夏の定番

part40-674に投下された◆LZfAlLlryk氏の作品です

 夏である。
 「夏といえば」、という代名詞は様々あるが、俺の夏といえばこれがなければ始まらないと言っても過言ではない。
 ある意味スプラッタでそれでいてサイコサスペンス色の極上ホラー……まぁそうとは限らないが。
 つまり、ホラー映画を見て、冷や汗やらで体を冷やすのが、俺流の夏休みの過ごし方である。
 ただ、一人で見てもつまらないので、誰かしらを巻き沿いを食らわせて相手が怖がるのを見るのも、一興である。
 前々回谷口を巻き込み連れていったが、二度とお前と映画はいかんと言われ、前回は白石と行ったが途中白石が失神してしまったので、流石に罪悪感のようなもので連れては行けず。
 結局一緒に行く当てが見つからず、とりあえず街をぶらついていた。
 すると、頭にリボンが特徴的な少女が一人。買い物していたと思われるその手には某書店の袋を手にしていた。
「よっ、つかさ」
 後ろから声をかけたところ、わかりやすく体を跳ねさせ驚いた様子だ。こういうところは素直にかわいいと思える仕草だ。
「キ、キョンくん……びっくりさせないでよ~」
「すまんすまん。買い物か?」
「あっ、うん。ちょっと料理の本が欲しくて本屋さんに行ってたの。もう終わったんだけど」
 そういって袋の中からその本を一瞥させた。バルサミコ酢を使った料理特集……? ずいぶんとマイナーな調味料を使った特集だな。
「じゃあこれから寄るところとかあるか?」
「へっ!? あっ、ううん! ないよ!」
 しめた。ちょうどいい。飛んで火にいる夏の虫とは、まさにこの炎天下の灼熱地獄の中のつかさを指すのではないのではなかろうか。……スマン、流石に友達を虫扱いするのは人道的に許し難いことだな。
「じゃあこれから映画でもどうだ?」
「えっ!? え、え、えぇっと……キョンくんと……二人っきりで?」
「あぁ。一緒に見てくれるツレが居なくて困ってたところだったんだ」
「う、うんっ! よよよよろしくお願いしますっ!」
 そう言ってつかさは頭を深々と何度も下げた。これは、実際俺がすべき事ではないのか。相手の都合を割いてまで誘った身としては。


 つかさを少し後ろに付いて行かせる形で歩くこと十数分。目的の映画がやっている映画館へと辿り着いた。
 タイムテーブルを確認したところ、目的の映画がやるのはあと三十分程あるらしい。どこかで時間を潰すにしても中途半端な時間だ。
 とりあえず、夏なので暑い。冷房がかかった中の待合い所で時間を潰す他ないだろう。と、チケットを買ってつかさと中に入った。
「チケット代あたしの分はわたしがだすよ~」
「いや、いいさ。俺が誘った身だしな」
 この程度の金額、俺が毎週喫茶店で俺を抜かして四人分の代金を払うのに比べれば大したものでもない。まあきつくない訳では無いのだが……それに、誘ったんだから女性に金を出させるのは紳士としてなるべくならば避けるべきことだ。
「でも……悪いよー」
「大丈夫だ。つかさが映画を楽しんでくれれば代金はいらないさ」
「あ、ありがとう。キョンくん優しいんだねぇ」
 ほんの少しつかさの的を得ない切り返しに戸惑った。俺は優しい……のか? 自分の事は案外自分以外の方がよく知ってるものなのだろうか。
「そうか?」
「そうだよ!」
 自覚は無いにせよ、つかさにとっては俺は優しい人間であるらしい。嬉しい反面、少し気恥ずかしい気もする。
 冷えた飲み物で涼みながら、つかさと他愛も無い話をして過ごす。ふと先程見た本を思い出した。
「そういえば、つかさは料理とか得意なのか? 料理の本買ってたが」
「うんっ! 得意かどうかはわからないけど、料理とか家事とか大好きなんだぁ~」
「へぇ~、大したもんだな。若いうちから料理が出来るっていうのは尊敬できるな」
 この女性らしさをうちの妹にも少しばかり分けてはくれないだろうか。むしろ弟ではないかと思うぐらいに騒ぎ立ているうちの妹に。
「そ、そんな大したことじゃないよ。後でキョンくんにも食べさせてあげるねっ」
 つかさの愛妻弁当なんてどうだろう……作りすぎたと言ってお重で持ってきそうだ。
「そりゃ楽しみだ。うまいもの期待してるよ」
「うんっ! バルサミコ酢がね、最近は好きなんだぁ~」
 あの本のチョイスはあのマイナーな調味料から来てたのか。なんらかの偉人の名前のような酢などめったに聞いたことないが。


