ではパーソナリティーの多重性は許容されない。異世界の記憶は、断片的にしか残らないはず。でも…」
そう言って、長門は俺のほうを向いた。
「世界移動に関与しなかったあなたなら、この場で得た記憶を忘れない可能性が高い。何か質問があれば、今のうち」
いきなり俺に振られてもな。質問か、ひとつだけ気になることはある。
「ハルヒと同じ力がこなたにもあるんだろう。あっちは誰も監視しなくて平気なのか」
「問題ないと考える。彼女らの存在した宇宙は、私たちの宇宙よりも情報融点が高い」
またこいつは。
「おまえに聞いても、よくわからん回答になるのは覚悟してた」
長門は少し考え込んだあとに言った。
「通俗的に言えば、泉こなたの世界では超常現象のたぐいが起きにくい。私たちの世界では、涼宮ハルヒに対抗できるほどの力を持っていた彼女だが、本来の世界では、常人には知覚できないほどの些細な異変しか起こせない。彼女は幸運な星のもとに生まれたともいえる」
そういうことなら心配はいらないか。あいつらには、もっと普通の世界が似合っている気がする。
気がつくと、俺たちのいる地面はすっかり青い色に変わっていた。遠くのほうでは、大地が滝のように崩れ落ちてこちらに迫っている。
「あの、じゃあ私からもひとついいですか」
朝比奈さんが、恐る恐る手を挙げた。
「こんな事件って、また起きたりするんでしょうか。異世界の人たちが、こっちに来たりとかは」
「可能性はあるけど、きわめて低い。今回の歴史改変は、ごく稀な条件のもとに起きたもの」
うん、そうであってほしいな。こんな異変がしょっちゅう起きたんじゃ始末におえない。
「その条件、とは」
おい古泉、その質問はやぶ蛇ってもんだろ。
「三年前に涼宮ハルヒによって引き起こされた情報爆発。その余波が到達可能な平行宇宙に、彼女の平行存在たる人物がいたこと。かつ、その人物がこの世界の存在を認識し、干渉を強く望んでいたこと。この両方の条件が満たされなければ、今回のような事象はおきえない」
長門にしては、わりあい理解できる説明だった。俺も少し聞いてみようか。
「平行存在ってのは、あれか。こなたはあっちの世界のハルヒだった、ってことか? でもあいつら、性格も外見もかなり違うぞ」
長門は軽く息を吸い込んだ。いやな予感がする、みゆきに講釈をされるときのような。
「知的生物のパーソナリティー標識は、遺伝的形質や発生後の学習には左右されない。彼女らを構成する波動関数の、ベース波形パターンが一致していた」
突っ込むんじゃなかった。相手がついていけなくてもお構いなしにしゃべるな、こいつは。
「端的に言うなら…中の人が同じだった」
ん、中の人だと。こいつがそんな言葉を使うとは。
「この表現は、泉こなたに教わった。もうひとつの世界で」
いつものように無表情な長門だったが、俺にはどこか寂しげに見えた。
やがて、俺の座っている地面が泥沼のようになり、全身が沈み込み始めた。
どうなってるんだ、と長門に聞いてみたが、返答を受け取るひまもなく俺たちは大地の雪崩に巻き込まれ、またもや俺の意識はとぎれた。
涼宮ハルヒの代役/土曜日
聞きなれた電子音が俺の鼓膜を叩く。通俗的に言うなら、俺の携帯が鳴っている。
しばらく無視する。今日はひどく頭がボーっとしている。
まだ携帯は鳴っている、止む気配はない。わかったよ、起きればいいんだろ、もう。
発信者を確認する。『涼宮ハルヒ』。
この名前を見て、瞬間的に電話に出た。もう逆らえないのが習性になってしまってるな。
「おっそーい! いつまで寝てんのよ」
電話越しなのに、耳がキンキンするような声であいつは叫んだ。
「今日はひさびさに不思議探索をするって言ったでしょ、まさか忘れてたの。もうみんな来てるんだから」
俺の脳内に、だんだんとこの一週間の記憶が戻ってくる。この電話の主はハルヒだよな、こなたじゃなくて。
「えーと、みんなっていうと、誰と誰だ」
この質問は重要だ。耳を澄ませて聞く。
「はあ? 有希、みくるちゃん、古泉君、みんな来てるわよ。あんたもすぐ来ないと死刑!」
この世界にいるはずの人物と、いないはずの人物を思い出してみる。よし、数はあってる、何の違和感もない。
