でかい。近づいてきた魔物を見て俺は単純にそう思った。
その巨体に見合ったすさまじい足音を立てながら、こちらへと近づいてくるそれは
俺たちのいた世界で言うところの、牛、その中でもバイソンのような荒々しい野生を
感じさせるタイプのものに似ていたが、しかし、その体高があり得ない。ほとんど3mを
超すような大きさだ。牛亜科の原生種の中で最大のものであるアメリカバイソンの体高が
だいたい2m程度だというから、どれくらい大きいか分かるだろう。ちなみに体高って
いうのは前足のつま先から頭の天辺までの高さのことだ。肩高とも言うな。
何でこんなことを自分が知っているのか、お兄さんは自分でもびっくりだ。
そんなどうでも良いことを考えていると、何時の間にかその野牛モドキはこなたの
目の前まで迫っていた。野牛モドキはその巨体に見合ったやはり巨大でその上で
鋭く尖った角を真っ直ぐにこなたの方に向けて、猛スピードで駆けて来たそのままの
勢いでこなたを串刺しにしようとする――頼む、こなた、避けてくれ!
だがしかし、現実――ある意味では夢のようなもんだが――は俺の想像をはるかに凌駕していた。
次の瞬間、なんとこなたはその手に持った長剣で野牛モドキの角を受け止めるという
暴挙に出たのだ。ちょっと待て、そりゃいくらなんでも無茶ってもんだろ!
体格差ってものを考えろよ!
俺はこなたが何メートルも吹っ飛んでしまうものと思い、反射的に目を瞑ってしまったが
次に目を開いたとき、俺の目には俄かには信じがたいものが飛び込んできた。
なんと、こなたはその野牛モドキの巨躯に秘められた運動エネルギーを少しだけ後ろに
ずり下がるだけでいなしてしまっていたのであった。こなたの何処にそんな筋力と質量が
眠っていたというのだろうか。
「キョンキョン! 今ちょっと失礼なこと考えてたでしょ!」
あ、いや、ハイ。少しだけ、こなたはあんなに小柄に見えて体重が実は200kgとか
あるんじゃないだろうか? とか考えてました。
そんなことを言うこなたを見て、俺はあることに気付いた。こなたには余裕と言うものが
溢れているのだ。まるで、この程度の魔物ならば何度でも倒してきたとでも言うような……。
「じゃあ、ながもん。面倒くさいし、キョンキョンたち待たせてるから、とっとと決めるよ!」
「わかった」
一瞬のうちに二人の間で交わされた合意。
「びびでばびでぶー」
「ちょ、その呪文は冗談だってこの前言ったでしょ、ながもん!」
どうやら、長門が何やらボケをかましたらしい。少し遠くてよく聞こえなかったのだが。
勝負が決まったのは本当に一瞬だった。
長門の体が発光したかと思えば、気付くと何時の間にか、魔物のその巨大な体が地面に
ひっくり返っていて、こなたがその首目掛けて手に持った長剣を振り下ろすところだった。
こなたが魔物の首に剣を振り下ろすと、その牛モドキは断末魔の叫びを上げて……
真っ黒な靄のようなものを全身から吹き立たせて、どういう理屈かは全く分からないが
全く何の痕跡も残さず消失してしまった。
「ふぃー。やっぱり何度やっても緊張するネ」
こなたはそんなことを言っている。どうやら危機は去ったらしい。
俺は安心してホッと息を吐き建物の影から出てこなたの方へ行こうとした、その瞬間。
「危ない!」
そんな叫び共にハルヒに突き飛ばされた俺の頭上をまるで鉄のように鋭く尖った爪が
通過する――俺たちの世界でいう鷲に似た鳥のような姿をした魔物が、何時の間にか
現れて俺とハルヒを狙って襲い掛かってきやがったのだ。
振り向けば鳥の魔物は再び上空にいて今にも急降下してきて再びその爪による洗礼を
浴びせんとしているところだった。こなたたちは今気付いたところでとてもじゃないが
俺はハルヒを無理やり立たせながら自分も立ち上がってその攻撃を避けるべく再び建物の
影へと入ろうとした。しかし、その猛禽は巧みに俺たちをその物陰から遠ざけるように
攻撃してきて、俺たちはその物陰に逃げ込むことが不可能なところまで退がらされて。
ハルヒの手から青白い、稲光のようなものが立ち上って纏わり付いているのに
俺が気付いたのはそのときだった。
「え? 何よ、コレ?」
ハルヒは光り輝く、自分の手を見ながら驚いている。俺は熱くはないのだろうかと