 どうやら上映を終えたと思われる客がぞろぞろと出て来た。そのリアクションは実に様々で、泣きながら出て来た彼女や、それをあやす彼氏、または魂でも抜き取られたかのような表情で出て来た者もいた。
 これがホラー映画を映画館で見る醍醐味である。家でレンタルしてきた映画も見るが、いつも一緒に観るのが猫一匹なのでなんとも言えない虚無感に襲われてしまう。
 妹を誘ってみても、ホラーはてんでダメらしく、見たら泣き出す始末である。既に小学生の最高学年となった妹はいつ成長するのだろうか。
「あれ? キョンくんこの映画って……」
「あれ? 言ってなかったか。ホラー映画なんだが、この映画は日本ホラーみたいな幽霊物じゃなくて、アメリカンホラー特有のビックリ系が主な映画だな」
「ひぇっ!? ほ、ホラー映画……なの?」
 つかさが驚愕の相を見せる。わかりやすくカクカクと震え、顔色も少し青ざめてきた。
「あぁ……そうなんだが……もしかして、ホラーダメか?」
「う、ううん! 大丈夫だよ! うんっ、大丈夫だ……」
 の割には顔色が真っ青になっているのはどういうことか。大丈夫の言葉を自分に言い聞かせているようにも取れる。
 が、実はこういう人と一緒に観るのが実に楽しい。前に妹と観た時のリアクションは最高傑作だった。後々苦労したのは俺だが。
「じゃあ早く入って席とるか」
「う、うん……」
 気が気でない様子なつかさを連れて、ちょうど真ん中辺りの席を確保し、つかさを座らせといて定番のポップコーンとまた飲み物を買ってきた。
「あ、ありがとうキョンくん……」
「大丈夫か? 無理に見なくても……」
「ううん、大丈夫だよ。平気だよ平気……」
 そうには見えないのである。今にも泣きそうな顔でちまちまとポップコーンをつまんで食べている。この小動物、ハルヒに見せたら飛び付いて離さそうである。


 そうして、館内の照明が落とされ、スクリーンの幕が開いた。照明が落とされた時点でつかさはビクッと体を跳ねらせた。
 しばらくは他の映画の宣伝が流れる。ラブストーリーやらどこぞの特撮ものからアニメまで。この時のつかさは、あれが観たいやらこれが観たいやら言っていたが、
宣伝が終わり、映画本編のオープニングともなると小さな体を震えさせた。いちいち反応が朝比奈さんのように小動物を連想させる。
 いざ本編が始まる。だいたいのアメリカンホラーは最初は家族や友人と平和に過ごしているのだが、ある日なんかしらの事件に巻き込まれて猟奇的な殺戮者による大量殺人が行われるというものだ。
 この映画は実に王道的道を進んでいており、友人とのやりとりなどは実に生活感が溢れるものとなっている。
 つかさはこの時は安心しきって、目を輝かせながら、友人達のやりとりを観ていた。ここからどうなるかが楽しみである。
 物語が進んできた。主人公の友人グループが一人の男性をひょんなことから殺してしまう。つかさは大きく開いた口を閉じられないらしく、手で覆っている。
 そうして主人公グループがバカンスの島に訪れる。ここからが本編が盛り上がり始めるところだ。
 一人が謎の男に殺された。つかさは絶叫。他にも女性の悲鳴が館内に響いた。体をふるふると震えさせ、目を固く閉じているつかさは、やはり俺にとって最高のホラー映画のツレである。


 二人目が殺された所でとうとうつかさは俺に抱きついてきた。体をふるふると震えさせて、今にも泣きそうな声で嗚咽をあげる。というか、泣いてるか? これ。
 気恥ずかしいので、早急につかさをあやし、少し元気になったものの、俺の服を掴んでは離さない。俺の服は今のも伸び切れそうである。
 また殺される。そうすると俺の手にすがりついてきた。無いとはいえ、胸が当たってしまうので気が気でない。本人はそんなことを気にしている余裕も無いようで、絶叫をあげている。
 物語の終盤。生き残った主人公と男はボートで逃げ出そうとするが、殺人鬼である男は泳いで追ってきた。
 結局、あれからずっとつかさは俺の腕にしがみついているわけで、離せともいえず、妙な汗をかいてきた。
 何かしらの絶叫ポイントでは必ず声をあげ、俺の腕に強くしがみつくわけだから、無いとはいえ――何度も口にするのは失礼だが――その胸が押しつけられてしまうのだ。
 なんとか追い払ったと思って安心したのも束の間、主人公の足を掴んで今にも足を斬りつけようとしている。
 つかさの顔は涙目。絶叫をあげて俺の腕に抱きつく。いや、実にリアクションに至っては素晴らしいのだが、男として反応に困るところだな。


 そうして、男をスクリューに巻き込ませて映画本編終了。幕が閉じて館内の証明が徐々につけられる。
 隣を見れば、正に心此処に在らず。放心状態のまま俺の腕にしがみついて座っている。ただ、白石に比べれば失神しない分、ある程度は耐性があるとも言える。
「おい、終わったぞ」
「へっ!? あ、うん。そうだね、終わったね」
 日本語がおかしいことに突っ込んだ方がいいのかはわからない。とりあえず俺の手を離してくれないと立ち上がれないだがな。
「あっ……ご、ごめんね! 腕にしがみついたりして!」
「いや構わないが。今は離してくれると有り難い。立てないぞこれじゃ」
「あ、そうだねっ」
 ようやく解放された俺の腕はつかさがしがみついた跡がくっきり残っていた。非力そうな彼女ではあるが、流石の火事場の馬鹿力か?
「どうした? 早く出ないと次の客が来るぞ」
「ご、ごめんね……腰が抜けて力が……」
 本当に腰が抜けてしまうことなどそうそうあったりしないのだが。ホラー映画を見る度にこれでは体が持たないだろう。
「ほら、手貸すよ」
「あ、ありがと……」
 つかさの手は小さくて冷たかった。手が冷えている割には、つかさの顔は真っ赤になっていた。


