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※少々、痛々しい描写があるかと思われます……。






 ――禍々しく抉れたアスファルトの大地を、一人の少女が息を切らしながら駆ける。
 鼻をつくのは、狂気じみた硝煙のニオイ。少女が地を蹴る度に真っ黒な粉塵が立ち上り、
足下を飛び散った。

 ――何も残っていない。
 少女が知っているこの街の面影は、今や毛ほどにも残っていない。見るも無残に荒廃し、
そこここに死臭が漂っている。
 周囲にヒトの姿はなく、少女は独りだった。他は皆物言わぬ肉塊と化し、その脇を走り抜ける
少女を虚ろな目に映しながら、ただその肢体を地に横たえるのみ。少女は爆発しそうになる思いを
ぐっとこらえ、ただ遮二無二走った。ぎゅっと目を瞑り、一心不乱に駆け続けた。黙っていれば、
あっという間に気が狂ってしまいそうだった。

 「あっ――」

 その時、少女の痩躯が宙に浮き、冷たい地面に投げ出される。足元に転がっていた「ナニカ」に足を取られ、
勢いよく躓いたのだ。少女は慌てて立ち上がると、ようやく背いていたモノに目を向ける。
 その刹那――。
 心臓が一際高く跳ね上がり、背筋を冷たい何かがするりと駆け抜けた。嫌な汗がじっとりと少女を包み込み、
濡らす。同時に全身が激しい悪寒に襲われ、ガクガクと震えだした。平衡感覚が失われ、景色がぐらりと揺れる。

 暗い。少し離れた場所で、信号機が赤く弱々しく瞬いているのが見える。その光は一瞬自らの存在を
誇示するかのように強まると、やがて蝋燭の灯が消えるように、ゆっくりと途絶えた。

 「つ…かさ……」

 手に持っていた機銃を力なく手放す。ガシャリ、とやけに大きな音が周囲に響いた。

 「つかさっ……!?」

 少女はかすれた声で叫ぶと、目前に横たわるヒトの前に跪き、か弱い背を抱きかかえる。
すると、その煤けた顔が一瞬歪み、空虚な瞳がぼんやりと天を仰いだ。

 「い…たい、よぉ……」
 「つかさ、わかる!? 私よ、かがみよ!」

 ――柊つかさと、柊かがみ。この二人の少女は、二卵性双生児――俗に言う、双子の姉妹だった。
二人とも、何の変哲もない女子高生だった。

 日本全土が臨戦態勢に入ってから早幾月。少女たちは何も知らされぬまま、冷たく重たい銃を渡され、
ろくな訓練も受けずに戦場へと駆り出された。それほど、我が国の戦況は芳しくないものだったのだろう。
 かつての仲間たちは行方知れず。だが、気にかけている暇などない。
 僅かな油断が死に直結する世界。今まで自分たちが生きていた世界がどれだけ生温く、平和で、
穏やかなものだったかが実感できる。誰もが、自分の身を守るので精一杯だった。

 「つかさ、お願い! 返事してよ、ねえ!?」

 戦争――。
 それはテレビの向こう側の、所謂フィクショナルな世界にのみ存在するものだと思っていた。
 否、表面上は知っていた。過去にも、そういった国同士の争いが幾つもあったということ。
そして、その結果我が国がどんな洗礼を受けたのかということまでも、自分は知っていた。
 しかしその裏では、戦争は自分たちにとっては、言わば対岸の火事。その影響こそあれども、
自分たちに直接火の粉が降りかかることはない。そう信じてやまなかったのだ。

 自分たちは、平和の中に生まれてきた。そんな自分たちの死に場所は平和の中だけだ、と。

 「い、たい……おなかが、おなかがあつい…あふれて、くる、あつくていたいのが、いっぱい……」

 人間はいつも、大切なことに気づくのが遅い。否、無意識の内に気づかないようにしているのかもしれない。
 ――本当は、かがみは気づいている。気づいているのだ。
 目の前のたった一人の妹が放つ、死の匂いに。
 戦いによって蝕まれ、ボロボロに朽ち、荒みきった世界が辿るべき未来に。
 そして、そんな世界に身を置く自らの末路に。
 しかし、それら全てを受け入れられるほど、かがみは強くなかった。
 ひび割れた器にいくら水を満たそうとしても、それは零れ落ちるだけだ。最悪、その水の重さに耐え切れず、
器自身が崩壊してしまう。