間の抜けたことを考えていた。
「ハルにゃん! それ! 鳥に向けて撃って!」
こなたがそう叫ぶ。
「え? 撃つっていても、どうやって!?」
ハルヒが困惑しつつもそう叫び返す。
「何でも良いから鳥の方に向けて撃つって念じればいいヨ!」
「ええ? ああ、もう、どうなっても知らないわよ!」
そんなこと言いながら腕を鳥の方に向けるハルヒ、折りしも猛禽の如き魔物は
止めをささんと急降下してきていて――
轟音。
ハルヒの手から放たれた電撃は鳥を正確に撃ち抜いて、しかし、仕留めるには到らず
鳥は、撃たれた不快感からか、更なる敵意をその眼に宿して、再び上昇して。
「安心して。もう、大丈夫だから」
こなたたちが何時の間にか俺たちを守るための立ち位置にいた。
そのままあっさりと鳥のような魔物を倒してこちらに戻ってきたこなたたち。
「いや~、ハルにゃんもキョンキョンも無事でよかったヨ」
「大丈夫?」
そう言って長門は俺の突き倒されて擦り剥いた手のひらに触ってきた。なんだか少し
暖かいなと、思って手のひらを見ると手のひらには何の怪我の痕跡も残っていなかった。
「妖精の鱗粉。その程度の傷害ならこれで直ぐに修復される」
長門はそう説明した。
俺は近寄ってきたこなたを今の一瞬の戦闘に膨れ上がった質問責めにしてしまった。
「ところで、さっきのハルヒが放った雷みたいなのは……」
「んー、魔法じゃないのかな? ハルにゃんはどうも魔法の使える役割が振られているっぽいネ」
「魔法? あれがか? そんなに簡単につかえるもんなのか?」
「誰でもって分けじゃないけど。役割によっては最初から魔法が使えることもあるっぽいネ」
「さっきから戦士の役割だの妖精の役割だの言ってたけが、結局役割って何なんだ?」
「簡単に言えばゲームのジョブとか職業とか言われてるものみたいなものサ」
「じゃあ、さっき、こなたがあの牛モドキの突進を受け止めたのも魔法みたいなもんか?」
「ああ、そっちは日ごろの弛まぬ訓練の賜物だヨ」
「それだけじゃ、あんな物理法則を無視した動作が出来るわけないだろ」
「うん、まあ、イクシードっていうゲームで言う“氣”みたいなものを使ったのサ」
その時、先程自分の手から強烈な雷光を放ってから
今までより、さらに難しい顔をして唸っていたハルヒが突如として叫び声を上げた。
「この世界が理解できなくて思い悩むのはもうやめた! これからはもっと純粋に
この世界を楽しむことにするわ! それに、どうもこの世界は酷く楽しそうだしね!」
そう言いながら、ハルヒは先程と同様に手に青白い稲光を纏わせると景気付けの積りか
天に向かってその雷光を凄まじい轟音と共に解き放った。
あの、ハルヒがこんな非日常的な事態に何の反応も見せなかったと思っていたらアイツは
アイツでずっとこの世界に関して思い悩んできていたと言うわけか……。
空のほとんどは黒く染まり、西の空に僅かばかりの薄暮の残滓を残すだけになった。
ハルヒはあの後、はしゃぎ過ぎたことと、当て所なく砂漠の只中を歩いていた疲れとで
すぐに寝てしまった。こなたも仮眠を取ると言って俺に火の番を任せて寝てしまった。
俺は、こなたが起こした焚き火を見詰めながら、今日起きた出来事に関して考えを
纏めようとしていた。そして纏めようとすればするほどに、俺の疑問は一つに
集約されていった。つまりは……誰が、何のために、と言う疑問だ。コンピ研の
部長の時のようにこの世界に明確な主犯とでも言うべきものが存在しているようには
今のところ見えない。かといって長門や朝倉、その親玉のような存在が創った世界だとも
思えない。目的が無さ過ぎる。この世界はまるで愉快犯による犯行みたいに
根本の意図や目的と言ったものが、全く欠如していやがる。何度も繰り返して
考えているが、この世界には全く目的と言うものが見当たらないのだ。
ふと目の前を見ると、何時の間にかそこには長門が俺の目線くらいの高さで空中に
静止していた。……なんというか、本当に可愛らしく縮んでしまったんだな、お前は。
「そう」
「で、どうかしたのか?」
「あなたに話がある」
何というか既視感に満ち溢れてる気がする科白だな。このタイミングで話しかけてくるって
ことはどうせハルヒのヤツには聞かれちゃ困るような類の話なんだろ?
