泉どなた ◆Hc5WLMHH4E氏の作品です。
耳にあてがった個人用小型精密機器が、電気信号に変換された音声を受信し、
離れた場所で同じように機器を耳に当てているであろう少女の声を聞かせてくれた。
『今週末、久しぶりに会ってどこへ行くのか?』
その計画を嬉々として語る彼女の声は、少し疲労が感じられるが明るかった。
まぁ疲れが貯まってしまうのも無理はない。
彼女はいつも忙しく、こうして電話をする時間も取れないほどなのだ。
「お買い物に行ってぇー、あと遊園地にも行きたいし水族館も動物園も……」
「おい、そんなの一日が何時間あっても足りないぞ」
「はぁ? アンタねぇ、今度オフになったのはホントたまたまなの!
アンタ等と違って週休二日、土日休みなんてこと言ってらんないのよ?」
「まぁ確かにそうだが……」
知らず知らずに広がってしまった溝を埋めるためには、
それだけ大量の土砂がいるし、沢山の時間を費やす必要がある。
普段会えない鬱憤を晴らすには、一分一秒も無駄には出来ない。
撮影、収録、雑誌のインタビュー、ブログの更新、打ち合わせ。
握手会に一日所長に、テレビのレポーターにラジオのナビデーター。
多忙極まるとはまさに彼女の為にこそある言葉なのだろう。
ただ彼女が今置かれている立場において、忙しいことは非常に良い事だ。
それだけ知名度が高いと言えるし、それだけ人気もあるという証拠。
もちろん彼女自身もそれを良く理解しているはずだ。
それとは間逆に位置するというのに、華やかな世界とは誰が言ったのだろう。
確かに俺達がブラウン管や液晶パネルなど、画面ごしに見るその世界は煌びやかであり、
自分達一般人とはかけ離れた生活に、ある種憧れを抱くかもしれない。
……だが、どの場合においても理想と現実は大きく違う。
その実情がどういったものなのか俺にはよくわからないが、
彼女は華やかさ、煌びやかさを世間に見せるために、皆の憧れの対象となるために、
テレビでは映らない、俺達の知り得ないところで一生懸命努力しているのだろう。
それが現実とは丸っきり正反対で、180度違っていたとしても。
まだ十数年しか生きていない幼い身体で、その重圧に耐えるのは容易ではないだろう。
だからこうして電話で話をしていると、張り詰めていた心が緩んでしまうのか、
明るかったその声が、少しずつ少しずつ暗く悲しい音色へと変化していく。
「私は普通に学校に行って、勉強して、休みの日には好きな人とデートして……
今みたいに大人達相手に作り笑い浮かべてさぁ、ご機嫌取るなんてバカみたい」
その“大人達”の顔が浮かんでいるのか、吐き捨てるようなその口ぶり。
たしか三歳の頃からすでに活躍していたと聞いたことがある。
そんな彼女は、一般人が憧れを抱くのと同じように、俺達で言う普遍的で変わりばえの無い、
時に面白味に欠けたとさえ感じる平凡な生活に対して強い憧れを持っているのだ。
彼女にとっての華やかな世界は俺達の側にあったのである。
二人の間には川が流れ、時として渡るのが困難なほど氾濫する。
そこには橋も無く、渡し舟さえも存在しない。
俺達は川を隔てて電気信号の送受信をすることでしか、繋がりを維持できない。
しかしそれだけではやはり完全ではないのだ。
「心が離れてしまわないようにって電話してるのに、
声を聞けば聞くほど遠い存在なんだって思い知らされるわ」
恋愛にも多種多様な事情がある中で、遠距離恋愛という言葉をよく耳にする。
これは当然のことながら何メートル以上などと物理的距離が定義されているわけではなく、
当事者がそう感じるのであれば、いくら第三者的に見て距離が近いとされても
それはもう遠距離恋愛と呼ぶべき状態なのである。 つまり実質的な距離は殆ど関係なく、
心の距離というか、精神的距離がどうであるかが問題なのだ。
彼女は俺との距離が遠く離れていると感じているのだろう。
「はぁー」
「いつもの気の強いお嬢さんはどこ行ったんだ?」
