気がつくと、わたしは見知らぬ建物内の廊下にいた。
革張りのソファー、車輪つきのベッド、かすかな消毒薬の匂い。ここ、病院かな。
立ち上がって、すぐそばの病室のネームプレートを見る。キョンの本名が書いてあった。そうか、『消失』のラストシーンね。
とりあえずドアをノックしてみる。しばらくして、「どうぞ」と落ち着いた声で返答された。
病室内には、点滴につながれてベッドに眠るキョンがいた。ちょっと苦しそうな寝顔。
足元に何かがぶつかりそうになった。見ると、ハルヒが寝袋にくるまって横たわっている。
そして目の前の質素なパイプ椅子では、無表情の長門有希が読書中だった。
「ええと…具合、どう?」
とりあえずそう聞く。あのあと、脱出プログラムとやらが作動したあと、キョンは何をしてたんだっけ。
「打撲自体は軽度と聞いている」
そっけなく答える長門。
「打撲? 刺し傷じゃないの。タイムスリップ中に朝倉に刺されて…あ、それで結局は、階段から落ちたことになってるんだっけ」
長門はわずかに目を見開き、高速で何かをつぶやいた。え、なに、ちょっと。
「タスクログチェック…エラー要因解析…中断」
こいつがなに言ってんのかはよくわかんないけど、謎呪文でわたしをどうこうしようって気はないらしい。
聞きたいことはいろいろあるんだけど、聞いたからって簡単に教えてくれるとも思えないし、どうしたものか。
とりあえずは。
「それで、キョンはいつ目を覚ますの」
長門は一度だけ機械的にまばたきした。
「約三十分後。さらに十分後には涼宮ハルヒが覚醒する」
そこまでわかってるんだ。頼んでもいないのにハルヒの分まで教えてくれたし、もっと聞いてもいいのかな。
「結局、いまどういう状況なの。話せるぶんだけでいいから教えて」
無機質な瞳でわたしを見つめる長門。文芸部長のゆきちゃんだった頃のはにかみは、かけらも感じられない。
「緊急脱出プログラムによる世界の修復が完了したのは、約三分前」
三分前って。わたしがついさっき、廊下で目を覚ました時点からこの世界が始まったのね。
しばらくわたしの表情をうかがってから、長門は解説を再開した。
「そのさい発生した予期しないエラーにより、あなたに対する記憶改変は不完全に終わった」
ここで言葉を区切り、じっとわたしを見つめる。「それで」と、うながすと話を続けた。
「プログラム起動時、あなたは記憶多重状態にあった。複数の記憶に対して同時に改変が試みられた結果、負荷増大によってあなたの人格が破壊されるおそれがあったため、記憶改変タスクが強制中断された」
は? いきなりそんな矢つぎばやに説明されても。飲み込むのにちょっと時間がかかる。
「簡単に言うと…わたしの記憶が戻りかけてたせいで、うまくいじれなかったってこと?」
長門はうなずいた。ったくもう。やめてよね、ひとの脳内に変なものインストールするのは。
まだわたしを見つめている長門が、不意に言い出す。
「あなたに質問がある」
質問? いまの長門にもわかんないことなんてあるんだ。
「プログラム中断時のログは不完全にしか残っていない。現在のあなたが、どの平行世界のあなたを主体としているのか、わたしには判別が困難。あなたの自覚している『柊かがみ』とは、どのような経歴の人物であるのか、教えて」
はあ、と間の抜けたため息しか出てこない。
「自分でもわかんないわよ。あんたたちに出会ってなかった世界のわたしと、みんなとSOS団で遊んでたわたしと…それから、あんたが普通の女の子だった世界のわたしと、もうぐちゃぐちゃ。なんとかしてよ」
恨みのこもった視線で長門をにらんでみる。そのぐらいでどうにかなる相手じゃないのはわかってるけど。
「強制的統合は可能だけど、推奨できない。あなたの記憶の順序構成に異常をきたす可能性が高い」
「じゃあいい。これ以上いじんないで」
もう長門のほうから聞きたいことはないみたいだった。手元の分厚い本に視線を落としている。こっちはまだ消化不良なんだけど。
「わたしからもひとつ、いやふたつみっつかな、聞きたいことがあるんだけど」
無言、無反応。せめてイエスかノーかぐらいは教えてよ。しかたない、返答を期待しないで聞いてみるか。
「あの世界はどうなったの。暴走とやらを起こしたあんたが変えた世界。ただの夢だったっていうの」
わたしとハルヒが分かりあえた、つかさが自分で友達を作れた、あの思い出。全部この長門がでっちあげて、むりやり植えつけた物語だったの?
