ある日の放課後――俺たちSOS団は、部室の前で立ち往生するはめになっていた。
各々が思いつめた表情を保ち、閉ざされた扉に険しい視線を送っている。
いや――正確には、扉の向こうで縦横無尽に動き回っているであろう『彼』に対してだが。
「あんたは完全に包囲されているわ! おとなしく出て行きなさい!」
「ハルヒよ。そんな話が通じる相手だと思うのか?」
太古の昔より生きる、宇宙船地球号の先輩クルーである『彼』にこんなことは言いたくないが……駆除しかあるまい。
「わかってるわよ。それじゃあ……誰が行く?」
「……」
俺→視線を逸らす、朝比奈さん→可愛らしく小さな悲鳴をあげる、長門→無言、古泉→スマイル
「キョン! たった1匹でしょ、ホイホイ潰してきなさい!」
俺に白羽の矢がッ!
ちょ、ちょっと待てよ。1匹見かけたら30匹いると思えとか言うだろ。もしかしたら今頃部室は――
「ひゃぅぅっ! やめてくださいっ」
と、耳を塞いで縮こまってしまう朝比奈さん。こりゃ本格的に使い物にならんな。
いや、そもそも女子はたいてい『彼』が苦手だから責められるものでもないんだが。
そろそろネタばらししてもいいだろう。宇宙人未来人超能力者が軒並み揃うSOS団を窮地に追い込んだ『彼』とは、
黒い悪魔、台所の妖精、などの異名を持つ……英名をコックローチ、和名を“GOKIBURI”とするアイツである。
朝比奈さんが絹を裂くような悲鳴をあげ、その存在を主張したことで、間もなく緊急避難と相成ったのだ。
「……仕方ないわね」
あたしも貴重な団員を鉄砲玉として使いたくないわ、とハルヒは仰る。
しかしだな、それがキョンごときだとしてもね、てのは余計だろ。
「でもゴキごときに屈するのは遺憾だわ。今すぐ兵隊を集めなさい、徹底抗戦よ!」
「で、私らが呼ばれたと」
そういう泉に、俺は頷いて見せた。戦力を募ろうにも、放課後を暇そうに過ごしているやつなど限られてくる。
泉、柊姉妹、高良の4人組が暇人とは言わないが、選り好みしてる時間もなかったし、カンベンしてもらいたい。
「オニャノコに生物兵器“G”の相手をさせるってのは感心しないヨ」
「だからカンベンしてくれって。埋め合わせはちゃんとするから」
「それ、何でも言うこと聞いてくれるって解釈していいかしら?」
かがみの問いに、ああ、と首肯すると女子4人がにわかに色めき立ち確認を求めてきた。
そう心配しないでも、うちの団長に頼んで団を挙げてのおもてなしをさせていただく所存である。
「……期待してるのはそれじゃないんだけどな」
そりゃどういうことだ、と訪ねたら「やれやれ」をパクられた。何なんだ、いったい。
さて、部室前である。
「よくぞ集まった、恐怖の魔窟を落とさんとする精鋭どもよ! 今こそが決戦のときである!」
「オッス、涼宮隊長!」「お、おっす!」
泉はノリノリで、つかさは流されて反応してるが、良識あるかがみと高良は困惑しているぞ。
「敵前逃亡は死刑、裏切りは極刑!」
「ゴキブリに味方するってどんな状況よ!」
「最後の1匹になるまで叩き潰しなさい! じゃあ、いくわよ……」
ハルヒが扉に手をかける。正直に言って、俺は新戦力のうち頼りにできるのは泉とかがみだけだと思っている。
つかさと高良はそんなイメージがない。てか、嬉々としてゴキを潰しまくる2人なんぞ見たくない。
やはり、ここは俺ら男衆が何とかせねば……古泉としたくもないアイコンタクトを済ませ、ハルヒの号令に備える。
「――突入!」
今、戦いの火蓋が切って落とされた。らしい。
部室の中は、静かだった。逆に不気味さを感じさせるほどに。
そのプレッシャーに押されているのか総員が長門化しているようで、一言も発しない。
「……逃げたか?」
「甘いわよキョン。油断させて奇襲する……戦場における常套手段じゃないの!」
「いつからここは戦場になったのよ」
武器(新聞紙)を携えて、総勢9人で“G”の捜索にあたる。だが30匹どころか最初の1匹すら見かけない。
「も、もう出ようよぉ……」「きっと逃げたんですっ……ふぇぇ」
つかさと朝比奈さんから発せられた帰りたいオーラは瞬く間に蔓延し、
「僕も退いて問題ないと思います。敵は、涼宮さんに恐れをなしたのではないかと」
「姿が見えないのでは仕方ありませんね。退却して、バルサンでも買ってきてはいかがですか?」
古泉と高良の敬語コンビが一時撤退の正当性を主張し、
「ま、そういうことみたいね」
「……それもそうね。よし、撤収よ! これから第二作戦に移行する!」
かがみとハルヒの鶴の一声で、選ばれし9人の戦士は戦線離脱する運びとなった。
やれやれ……と俺は動こうとしない長門の背中を押しながら殿を務め、ドアを閉めた。
はて。何か忘れているような。
廊下でバルサン買出しの当番をくじ引きで決めようとしたとき、ようやく思い当たった。
「……こなたは?」
最初に口に出したのはかがみだったが、その瞬間にはその場の全員が気づいていたことだろう。
泉が、いない。しかしこの場から離れた様子など誰も見ておらず、となると部室に残ってるわけだが……
「あ、あぁぁーーーーーーーーーーッ!!」
ハッとした。そして、扉を凝視して息を呑んだ。今のは、泉の声だ。
「キョ……キョンキョン、キョンキョン助けてーーーーーっ!」
一番最初に動いたのは俺だった。名前を呼ばれたのもあるし、何より出るとき最後尾にいたから扉に最も近い。
すぐさま扉の封印を解き、泉のもとへと飛び込んでいった。
と、扉が閉められた。そのあとなったカチャリというのは、記憶が正しければ鍵を閉めたときの音。
閉じ込められた!? 思わず振り返るとそこにいたのは、
「むふふ。キョンキョン本当に助けに来てくれたんだネ」
ドッキリ大成功、とでもいいたげな表情の泉だった。この瞬間、俺の頭はショートして考えることをやめていた。
「あたしゃ嬉しいヨ~」
だから、泉に抱きつかれてすりすりされても「良かった、無事だった」ぐらいにしか思わなかったのである。
が、
「ちょっと! どうなってるの!」
扉越しでもよく響く団長様の声で正気を取り戻した。泉、どういうことだ!?
