泉どなた
◆Hc5WLMHH4E氏の作品です。
目で見たもの、耳で聞いたもの、手で触ったもの、舌で味わったもの、鼻で嗅いだもの。
人はその五感で感じ取った情報によって、喜怒哀楽と様々な感情を抱く。
そしてその時抱いた感情は、思い出と共に頭の中にインプットされるのだ。
夕暮れ時の太陽が辺りを淡いオレンジ色に染め上げる今の情景を目にして、
なんとも説明できないわびしい気持ちになってしまうのは、
今でも鮮明に思い出すことが出来る、幼い頃に夕日の中公園を走り回ったあの日と、
汚れた格好のまま食べた安い駄菓子の美味しさを、もう二度と味わうことが出来ない。
そのことに心のどこかで気付いているからなのかもしれない。
それは色の所為なのか、沈み行く太陽の姿にそう感じてしまうのか、
夕暮れは人の感情を揺さぶり、センチメンタルなものにする。
さらに困ったことに、こうして静かな空間にいると余計その度合いが増してしまうのだ。
「でも綺麗だね」
「あぁ」
夕日に照らされたつかさの顔はやはりオレンジ色で、目前に広がる夕焼け空に
つかさが何を感じ取って何を思うのか、その感情を読み取ることは難しかった。
始め椅子に座っていたつかさは、やがて立ち上がり窓際に向かった。
そして俺に背を向けて窓にそっと手を沿えると、食い入るように外を眺めていた。
「……スン」
俺はてっきり、このような鼻を啜る音が聞こえてくるのは、
つかさが風邪を引いているからだとばかり思っていた。
……それに嗚咽が混じり始め、その小さな背中が震えだすまでは。
「うぅ……ぐすん」
「つかさ?」
理解しがたい光景を目の前にすると、誰であろうと一瞬思考がストップしてしまう。
しかし泣いているつかさをこのまま放っておくわけにもいかない。
俺は傍まで行き、出来うる限り穏やかな口調で語りかけた。
「……どうした?」
嗚咽を繰り返しながら、つかさは首を左右に振る。
「ち、ちがうの……何でもないの」
「何でもないわけないだろう?」
「ううん……悲しいことも、嫌なことも何も無いの。
みんな優しくて良い人ばかりだし、毎日がとっても楽しいんだ」
つかさは小さな手で、流れ出る涙を懸命に拭いながら答える。
では、その涙は一体何なのだろう。
嬉しいのか? 悲しいのか? 悔しいのか? 苦しいのか?
「わかんない…けど、あの夕日を見てたら……」
夕暮れは人の感情を揺さぶり、センチメンタルなものにする。
ギュッと唇を噛み締めるつかさ。 だがその目からは涙が止め処なく流れていた。
「うわぁぁぁん! キョンくーん!」
殆どタックルに近い状態で俺に飛びつき、つかさは幼子のようにワンワンと泣き出した。
自分でも何が何だか分からぬまま、ただ流れ出る涙を抑えきれずに泣き叫んでいる。
それなら涙が枯れるまで、思う存分泣けばいいさ。
その時まで俺がこうして頭を撫でてやるし、背中を叩いてあげようではないか。
「落ち着いたか?」
「うん、ゴメンね」
ようやく泣き止んでくれたつかさは、もう一生分は涙を流したというほど疲れきった表情をしており、
目は充血し、鼻はまるでそこにリンゴの実が生っているかのようだった。
「なにか飲み物買ってくるから、その間に顔でも洗ってろ」
笑顔が戻ってきたつかさにそう言い残して、
――つかさは確か水やお茶が飲めないとか言っていたような…いやあれは違ったか?
などと考えながら廊下に出てみると、窓から見える空はまだオレンジ色だった。
この日の出来事も、二人の心の中の『夕日』というカテゴリに保存されることだろう。
それをふと思い返すのは、一体いつになってからだろうな。
もしその時にまたつかさが泣き出したとして、涙が枯れるまで頭を撫でてあげるのは、
震えが収まるまで背中を叩いてあげるのは、やはり俺なのだろうか?
外では夕日が輝いている。