「あ、でも20分以内に来るなら、まあ無期懲役ぐらいで勘弁したげるけど」
俺が急に無言になったのが心配だったのか、ハルヒが減刑の猶予を宣告した。
「無期懲役ね。看守はおまえか?」
「うあ、馬鹿なこと言ってんじゃないの、やっぱり15分以内! いい、すぐ来るのよ」
そう言って一方的に電話を切られた。そういや待ち合わせ場所を聞いていないぞ。仕方ない、こっちからまたかけるか。
30分後、俺はハルヒたちと合流した。ハルヒはまた死刑、死刑と騒いでいたが、無期じゃあ駄目か、と聞いたら急に黙りこくってしまった。わけがわからん。
結局、俺は全員にメシをおごらされることになった。今日ぐらいはいいか、久しぶりに全員そろったわけだし。
ハルヒは常に先頭、どこまでも突き進んで行く。そう肩で風切って歩くのはいいが、どこか目的地は決まってるのか。やみくもに俺たちを連れまわしてるだけじゃないだろうな。
朝比奈さんはハルヒの隣で、やつが何かを発見、あるいは何かを思いつくたびに、どうでもいい話につき合わされている。
後ろから見てると、友達同士というよりも、わがままな園児と新米保育士といった感じだ。
悪いね、朝比奈さん。そいつのお守りはあとで代わってあげるから、もう少し引き付けててください。俺の後ろを歩いてる長門と古泉に、ちょっと確認したいことがあるんで。
「で、結局この一週間のこと、おまえらは覚えてるのか」
返答が来るまでに、やや間があった。
「ひどく、あいまい。月曜日、火曜日の時点で、あなたと、それから誰かと、歴史改変の性質について話した記憶はあるけど、その後の記憶は整理できていない」
「僕も、そうですね、月曜日に長門さんのお宅にお邪魔したことは覚えていますが、あとはぼんやりとしています。機関の記録によると、あのあと二度ほど閉鎖空間に潜っていたそうなのですが、まったく覚えがありませんし」
やっぱりな。こっち側にいないときの記憶は、都合よく消えてるか。
「「ただ…」」
長門と古泉が同時につぶやいた。二人は目を合わせる。
「あなたから…」
「すみません。おぼろげな思い出ではあるのですが、短い間だけ、僕にとって大切な…妹のような存在がいたような気がします」
ん、妹?
こいつが飛ばされたのは火曜日だったはず。その時点でのあっち側のメンバーは、こなた、つかさ、朝比奈さん、そしてこいつ。その四人で、平凡な高校生活ってやつを演じていたわけだ。
たった一日だけだが、こいつとつかさは仲のいい兄妹という配役になっていたのか。つかさの別れ際の態度が、やっと理解できた。
「私も…この言葉が適切な概念かは不明だけど、親友、そう呼べる存在についての断片的記憶がある」
長門にも友情ってもんがあるのか。そういや、やけにこなたと親しかったな。
火曜日時点のあっちのメンバーから、つかさと長門を入れ替えてみると…うん。こなたがこいつにちょっかい出して、それを朝比奈さんと古泉が生暖かく見守ってる情景が浮かんだ。
対等の立場での友達づきあいなんて、こいつにとっては最初で最後の経験かもな。
俺はぼんやりとしてハルヒのあとをついて行く。もう二度と会えないであろう連中のことを、思い出したりもしながら。
その俺の視界が、一軒の店舗を捕らえた。この店は…
「ね、そうでしょキョン。ちょっとキョン、ついてきなさいよ」
あ、悪い。なんでもない。
「なに、その店。ゲーマーズ、ゲーム屋? あんたそこ入りたいの?」
「いや、別に」
ここにはちょっとだけ思い出があるんだが、もう過ぎた話だ。あいつは、今あるこの世界を望んだのだから。
最後にもう一度だけ、振り返る。
「でさー、ひとくち食べてみたらもう臭いのなんの」
「けっきょく食ったのかい、口にする前に気がつけ」
「それで、おなかとか痛くならなかった?」
「いやあ、さすがに飲みこみはしなかったよ。でも何回うがいしてもね、においがね」
「夏場でなくても、室温で一日以上経つと菌が増えてしまいますから」
ものすごく見覚えのある四人組が、ぺちゃくちゃしゃべりながら店内から出てきた。
「おおっ、キョンだ、キョンキョンだ。やーっほー」
こなたが駆け寄ってくる、その後ろからかがみも。
「ちょっと待ちなさいよ…あ、キョン君、と涼宮さん。こんにちは」