 つかさを引きずるようにして映画館から出てみれば、外はもう暗闇をさしていた。夏の日長とはいえ、流石に七時半ぐらいになると空は真っ暗だ。
「つかさは怖がりなら怖がりと先に言ってくれればよかったのにな」
 少しからかってみる。するとつかさ頬を膨らませて反論してくる。
「だ、だってキョンくんがホラー映画だなんて言ってくれなかったから!」
「あぁ、そうだな。悪い悪い」
「もうっ! あたし本当に怖かったんだからねっ!」
 子供っぽく頬を膨らますつかさの姿に、俺は笑いを堪えられなかった。
「俺の腕にしがみついてきたりな」
「そっ、それは……っ……迷惑……だった?」
「いや、可愛らしくてよかったぞ。迷惑なんかより、頼られて嬉しいって感じか」
 つかさは顔を真っ赤にして俯いてしまった。自分のやったことの重大さを今になって身に染みたか。実際、今も手を繋いでいて端から見ればカップルにしか見えない訳で、やはり恥ずかしい。
「さて、こんな時間だし帰らなければ」
「あっ、うん、そうだね」
「じゃあ俺あっちだから。またな、つかさ」
 と、言って体を翻してみても、後ろにかかる弱々しい力があって前に進むことを拒んだ。何事かと見てみれば、つかさが俺の服を摘んで俯いていた。
「……ひ、一人で帰るの怖くて……その……い、一緒に家まで来てほしいな……」
「……わかったよ」
 夕飯には大幅に遅刻だろうが、仕方がない。こんなにも泣きそうになって裾を掴んでいる少女を置いて帰れる奴がいたらここまで来い。鉄拳制裁をくれてやる。
「原因は俺にもあるし、責任を持って送っていってやる」
「……ありがとうキョンくん」
 暗闇に隠れてつかさの表情は窺えなかったが、これで少しは表情が緩んだことを期待して、つかさの手を取り、彼女の家へと共に歩を進めた。

 駅へと向かう道中も、駅構内でも手を繋いでいた。改札をくぐる時はさすがに放したが、俺が手を差し出すとつかさもおずおずとその手を取った。
 電車を乗るときも常に手を繋いだ状態で椅子に座った。今までに互いにあまり言葉は発しない。他意は無いが、つかさは俯いたままで、俺はつかさに倣っていただけだ。
 電車から降りて、つかさの家がある駅の改札をくぐる。やはり外は真っ暗で、月明かりが妙に明るかった。
 駅からつかさの家である神社は、それなりの有名どころだけあってのことか歩いて約十数分ってところだ。
 しかしそこまでは街頭だけが頼りの田んぼ道。しかも街頭も、都市部に比べて間隔が狭く設置されているわけでなく、たまにある感じである。
 これは確かに一人で帰るには少々、いや、かなり怖いところかも知れない。特に女性の場合はいつ暴漢に襲われるかもわからないから、尚更である。
「ここを毎日帰ってるんだよな?」
「えっ? あ、うん。いつもはお姉ちゃんとかいるから大丈夫なんだけど、今日はクラスの友達と遊び行っちゃって」
 だから珍しく二人が一緒に居なかった訳だ。かがみは結構交友関係が広い。つかさとは違う友人と遊んで当然ではある。
「キョンくんごめんね? こんな時間まで……」
「気にするな。俺がホラー苦手なの知らずに付き合わせたのが悪い」
「そんなことないよ! あたし、キョンくんに誘われたときスッゴく嬉しかったし……」
 と、言ったところでつかさは何かに気づいたらしく、また口を閉ざして俯いてしまった。最近のつかさは情緒不安定か何かか。
「まぁでも、つかさと一緒に見れて楽しかったよ。しかも、男として頼られるのは嬉しい限りだ」
 つかさは俺の顔をその瞳で見てきた。月明かりが反射しているその大きな瞳は、潤んでいて尚更綺麗に見えた。すぐに逸らしてしまったが、その表情はどこか嬉しそうではあった。


 そうして、つかさの家に到着。この神社には初詣の時にお世話になっている神社だ。同じ学校に通っている娘がいたっていうことを知ったのは今年に入ってからだが。
「あれ? おかしいな……電気がついてない」
 つかさ自分の家を見上げて言った。誰かしらいるならばどこかにしろ電気がついている筈だそうだが、見てみてもどこも電気がついている様子は見られない。
 つかさが玄関の扉に手をかけても鍵が掛かっているようで、開かないようだ。つかさは自分の財布から鍵を取り出して鍵を開ける。
「あのー……キョンくんも一緒に付いてきてくれないかな……?」
「あぁ、別に構わないが……誰か家の人が居た場合は俺は大丈夫なのか?」
 いきなり頑固気質の親父さんなどが勘違いなさって卓袱台を引っくり返してくるなんてことはないんだろうか。
「大丈夫……だと思うかな……?」
 疑問系を疑問系で返されると困るのだが。とにかく、俺はまたつかさの手を握り、返事が無い挨拶もそこそこに玄関をくぐった。
 家の人は誰も居ない様子だ。ふと、リビングと思わしき場所のテーブルに一枚の書き置きらしきものを発見した。つかさが手に取り読み上げる。
「急に親戚の家に急用が出来たので今日は帰ってきません。ご飯は冷蔵庫に入っているのでかがみと温めて食べて下さい。母より……」
 つかさはかくかくと震えて俺を見てきた。……まぁ気持ちはわからんでもない。ホラーを見た後に一人で寝るのはつかさには無理難題だろう。
「かがみはどうした? 友達の家に行ってるんだろ?」
 そう言うと、ようやく思い出したらしく、携帯を取り出した。
「あれ、お姉ちゃんから着信が残ってる」
 映画を観るときにマナーにしたままだったので気づかなかったのだろう。履歴からかがみに電話をかける。
「あっ、お姉ちゃん? ……うん……うん……えっ!? ウソ!? お姉ちゃん帰ってこないの!? ……えっ、ちょ、ちょっとお姉ちゃん!」
「……切れたのか?」
「……なんか、日下部さんのところに居るんだけど、なんか強引に泊らせられることになったって……」
 ……困ったことになってしまった……とりあえず今度かがみに会った時はこの件に関してどういった責任を求めようかと考えることで、今の状況を現実逃避していた。