「なあに、ちょっとした固有結界を作ったまでさ。私とキョンキョンの、ね」
それは何の用語だ。とりあえず、俺を放せ。
「だが断る。こうでもしなきゃ、キョンキョンと2人きりになれないもんね」
ぎゅっ、と力をこめる泉。こいつ、見た目に反して力が強いから暴れてもびくともしない。
……何だこれは。扉の向こうから、すごいプレッシャーがかかっている気がするぞ。
「おいこなた! あんた抜け駆けする気か!」
「裏切りは極刑と言ったはずよ! 大人しくキョンを解放してゴキ共々お縄につきなさい!」
怒声が飛んでくるも、泉は気にした風もなくむしろ余裕すら感じさせる態度で、
「へへん、私は自分に正直に生きるラブ・ウォリアーなのさ。いつまでも手をつけない君たちがいけないのだヨ~」
いや……ノリノリな態度で受け答えしている。
「泉」「……な、何かな?」
真剣味を帯びた声色を出してみると、意外にすんなり大人しくなった。俺にも気圧せる相手っているもんだな。
それはともかく、これは言っておかなければならない。俺は妙に緊張気味の泉を見据えた。
「ハルヒのために盛り上げてくれるのはいいんだが、やりすぎじゃないか?」
ばか、と小さく呟く泉。まだやり足りないというのかお前は。
扉の先で、複数の溜息が聞こえた。やれやれ、めでたしゴンベエだ。
ドアを開けた俺を出迎えたのはハルヒとかがみのダブルキックだった。
吹っ飛ばされて仰向けになる俺。何をするだァ――ッ!
「ご、ごめん! こなたが避けるから……」「あ、あたしは最初からあんた狙いだったのよ。外してない!」
まったく、散々だ。結局ゴキブリは出ないし謂れなき暴力は振るわれるし……文句でも言ってやろうかと上体を起こすと、
「どうした?」
全員の視線が俺に、いや俺の背後を凝視している。何だ――と問う暇もなく、ドアは俺の眼前で勢いよく閉められた。
「おいおい、まだ出てないぞ!」
さっきのイタズラの続きか、と頭を掻く。掻いているうちに、気づいた。
頭髪と指先が擦れる音に混じって、背後で何やらカサカサいってるものがある。
『YUKI.N>見えてる?』
通常、いきなり脳内にパソコンのディスプレイのようなイメージが割って入ってきたら狂乱ものだろうが、
不覚にも俺はこういう事態には慣れっこだ。それに長門ならテレパシーくらいできても何の不思議もない。
『YUKI.N>これは予想外の事態』
どういうことだ、と俺も脳内ディスプレイに文字を打ち込む。
『YUKI.N>朝比奈みくるが視認したというゴキブリは存在しない。簡潔に言うと、誤認』
なるほど、朝比奈さんらしいや。
『YUKI.N>保険としてバルサンを焚き、この件は解決するはずだった』
そこで間が置かれ、長門が勿体ぶるのを覚えたことで感慨にふけっていると『泉こなた』の文字が打ち込まれた。
『YUKI.N>泉こなたが予想外の行動に出て涼宮ハルヒを刺激することにより、彼女の力を誘発させた』
そりゃ、あの篭城ごっこのことか。じゃあ、トンデモパワーの誘発っていうのは。
『YUKI.N>ゴキブリの実体化』
……それだけ? と打ち込むと、今度はすぐに『涼宮ハルヒの力を侮ってはいけない』と返された。
侮ってはいけない……そう、あいつはありえないことを覆す女だ。誰もが知りながらも、本心では信じていないことを。
――1匹見かけたら30匹いると思えとか言うだろ――
ま、さ、か。
『YUKI.N>惜しい。それでは涼宮ハルヒの興味を抱く基準に達しない』
まあ、確かにハルヒはシンプルなものを好む。ゴキ30匹がうぞうぞなんて、あいつの趣味に合うとは思えない。
しかしドアを閉めたくなるような光景なのは間違いない。いったい、何だというのだろう。
『YUKI.N>情報操作は得意。泉こなたら4人には、見なかったことにしてもらう』
一般人に見せたらまずいもの、か。考え付くのは……、
「……ま、さ、か」
長門、情報操作ついでに、そいつも何とかしてくれるよな?
『YUKI.N>拒否する。あなたは少し反省すべき』
ちょ……俺が何した!?
『YUKI.N>その態度。自覚がないことが一番の問題』
長門さん!? 裏切りは極刑だろ! おーい!!
