みしゃみ! 邂逅編

私は猫である。
名前はシャミセン。正直に言えば、猫にこの名前をつけるのはどうかと思うのであるが。
まあ、シュレディンガーだのスフィンクスだのよりはましだと思うことにしておこう。

「こっちにおいでー、シャミー!」

今、私を呼んだ声は、私が居を構えるこの家の同居人の一人である少女のものである。
朝にしては少々興奮気味なのだが、この少女は常日頃からこの調子である。
まあ、懐いてくるのはなかなかに可愛らしいものがあるので
少々ならば構ってやることも吝かではない。

「今日もシャミは可愛いねえ」
そう言って彼女はいつもの様に私を抱きしめてくるのである。
季節はもう秋だとはいえ、流石にこの様に密着されると多少暑苦しいのであるが
邪険に振り払うのも忍びないのでされるがままにしておこう。
「こら、シャミと遊ぶのもいいがそろそろ飯を食え。早く食べないと遅刻するぞ」
「ハーイ!」
そのように明朗快活に少女は応えて、少し名残惜しげな顔をしながらも
トタトタと足音を立てて食卓へと向かっていったのだ。

 

「ほら、シャミ。今日の朝食だ」

私の常食である猫缶の中身を皿に盛って差し出してきたのは少女の兄である。
朋輩からはキョンなどと渾名されたるこの少年にこの家に
連れられて来て既に季節は二巡り程ともなるだろうか。
このキョンという少年を一言で表すならば、鈍いという一言に尽きるであろう。
このことに関しては多くものからの賛同を得ることができることと思われる。
私の知っているところの彼の知り合いの少女たちの中には発情期の女性よりも余程
分かり易く好意を示すものがいるというのに、彼の鈍感さと言えば同じ男としては
ほとほと呆れ返るほどであり、私は彼に好意を寄せる少女たち憐憫の情すら持っている。
私が人語を喋れた頃ならば、彼女らのためにこの少年に文句の一つも
言ってやるところなのだが、如何せんこればかりは考えても仕方のないことである。

そのようなことを考えながら私は朝食を食べ始めた。

 

「それじゃ、シャミ。学校行ってくるから帰ってきたら遊ぼうね!」
依然として食事中である私に声をかけてから少女は玄関に向かう。
「いってきま~す!」
そうして今日も元気に少女は家を出て行ったのである。

「それじゃあ、母さん。俺も行ってくるから」
そのように言って少年もまた席を立ち、出掛けたのだ。

さて、それでは私もまた朝の散歩のために出かけることとしよう。

「にゃあ」
「ニャー」
日頃利用している散歩の道程の中途にて、三軒隣の家の黒猫のソースケと出会った。
コッペパンなどという味気もなければそもそもタンパク質源でもないものが好物だという
猫の社会に於いては非常に変わり者の彼であるが今日もどうやら変わりはないようだ。
私は暫しの間、情報を交換してから散歩を再開することにした。

「遅刻、遅刻ー!」

ソースケとの会話の後、タッタッタッという足音とともにそんな声がした。
振り向いて見れば同居人のキョンの知人である少女が食パンを咥えながら
一体如何なる理由があるのか私には解らないが道を急いでいた。
どうやったら物を口に挟みながらあのように喋れるのかは些か不思議であるし
何故にあの食パンを食べ切ってから家を出なかったのかも私には分からないが
見知った顔に声の一つもかけないのは失礼に当たるので私は挨拶をすることにした。

 

「アレ、キョンキョンのところのシャミではないか。オハヨー」
そのこなたという名前の少女は私の挨拶に気付いてそう声をかけてきた。
「今日も可愛いネェ」
そのように言って彼女は私を抱き締めようとしたのだろうか、足を止めて手を伸ばし
「っておおっとォ!遅刻しそうだったんだっけ!」
ハッと気付いたかのように屈めかけていた足をピンと伸ばして
「じゃあ、シャミ、また今度ネ」
そう言って疾風の様に少女は駆け出し、去っていった。

全く、人間というものは時間に縛られていて本当に忙しのないことだ。
そんなことを思いながらも、しばらくはその場に留まって少女をその姿が
見えなくなるまで見送ってから私は再び散歩に戻ることにしたのである。

その後はどうということも無く普段通りにいつもの散歩道を歩き
いつもの様に昼前には家に着いた。

夕刻、私は再び道を当て所なくぶらぶらと歩いていた。
帰ってきた少女に暫く構っていると、少女が母親と一緒に買い物に行くと言うので
私もそれに合わせて夕刻の散歩のために家を出ることにしたのだ。