「さてと……」
 なにがさてとなのかはわからないのだが、とりあえず、この状況はどうか。ここで俺が帰れば、まずつかさは眠れない夜を過ごすことだろう。
 いや、下手をすれば一人で延々と泣き続けているかもしれない。……これが冗談で済まされないことは今のつかさの顔を見ていればわかる。
 だが、だからといって、俺がここに長居するようなことは色々な意味で危険である。なんといっても同年代の男と女。それなのに一緒に夜間の時間帯を共にするのは色々危険だ。
 いや、これだけは断言しておくが俺は絶対に手を出したりはしない。なんとしても俺の理性はストッパーをかけておくように務める。が、だからと言ってもここに居るのは危険だ、色んな意味で。
「どうするか」
 つかさは目に涙を一杯に溜めている。ちょいと目頭でも押してやれば今にも涙が溢れ出そうだ。そうした状況で置いて行くには無理だが……はたして。
「泉にでも頼んでみるか……」
 泉の家なら電車を何駅か乗り継ぐだけでそこまで遠くもないし、何より女性であるが故の安心感ってのもあるだろう。……ただ泉父だけは心配だが。
 あの人の軽さ……とは違うか、強いて表現するなら危ないおじさん加減は、俺が泉宅にお邪魔したときに身を持って知ることが出来た。
 それでもまぁここに一人残すよりは断然増しではあるので、思いたったら吉日(あえて誤用しておく)、ケータイを取り出して泉に電話をかけようとしたが思わぬ障害が入った。
「…………」
 ……長門ばりの無口を固めるこの少女は一体なにをなさっているのだろうか。いや、わかっている。俺の腕を掴んでいる。何のために? 泉に電話をかけるのを防ぐため? だろうな……。
 こうした自分の心の中での自問自答を終え、さて、なんと言えばいいものかと考えていたところ、無口少女はようやく口を開いた。
「……キョンくんに、一緒にいてほしいの……」
 さて、一瞬つかさがそのまま無口少女でいてほしかったと思った俺を誰が攻められようか。


「……えぇと?」
「…………」
 今になって先ほど思ったように無口少女になられても困る訳なのだが。表情はよく見えないが、どうやら顔が赤い。
 これで熱でもあるっていう方が有り難いような、いやいくらなんでも他人の体調を悪く願うというのは人道的にどうか。
 ともかく、俺が今の状態を形容するならば、テンパっている。この死語とも言えるこの言葉、今この俺の心情を表すには正に適している。
「いや、でも泉のところなら色々と不都合も無く安心できるだろう?」
 最後の抵抗活動をしてみる。本来なら聞き分けのいいつかさならば、この言葉を理解するはずであるのだが。
「……キョンくんとじゃないと……いや……」
 ……完全に失念していたことがある。つかさは、聞き分けは良いはずだが言葉に込められた意味を理解する力に乏しいということである。失礼ではあるのだが。
「色々不味いだろ? 一応俺、男だし……」
「……あたしキョンくんなら平気だよ……?」
 いや、どうなんだその判断! いくらなんでも他人を過信しすぎだろ! 俺は断じてしないが! 間違ってもしないが!
 だが今、泉との接触を拒まれてるこの状況では、俺が帰ることは神には出来ても俺には出来ない。……寝た所を確認したらこっそり帰ることにしよう。タクシーでも捕まえればなんとかなるだろう。
「……わかったよ……一緒にいてやるから」
 すると先ほどまで俯いて泣きそうな声で囁いていた顔を上げて、とうとう涙のダムを決壊させて俺に飛びついた。
「ありがとうキョンくん~!」
 俺という人間は、流されやすいのか、それとも乗せられやすいのか、ハルヒとつかさの例を取って論理的に考えることに徹して、この高ぶる心情を落ち着かせた。


「キョンくーん! そこにいるー?」
「あぁーここにいるぞー」
 台所で料理を作っているつかさはすぐ真後ろにいる俺に対して呼びかけた。水回りにいるつかさに対して、その台所にある椅子にいる俺。本当にすぐ後ろだというのにこれである。
 俺がいるとわかると安心したのか、鼻歌でも口ずさみながら着々と料理を作っていく。料理が好きだというのは本当なのだろう。
「キョンくー……」
「あぁ! いるから安心しろ」
 さすがにこうも数十秒置きに自分以外の存在の有無を確認されては、返事もぞんざいになる。
「違うの! ちょっと味見てほしいなぁーって」
 俺に差し出されたのは酢豚らしき肉の塊である。ただし、差し出され方に問題がある。
 菜箸に摘まれた肉を俺の目の前に突き出されている状態である。まぁ察すれば、そのまま食えってことなんだろう。つかさはニコニコ顔。……気にしたら負けか。
「おっ、美味いな」
「本当に!? 塩加減とかお酢加減とか大丈夫かな?」
「あぁ、味付けはバッチリだ。さすがだなつかさは」
「えへへ~。これしか得意なことないから」
 嬉しそうに台所に戻るとまた料理制作へと戻った。気にしたら負けという考えは一切間違ってなかったみたいで、つかさに他意は無かったみたいだ。純真無垢な君のままでいてくれと、俺は願う。