長門はひたすら読書中。答える気はさらさらないってことらしい。もう怒るのもバカバカしくなって、彼女から目をそらしたとき。
「イエス、だけどノー」
無意味きわまりないお返事、どうもありがと。こなた流に言うなら『日本語でおk』ってとこかしらね。
「端的な説明はできない。あなたに理解してもらえるかも不明。それでもよければ聞いて」
おっと。もしかしてこいつ、無視してたんじゃなくて説明を考えてた? ああもう、わかりづらい。
「暴走を開始したわたしは、涼宮ハルヒの意識体を一部拡張して、現実世界に酷似した閉鎖空間を創造した。そこに、いままで彼女とかかわりあったすべての人物の記憶を、時間軸を一年分巻き戻してアップロードした」
うん、それで? 言葉には出さず、軽くうなずいてみせる。
「もしも涼宮ハルヒになんら特殊な能力がなかったなら、という仮定のもと、時間軸を圧縮して世界のシミュレーションを行った。
擬似空間における内部時間が、現実時間に追いついたタイミングで、シミュレーションデータをもとに現実世界の構成情報を書き換えた。それが約三日前」
わたしはしばらく考え込んだ。長門をじらすためじゃなくて――じれるとも思えないけど――自分の考えを整理するために。
「わたしとつかさが別の学校に通ってた、ここ一年で起きたこと…あれ全部、あんたの作った閉鎖空間の中の話だったのね」
長門はうなずく。そっか、こいつは即答できる質問じゃないと返事ができないんだ。
「客観的にはすべて偽りの記憶。だけどその中にいた者にとっては事実。だから先ほどの回答は、イエスであり、かつノー」
はあ。この子の話は理解するのにエネルギーがいる。もしキョンやこなたが同じことを聞かされたら、『わかんないけどわかったからもういい』とか言い出しそうね。
だけどまだ。飲み込めないことが多すぎる。
「昨日、なのかな。文芸部室にキョンが持ってきたマンガ。らきすた、だっけ? あれはなんなの。あれをキョンに渡した女の子ってのも」
わたしとつかさ、こなた、みゆきとで遊んでた記憶。北校が、SOS団が存在すらしてなかったあの世界。そこでのどうでもいいような日常が、密かに誰かに見られてた?
