泉どなた
◆Hc5WLMHH4E氏の作品です。
カーテンの隙間から注がれた太陽の光が、朝の訪れを告げる。
こんな清々しい朝は小鳥の囀りなんかで爽やかに目を覚ましたいところだが、
俺が深い眠りから覚醒させられた直接的な原因はというと、けたたましく鳴り響く目覚まし時計の音だった。
もちろん時計は自分の仕事を全うしようと懸命にベルを鳴らしており、その仕事を与えたのは何を隠そうこの俺だ。
それに対して文句を言うのはおかしな話だというのはよーく分かっている。
しかし、さながら海の底に沈んでいるかのような深い眠りについていたというのに、
耳の割れんばかりの甲高い音によって一気に海面近くまで引き上げられて、不快感を抱かぬわけがないじゃないか。
朦朧とした意識の中、布団からノソノソと手だけを出し、目覚まし時計を探す。
その手はクソ五月蝿いベルを止めるという使命感に突き動かされているだけで、
それ以外俺の身体の一切は、まだ寝ているも同じ状態だった。
結局二度寝を決め込んだ俺が再び目を覚ましたのは、それから20分ほど経ってからだった。
ならば毎晩毎晩目覚ましをセットする意味が無いような気になってくるが、もし何もせずに眠っていたとしたら、
きっと俺はどんなに強力な睡眠薬を服用した人よりも長い時間ベッドに横たえていたことだろう。
今となっては下腹部を襲う激痛と共に俺の眠りを覚ましてくれていた存在が、逆に有り難く思えてくる。
彼女……我が妹とは久しく会っていないが、少しは成長してくれたのだろうか?
誰もが不景気だ不景気だと嘆くこのご時世にあっても、大学生というのは結構気楽なものだ。
熱心な学生達は如何わしい葉っぱを売りさばいていると聞くが、俺はそんなことはしない。
今日は授業が半日で終わり、後の半日はもう休みのようなものである。
校内の図書館で勉学に励むも良し、暇つぶしにどこかへ出かけるも良し。
そんなのは疲れるだけだと早々に帰宅して寝るも良し。
木の枝のように分かれた選択肢の中から俺が選んだのは、
飯を食うにはまだ早いと、適当に近くの公園を散歩するというものだった。
ご老人のような暇のつぶし方だが、特にこれといってしたいことも無い。
それに実際こうして公園を歩いてみると、結構楽しかったりするんだよな。
この公園は結構な広さを持っており、背の高い木々が風に揺られて、サワサワと涼しげな音を立てているし、
池の中では綺麗な斑模様をした鯉が悠々と泳いでいる。
遊具で遊ぶ子供達の楽しそうな声を聞いていると、幼かった頃の記憶が蘇ってきた。
しかしながら、こんなことをして心が安らぐとは、俺も年をとったのだろうか……。
「これじゃ本当に老人みたいだな」
苦笑いを浮かべながらふと空を見上げてみると、上空遥か38万キロの彼方に月が浮かんでいた。
模様までクッキリと見えるが、そこにウサギはいないようだ。
この模様、国によって様々な見方があるが、俺にはどこをどう見ても、
ウサギはもちろんのこと、カニにも本を読むお婆さんにも見えやしない。
夜空に浮かぶ星座もそうだ。
ただ星々を線で結んだだけで、やれ牛だ魚だと言い張るのは無理があると思うがな。
昔の人間は想像力が豊かというかなんというか……。
と、夢の無いことを思いながらしばらく月を眺めていたのだが、
間抜け面で空を見上げるのはちょっと恥ずかしい。
誰かに見られない内に視線を前方へと戻し、また歩き出す。
すると、とても懐かしく感じられる光景がそこにあった。
恐らくはサークルか何かだろう、三脚に固定されたカメラのファインダーを覗く男。
その横には、反射板を掲げた男が立っている。
カメラを向けられ、なにやら演技をしている様子の女性は、何かのコスプレをしているようだ。
誰だか知らないが、それを見た俺の脳裏には、超監督と書かれた腕章を付けた態度のデカイ女と
そいつに無理やりコスチュームを着せられ、オドオドと窮鼠のように震えている女性が浮かんでいた。
高校時代、俺達は文化祭で映画を撮るというハルヒの突発的な欲求に付き合わされることとなり、
果たして映画と呼んで相応しいのかどうかも分からん映像作品を作り上げたのだ。
その撮影中の光景も、ちょうど目の前で行われているものと大して変わらないようだ。
唯一にして決定的に違うことと言えば、演者のノリノリ具合であろう。
