― 第三幕 ―
朝、健全な学生なら登校している時間。
まああたしはあんまり健全な部類とは言えないんだろうけど、とりあえず遅刻しない時間には家を出た。駅から学校までの道のりを、やや重い足取りで歩く。
最近はわりと慣れてきたけど、一人っきりでこの登坂はやっぱちょっと気がめいる。その辺に知ってる人でもいないかな。
お、やや後方にターゲットロックオン。物憂げな顔つきで、斜め下30度を見つめながら歩いている超能力少年を発見した。どうもあたしには気がついてないようす。彼にしては珍しい。
おいっす、と声をかけようとしたとき、さらに後方にもう一人、よーく知ってる人物がいるのに気がついた。
なにやってんの、つかさ。いつも姉にべったりのコイツが、なぜか今日は一人。10メートルほど前を歩いている古泉のほうを、さっきからちらちら見てる。
声をかけようか、でもやめとこうかとさんざん迷いながら、一定の距離を保ってあとをつけているご様子。
はい、ここは元気に。
「おいーっす」
古泉はやや目を細めてこっちを見た。後ろのほうにいるつかさはびっくり顔。二人の動きがシンクロしている。
いちど古泉と目を合わせてから、つかさに呼びかける。
「声が小さいぞ、おいーっす!」
つかさは、てってっと駆け寄ってきた。こころなしかほっとしてるような表情で。
「おはよう、こなちゃん。あと、こっ…古泉君も」
「ああ、おはようございます。泉さん、柊さん」
あたしが声をかけるまではかなりお疲れモードだった古泉だが、それを微塵も感じさせない爽やかな笑顔で返事をした。
「ダメだよう、いっちゃん。あたしよりも先に、まずつかさにあいさつしないと」
突然のダメ出しに、二人ともきょとんとしている。
「そう、ですか。では。おはようございます、柊さん、泉さん」
さわやかなあいさつ再び。つかさは恥ずかしそうにしている。でもまだなんか違うな。
「んー、『柊さん』だと、かがみとかぶっちゃうじゃん、名前のほうで呼んだげて。なんなら呼び捨てでも可だよ。あたしが許可するからさ」
われながら無茶な要望だとは思うが、古泉は笑っていた。
「そうですか。では」
「もういいよっ。こなちゃんったら、もう」
慌てて制止するつかさ。そう、こういうシーンが欲しかったんだ。
あたしがニヤニヤしてると、つかさは微妙にじっとりした視線でにらんできた。
「こなちゃん。さっき、いっちゃん、って呼んでたけど…それいつから?」
小声でそう尋ねてくる。あたしも小声で返してやった。
「つかさもそう呼べばいいじゃん。キッカケだよ、キッカケ」
真っ赤になってうつむくと、つかさはあたしの服のすそをつまんで歩き出した。どうにも彼とは目が合わせづらいらしい。
あたしたちの斜め後ろを歩く古泉だが、さっきまでの笑顔が失せて、なにやら淀んだ目つきに戻っていた。おいおい、ちょっと難ありとはいえ、こんな美少女二人と一緒に登校しといて、なによそれ。
「どうしたの、らしくないよ」
彼はやや沈黙ののちにつぶやいた。
「中学時代以来ですよ、一晩に三回も呼び起こされたのは。あ、いえ、忘れてください。気が緩んでいますね、僕としたことが」
ああ、そっか。昨日のハルヒのあれ、まだ収まってないんだね。
「もしかして、夜中じゅう戦ってたの? あっちの世界で」
そう聞くと彼はぎくりとした顔になった。この話、つかさがいる前じゃやばいって思うかい。大丈夫、大丈夫。
「夜中じゅう? いっ…小泉君も、そんなにゲームとかするんだ」
ほらね。あたしの友達なら、一晩中戦ってると聞いたらそう連想するさ。
「え、ええ、そうなんです。正直、引退できるものならしたいんですけどね。自分でも気がつかないうちに、後戻りができなくなっていまして。まったく困ったものです」
ふうん、とつかさが答える。
「なーに言ってんの。超能力少年・古泉君がいないと、世界は闇のフィールドに閉ざされてしまうんだよ」
「そうなんだ。ええと、ごめんね、よくわかんないや」
つかさは多少ヒキぎみだ。ちょっとばかり悪のりが過ぎたか。
「そう大したものじゃありません。僕の属性は本来、味方のサポートですから。昨夜はなぜか一人でボスに立ち向かうはめになりましたが」
こっちはこっちで、あくまでネトゲの話として通すつもりだね。でも、一人で?