通信が切れた。背後のカサカサが大きくなっている――こっちに近づいて来ているらしい。
壊れたブリキの玩具のように、俺は振り返って……自分の身の丈ほどもある黒い塊を見た。
「アッ――――――――――――――――――!」
それから俺は。
長門が機嫌を直してくれるまで、部室で巨大ゴキブリと戯れていた。
俺が何した。
でもって、ゴキブリ退治を手伝った礼として泉ら4人にお返しを要求された。
それぞれの都合のいいときに、たかられる決まりとなっている。拒否権は却下されました。
本当に、俺が何した。
とりあえず俺が多大な被害を受けて、この件はお開き……となったハズだった。
少なくとも俺はそう思っていた。土曜日の探索で、長門とペアになるまで。
「また、想定外の事態」
遠ざかっていくハルヒら3人に視線を向けたまま、長門は言葉を紡ぐ。
話の内容から、今回のくじは宇宙的な細工がなされたのかもしれない、とどうでもいいことを考えていた。
相変わらず長門の説明は、どこかの参考書から専門用語を引用しまくったように難解だったが、
重要なところは「泉、柊姉妹、高良の記憶からこの前の巨大ゴキブリの記憶を消せない」ことらしい。
「涼宮ハルヒを含め『幻覚』だったと錯覚させてはいる。ただしそれだけ。イメージを完全には消去できていない」
原因は何だ、と尋ねると「情報生命体」という固有名詞で答えられた。
「それは……アレか、いつだったかのカマドウマか」
コンピ研部長氏失踪事件については割愛したい。詳しくはミステリックサインをどうぞ。
文芸部室は、宇宙人未来人超能力者が混在しているせいで、様々な変態的力が拮抗する魔窟となっているらしい。
古泉曰く、打ち消しあって逆に普通になってるそうだが……やはり異常は異常だということだ。
ハルヒパワーの暴発で一時的にバランスが崩れ、今回は長門が担当する『敵』を呼び寄せてしまったとのことだ。
……あらためて、俺たちはとんでもないところで時間を無駄にしていると思う。
「涼宮ハルヒが具現化させた生物を視認した泉こなた以下4名は、強力な畏怖を覚えた」
そりゃ、あんなにバカでかいゴキブリはトラウマものだろうな。
「情報生命体はそれを入り口に、拡散して彼女らの記憶媒体に侵入した」
「このままほっとくと、今度はあいつらが行方不明扱いになるのか」
「それはない。拡散したせいで実体化できない状態にある」
しかし、今度は細かすぎる上に泉らと共存というカタチになっているから、うかつに手が出せないと。
それはまずいな。てっきり今回も、長門がぱぱっと終わらせてくれるもんだと思っていた。
てか、それで済むならわざわざ俺に相談したりしないよな。浅はかな自分のためにしばし反省タイムを設けたい。
「あなたに賭ける」
いつぞやの閉鎖空間で聞いた(見た)覚えのあるフレーズを、淡々という長門。
何を賭けられるのか、いくら賭けられるのか理解できないが、とりあえず日曜が潰れそうなのはよくわかった。
やれやれ。
不思議探索午後の部もさして報告すべきことは皆無で、そのまま解散と相成った。
収穫ゼロだというのに、ハルヒはハレ晴れした笑顔で去っていく。奴は明日、のびのび休日を過ごすのだろう。
忌々しい、ああ忌々しい、忌々しい。
「さて……と、」
帰宅後、長門指令から課せられた任務をさっさと全うすることにした。
携帯電話の電波が届く先は、
『おいーっすキョンキョン。何か用~?』
「泉。例のいつかおごるって約束なんだが、明日でいいか?」
『また急な話だね。ん~、でもいいかな。大して用事もないし』
第一段階終了。集合場所は後ほどメールでとの旨を伝え、通話を切る。
そのまま、次は柊姉妹に電話する。
『もしもし、どうしたの?』
「かがみ、そこにつかさもいるか?」
『……うん、いるよ』
「そうか、じゃあついでに伝えてくれ。例の……」
2人にも了解を得て、泉と同じ手順で通話を切る。最後は高良だ。
『もしもし、みゆきです』
このままトントン拍子で進んで欲しかったのだが、
『申し訳ありませんが、母が出かけているので明日は家で留守番をしようと思っていまして』
ふうむ、やはり一度にまとめて、という方法はとれなかったか。仕方がない、作戦Bだ。
「なら、高良のうちにお邪魔してもいいか?」
受話器の向こうで、高良が息を呑む音や独り言が微かに聞こえてくる。
しばらく間を置いてから『わかりました、よろしくお願いします』と恐縮してしまう返事が返ってきた。
よろしくお願いしますって、何をだ?