俺の問い掛けに対して長門は静かに頷く。
「この世界について」
何だ、昼間の説明だけじゃし足りなかったのか? そう軽口で返しながらも
俺はこの時にはある予感を持っていた。ハルヒ、そして俺がさっきまで考えていたこと。
「この世界は涼宮ハルヒの識閾下の欲求に依って創られている」
やっぱり、そんなところか。何となく、そんな感じはしていた。
「どんな欲求なんだ?」
「数日前に、涼宮ハルヒは泉こなたから、ある娯楽媒体を借用した」
娯楽媒体? もうちょっと分かりやすく言って欲しいものだ。
「いわゆる、ゲームソフト」
「それなら、それで最初からそう言ってくれ」
「そう。次からはそうする」
長門は少しだけ首を傾げてからそう首肯した。それにしてもこの小さい長門がやると
どんな仕草も、何故だか、元の世界にいた頃の数割り増しで可愛く見えるのだがこれは
気のせいなのだろうか? そんなくだらないことを考えていると長門がこちらをじっと
見詰めて……というよりは何故かは分からないが睨んでいると表現したくなる気配だな
これは。注意深くしっかりと見ると何となく呆れているような表情をした長門は続けて
「その娯楽媒体……ゲームソフトのタイトルはドラゴンファンタジー」
ドラゴンファンタジー、そのタイトルは俺も聞き覚えがあった。と言うか日本国内で
最も人気のあるゲームタイトルの一つだから、知っていて当然なのだが。
「じゃあ、もしかして、ハルヒは……」
「そう。泉こなたから借りたそのゲームソフトに熱を上げて、自分がその世界に
行ったらどうなるのかと識閾下で考えてしまった、それがこの世界の存在する原因」
なんつーアホらしい話だ。アイツは小学生か。それで、この世界はこんなにゲーム染みて
いるわけだな。全く以ってハルヒには何時も何時もアイツの思いつきに振り回される側の
身にもなって欲しい。
「故に元の世界に回帰する方法はそのゲームソフトにも出てくる魔王を倒すこと」
なるほど。つまりゲームをクリアすれば元の世界に戻れる、そういうことだな。
「そういえば、ハルヒのヤツがこんな非日常の事態を知っちまって大丈夫なのか?」
「その点に関しては問題ない。現在、泉こなたと私の認識では確かにこの世界に
到着してからこの世界の時間で六ヶ月ほどの時間が経っているが、元の世界における
私の認識上での時間経過は10のマイナス16乗秒以下の無視できるレベル。
恐らく、この世界から回帰すれば、この世界での出来事は白昼夢として捉えられる」
つまり、異世界もののオチとしてはありがちな元の世界に帰ってみれば時間は殆ど
経過していなかったと言うことになるってことだな。
この後、俺は、こなたが仮眠を終えてテントから出てきて火の番を代わりに来るまで
さらに長門に様々な補足的な説明を受けたが、それに関してはここでは省こうと思う。
俺は寝る前に再び、この世界について色々と考えた。
さっきは長門に向かってアホらしいと言ってはいたが、落ち着いて考えてみると
この事態を心の中の何処かで楽しんでいる自分がいるらしいことも事実だ。
というか、俺はこの事態を確実に楽しんでいる。だってそうだろう?
あの小柄なこなたが、あの巨大な牛モドキの魔物の突進を受け止めることが出来たのは
役割とやらの力で、それはどうやら俺にもあるらしいのだ。つまり、ゲームの登場人物の
ような力を実際に振るうことが出来るってことだ。それは俺が望んでいたことじゃないのか?
と言うか、一般的な男子ならばそんな力を振るってみたいと思ったことが一度ならずあるだろう。
いわばこれは男のロマンなのだ! そう考えるとハルヒのヤツの趣味は男っぽいとでも
言うべきなのだろうかね? そんなくだらないことを考えながら何時しか俺は眠りに就いていた……。
翌朝のことだ。俺が目覚めた頃には、既にハルヒとこなたは目覚めていて、何故か
ハルヒがこなたに剣の稽古をつけてもらっていた。
「いやー、ハルにゃんは凄いなあ。あんな魔法も使えるのに剣の筋も中々良いなんて
一体どんな役割が振られているんだろうネ」
そんなことを言いながら汗一つ掻いていないこなたと、剣に見立てた木の枝を杖代わりに
完全に息の上がっているハルヒを見て俺は何となく違和感が拭えなかった。いや
こなたがあの体格や趣味の割りに運動神経が抜群なのは分かっているつもりだったのだが
……あの、殆どの物事に関してその万能っぷりを見せ付けていたハルヒを子供扱いにして
いるのを見ると、流石にな……これも、こなたの言ってた役割とやらの力なのだろうか?
