Raison d'etre

雨――。
 暗灰色の空から降りしきる水滴が、容赦なく疲弊した躰を打ちつける。
 衣服はとうに濡れそぼち、素肌にはり付いた薄手のセーラー服からは控えめな下着が露になっていたが、
少女は意にも介さず、時折雫の滴る前髪をかき上げながら、ただ黙って空を見上げていた。
 こんな路のど真ん中で傘も差さずに立ち止まっている者など、周りを見渡してもこの少女くらいのものだ。
 路行く人々は、そんな少女に怪訝そうな視線を投げかけながらも、誰の一人も少女に干渉することなく
目の前を通りすぎて行った。

 張り詰めていた神経が、急速に弛緩していく――。

 「うっ……」

 刹那、ずきり、と右足に鋭い痛みが走った。
 恐る恐る見やると、ふくらはぎの辺りが大きく抉れ、鮮血が溢れ出ている。
 冷たい雨水が傷口に触れ、その度にむき出しになった敏感な果肉がピリピリと痺れるように痛んだ。
 これは、あの時の――

 「お疲れ様でした」

 その時、急に背後から聞こえた声に、少女は身を跳ね上がらせた。
 振り返ると、そこにいたのは一人の青年。
 口元に柔和な笑みを湛えながら、傘を片手に真っ白なハンカチを差し出している。

 「……古泉さん」
 「このままでは、風邪をひいてしまいますね。怪我の治療も早急にしなくては」

 古泉と呼ばれた青年は少女にハンカチを手渡すと、顎に手を当て何やら思案する動作を見せる。
 少女は自らの血でこのハンカチを汚してもいいものかと内心躊躇したが、古泉はそんなことは少しも
意に介していないようだった。
 控えめに傷口に触れ、刺激を与えないようそっと血を拭う。

 「そうだ、こうしましょう」

 その間、古泉は真剣な面持ちであれこれと考え込んでいたが、やがて柔らかな笑みを取り戻すと、
冷たく悴んだ少女の手を取った。

 「え……?」
 「ここから少し歩けば、僕の通っている学校があります。そこでしばらく雨宿りでもしませんか?
行けば、足の怪我の治療もできますし…いかがでしょう?」

 思わず、頬が紅潮する。
 少女はそれを誤魔化すかのように俯き、まるで熟れたざくろのように生々しい裂傷を気にしつつ
逡巡しているようだったが、ややあっておずおずと顔を上げると、小さく頷いた。

 「では、参りましょうか」

 繋がれた手が、少女を優しく傘の下へと引き寄せる。
 その温もりを一手に感じながら、少女は安堵したようにほっと息を吐いた……。

 「……着替えは済みましたか?」
 「も、もう少し……です」

 ドア越しに聞こえるのは、少女のやや上ずった返事。その声には、少々戸惑いの色が浮かんでいた。
 しかし、それも無理はない。
 古泉は一人苦笑すると、再び窓際の壁に背を預け、目を瞑った。

 ――しとどになった窓を、なおも手を休めず叩きつける雨の音。
 それは、遠くの階から聞こえる部活動中の生徒たちの喧騒と相まって、古泉の耳に響いた。

 「あの……」

 唐突にドアの向こうから緊張気味な声が聞こえ、古泉は目を開ける。
 そして、その声を事が済んだ合図と解釈し、静かにドアに手をかけた――

 「ま、待ってください……!」

 が、そこでぴたりと手を止めた。古泉は柔らかく訊ねる。

 「どうされました?」
 「え、と…あの、やっぱり…他に着替えは……?」

 縋るような少女の問いに、古泉は申し訳なさそうに首を振って答える。

 「着替えになりそうな服は、そこにかかっているもので全部ですね」
 「そうですか……」

 少女はしばらくその場で頭を悩ませていたが、やがて覚悟を決めると自らドアを開けた。
 刹那、古泉が目の当たりにしたのは――

 「……とてもよく、お似合いですよ。岩崎さん」

 女性使用人の仕事着、俗に言うメイド服に身を包んだ少女の姿だった。

 「……」

 岩崎と呼ばれた少女は顔を耳まで火照らせ、正面の古泉すらまともに直視できず、気恥ずかしさから
視線をあちらこちらに逸らしている。
 古泉はそんな岩崎に悪戯っぽく笑いかけると、パイプ椅子を並べ、岩崎に腰掛けるよう促した。
 躊躇いがちに椅子に腰を下ろすと、同じく正面に座った古泉が優しげに微笑む。

