ご飯時になる前、部屋で宿題を片付けていたら、ふいにつかさがやってきた。
「お姉ちゃん、文化祭のことなんだけど」
「文化祭? まだ来月だけど。それが?」
つかさは首をかしげた。なに言いに来たの、あんた。
「ん? 陵桜のはまだ先なんだね。そうじゃなくて、北校の。来週なんだよ。で、来れるかなって」
「ああ、そっちの文化祭の話ね。来週の土曜? うん、行ってもいいわよ」
つかさは嬉しそうな顔で部屋に入ってきた。わたしの机に両手を置く。
「でね。あ、お勉強中だよね、ごめん」
残りを終わらせるのに、そう時間はかからない。いいのよ、と答えてシャーペンを置くと、つかさはまたぱっとうれしそうになる。その笑顔を見せる相手でもさっさと見つけたら? 今みたいな勢いなら、たいていの男子は一撃で落ちるでしょ。
「文芸部だっけ、あんたのとこ。そこでなんかやるの」
「うーん。ホントはそうしたかったんだけど、場所も人も足りないし。だからクラスのほう」
部員は四人しかいないんだっけか。それでイベント事ってのは確かにきついわね。
「喫茶店?」と聞くと、つかさは驚き顔になった。
「え、なんでわかったの」
なんでって、定番じゃない。これで違うって言われたら、次は『お化け屋敷』って答えるわよ。
「えーとね、なんて言うんだけ。お帰りなさいませご主人様、っていうやつ」
ぶっ。思わず飲みかけのジュースをこぼしちゃった。うう、不覚。
「メイド喫茶ぁ? よくそんなの許可が出たわね
「そうなの、先生もちょっと反対してたんだけど、どうしてもやりたいって、こなちゃんが」
こなちゃんってのは、あいつか。頼むから、つかさを悪の道に引き込まないでちょうだいよ。
カレンダー上で約一行進んで、北校文化祭当日。特にほかの用事も入らなかったし、顔を出してみることにした。
今日はひとりで来るつもりだったんだけど、なぜか突然。
「なーんかしょぼい学校ねー、県立だから? あ、これ、スチーム暖房っていうのよね。初めて見た」
たしかにわたしも、設備的には陵桜のほうが恵まれてるな、っては感じたけど。それを大声で言わないでよ、在校生のいる所で。
「お待たせしましたぁ。お…おねえさま」
エプロンドレス姿のつかさが、机に紅茶とパンケーキを置く。
お姉さまって、なんじゃそれは。いぶかしんだ視線を送ると、つかさは困り顔で教室の後ろのほうに視線を送った。長い髪のちびっこい女子が、こっちに向けてぐっと親指を立てる。あんたの仕込みかい。
「あ! あんたがかがみの妹ね。ふうん」
いきなりすっとんきょうな声をあげたハルヒは、つかさの頭のてっぺんからつま先までじろじろとながめ回し始めた。おびえるつかさ。ごめん、我慢して。こいつには珍しいものを見ると制御がきかなくなる習性があるの。
「双子ってわりには、あんまり似てないのね。実は、未来から来たかがみの子孫だったりしない?」
するかっての。つかさは、ハルヒに目を合わせようか合わすまいかと迷ってキョドキョドしている。うん、こいつの脳内ストーリーにつき合わされそうになった人って、たいがいこういう反応するのよね。
「そんな面白い事件が起きたなら、まっさきにあんたに報告してあげるから」
「…絶対よ」
さっきまで輝いていた目をとたんに曇らせて、ハルヒはパンケーキをひょいと口に放り込んだ。一枚丸ごとかよ、いくら小さめとはいえ。
誰かが「柊さーん」と呼んだ。思わずそっちを向く。違うか。この学校で、柊なんて名前の生徒は一人しかいないはず。
「あ、うん。お姉ちゃん、お友達も、ゆっくりしてってね」
と言い残して、つかさは教室後方の仕切りの向こうに去っていった。けっこう忙しいみたい。
「ったく、かわりばえしないわねー、文化祭なんて。こんなの楽しいと思ってんのは、やってる本人たちだけじゃないの」
思ったことをずけずけ言えるこいつの性格、うらやましいときとイラつくときがある。今は後者よ。
「そういうもんじゃない、学校行事って。あんたなにしに来たのよ」
問いかけてみたけど、どうもわたしの話なんて聞いちゃいない様子だった。ひとりなにか考え込んでいる。
「タイミング的にはとっくに卒業生よね…でも学祭ぐらいは顔を出してる、かも」
「ちょっと」
再度呼びかけたら、目を合わせてくれた。
「聞いてるわよ。あたしはね、ジョンを探しに来たの、ここに」
は? ジョン?