朝比奈さんは終始眉を八の字にして、今にも泣き出してしまいそうだったが、
俺の視線の先にいるコスプレイヤーからは、そんな様子は微塵も感じられなかった。
思いがけない時に昔……といってもそこまで年月がたったわけではないが、
高校時代のことを思い出し、少しノスタルジックな気持ちになってしまった。
だがそんな俺の気も知らないで、俺の身体は悲痛な呻き声で空腹を知らせてきやがった。
別に鎧を身に纏って戦地に赴くつもりなどさらさら無いが、腹が減ってはなんとやら。
どれ、今日は喫茶店にでも行こうか。
そんなこんなでやって来たのは何処にでもありそうな佇まいの喫茶店。
今日の昼食は、決して不味くはなく、かといって美味いでもないクラブサンドと、
サイフォン式なんぞというカッコつけたコーヒーだった。
それらを軽く平らげ、長居は無用と店を後にしようと、コーヒー片手に新聞を広げる、
少し頭の薄いスーツ姿の男性の横をすり抜け、レジへと向かう。
グラスを拭いていたマスターが歩いてくるのを待ちながら、財布の中身を確認。
このスカスカで軽い財布を見ていると、自分が大学生なのだということを実感するな。
さて、現在一人暮らしをしている賃貸マンションに戻るにはまだまだ時間が早い。
どこか他に暇をつぶす場所はないかと、なんとなしに辺りを見回してみる。
数百メートル進んだところに、大きく「本」と書かれた看板が立っているのが見えた。
うむ、もてあました時間を消費するにはもってこいの場所だ。
他に行くところが無いというのも理由のひとつではあるんだがな。
トボトボと本屋さんの前までやってきて、自動ドアを抜け店内へ入る。
読みたい本があるわけでもなく、適当に店内をうろつき回っていた俺は、
小説の並んだコーナーに差し掛かったところである光景を目にし、はたと足を止めた。
……まったく今日という日はえらく昔のことを思い出す。
『街で知り合いを見かけたと思い声を掛けると、他人の空似でまったく違う人物だった』
誰しも一度くらいはそういう経験をしたことがあるだろう。
そうならないためにも、俺はあの人で間違いないという確信が持てないことには声を掛けないようにしている。
だからこそ、地面に置かれた鞄を足で挟み、小説を読み耽る女性に声を掛けることが出来ないのである。
確信が持てない理由というのは大きく2つあるわけだが、ひとつは俺がその人を『女性』と呼んだところにあり、
もうひとつはその女性の身体的な特徴にある。
曖昧30cm
いつだったか、俺と彼女との身長差をそう表したことがあった。
俺の身長は成人男性の平均と同じ170cmジャスト。
これといって取り柄の無い平々凡々な男は身長も人並み程度なのだ。
そして彼女の身長は、まさか俺より背が高いわけはなく140cmほどで、
小中学生と間違われてもおかしくないくらい子供っぽい外見をしていた。
その姿が今目の前にあるのなら、安心して声を掛けることができる。
だが、本を読む姿はどうみても俺より少し低いかぐらいの背丈で、
少女と呼ぶよりも女性と呼んだほうがしっくりくるし、
スレンダーという言葉がピタリと当てはまるスラっとした身体つきだった。
いくらなんでもあそこまで急激に人の身長は伸びないはずだ。
今にして思えば、高校時代彼女は毎日のように好物のパンを食べ、そのお供にと牛乳を飲んでいた。
にも関わらずウンともスンとも言わなかったあの身体が、突然変異的に急成長を遂げたとは考えにくい。
ただかろうじて共通点があると感じられるのは、その長ーい髪の毛くらいだ。
足まで届きそうな超絶ロングヘアーなのは変わらないが、背が高い分余計に長く、
さながら白や赤に染まった髪をグルグル回転させる歌舞伎役者のようだ。
しかし髪の長い女の子なんてのはこの世に五万と居るし、たったそれだけの理由で人物を特定することはできない。
俺はとにかく他に何か特徴的なところは無いかと、その女性をジッと見つめていた。
すると長いこと立ち読みをしていて首が疲れたのだろう。
「ふぅ」と短い溜息を付いて、その女性は首を上下左右に動かしはじめた。
そしてある程度首をほぐした後、ちらりと俺の方を眺めたかと思えば、
カトちゃん張りの2度見を決め込み、そのまま視線を固定させた。
「……」