 「では、雨が止むまでゆっくりしていきましょうか」

 今の岩崎には、古泉の言葉など蚊の羽音ほどにも耳に届いてはいなかった。
 年頃の、それも自分が密かに憧れていた男性と同じ部屋で二人きり。
 それだけで心臓は痛いほど激しく鼓動するのに、加えて自分の今の格好を顧みると、もう今にも
張り裂けそうなくらい胸が乱暴に高鳴った。
 いくら他に着替えがないとはいえ、ここまで普段の生活とはかけ離れた衣服を身に纏うのは、
岩崎にとって相当の勇気がいった。
 正確に言うと、まだ他にも着替えとなりそうな衣服はあったのだが、見事に奇を衒ったようなものばかり。
一体誰がこんな服を着るのか、ナース服やバニーガール、極めつけはカエルを模った着ぐるみ……。
 しかし、背に腹は変えられない。このままびしょ濡れのままでいたら、確実に風邪をひいてしまう。
 散々悩んだ挙句、岩崎はたった今身に着けているメイド服を手に取った。さすがに付属のエプロンや
ヘッドドレスまでは着ける気にならなかったが。

 「……岩崎さん?」
 「えっ……? は、はい?」

 岩崎はしばらくぼんやりと俯いていたが、古泉の声に慌てて顔を上げる。その時古泉と目線がかち合い、
反射的に視線を自らの膝元に落とした。

 「ところで、足の方は大丈夫ですか?」
 「あ、はい……」

 岩崎の右足には、真新しい包帯が丁寧に巻かれていた。着替えの前に、古泉がわざわざ保健室から道具を調達し、
手当てをしてくれたのだ。
 幸い、痛みはもう治まっている。今の岩崎にかかれば、あの程度の怪我なら一日安静にしていれば跡形もなく治ってしまう。
 常人にしてみれば病院で何針も縫うような大怪我だが、既に岩崎は常人の域を超えていた。それを実感する度に、
岩崎の胸は切なく締め付けられるように痛む。

 「油断なんて、岩崎さんらしくないですね」
 「は、はい……」

 その油断の原因が、たまたま古泉が視界に入ったからだとは口が裂けても言えない。
 岩崎は古泉の穏やかな笑みを少々くすぐったく感じながら、もじもじと落ち着きなくその場に腰を据えていた。

 「そういえば、ここは……」

 暫しの沈黙の後、突然思い出したかのように岩崎が訊ねる。実は、この部屋に足を踏み入れた瞬間から抱いていた疑問。
 周りを見渡すと、何故か生活用品が一通り揃っており、すぐ後ろの棚には数々のボードゲーム類と何冊かの本が置かれ、
入り口の真正面の机にはデスクトップ型パソコン、そしてその傍らの机には五台のノート型パソコンが置かれていた。

 「……誰か、ここで暮らしているんですか?」

 岩崎が真剣な面持ちで問うと、古泉はさも可笑しそうに笑った。肘を机につき、顔の前で手を組む。

 「いえいえ、ここは我々SOS団の部室ですよ。元は文芸部室だったのですがね」
 「SOS団……」
 「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団……どうです、なかなかに興味をそそられる
フレーズでしょう」

 唐突に出た「涼宮ハルヒ」という単語を聞いて、岩崎は露骨に顔をしかめた。そんな岩崎を前に、
古泉の顔から笑みが消える。

 「……どうされました?」
 「その涼宮ハルヒという方は、一体どんな方なんですか?」

 俯き、冷ややかに訊ねる岩崎。
 古泉は笑顔を取り繕うのも忘れ暫し考え込んでいたが、程なくしてにこやかに答えた。

 「悪く言ってしまえば、猪突猛進。傍若無人。ですが、あれほど純粋で明るく、真っ直ぐな人は
そうそういません。とても魅力的な女性ですよ」
 「……そうですか」

 涼宮ハルヒ――。
 全ては、この一人の少女から始まった。
 涼宮ハルヒに選ばれた人間たちはある日を境に超人的な能力を与えられ、同時に一生を懸けて
全うせねばならない使命をも与えられた。
 何故、と訊かれても答えようはない。それでも、わかってしまうのだから。
 そんな境遇に立たされてから、どのくらいの月日が経っただろうか。
 最近では、自己の存在について疑問を覚えることが多くなった。
 ――何故、自分なのか。
 自分でなければならない理由があったのか。
 それとも、たまたま自分に白羽の矢が立ったというだけなのか。