「だって……」
テレビやラジオでしか彼女を見聞きしていない人は、
恐らくこんなに悲しそうな声を出すことを知らないだろう。
俺だけしかそれを知らないというのは、変な話嬉しいと思う。
しかし言い換えるなら、俺だけしか弱音を吐く姿を目にすることが出来ないということは、
その心を癒してあげる存在も俺しか居ない。 俺にはその義務があるのだ。
もちろん俺だって元気の無い姿を見るのも、溜息混じりの声を聞くのも辛い。
「とにかくあと数日もすれば会えるんだ、それまで頑張るんだぞ」
「……うん」
最初の元気はどこへ行ったのか、すっかり意気消沈といった声。
やはりまだ、彼女は多感な時期の一人の少女なのだ。
いくら一般人とは生活が違うとはいえ、その点では何も変わらない。
電話を切った後、そばにあったリモコンを手に取り、テレビを点けてみた。
画面に映し出される映像、スピーカーから聞こえてくる音声は、
愛くるしい笑顔と、多少ワザとらしく聞こえるカワイイ声だった。
約束の日にはこの姿を見せてもらえると嬉しいのだが、果たして……。
改札を抜けて俺の元へと近づいてくる笑顔がある。
先に到着し待っていた俺に「珍しく早いじゃない」と言ったその声は、
少しくぐもっているようだが明るかった。
口を覆われた状態で声を出せば、そうなるのも当たり前だ。
マスクにグラサンにハンチング帽、こんなに暖かな日だというのに厚着をした姿は、
ひどく紫外線に弱い人かアブナイ変質者、はたまた透明人間のようである。
「逆に目立つんじゃないか? それ」
「でも顔見られるわけにいかないでしょ」
社会には様々な職業があるわけだが、彼女の就いている職業だけはゴメンだ。
いくらオフだとはいえ常に周りの目を気にしていないといけないし、
ひとたび正体が暴かれてしまえば、その人気に応じて町は一時パニックに陥る。
それを防ぐためにこのような格好をしないといけないのだ。
もっともいくら俺がなろうと思ったところで、彼女のように活躍するなどということは、
主にルックス面で不可能なのだと自覚しているが……。
「で、今日はどうするんだ?」
買い物、遊園地、水族館……息継ぎする間もないほどデートプランを語っていたが、
その溢れんばかりの欲求を目一杯積んだ飛行機は、結局どの地点に着陸したのだろう。
「あぁ…もういいわ。 色々考えたんだけど、もう何処でもいい」
となれば……どうすればいいのだ?
正直今日の俺は右へ左へ振り回されるということしか頭になく、すべての主導権を彼女に託していた。
彼女が行きたいと言った場所へ行き、彼女がしたいことをすれば良いと思っていた。
その為、どこへ行くかなんて毛頭考えてはいないのだ。
「……ョンと一緒なら」
「うーん」
「……アレ?」
とりあえず腹ごしらえをする為に、どこかファミレスにでも寄るか。
もしくはそんな時間も惜しんで買い物に出かけるか……。
「ね、ねぇ聞いてんの?」
当ても無くその辺をブラブラするか?
それとも家に連れ込んで……いやいや流石にそれはマズイよな。
「おい!」
「あぁスマン、なんだ?」
「ったく」
サングラスを掛けていても良く分かるほど、鋭い視線がチクチクと俺に突き刺さっている。
これは早々に予定を立てなければ、あまり迷っているとさらに刺々しさが増しそうだ。
「どこか行きたいとこ無いか?」
「だから言ってるでしょ! キョンと一緒ならそれでいいって」
「そんなのはいいから、もっとこう具体的に」
「そんなのぉー!?」
「いや、ちがっ」
自慢じゃないが、俺は彼女がどういった性格の女の子かはある程度理解しているつもりだ。
裏表が激しくジキルとハイドのようなもので、少し気に入らないことがあると、
カワイイ外見の奥底にある黒い本性が顔を出し、忽ち東京を崩壊させるほどの大爆発だ。
それは良く分かっているのだが、今のようにちょっとした言葉の綾で導火線に火を点けてしまう。
「あーやだやだ! ほんっとにムードのムの字も無いわね!