ここからが仕上げである。
「長門、やっぱりバラバラに仕留めることになると思う」
『……そう』
微動だにせず電話に出ている姿が容易に想像できる平坦な声で、長門は言葉を紡ぐ。
『では、支給した眼鏡を着用して臨んで』
わかった、と簡潔に返答し、次に泉とかがみに場所を連絡。今日は携帯電話が大活躍だ。
その後、朝比奈さんと古泉に計画を確認し、ゴキブリホイホイの準備は整った。
計画ってのはこうだ。
まず、敵の狙いはより鮮明な巨大ゴキブリの視覚データを持つ俺であることが重要らしい。
泉たちと俺が接触した瞬間、彼女らに潜む情報生命体は俺へと移動するため宿主のもとを離れる。
当初の計画では、宿主4人を1つの場に集めて、元来の姿に戻ったところを長門が処理する、というものだった。
しかし高良が来れないということなので、各個撃破するという作戦に変更となったわけだ。
その流れだと、俺が4人(柊姉妹を括ると、3人か)必要になる。そんな無茶を可能にするのが、未来パワーだ。
いわゆる、某ネコ型ロボットが宿題を片付けるためにやった方法をとるのである。さしずめ、キョンだらけ。
俺は3回日曜日を繰り返すことになる。その都度迎えに来てくださる朝比奈さんもご苦労様であるが。
その際、俺は長門謹製の宇宙パワーが宿った眼鏡をかける手はずになっている。
うちのばあさんのとき(※漫画版4巻参照)使用したものと同じもので、今回はそれが4つ。
泉たち4人にそれぞれ使い、計4つの昆虫採集が出来上がる。
その後、任務を終えた俺はフリーになり、彼女たちに振り回される運びとなる。こっちのがキツイかもしれない。
とにかく明日は疲れる1日……正確に換算すれば3日分過ごすはずなので、今日は早めに寝た方がいい。
何せ、先達であるネコ型ロボットは「やろう、ぶっ殺してやる」と自分殺しの域まで達していた。
未来の自分に命を狙われる主人公など、某英霊だけで充分だ……。
まどろみかけていたところで、大事なことを思い出した。
――1匹見かけたら30匹いると思えとか言うだろ――
ハルヒが不本意ながら創造してしまった巨大ゴキブリ。あれが1匹のみという保証はない。
今回は1匹しか出てこなかっただけで、まだ部室に潜伏する者がいて、忘れたころに災害の如く現れるかもしれないのだ。
だって、ゴキブリはそういう生き物だから。
薄れゆく意識の中で、俺は思った。
――部室に、バルサン撒いとこう。
決戦当日。早く起きようと思っていたのに、結局妹のダイビングボディプレスで叩き起こされるはめになった。
1日の始まりに余計なダメージを喰らってしまうとは……先が思いやられるぜ。
これから俺が味わう苦労を知ってか知らずか、シャミセンがわざわざ俺の方を向いてあくびをした。
そんなに暇なら、俺のコピーロボットになってもらおうか……なんて、つい鼻を押したがそんなことあるはずなく。
気分を害したのか、そっぽを向いて二度寝を始めやがった。
朝の食卓に並んでいたのは、スタミナがつきそうな料理ばかり。
妹経由で俺の予定を聞いた母親が、いらん気を回したらしい……結果的には、ありがとうを言うべきなんだろうな。
事情が事情でなかったら、下世話以外の何物でもないんだろうが。
出陣の時刻が迫ってきた。
勝利条件は、眼鏡をかけた状態で女子たちと目を合わせること。
ただし、巨大ゴキブリのことを想起している状態でなければならない、と長門は言う。
ゴキブリのこと想像しながら見詰め合うって、どんな状況だよ。しかし長門が言うからには、やるしかない。
やれやれ……いや、この台詞はまだとっておこう。ぼやくのは事が終わってからだ。
個人的には一大決心を胸に、深呼吸してドアノブに手をかけた。
さあ、俺の一番長い日が始まるザマスよ。
家を出ると、以前に見たタイプより小ぶりなものの、上質であろうことを感じさせる車が停まっていた。
古泉が手配を申し出た車だ。正直俺は遠慮したのだが、万一のことを念頭に置いた説得で折れた。
あいつは子どもができたら、さぞかし過保護な親になるに違いない。
一礼してから乗り込むと、俺の中でのベストオブ執事・新川さんが運転席にいた。
「僭越ながら、運転を務めさせていただきます」
相変わらず恐縮してしまうほどの執事っぷりだ。あの、古泉はどうしてます?
「涼宮様があなたと鉢合わせしないよう、見張っております」
「……苦労をかけてすまない、と伝えておいてください」
かしこまりました、と新川さん。次に目的地を伝えて俺はシートに深く座り込んだ。ありがたく休ませてもらおう。
泉が行きたいと言った場所は、最寄のアニメイト。
好きな場所でいい、と任せてみたら期待を裏切らないチョイスをしてくれた。そこに痺れるが憧れない。
待ち合わせ場所の少し手前で降ろしてもらうことにした。もちろん、新川さんに礼を言うのは忘れないぞ。
さて、1本立った毛が目印になって泉はすぐ見つかった。肌寒くなってきたからか、そこそこの厚着だ。
もともとファッションセンスに聡い方ではないが、似合っていることはだいたいわかる。それに比べて俺は――
「キョンキョン何で眼鏡? ウラタロス?」
「僕に釣られてみる? ……って違う!」
ちょっとした洒落っ気だ、と言うと「電王見すぎ」……なぜそこしか考えない。絶望先生のリスペクトかもしれないだろ。
「へー、ああいう作画が好み?」
「どっちかと言うと作風だな。漫画から入ったし」
「ふうん。ところでさ、今度始まるガンダムのメインキャラの中に、髪伸ばした絶望先生いるよね」
「ああ、見た目も声も絶望先生だよな。絶対ネタにされる」
滑稽だな、と自分でも思う。こんなの、女子と並んでする会話じゃないよな。
しかし泉こなたが相手ならば、これは正常なのだ。そして俺もこのズレてる感じが、嫌いではなかったりする。
アニメイト店内に入ると、明らかに空気が一変した。毎度毎度、この急激な温度の上昇には慣れない。
ここの店員が妙に暑苦しいことが関係しているのだろうか。
今日も今日とて、泉の姿を確認した途端に円陣を組んでいるし、燃えてるし。
「今日は『Real-Action』と『Coffee form』と……キョンキョン欲しいのある?」
「どうせ俺が払うんだろ? いらない」
「チッ、目聡いね。でも詰めが甘いぜ、私は更にYouのポイントも狙っているのさ」
尚更買うかッ。俺を人間ではなくポイント増幅器ぐらいにしか見てないのではあるまいな。
「うートイレトイレ。今トイレを求めて全力疾走する私は高校に通うごく一般的なオニャノコ。強いて違」
「ネタはいいから早く行ってきなさい」
アニメイト退出後、泉がお花を摘みたいらしいので公園に寄っている。俺はベンチで待機中だ。
遊んでいる子どもは1人もいないので、俺が不審者扱いされる心配はないのだが。
「泉なら、何の違和感もなく溶け込めるんだろうな」
失礼とも思うが、事実なので仕方ない。それにしても、どうも遅い……。
「キョンキョンたすけてーーーーっ!」
泉の声。だが、一瞬その内容を理解できなかった。たすけて? トイレで? 女の子が?