神ならぬ猫の身である私は、当然、この時はまだこの後に待ち受けている運命を
知る由も無く、その最中で出会う少女について知ることも無く。

その、少女――岩崎みなみという名の少女を。

 

 

季節は既に秋――夕刻、釣瓶落としに日が落ち、辺りはどんどんと暗くなっていき
通りの人影は段々と疎らになり、それに比例するかのように帰路に着くための車の
交通量は多くなった。

駅前の商店街では店仕舞いをする者もちらほらと見られ始め
逆に繁華街では店を開ける準備をするものが見られた。
ネオンサインの看板は輝き、まるで蛾が明かりに引き寄せられるかのように
会社帰りの人間を引き寄せていた。

逢魔が刻――かつての人間がそう呼んだ、この昼と夜との間の
誰もが忙しなく動き、移ろって行く時。

或いは、この時だったからこそ、この運命の車輪は廻り始めたのかもしれない。

どんなに幻想的な――もしくは奇怪な出来事でさえも容易く受け入れられそうな
雰囲気を持ったこの時だったからこそ。

けれど、その運命の中心に立つべき一匹の猫と一人の何の変哲もない少女は

今は未だ――。

 

友達のゆたかと一緒に、帰り道を歩きながら
何時の間にか、すっかり日が落ちるのが早くなったのに気付き
まだまだ暑いけれど、もうとっくに秋が訪れていたのだなあと、私は思った。

「それでね、みなみちゃん――」
今日は涼宮先輩が放課後、何か用事があるらしく私とゆたかが
入っているSOS団の活動こそ無かったが、保険委員の当番の日であったので
家路に着くのが少々遅くなってしまった。
「――がね、もうホントに臭くってさ――」
遅くなるので先に帰って良いよとゆたかには言ったのだけれど
彼女は私を待っていてくれた。少しだけ、申し訳なく思う。
「――なんだって。凄いよね~」
「……そう」
そう相槌を打って、私は微笑んだ。私は感情を面に出すのが
あまり得意ではないので表情はほとんど変わらなかったのだけれども
ゆたかは私の表情を読み取って微笑み返してくれた。

 

それなりに親しくなった田村さんにも「まだ、少し怖いイメージがある」
と言われてしまう原因となっている私の無表情さをずっと変えたいと思っていたけれど
私のわずかな表情の変化を読み取ってくれるゆたかやキョン先輩
「それもまた萌え要素なのだヨ」と言って肯定してくれた泉先輩やパトリシアさん
ちょっと強引だけど私を引っ張ってくれる涼宮先輩、そこから広がっていった人間関係。
高校に入って、本当にちょっとだけ、私は今のままでも良いかなと思えるほど
本当に良い友人や先輩たちが出来た。

ふとゆたかの方を見ると、少しビックリした表情で私の顔を見ていた。
「どうかした……?」
「あ、うん」
私が問いかけるとゆたかはとても嬉しそうに笑った顔になって。
「今、みなみちゃん、すっごく楽しそうな顔をしてたから少しだけビックリしちゃって」
何故だか恥ずかしくなって、顔に血が集まってくるのが分かった。
きっと今私は耳まで真っ赤な顔をしているだろう。

皆と一緒にいて、私は少しづつ変わっていっているのだと感じて
何の根拠もないけど今のままなら大丈夫だと私は思った。

 

その後も他愛もない話を続けながら、私たちは家に向かって歩いていた。
さっきまでほとんど一面真っ赤に染まっていた空も
今では西の方に少しだけ赤い光を残すだけとなっていた。
どこか遠くからはパトカーか救急車のサイレンの音が響いていた。

角を曲がってそこそこに幅の広い道路に出て、歩道を歩いて暫くすると
一匹の三毛猫が脇の茂みから出てきて私たちの前を通って
そのまま車道を渡って行こうとした。

「見て見て、みなみちゃん、可愛いよ~」
「そうだね……」

少しだけ足を止めて猫が車道を渡り出すのを見送って
車の音がしたので、前の方を振り向くと。

かなりスピードを出した一台の車が、猛然とこちらに向かって走っていて。

猫が未だ車道を渡り終えていないのを見て取って。

気付いたら私は鞄を捨てて駆け出していた。

 

