恐らく全世界の学生のおよそ半数が、月曜日には機嫌が悪くなるんじゃないかと思う今日この頃。
学校に気の許せる親友的存在がいるならまだマシなんだろう。
だが、残念ながら俺にはそんな奴らよりも、涼宮ハルヒを始めとした非日常の割合の方が圧倒的多数を占めているのが現実なのだが。
もっとも、そんな事ですら最近では楽しめてきている俺は、はたして大丈夫なのだろうか。
……というか、ただでさえ見るたびに憂鬱になる山道を登りながら、一人でそんなことを考えている俺こそどうなんだろうな。
「峰岸の様子がおかしい?」
ようやく北校に辿りついた俺を待っていたのは、親友でも非日常でもなく、新たな懸案事項だった。
といっても、それはいつかの手紙のような形ではなく、人の言葉でやってきた。
「うん……ここ二、三日元気が無いみたいで……調子が悪いわけでもなさそうだし……」
俺にそう話すのは、柊かがみと日下部みさおだ。二人とも暗い顔で俯いている。
峰岸あやの。こいつらにとって、親友と呼んでもおかしくないであろう人物だ。
ところがその峰岸の様子が、どうも最近おかしいらしい。
いつも俯いていて、話しかけても上の空。授業にも身が入っていないそうだ。
かがみたちが話しかけても「何でもない」の一点張り。困り果てた挙句俺に相談にきたそうで。
何で俺に……とも思ったが、真剣なこいつらの表情を見ていると、とてもじゃないが突き放すことは出来なさそうだ。
「何か心当たりとかは無いのかよ?」
「考えてはみたけど、土日の間はあやのに会ってないし……ほんとに分からないんだよお……」
「先週末は普通だったし……休みの間に何かあったのかな……」
休みの間、ねえ。
まあ俺も土日は一日ゴロゴロしてたり妹の相手で大変だったり、日曜夕方の年を取らない家族の如く平々凡々な休日を過ごしたわけだが。
とにかく理由を考えてみる。といっても、こいつらでも心当たりが無かったのに、俺なんかが分かるのだろうか。
が、一つだけ思い当たるというか、もしかしたら、というものがあった。
「……峰岸って、確か彼氏がいたよな。」
峰岸あやのには彼氏がいる。本人から聞いたのだから間違いない。
なんでもカチューシャで前髪を上げている彼女の髪型も、彼氏の好みに合わせたものらしい。
「うん……あたしたちもたぶん、それが関係してると思うんだけどさ……」
いつものほほんとした峰岸がそこまで落ち込むなんて、俺の知る限りでは、それくらいしか考えられない。
もしそうじゃないなら、それこそその彼氏が放っておくはずがないだろう。
彼氏と喧嘩した、くらいなら、仲直りを促せばいい。そこまで難しいことではないはずだ。
だが、もっと深刻な事態だったら……
かがみたちもそれを心配しているようで、悩んでいるようだった。
しかし、本当にそうなら、彼女いない暦と年齢がイコールの俺なんかより、もっと適役を探すべきなのでは。
そう言ってみたら、二人とも呆れた顔で俺に向かって溜息を吐いた。
なんでだよ。
放課後だ。
結局、峰岸とは会う機会が無かった。
もし会ったとしても、なんと言えばいいのか、まだわからんのだが。
とにかくまず部室に顔を出さないと、団長様がうるさいからな……行くか。
さっさと荷物を鞄に詰め込み、未だ喧騒冷めやらぬ教室から、俺は立ち去った。
「……ん?」
旧館と校舎を繋ぐ渡り廊下は吹き抜けになっていて、外が見渡せるようになっている。
だからといって、両側に校舎がある訳だから景色がいいなんてことはまったくないし、もうそうでもあまり興味が無い。
それどころか、雨風の強い日では駆け抜けないとびしょ濡れになる恐れがあるし、冬の日はとにかく寒い。
ぶっちゃけ壁の分のコンクリやらなんやらをケチったとしか考えられんのだが、それはまあ置いといて。
ふと校舎の屋上を見上げた俺の目に、人影のようなものが見えた。
俺は視力に関しては平均的な数値を保っているつもりだ。少なくとも1.0以上はあったように記憶している。
そんな俺の目を持って見れば、あれは恐らく峰岸だ。たぶん。
距離があるので確認できないが、髪の色や長さを考えると、間違いないと思う。
……どうする? 行くべきか、行かざるべきか。
たとえ行ったとしても、何を話すかもはっきりしていない状態だ。やめておくべきか……?