「おっ、これ美味いな」
「これはバルサミコ酢を使ったドレシッングなんだぁ~早速本で書いてあること試しちゃった」
 現在時計が九時半を回った後ぐらい。この時間に夕飯を食うのは一般家庭としたらどうなのだろうか。我が家は七時過ぎを夕飯の時間としている。
 しかしながら、本当につかさの作ったこれらの料理は美味と表現が素晴らしく合い、正に美しい味と言えた。そこまでの判断が出来る味覚が俺にあるのかは定かでは無いが。
 やけに酢の物が多いのは恐らくはあの本を実践しているからなのだろう。バルサミコ酢……どういうものか知りたいような知りたくないような……何故だかはわからんが。
 そうして見事完食を果たした俺は、少々用を足すために立ち上がって、さて便所はどこだろうと思案していた最中に、つかさが後ろから抱きついてきた。
「どっ、どこいくの……?」
「あ~、便所を貸してほしいんだけどな」
 便所に行くためだけに、どこぞの恋愛映画のように後ろから抱きつかれて「行かないで……」 的な目で見られるのは気分もへったくれも無いな。
「あたしも付いてく」
 いやいやお嬢さん、あなたは便所にまでついていってなにがお望みですか? あそこは用を足す以外には使用用途は存在しない筈ですが。
「いや、でもなぁ……」
 既に涙目である。涙は女の武器と来たか。いやまぁ実際つかさはそういうのを意識してやっているわけではないのだろうが。……そうだと信じたい。
「……せめて扉の外で待っててくれよ?」
「う、うん……」
 案内させられた場所で用を足している最中でもつかさは俺のこと呼びかけて存在を確認している。俺は別にトイレの窓からや便所の排水溝から逃げたりはする気は無いんだが……少ししか。
「あたしも……いいかな?」
「……外で待っててやるよ」
 外でも中でも叫ぶつかさ。所々水切り音の音が聞こえてしまうんだが、何よりつかさの声に応対しなければならないし、耳を塞げない。とんだ生き地獄だなこれは。
 かがみ、今回のお前の失脚、どのようにしてけじめつけてもらおうか。……いや、俺が悪いのか……。

 便所から手を繋いで(言っておくが、ちゃんと手は洗ったぞ)リビングへ帰還し、少しの間だけテレビを見てくつろいでいた。これでつかさもホラー映画の恐怖のことは忘れてくれていると助かるんだがな。
「お風呂入りたいんだけど……どうしよう……」
 きっかり覚えていたらしい。どうしようと言われても俺にはどうしようも無いことは予め断っておこう。一緒に入れとでも言うのか?
「一緒に入ってくれたりなんて……」
 ……言ってきた。まさかの予感的中である。どうなんだろうな、異性の友達が一緒に風呂に入るってのは。しかも小学生ならまだしも、もう世間では働くものも、家庭を持つ者もいる高校生である。
「あのなぁ、もう小学生の友達付き合いじゃないんだぞ? 世間では大人の仲間入りしたての高校生が異性同士風呂に一緒に入れるか?」
 無論常識論の中での話を俺はしている訳だ。特例で混浴温泉や……まぁ夫婦、カップル等の例外があるが。忌々しい事だ。
「……じゃあどうすればいいのかな?」
「どうすれば……って、そうだな……混浴の温泉であったり、カップルだとか夫婦とかなら気にする必要もない……」
 俺はここで、直感的に自分の言ったことを瞬時に後悔の念を感じていた。
「じゃあカップルになればいいんだ!」
 ……世界が凍りついたように思えた。言った張本人は自分の言ったことの重大さに気づいて顔を赤く、いや紅くして俯いた。
「……でも、ひとりで入るってすごく怖いもん……」
 いやしかしこればっかりは断固拒否を固めなければならない。つかさの為、俺の為にも、だ。
 しばらく俯きだんまりを続けていたつかさが、意を決したかのように顔を上げ、そうして声を荒げてこう言った……。
「……だって……あたし、キョンくんが好きだもんっ!」
 俺の思考回路全般がいきなり雷に打たれてオーバーヒートした。ただ今考えられる言葉はこれだけである。
 ――――変な夢なら覚めてくれ……と……。――――


 ――状況が飲み込めない。
 つかさが風呂に入りたいそうだ。だが一人で入るのが怖いらしい。さぁどうするつかさ。して、その結果が、何故かこの場面でつかさが俺に告白をしてきた?
 この際、文章の最後が疑問符で終わっていることには目を瞑って欲しい。が、実際に誰かにこの状況について問い掛けたい。理解できる奴がいたらここにこい。そうして俺に分かるように五十字以内で説明して欲しい。
「えっと! あのっ、友達として好きだって意味……」
 そうであったら実に良いことかと思いつつ、あくまでも疑心的な表情を作ってつかさを見ていたところ、嘘が苦手なつかさは耐えきれないらしく、自爆を始めた。
「……わーっ! あたしなに言ってんだろ! こんな雰囲気でそれはないよー!」
 心の中で留める筈である文章をそのまま口から出してしまう慌てっぷり。パニック状態に陥っているのはどうやらつかさの方らしい。俺は唖然とそれを見ていることしか出来なかった。
「でも、カップルにならないと一緒にお風呂入れないんだよね……?」
 聞かれても困る。俺が実際体験したことは無いし、あくまでも特例の中の一つとして言ったまでであって、全てがこの事例に当てはまるとは言っていない。
 ……朝比奈さんに俺の発言を訂正するためにTPDDの申請が通らないものか聞いてみるか。いや、聞けるはず無い! こんなことで! そうしたらば、
朝比奈さんから非難集中、そしていつの間にか噂を嗅ぎつけるのが得意な団長に伝わったら最後、俺の命はあるものかすらもわかったものではない。
「そ、それは特例の話であってだな……」
「……キョンくんはあたしのこと……キライ?」
「……いや、嫌いではない」