 かがみの器は、一滴の現実すら受け入れられないほど脆く、弱いものだったのだ。

 「つかさ、お願い、もう喋らないで! 大丈夫だから、私が来たから!」

 何が、大丈夫なのか。自分に一体、何ができるというのか。
 血の気が引き、氷のように冷たくなった手を握ってやることしかできない。
 痩せ細り、骨張った背をさすってやることしかできない。腹部から止め処もなく溢れ出る血を、
拭ってやることしかできない。
 あまりにも、無力。それでも、かがみは今にも消えそうな命の灯火に必死でしがみ付く。

 「おなか、いたい、くるしい、く…くちのなか、へんなあじ…き、きもち…わるい……」
 「つかさ――」

 つかさが激しく咳き込み、真っ赤な鮮血が飛び散る。「死」がよりいっそう強く香り、冷たい気配が
つかさの全身から迸った。
 死の気配――。
 かがみは本能的にそれを感じ取り、まるで駄々をこねる幼子のように、いやいやと首を振り抗った。

 「お、おなかのなか…まだあつい…ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃだ…ぜんぶ、だしちゃえば、
らくになるかな…らくになるかなぁっ……!?」
 「いやっ! つかさ、だめ、だめっ! 動いちゃ、だめ――」

 つかさはよろよろと四つん這いになると、獣のような声を上げ、大量の血を吐き散らす。滝のように
流れ落ちる鮮やかな緋色を目の当たりにし、かがみはハッと息を呑んだ。黒色のアスファルトの上
いっぱいに広がり、どす黒い池をつくっていく。
 思わずむせ返るほどの、酸鼻な死の匂いが充満した。白目を剥き、苦しげに呻き、地面をしきりに
殴打するつかさ。腹部からの出血もおぞましく、まさに今のつかさは凄惨の一語だった。

 かつての元気なつかさの姿が、走馬灯のように駆け巡る。懐かしい思い出。退屈で、欠伸の出るくらい
平和だったあの頃――。
 失って、初めてわかることがある。あの頃、間違いなく自分たちは幸せだった。でも、当時はそんなこと、
微塵も考えたりはしなかった。そんなことを考えるのが馬鹿らしいくらい、平凡でつまらない毎日だった。
 だが、今はあの日々が恋しい。あの日常が戻ってくるのなら、かがみはどんなことだってやってのけられる
気がした。どんな大切なものだって、投げ打つことができる気がした。

 ――そんな、儚い願い。かがみは血走った目を限界まで見開き、金魚のように口をパクパクと開閉する。
まともにつかさを直視しようとはせず、何か言葉を発そうとするが、言葉になって出てこない。ただ、かすれた
吐息が喉の奥から漏れ出るだけ。
 つかさは一頻り吐血すると、やがて糸の切れた操り人形のようにプツリと崩れ落ち――

 そのまま、二度と動くことはなかった。

 「あ…あぁ……」

 かがみの中の何かが、音を立てて砕けた。
 初めて向き合った現実。最も親しく、身近にいた者の最期。あまりにもあっけなく、儚い生命……。
 ――辺りは、不気味な静寂に包まれていた。
 ひゅー、ひゅー、と。自らの息遣いが、まるで隙間風のように小さく、哀しく聞こえた。
 とうに枯れたと思っていた涙が、しとどに溢れてくる。口角がピリピリと引きつり、乾いた嗤いが絶えずこぼれる。
 皆、死んでしまった。ミンナ、散り散りに吹き飛んでしまった。
 大切なヒト。生きる希望。願い。思い出。ボロボロになった自分を今日まで支えてきた、全て――。