悩む俺の脳裏に過ぎるのは、今朝のかがみと日下部の様子。
…………はあ、やれやれ。
さて、この言葉はいったい誰に向けたものなんだろうね。
今、俺の目の前にはドアがある。屋上へ出るためのドアだ。
しばし立ち止まり、呼吸を整える。やっぱこういうのは自然を装ったほうがいいのかね。
そもそも俺が訊いたところで峰岸が答えてくれなかったらどうしようもないんじゃないのか?
……くそ、ここでうだうだ言ってても始まらん。
決意と共にドアに手を掛け、ゆっくりと力を込める。
「……峰岸?」
いっその事鍵がかかっていてくれれば気が楽だったが、そんなことは無かった
そして俺を出迎えたのは、やはり峰岸あやのだった。
峰岸は突然の俺の登場に驚いたようだが、
「……キョンくん、どうしたの? こんなところに。」
すぐに落ち着き、いつものおっとりとした笑顔を見せた。
「……何かあったのか? あいつらが心配してたぞ?」
答えてくれるかは分からなかったが、とにかく訊いてみないことにはどうしようもない。
内心心臓バクバクの俺だったが、拍子抜けするくらいあっさりと、峰岸は口を開いた。
ただ、その内容は、決して穏やかなものではなかったが。
彼氏が浮気をしていて、さらに一方的に別れを突きつけられた。
峰岸の言うことを要約するとこういうことになる。
この文だけだと、俺は一見平静を保っていたように見えるかもしれんが、実はかなり焦っていた。
想定していたケースの中でも最悪な部類に入る事態だ。
悪い言い方をすれば、早い話、彼氏に捨てられた訳である。
「やっぱりわたしが悪かったのかなあ、最近あまり会えなかったし……」
最後にそう付け加えると、峰岸は小さく溜息を吐く。
何でもないように言っているが、峰岸の目は赤かったし、頬を伝っているものはおそらく涙の痕だ。
俺は何と言えばいいか分からず、しばらくお互い黙りこくっていたが、何時までもそうしている訳にはいかない。
やむを得ず俺は口を開いた。
「……お前はどうしたいんだ?」
峰岸は俺の質問の意図が汲み取れなかったようで、少し首を傾げる。
「彼氏とよりを戻したいのか、それともすっぱり吹っ切りたいのかだ。」
俺が補足をすると、ああ、と峰岸は頷き、
「どうなのかな……よくわかんないや。」
まあ、だろうな。
それが最初から分かってたら、こんなところで一人で悩む必要もないだろう。
……参ったね。何か気の効くことでも言うべきなのだろうが、何も思いつきやしない。
やっぱり俺じゃ人選ミスかもしれないぜ、かがみ、日下部。
俺が軽く自虐気味の考えを始めたところで、峰岸は彼氏との思い出話を始めた。
しばらく聞いてみて最初に俺に芽生えたのは、元彼への怒りに他ならなかった。
今そいつがへらへらした顔でここに現れたをしたら、即座に躊躇無く殴り飛ばせる自信があるね。
峰岸は楽しかったんだ。彼氏と一緒にいるのが楽しかった。断言してもいい。
自慢じゃないが、俺は長門やらハルヒやらと付き合っている内に、人の表情から感情を読み取るスキルがかなりレベルアップしている。
今の峰岸の顔はそういう顔なんだ。間違い無い。
「この髪型もね、彼氏が良いって言うからしてるんだけど……もう意味無くなっちゃったかな。」
自分の髪を撫でながら、どこが憂いを秘めた声で峰岸は言う。
その言葉からは諦めの色も感じられた。
「……もし吹っ切りたいなら、すっぱり切ってみたらどうだ。気分転換ぐらいにはなるかもしれんぞ。」
「そっか…………うん、それもいいかもね。」
ふと思いついたどうでもいいような意見だが、頭ごなしに否定されなくてよかったと言うべきか。峰岸がそんなこと言うとも思えんが。
「……ありがとうね。こんな話聞いてくれて。」
お安い御用だ。聞き役は慣れてるし、愚痴くらいならいつでも聞いてやる。
そういう俺に、峰岸は笑みを返したが、すぐにはっとしたような顔になると、
「そう言えば、涼宮さんのところに行かなくていいの? もう部室には顔を出したのかしら?」
