泉どなた
◆Hc5WLMHH4E氏の作品です。
一日の授業を終えた生徒が下駄箱ですることといえば、上靴から自分の靴へと履き替えること。
もちろん俺もそのつもりで、スノコの敷いてある玄関へと足を運んだのだ。
そして今まで履いていた上靴と、ずいぶんと年季の入った自分の靴とを履き替え
床にトントンとつま先を打ち付けながら、ふと窓から見える空を眺めてみた。
そこには綿菓子に似て、フカフカと触り心地の良さそうな入道雲も
仲良さげにピーチクパーチク飛び回る小鳥達さえもない。
山の谷間から空のテッペンにかけて、大気の色が白から青へと少しずつ少しずつ変化していく……。
そんなカレンダーにでもなりそうな洒落た景色が一面に広がっているはずだった。
しかし俺の瞳には、そんな空など映ってはいなかった。
汚れた雑巾を洗った後、バケツに溜まった水のような色をした雲が
放課後の空にびっしりと埋め尽くされているだけだった。
午前中はあんなに晴れていたってのに……この雲は今まで何処に隠れていたんだ?
悠然と大地を照らしていた太陽を退け、今や我が物顔でこの大空を占拠している。
しかも何がそんなに哀しいのか知らんが、俺が空を仰いでしばらくして、大粒の涙を流し始めた。
その涙は人工的な乾いた黒い大地へと落ち、そこに斑点模様が描かれていくのだが、
大地は色が色だけに太陽から放出される熱エネルギーをこれでもかと言わんばかりに蓄えており、
降り始めたばかりの雨は、その熱によりすぐに乾いていった。
そのため言葉では表現し難い独特の匂いが、開け放たれたガラス戸を通る
ジメッとした風に乗って、あたり一帯に充満していた。
それは雨の匂い、もしくはアスファルトの匂いとでも言おうか。
小さな頃、わけもわからず神輿を担がされたあげく、
半ば強制的に町内を回らされた時に嗅いだことのある匂いだった。
そんな懐かしい記憶に耽っている中、テレビの砂嵐のような音を立てながら激しさを増した雨に、
斑点模様は乾くまもなく塗りつぶされ、懐かしい匂いも掻き消えてしまった。
世の中には天気予報という大変便利な情報がテレビやラジオ、またネットなどで随時配信されている。
それを活用している人は恐らく沢山居ることだろう。
予報を見て、午後から雨が降るのなら出かける際に傘を持っていくだろうし、
一日中晴れるとわかっているのであれば、主婦達は洗濯物を干すことだろう。
あくまでも予報だ。 外れることだってあるし、ゲリラ豪雨なんてのは予報のしようがない。
だが俺たち一般人の知らない間に観測技術が向上したからなのか、それほど頻繁に外れることはないように思える。
大方は気象予報士が言ったとおりに太陽が燦燦と輝き、空がドンヨリと曇り、そして雨がザーザーと降る。
その情報を事前に知ることが出来るとはなんと便利な世の中だろう。 これを活用しない手はない。
今の状況でつくづくそう思う俺なのであった。
その状況はというと
「……最悪だ」
散々便利だといっておいてなんだが、実は天気予報なんて滅多に見ない。
何故かというと、基本朝に弱い俺は……
用意された朝食を味わうこともなく、機械のように口に運び
洗面所で妹と二人仲良く歯ブラシを上下左右に動かし、
そこいらじゅうに欠伸を振りまきながら制服に腕を通し、
妹の「いってきまーす!」という甲高い声に耳を傷めながら家を出る。
家に帰ったら帰ったで、飯を食ったり風呂に入ったりとしているうちにすっかり夜も更け、
気が付けばもう布団に入って夢の世界へレッツらゴーだ。
毎日毎日これを繰り返している俺に、天気予報を見る時間的余裕がないのは当然だ。
とくれば今日も夕方から雨が降ることを知らないのも、これまた当然だといえる。
だから今傘を持たない俺は、さぁこれから帰宅するぞというときになって
それを待っていたかのように降り出した雨を前に酷く落胆し、
且つ自分が傘を持ってこなかったことを後悔しているのだった。
その後姿は、それはそれは不機嫌そうに見えたんだろう。
「雨は嫌いか?」
後方、少し離れたところから聞こえてきた誰かの問いかけに、俺は肩を震わせてしまった。
それは口調だけを取れば男だが、声色は紛れもなく女の子のものだった。
男言葉で話す女の子というと……俺の知る限りでは一人しか居ない。
恐らく今俺の頭に浮かんでいる人物で間違いないはずだ。
声のした方へ目を向けると、そこには案の定一人の女子生徒が立っていた。