わたしが今こうやって長門と話している瞬間さえ、実はどこかの誰かに観察されているような気がして、少し寒気がしてきた。
「プログラム起動の鍵として設定した二冊の書籍は、異なる外部観測世界において発行されたもの」
わたしの不安感を見透かしたのか、長門はしばらく言葉を続けなかった。掛け時計の秒針がちくちく刻まれる。
「ひとつは、あなたが本源的に存在していた世界。そこでのあなた、ならびに泉こなたは、われわれの世界に対する外部観測者であった」
そうか。わたしも涼宮ハルヒシリーズの読者として、キョンの心の中まで覗き見してたわけで。これだって、本人が知ったら『気持ち悪いからやめろ』って言われそうな話よね。
「通常、外部観測世界と観測対象世界は交差しえない、それは宇宙の破綻を招くから。しかしあなたたちの本源世界は奇妙。世界内部に存在するキャストが、同時にその世界の観測者でもあることが許容されていた」
ここで長門は、ベッドに横たわるキョンにふっと視線を移した。
「彼に鍵を渡した人物も、そのような多面観測者の一人。あの漫画は、観測者としての彼女が個人的に所有していたもの。多面観測者に対しては情報統合思念体も興味を持っている。いずれまた会う」
できれば出会いたくないなあ、そんな怪人物なんて。ハルヒ並みにぶっ飛んだやつだったらどうしよう。
「なんだってあんたは、そんな怪しげなアイテムをキョンに集めさせようとしたのよ」
「必要だったから」
うん。それはそうよね、無駄だったらあんなヒント残さないでしょ。聞きたいのはそこじゃなくて…とか思ってると。
「あなたに理解してもらう必要があったから。彼の話は、無根拠な妄想などではないと」
ん? たしかに。『ジョン』の話を聞いてた時点では、キョンのことを悪質なストーカーかなんかだと思いこんでた。
「鍵についての具体的な記述は、本来なら蛇足。彼が、わたしたちを文芸部室に集めた時点でプログラムが起動するはずだった」
『本来』ってのは、原作どおりの展開なら、ってことね。そりゃそうでしょ。聞きたいのは、なんで原作とは鍵が違ってたのか。
「改変された世界において、涼宮ハルヒは容易に彼の話を信じるはずだった。また、わたしも彼を信頼し、見知らぬ人物を部室に入れることを受け入れるはずだった。暴走したわたしの中の、改変をよしとしない部分の意識にとって、それが最後の期待であった。でも」
長門はわたしを見る。
「あなたの存在が予定を変えた。あなたは彼を危険な人物と考え、涼宮ハルヒ、ならびにわたしを彼から遠ざけようとする可能性が高かった。また、実際にそうした」
「う。だってありえないじゃない、キョンの言ってたような話。常識で考えたら」
長門の冷徹な瞳に責められてるような気がして、つい口調が荒くなる。
「そう。だからあなたにとっての常識を揺さぶる必要があった。鍵とした書籍のどちらかを読めば、あなたの強固な現実認識にショックが与えられ、本源世界の記憶が取り戻されるのではないかと期待できた。そこに賭けた」
「椅子、借りるわよ」
病室内にひとつ余っていたパイプ椅子をひっぱり出して腰掛ける。ふう、と一息つく。
ただでさえ記憶が混乱しててどうにかなりそうなのに、そこに長門の宇宙的解説を詰め込まれたもんだから、頭がくらくらしてきた。
「それで。話が戻っちゃうんだけど、いまはどうなの」
言ってから気がついた。こいつにこういう質問の仕方しちゃダメなのよね。具体的にイエスノーで答えられるやつじゃないと。
「いま、とは」
ほら来た。
「わたし以外の記憶操作はうまく行ったのよね。あんたが作った世界のことはみんな忘れて、無かったことになってるのよね」
長門の反応は予測できてる。たぶん軽くうなずくだけ…ほらやっぱり。
わたしがジョンにキレた理由。それは、わたしが大切に思っていたものを壊されそうだったから。ハルヒとの関係を、つかさの成長を、台無しにされてしまいそうだったから。
でも初めから、そんなもの夢だった?
本当のハルヒはただワガママなだけのやつで、本当のつかさはわたしがいないと何もできないやつで。それをなんとかできたなんて、ただのわたしの妄想で。
もう一度長門の顔を見つめる。無表情、無感動。
「なんであの時キョンは、エンターキーをなかなか押せなかったんだと思う?」
「わからない」
そこは即答か。人間ごときの感情なんか知りようがないって?
「なんであの世界では、あんただけ大幅にキャラが変わってたの」
「暴走したわたしがそう望んだから」
まるでひとごとみたいに。
「なぜそう望んだの」
しばらく沈黙。
「答えられない」
ふうん。わからない、とは違うのね。わたしには言えないってこと? わりと人間っぽいじゃない。でもね。
「わたしは、いまの人形みたいなあんたより、つかさの友達のゆきちゃんが好き。あの子はどこにいったの」
一拍、間をおいて。
「ここにいる」
「ここにいる? 本人なんだから気にすんなとでも言いたいの? そうは見えないから聞いてるんじゃない」
つい感情的になってしまう。こいつは自分の都合で世界を作って、書き換えて…ううん、問題はそこじゃない。
たとえニセモノの世界でも、そこに確かにあった思い出を、努力の結果を、もういらなくなったからって簡単に消してしまえることに腹が立つ。
長門はただ黙ってこっちを見つめている。なに興奮してるんだろ、わたし。つい立ち上がってしまった席について、呼吸を整える。
「説明させて」
まだ言いたいことがあるっての?