……完全に失念していた。恐らくハルヒはもうすでに文芸部にいるだろう。
そろそろ行かないとマズい……というか、たぶんもうマズい。
俺はよっぽど変な顔をしていたのだろうか、峰岸はくすくす口元を押さえて笑う。
……なんだか知らないがものすごく悔しい気がする。
「……じゃあ、俺はそろそろ行くな。」
「うん、また明日ね。」
挨拶もそこそこに、俺は屋上からの階段を駆け下り始めた。行き先はもちろん文芸部だ。
……ハルヒの機嫌が悪くても、恨んでくれるなよ、古泉。
余談だが、結局ハルヒの機嫌は、俺の財布の中の数人の野口さんの犠牲により、なんとか事無きを得たのだった。
次の日の話である。かがみや日下部によると、峰岸はいつもの明るさを、多少なりとも取り戻したらしい。
適当に授業を切り抜け、あっという間に放課後だ。ご都合主義である。
そんな訳で今日もSOS団および涼宮ハルヒは元気に活動予定な訳だ。昨日遅れた分、今日は早めに行かないとマズい。
だが、俺の懸案事項は未だ健在である。今日も峰岸とはまだ会っていない。
日下部たちによれば、大分マシにはなったらしい。が、やはり実際に会ってみないと、正直、心底安心は出来なかった。
気がつけば、俺は屋上へと続くドアの前に再び立っていた。
……やれやれだよ、本当に。
ドアを開けることに、昨日よりも躊躇いは無かった。
そして、そこにいた峰岸も、昨日より驚きは無かったようだ。
「……キョンくんって、結構お世話さんなのかもね。」
「お前ほどじゃないだろうけどな。」
いつもあいつらの保護者的な役割のお前が言える義理じゃ無いと思うぞ。
そういう俺に、峰岸は苦笑を返す。
その顔には、昨日のような涙の痕は無かった。
「ちょっと、いろいろ考えてみたんだけどね。」
そう前置きしてから、峰岸は話し始めた。
昨日一日、これからどうしたいかを考えていたそうだ。
そして最終的に行き着いた結論が、過ぎたことは仕方ないから諦めよう、だそうだ。
その結論に辿り着くまで何を考えたのかは、俺には知りようもないが、それで納得できるのなら俺が口出しすることはない。
峰岸は笑っている。諦めを含んだような、苦笑混じりの笑顔だ。
涙の痕も無いし目も赤くない。自然な笑顔―――に見えるが、俺はそれに違和感を感じた。
奥歯に何か物が挟まったような、そんなもどかしさだ。
「ずっとくよくよしてるわけにもいかないしね、みんなに迷惑かけちゃうし――」
「――……いいんじゃないか? たまには迷惑かけても。」
「…………え?……」
峰岸は虚を突かれたかのように呆然としている。
言っただろう? 俺の人の感情を読み取るスキルは着々と経験地を積み重ねているのだ。
他の奴らは騙せても、残念ながら俺はそうはいかん。
「俺にはよく分からんけどな、無理して笑ってもなんもいいこと無いと思うぞ。」
誰でもいいから、ちょっと頼らせてもらえばいいじゃないか。
いつもいろんな奴から頼られてるんだから、たまにはいいだろう?
どんな奴だって、休息は必要なはずだ。誰かに甘えたって別にいいんだぜ。
あの長門ですら、一人で感情溜め込んでおかしくなっちまったことがある。
俺だって、今までの非日常を全部俺だけで抱え込んでたら、とっくに頭がイカレてるだろう。
かがみだって日下部だって、お前のことをあれだけ心配してくれてるんだ。親身になってお前の話を訊いてくれるだろう。
なんなら俺でもいいから、とにかく言ってみるべきだぜ。
そもそもだな、別にお前は何も悪くないのであって……
ここで俺は言葉を詰まらせた。
言いたいことが無くなったとか、途中から自分でもよく分からなくなったとか、舌噛んだとか、そういう訳じゃない。
ただ、この状態になって閉口しなかった奴がいるなら、そいつはある意味かなりの大物だ。それかただのバカだ。
峰岸は泣いていた。
それだけならここまで俺が焦る必要も無かった。問題はその後だ。
峰岸の現在位置。俺の目の前。限りなく至近距離。
両手は俺の胸元。俺の胸に触れている暖かな重みは峰岸の頭。
ちょっと待て、この状況は何だ?