 「古泉さんは、何故闘うんですか?」
 「え?」
 「……何故、闘えるんですか?」

 思わず口をついて出た疑問。膝の上でスカートをぎゅっと握り締め、岩崎は顔を上げる。

 正直、不安でたまらなかった。
 既に人間の範疇を大きく超えた自らの肉体。
 一時は日々繰り返される闘いによる疲労で心も躰もボロボロに荒み、自殺を考えたこともあった。
醜くやつれ、荒れ果てた自身の痩躯を抱きしめ、眠れない夜を涙ながらに耐えた。
 誰かがやらなければいけないということは、自分が一番よく理解している。
しかし、それが自分でなければならない理由はまったく理解できない。
 だが、それでも血を吐くような思いで、今日まで使命を全うしてきた。
 今更恨み言を言うつもりはない。自らの運命に絶望し、泣き言を言うつもりも毛頭ない。
逃げ出すつもりもさらさらない。
 欲しいのは、理由。
 自分が「能力者」として選ばれ、今まで機関の一員として在り続けた理由。そして、これからも
在り続ける理由が欲しい。

 ――二人だけの部屋を、沈黙が支配していく。
 聞こえるのは、いっそう激しさを増していく乾いた雨音のみ。
 古泉からの返答はない。先ほどの岩崎の問いから、古泉は少しも口を開こうとはしない。
何かを考えているようで、何も考えずただ押し黙っているだけのようで…しかし、目だけは真っ直ぐに
岩崎を捉えている。
 まるで、目の前の少女の全てを見透かそうとしているかのように、古泉はただ黙って岩崎を見つめ続ける。
そこに、いつものような優しげな笑みは一切なかった。

 「……僕は、今の僕が一分でも永く――いや、一秒でも永く在り続けるために、闘っています」

 やがて古泉の重い口が開かれ、岩崎の心臓がどきりと鳴った。
 古泉は口元だけで笑みをつくると、不意に立ち上がり背後の卓上コンロに歩み寄る。水の入ったヤカンを
火にかけ、二人分の湯呑みと急須、そして茶葉を取り出した。

 「僕が涼宮さんの監視役としてこの学校に転校してきてから…おおよそ一年半ですか。
最初は、純粋にただの監視役というポジションで涼宮さんと接していたのですが…状況が変わりましてね」

 やがて沸騰した湯を急須に注ぎながら、古泉は苦笑気味に続ける。

 「何と言いますか、仲間意識が芽生えてしまったのですよ。涼宮さんだけじゃない、他のSOS団のメンバーともね。
ええ、今は彼らと一緒になって何かをするということがたまらなく楽しみで、嬉しい」

 湯を注ぎきった急須の蓋を閉め、古泉は岩崎の方を振り返る。その顔には、いつもの柔和な笑みが戻っていた。

 「だから僕は、この幸せな毎日が少しでも永く続くように闘っています。誰のためでもない、自分のために。
ただし、機関の一員としての自分ではなく、一介の男子高校生の…SOS団副団長としての自分のために、ね」

 そう言って、古泉は心底楽しそうに笑った。その子供のような笑顔に嘘偽りの色は一切なく、常に笑顔の仮面を被り
自己を隠し続けてきた一人の青年が見せた、ほんの僅かな素顔――。

 「……あなたにも、守りたい世界があるのでしょう?」

 目の前に、ほんのりと湯気の立つ湯呑みが置かれる。熱気とともに抹茶の芳香が漂い、
優しく岩崎の鼻腔をくすぐった。

 「……守りたい世界? そんなもの、私には――」
 「ありませんか? 本当にないのならば、あなたはとうの昔に逃げ出しているでしょう。
でも、あなたは逃げなかった。歯を食いしばり、自らの使命と真っ向から闘ってきた……」

 再び正面に腰を下した古泉が、岩崎をじっと見つめる。その視線に岩崎は思わず気圧され、
ただ口をつぐむしかなかった。
 古泉は、諭すような口調で続ける。

 「あなたは、今のあなたが変わらずこの世界に在り続けるために闘ってきた……違いますか?」
 「私が…この世界に……」
 「あなたは、無意識のうちに守っていたのですよ。あなた自身の世界を。そして、かけがえのない人たちを」

 ――目に浮かぶのは、大切な家族の顔。そして、親愛なる友の顔。
 この世界で、自分を――岩崎みなみという一人の人間を受け入れ、愛してくれた人たち。
 胸いっぱいに、熱いものがこみ上げてくる。鼻の奥がつん、と痛み、視界が滲んでいく。
 闘う理由なんて、すぐ目の前にあったのかもしれない。
 岩崎みなみという人間が、こうしていつまでもこの世界に在り続ける。大好きな人たちに囲まれ、
共に泣き、笑い、たくさんの時間を共有して……。
 そんな他愛なくも尊い日常を、少しでも永く感じていたい。そう心のどこかで願ったからこそ、
自分は今日まで闘ってきたのか。いや、闘ってこられたのか。