みなみちゃんがいきなり車道の方へと駆け出し、自動車が猛スピードで
走ってきているのに気付いたとき、私の顔からは一瞬で血の気が引いたと思う。

次の瞬間、車が凄い速さでブレーキもかけずに私の前を通り過ぎて。

みなみちゃんが反対側の歩道に座り込んでいるのを見るまで
私の心臓は止まっていたんじゃないかと思う。

「みなみちゃあ~ん!」
大声で叫んで、駆け寄った。
再び動き始めた心臓のバクバクという激しい鼓動が胸に痛かった。

顔を上げたみなみちゃんは口を開いて
「……ゆたか……顔色……真っ青……大丈夫……?」
なんて、自分も真っ青な顔をしているくせに私の心配からするんだ。

「バカッ!みなみちゃんのバカッ!
わた、私に、心配かけておいて、なんで、なんでそんな……そんな……」

後はもう声にはならず、既に涙目だった私がみなみちゃんに抱きついて
本格的に泣き始めるまで時間はほとんど要らなくて……。

「ゴメン……ゴメン、ゆたか……」
そんな声と近づいてくるサイレンの音とブレーキ音、ドアの開く音を
私はぼんやりとした頭で聞いていた……。

 

 

先程までは気儘に散歩を楽しんでいたというのに
今、気が付いたら、私はその少女の胸に抱かれていたのだ。

そう、本当にほんの少し前まではいつも通りの散歩だったのだ。
私は、朝の散歩と違って夕刻の散歩には決まった道筋を設けてはいない。
まるで夕方という時間帯が、飼い慣らされた家畜としてのものではない
荒々しく昂ぶるような野性的な感覚とでも言えば良いのであろうか
何かそういったものを私の内に目覚めさせ、それが私に頑として
秩序だった行動をしてはならないと命じてでもいるかのように
私はどの辺りをどう回るかすら決めず野放図に道を行き
時には茂みを潜り抜けたりしながら歩き回ることを日課としていたのである。

事態が起こる直前、私は茂みを抜けて人間の作ったアスファルトで固められた道を
渡ろうとしていたのだ。茂みを抜けた先に二人の少女がいたのも覚えている。
二人は確かキョンと同じ高校のものであるはずの制服を着込んでいた。
今、私を両の腕に掻き抱いているのはそのときの二人の片割れなのだろう。

私は特に急ぎということもなしに尋常の歩き方で、その道を渡っていたのだった。
半分を越えた辺りであろろうか、接近してきた鉄の塊に気付いたのは。
気付いたときには手遅れであった。あまり明るいとはいえない時間帯にも関わらず
その車はライトを点けはせず、耳を前に向けていた私は音で距離を測ることも出来ず。
その車の方に頭を向けた時には既に避けても間に合わないだろう距離であった。
人間たちが自動車と呼ぶそれによって死んでいった猫は多いのだが
まさか私がその魔手にかかることがあるとは思いもよらなかったのだ。

 

私はその瞬間総毛立った。

目を瞑ってその衝撃を待ち受けた。

ガシッと誰かに捕まれる感触がした。

私が覚えているのはそこまでである。恐らくは極度の緊張感に襲われて少しの間意識を失っていたのであろう。意識を取り戻したときには既にこの状態だった。間違いなく私を抱いているこの少女こそが私を助けてくれたのだろう。

何故、この少女は、自分の命を危険にさらしてまで私を助けようと思ったのだろうか。
通りすがりの関係もないただ一匹の猫のために。私を助けたからと言って
何か益があるわけでもなかろうに。人間というものは時々、理に適わぬことをして
自分の命ですら危険にさらすという愚かな習性を持っていると思っていたが
その愚かさに助けられたということは、私は彼らよりも
もっと愚かな存在だったということであろうか?

「……ひぐっ……ふぇっぐ……みなみちゃん……みなみちゃあ……ん……」

私はそこでようやく、私を助けてくれた少女にしがみついて大声で泣いている
少女の存在に気付いた。彼女は私が大本で泣く破目になってしまったのだなと思うと
私は酷く申し訳なく、不甲斐のない気持ちになったのだった。

私は私を助けた少女の名前がみなみであるということを知った。

 

「大丈夫……どこにも、怪我はないよ……
だから、大丈夫……ゴメン、ゴメンね……ゆたか……」
私にしがみついて泣いているゆたかを見ながら、私は彼女にひどく心配を
かけてしまったことを謝り続けた。ゆたかに大変な迷惑をかけてしまった。
心の底から私はそのことだけは悔やんでいた……。

あの一瞬、猫を助けようと思ったのは本当に咄嗟だった。何故だか、この猫を絶対に
助けなきゃいけない様な気がして、気付いたら飛び出していたのだった。猫を助けて
私も無傷なのは本当に幸運だっただけだと思った。こんな幸運は何度も続きようが
あるわけはないので、ゆたかにこれほどの心配をかけることは
二度としないようにと、まだ少しだけ薄ら寒く残っている恐怖を感じながら私は思った。