夏服の裾からは日に焼けた腕がすらりと伸び、誰が見ても
『あぁこいつは運動部なんだな』との予想が容易に浮かぶことだろう。
その小麦色の腕を組み、八重歯を覗かせて笑っているのは、日下部みさおその人だ。
「雨は嫌いか?」
俺と目が合うなり、日下部は再度同じ質問を投げかけてきた。
雨が好きだろうが嫌いだろうが、それほどまでして知りたいことでもないだろうに
日下部は俺の答えを心待ちにしているようで、その瞳は輝いて見える。
質問に答えてやるとすると、お察しの通り俺は雨が嫌いだ。
今回のように予想していなかった雨というのは特にな。
「ジメジメするし、傘を差しても濡れるだろ?」
俺は視線を日下部から空へ移すと、いかにも嫌そうな口調で答えた。
すると、恐らく大きく頷いているのだろう、「うんうん」と日下部もそれに同調したようだ。
「傘ってのは顔さえ濡れなきゃ良いって感じだもんなー」
そう言いつつ手に持った傘を振り回しながらケラケラと笑う日下部。
同感だというのならもっと憂鬱そうな顔をしていてもいいはずだが……
俺とは対照的に、なんだってこんなに嬉しそうに笑っているんだ?
「日下部は雨が好きなのか?」
「……チガウ」
だったら笑顔の意味を俺に教えてもらいたいものだ。
雨が嫌いだという人間が、雨を前にしてそんなに楽しそうに出来ないだろ普通。
「だからチガウって」
「何が違うんだ?」
「あのなぁキョン、私の名前はみさおって言うんだぜ?」
「……そうか」
「そーだよ」
まったく答えになってないような……というか、日下部の名前ぐらい知っている。
初めて会ったときに「日下部みさおDA!」と元気よく叫んでいたじゃないか。
あれほど前置きのない、ストレートな自己紹介は珍しかったからよく覚えている。
「で、日下部は――」
「だからみさお」
「……は雨が好きなのか?」
俺の質問に日下……みさおは顎に手を当ててしばらく考え込んだ後
自らの顔の横に人差し指を立てながら言った。
「いやね、基本的には嫌いなんだけどさ」
「ほう」
「雨が降ると室内練習しかしなくていいじゃん」
「なるほど」
今更こんなことを言っても既にご承知のことだろうが、
一応述べておくとすると、みさおは陸上部に所属している。
たしかハルヒが体験入部のときに一緒に走ったと言っていたような……。
その時にハルヒの身体能力の高さを見抜いていたんだろうな。
みさおは手短過ぎる自己紹介の後、まず一番に
「アンタの力でどうにかしてハルヒとやらを陸上部に……」と握手をした手を振りながら懇願していた。
その頃は既にSOS団として活動していたため、それを伝えたのだが、
掛け持ちでもいいからと、また手を振りながらお願いされた。
しかしSOS団を設立するほど、三度の飯より不思議が大好きなハルヒがだ、
あんな……というと失礼だが、あんなごく普通の部活に入部するなどありえない。
それ以前に俺が入部を勧めたところでハルヒが素直に聞き入れるはずがない。
悲しいかな、俺の力はその程度なのだ。
そんな風なことを言って断ったのだが、みさおは本気で悔しそうにしていたな。
最近何も言ってこないということは、流石にもう諦めてしまったんだろう。
「しっかし雨が降っても室内で練習しないといけないとはな」
「でもカンカン照りの中で走ってみなって、きっとキョンだったらすぐ倒れるぜ」
「考えただけでぶっ倒れそうだ」
わざわざ学校に残ってまで身体を動かさないといけないなんてまっぴらご免だな。
そう思ってしまうのは、ただ単に俺が運動嫌いな人間だからだろう。
しかし運動が好きだという人は結構いるもので、みさおもその内の一人。
一度額にかいた汗を拭いもせずに、一心に校庭を走る姿を目にしたことがある。
それは普段俺と五分を張るグータラなみさおからは想像できないほど真剣で、
そしてなによりとても生き生きとした表情だった。
だがそんなみさおといえど、夏のクソ暑いときに走るのは結構キツイのだろう
そんなときは、たまには嫌いな雨でも降って欲しいと思うこともあるのだ。
「それで、結局室内練習ってのは何をやるんだ?」
「まぁ筋トレとか」
結局外だろうが中だろうが、運動系の部活に入った以上は必ずキツイ思いをしないといけないわけだな。
だがまてよ? それならどうしてみさおは今、ハルヒが「用があるから」と
本日のSOS団の活動を中止してそそくさと帰ってしまい、
久しぶりに早めに帰れるようになった俺とこうして一緒に居るんだ?