 俺にとって柊つかさという存在は何なのか。つかさはつかさであってつかさでしか無い、なんてトートロジー的な使い回しで誤魔化すつもりは無い。無いが!
実際問題、つかさがお前にとってなんなのかと聞かれて明確に答えを出せる奴はそうはいないだろう。そうだろう? そこら辺のクラスメートをさして、そいつはなんなのかと問われて、
俺はなんて答えればいい? いや、すまんが今の俺の判断力と考察力ではたとえ泉がなんなのかと問われても明確な答えを出すことは出来ないだろう。
「あたしは……キョンくんが好きです」
 追撃を仕掛けるつかさ。俺には効果は絶大である。俺にとって、つかさは好きか嫌いかで聞かれたら、それはもちろん好きと答える。
 だがしかし、それは男女間の問題なのか、友人間の問題なのかの明確とした解答は今は持ち合わせていない。だがこの状況、今ここで答えを出さなければならないらしい。
 状況に甘んじる? それではつかさに迷惑だ。状況に流されてばかりでは俺もつかさも何も成長しない。
 断るか? 断る理由がどこにある? 考えもなしに断って傷つくのはつかさである。
 沈黙の空気がしばらく流れる。重苦しいこの空気を打開するにはどうすればいい? 下手な誤魔化しは通用しない。どうすれば……。
「な、な~んちゃって!」
 つかさが口を開く形で沈黙は解かれた。が、明らかに声が涙声である。
「じょ、冗談だよ~! ひっく、引っかかった~……あ、あたし一人でお風呂入れるからっ」
 耐えられなかった。つかさの、嘘が苦手なつかさの下手くそな精一杯の嘘が、俺の体を脊髄反射より早く、つかさを抱き締めた。
「もういい。ムリするな」
「だっ、だって、ひっく、キョンくんあたしのこと……」
「あぁ、好きだよつかさ」
 状況に甘んじた訳じゃない。俺の頭で一生懸命考え抜いた結果がこれだ。後悔はない。同情ではない。俺は、俺自身で考え、行動を起こしたまでだ。
 つかさは泣き出してしまった。ただし、この涙は悲しみからくる涙ではないだろう。二人だけの世界に、つかさの嗚咽だけが木霊した。


 ――とは言ったものの。
「いきなりこれって階段飛ばしすぎだろ……」
 一人だけの世界で湯船に浸かりながら呟いた。風呂場特有のこもった声が木霊して俺自身に返ってきた。
 夏の今日、湯船のお湯はぬるま湯程度の温度に設定はしたものの、体の中から温度がこみ上げてきて汗が垂れてきた。
 いくら、先程互いの思いが通じ合ったとはいえ、その初日から裸の付き合いとはどうか。最近の若い人たちは皆そうかも知れないが、しかし、俺は順序を踏んでそういう段階を踏むものと思っていた。
 とはいえ、さすがに俺の腰には最低限の防御策として、薄っぺらなタオル一枚が俺の精一杯の理性と身体的両面での隔てりだった。
「キョンく~ん、入ってもいい~?」
 とうとう逃げられないところまで来てしまったようだ。この浴室と脱衣場を繋ぐスモークがかかっている薄いガラス扉を見てみれば、
つかさらしきシルエットが覗かれている。……いよいよ覚悟を決めるしかないようだ。
「あ、あぁ。入ってきていいぞ」
 今、たった一枚の防衛線が開かれた……が! そこに見えたのは驚愕である。つまりは……。
「オイつかさ! お前、タオルとかつけたらどうなんだ!?」
 そう。まさに一糸纏わぬ姿でご光臨なさった。言い換えるならば、生まれたままの姿だとか、直球的に言えば、素っ裸である。
「えっ? あ、あれ? ダメ……なの?」
 前も後ろも一切隠すこともせずに俺に問うた。世間一般の常識での服を着るという常識はつかさの中では無くなってしまったのか。いや、まぁ風呂の中では着るとマナー違反だが。
 いやしかし、女の子としてそれはどうしたものか。普通そこは恥ずべき所だろう。というか、恥じてくれ。

「だってカップルなら一緒にお風呂入っていいって……」
「それとことは別問題だ! とりあえず前は隠してくれ!」
 つかさは不思議そうな面もちで脱衣場へと戻っていった。なんでダメなのか一切分かっていなかったようだ。
 そもそも恥ずかしいという気持ちは無いのだろうか。いくら想い人――自分で言うのもなんだが……―― だからって裸は普通恥ずかしいものだろう。
 そりゃ、何度も主張するようですまないが、無いとは言え胸はある。普通の少年誌では見せられないようなところもぼかしもなにもなしだ。
 極めたっては……下まで……。……さて地上波のテレビで小学生とかの裸がダメになったのはいつだろう……その頃であればつかさはなんら問題も無く映れたのだろう。
 つまりはそういうことである。だからなんとかそれを妹と脳内変換をする事により、俺の理性は保たれたのである。スマン、つかさ。妹と同類化してしまって。
「キョンくん入るねー」
 今度はしっかりバスタオルを巻いてきている。一般的女性はそれでいいのだ。何故か不機嫌そうな顔をしているのを除けば。
「……キョンくんあたしの胸見て小さいとか思ったでしょ」
 図星だ。ただ言うならば、悪気はないのだ。女性の胸の大きさ云々というのは男としてなら必ずしも通る道だとは俺は思う。
「……気にしてるのにヒドいよキョンくん……ぐずっ」
「……いや……その……じゃ、じゃあ小さいのも好きだ……」
 じゃあってなんだ。その巨乳のついでに好きだみたいな言い方は。いや、実際は特に俺にとっては胸のこだわりなんていうのはそうは無い。
 胸だけで女性を判断するのは間違っている。……まぁ無いよりはあったほうが……いや! つかさみたいのも悪くは……今は脳内変換だ! つかさを今は妹に脳内変換しなければ!