「……まさか」
脳裏を過ぎるのは、最悪のケース。今まで勝手に考えないでいたが、世間にはロリコンなる人種も生息している。
さすがに女子トイレに入るのは躊躇だが、でもそんなの関係ねえ。泉がピンチなんだ。
閉まっている個室の扉を叩き、どうした、と叫ぶ。
「紙がないヨー」
……はい、オッパッピー。
「お前なあ……やめてくれ、心臓に悪い」
「でも必ず助けに来てくれるよね。この間も」
「……俺だって、尽かす愛想ぐらいあるぞ」
あれだけ人を心配させておいてこの態度。しかもジャングルジムの上から。泉には反省という概念がないのか。
意図的に仏頂面をつくって頭を掻く俺を見て、何を思ったのか泉は、
「――私さ、昨日変な夢を見たんだよ」
見当外れの話を始めた。聞き流すつもりでいたが、次第に俺はあることに気づく。
泉の語った『夢』とやらは、昨日のゴキブリ騒動そのままだった。
長門の処理か、巨大ゴキブリ出現の手前から別の記憶が挿入されていて、実際の事件は『夢』として切り取られてるらしい。
「現実ではキョンキョンが来てくれたってのに、夢での私はキョンキョンを助けにいかなかったんだヨ」
ひどい奴だよねー、と泉は笑う。
「……夢の話だろ。気にするなよ」
それじゃあ気が収まらなくてさ――泉は微かにはにかんだように笑って、遊具から飛び降りる。
そのまま俺の前まで駆けて来て、こう言うのだ。
「助けに来てくれて、ありがとう。あと、助けられなくてごめんネ」
俺の瞳を覗き込むような泉の視線。次の瞬間、俺の眼鏡には昆虫採集が完成していた。
任務完了、だ。眼鏡を外して、もう一度泉の顔を覗きこむ。
「じゃ、困ったことがあったらそのときは頼むぜ」
「うむ。何が来ようと、ボコボコにしてやんよ!」
物騒だな、なんて茶化しながら、シャドーボクシングを始める泉と笑いあっていた。
それからはカラオケで泉にデュエットを強要されながら時間を潰し、そのまま別れた。
とにもかくにも泉の治療は完了。得たものは『Double-Action』の全曲暗記。
やれやれ、その1だ。
朝比奈さんの力を借りて、今朝の自宅前まで時間遡行した俺。
視界の端で新川さんの車が走り去るのが見えた。あれに俺が乗ってると思うと、妙な気分になる。
今度の運転手は多丸圭一さん。孤島ではお世話になりました。
「今日は、裕さんは?」
「一樹くんの方に回ってるよ。……っと、君にはこの喋り方でいいんだっけかな?」
ええ、バッチリです。以前お会いした孤島の館の主そのものですよ。
柊姉妹にはSOS団御用達の喫茶店を指定しておいた。
というのも、泉と被らないようにしただけで、馴染みの場所を選んだのは俺の不勉強さが招いた結果だ。
あの姉妹の共通の趣味に見当がつかなかったっていうのもある。
約束どおり、かがみは窓際に座っていたのですぐに見つけられた。
店員に「連れです」と意思表示して、テーブルを挟んでかがみの対面に座る。
一緒にいるはずのつかさの姿が見当たらないが、トイレか?
「うーん、あの子寝坊して遅れるから」
「そうか。やっぱり、みんな休日は寝て過ごしたいんだな」
「あんたは中年じみてるだけでしょーが」
手厳しい意見をありがとう。自覚はしているので否定はしないよ。
しばらく、かがみと雑談をして過ごした。最初はスルーされたが、やはり眼鏡について突っ込まれた。
そんなに似合わないのか……。「違うって。急にかけるから驚いただけよ。うん、似合ってる」
正直、かがみは手強いと思う。泉曰く、かなりのリアリストだそうだ。
確かに、夢の内容を尾に引くような性格とは思えない。
だいたい、飲食店で生物兵器Gの話題などTPOが許さないだろう。
店を出てからが勝負だな……つかさが来るまで動けないわけだが。
「……もう移動しようか? つかさにはメールで連絡しておくから」
「いいのか?」
「う、うん……ここじゃ、言いにくいこともあるし」
何を言われるんだろうな。ツッコミ同士の愚痴は普段からやってるし、もしや俺が罵倒されるのか。
しかし、気のせいか……目の前の少女が、なんだか、急に落ち着きが無くなったように見える。
そう指摘したら、かがみは俯いてしまった。こんな彼女を見るのは、初めてだ。
やがてかがみは、普段の様子からは考えられないほど震えた声で、小さく告げた。
「つかさには、今日のこと教えてないの」
「……ええっ!?」
バんなそカな。
「自分がズルイことしてるのはわかってる! でも……」
これはまさに予想外の展開! 時間移動をもう1回増やさなければならない。
即ち、俺は日曜日を4回過ごすわけで……死ぬッ!