 「……どうやら、これ以上の口出しは無用のようですね」

 古泉は再び普段どおりの笑顔を振りまくと、黙って自らの湯呑みを傾けた。つられて岩崎も
目の前の湯呑みを手に取り、既に冷め切ったそれを口内に流し込んだ。
 舌の上に抹茶のほろ苦さが広がっていく――。

 空になった湯呑みが置かれ、乾いた音を立てる。茶を全て嚥下した岩崎が、再び古泉を見据えた。
潤んだ瞳が、目の前の「能力者」を余すところなく映し出す。

 「何故……何故、私たちが選ばれたんでしょうか。私たちの他にも、たくさんの人間がいる。
それなのに、何故私たちだけが――」

 ――「能力者」として、生きなければならなかったのか。
 答えなどない、あるわけがない。でも、求めなければ気が済まない。知らなければ気が済まない。
だが、古泉は静かに首を振った。

 「それは、僕にもわかりません。しかし、なかなか捨てたものでもないと思いますよ」

 そう言って唇をしならせる古泉に、岩崎はきょとんと首を傾げる。対して古泉は何の気取った様子もなく、
照れた様子もなくあっさりと答えた。

 「こうして、あなたと出会えましたからね」

 ――更け始めた夜空を覆う、鉛色の雲。
 あんなにも激しかった雨は今や霧へと変わり、やがて空は重厚な暗雲を残すのみとなった。
 岩崎はまだ生乾きのひんやりとした制服に身を包み、時折強く吹き付ける風に全身の毛を
逆立たせながら、寡黙に歩を進めている。
 共に校門をくぐった古泉が、空に手をかざしながら微笑した。

 「ようやく上がったようですね。明日は晴れるといいのですが」
 「はい……」

 半ば呆けたような口調で相槌を打つ岩崎。古泉はそんな岩崎を横目で一瞥すると、僅かに苦笑した。

 「岩崎さん」
 「……はっ、はい?」

 急に肩を叩かれ、驚き飛び上がる岩崎。古泉は口元に手を当てて笑うと立ち止まり、岩崎の頭を
くしゃくしゃと撫でた。

 「もう、小難しいことを考えるのは止めましょう。今日はもう何も考えず、ゆっくりと休むべきだ。あなたには
休息が必要です」

 岩崎は頭上の古泉の手を握り締めると、小さく頷く。
 古泉も優しく微笑んで頷くが、その瞬間二人のポケットから同時に携帯電話の振動音が響いた。

 「……と、思ったのですが…申し訳ない、またお仕事のようですね」
 「……え?」

 一足先に液晶を覗き込んだ古泉が、携帯電話を掲げながら困ったように笑う。続いて岩崎も自らの電話を
確認し、落胆したように頷いた。
 まさか、一日に二度も出動する羽目になるとは。
 頭の中を「面倒」の二文字が去来する――が、岩崎はそれを快く思っている自分が心の奥底にいることに
気づいた。
 ――こんなことで時間を共有しても、仕方ないじゃないか。
 自己嫌悪に陥り、俯いて二度、三度と頭を振った。

 「……どうやら、昼間の口論が相当効いていたようですね…涼宮さん」
 「えっと…何か、言いましたか?」
 「あ、い、いえ…何でもありません、こちらの話です」

 珍しく慌てた様子で、ぶんぶんと顔の前で手を振る古泉。岩崎はそんな古泉をしげしげと眺めていたが、
とうとう堪えきれずに吹き出した。それを見て、古泉も仕方なしに笑う。

 「やはり、岩崎さんはこうして笑っている方が魅力的ですよ」
 「……え、え?」

 唐突に出た言葉。
 それを聞いた途端、岩崎は笑うのも忘れ暫しの間その場で固まっていたが、やがて顔を真っ赤に
火照らせると唐突に駆け出した。

 「は、早く行って、早く終わらせましょう……!」

 スカートを翻し、アスファルトの水溜りを散らしながら岩崎は背後に向かって声を張り上げる。
 古泉はくつくつと肩を揺らして笑うと、たった今走り去った華奢な背中を追った。

 ――これからも、こうして私は生きていくのだろう。
 迷いは、まだ完全に消えたわけじゃないけれど。
 でも、私は闘うのだ。いつまでも寄り添っていたい人たちがいるから。そして、その人たちが
大切に思う世界があるから。

 全ては、変わらない未来のために。願わくは、ずっと――。






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最終更新:2008年08月31日 21:14
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