夏休みだというのに涼宮ハルヒは依然として猛威を振るっており、先日も無人島に上陸し被害をもたらしてきたばかりである。
しかし、副団長仕込みの八百長殺人事件を伴ったSOS団の合宿を終えて流石に疲れたのか、ここ数日、徴兵の連絡はない。
さて――夏休みである。
俺としては下手に外出せずにのんびり過ごしたいところなのだが、そんな俺に妹は容赦なく、
「キョンくーん、プールに連れてってー」
などとのたまうのだ。それもこれも、近所の市民プールでは子どもは大人の付き添いがないと利用できない規約があるからである。
年相応な成長を果たせなかった我が妹の場合、輪をかけて深刻な問題だろう。
「ミヨちゃんも行きたいんだってー」
ミヨキチか。妹の友人で、こちらは我が妹と正反対の成長を遂げている吉村美代子嬢のことか。
……彼女が身分を偽れば、規約を突破できそうな気がしないでもない。外見的に考えて。
しかし、まあ、兄として年長者として、わざわざ掟破りをけしかけるような真似をするわけにもいくまい。
それにこの程度なら「やれやれ」も出やしないね。どっかの誰かさんに鍛えられちまったからな。
「お兄さん、今日はよろしくお願いします」
集合時間になり、我が家を訪れたミヨキチを見て俺は、数年後には朝比奈さんの対抗馬として存在し得ることを確信した。
いや、朝比奈さんには悪いが、ミヨキチはしっかり者でもあるから、高良の対抗馬とした方が適切かもしれない。
しかし……能天気な妹としっかり者のミヨキチ。この組み合わせには、デジャヴを覚える。
級友で幼馴染同士という2人の姿が浮かぶ……柊の類友説をあながちハズレではないと支持してもいい。
さあ、これから暑い中自転車の旅が始まるざますよ。
首尾よく市民プールに到着し、入場そして着替えを済ませた俺たち。
もともと使用層はガキどもとその保護者がメインを占めている上に、午前中ということもあり人影はまばらだ。
が、そんなプールサイドで存在が浮いているのが2人いる。片方は高校生の俺だ。もう片方は、
「おー、キョンじゃんか」
……噂をすれば影、ということか。
俺たちを出迎えたのは、健康的に日焼けした肌と光る八重歯がトレードマークの級友だった。
「日下部か。何やってんだ、こんなとこで」
「なんだよー、久しぶりに会っていうことがそれ? ロマンスもへったくれもねーな」
お前はロマンスの意味をわかって言ってるのかと小一時間……まあ、十中八九理解していないだろう。
久しぶりに会うことは間違いではないが。夏休み開始早々、ハルヒに無人島まで連れて行かれたからな。
陸上部に籍を置くこの日下部、実力は上の下らしい。そんな彼女には期待の証として、夏休み中も朝練が課されているそうな。
で、練習が終わったあとは、こうして市民プールにまで足を伸ばし、汗を洗い流していると言う。
「……って、それならシャワーで充分だろ。なぜわざわざ泳ぐ必要がある」
「ヤレヤレ、これだからインドア派は。太陽の下で動き回る喜びってもんがあるんだってば」
「そりゃ悪かったなアウトドア派。あと、ひとの口癖マネすんな、カタコトになってるぞ」
すぐ他人のモノマネに走るところが何とも子どもっぽい。中身そのままで成長したうちの妹を見ているようだ。
そんなやつの相手をしている峰岸は、実はすごい人物なのかもしれん。今後の参考のためにお話を伺っておきたいね。
「そーそー、あやのは私の姉ちゃんみたいなもんだからな。仲良くしといて損はねーぜ」
何だそれ、どういう意味だ。
「ところで、そっちのふたりはキョンのツレか?」
「ああ、これは俺の妹。こっちは妹の友達で吉村美代子さん」
「おーっす。おにーさんにはお世話になってるぜ」
「で、こいつは日下部……日下部……」
「……」
「……みさえ?」