「私は……私は……っ!」
「と、とりあえず落ち着け。視線が痛い!」
かがみさん、ここが公共の場であることを忘れてはいませんでしょうか? 大声を出すとまずいって。
今にも泣きそうな女の子なんて、俺は妹しか相手にしたことがない。だから頭を撫でる以外の対処法を知らない。
躊躇いながらも、できるだけそっと触れる。撫でているうちに、かがみも落ち着いてくれたようだ。
「……ごめんキョン。今日はもう、解散でいいわ」
俺としては無駄に過ごす1日を増やさずに済んで万々歳だが、かがみはいいのか?
「うん。こんな抜け駆け、いやだからね」
抜け駆け、ねえ。この前のゴキブリ騒動でも泉に対して使ってたが、口癖なのか?
「あ、あのときは……」
「そういや、言いたいことって何だ? 急ぎの用ならこの場でも承るぞ」
かがみは赤くなって、目を逸らしながら――
「その……結局あのバカのおふざけだったけどさ、こなたを助けにいってくれてありがとう」
その台詞を聞いたとき、俺はかがみを誤解していたのかもしれない、と自省した。
リアリストと言っても冷たいわけじゃない。ただ、言うことがいちいち几帳面な、優しい奴なんだ。
さて、間接的にもゴキブリのことを想起している今がチャンス。いや、今しかない!
「……こっち見てくれないか?」
「……っ」
ダメだ。完全に横を向いてしまった。こうなったら、やるしかない。
――このときの俺は焦っていたか、少しおかしくなっていたんだろうな。
かがみの両肩に手を置き、少しばかり強引にこっちを向いてもらおうとした。
「あ……」
小さく息を呑む。かがみは目をつむり、くいっと顎を突き出すように――って、
「……なぜ、目を閉じる」
「だ、だって、こういうときは……あー、もうっ!」
くわっ! という効果音をつけたくなるほど力強く開眼した。視線が、合った。
そして、俺の眼鏡には哀れな標本が……よし、任務完了だ。かがみの両肩から手を離して、一息つく。
「え……あれ? 続きは?」
あれ、と言われても。続きは、と言われても。というか、真っ赤になって震えるかがみさん、怖いです。
俺があまりにも間抜けな顔をしていたからか、クールダウンしたかがみはまたしても俺の十八番を奪った。
「そんなに欲しけりゃ、お前にやるよ」「いらない。『やれやれ』はあんたじゃないとね」
俺は芸人でも何でもないんだが、持ちネタがあるのはいいものである。
「じゃ、私そろそろ行くね……今回のはノーカウントにしてね?」
ああ。正直、今回は俺も野暮用を抱えていて臨むところではなかったしな。日を改めて、付き合おう。
「……ばか」
最後に失礼なことを言い残して、ばいばいと去っていくかがみ。
これで2人目の治療が完了。ただし、かがみにはもう一度振り回されなければいけないらしい。
やれやれ、パート2だ。
さて、つかさに会うためには柊家に向かわなければ。
幸い半日で済ませてもらったので、かがみと別れるちょっと前に時間移動してもらうことにした。
ついでに神社の手前に座標を指定していただいて……朝比奈さん、お疲れ様です。
「こんにちは。柊つかささんのクラスメイトの者ですが……」
インターホンを押してすぐに、留守番をしていたお姉さまがたに捕まってしまった。時間がないと言うのに!
話には聞いていたが、長女のいのりさんは本当にかがみとそっくりだな。数年後を見ているようだ。
次女のまつりさんは、つかさ似だろうか。もっとも、中身はまったく違うみたいだけど。
「へー、君がウワサのキョンくん? 私てっきり、かがみはキョンくんに会いに行ったと思ったんだけど」
この様子を見ると、つかさとは違って快活であることがよくわかる。
「そうそう。もしかして、他にオトコがいるのかしら……かがみもやるわねぇ」
お姉様方は何か誤解をしていらっしゃる。これは、話がこじれそうな予感だぜ。
「まあまあ、飲み物でもどうぞ」
はあ、と気の入らない返事をして、いのりさんに注がれたジュースを軽くあおった。
鷺宮神社といえば、美人姉妹が巫女さんをしていることで有名である、と谷口が言っていた。
その情報は間違っていなかったらしい。こんな娘さんたちに囲まれているお父さんは、真の意味で勝ち組だ。
このまま幸せを享受するのも捨てがたいが、俺には任務がある。つかさのところに行ってもいいですかと交渉しなくては。
「寝てるけどいい?」「昼なのに、ですか?」「そういうコだからね、仕方ない仕方ない」
悪戯心満載の顔で「襲っちゃダメよ」と釘を刺された。なら、立ち会っていただけませんか?