気付けばサイレンを鳴らした二台のパトカーが近づいてきて目の前を通り過ぎていった。
先ほどの車に何か関係があるのかな、と漠然と思いながら目の前を通り過ぎるパトカーを
何とはなしに目で追うと、その内一台が突如、ブレーキをかけ私たちのところから
少し離れたところで、路肩に寄ってから動きを止めた。

暫くすると、車の助手席から一人の女性が降りてきて、私たちに呼びかけた。

「ねえ、キミたち!大丈夫?」

 

どうやら歩道に座り込んでいる私たちを見て、先ほどの車との間で何かあったのでは?と
心配して婦警さんがわざわざ、見に来てくれたようだ。私が大丈夫だと声を返すと
近づいてきたその婦警さんの何となく聞き覚えのある声が私に問いかけてきた。

「その声……もしかして、みなみちゃん?」
聞き覚えのある声の持ち主――ゆたかのお姉さんのゆいさんが
心配そうな面持ちでこちらにやって来た。
「それに、ゆたかも……本当に大丈夫?」

私が、ゆたかにお姉さんがいることを告げようとゆたかに注意を戻すと
何時からか、彼女の泣いている声が聞こえなくなっていたことに気付き
何時の間にか、彼女が寝息を立てていることを私は発見した。

「きっと一杯泣いて、泣きつかれて寝ちゃったんだ」
起こすのも可哀想だったのでゆいさんに先ほどの車との間のあらましを一人で説明して
ゆいさんに軽く、「もう、友達に心配かけることしちゃいけないよ?」と注意された後
私たちを家までパトカーで送ることになったので、眠ってしまったゆたかを車に
乗せている最中にゆいさんはそう呟いた。
「ゆたかは、体が弱くて、昔っから大泣きすると、直ぐに眠っちゃってたっけ」

パトカーに乗る前に、私は助けてから今までずっと、猫を抱いていたことに気付いて
そっと地面に降ろして、こう言葉をかけた。

「……もう、大丈夫だから……お家に……帰りなさい……」

 

「……もう、大丈夫だから……お家に……帰りなさい……」
と言って少女は、優しく私を地面に降ろした。

彼女の腕から離れて、二、三歩歩いたところで私は立ち止まって彼女の方を振り向いた。

「すまなかった、そしてありがとう、優しいお嬢さん。
できれば、そちらのお嬢さんに私が申し訳なく思っていたことを伝えて欲しい」

猫の言葉が人間に伝わることなどあり得はしない、そんなことは百も承知だったが
私にはこのまま謝罪の一つも述べずにこの場を立ち去ることなど出来なかったのだ。

そして、その場に留まり続けることがなんとはなしにいたたまれなくなった私は
すぐに踵を返してそのままその場を後にしたのである。

だから、私には気付けなかったのだ。

そのみなみと言う名前の少女の、酷く驚いた顔に。

 

「すまなかった、そしてありがとう、優しいお嬢さん。
できれば、そちらのお嬢さんに私が申し訳なく思っていたことを伝えて欲しい」
私の耳には、確かにそう聞こえた。

私の腕から降りて、こちらを振り返った猫がその時そう喋ったのを、私は確かに聞いた。

私が驚いている間に何時の間にか猫は消えていた。

「どうかしたの?みなみちゃん」

ゆたかを車に乗せ終わってこちらにやって来たゆいさんの言葉で私はハッとして
自分を取り戻す。私は一瞬、夢でも見ていたのだろうか。猫が喋るわけがない。
けれど、それを夢として片付けるには、今の一瞬は余りにも現実感を持ちすぎていた。

どこか釈然としないまま、私はゆいさんに送られて家に帰った。

余談だけれど、私がパトカーに乗って帰ってきたのを見てお母さんが酷く驚いてしまって
事情を説明するのに数十分近く掛かってしまった。ゆいさんがその場にいてくれて
凄く助かった。やっぱり、ゆいさんは頼れるお姉さんだ。

こうして、私は人の言葉を喋る不思議な猫に出会った。
この出会いを境にして私の日常は、非日常によって彩られていくことになる。
――もっとも、それは私が気付いていなかっただけで
本当は私はとっくに非日常に囲まれていたのだけれど。

彼の名前を何というのか知るのにはまだ少しだけ時間が必要だった……。

A song of the cat which has nine lives: begining is the over.
To be continued to the next episode.

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最終更新:2007年09月08日 06:46
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