「今日はその室内練習に行かなくて良いのか?」
「たまには生き抜きも必要だぜ!」
「なんだそれ?」
親指を立てて、ペコちゃんのように舌を出すみさお。
やけに嬉しそうだな。
「キョンこそあのヘンテコ団は?」
ヘンテコ? SOS団のことか
「たまには生き抜きも必要だぞ」
「何だよ真似すんなよなー」
みさおは欲しいおもちゃを買ってもらえなかった子どものように
柔らかそうな頬をパンパンに膨らませている。
なんというか、妹を相手にしているようだ。
帰宅部の生徒は既に学校を後にし、部活生は部活に励んでいる時間
普通なら、音楽室からはブラスバンド部の練習する少しまぬけな音、
体育館からは「キュッ キュッ」というバスケットシューズの鳴き声に
女子バレー部の爽やかな掛け声と、勢いよく床に打ち付けられたボールの音が耳に入ってくるはずだが、
今日は、一歩外に出れば地面に落ちる雨の音しか聞こえてこないだろう。
今一度外の様子を眺めてみるも、景色はさほど変わっていなかった。
変わっているといえば、時間が経つにつれ確実に雨足が強まっていることくらいか。
「まいったな、傘持ってきてないんだよ」
『都会では自殺する若者が増えている』なんて新聞の片隅に書いていたとしても、
そんなことより、問題は今日の雨……そして傘が無いということだ。
俺から出た愚痴を聞いたみさおは、空を眺めながら「ふふん♪」と鼻を鳴らした。
どこか得意げで、俺が傘を忘れたことを小馬鹿にしているようだった。
「なぁキョン、良いコト教えてあげよっか?」
「良いコト?」
まさか太陽に負けないくらい眩しいその笑顔で、雨雲を吹き飛ばしてくれるのだろうか
もしそんなことができるのなら、ぜひSOS団に入団してハルヒを喜ばせてくれ。
そうすれば少しはハルヒの気も紛れて、俺が無理難題を言われることも少なくなる。
「それは出来ないけどさ」
そんなことくらいわかってるさ。
で、その良いことってのは何なんだ一体?
「これ!」
勢いよく突き出された手には、さっきまで振り回していた傘が握られていた。
みさおにしては珍しく、水玉模様が描かれており、女の子らしく可愛い傘だった。
「私にしては? 失礼なヤツだな」
まずその口調からして女の子らしくないんだよ。
もっとこう「何よ! 失礼ね」みたいにだな……
「えーだって女みたいじゃん」
「みたいじゃなくて正真正銘女なんだよ」
「っていうかさ、今はそんなのどーでもいいんだよ!」
ビシッ! と音がしそうなほど強く、みさおはもう一度傘を掲げて見せた。
別にそれまでとなんら変わらず、水玉模様が描かれた傘。
俺にこの傘を提示することが最大のヒントなんだろうが、
そのヒントを受けても、俺は答えに辿り着くことが出来ない。
だがみさおはエッヘンと胸を張って、腰に手を当てている。
どこか得意げで、自分が傘を持っていることを誇示しているようだった。
……みさおが傘を持っていることが、俺にとって良いことだといえるのか?
「わっかんないかなぁ……ほらあるじゃん、こういう時にすることってのがさ」
「う~む」
傘を忘れた俺に、きちんと忘れずに持ってきたみさお
つまり俺たち二人に対して、傘は一本だ。
とすると、みさおの言わんとすることは恐らく……俺にこの可愛い傘を貸してやると言いたいのだろう。
しかしそれは絶対に、何があろうと承諾することは出来ない。
これがもし谷口あたりが相手だったとしたら、俺は傘を強奪しようとしているかもしれん。
しかし今の相手は俺より少し背が低く、いくら部活で鍛えているとはいえ、か弱い女の子だ。
それにみさおは雨が降ることを知っていたからこうして傘を持ってきたわけで、
何も考えずにノコノコ登校してきた俺がその傘をぶん盗ってしまっては、
きちんと準備をしてきたみさおが雨に濡れることになるではないか。
そんな理不尽なことが許されるわけがない。
もちろん水玉模様の傘を差している自分を想像して、
ちょっと恥ずかしくなったってのも理由の一つなんだがな。
「気にするな、持ってこなかった俺が悪いんだ」
「いやいやいやそうじゃなくてね」
「それはお前の傘だろ? 俺が使うわけにいかん」
「……ちぇ」
みさおは顔を曇らせ下を向いてしまった。
今までの楽しそうな笑顔は、雲に追いやられた太陽のようで、
なんだか今日の天気を表しているように思えた。
ただその目から雨は落ちていないようで、その点は安心か。
しかし何故急に元気がなくなってしまったんだ?