「あんたには関係ない話」
言いながらがたりと席を立ち、ハルヒは勢いよく人差し指を立てた。
「ついてこないでよ」
それだけ言うと、すたすたと教室を出て行った。食べるの早いわね、あいかわらず。
ホントに、どこまでもマイペースなんだから。たまには普通の友達らしく、いっしょにあちこち見て回ろうと思ってたのにな。
ひとり寂しく――うう、マジで寂しいわよ、あのバカ――、わたしは紅茶の残りを飲み干して席を立った。眼鏡っ子のメイドさんが音もなく歩み寄ってきた。
「お会計を…おねえさま」
「あんたもかい」
そうツッコむと、彼女は恥ずかしそうに目をそらした。むむ、可愛いぞ、これは客寄せになる。
ところでハルヒの分は。あいつお金なんか払ってないわよね。まさか、わたしが出すの?
特にすることもなく、仕方なくひとり校内散策。
この学校はなんだか不思議な感じがする。来たのは入試以来のはずなのに、そんな気がしない。
懐かしい、という感覚ともちょっと違っている。どこにどんな教室があるのか、なんとなく体が覚えている感じ、というか。
一年生エリアはひととおり見て回ったので、二年生エリアに突入。ひとつだけ、なんだかすごい行列ができているクラスがあった。いったいどんな出し物を? 今後の参考のために中を覗いてみる。
ここも、なにやらメイドっぽい喫茶店だった。ひとり、ものすごくかわいい子がいて、滑車を回すハムスターのようにくるくる走り回って働いてる。
もしや、並んでる人たちはみんなあの子目当て? ここもだいぶんカオスな学校ねえ。
なんて考えながら歩いていると。
「やあキミ、どこの子かな」
見知らぬ男子に、突然声をかけられた。誰。
「よかったら、俺たちとお茶でも飲まないか?」
髪をオールバックに撫で付けたその男子は、にっと笑いかけてきた。あんた歯に青ノリついてるわよ、お昼にヤキソバでも食べたでしょ。
これは、あれよね、いわゆるナンパってやつ。ハルヒといっしょに街を歩いているときに、何度かこういう手合いに声をかけられたことはあるけど、わたし単品でってのは初めてかも。
制服から見て、こいつは北高生らしい。自分の学校でよくやるわね。その背後には、こいつの連れらしき男子がふたりいた。一人は苦笑い、もう一人は壁に寄りかかって憮然としている。
はあ。友達の前で度胸試しってわけ? こんなの相手にしてらんない。
「悪いけど、よそを当たってちょうだい」
彼の目の前で手を振ってみた。ナンパ男は一瞬ムッとした顔になったあと、すぐにぎこちない作り笑いに戻り…わたしの手を握ってきた。
「別に変なことしようってんじゃないんだ、ただキミと仲良くなりたくてね」
変なことなら今まさにしてるでしょうが。いいからこの手を離しなさい。
ほっぺたをひっぱたいてやろうと思って、ややためらった。こんなのでもいちおう他校の生徒。もめごとを起こしたらまずいかな。いや、これは正当防衛よ。思いっきりビンタの刑を執行するしか。
「やめろ馬鹿。嫌がってんじゃねえか」
彼の連れらしき男子が駆け寄ってきて、ナンパ男の襟元をつかんで引っ張った。あ、助かったかな。
あんまり事態をおおごとにしたくないし、こいつがナンパを諦めてくれれば、それで問題なし…
「あーっ!」
バカでっかい叫び声が廊下に響き渡った。