「わたしの対人コミュニケーション能力には欠陥があり、時に他者に不快感を与えることも自覚している」
「わかってるんなら直しなさいよ」
「試みた。それがもうひとりのわたし。蓄積されたエラーによって異常動作したわたしが、こうありたいと望んだ自分自身」
どうしてそう難しい言いかたするんだか。蓄積されたエラー、ね。普通の日本語で言うなら『悩み』じゃないの?
対人関係の悩み、それからたぶん、恋の悩み。普通ならそこで『自分を変えよう』って思うはずのところが、こいつは『変わった自分』のいる世界を丸ごと作っちゃったわけだ。暴走にもほどがある。
「もうひとりのわたしの記憶と行動原理は、現在のわたしの中に展開されている」
「見えない」
「外面的判断は難しいかもしれない」
「証拠でもあるっての」
「間接的になら」
「見せてよ」
長門はしばらく押し黙り…突然、例の高速謎呪文を唱えた。今度はなに?
「いま呼んだ。約十秒後に到着する」
呼んだ? 到着? 誰を。
この長門有希が、なにやら宇宙的テクニックを使って呼びつける人物とは…なんか、いやーな予感がする。
病室のドアがノックされる。長門が答えて、ドアが開く。
「まったくもう。人づかい荒いんだから」
ドアの向こうから朝倉涼子が顔をのぞかせ、笑顔でわたしに手を振った。
「あさっ…ちょっと、こいつ、あんたが消したんじゃ」
タイムスリップ中――この世界での三日前――キョンを刺した朝倉は、もっと未来の長門に消された、原作どおりならそのはず。でも現に朝倉はここにいる。わたしが筋書きを変えたから?
「あーあ、嫌われちゃったかなあ。そうよね、当然よね」
彼女は本気でしゅんとなって落ち込んでるように見えた。これが普通の人間だったら、わたしも『まあまあ』とか言って肩のひとつも叩くとこだけど。
「あんた、わたしを殺す気まんまんだったでしょ」
世界が元に戻る寸前の、こいつの血走った目と凶悪なナイフ。当分は忘れられそうにない。
「あの時は、ついカッとなっちゃって。いまは反省してるわ」
なにその酔っ払い暴行犯みたいな言い訳は。朝倉は上目づかいでわたしを見る。外面上は可愛いよ、それ。見た目だけなら。
長門がすっと席を立った。
「わたしの異時間同軸体は、彼女を消去しなかった」
「それが、間接的証拠ってやつ?」
長門はうなずき、朝倉と目を合わせた。朝倉がわたしを向く。
「当初の予定だと、あたしはそれほど長門さんと親しくなるつもりじゃなかったの。影からたまに見守る程度、かな」
それは知ってる。
「でも予定通りにはならなかった。柊さんと泉さんが、長門さんのお友達になったから。あたしが保護者役の使命を果たすためには、彼女たち以上に長門さんと仲良くしなくちゃいけなくなったの」
「それで、あっちの世界の文芸部にやたら部員が増えたわけね」
宇宙人二人が同時にうなずく。動きがシンクロしてる。今度は長門が説明する。
「その結果、もうひとりのわたしは朝倉涼子に対して全幅の信頼を置くようになった。おそらく、柊つかさがあなたに対して抱く感情に近いほどに」
思えば、記憶の中のゆきちゃんは、りょうちゃんとほとんどセットで登場してたな。
「その記憶が今も残ってるから、朝倉…さんを消せなかったと」
「詳細な理由は不明、同期を拒否されたから。だけどたぶん、そう」
こいつらにだって、誰かを大切に思う気持ちはあるのね。ただ地球人とはちょっと異質なだけで。さっき長門を人形みたいだなんて言ったこと、少し後悔する。
「前の世界に影響されてるのって、あんただけ? つかさは、ハルヒは」
ふと足元の、寝袋にくるまってるハルヒを見てみる。さっきから近くでけっこううるさくしゃべってるはずなのに、まるで目覚める気配なし。