俺は何か間違ったことを言っただろうか? いやそれはないだろう。
やはり雨が嫌いなんだろうな。
「今日で好きになるはずだったんだよ」
「好きになる? 何でまた」
「おしえない」
手に持った傘を眺めながら、みさおは拗ねたように細々と呟く
それは雨の音で消えてしまいそうなほど小さな声だった。
気が付くと降り始めてから随分と時間が過ぎていたが、
その間も雨は一向に止む気配が無いどころか、さらに激しさを増したようだ。
これからも止むことはなく、このまま降り続けるか、もしくは今よりもっと酷くなるかのどちらかだろう。
そしてこういう場合は大抵、事態は悪いほうへ悪いほうへと向かう。
それなら今のうちに決心したほうが賢明だと言える。
つまり雨にヌレテモいーやと開き直ってしまおうというわけだ。
「俺はもう行くぞ。 止むのを待っててもキリがない」
「うん……風邪、引くなよ」
まだ少し元気の無いみさおに「じゃーな」と声を掛け、降りしきる雨の中へ飛び込む。
するとさっそく濡れた制服がピタリと身体に張り付いて、なんとも気持ちが悪い。
さらに使い古した靴からは、雨水が容赦なく染み込んできている。
もう少しこの雨に晒されていれば、いくら濡れてもどうでもよくなるんだがな。
「へっくし!」
間抜けなクシャミが飛び出す。
俺は雨に濡れたことで身体が冷え、それによってクシャミが出たんだとばかり思っていた。
しかし、これはもう一つ別の理由も合わさったもので、
噂話とまではいかないが、誰かが俺についての、しかも悪口を述べていたのだ。
その誰かというのは、たった今まで話をしていたみさおだった。
そして悪口とは、最も単純で最も使い勝手のよい暴言だ。
「ったくバカキョン」
雨の音以外は自分の息遣いや、バシャバシャという足音しか聞こえなかった。
みさおが俺の去り行く姿を見つめながら小さな声でそう呟いたことに、
この俺が気付くはずが無いのであった。
バサッ!
依然として降り続く雨は、開いた傘に音を立てて落下し、曲線を描いた布を伝って地面へ流れ落ちていく。
本物と偽りの合わさったその水玉模様は、増えたかと思えば流れ、流れたかと思えばまた増えて……。
しかしいくら雨が流れたとしても、雨雲と同じ色になったみさおの心を洗い流してくれない。
「はぁ~あ……やっぱり雨は嫌いだぜ」
そう呟いたみさおにとって、使い慣れたはずのその傘は、
今日だけは、一人で入るにはとても大きすぎるような気がした。
誰かさんの真似をして、放課後の空を眺めてみた。
するとそこには昨日と同じようなドス黒い雲が浮かんでいて、早くも雨を降らせていた。
でも昨日と違うところがある。
「……最悪だ」
それは今空を見上げている人、それから傘を忘れた人がキョンではなく
この私、日下部みさおDA!ということ。
実は昨日傘を持っていたのは偶然学校に置き忘れていたからで、
私もキョンみたいに天気予報なんて滅多に見ない。
だから今日は傘を持ってなくて、こうやって昨日キョンがそうしていたように
念力でも使ってこの雨を止ませることはできねーかなと、ジッと雨雲を見つめていたってわけ。
だけど当然私にそんな力が備わっているはずが無い。
結局のところ、世の中ってのは案外単純に出来ていて、
不思議なことなんて起きるわけないし、不思議な存在だって居るわけない。
あのヘンテコ団の無口な子はちょっと人間離れした感じだけど、
あれは別の意味で不思議なだけであって、よく言う不思議ちゃん的な人だろ?