こっちは恥ずかしい思いしてまで言ってやってんのにさぁー
それが何? もっと具体的に? もしかして変なことでも考えて……」
こうなるとある程度時間が経つまで懇々と説教されることになる。
俺はそれも含めて彼女の魅力だと考えているので、今のこの状況もある意味楽しんではいるがな。
しかし声を大にして言いたいことは、なにも彼女の機嫌を損ねるつもりは一切無いということだ。
「もう! せっかく会えたってのに……」
「まぁまぁ、これも息抜きの一つだろ」
「何か腹立つー」
実際のところ俺が言ったのは事実らしく、マスクもサングラスも取ってしまった彼女は
不満そうでありながらも至福に満ちた表情で、楽しそうであった。
「いいのか? 外しても」
「大丈夫よ、私そこまで売れてないし」
「まぁな」
「少しは否定してくんない?」
「冗談だよ、その証拠に……見てみろ」
駅前の電気店にて、地デジうんぬんと謳ったステッカーが貼り付けてある薄型テレビに映るのは、
手がすっぽり隠れてしまうほどダルダルな袖の服を身に纏った姿で、
腕を振り回して『おはらっきー!』と元気に叫ぶ、今をトキメクスーパーアイドル小神あきら。
こうして見ると、俺の隣に立つ少女と同一人物であるとはにわかに信じられない。
「キョンはさ、私がアイドルだから好きなの?
私がこうしてテレビに出てるから付き合ってるの?」
何台ものテレビに映る自身の姿をジッと見つめながら、あきらは呟く。
「答えはわかってるだろ?」
「うん、知ってる」
「だったら何で聞くんだ?」
「いいから答えて」
「アイドルだろうが何だろうが関係ない、それがあきらであればな」
あきらはテレビから俺の顔へと目線をシフトさせた。
多少の不安があったのか、俺の言葉に嘘が無いか確かめているようだ。
ここで目を逸らしでもすれば、忽ち彼女はそれについて追及してくるだろう。
もちろん嘘偽りなど微塵も無い。 神にも仏にも稲尾様にも、もう何にでも誓って。
俺のそうした意志を読み取ってくれたのか、あきらはそっと俺の手をとった。
「どこ行こっか?」
「あきらが決めてくれ」
「んと……お買い物!」
そう言うなり俺の手をグイグイ引っ張って、あきらは歩き出した。
道行く人が俺達を見ているが、素性に気づいたというよりむしろ
まだ幼さの残る小柄な少女に手を引かれる俺に対しての好奇の眼差しのようだ。
それにしても今日は荷物を少なめにしておいてよかった。
もし行き着く先で一つまた一つと袋が増えていったとしても、ある程度は持つことができる。
結局あれよあれよと言うまに俺の両手が塞がるようなことは無かった。
代わりに俺の左手は常時あきらの右手と繋がっていたがな。
その手は帰る頃になり、駅に着いたところで名残惜しくも外れてしまった。
「今日は楽しかったか?」
「うん、楽しかった」
楽し“かった”と、故意に語尾を強調させるあきら。
また自分を偽る日々に戻らなくてはならない。 また「小神あきら」を演じなくてはならない。
それがプレッシャーとなって、彼女の両肩にズッシリと乗っかっているのだ。
俺に対しても作り笑いを浮かべ、あきらはこちらに背を向け歩き出した。
その後姿はあまりに寂しそうで、気が付けば俺は改札へ向かうあきらの手を掴んでいた。
厳密に言えば袖を掴んでいたため、手の温もりは伝わってはこなかったが。
「テレビに映る自分とのギャップに悩むのも仕方が無いとは思う。
だがなあきら、俺はお前の気持ちを分かっているつもりだ」
後ろを向いたままで、その表情は分からない。
「それに俺はどちらのあきらも好きだぞ」
「……クサい台詞言っちゃって、恥ずかしくないの?」
やがてあきらは身体をくるりと回転させた後、小さな声でそう言った。
こんなときにもあきら節が返ってくるとは流石スーパーアイドル。
「でもま、ありがと。 少しは気分が軽くなったかも」
今度は何とか作り物でない笑顔を俺に見せて、あきらは自動改札機を抜ける。
しばらくすると、小柄な彼女はすぐに人ごみに紛れ、その姿は見えなくなってしまった。
一度もこちらを振り向かなかったのは、現実からの逃避の念を抱かぬようにする為なのだろうか。
今朝も見た電気店に置かれたテレビ。 やはりテンションの高いあきらの姿がそこにはあった。
その映像は、あきらの抱く葛藤を知る俺に何かを訴えているようだった。
そこに華やかさや煌びやかさなどは感じられない。
誰もが薔薇の花を美しいと言うが、幾多も伸びた鋭い棘に一度でも刺されると、
薔薇を見てもただの棘のある花という印象しか受けないのだ。
次に会う時、また棘に刺されてなければ良いが……。
もし刺さっていたなら、その棘を引き抜き、傷を癒してやらなくてはな。
『それではまた次回、お楽しみに』
『ばいに~』