「現在、情報統合思念体は涼宮ハルヒの放つ情報波を解析中。今回の世界改変の前後で、明らかに波形が変化している。きっかけは、あなた」
「こんな方法があったなんて、思いもよらなかったな。旅人のコートを脱がすには、北風より太陽のほうが有効なんだっけ?」
淡々と語る長門、にこやかに語る朝倉。表情からまるで真意が読めないってのは共通してるのよね。
長門は持っていた本を小脇に抱え、さっきまで座っていた椅子を壁際に寄せた。
「彼の覚醒まで、あと十分」
それだけ告げて病室を立ち去る。ようやっと、もう話すことがなくなったらしい。
どうせなら目を覚ますとこに立ち会えばいいのに。顔が合わせづらいんだっけ? 自分の暴走のせいでキョンがこんな目にあったから。
「あ、長門さん…もう、呼ぶだけ呼んどいて」
朝倉がぼやく。いまの仕草だけならごくごく普通の女の子なんだけどな。こいつの完璧な演技力が、なんで長門にはかけらもないんだろう。
「じゃあ、あたしも帰るわね。彼がショック死しちゃうといけないし」
あんたもまたひとごとみたいに。
「こいつを病院送りにしたのは誰よ。そんなにキョンが嫌い?」
朝倉は人差し指を唇に当て、小首をかしげて思案する。
「そんなことないわよ。どっちかといったら、好き、かな」
長門とは別の意味でイライラしてくる態度ね。わざとやってんの。それともそういう行動パターンしか取れないの。
「こいつを刺したとき、どんな気分だった?」
つい意地悪なことが聞きたくなる。うん、わたしは意地悪のつもりで言ったのよ。だけど朝倉は…ちょっとうつむいて、恥ずかしそうな顔になった。
「え、やだ。そんなこと聞くの?」
おい。その反応がわからん。わたしはこいつに、人を刺した感想をたずねたんだけど。
「これ、言おうかな、どうしようかな。あなたぐらいにしか、話せそうにないし…」
まるで友達に恋の相談をしようか悩んでるみたいにして。
「いちおう聞いてあげる」
朝倉は、恥じらいながらも「うん」とうなずいた。
「前にね、彼を殺そうとして、逆に長門さんに消されちゃったとき。体がどんどん分解していって、あーあ、これからあたし消えちゃうんだあ、って思ったら…すごくゾクゾクしちゃってね」
は? ゾクゾク?
「意識が別のレベルに変化して、これが人間のいう『快感』ってものなんだ、って理解できて。でも今回のあたしは、長門さんには逆らえないように作られちゃってるから、大好きなあの子にもう一度消してもらうには、どうしたらいいかなあって考えていたの」
なんなのこいつ。わたしの頭が理解を拒否してる。
「そうしたら、彼ったらあたしの長門さんに物騒なもの向けてるから、急に頭がカーっとしちゃって、つい、こうグリグリっと。だから刺したときの気分は、うーん、期待で胸いっぱい、かな」
変態、としか言いようがない。おまわりさーん、いや、無駄か。国連軍を総動員したってこいつは止められないぞ。
「それなのに、長門さん…未来のあの子のほうね、すごく悲しい目をしてて、何も言わないであたしをぎゅうって抱きしめてくれて。そうしたら、涙が止まらなくて、呼吸も難しくなって」
夢中で話し続ける朝倉。なんだか視線がはるか遠くを見ている。こういうの、前にもどこかで…そうだ。中学のとき、峰岸が『柊ちゃん、わたし好きな人ができたの』とか教えてくれたときと同じ目をしてる。
「柊さんや泉さんといっしょにいたときのこと、ぐるぐる思い出しちゃって。あのころは本当に幸せだったなあって、もう手が届かなくなってからわかっちゃったの。それで、あたしなんて悪い子なんだろうって思ったら、消してもらったときよりずっと気持ちよくて」