「ひ、ひっでー! 一文字しか違ってないのが余計にくやしいのう!」
うーん、我ながらなかなかの無礼だ。まさか下の名前を忘れていたとは。そして嵐を呼ぶ園児の母の名前が出てくるとは。
「柊に続いてキョンまで薄情くんかよ。私はさながら背景ですぜ」
悪かったよ日下部。でも苗字はわかるんだからいいだろ日下部。
「よくなーい! 今日一日は、みさおって呼んでもらうからな!」
「ああそういや、みさおっていうんだよな。でも何で」
「いい? キョン、絶対だからね!」
眉を怒らせ指を突きつけてくるそのさまは、うちの傍若無人な団長閣下を想起させるのでやめてもらいたいのだが。
仕方あるまい、非は俺にある。異性を下の名前で呼ぶのは気恥ずかしさがあるが、まあ日下部相手ならそこまで照れることもないだろ。
「善処するよ、みさお」
「善処はやる気のないヤツがい……ぅ?」
「何だよみさお。ちゃんとやってるだろみさお。文句あるのかみさお」
「わーっ、バカキョン! もちっと焦らせよぅ!」
どうしろというのだ、みっさーお↓。
もともとの子どもっぽさやボーイッシュさも手伝ってか、日下部はすぐに小学生組と仲良くなったようだ。
ところで、日下部の水着は競泳用で、妹やミヨキチ小学生組と大差がない。
出会い自体が偶然なのだから何を期待していたわけではないが、わけではないが……。
「ははあ。露出が少なくてがっかりしてるな? ま、これでも拝んどけ。ほーれ生脚生脚」
やめんかバカモノ。しかしいい感じに日に焼けていて、鍛えられた美しさがあるのは確かなのが忌々しい。
ビキニでも着せて、全身を拝むことができたらさぞかし眼福というものだろう。つけあがるもとなので絶対に言わないが。
「なまあしなまあしー」
「な、生脚……です」
ほらみろ、小学生組に変な影響が出ただろうが。日下部自重しろ……とか言ってる間に、
「キョンくん浮き輪お願いー」
妹は俺にビニールの浮き輪(空気なし)を投げ渡すなり、プールの中へと逃げていった。ちゃんと準備運動しなさいッ。
にしても浮き輪を膨らませるのなんて久しぶりだ……なんて言い訳が通じるかどうか。まったく膨らまない。本当に。
「貸してみ?」
日下部が息を吹き込めば、たちまちに浮き輪が膨らんでいく。おお、さすがは体育会系。
「体育会系ってのはあんまり関係ねーだろ。ほれ、吹き口のとこ摘んでやってみ?」
「どれどれ……すごいな、こんなコツがあるだなんて知らなんだ」
「ヤレヤレ、キョンは私がいねーとダっメだなー」
そのモノマネやめろ。そして浮き輪ごときでダメ人間扱いしないでもらおうか。なんという過小評価。
一方ミヨキチはといえば、俺と日下部を交互に見て赤くなったりしている。一体どうしたのか。
「あのぅ、今のって間せ……いえ、何でもないです」
「いっくよー、みさちゃん」
「おうっ、妹!」
元気な返事だが、お前の妹ではないんだぞ。
とは言うものの、こうして遊んでいるところを見ると本当の姉妹のように思えるな……頭痛がするほどに。
日下部が妹の姉となるようなことになったらにぎやかでいいだろうが、俺の苦労は倍増ってレベルじゃ済みそうにない。
水を掛け合うふたりの横でわたわたしているミヨキチが全てを物語っていると言ってもいい。
それをプールサイドで見物していた俺のもとに、日下部が寄ってきて、
「ほら、キョンも泳ぎに来いよぅ」
と、腕を引っ張る。ば、ばかっ。俺はまだ準備運動もろくにしてな……力入れるなこの野郎!
抵抗むなしく、日下部は勢いよく俺をプールに引き落とし、俺は体勢も立て直せないまま水中へ……ぐあっ、足つった!
武器は……何か武器はないのかっ!?
溺れる者は藁をも掴む、という具合に、俺はそもそもの原因でもある日下部にひっついた。
「きゃっ!」
……おい待て、何だ今の声は。日下部、お前そんなキャラじゃないだろ!?