「おんや、いつものお仲間はどうしたの。メイドのお姉さんとか」
古泉は急に黙り、坂道の向こうを見上げた。あ、校門が見えてきた。
「少し事情がありましてね、最近集まれないメンバーが多いんです。落ち着いたら詳しくお話しますよ…それまで僕のライフが残っていたら、ですが」
遠い目をしてたそがれている古泉を、つかさはきょとんとした様子で見つめていた。
いつもの教室に入り、いつもの席に着く。通う学校が違っても、教室の内装やクラス割りが前と一緒なのはどういう理屈だろ。
いや、ひとつ大きな変化はあるけどね。ちらっと長門のほうを見ると、彼女はいつものように落ち着いた顔でホームルームの開始を待っていた。
「おいっす、お早うさん。さっそく出席とるでー。泉」
はいっ、と元気に答える。
先生も変わってませんね。一緒にこっちに来れたのは、あたしが先生のこと気に入ってるからかな。
今日も何事もなく一時間目が開始、そして終了。二時間目が開始…やべ、だんだん眠くなってきた。
かなり朦朧としてきた頭で、あたしはなんとなく昨日のことを思い出していた。
あたしの正体がみんなにばれた。でもそれは大したことじゃない。
団員たちの素性について、知らないふりを続けるのもおっくうになってきてたし、そのうちに自分から話すつもりだった。最初にキョンに教えるというセオリーも踏襲できたことだし、まあよしとしよう。
それより気になるのは、やっぱりハルヒの機嫌かな。
ハルヒが無茶な思いつきでみんなを振り回して、キョンがやれやれとか言いながらもついていく、それがこの世界にとって安定したルーチンのはず。
いつかはこの関係も変わるのかもしれないけど、その時はきっと、ハルヒがSOS団を必要としなくなる時だ。いまじゃない。
昨日みたいに、二人の間でろくに会話もできない空気がいつまでも続くのはまずい。ここはいっちょ、なにか仲直りイベントでも用意してあげないとね。
今朝の、いまにも倒れそうな感じの古泉もなんだかかわいそうだったし。
そうと決まったらまずは敵情視察。次の授業が始まる前に、ちょっくら隣のクラスにお邪魔することにした。今日はまだかがみに会っていないことだし。
窓際の一番うしろ、主人公の指定席とでも言うべき位置で、ハルヒは突っ伏して寝ていた。いや、よく見ると人差し指でこつこつ机を叩き続けている。こりゃそうとうにイライラしてるね。
その前の席で、キョンはあらぬ方向を見つめながら、当社比三割増しのつまらなそーな顔になっていた。用もないのにノートをぺらぺらめくったりしている。
あたしは、さらにその前の席に座ってる人物に声をかけた。
「おっはよー、愛しのかがみん」
「別にお早くもないし、愛しくもない」
ひどっ。でも、このぶっきらぼうな口調とは裏腹に、かがみはなんとなくほっとしたような顔になった。
「今朝はつかさと一緒じゃなかったよね、どしたの、ケンカでもした?」
こう聞いてはみたものの、べつに柊姉妹がケンカしてたなんて思ってない。いまのは君たちに聞かせるために言ったんだよ、後ろのお二人さん。
「へ、なんでよ。駅までは普通に一緒だったけど。電車から降りたら急に、『先に行ってて』って頼まれて。理由はなんとなくわかったけど、知らないふりしてあげた」
ほうほう、妹思いなお姉さんですな。
「なるほど。で、今日は朝からずっと、背後からのしかかってくる気まずーい空気を感じてたわけだ」
うっ、とかがみは言葉を詰まらせた。キョンがちらっとあたしを見て、すぐに目を伏せる。
「ちょっと、知ってても言うな。私だって…我慢してたんだから」
そう言って、かがみはうしろを振り向いた。キョンは何か言いたそうに唇をもごもご動かしたけど、何も言葉が出てこないみたいだった。
ハルヒの指トントンはさっきからだんだん速くなってきており、いまや周囲にもはっきり聞こえるほどのビートを刻んでいる。
「ああもう、あんたらいい加減にしなさいよ。なにあったのかは知んないけど、こっちまでイライラしてくるじゃない」
やばい、かがみがキレた。導火線が一番短いのはここだったか。
この言葉にクラスがざわめいた。いっせいにこっちを見てくる。あたしたちをこっそり観察していたらしい谷口と日下部が、軽く目を見合わせ、あちゃーという顔になった。
そういやこの二人、なんか気が合いそうだね。接点とかあるのかな、ってそんな詮索は後回しだ。
ハルヒはドンと机を叩き、ゆっくりと頭を上げた。さっきのかがみ以上に、目に怒りの炎が宿っている。
「全部、この馬鹿が悪い。以上」
それだけ言うと、また机に突っ伏した。自分の胸を抱えこむような姿勢になって。
この馬鹿、と言われた当の本人は、みんなから顔をそむけて外の景色を眺めている。はい、現実逃避モードに入りました。
さすがにあたしもこの空気はいたたまれない。藪をつついたら、蛇どころかオロチが出てきた気分だ。まずいことしちゃったな、後で謝っとかないと。でも、誰に?