俺の提案はお姉様方の心をくすぐったらしく、3人でつかさの部屋に乗り込む運びとなった。この人たちは……。
「………むにゃ」
「……見事な寝っぷりだな」
つかさは、本当に熟睡していた。こんなに無防備な姿を晒していると……イタズラしたくなるじゃないか。
少し、ほっぺをプニプニさせてもらおうか。あ、やわらかい。
「それだけ? もうちょっとやったっていいわ。姉公認よ」
ありがたい申し出ですが、本人の了承を得ていないので遠慮します。
それに、つかさが微かに呻き声をあげている……そろそろお目覚めか。
「あ……えへへ、キョンくんだあ……」
寝ぼけてるな。目がトロンとしてる。
俺は夢見がちな瞳を見据えたまま、そっと囁いた。
「ゴキブリ」
「はうううっ!?」
つかさは瞬時に目を見開く。俺の眼鏡には潰れた虫の染みが付着した。
うまくいってよかった。
「…………キョンくん?」
前言撤回。窮地に立たされた。
これはスタコラサッサに限る、と思っていたら―――つかさがいきなり覆いかぶさってきた。
これは……危険だ。事情を把握できていないぶん、理性の働きを期待できない。
つかさの体は、寝起きだというのに汗臭さはほとんど感じない。むしろいい匂いがするくらいで……って俺は変態か。
「ちょ……つかさ?」
「……うぇ?」
がばっ、と擬音がつくほどの勢いで飛び退くつかさ。みるみるうちに、顔の面積を赤の部分が占めていく。
うそ、とか、なんで、とか聞こえる。それは俺も言いたいんだが。
「ね……寝顔、見たの?」
見ました、と頭をさげる。
その後俺は、声なき声をあげるつかさのクッション攻撃に耐えるはめに陥った。
お姉さまがた2人は、目に涙を溜めて笑いをこらえている。ああ、もう、助け舟をくださいよ。
「つかさぁ、心配しなくてもあんたの寝顔はカワイイから大丈夫よ」
「キョンくんも思わずイタズラしちゃうくらいね~」
泥舟を出さないでいただきたい。クッションの上下運動がペースアップしたじゃないですか。
いや、痛くはないんだけど。
「……ぅぅ」
どうやら落ち着いたらしいので、そろそろお暇をば……。
すいませんがつかささん。袖をつままれていては移動しにくいのですが。
「いっちゃ、や」
ちょ、待てよ。今日のつかさは何もかもが唐突すぎるぞ。
お姉様方。あとは若いモン同士で、なんて悠長なこと言って去らないでください。粗相のないよう俺を見張ってください。
「…………」
取り残されてしまった。右手はつかさに握られているし、当のつかさはだんまりで解放してくれそうにない。
しかも、繋いだ手からつかさが小刻みに震えているのがわかる。それも気がかりだ。
「おっきな……ゴキブリが……」
……そうか。つかさは今の今まで、あの巨大ゴキブリの『夢』を見ていたのか。
怖い夢を見て泣く。子どもっぽいが、誰にでもそんな時期があったのだ。それでも笑えるか?
「ドアが閉まって……キョンくん、閉じ込められて……」
なるほど、そこまでが切り取られた部分なのか。まるで俺が死んだように編集されているな。
「キョンくん、だいじょうぶだよね? 生きてるよね?」
「死んでるように見えるか?」
「……ううん。あったかいもん……」
右手を握る力が強くなる。痛みはまったく感じない、綿に包まれているような安らかな感触だった。
そのまま、つかさはまた寝てしまった。
……おいおい。
いのりさんとまつりさんに報告すると「叩き起こすからもう少し居ない?」との提案を頂いた。
しかしそろそろかがみも帰って来るだろうし、そしたらややこしい事態になる。
今日、俺がここに来たことはかがみにナイショで……そう頼んで、俺は柊家から出た。
こうしてつかさの治療も完了した。だが当分、柊家の敷居は跨げそうにない。
やれやれ、ブイスリャー。
半日で済んで助かった。あのままつかさの傍で1日を過ごすことになったら、俺はおかしくなっていたに違いない。
3回目の朝を迎えた俺が乗った車の運転手は森園生さん。今日もメイド服なんですか。
「見慣れた服装の方が良いと判断したのですが、お気に召しませんでしたか?」
「滅相もありません」
この人の機嫌を損ねるわけにはいかない。なんたって、命に関わることだ。
高良邸はいつ見ても立派だ。いよいよ最後、高良みゆきのターン。これで全てが終わる……のだが。
「いらっしゃい。お待ちしていました」
そんな旅館みたいなことを言われて、どっと力が抜ける。
正直、俺の疲労は阻止限界点を突破していて――高良の上に倒れこんでしまった。
「きゃっ……きょきょキョンさん、そんなっ、急にっ……!」
自分がとんでもないことをしでかしているのはわかっている。わかっているが、体が重い。そして眠い。
高良のすうはあすうはあという深呼吸が大きくなっていく。
「すまん、疲れてて……今退く……今退くから……」
「いえ……だ、大丈夫です、から」
何が大丈夫なのか……などと思っていたら、小さな悲鳴と共に突き飛ばされた。
当然の報いとわかっていながらも、やっぱり傷つくな。身勝手な話だが。
「あっ、ごめんなさい!」
いや、こちらこそすまん、悪かった。俺はドアに頭をぶつけただけなんで心配しなくていいから。
「すみません……その、今、そこをゴキブリが」
震えている。いつも母親のように落ち着いた振る舞いをする高良が。
意外だったが、それは失礼というものだろうな。物怖じせずゴキを撃退する俺の母親が異常なんだろう。
「……よし、俺に任せとけ」
ここまで3匹も宇宙ゴキを標本にしてるんだ。地球ゴキ1匹しとめるぐらい、わけないぜ。
高良の証言と推理をもとに、黒い影に気を配りつつ歩を進める。
ちなみに高良は俺の後ろにぴったりついてきている。1人でいるのが心細いのだろうか。
「お恥ずかしながら、昨晩、おかしな夢を見てしまいまして……」
さすがに4回目だからな、察しはつく。
「心配しなくても、夢みたいなでかいゴキブリはでないさ」
「それもあるのですが……キョンさんのことが心配」
そこまで言いかけて、高良はキョトン顔になり「どうして、私の夢の内容を知ってるんです?」
しまった……要らん墓穴を掘っちまった。
「いや、その……」とにかく誤魔化すしかない。「何となくわかるんだ」
「何となく、ですか?」「そう。以心伝心というか」
知性派の高良に対抗して、うろ覚えの四字熟語なぞ使ってみた。確か、そういう意味だよな?