 ややあって、かがみはよろよろと立ち上がる。
 そして、まるで幽鬼の如き仕草で腰に差していた拳銃を手に取り、その銃口を深く咥え込んだ。
 ――このまま引き金を引くことができれば、どんなにラクだろうか。
 しかし、無理だった。自分がどんなに死を望んでも、身体は懸命にそれを拒み、生きようとする。哀れな「命」に
しがみ付こうとする。なんて無様な、生への執着。根本に根付いた生物としての本能に今は心から嫌悪し、
吐き気すら催した。
 引き金にかかった指には、一切の力が入らず――やがて、かがみは放心したように拳銃を投げ出した。
 一体、自分はどうすればいいのだろう。死ぬのも怖い。生きるのも怖い。そんな矛盾の境界で、
独りぼっちで震えている少女。差し伸べられる手はなく。助けを乞い、闇雲に突き出した己の手は血まみれで――。
 かがみは、まるで夢遊病者のような足取りでふらふらと歩き出した。

 ――いっそ、知らぬ間に敵に討たれてしまえば。
 そんなことを虚ろに考えるようになったのは、当てもなく歩き始めてから間もなくだった。
 冷たい風にのって、何処からか饐えた空気が運ばれてくる。カサカサと音を立て、足下をすり抜けるのは
一枚の枯れ葉。何の気なしにクシャリと踏みつけると葉は粉々に砕け、風に吹かれて消えた――
 その刹那。かがみは衝動的に腰の拳銃に手を伸ばし、その銃口を自らの眉間へと突きつけていた。
 銃を持つ手が震える。撃てるわけがない。撃てるわけがないのに、先ほどからかがみは延々と同じ所作を
繰り返している。

 「もっていけ、さいごにわらっちゃうのは、わたしのはず……」

 そして、そのまましばらく銃を弄んでいたかと思えば、途端に歌を口ずさみ始めた。
空いているほうの手で固く握り締めているのは、血に染まった黄色いリボン。これが誰の
遺品であるかは、もはや言わずもがなである。かがみは銃をしまい込むと、手元のリボンを
さも愛おしそうに眺め、撫でる。その顔には、微笑さえ浮かんでいた。

もはやかがみの目には、亡き妹の幻影しか映っていないように見えた……。

「誰!?」

 だが、かがみは一瞬視界の端を過ぎった不審な影に、何よりも敏感に反応した。
 拳銃を構え、暗がりに向かって声を張り上げるかがみ。そのまま間髪入れずに一発、二発。
静まり返った街に、乾いた発砲音が響く。
 ――殺す気は、さらさらなかった。
 むしろ、逆。味方でもいい、敵ならなおいい。出てきて欲しかった。出てきて、自分を躊躇なく
殺して欲しかった。

 静寂――。
 かがみはぎゅっとリボンを握り締め、瞬き一つせずにただ一点を睨み続ける。だが、反応はない。
闇はただ沈黙のみを返し、苛立ちを覚えたかがみは我武者羅に拳銃を乱射した。
 
 「そこにいることは、わかってるのよ! さっさと出てきなさいよ!!」

 立て続けに鳴り響く銃声が、静謐な大気を劈く。引き金を引く指に手ごたえがなくなり、そこで初めて
かがみは弾切れにも関わらず引き金を引き鳴らしていたことに気づいた。
 すかさず慣れた手つきで弾丸を込め、再び発砲する。今度は、暗灰色の空に向かって。

 「お願い、出てきて…出てきて、私を殺して……」

 かがみは、敵とも味方ともつかない何者かに心から哀願する。つつ、と頬を伝うのは、一筋の涙。
かがみはそれを気丈に拭うと、再び空に銃口を向けた。一際高く響いた銃声が、いつまでも辺りに木霊した。

 「辛いのよ…みんな、死んじゃった。たった一人の妹も、今さっき目の前で死んじゃった……」

 唐突に、かがみは暗がりに足を踏み入れながら、ぽつり、ぽつりと語りだす。奥にいる何者かに向かって
なのか、それとも自分に向かってなのか。
 やがて、ひっそりとした息遣いが聞こえてきた。かがみは聴覚を最大限にまで研ぎ澄まし、ヒトの気配を追う。
 路上に放置された、ワゴン車――。
 無数の流れ弾や爆撃を浴び、今や原型を留めず鉄屑と化したそれの側面に、そっと手を触れる。ひんやりとした
感触。その向かい側から、かがみは何者かの気配を感じ取った。