もはやわたしは機械的にうなずき続けることしかできなかった。うん、うん、わかった。わかりたくもないけど。
朝倉は両手で頬を押さえてうつむいている。すごくいじらしいよ、態度だけなら。これが普通の恋の相談なら全力で応援させてもらうんだけど。
「はあ…これ、誰にも内緒よ。お願いね」
わたしを殺そうとしたときとはまるで別の、でもやっぱり尋常じゃない目線で見つめられる。
「あ、うん、わかった。約束する」
ここで『イエス』以外の返事、できるわけないでしょうが。わたしだって命は惜しいわよ。
絶対よ、と念を押して、朝倉も病室を去っていった。
で。
お見舞いのリンゴをむいたりしているうちに、長門の予告どおりの時間にキョンが目を覚ました。
いろいろ聞いてくるんで、さっくりと答えてあげる。もちろん朝倉については隠しておいた。
やがてハルヒも目を覚ます。起きるなり罵倒の嵐をキョンに浴びせる。まあ『照れ隠し=怒り』の方程式が成り立つ女だしね。
わたしの顔をちらっと見て。
「あんた…意外と落ち着いてんのね。あんな大げさに心配してたくせに」
「え。んー、絶対目を覚ますってわかってたから。来るべき時が来ただけよ」
ハルヒはまたキョンにぶちぶち文句を言い始めた。とりあえずこれでごまかせたらしい。
キョンが寝込んでいたことになってる三日間の記憶、わたしにもないのよね。
たぶん長門は、キョンが事故ったという設定で三日分のシミュレーションをして、それを現実世界に上書いたんだと思う。
その世界のわたしはどんな反応してたんだろ。あとでつかさに聞いとこう…あいつも心配してるんだろうし、状況を教えてやるか。
いったん屋上に出てメール。無題で『キョン起きた』っと。
病室に戻ってみると、朝比奈先輩がベッドに取りすがって大泣きしてた。お通夜じゃないんだから。
古泉君もいる。いつものハンサムスマイル。あいかわらず表情が読めない。
つかさとこなたがいっしょに来た。
キョンの顔を見るなり、いきなり床にへたり込むつかさ。そこ入り口だよ、邪魔だぞ。
すべりまくる冗談を飛ばすこなた。空気読め。ん、いまこいつ目元をぬぐったぞ。よーく顔を見せてみ…あ、逃げられた。
ところでみゆきは? いた。廊下で静かに涙を拭いてる。あんたは空気読みすぎ、入ってこーい。
あんまりドタバタしすぎたんで、わたしたちは病室からつまみ出された。キョンの家族も来たんで、今日のところは解散。
結局長門は来なかったけど、二人であとで話したいことでもあるんでしょ。
つかさと二人で帰り道。むやみにはしゃぐつかさの話を適当に聞き流しながら、自分がここ三日間どんな感じだったのかをそれとなく聞き出す。
どうやらひたすら落ち込んで、イライラしてて、話しかけてもヒステリックな反応しか返ってこないんでみんな放置してたらしい。みっともないなあ、わたし。
それにしても。
知ってしまった。
ハルヒが世界の中心であることも、SOS団が人類史上まれに見る奇天烈集団であることも知ってしまった。
ついでに、ハルヒシリーズの読者として、これから数ヶ月以内にSOS団に襲いくるであろう珍事件の概要も知ってしまった。
問題はここから先、原作どおりには行かないだろうってこと。
わたしはハルヒを放っておけないし、長門の言葉を信じるなら、この世界のハルヒもわたしを放っとかないだろう。
普通人が触れちゃいけない領域のあれこれを知ったからって、わたし自身がどう変わるわけでもなく、一歩間違ったら命の危険すらありうる騒動に、わたしがこれから巻き込まれるであろうことは確定しており。
でもまあ、そういう難しいことを考えるのは、ハルヒとクリスマスパーティーをしてからでも遅くないわよね。