「だってキョンくんは大きいのが好きなんでしょ?」
 やはり女性においても、バスト云々の話というのは切っても切れない話なのか。確かに男なんだから胸は好きだ。だが、皆が大きいからいいとかいう訳ではないということを丁重に説明した。
「でもキョンくんはいつもゆきちゃんとか朝比奈さんのおっぱいばっか見てるの知ってるよ?」
 見ている気は無かったと思いたい。それほど若い男性の中の性的欲求というものは精神構造の割合を大きく占めており、無意識下でも働いてしまうということなのだろうか。
「あたしだってたまにタンクトップとか着てたのにキョンくんはいつもゆきちゃんとかの方ばっかり見て……」
 以前、つかさが着てきたタンクトップは少しブカブカの構造だったのは覚えている。それが狙いだとは気づかなかったよ、なかなか策士だなつかさ。少なからず、女性に対して恐怖心を持った俺を誰が責められよう。
「と、とにかく少なからずそう思った事については謝る。だが、俺はそういう面を含めて……つかさを好きになったんだ」
 ほとんど一糸纏わぬ姿でこれを言ってもなんて締まらないものか。これを間抜けと形容する以外になにがあろう。またはクサいと形容しようか。
 何にしても自分からすればこの発言はあまりいいものではなかったが、つかさには効果は覿面だったようだ。彼女の顔が紅潮したのを見て、自分も同様につられるのがわかる。
 そして、何を血迷ったか、つかさは俺が今浸かっている湯船に侵入してくるという暴挙に打って出た。可憐で綺麗な足が光って見える。
 この湯船は、一般家庭と比べると、そこそこ大きく、大人二人は悠々と入れるような造りになっている。家もなかなか大きいので理解は出来る。
 しかしながら、つかさはこのスペースを有効に使うことなく俺の座っている足の間に入り込み、背中を俺の胸の辺りに密着する形で入ってきたのだ。


密着しているのは下半身、特に恥骨周辺と言えばわかるだろう部位も同様であり、生理的現象が起きてしまうとダイレクトに小振りな臀部に当たってしまうのだ。
 必死に抑えている生理的現象も、つかさの何らかの行動等により、いとも簡単に決壊してしまうぐらいものであるため、必死に妹と共に素数を数えている想像で生理的現象を抑えていた。
「えへへ~、キョンくんと一緒にお風呂入っちゃってる」
 先ほどの雰囲気とは一転、つかさは俺の両腕をつかさを抱き抱えるように組み合わせさせた。つかさの柔らかい艶のある絹のようにきめ細かな肌を感じた。
「ちょっと夢だったのかもこういうの。好きな人と一緒にこうやって……」
 俺の手を優しくつかさの両手で包み込む。つかさの体温を感じる。ぬるま湯よりも熱く、でもそれは嫌な温度ではなかった。
「……でも、告白は最悪だったよね」
 つかさは上を向いて俺に顔を向けて少しおどけて見せた。ホラー映画での恐怖の念はもうないようで、とてもつかさらしいかわいい笑顔だった。
「ねぇ? 本当によかったのかなぁ、あたしみたいな女の子で」
「……なに言ってんだ」
 そりゃ告白された時には戸惑ったりした。つかさが俺にとってなんなのか。つかさのことをどう思っているとか。しかし、俺の心の深層心理の中では既にあの時、
――そう。つかさを見かけて心躍る思いで彼女に声をかけて映画に誘った時点で、俺の告白の答えは決まっていたのだ。
「俺は、柊つかさが好きだ」
 飾り気のない言葉。でも、俺達にとってはこれ以上の言葉は邪魔なだけだ。女の子が好き。この「好き」という二文字の言葉の中には、俺の想い全部が詰まってる。


つかさを抱き締める力を強めた。柔らかい肌。つかさの匂い、体温。全てを征服した気分。これが人を好きになるってことなのだろうか。
「キョンくん苦しいよぅ~」
 つかさがうめき声をあげる。それがたまらなく可愛くて、もっと力を強めた。つかさがここにいる。それがたまらなく嬉しくて、もっと力を強めた。
「うぅ~……あっ! キョンくんちょっとだけ手緩めて?」
 本当はこのままずっと抱き枕としてお持ち帰りしておきたいところだったが、なにか思いついたような笑顔で言ってきたので、渋々従って腕の力を緩めた。
「えへへぇ~こっちの方がキョンくんのお顔が見れるねっ」
 つかさは体の向きを反転して、俺の方へ向き直り、そのまま抱き締めてきた。意外ということもあるが、何よりもその行動の子供っぽさの可愛さに俺はまた強くつかさを抱き締めた。
「あたし、キョンくんが大好きだよ」
 耳元で囁かれて背筋に寒気のような、でも熱いなにかが伝った。体を密着させあっているので、俺の心臓の音が大きいことも彼女には伝わっているのだろう。
「俺も、つかさが大好きだ」
 仕返しに耳元で囁いてみる。すると、つかさは体を跳ねさせ、一層俺に強く抱きついた。つかさの息の荒さがわかる。熱い程の息が俺の首筋にかかり、背中がゾクッとした。
 俺自身、まるでフルマラソンでも完走した後のように心臓が酸素を求めているのか、息が荒くなっているのを感じた。つかさは俺の胸の中でフルフルと小刻みに震えている。