ややこしい事態ってのは、すぐに対処しないとさらにややこしくなるのね。うん、学習した。お願いだからこれ以上注目を集めるのはよしてちょうだい、ハルヒ。
わたしの手を握る力が、ぐっと強くなった。ナンパ男は大声のしたほうを見つめて、口をあんぐりとあけている。
「うげ。す、すず…」
彼の目は見開かれ、口角がぴくぴくと引きつっている。握られた手にじっとりと汗ばむ感触が伝わってきた。うう、気持ち悪い。
だだだっと猛烈な速度でハルヒが駆け寄って来る。そのままの勢いで、つながれた手にチョップを叩き込む。やっとわたしの左手は開放された。
ありがと、ハルヒ。だけどもうちょっと手加減してくれてもよかったんじゃない。いまの、わたしもかなり痛かったんだけど。
「谷口! あんたなに、こいつを口説いてたの。本当に進化してないんだから。この類人猿!」
ハルヒがナンパ男に怒鳴りつけた。彼はいまや顔面蒼白、口をぱくぱくさせている。
「う、え、涼宮ぁ? なんで、おまえ、ここに」
「あたしが来てちゃ悪いっての」
しばらくふたりはにらみ合い続ける。ええと、見た感じ、知り合いみたいだけど。中学のときの同級生とかかな。
ハルヒは彼をにらんだまま、わたしの手を取った。両手でぎゅっと包み込むように握る。
「あんたなんかが、あたしの友達に、勝手に触らないでもらえる」
このひとことで、ナンパ男、谷口とやらはふと我に返ったらしい。不思議そうな顔になってわたしたちの手元に目をやった。
「あ? おまえにオトモダチだって。その子が」
彼はわたしの顔を見つめた。その瞳が、さっきまでのいやらしい視線じゃなくて、なんだか憐れみの色を帯びている。
「はあ。そりゃあ気の毒に」
あれ。もしかしてわたし、本気で同情されてる?
ハルヒの両手にぎゅうっと力がこもった。腕がぶるぶると震えてる。ちょっと、痛い、マジで痛いから。
「そんなにおかしい? あたしに…とも…」
ハルヒは半歩だけ前に出た。谷口とやらが、同じ距離だけ後ろに下がる。まずい、ここでこいつに爆発されたら、もうわたしじゃ止められないぞ。
「ぐへっ」
ナンパ男がいきなり情けない悲鳴をあげた。ここからじゃよく見えないけど、どうやら、彼の肩をつかんでいた男子が背中に膝蹴りを食らわせたらしい。
「なにすんだ、キョン…っ」
背後にいた男子は、ナンパ男の頭部をヘッドロックでしめあげて、さらにゲンコツで頭をぐりぐりした。
「悪いな、こいつ馬鹿なんで。できれば気にしないでくれ」
今までの様子をずっとながめていたもうひとりの男子がやってきて、締め上げられたナンパ男のわき腹に、笑顔で肘打ちを入れる。
「ごめんね、すぐに止められなくて」
「ホントにわりい。ほら、行くぞ、おまえの好きなメイドカフェ」
そのままふたりがかりで両腕を押さえ、引きずるように連行してこの場を立ち去ろうとした。
「待って」
ハルヒが男子達を呼んだ。三人ともぎくっとした表情でこちらを振り向く。
「あんた、どっかで…」
このときハルヒが、誰になんと言おうとしていたのか。それがわかるのはしばらくあとのことになる。
「なんでもない」
彼女もわたしに背を向けて、男子達とは逆方向に歩き出した。
「あ、んもう、待ちなさい」
ハルヒに駆け寄って、その肩に手を置く。長い髪に隠されて表情はよく見えない。
「さっきはよくも食い逃げしてくれたわね。今度はあんたがおごる番よ」
冬・一日目へ