目をパチクリさせるその顔を見ても、やはり俺は声をかけることが出来なかった。
ただ相手のほうは俺のことが分かったようで、泣き黒子の付いた口元をつり上げて微笑んだ。
その笑顔を見て、ようやく俺は『あの人で間違いない』という確信を得たのだった。
「いやぁビックリしたよ、まさかキョンキョンに会うなんてさ」
『女性』ことこなたの履いた靴の踵が地面に打ち付けられる音は、コツコツと弾むように軽快である。
本屋を後にした俺とこなたは、何を言うでもなく歩き出し、どういうわけか
俺が一人暮らしをしているマンションとは間逆の方向へ向かっていた。
ソワソワと落ち着かない俺とは対照的に、こなたはずっと前を向いて歩いている。
こなたの様子に、なんとなくこれからどこへ向かおうとしているのか分かったような気がしていたが、
それを尋ねてみることもせず、俺はただこなたの斜め後ろを歩いていた。
「どーしたの?」
俺の歩く速度が自分より遅いことに気づき、こなたはスピードを緩めつつ俺に尋ねる。
「いや、なんでもない」
「ふーん」
「それにしても……」
今横に並んでいるのがあのこなただとは本当に驚きだ。
ダーウィンもビックリの超進化ならぬ長身化といったところか。
きっとこなたの身体は成長のペース配分を誤ったのだろう。
「まぁ成長していないところもあるんだけどね」
自分の胸を撫でながら、照れた笑いを浮かべるこなた。
幼さの中にも若干大人びた印象を受けるその顔を見て、ふと考えを巡らせる。
あの頃のこなたと一緒に道を歩いていると、まるで……そう。
こうして道端に立っている『歩行者専用』をあらわす道路標識のようだった。
……ってそれは言いすぎだな。
それが今、文字通り肩を並べて歩いている俺達二人は一体どう見えるのだろうか。
「キョンキョンはどう見えて欲しいの?」
そうこなたに尋ねられて、少し言葉に詰まってしまった。
こなたがその質問を投げかけることの真意が、俺には分からなかったのかもしれない。
「さぁな」
「……あっそ」
当たり障りの無いように応えるも、俺とこなたの間に妙な沈黙が生まれる結果となった。
ただ靴音が耳に入るだけだったが、こなたが足を止めたことで、それさえも聞こえなくなってしまった。
その姿は何かを物語っているように見えたのだが、残念ながら俺にはさっぱり分からん。
しばらく眺めていると、こなたは意を決したように短く息を吐いて、少し前方へ駆け出した。
そうかと思えば、数メートル進んだところで立ち止まり、髪を靡かせながら勢い良く振り返った。
「私んち、近くなんだ」
確かに身長は急激に伸びたし、顔立ちだってそれなりに変わっている。
だが目の前で俺の返事を今か今かと待っているのは、あの頃と同じ元気の良いこなただった。
「そうだな、寄らせてもらおうか」
こなたの嬉しそうな笑顔のずっと先にある空。
上空遥か38万キロの彼方には依然として月が浮かんでいる。
そこにウサギが居ようが居まいが、今の俺には関係ない。
「さ、狭いけど上がって上がって」
こなたの住む部屋は、女の子にしては落ち着いていて質素だった。
普通一人暮らしをしている女の子のマンションと聞くと、華やかに彩られた部屋なんてのを想像するが、
こなたに対してそのイメージは当てはまらないようだ。
といっても女の子の部屋に入るなんてのはあまり経験しておらず、比べるものが少ないのだが……。
とにかくこなたらしいといえばこなたらしいが、決して女の子らしくは無い。
「いろいろ飾っても面倒なだけジャン」
「それはまぁそうだが、これは飾っても良いのか?」
ここにはこなた以外にたくさんの住人が居た。
主に漫画本が沢山並んだ本棚や、ラックに置かれたパソコン本体の上や、モニターの横。
その他ありとあらゆる所に、大小さまざまな人形が飾られている。
しかもただの人形ではない。
ナース服にスクール水着、さらにバニーガールまで。
いわゆる萌え萌え~な格好をした女の子達の人形である。
「せめてフィギュアって言ってよ」
ひどく偏った趣味のフィギュア達を飾るとは……。
何度も言うようで申し訳ないと思うがあえて言わしてもらう。
こなたらしいといえばこなたらしいが、決して女の子らしくは無い。
「色気がなくて悪かったね」
「別にそういうつもりで言ったわけじゃないんだがな」
ピィィィィー!