俺たちはキャンプの片づけを終えて、次に何処に向かうのかとこなたに問い掛けると
「んー、とりあえず、わたしが乗ってきた騎獣を置いてある砦に寄ってから王都に
帰ろうと思ってたんだけど、どうかな?」
どうも何も、この世界では俺たちにいく当てなどないのだから、こなたについていくしかない。
「ハルにゃんも、それでいいかな?」
「特に異論はないわね」
しかし、俺とハルヒはこの時、こなたに聞き忘れていたことがあったのだ。
その砦とやらが、ここからどれぐらいの距離にあるのか、ということを。
砦に着くまでの六日間は、一日に八時間ほど歩き詰めの状態だった。自分より小柄で力の
なさそうなこなたに、毎日のように大丈夫か、と心配されるのは、男としてかなり
悲しいものがあったことをここに正直に告白せざるを得ない。しかし、ハルヒのヤツは
本当に凄いな。俺と同じ行程を歩きながらも、その上で毎朝、こなたのヤツにたっぷりと
剣の稽古をつけて貰っていたのだから。……やはり、男としては思うところがないわけ
ではないが、まあ、ハルヒの完璧さはもとの世界にいた頃からのことだからな……。
砦に着くと、俺とハルヒはこなたに暫くそこで待っていてと砦の外で待たされた。
こなたは、どうやら、砦の門番と話をしているようだ。
暫く待つと、こなたは馬よりもさらに巨大な体躯をした、真っ白な毛並みに黒い頭を持つ
翼の生えた犬、と言うよりは狼に近い生き物を連れて戻ってきた。
「犬っぽいけど、天馬っていうんだヨ、この子。面白いよネ」
犬のような姿をした天馬と言えば古代中国の伝説に残る獣のことだな。
なんで、俺がそんなことを知っているかと言えば、前にかがみに借りて読んだことのある
十二○記にこれとよく似た生物が登場していたからだ。
しかし、こいつは魔物とは違う存在なのか? その俺の疑問に対して長門は
「全く違う。一般的に魔物と呼称される存在は外見に相応する解剖学的生態を持たず
その形態を保てなくなれば瘴気に還元されて消失するだけで生物と呼ぶことが出来るか
どうか怪しい。けれど、この天馬のように妖獣、神獣、魔獣と呼ばれる存在は
しっかりした生物的構造と意識を持ったしっかりとした有機生命体」
などと、長ったらしく説明してくれた。尤も、この説明はこの後、こなたが出発しようと
するまで際限なく長々と続いていたのだが、俺の頭では話の十分の一も理解できなかった
のでここにその説明を載せるのは自粛しようと思う。
「ここからはこの子に乗って行くからネ。凄く快適なたびになると思うヨ」
こなたの言葉どおり、天馬に乗った旅は本当に快適だった。
どうもこの世界の魔獣とやらは翼が有っても魔法みたいなもので飛ぶらしいな。
「こんなのがいるなら、エスファハーンに来るときも使えば良かったんじゃないの!?」
「んーと、普通の人間の生活圏内ならこういうので飛んでても大丈夫だけどネ、人が
殆どいないところはやっぱり魔物が多くて空なんか飛んで移動してたら間違いなく
フルボッコにされちゃうんだヨ!」
フルボッコって……大分、軽い表現だがあの辺りはやっぱり本当は相当な場所だったということか。
この天馬を利用して移動を始めてから三日ほどたった日のことだった。
「あれが、フランク王国の首都、ルテチアだヨ!」
そう言ってこなたが指差したのは、盆地の中心に鎮座する綺麗な円形の城壁を持った広大な都市だった。
歩けば二ヶ月はかかると言っていたのにこの天馬の速さと言ったらまるで新幹線のようだ。
城門のすぐ近くに存在する騎獣用の駅で俺たちは天馬から降りた。
ちなみに駅って言葉は元々早馬なんかを出したときに馬から馬へと
乗り換えるために使われた場所のことを指して使われた言葉だったんだぜ。
「んじゃあ、わたしはちょっとお城のほうに顔出してくるから、ハルにゃんたちは
暫くながもんと一緒に城下の散策でもしていてネ」
そういわれて、喜んだのは好奇心の塊と化していたハルヒであり、こなたと別れると
張り切って、この王都の散策に乗り出したのだった。まあ、俺も興味がないわけじゃない。
喧騒けたたましい雑踏。笑顔溢れる人々。俺はここで始めてこの世界に来て、この世界にも
人々が普通に暮らしていてその人々にはそれぞれに人並みの幸せと言うヤツが在るのだな、と思った。
ハルヒに引き摺られるようにしながらも、街を見物していると、何か事件でもあったの
だろうか、ある一箇所に人が沢山集まっていた。あれは……パン屋だろうか?
ハルヒが早速野次馬根性を発揮してそちらへと近づき、その場にいた恐らく野次馬だろう
爺さんに何があったのかと問い掛けていた。
「どうも、強盗らしいんじゃよ、怖いもんじゃなあ」
と、その時、人々のざわめきが急に大きくなり、何かが破裂するような音、そして――
「コッペパンを要求するわ!」
何故だか、妙に聞き慣れた覚えがある少女の声……というか、これはもしかして……。
騒ぎの元凶だろう、少女に近づいて、その顔を見た俺は、唖然として驚きを隠せなかった……。