 時刻は既に深夜帯。彼女の家には誰も居ない。この小さな個室の、さらに小さな四方形の箱の中に二人だけの世界。
 背徳心と征服心。罪悪感と好奇心。対照的な二つの感情がひしめき合っている。少し前に俺は絶対になにもしないと言ったが、前言を撤回し、出来る限り努力はしたい、に変更する。
 このような妖美がつかさにあるとは思いもしなかった。俺から見たつかさはいつも妹のような存在だったのにも関わらず、前言を撤回するほどに理性が追い詰められている。
 つかさをもっともっと感じたい。つかさを俺だけのものにしてしまいたい。そんな感情になっているのを、首の皮一枚で繋がっている理性で抑えつけている。
 互いの息は荒いまま。ひたすらに互いがそこに居る、と言うことを確認しあう意味で強く抱きしめ合った。そんな時間が何時間も続いたかのように思える。
 ぬるま湯なはずのお湯が、まるで地獄の血風呂のように湯だっているものにも思えた。互いの体は熱く、でも離れたくはなかった。汗が噴水のように流れて伝う。
「ねぇキョンくん……」
 力無い声でつかさは俺に呼び掛けた。合いの手を打ち、それに応えてつかさの返答を待った。
「キス……してもいいかな……?」
 自分の耳を疑った。思わずつかさの顔を正面にして、表情を窺った。
 大きな瞳は涙で潤い、顔は深紅に紅潮していて、荒くなった息が鼻にあたって少し痒い。
 つかさは、俺に微笑みを見せた刹那、俺と唇を重ねた。ほんの少しの時間の触れるだけのキスだった。つかさは恥ずかしそうにまた微笑んだ――――――――――――――

 
――一番最初に感じたのは、光だ。
 眩いばかりの光量は、恐らくだが、朝を知らせる太陽の光だと思う。
 次は聴覚。すぐ隣で規則正しい寝息が聴こえる。聴いているこちらまでもが眠気が誘われるような、心地良いリズムだ。
 こう考えていると、脳が段々と覚醒を始める。俺の朝はいつも起きた時の情景を、見たまま、感じたままで考え、脳を覚醒させることから始まる。
 感覚器官の触覚を取り戻し、抱きかかえている柔らかくて暖かい抱き枕代わりになっているものを感じ取った。そうしてそれは、ずっとこうしていたくなるような魔力を秘めている。
 そうして、順々に感覚器官を取り戻し、脳を半分は覚醒させたところで、ようやく目を見開いた。
 光に慣れていないため、目を開けるのが辛い。徐々にその光にも慣れてくると、至福の為に舞い降りたった天使の姿を見た。
 天使――つかさは、俺の体に抱きついたまま、その天使のような優しい微笑みで、心地良いリズムで寝息を上げていた。
 昨日あったことを夢だと少なからず疑っていた俺は、つかさのその姿を見て安緒の意でふっと溜め息をついた。
 そうか、これは夢じゃない。昨日から今日の夜中にかけて起きた出来事はともかく、つかかさがこうして俺のそばで寝息をたてているのは夢や幻なんかじゃないのか。


つかさの頬に軽く口づけする。むにゃむにゃと寝言のように口を動かして俺に抱きつく力を強めた。
 可愛らしくて、愛おしくて、全てがどうでもよくなるような感覚。俺はどうやらつかさにゾッコンらしい。……ゾッコンって死語か?
 今日はこのままずっとこうして寝ていたくなる。……それもいいか。たまにはこんなだらけた日も悪くない。
 そうして、またタオルケットを整えて、二度寝と意気込もうとした。……が、それは下の階の扉を開けるような物音がしたため、止めざる負えなかった。
「つかさー? 起きてるー?」
 階段の下から聞こえる声は、柊家の双子の姉であるかがみの他ならないと確信した。
 非常に不味い。このままの姿を見られたら何を言われるか、それよりも、何発貰えるかの方が心配である。
 ――そう。俺が上半身裸で、つかさが全裸であるこの姿では……。
「つかさーごめんねー! 昨日は日下部がしつこくって…………」
 全世界が、停止したかと思われた。いや、恐らくは本当に停止していたのだろう。
「………………」
 かがみは開いた口が塞がらないようで、大きく口を開いたまま呆然とこの光景を理解しようと努力しているようだ。
 俺は、その移り変わりゆくかがみの表情を見て、辞世の句を考えることしか出来なかった。

愛する人を残し 怪にやられ先に発つ
愛する人は未だ眠りて 桃源郷から未だ帰らず
我、生涯に一辺の悔い遺さず 此、辞世の句として遺したる。

 和歌の形式に拘らない、というか文法も何もなってはいない、あえての独自の文法で辞世の句を心の中で詠み上げ、これから起こる世紀末の出来事を素直に受け入れる事にした……。
「ん~きょんくんだぁいすきぃ~……」

                             おわり。

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最終更新:2007年10月08日 20:28
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