「……言わず語らずのうちに意思を通じ合うことです……心の通い合った者同士が」
やっちまったぜ。それから、俺も高良も赤くなって無言のままだった。
「いたいた」
やっと思いで見つけたゴキブリは、部屋の隅っこまで勝手に追い詰められていた。
さっさとスリッパで潰して、
「……」
やめた。ティッシュでゴキブリを摘んで、窓から捨てる。
目の前で殺すってのは、どうもダメだ。バルサンを焚いて見えないところで死ぬならいいってのも酷い話だけどな。
しかし人様の家を汚すのも心苦しいからな。
例の眼鏡をかけて、高良に「終わったよ、俺も無事だ」とだけ簡潔に告げる。
高良は微笑み、眼鏡には昆虫採集。これにてコンプリートだ。
その安心感からか、俺の意識はそこで暗転した。
柔らかくて温かい何かが、頭の下にある。
そんなことより、俺はどうして横になっているんだ? ……そうか、ゴキブリを放したあと、寝ちまったのか。
「おはようございます」
俺を覗き込む高良の笑顔は、そのふとももの感触に負けず劣らず柔和だった……ってふともも!?
俺は、高良に膝枕されていた。
先ほどのつかさではないが、勢いよく飛び起きて粗相の許しを乞う。謝ったもん勝ちだ。
「いえ、私が勝手にやったことですから」
何と言うか……申し訳ないな。迷惑ばかりかけて。
「迷惑なんかじゃありませんよ。私は、結構満足していますから」
あ、と高良は思いついたように「正確に言うと、少しだけ不満もありますね」と付け加えた。
「不満か。えーと、言ってみてくれないか? できることなら、すぐにでもやってみるから」
「……じゃあ、当ててみてください。以心伝心、なんですよね?」
それは、反則だろう。俺も赤くなってるが、高良本人も自爆してるじゃないか。
妙に緊張する空気の中、俺と高良はただただ無言で佇み――
「……ところで、何だか騒がしいな。隣の家からか?」
「岩崎さんのお宅です。何でも、ゴキブリが出たとか」
……俺は、自分の行動を思い返す。
俺は。窓から。ゴキを。しかも。騒いでるお宅に面した窓に。ゴキを。
……そのうち俺は、考えるのをやめた。でも一応謝っておこう。すまない、岩崎さん。
それから高良の手料理を賜るという栄誉を得て、高良の母親が帰宅したときにお暇させていただいた。
別れ際に「不満は残ったままです」と冗談を言われた。悪い、埋め合わせはいつかするぞ。
「期待していますね♪」
ついに高良の治療も終了。万事、丸く収まったというわけだ。いや、そう思いたい。
やれやれ、エックス……と見せかけて4号はライダーマンだ!
このネタ、 つ い て 来 れ る か 。
「お疲れ様でした」
高良邸を出てしばらく歩いていると、古泉に出くわした。
いや、こいつのことだからきっと待ち伏せしていたんだろう。
「お察しの通り、ストーカーです」「やめんか生々しい」
俺たちの傍に停めてある自動車、運転席には多丸裕さん、後部座席には朝比奈さんが眠っていらっしゃる。
「ずいぶん疲れていたようなので、お乗せしたまでです。あなたもいかがですか?」
「謹んで、お言葉に甘えさせていただく」
計4つの昆虫標本も、機関が長門に届けると申し出た。何個かちょろまかす気じゃないだろうな。
そんな大それたこと恐れ多くてできませんよ、と苦笑しながら言う古泉であった。
どれほどの間、車に揺られていたのか判然としないが、とにかく我が家までたどり着いた。
「ではまた明日、学校で」ウィンドウが閉まる寸前、思い出したことがあった。
「古泉、バルサン買っといてくれ!」
豆鉄砲を喰らったかのような顔を見せたが、古泉はすぐにいつもの営業用スマイルに戻って「了解しました」と答えた。
ほんの少しばかり、本気の笑いだったんじゃないかと思った。まあ、車が走り去ったあとでは確かめようがないが。
「キョンくんお帰り~」
「……ただいま」
妹を軽くあしらいながら、自分のベッドに倒れこむ。
俺が言うべきことはひとつだ。
「やれやれ」
月曜日。
現在、部室は絶賛バルサン中であり、俺たち宿無しは廊下で経過を待っている所在である。
これは保険だ。こうしてハルヒに見せつければ、これ以上迷惑なゴキブリを増やすこともあるまい。
ハルヒは朝比奈さんとエスケープし、長門は読書、古泉と俺はオセロに興じている。
今日はいろいろと、変化があった。
泉は「ボコボコにしてやんよ」とボディガードを称してくっついて回るようになったし、
かがみは「……続きは、まだ?」と謎の催促をしてくるし、
つかさは「昨日のことは私とキョンくんだけの秘密だよ?」なんて誤解されそうなことを天然で言うし、
高良は「まだ伝わってませんか?」といつまでも俺をからかうし、
まったくもって、やれやれだ。何回言ったろうな、この台詞。
ところで、どうしても気になることがある。
本当に、4つ同時に処理しなければならない問題だったのか?
考えてもみれば、長門がそうしろと言っただけで、俺自身は真偽なぞ判別できてないのだ。
長門は、ただ俺を慌てさせたかっただけじゃないのか。
「……末恐ろしいな」
直立不動で黙々と文庫本を読みふける長門を見やって、溜息をついた。
従順に見えるだけで、やはりこいつにもあるのだろうか。
誰かに意地悪をしてみたい、と思うことが。