ハルヒもキョンも、これ以上口を開いて傷口を広げるのは得策でないと判断したようだ。ぎょっとした様子でこのやり取りを見守っていた五組の皆さんも、それぞれ次の授業の準備などにとりかかっている。
誰も仲裁に入ろうという気配がないのがこのクラスらしい。マイナス方向で一致した団結力を感じるよ。まあ常識で考えて、不発の打ち上げ花火を覗き込むようなチャレンジャーなど、そうはいないわけで。
しかし。
「私は、そうは思わないけど」
かがみは淡々と、しかしはっきり聞こえる声でそう言った。再びクラスが『ざわっ…』とどよめく。もうやめて、みんなの顎が伸びちゃうよ。
「どうしてそんな一方的に、悪いのは彼だと言い切れるの?」
落ち着いた口調でハルヒに問いかける。この冷静さがかえって怖いんだけど。あたしがどんなに悪ふざけした時だって、かがみがこんな言いかたしたことないよ。
ハルヒはわずかに頭を上げた、でも視線は合わせない。いつもの彼女なら、誰かにこんな文句をつけられたら、たとえ相手が国家権力だろうと食ってかかりそうなものだけど。かがみのひとことが、心のどこかにクリティカルヒットしたらしい。
「本当に、自分にはなんの問題もないっていうの? あんたがそんなに馬鹿なはず、ないと思うんだけど」
空気が凍りつく。いまだかつて、ハルヒに対してこんな堂々と口を利いた人間がいるだろうか。
「やめてくれ、かがみ」
お。さっきまで完全に知らん振りを決め込んでいたキョンだけど、さすがに逃避すらできなくなってこっちの世界に戻ってきた。
「俺が悪い、そういうことでいい」
キョンはそう言ってうなだれた。かがみとハルヒが同時に口を開く。このあとに来るセリフはだいたい予想がつくね。たぶん、『なにいってんの』だ。
「なにやってんのやー。青春の語らいもその辺にしときい、若者の特権っちゅうヤツにも限度があんで」
先生が教室に入って来た。ほぼ同時に、授業開始のチャイムが鳴る。
「泉も早よ戻らんか。授業妨害には鉄拳制裁で応じたるで」
ううっ、感謝します、黒井センセー。あまりにも絶妙な、まるで外から聞き耳を立ててたかのようなタイミングで現れたのが、ちょっと気になりますけど。
とにかく、貴重な助け舟を得たあたしはダッシュで自分のクラスに戻った。
っはー、とため息が出る。やっちゃったよ。あれじゃ放置しといたほうがまだましだった。ごめん、古泉、君に明日という日はないかも。
「さっきからどうしちゃったの。お姉ちゃんとなにかあった?」
お昼休み、昨日と同じ四人で昼食を囲んでいる。そのうち五人になると思うけど…なるかな。かがみがそんなに怒ってなけりゃだけど。
昨日は長門と一緒にお弁当というだけでハッピーだったのに、今日のあたしは最高にブルーってやつだ。
「つかさー。善意が裏目に出たときって、何もしなかったときよりもヘコむよね」
つかさもみゆきさんも、心配そうな目であたしを見てる。
長門だけは一定のペースでお弁当をかたしている。じっとその目を見つめると、少しだけ箸が止まった。
ダメだ。あたしには、いまの長門の瞳からなんの感情も読み取れない。小一時間ほど前に隣のクラスであったやりとり、長門が察知してないわけないんだけど。
「おまたせー。って、あたしの居場所が…もういっこ椅子借りるわよ」
おお、かがみん、心の友よ。来てくれたのは嬉しいけど、なんだか顔が合わせづらい。それは向こうも同様らしく、かがみは何も言わずにお弁当を広げた。
これはよくない展開だよ、あたしたちまで気まずい空気になってどうすんのさ。よし、次に目が合ったら謝ろう。
「「ごめんね」」