しかし日下部の体は意外に柔らかい。体育会系にありがちな、筋肉質な感触を予想していたのだが。
なるほど……所謂フツーのオンナノコか。
「ぅぎゃああっ!」
やっと日下部らしい声が出た……と思ったらこいつ、こけやがった。俺も水中に道連れとなり……うおっ、背中に覆い被さってきた。
「足つったぁ……キョン落とすなよ、絶対落とすなよ!」
「俺もつってるんだよ! そしてひっつくんじゃありません、胸があたるだろうが!」
その後、日下部にぺしぺし叩かれたり妹とミヨキチが袋叩きに便乗したりいろいろあったが、とりあえず日下部の胸は柔らかかった。
騒々しい時間は早く過ぎるもので、プールから引き上げた俺たちは今、運動後のアイスなどに興じている。
妹とミヨキチは棒アイス、日下部は雪見大福を幸せそうに頬張っている。今にも落としそうで、手つきが危なっかしい。
……そういえば、前に3秒ルールがどうのと柊が言っていた。
食べ物を無駄にしない姿勢は評価するが、子どもにはあまり見せたくはないな。
「あ、」
……って言ってる傍から! だが今こそ、野球大会で無駄に腕を上げたキャッチ能力を発揮するとき。
零れ落ちる大福を腕を伸ばして受け止める。きまったぜ。
「キョンすげーっ、尊敬しちゃうぜ!」
「そこまで言うほどの……ってお前、何してる!?」
日下部は俺の手に顔を近づけ、アイスを直接咥えていった。
……掌に唇が触れた瞬間、背筋に走るものがあった。
「んぁ? だって、無事だったんだから食べなきゃ損だろ」
「にしたって手で取るなり何なり……」
「あ、まだ粉ついてら」
「だから舐めるなっての!」
ご丁寧にぺろぺろと擬音をつけながら俺の指に舌を這わせる日下部の姿はどことなく扇情的で――
などというモノローグをつけるのが馬鹿らしくなるくらい、いじきたなさが先に立つ。こいつにはそれがお似合いだ。
しかし、ゾクゾクしたものを感じるのも事実である。大概にしてくれ。
「ごちそーさま」
さて、その発言をすべきはたった今アイスを召し上がりになった日下部だと思うのだが。
なぜお前が言うのだ妹よ。
アイスもたいらげ、いよいよお開きのムードになり始めたとき。
「ところでさー、最初に『みさお』って呼んだきり、全然私の名前呼んでないよな」
不意に、日下部が過ぎた話を蒸し返した。呼ぶ必要がなかったってことだろ。
「それじゃつまんねーよぅ。これで帰るから、もっかい呼んでくれ、もっかい!」
「やれやれ……またな、みさお」
「……よしっ! まったなー!」
妹とミヨキチに手を振りながら、偶然に遭遇した小型台風は去っていった。
ああやって元気よく走っていく姿には、女っ気など欠片も感じないぜ。
「ねえねえキョンくん」
「何だね妹」
「みさちゃんの下着、フリフリしててかわいかった」
ちょっ……開口一番にプライバシーの侵害か。そうか更衣室で一緒だったから……というか、そんなこといちいち報告しなくていい!
「女っ気がないなんていうキョンくんが悪いんだよ。オニャノコにそんなこといったらダメなんだもん」
確かに……俺は今まで日下部を侮っていたのかもしれない。
学校での大雑把な素行からは想像できないような、オンナノコな一面も見てしまったしな。
体も胸もやわらか……何を言ってるのか俺は。
「みさちゃんってさー、キョンくんのカノジョ?」
あれくらい元気な方が面白いかもしれないが、いくら何でも俺のようなインドア派の彼女扱いするのは日下部に悪いだろう。
「じゃあキョンくんの方は構わないってこと?」
「そうなんですか、お兄さん?」
妹もミヨキチも、やけに食いつきがいい。こういう話に興味津々なあたり、さすがは思春期と言ったところか。
だが、勝手にひとの気持ちを捏造するのは勘弁だな。俺はただ、ばっさり否定するのも日下部に失礼な気がして曖昧にだなー……。
「キョンくんデレデレー」
「デレデレなんですか?」
最初に言っておく。それはかーなーり、違う。
日下部とはそれなりに親しくしているつもりだが、それは男友達に接するような感覚だ。
だから、彼女などと言われてもピンと来ない。向こうが乗り気にでもならない限り、恋人同士なんてのはありえないだろうな。
……なんだ、そのきょとんとした顔は。
「……お兄さんとあの人の仲は、これ以上変化しようのない気がします。良い意味でも、悪い意味でも」
何かと考えさせられる言葉だな。
変化なし――それも悪い気はしない。如何せん俺は保守的だからだ。
だから。
今日一日、日下部相手に心拍数が上がりっぱなしだったなんて口が裂けても言えないね。
さて、夏休みにも関わらず登校日である。
忌々しいことに、課題の途中経過を見せなければならない日だ。
俺や谷口、泉と柊妹、そしてたぶん日下部にとっては、宿題を写させてもらう日でもある。
今日もSOS団の活動が組まれているはずだ。
ハルヒにどやされないよう、早めに点検を終わらせなければな。
などと思いつつ教室に入るなり、隅で机を固めていた3人のうち1人が元気よく手を挙げた。
「おーっす、キョン」
案の定、柊と峰岸に面倒を見てもらっている日下部である。
また「下の名を覚えているか」などと吹っかけられたらたまらない。
知人も大勢いるところで名前呼びを強要されると、羞恥心が度を超してしまうかもわからん。
保守的態度をやめるつもりはないが、たまには攻めに出るのもいいかもしれないな。
「よお、みさお」
結論から言ってしまえば、俺のこの発言は柊や峰岸、果てはその辺にいた級友まで狂乱の渦にたたきこむことになるのだが。
なぜそんなことになってしまったのかはわからないが、まあ日下部本人は朗らかに笑っていたから良しとするか。
最終更新:2007年09月10日 22:30