 「俺が、殺した」

 車の陰から、一人の青年が姿を現す。だが、かがみはまるっきり無反応だった。
全てをそっちのけで、今しがた青年が発した言葉を何度も頭の中で反芻していたからだ。

 「……え?」
 「殺した。この付近にいた生き残りは、全員俺が撃ち殺した」

 何の感情も感じられない、氷のように冷たい言葉。かがみが、わなわなと肩を震わせる。
信じられないといった顔つきで、青年の顔を凝視する。

 「うわああああああああああっ!!!」

 刹那、かがみは絶叫し、青年に向かって何度も引き金を引いた。
 炸裂する火花。青年は間一髪で反応し、車の陰に転がり込んだ。背後で民家の壁が
ボロボロに砕けたのを認め、全身が総毛立つ。
 青年は大きく息を吸うと、懐の拳銃を握り締めた。

 「あんたが、あんたが、つかさを、こ、殺した――!?」

 かがみは狂ったように問うが、青年は何も言わず車の周りを回り、素早くかがみの背後を取った。
そして、容赦なく次々と鉛弾を撃ちぬく。発砲後、青年は半ば勝利を確信した。
 ――だが、しかし。
 ふつふつと湧き上がる未だかつてない怒りが、全身の感覚を限界点以上にまで研ぎ澄ましているのか。
青年が放った勝利の弾丸は、空しくコンクリートの大地に突き刺さった。弾丸が放たれる瞬間、かがみは
咄嗟に地を転がり、降り注いだ弾の全てを回避したのだ。

 「はああああああああっ!!!」

 すぐさま体勢を立て直したかがみが、銃を片手に突進する。血走った眼が捉えるのは、
目の前の男の急所のみ。かがみは余計なことは一切考えず、ただ真っ直ぐに青年の死を求め、引き金を引いた。
 何も、つかさのことだけではない。戦いが始まってから、かがみの中に溜まりに溜まってきた感情。
それら全てをかがみは解き放ち、その鋭く凝り固まった矛先を目の前に現れた仇にぶつけているように見えた。

 ――やがて弾が切れ、かがみは手近な物陰に隠れると、急いで弾丸を装填した。その隙に、青年も素早く身を隠す。
 
 「どこ!? どこに隠れたのよ!?」
 
 辺りに、かがみの怒声が響き渡る。だが、青年が出てくる気配はない。体中の全神経を研ぎ澄ましながら、
かがみはじりじりと前進する。
 その刹那。どこからか投じられた、一つの小さな黒い塊。それはゆっくりと放物線を描き、かがみの視界の隅で
くるくると回転し――

 「くっ――!?」

 本能の命じるままに、かがみは真横に跳躍した。抉れて変形したアスファルトの上を
ゴロゴロと転がり、瓦礫の陰に伏せる。
 その瞬間、鼓膜を劈くような爆音が大気を震わせ、先ほどまで自分が立っていた地面を
粉々に消し飛ばした。そのあまりの威力に、怒りに火照っていた頭が急速に冷やされていく。

 ――もし、あのままあそこにいたら、自分はどうなっていたのだろう?
 額から冷や汗が流れ落ち、鼻先まで伝う。今まで恐怖を麻痺させていた怒りが衰え始め、
かがみの中で「死」という存在が徐々に大きなものとなっていく。
 頭の片隅に、一瞬つかさの姿が過ぎった。苦しみ、血を吐き、生死の淵を何度も往復している――。

 「すまん……」
 「えっ――?」

 その時、不意に聞こえた背後からの声に、かがみは反射的に振り向く。その先にあったのは、
鈍く光る真っ黒な銃口だった。
 間もなく、乾いた銃声がひとつ。その弾丸は惑うことなく、真っ直ぐにかがみの左胸を貫いた。
 
 「あ――」

 永遠とも呼べるような、一瞬の静寂の後。かがみの躯は急速に力を失っていった。瓦礫の上に
仰向けで倒れこみ、朦朧とした目がぼうっと虚空を映し出す。
 ドクドクと脈打つ毎に、大量の血液が体外へと吐き出されるのがわかる。
 熱い。熱いけど、寒い。手足はまるで氷のように冷たいのに、胸のあたりは煮え滾ったマグマのように
熱い。茫漠とした意識の中で、かがみはそのコントラストに首を傾げた。
 ――視界が、少しずつ暗みを帯びていく。おぼろげに、最期の時が近いのだと悟る。
 何かに突き動かされるようにして、ポケットから薄汚れたリボンを取り出す。もはや感覚などほとんどない
左手で、力いっぱい握り締める。そして、そのまま空へ掲げ――