どこかで聞いた覚えのある汽笛のような音。
どうやら気づかない間にこなたがヤカンを火にかけていたらしい。
「おー沸いた沸いた。コーヒーで良い?」
「あぁ」
キッチンへと向かいコンロの火を消したこなたは、コーヒーのビンを小脇に抱え、
右手に二つのマグカップと左手にミルクを持ち、それを一度テーブルに置いた。
さらにまた引き返し、角砂糖が入っていると思われる白い陶器を持ってきた。
当然俺はどこに何があるのかを全く知らない為、手伝おうにも手伝えない。
「砂糖はいくつ?」
「一つでいい」
「オッケー」
こなたは慣れた手つきでマグカップにコーヒーとミルクをスプーン1杯ずつ入れると、
『角砂糖~1個♪』と鼻歌を歌いながら、1つその中に放り投げた。
なにかのアニメキャラクターが描かれた自身のカップには、
コーヒーをスプーン一杯入れ、ミルクと砂糖は2杯と2つ。
「それだとカフェオレに近いな」
「だって苦いじゃん」
「その苦味がコーヒーの良さというものなんじゃないか?」
かく言う俺もブラックなんてのは人が飲むものじゃないと思うが……。
こなたは再度キッチンへ向かい、口から機関車のように湯気を立たせるヤカンを持って戻ってきた。
コポコポと音を立てて熱湯が注がれ、喫茶店で出てきたコーヒーとはまた違う、
なんともインスタントで家庭的な香りが部屋中に漂う。
折りたたみ式のベッドの上に腰を降ろし、こなたは両手でマグカップを持つ。
「ふぅーふぅー」と溜息を付くようにして息を吹きかけ、徐々に傾けていった。
その直後、こなたの身体が電撃でも受けたかのようにビクリと跳ねた。
「あちちっ」
「気をつけろよ」
たった今まで沸騰していたお湯で作ったものだ、熱くて当然。
もっとよーく冷ましてから、なおかつ慎重に慎重に……。
「熱っ!」
「……気をつけなよ」
人の振り見て我が振り直せとはよく言ったものだ。
それから俺達は、高校を卒業してから今日こうして再会するまでの期間を埋めるように、時間も忘れて語り合った。
かがみが弁護士に、そして高良が医者になりたいのだということ、
つかさが料理の専門学校に通っていること……。ネタが尽きることなど無かった。
半分まで減ったコーヒーはすでに冷たくなっており、もう火傷で痺れた舌を気にする必要は無い。
「さて、そろそろお暇するよ」
残りのコーヒーを一気に飲み干し、こなたにそう告げる。
「……うん」
靴を履き玄関のドアを開けると、生暖かい風が肌にまとわり付いた。
外はすっかり闇に包まれ、名も知らぬ昆虫達がオーケストラを演奏している。
季節は春を迎えつつあり、フライング気味の虫達の声はそれを急かすようだった。
「今日はありがとね、楽しかったよ」
礼を言うこなたの声は、今の今まで話していたときより、どこか元気が無いように思えた。
俯いた顔は青い髪に隠れてしまい、どんな表情をしているのかは分からない。
きっともう眠たくなったんだろう。 いつも遅くまで起きてそうだしな。
「またおいでよ」
「あぁ、そうだな」
軽く手を振りながらドアを閉め、こなたのマンションを後にしようと歩き出す。
ドアが開く音を背中で聞いたのは、ちょうど階段に差し掛かったときだった……。
「キョンキョン!」
振り返ると、当たり前だがこなたが立っていた。
「どうしたんだ?」
俺はてっきりこなたの家に忘れ物でもして、それで慌てて呼び止めてくれたのかと思っていた。
「こ、これ」
差し出されたその手には、キラリと光るものがある。
よく見ると、それは小さなキーホルダーの付いた鍵だった。
「私んちの合鍵なんだけど、これがあればいつでも入れるジャン? だ、だからこれ……」
その鍵は風の仕業か、こなたの手によるものか定かではないが、小刻みに震えている。
別段断る理由も無いので鍵を受け取ると、こなたは俺を見てニッコリと笑った。
なんだかホッとしたような、そんな表情だった。
「それじゃ、またね」
「あぁ……ってそれよりこなた」
合鍵を持ったままの手で、こなたの足元を指差す。
「これからは、ちゃんと靴を履いて外に出るんだぞ」
「あっ」
申し訳程度の明かりを放射する外灯に照らされた夜道を、自宅へ向かって歩く。
もし俺が女だとして、絶世の美女だったとするなら、絶対にこんな道は通らないな。
なんとなく、ついさっきこなたから受け取った合鍵を夜空に向かって放り投げてみた。
そこにあるのは無数に輝く光の粒。
太陽に邪魔されること無く、星達の放出する太古の光が、
気の遠くなるような永い永い時間を経てようやく、この地球へ降り注がれているのだ。
そんな夜空を眺めつつ、今日の出来事を振り返ってみる。
今日こうして空を見上げるのは三度目になるが、俺の身にはいろいろと変化があった。
それも予想外の変化ばかりだ。
まさかこなたに出会うとは思ってもみなかったし、まさかこうして合鍵を受けとることに……なってない!?
「なんてこった」
夜空の美しさに目を奪われ、今日起こった出来事に心奪われ。
宙に舞った鍵は俺の手に戻ることなく、この冷たいアスファルトの何処かに落ちたようだ。
幾ら星達がキラキラと輝いているとはいえ、今は真夜中である。
辺りを見回してみるも、それらしいものは見当たらない。
「やれやれ、鍵は投げるもんじゃないな」
結局苦労の甲斐あって無事に見つかったわけだが、
あれから30分以上鍵を探し回ったことは、こなたには内緒にしておこう。