うん、おまえら何でいる。帰ったんじゃなかったのか。おちつけ俺、まずは探りを入れてみよう。
「おまえら、俺たちと知り合いだっけ?」
かがみの顔が、ぴきっ、という擬音が似合いそうな感じで固まった。ハルヒは呆れ顔になっている。
「はあ? 同じクラスでしょうが。柊さんの席、あんたのすぐ前じゃない」
うなだれているかがみに、みゆきとつかさが何か声をかけているが、よく聞こえない。
「うう、キョン君の中で、私ってその程度の存在?」
「ファイトです、かがみさん」
「まだこれからだよ、お姉ちゃん」
こなたは、このやりとりをニヤニヤしながら眺めていた。そしてパンパンと手を叩き、手を挙げる。
「はいはい注目。突然ですが、ワタクシ泉こなた、SOS団への入団を希望します!」
何を言い出すかと思えば。入団希望って、どういうことだ。
こなたはがしっとハルヒの手を取った。
「あたし、前からSOS団の、涼宮さんの活躍に興味があったの。おもしろそーだなー、混ぜてほしーなーって。ね、ね、団長様、ダメ?」
ハルヒはこなたの頭から足元まで、じろじろと見回した。
「うーむ、萌え要素を完備するためには、ロリータ系の人材も必要ね。いいわ、入団を許可します。あんたとは他人のような気がしないしね」
あっさり許可しやがった、いいのか。まあこいつがそう言い出したなら、誰にも止められん。
「ただし! 団長命令には絶対服従。団員内の序列では下から二番目、キョンのいっこ上から始めてもらうわよ」
「ありがたき幸せであります」
こなたはビシッと敬礼した。序列なんてあったのかよ、というか俺が一番下なのは確定か?
その後、初対面だったらしい連中が、一通り自己紹介を交わした。といっても俺の主観ではみんな知り合いだったわけで、なんだか歯がゆい気分だな。
長門はこなた達と同じクラスで、何度か面識があったそうだ。ええと、月曜の時点の配役では…いちいち思い出すのが面倒になってきた。
案の定この四人も、ここ一週間のことは覚えていないようだ。ただ、古泉が自己紹介したときにつかさが顔を赤くしていた。こいつらも、かすかには分かるんだろう。
「それで、あなた方のSOS団とは、どのような活動を行っているのでしょうか。お恥ずかしながら、よく存じ上げなくて」
みゆきがハルヒに質問している。ああ、それは聞いても無駄だ、俺にもよくわからん。
聞かれたハルヒは意気揚々と、SOS団の今までの功績と今後のビジョンについて、かなり妄想混じりに語り出した。
並の人間ならこの時点で、ああこいつはかわいそうな人なんだな、と分かりそうなものだが、みゆきとつかさは熱心に聴いている。こなたとつきあってるせいで、普通という感覚が麻痺してないか。
いつのまにかこなたが隣にいて、このやり取りを楽しそうに眺めていた。俺がそれに気がついたときに、目が合う。
「なあ…泉。なんでこんな怪しいクラブ入る気になったんだ?」
「んー。あたしね、前々から疑問に思ってたんだよ」
そう言ってこなたは俺の腕を引き寄せ、ささやいた。
「なんでSOS団には、異世界人がいないのかな、って」
おまえ覚えてるのか? そう問いただしてみたが、こいつはいつもの笑みを浮かべたままだった。
ハルヒが大声を上げた。
「あんたたち、お昼はまだ? そう、だったら今日は新メンバーの参加を祝して、一緒に食べましょう。もちろん、代金は全部キョンが払うわ」
勝手におごる人数を増やすな。俺の財布にも限度ってもんがあるぞ。
「うっす、ゴチになりやっす」
「ちょっとは遠慮しなさい、キョン君に悪いでしょ」
「そーだね、かがみんは自分だけがおごってもらいたいんだよね。うわ、ちょ、わぷ」
かがみはこなたの頬をつねって横に引っ張っている。子供かこいつらは。
「急にすみません。この埋め合わせは、いずれ必ず…」
「今度は私達がキョン君におごってあげるね」
うん、おまえらも。今日はたかる気だと言ってるな、それは。
どうにも困ったやつらと縁があったもんだ。まったくもって、今後とも俺の日常に平穏は訪れそうにない。
― 完 ―
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