これはもしかすると、だな……いや、待て、落ち着け。きっと何かのドッキリ……なはずは無いか。うん。
しかしあれだ。確かにあんな事を言ったが、さすがにこれは想定外だった。
心の準備が必要だったね。情けないことに。
だが、胸の中で震えている峰岸をまさか突き放すわけにもいかんだろう。
そんなことが出来る奴がいるなら俺の前に来い。直々に鉄拳制裁をお見舞いしてやる。
行き場を失った俺の両手は、頼りなくふらふらと空中を彷徨っている。
腰に手を回してやるべきかとも考えたが、結局、彼女の肩にその身を落ち着けた。
そこ、ヘタレとか言うな。
どれだけその状態を保っていただろうか。数分かもしれないし数時間かもしれない。
途中で素数を数えてみたりもしたが、桁が三つになった時点でわけが分からんことになった。
何の前触れも無く、ふっと体にかかっていた重みが消え失せる。
さっきまでのことも何も無かったかのように、峰岸は俺から離れた。
ほっとしたような名残惜しいような、複雑な気分で、俺はただただ峰岸を見ていた。
「……ごめんね? いきなり……でも、ありがとう。」
「いや、別に構わんが……」
出来るだけ落ち着いた様子を装って返事をする。目が泳いでしまうのはご愛嬌だ。
微かに頬を赤らめ微笑む峰岸を可愛いと思ってしまったことも仕方ないんじゃないんだろうか。
何か言うべきか考えていると、補足すべき条項があることに気が付いた。
「そういや、かがみと日下部にも感謝しとけよ。あいつらがお前のこと、俺に相談に来たんだぜ。」
俺がそう言うと、ようやく峰岸は納得できたような顔をする。
「なるほどね、それであなたが来てくれたのか。」
屋上にいるお前を見つけたのは偶然だし、ここまで来たのも気紛れみたいなもんだがな。
それにしても、一つ未だにわからんことがあるのだが。
あいつら、なんで俺に相談に来たんだ?
……こら、峰岸、呆れた顔をするな。俺はマジでわからんのだぞ。
「キョンくん……まさか、わざとなんじゃないわよね?」
んなわけあるか。
というか、分かるんなら教えてくれよ。今後の参考にしないこともないかもしれないぞ。
「内緒。そっちの方がおもしろそうだしね。」
ハルヒみたいなことを言うんじゃない。
「ふふ、じゃあ、また明日ね、キョンくん。今日はありがとう。」
そう言うと、峰岸は俺に意味有りげなウインクを返し、さっさと出て行ってしまった。
……まあ、元の様子に戻ったようだし、とりあえず、いいのかね。
落ち着いて周りを見渡すと、空は既にほのかに赤く染まり始めている。
どうやら大分長居をしてたみたいだったな……って、あ。
団活、今日も遅れた。
今回は野口さんは無事だった。
その代わり、樋口さんが天へと召されることになった。
ここで終わってもいいのだが、話はさらに次の日へと続く。
布団の中での睡魔と俺との熱戦にいつものように妹が乱入し、今日も欠伸をしながらの絶賛登校中である。
北校の立地条件の悪さにいちいち文句を言うのもいい加減飽きてきた。今なら谷口のアホ話でも当社比1.3倍くらいは親身になって聞いてやることが出来るかもしれん。
だが、そんな俺に背後から話しかけてきたのは谷口でも、ましてや最近出番の少ない国木田でもなかった。
「おはよう、キョンくん!」
誰の声かはすぐに分かった。昨日一昨日にあれだけ聞いたからな。
そう、ご存知、峰岸あやのの声だ。少なくとも谷口よりかは話しかけられて嬉しい相手ではないだろうか。
とにかく、挨拶くらいは返さないと罰が当たるだろう。後ろを振り返っ――――たところで、俺は停止した。
「ふふ、どうしたの? キョンくん。」
何事も無いように話しかけてくる峰岸には、明らかに昨日までの峰岸とは違いがあった。
表情云々の話ではなく――もっとも、それにも変化はあるようだが――もっと単純な、誰でも分かるような違いである。
その違いは主に峰岸の頭部に存在する。そういえば髪を切ってみるとかなんとか話した覚えがあるが、それではない。今でも峰岸は変わらぬ長髪である。
ただ、その長髪に変化があるのは間違いない。綺麗に纏めた髪を頭の後ろで縛り……そう。
峰岸は今、ポニーテールなのだ。
「どうかな? キョンくんが好きって聞いたから、してみたんだけど。」
すばらしい。じゃなくてだな。
何故にお前がそれを知っているのだ。
「ふふ、内緒。」
昨日も聞いた台詞だ。口元に人差し指を当てた姿がすさまじく様になっている。
「分かっていたとはいえ、やっぱりこうなったわね……」
「うう……キョンの天然ジゴロ野郎……」
かがみと日下部がどっかでなんか言ってるのは辛うじて聞き取れたが、内容を聞いてる暇は無かった。
正直に言おう。見惚れてた。峰岸に。
呆けている俺に、峰岸は笑顔を向ける。
違和感も何もまったく無い、完璧な笑顔だった。
ちなみに、この状態の俺とニコニコ顔の峰岸を見たハルヒが憤慨し、何故かやってきた泉たちも乱入してのちょっとした騒動があったが、それはまた別の話だ。
そして最終的に、俺の諭吉様が生贄となられて事態は沈静化した。
……バイトでもしようかな。
それか古泉とのゲームの掛け金を徴収するかのどちらか。
……やれやれ。
最終更新:2007年09月08日 20:34