あたしとかがみ、同時に同じ言葉が出た。一瞬だけぽかんとしてしまう。その隙をついて、向こうからしゃべり始めた。
「あー、あんたのほうが詳しいはずよね、あの二人のケンカのわけ。さっきだって、何とか仲直りさせたくて、わざわざうちに来たんでしょ。それなのに…私には事情なんてよくわかんないのに、余計なこと言ってぶち壊しにしちゃった。ほんと、ごめん」
聞きながら、あたしは猛烈に感動してしまった。かがみは怒ってなんかいなかった、あたしがしようとしてたこと、ちゃんとわかってくれていた。冗談抜きであんた、心の友だよ。
「あ、や、謝るのはこっちのほうだよ。二人がピリピリしてるわけなんて、ラブコメレベルの行き違いだよ。だから、ちょっとつついてあげたら元の鞘に戻るかなーって、思ってたんだけど。余計な手出しだったね。ほんと、ごめん」
あたしの謝罪を聞きながら、かがみはなにやら複雑な表情をしていた。塩ラーメンを頼んだはずなのに、しょうゆラーメンが出てきた…という風情の。
「元の鞘ねえ。別に戻んなくたって…うん、これってチャンスかも…」
なにやら暗い眼をして、不穏当なひとりごとを漏らすかがみ。ちょっと、心の友や、いまダークサイドに堕ちかかってないかい。
つかさはこの話題にまったくついてこれず、ひとりオロオロとしていた。いまはなんだかしょぼんとしている。別に仲間はずれにしてるわけじゃないからさ、あとでちゃんと説明したげるよ。
みゆきさんはさすがに話の大筋を把握したらしく、心配げな目で隣のクラスのほうの壁をちらっと見た。あんまりこの件には首突っ込まないほうがいいよ。いかにみゆきさんの知識だろうと、歯が立たない問題だってあるさ。
そして、長門はじっと見つめていた。あたしでも、隣のクラスのほうでもなく、かがみを。
「あなたの意見は正当、でも最適ではない」
予想もしない相手に突然話しかけられ、かがみは目を白黒させた。
「ええと、長門さん、だよね。どういう意味?」
「有希でいい」
感情の感じられない口調で答えた長門に、やや困り顔になってかがみは言った。
「じゃあ、有希。あんたの言いたいことはなんとなくわかる。自分でもやりすぎたって思ってるから。でもさ、どう対応すればよかったのよ。黙って見てるべきだったって言うの」
しゃべってるうちに、だんだんとかがみは感情的になってきた。んー、その程度じゃ長門は揺るがないよ。
「それも最適ではない。答えはそれらの中間にある」
「そこまでわかってるんなら、あんたが言いなさいよ。仲いいんでしょ、涼宮さんと」
かがみは少しすねた様子になった。長門は微動だにしない。
「私では駄目。私が何を提案しようと、涼宮ハルヒの意にそぐわない意見は却下、あるいは無視される」
それで友達って言えんの、とかがみがぼやく。長門は気にせず話を続けた。
「私に限らず、誰でもそう。彼女に対して有意義な提案ができる人物は、私の知る限り一人だけ。そう思っていた」
今日の長門はよくしゃべるね。いまのセリフ、確実に原稿用紙一行を超えてるよ。
「でも今日、またひとつの例外を発見した。柊かがみ、あなた」
かがみはまじまじと長門の顔を見つめている。変わったやつ、とか思ってるに違いない。
「それで、私に何が言いたいの、有希」
「あなたは今日、涼宮ハルヒに対して嫌悪の感情を抱いたと思う。それでも、彼女とのコミュニケーションを諦めないで欲しい。あなたたちは今後も、頻繁に対立することになると予想される。その葛藤が、涼宮ハルヒに新たな変化をもたらす可能性が高い」
かがみは自分のこめかみのあたりをぐりぐりしながら、この話を聞いていた。さらにしばらく考え込む。
「あんたの言いかたって、正確だけどわかりにくい。つまり、こういうこと?