 「何も…見えな……」

 かがみは哀しげに嗤うと、ぱたりと手を下ろした。青ざめ、冷たくなった頬には一筋の涙。
ゆっくりと滑り落ち――やがて瓦礫にしみ込んで、消えた。

 「……痛い終わりを迎えるのは、俺だけでいい」

 ――付近の倒壊した民家の窓からむしり取ったカーテンをかがみの亡骸にかぶせると、
青年はまるで懺悔をしているかのような面持ちで呟いた。
 足下の瓦礫に腰を下ろし、凍て付くような夜気に全身を震わせる。ゆっくりと吐き出す息は白く、
このまま雪が降り出しても何ら不思議ではなかった。
 悴んだ両手をこすり合わせ、ぼんやりと空を仰ぐ。明かりの一つもない街のど真ん中にいるからか、
今夜はやけに空が透き通り、星が輝いて見えた。
 ――自分でも妙なくらい、気分は穏やかだった。冷たく静謐な空気の中、自分の心臓の音だけが
大きく聞こえる。それは一定のリズムでゆったりと鼓動し、決して早鐘を打つようなことはなかった。

 「……さて、そろそろだな」

 ――そして。青年は静かに覚悟し、頭上を見上げる。
 爆音をかき鳴らしながら、こちらに接近してくる戦闘機。やがて青年の真上に到達すると、戦闘機は
用意していた大きな塊を静かに落とす。刹那、戦闘機は猛スピードで加速し、気がつけばあっという間に
青年の可視領域を越え、飛び去った。

 「やはり、それがお前の答か。ハル――」

 青年の頭上で塊が爆ぜ、真っ白な光が駆け抜けた。否、本当に白かったかどうかはわからない。
光を光と認めた瞬間目は焼かれ、辺りは正真正銘真っ白に変わっていた。
 世界中に存在する全ての形あるものが一気に崩壊したかのような、そんな想像を絶する轟音が響き渡り、
その刹那、すぐさま静寂が訪れた。おそらく、耳が壊れたのだろう。
 躯の感覚はない。もはや熱いとも冷たいとも、痛いとも感じなかった。痛かったのは、最初の一瞬だけ。
思わず絶叫をあげたが、生憎喉のほうが先に潰れ、声にならなかったようだ。
 ――世界の終わりを、余すところなく全身で感じる。その筆舌に尽くしがたい痛みを、青年は独りで抱いて堕ちる。
それが、「扉」を開いてしまった自分に科した罰。そして、彼女へのせめてもの贖罪だった。

 白色に浄化された世界の奥で、青年は懐かしい光景を見ていた。

 薄暗くて、静かで、寂れた空間に二人きり。
 あの日、世界に嫌気が差したお前が閉じこもった牢獄。その中で、俺は罪を犯した。
 “sleeping beauty”
 その言葉の意味もわからぬまま、俺はお前を拒絶し、否定した。お前の気持ちなど一切考えぬまま、強引に
その扉を開いた。「鍵」である自分にとって、それはとても容易いことだった。
 だが、あの日から。あの日から、全ては変わってしまった。扉の奥の世界は見る影もなく変貌し、気づけば
俺の周りには誰もいなくなっていた。
 そして、俺は――。
 その荒んだ世界と共に生き、共に滅びることを決意した。

 ――その結果がこれだ。何もない、真っ白な世界。
 自分は今、生きているのか。それとも死んでいるのか。それすらもわからぬまま、ただ意識だけをふわふわと
浮かべている。
 その意識も、徐々に霞み――青年は、静かに瞼を閉じた。そんな行為が本当にできたのかは怪しいところだが、
確かに今、目の前には黒の帳が下りた。

 ――ごめんな。
 それを境に、青年の意識はとっぷりと闇の奥底に沈んだ。






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最終更新:2008年10月01日 21:11
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