もしあの子が変な呪文を唱えて、この雨がピタリと止むなんてことがあったとすれば、
そんなの柊がよく読んでる“らのヴぇ”とか言う本の題材にもならないくらいオカシナ話だよな。
バケツ……というより、海をひっくり返したような激しい雨が降り続いている。
こんなに雨が降るなんて知らなかったぜ……。
まさかどっかにあきら様でもいるんじゃねーのか?
たしかあの人雨女だったよな? 違ったっけ?
まぁそれはいいとして、どうせこのまま止むことは無いだろうから
昨日のキョンじゃないけど、雨に濡れながら帰るとすっか。
なんてことを考えながら重い足取りを引きずって玄関を出ようとしたその時
「よし! みさお、いっきまー」
「はいストーップ」
「ぐえ!」
襟を掴まれたんだと思ったら、傘の柄の部分が引っ掛けられていた。
駅とかデパートの傘立てに必ずといっていいほど刺さっている、
どこにでもありそうな透明なビニール傘だった。
なんて落ち着いて状況説明する余裕なんてないんだけどさ。
「ケホッケホッ! な、なにすんだよキョン!」
「いやスマンスマン、そんなに絞まるとはな」
危うく人を殺しそうになったってのに、キョンはいつもと変わらず眠そうな顔。
どうせ今日も一日睡眠学習で済ませたんだろう。
「ふぅ……それで、どうかしたのか?」
何とか呼吸を整えてからそう聞いてみると、キョンはたったいま私を絞め殺そうとした凶器を
私に見えやすいようにと、自分の目の前に立てて見せた。
その傘は小さめで、たぶんキョン一人が入るだけでもギリギリだ。
「実はな、今日は傘を持ってきてるんだ」
「あっそう」
「反応薄いな」
「別にー」
昨日私を置いて雨の中へ飛び込んでいったキョンの事だ、
きっと今だってその傘を私に貸そうとしてるに決まってる。
「言っとくけど、傘は借りないからな」
「俺も貸すつもりは無いぞ」
私が苛立ち気味に「じゃーなんだよ?」と尋ねようとした時
それを遮るようにキョンが傘に手を掛け、透明な傘が開かれた。
そのビニール越しに見た空は、モザイクをかけたようにぼやけていた。
「ほら、行くぞ」
キョンはこちらを見ずに、ただ雨の降る空を見つめながら言った。
その姿がどこか恥ずかしそうに見えたのは、気のせいなのかもしれない。
「え、なになに? 入れてくれんの?」
「だから貸すつもりは無いと言っただろ」
「それってもしかして相合――」
「必要ないなら俺はもう行くぞ」
「あ、もうっ! 待てってばー」
まったく……それなら昨日は何で気づかないかなぁキョンって奴は
でもまぁ、今はひとつ傘の下で肩寄せ合えたから良しとするかな。
傘に落ちる雨も、こうして賞賛の拍手を送ってくれてるし。
「悪いな、家まで送ってもらって」
「気にするな」
キョンと二人きりなんて滅多にないことだから、ここぞとばかりに会話を楽しもうと思ってたのに、
体感的にはいつもの半分ぐらいの時間で家に着いてしまった。
家までの距離と時間が短く感じたということは、その間とても楽しかったってことなんだろーな。
少し物足りない感があるけど、こうして家に着いちゃったもんはしょうがない。
それなら私に残された手段は一つしかない。
「上がっていくか?」
ドサクサ紛れにそう提案してみる。
するとキョンは
「いや、遠慮しとく」
「なんだよ即答しなくたっていいじゃん」
「ちょっと濡れちまってな」
だったら尚更家に上がって乾かしたほうが良いのに……。
自分の身体を確かめてみると、私は殆ど濡れていなかった。
キョンの奴、私が濡れないように気を遣ってくれたらしい。
でもそのせいで右半身が雨に晒されて濡れちゃったみたいだ。
言ってくれたらもっとくっ付いてやったのに。
もしかして恥ずかしかったのか?