私の話なら、あの涼宮さんでも少しは聞いてくれるかもしれないから、ケンカしてもいいけどつきあってあげて、って」
長門は微妙にうなずいた。かがみはしばらく長門の顔を見つめたあとに、いまのが『うん』っていう意味なんだと理解した。
「わかりずらっ。はあ、私って、つくづく変わり者と縁があるのね」
うん、それはね、かがみ自身も変わりもんだからだよ。
あっという間に午後の授業も終わり、放課後。
今日も今日とて、団活動に向かおうかね。ちょっと足取りが重い気もするけど。
このままじゃ、あの二人はとうぶん冷戦状態だろうし、だからって下手にいじるとどっちかが爆発する。さすがに地雷原で散歩する気にはなれない。
「今日は無難に、みくるちゃんにでもちょっかい出して遊ぼっか。ね、ながもん」
あたしの後ろを黙ってついてくる長門に、そう呼びかけてみた。
「あなたの自由。私は関与しない」
ちとノリが悪いぞ。まあ、進んで朝比奈さんいじりに参加する長門なんて、想像もつかないけどさ。
「ちいーっす」
がちゃりとドアを開ける。部屋にはすでに二人の先客がいた。
今日のお目当ての人物、朝比奈みくるは、なぜか長門の指定席に座っていて、しかも目を閉じて眠り込んでいた。
そのそばにもうひとりの女性が。おそらく朝比奈さんを眠らせた張本人。
「あっ、泉さん。はじめまして、かな。こっちの私とは」
見たこともないほどの美人さんが、そう言ってあたしに微笑みかけてきた。
「わお。朝比奈さん、カッコ大、カッコ閉じ!」
「え。ええと、あいかわらずですね、そういうとこ」
あたしはすぐさま朝比奈さん(大)に駆け寄り、がしっとその両手を取った。
「いひゃー、すっごい。リアル大人朝比奈さんがこれほどのものとは。はー、あやかりたい、あやかりたい」
握った手に頬ずりするまねをすると、朝比奈さんは困った顔であたしを見た。さらにその背後にいた長門と目があったらしく、やや表情が硬くなる。
「ごめんなさい、あまり懐かしんでいる余裕はないの。用件だけ先に言わせてください」
握り締めていた手を離してあげた。そりゃそうか、この人が単に観光目的で来るはずもない。
朝比奈さんは軽く唇をかんだあと、決心したように言う。
「今夜、世界は大きく変わります」
…うん。あたしたちはしばらく目を見合わせた。
「そんだけ?」
もうちょい説明がほしいな。『変わります』というだけじゃ、なんにもわかんないんですけど。
「それだけです。不親切かもしれないけど、教えすぎることはできないの」
あれか、禁則事項ですっ、ってやつだね。
「いーじゃんいーじゃん、ケチケチしないで教えてよ。人生にセーブポイントはないんだからさ」
ふたたび手をとってぶんぶん揺さぶると、朝比奈さんは長門に助けを求める視線になった。
「未来情報を前提とした行為は、時間線のループを生み出す。循環時空は不安定、なるべく小規模に留めるべき」
朝比奈さんはうんうんとうなずいた。そういうしぐさは、いくつになっても変わらないね。
「丸写しの宿題は身になんないから、できるだけ自分で解けってこと? わかっちゃいるんだけど」
あたしは腕組みして悩んでいるふりをする。ふりだけだよ、こういうの考えるのはキョンの仕事じゃないか。
「じゃあ、そろそろ行かなくちゃ。できればもっとお話したかったんですけど、あんまり時間が」
え、もうサヨナラなんだ。いま会ったばっかなのに。もうちっとゆっくりしてってよ。
「ひとつだけ。禁則なら答えなくていい」
長門が突然そう言い出す。朝比奈さんはびくりとした。
「泉こなた、その他の異世界人の存在。あなたたちにとって規定事項だったとは考えにくい」
朝比奈さんは少し眉をひそめ、唇に指を当ててなにか思案している。いちいち色っぽいぞ。
「いまは禁則事項です。でも…もしも明日という日が無事に来たなら、お話しても構いません」
そう、と長門は答える。じゃあ、とひとこと別れを告げ、朝比奈さんは普通にドアから出て行った。
ちょっと、これほどの美人教師はそうそういないよ。目立っちゃうって。
あたしも慌てて廊下に出たが、すでにどこにも彼女の姿はなかった。うーむ、さすがは謎の美女、去り際もあざやかなり。