自分が濡れることを気に留めず、雨から守ってくれたキョン
別に深く考えることも無く、自然にそうしたんだろうし、
私も逆の立場なら同じようなことをしたかもしれない。
まぁ他人を傘に入れてやろうって親切な人なら、それくらいやって当然かもな。
だけど、それが嬉しかった。
「そんじゃ、気を付けて帰れよキョン」
「お気遣いどうも」
「また明日なー」
こうして去り行くキョンの背中を見るのも今日で二度目か……。
大して頼もしくも無ければ、かといって頼りなさげでもないその背中は
段々と小さく……ならずに、玄関から数歩進んだところでピタリと止まった。
そしてキョンはゆっくりとこちらを向いて、天を指差しながら
「雨は嫌いか?」
「え?」
言うや否や、キョンは何も答えることの出来ない私にまた背を向けて
依然として降り続く雨の中、小さなビニール傘になんとか身体を収めようと
猫背をさらに丸めた体制でトボトボと歩いて行ってしまった。
私はキョンが見えなくなるまで、呆けたまま立ち尽くすだけだった。
「……雨か」
確かに雨は好きなほうではなく、むしろ嫌いだ。
何だかしんみりとしちゃうし、自分の性格に合ってないような気がするんだよな。
私はやっぱり雨なんかより雲ひとつ無い晴れた空が好きだ。
でも、今はちょっと違う。
たまには雨も悪くない……いや、私は雨が
「大好きだぜ」
賞賛の拍手はまだ続いている。
今頃クシャミでもしているはずのキョンと、
まるで晴れ空を見上げているような清々しい顔で空を見上げ
放射状に雨が落ちてくる様を眺める私に向けて。
『日中は晴れの地域が多いようですが、午後からは雨の降るところも――』
お天気お姉さんは今朝、天気図を背にして確かにそう言っていた。
晴れのち雨も3日目に突入し、さすがにもうウンザリしそうなものだけど、
とある理由によって、私は今日も雨が降ることを密かに喜んでいた。
「フッフッフ……」
「どうしたのよ、嬉しそうな顔して」
と私に話しかけてきたのは、中学からずっと同じクラスの柊だ。
柊に言わせれば腐れ縁らしいけど、そんな冷たい言い方しなくても良いと思うな私は。
「いやね、今日は昼から雨でしょ」
「でも雨嫌いだって言ってたじゃない」
「人は変わるぞ」
「なにそれ?」
ポカンとしちゃって、やっぱりわかんないみたいだな。
なにせ今日は部活は無いし、その上傘はあるし……
「もう言うこと無しなんだぜ!」
「……よくわかんないけど、良かったわね」
「放課後が楽しみだ」
昼に近づくにつれ徐々に薄暗くなっていった空から、
ポツリポツリと落ち始めた雨は、もう既に本降りとなっていた。
ということで傘を手にした私は、期待を胸に下駄箱へと足を運んだ。
するとまるで私を待ってたかのように、もう見慣れた後姿がそこにあった。
まったくアイツはいつまでたっても学習しないな。
そのお陰で、あることが出来るわけだから、どっちかって言うと学習してくれないほうが良いけどな。
「おーい、キョ……ン?」
手を挙げてキョンに歩み寄ろうとしていた私の横を、誰かが早足に横切っていった。
女の子だというのに、手にはオジサン臭い茶色い傘が握られている。
その女の子は、キョンの傍まで近づいていくと……
「しょうがないわね、特別に入れてやるわよ」
「お? 悪いなハルヒ」
「その代わりアンタが持ちなさいよ」
「へいへい」
女の子はヘンテコ団の団長様だった。
……そりゃ敵うわけないよな。
そうか、あのくらいストレートに言わないと、鈍いキョンは分からないんだな。
だからあの時は、私が傘を掲げても、
その傘に入れてやろうという私の親切心が理解できなかったんだ。
「おい、また職員用の傘パクッてきたのか?」
「あの時借りてたやつをそのまま使ってたのよ」
「まぁ入れてもらえるのなら文句は言わんよ。 それはそうと今誰かに……」
「いいから行くわよ」
あぁーあ、仲良く肩を寄せちゃってさ……。
本当はあそこには私が居なきゃいけなかったんだけどな。
チクショウ……これだから雨は嫌いだよ。
いや、雨の好き嫌いは関係なく、ただ単にキョンのことが好きなだけなのか?
この心のモヤモヤは、雨が降って湿度が高くなって、少し肌寒くなって……
そんな居心地の悪さからくるものじゃなくて、あの団長に嫉妬しているからなのか?
「よくわかんねーや、帰ろっと」
そういう難しいことは考えたってわかんねーや。
答えなんて今すぐには見つからないだろうし、無理に見つける必要ない。
ただ、もし次に雨が降って、傘を忘れて立ち尽くすキョンが居たなら、
そしてその時にあの団長が居なかったなら、喜んで傘に入れてやろうと
私は二人が雨の中へ消えていく様子を眺めながら、そんなことを考えていた。
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